寒気がするほど冴えわたる満月。
 振り向いた白い貌には、幾つか、真紅の筋が咲いていた。
 ゆらりと倒れかかるせつらを、メフィストは駆け寄って支えた。腕から逃れようとする患者にやや呆れて囁く。
「医師には身を任せたまえ」
「……まだ治療を依頼していない」
 声に生気がない。危険な状態ではないものの、傷はそれなりに深いと見えた。
 慎重な動作で彼を仰向けに横たえる。廃ビルの屋上の床は冷たいだろうが、仕方がない。手早く止血を済ませたところで、せつらの手がメフィストを制止した。
「もういい」
「縫合がまだだ」
「だからもういい。この傷に触るな」
「見過ごしていい傷ではない。理由を訊かせてもらおう」
 常から自分を拒む彼への少なからずの厭味だったが、意外にも、真摯な答が返ってきた。
「あれだ」
 腕がつと挙がり、天に向けた指は満月を指していた。
 童子の微笑みをして言う。
「あれがつけた傷だから」
 意味を解せない医師に、せつらはさらりとその過程を話した。
「月にあてられた、と?」
「初めての経験だね」
 青白い顔もむしろ艶めかしく、どこか愉しそうに肯定する。メフィストは、説明された状況を夢想した。

  追跡手と決着をつけようと、彼が跳躍すべく糸を繰る。
  コートの裾が、風を切る。
  一瞬のうちに、その身はビル街の虚空を駆け抜け、高く天に舞い上がる。
  ……視界が大きく開け、
  ……その瞳に、銀色にざわめく、真円の月がうつる。
  闇にも気高く、誉れ高く、生まれ得ぬ命のように美しい。

  影は見惚れる。夜の強い風にはためきながら、声も無く、その姿は逆光に浮かぶ。
  瞬間、跳躍する人影が迫り――
  思うさま斬りつけられ、大きく揺らいだ影は、堕天の如く地に落下してゆく……

「なかなか無いことだ。……面白いから、残しておく」
 メフィストは首を振って、思索を追い払った。
「なかなか無いと、言うよりは……」
 極低温に響く声。それは何を意味するか?メフィストは、断罪するように続けた。
「……あってはならん事だ。違うかね?」
「説教なら間に合ってるよ」
 うんざりとそう言う、仰向けに寝たせつらを見る医師の眼は、少し昏い。
 その眼だけを見たなら、世にも美しい獣だと、人は言うかも知れない。
「おまえの勝手な美学に僕がつきあう義理はない。って、何してる?」
 指先でシャツの布地を弄びはじめるメフィストに、せつらは声をかけたが、返事はない。
 と、医師の手が布を掴み……その優美さには似合わぬ動きで、一気に引き剥がした。
 ボタンが地に跳ねる音を聞いて、せつらはさすがに軽く驚く。自分の言いつけをきかないこの男を、彼は知らない。
「何様のつもりだ」
 迫力の無い声で脅してから、やっとメフィストの様子に気づく。少しだけ、眉を顰める。
 あらわになった白い胸を、美しい指が這うに至って、せつらはようやく医師から離れようと試みた。
 強引に起き上がろうとして、押さえつける手をはねのけられない自分に気付く。なんだか腕に力が入らない。少し、血を流しすぎたのだ。
 抵抗しながら、せつらはわざとらしく聞こえるように溜息をついた。
「……迂闊だった。なんて医者だ……」
 雰囲気のない、拗ねた声で言う。いつものようにここで止めさせる気だった。こう抵抗すれば、相手は諦めてくれる。
 そういう関係だと信じていた。
 しかしメフィストは、いつものようにひっそりと苦笑して手放してはくれなかった。せつらの指に指を絡ませ、やや乱暴に唇を寄せる。
 シャツがはだけて、自分の肌が剥き出しになっていくのを、せつらは他人事のような思いで見る。本気で不愉快な視線を送っても、冬の夜を納めたような黒瞳は、臆せず正面からそれを受け止めた。
「君は本当に解っていないのか。……それとも、ただ意地が悪いのか」
 首筋に吐息が触れ、その感覚に身をすくめる。抗えない心地良さが厭だ。
 何よりも、白いケープの肩越しには、今夜の月がまっすぐに自分を見下ろしている。落ち着かない。
「……君が何ものかに心を奪われて、平静でいられる私だと思うかね」
「相手が悪いよ、メフィスト」
 往生際悪く、逃げ出そうと試みて、ついには両手を頭上で押さえつけられてしまう。彼は初めて本気で焦った。
 メフィストの手の動きは、少しづつせつらの肢体を確実に火照らせていく。
 薄い紅色をした胸の突起を、長い爪でかり、と刺激される。熱くなりかけた呼吸を、どうにかこらえた。
「……だって、この都市の月だ」
 満月を見上げたまま、せつらは繰り返した。今夜はどうして、上手くいかない?
「……生あるものは、なべて逆らえない……」
 あの天体に生命はない。ただ光を反射するだけの、自ら一切持たぬ存在。
 だからこそ美しさを誇る。生あるものは持ちえない美しさを。
「自分という人間が、どう産まれついたか、知っているかね」
 言い聞かせるように、燻し銀の声が返した。
「その身で支配しえぬものがあってはならない。このメフィスト以外には」
 せつらは、息を飲んだ。メフィストの指がその部分に触れている。
 緩急をつけてうごめく指の動作に耐えながら、せつらは唇を噛み締めた。何かがおかしい理由が判った。
 負けてはいけないものに、負けたのだ。
「同調もいい。律するもいいだろう。しかし魅入られることだけは……有ってはならんことだ。……違うかね」
 冷静な声にともなう動きで、不意に、指が進入する。
「……は……っ」
 それが最初の声だった。

