身を折って獣が咆哮する。
 無我の絶叫は対峙する者の鼓膜をびりびりと痺れさせ、昼なお暗き森の枝葉が大気の振動に震える。
 ミリアは視界から黒い獣を外さぬまま、自らの金糸の先端をゆっくり尖らせる。
 合間に漏れる苦痛の表情は、彼のものであっても彼のものではない。
 あの人には、もう何も解らない。

 言ったはずね。
 人でなくなったら、殺す。

 瀕死の獣が漏らす断続的な喘ぎに合わせて、みちり、みちりと黒い力が見上げる高さに膨れあがってゆく。
 断末魔めいた絶叫とともに弾け、彼女を呑み込むべく怒涛となって襲いかかる。
 迎え撃つ金の髪が、中空に巨大な螺旋を描く。あらゆる角度からの黒い猛攻を防ぎきり、金色の照準はあやまたず仇敵の中心を狙い撃つ。
 力を弾けさせる寸前、ミリアは眼を閉じた。
 刹那の一瞬、ひそかに懸命に、ただひとつのことを強く祈った。

 心の底から純粋に、この世界の滅亡を祈った。

 『壊れろ』
 『今この瞬間、世界は壊れろ』
 『風も花も街も人も、私もあなたもこの想いも、すべて等しく灰となれ』






   ……好き放題に自分を喰いちらかし哄笑する獣
   ……無様に這いつくばり只泣き喚く暗澹の泥海
   ……虚空に伸ばす指を踏み折る凍てついた孤独
   ……身を舐る苦痛と纏いつく恐怖と躙り寄る自責と虚と実と
   ……


   白い手がのべられた。
   雲の切れ間から覗く、月光のようだった。

   黒い泥濘にまみれた顔を、幼い手がひたひたと包みこむ。
   その指先は、懐かしい匂いがした。
   知っていた。
   とてもよく、知っていたのだ。

   ああ。
   彼は、声もなく慟哭した。






 訪れた静寂に、ミリアは眼を開けた。
 世界が壊れなどするわけもない。空も地もなにひとつ変わらぬ姿でここに在る。
 眼を閉じる前と変わったものは、目の前に佇む、ずたずたに掻き裂かれた総身を真紅に染めたザトーの姿だけだ。

 唇が、動いたように見えた。

 「  ……あ  」

 幻だったかも知れない。
 それでもミリアは、傀儡の糸が切れたように倒れかかる男に駆け寄った。
 腕に抱きとめてそのまま地面に座りこむ。しっかりと頭を掻き抱く。溢れる血がぐっしょりと半身を濡らすのにも構わず、頬を寄せて必死に耳を澄ませる。
 痛いほど鼓動が弾む。ただじっと待つ。

 「 …… … 」

 ミリアは眼を閉じた。
 声にはなっていなかった。
 それでも彼女には聞こえた。

 あの遠い日、こうして呼ばれることがたしかに幸せだった声。



 ミリアが腕に力を込めると、男は少し痙攣した。
 身体が軋むほどきつく抱きすくめ、首筋に顔を埋めて、彼女は全身でザトーを感じた。
 自分が招いた死の手触りを、あますところなく肌に感じた。
 痛みも思慕も焦燥も、激情も喪失感もなにもかも、どろどろと溢れ出すばかりで形を為さなかった。身の内から溶け出して混ざり合う感情に溺れ、ミリアも小さく喘いだ。
 できることは、この死の全てを覚えておくことだけだった。

 咽せかえる血の匂いが昇華していくのと共に、男はゆっくりこと切れた。
 どの瞬間というわけではなく、夏の落日のようにゆるやかに死に沈んだ。

 ミリアはそれでも腕を緩めず、ザトーの金髪を梳いて、頭を撫でつづけた。

 激しい攻撃に引き裂かれ、ほつれた赤い眼帯が力なくまとわりついている。
 やがて勝手にするりと落ちた。
 眼をやれば、その下にある薄く開かれた瞳が彼女を澄んだ色に映す。
 深い蒼の色に。

 血塗れの瞼に唇を寄せ、そっと口づけた。
 そして囁いた。
 ただそれだけの感情でできた声で。



「おかえりなさい」







Fin.






ミリアはザトーの髪を撫でながら、ふたりで骨になるまでその場に座っていることもできる。
ここでそう終わると取ってくださっても構いません。


2003/07/02