「この店は『カフェ・ドゥ・マゴ』というが、由来を知っているかい」
 相手の応答を待たずに吉良吉影は続ける。
「パリに同名の老舗カフェがあるが、そこに倣ったのだろうね。ドゥ・マゴは仏語で『2体の人形』という意味だ。中国風の陶器人形が2体、フロアに飾られていることに由来する。ドゥ・マゴの前身は絹織物の輸入店で、のちにカフェに生まれ変わるのだが、それらの人形は織物店時代からの名残りだそうだよ。……だから、というわけなのか? この惨状は」
 溜息とともに周囲を見回す。
 店内は吉良のいるテラス席を含めてすべて満席だ。その事実だけをみれば商売繁盛と呼べるが、致命的な違和感が場を支配している。
 静寂だ。店内は水を打ったように物音ひとつしない。卓という卓が埋まっているのに、話し声どころか食器の音も衣擦れも聞こえない。当然の帰結ではある。カフェ・ドゥ・マゴに集う客たちは、ひとりのこらず人形だった。
 穏やかな午後がそのまま時を止めたような空間に吉良はいる。客たちは微笑み、カップを傾け、時計を見ているが、ぴたりと凍りついて動かない。みな等身大の人形だ。材質はよくわからない。体温まで感じとれそうな精巧さだが、微動だにしない。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を思いだす。陽光こぼれる賑々しいダンスホールの庭、華やかに社交する人々、だが絵画の前でいくら待ってみたところで、永劫に動かない。
 テラスから店に面した大通りを見透かす。よく知るいつもの街角だ、車の一台も通行人のひとりも見かけないことを除けば。やはりここは杜王町のカフェ・ドゥ・マゴだ。あるいはそこを模された場所だ。
「……何者かのスタンドの仕業かもしれない。場所自体が異次元なのか、杜王町が異常な力に干渉されているのかは解らない。いずれにせよ一種の非現実であるのは明白だ。問題は、なぜわたしがここにいるのかということと、」
 吉良はテーブルに視線を落とした。置かれているのは、自分の注文らしきコーヒー。中央にシュガーポット。やや距離をおいて、対岸に鎮座するデザートグラスには、満艦飾を施されたチョコレートパフェ。
「……君がいったい何者で、なぜわたしと同席しているのかということだ」
 あたりに動く影はない。だがこのテーブルだけは例外だ。向かいの席では銀色の匙がせわしく動き、クリームと果実でできた山麓を切り崩すことに懸命になっている。
「知らないわ。ここがあたしの席だから座ってるだけ」
 水玉模様のワンピースを着た11歳前後の少女が、視線は手元に向けたまま、あっけらかんと返した。


 吉良は少女をじっと観察した。小綺麗だが芸のない既製服。赤みを帯びたまっすぐな髪。顔立ちは愛らしい。だが子供は、もとより庇護欲をそそるよう先天的に造形されているものだ。その点を差し引けばことさら整った容姿でもない。
「君がどこの子供かは知らないが、この異常な事態について感想はないのか?」
「変なお店よね。でもあたしの席があったし、座れたから別にいいかなと思って」
 大胆というべきか、無頓着というべきか。そもそもなぜこちらとの相席を『あたしの席』と定めている? 事実として他に空席はない。だからといって見知らぬ大人の対面に、こうも気軽に座れるものか。
「……一種の非現実であることは確かだ。要因がどこにあり、どう作用しているのかはわたしには解らんがね」
 頭痛を堪えるような表情で吉良は繰り返した。現況はあまりにも希う『平穏』には遠い。今年のわたしは何に呪われている? つい数日前、行きずりの男子中学生に『彼女』を持ち去られ、苦労して取り戻す面倒を味わったばかりだというのに。
 わたしはいつからこの店にいるのだっけ。直前までの行動を思い返そうとするが、模糊としておぼつかない。職場から来たのか、自宅から来たのかすら曖昧だ。スーツ姿である点を鑑みれば職場からか? だが見上げれば陽は高い。就業時間中、堂々と抜けだしてカフェで休憩するなどと不敵で目立つ行為を、自分がするはずもない。
「ただ、ひとつ推測できることはある。この空間の少なくとも一部分は、現実的な時間経過とは関係なく構築されているようだ。その証拠を見つけた」
 吉良は斜め前のテーブルに視線を送った。銀の匙をくわえた少女もつられて同じ方向を見る。
「あそこの2人連れだ」
「知り合いなの?」
「わたしの両親、を、模した人形たちだな」
 説明を受けて少女は、細い眉を疑問に下げた。2人のうち女性は妊娠中らしく、ゆったりした服装でホットミルクのカップを手に包んでいる。向かいの男性は読書中だ、命名辞典に眼を通しているらしい。いずれも年齢はせいぜい30代後半、同席の男の両親にしては若すぎないだろうか?