 相手の舌と、指とが、どこをどうしたかもう覚えていない。
 限界までその身を蕩かされながら、せつらはふらつく頭で抗い続けた。
 しかし指で音を立てて慣らされるたび、その抵抗は羞恥に押された。
 やがて十分に潤ったそこに、身をあてがわれるに至って……思わず身をこわばらせる。
 声を上げる間もなく、メフィストは突然、奥へと、突き立てるようにわけ入った。
「ぁ……あ!!」
 弓なりに反らされる白い裸身を、医師はしっかりと抱いた。相手の腰を引き寄せ、さらにその交わりを深くする。
 根元まで飲み込まされて、ぎちぎちと、せつらの部分が悲鳴をあげる。
「んん!……ん、ふっ…」
 張り裂けんばかりに、自分の内でひくひくと脈打つ、猛々しい熱。蹂躙される苦痛の中で、せつらの全身はぞくぞくと総毛立つ。
 耳朶を甘噛みしながら、内襞をこすりあげるようにメフィストが動きはじめる。せつら自身にも指を伸ばし、執拗に愛撫を重ねる。
 黒い髪がむき出しの肩に触れ、せつらの感覚をことさらに煽る。
 最初はかすかに、だが次第に存在を主張しはじめる濡れた音が、噛み殺しても漏れるあえかな声に重なった。
「……私の、名を呼べ」
 激しい動きのもと、温度を感じさせない声でメフィストは囁いた、
「いま、君を、啼かせているのは……誰だ」
 夜をうつろうあの天体には、出来はしないことだろう。
 その指も、その熱も、傷も鼓動も痛みすらも、私のために其処に在れ。
「……く……んぅ、ふ、あぁ……!」
 がくがくと突き上げられて、ついに抑えきれない喘ぎが上がる。無理なものを受けいれた部分は少しづつ、痛みとは違う甘い痙攣を見せはじめる。
 激しく揺さぶられ、汗の雫が足をつたい、その感触に身をよじるとくわえこんだ部分でさらに奥をえぐられる。
 じわじわと這いのぼる、搾り取られるような快楽を否定しようと、せつらは腕の下から必死で睨みつける。
 しかし潤んだその瞳は、どうしようもなく扇情的で、寧ろ医師を昂ぶらせた。
 瞬間――彼は、せつらを抱く自分の腕に、細くまとわりつく冷えた痛みを感じた。
「退、け……!」
 普段のような繊細さを失ってはいるが、糸はなんとか忠実に動いたようだった。
 きゅ、と音を立ててメフィストの腕に鋭く食い込む。
「……塞がらない……傷になるぞ……」
 甘くさえあるかすれた声で、せつらが荒い息と低い言葉を吐いた。

 薄い月光に糸がきらめく。
 不安定だが本気の糸だ。確かに、斬られれば二度と繋がらないかも知れない。
 彼は、躊躇わなかった。

「君を失う以上の傷がどこにある」

 初めてメフィストは口づけた。酷なほど優しげに。
 ふるえる熱を感じながら、きつく抱きすくめて、否応なしに何度も突き上げる。
 深く、熱く、浸透される。眩暈がするほどの痺れが背筋をつらぬき、意識が真っ白に遠のいてゆく。
 ごとりと腕が落ちるのと同時に、彼らは達した。






 朦朧とした頭で次に見たものは、あの月が地上に落ちてくる光景だったが……

 やはり、それは夢だった。






 気怠い青い光と、血臭とが満ちる部屋。
 そこはいつもの院長室であったが、もし余人が居たならば死の間際にまで思い出す光景を見ただろう。
 それは即ち、明らかな苦悶の色を顔に浮かべる、魔界医師の姿だった。
『完璧に治るが、一週間の間は酷く痛み続ける』
 この部屋に戻ってくる前、そう言って別れた黒衣の姿をメフィストは思い起こす。
 自分で斬っておきながら、自分で縫合したその人は、そう言って踵を返し……ふと立ち止まってこう付け加えたのだ。
『わざとそうした』
 メフィストが痛みに耐えたまま、ひそやかに微笑んだことに、きっと彼は気付かなかったろう。
 せつらがそうしたいと強く願って、自分だけに刻み込んでいったもの。
 それを受け取ることは喜びになりえないとでも、かの愛し人は思ったのだろうか?
 白い影は、ゆらりと立ち上がった。引きずるような歩みで、豪奢な造りの黒檀のサイドボードへと近づく。
 そこから取り出した年代物のボトルの価値は、知る者が見れば眼をむくものだった。
 苦痛の中にも流麗な動作でグラスに注ぎ、一面の窓に向かって、少し掲げて見せる。
 そして、一気にあおった。
 無論、窓の向こうでひっそりと、月は何も言わなかった。


 それが勝利の祝杯であることを知るものは、彼女と白い医師だけである。



Fin.



みもんさまから挿絵を頂きました。ありがとうございます!