「正確に言おう。あれは遡ること推定30年以上前のわが両親だ。人相に面影があるし、家にあるアルバムで往時の姿を見たことがある」
 吉良は指を組んで肘をついた。父母の姿をした対象に注ぐ視線は冷厳だ。
「記憶力には自信があってね。そう何度も眺めたアルバムではないが、母が着ているブラウスや父の髪型に見覚えがある。現実の時間経過とは切り離さなければ、あの姿でわたしの前に現れるのは不可能だ。アルバムを参考に何者かが人形を制作したのなら別だが、この空間が人為のものとは考えづらい」
 話し終えて少女の様子を窺う。やや一方的に話したが、頭のわるい子ではないらしく、概ね理解した様子でふんふんと頷いてあたりを見回している。吉良も周囲を観察した。
 右手奥のテーブルに、カフェに来る格好としては場違いな、パジャマの上に綿入れを羽織った幼児がいる。見覚えがある気もするがよく解らない。向かいに座っているのは不良じみた風体の男だ。顔はこちらからは見えないが、一般にリーゼントと呼ばれる髪型をしている。不思議なのは、同席の幼児も似たような髪型をしていることだった。長さが足りておらず不格好な、思いたって無理に真似たようなリーゼントだ。もっと不思議なのはその子が、目の前の男にきらきらと憧憬に満ちた視線を送っていることだった。まるで心の奥に焼きついている理想のヒーローにでも再会したかのように。
 左手のテーブルを見る。小柄で真面目そうな少年と、豊かな黒髪をもつ女子高生が向かいあっている。少年の瞳には強い光があり、女子高生は頬に淡く薔薇色を滲ませて相手の意志を受け止めている。いつもの習性で吉良は女の手を観察する。伸びやかな五指のなかなかすてきな『彼女』だ――生憎いまはそれどころではないが。
 やや離れたテーブルに、男子高校生ふたりが席についている。片方は吉良の知る顔だった。ぶどうヶ丘高校の体育器具室で遭遇した億泰と呼ばれる少年だ。同席相手はどことなく顔立ちが似通っている、兄弟だろうか? 双方とも品のよい外見とはいえない。学生服は装飾過剰、袖には仰々しいロゴが刺繍されている。ただ、兄らしき佇まいのほうは風貌にまだ知性が窺えた。億泰少年はどこか照れたように、兄らしきほうは何かを噛みしめるように、なごやかな笑みを交わしている。一度こうして話したかったとでもいうように。
 すべての座席を確認したわけではないが、自分の両親と億泰少年以外に、既知の姿をした人形は見当たらなかった。念のため少女にも尋ねる。
「周囲の人形たちの中に、君の知り合いの姿をしたものはあるか?」
 問われて少女は一瞬、口の端を引き結んだ。逡巡の仕草に見えたのは気のせいだろうか。
「知り合いっていうか……」
 吉良の肩越しの背後を指さす。振り向いて確認しようとしたが、ほぼ真後ろのためよく見えない。サラリーマンらしき背広の男と、11歳程度の男児のふたり連れであるのは窺えた。
「その人たちに、なんとなく見覚えがあるの」
 背広の男は自分と背中合わせに座っている。吉良から見えるのは硬そうな黒髪に覆われた後頭部だけだ。対面に座っている男児の顔は確認できるが、知った顔ではない。
「見覚えがあるとはどういう意味だ? あの子は君のクラスメイトか?」
「クラスにあんな子いないわ。近所の子でもないし名前も知らない。でも、ふたりとも他人じゃあないような気がするのよ」
 要領を得ない表現だ。この曖昧さでは勘違いの可能性もある。自分の目で情報を探したほうが早い、と判断した吉良は彼らのテーブルに視線を落とす。並んでいるのはプレート料理が2皿。目玉焼きに野菜のソテー、朝食のような組み合わせだ。
「年齢から考えれば親子かな……そうと仮定して、子供のほう、あれは何をしている? 椎茸を父親の皿から自分の皿に取り分けているのか?」
「お父さんのほうが椎茸が嫌いで、食べてもらってるのかもね」
「いい歳をして好き嫌いがあり、しかもそれを子供に食べてもらうのか。情けないな」
「でも……どうしても食べられない物だったら仕方なくない? 代わりに食べてくれる人がいれば勿体なくはないし」
 もぞもぞと言い淀む。どうやらこの少女にも好き嫌いがあるらしい。
「どうしても駄目な食べ物とか、好きになれなかった人とか、自分ではどうしようもないもの。……我儘の言い訳にはならないし、褒められたことじゃあないのは確かだけど……」
 吉良は男児に視線をあてた。苦笑のような、少し誇らしげでもあるような許しの笑顔で、父親の処理しえなかったものを引き受けている。子供の面倒をみるのも真っ平だが、子供に面倒をみられるのも屈辱だ。やはり結婚などするものではない。
「あのふたりに見覚えがあるのなら、君の席もあちらだろう? 椅子を持っていって構わないから向こうに座ったらどうだ」
 どことなく後ろめたさの翳を落としていた少女の顔が、今度ははっきり困惑を作った。
「でも、あたしの席はこっちだもの。決めちゃったものは仕方ないわ」
 子供の屁理屈は意味が解らない。吐息に混ぜて面倒な気分を胸から押し出し、吉良は口を開く。
「ざっと見回した限りの判断だが、同席している人形同士には恐らく法則性がある。わたしの両親が対になっているし、他の人形たちもそれぞれ関係浅からぬ風情だ。好ましい親愛か、忌むべき因果かは解らんがね。この理屈に則るなら、同じテーブルにいる君とわたしにも何らかの繋がりがないとおかしい。……だが、我々はお互い顔見知りですらない。共通の知人でもいるのかと思ったが、その線も薄いようだ」
「別にただの偶然かもしれないわよ。でも偶然って、言い替えれば運命かな?」
 チョコレートソースに濡れた苺を飲みこみ、幼い頬がこましゃくれて笑う。
「あなたの顔はちょっと冷たい雰囲気だけど、王子様っぽい気品のあるところは好き。未来の旦那様っていう線はどう?」
「未来ね」
 気取られぬ態度で吉良は少女の手を吟味した。彼は子供の手にはまったく欲求を抱かない。寸足らずな指も小さすぎる甲も不完全だ。嗜好は成人女性にのみ向いており、加えて、この少女は将来的にも好みの『彼女』にはなり難いと吉良は判断した。現時点で節のかたちが悪い。成長すればさらに明確な欠点になってしまうだろう。
「あまり想定したくない可能性だな。この出逢いが願望なのだとしたらいささか小児性愛者じみている」
「それなんだっけ、聞いたことある、あ、ロリコンのことだ」
 きゃらきゃらと笑う。吉良としては、親しく会話する気になれない理由がもうひとつあった。先程、この少女を別席に移らせようとしたのも動機があってのことだ。――背広の内ポケットに、現在『彼女』がいる。
 数日前に見初めた美人だ。馴染みの店へ、景色のよい散歩道へとあちこち連れはじめたばかりだった。傍目を忍んで持ち歩くのはいつもやっている、目の前に他人がいるからとて動じはしない。だが今は非常事態だ。何者かのスタンドの能力に巻きこまれている可能性があるし、先日のように荒事に発展する恐れもある。まだ新鮮なので惜しいが、うっかり見られてしまう前に処分したい。
 爆破の力を調整し、音もなくゆっくり懐の中で消滅させる術は心得ている。ただし、少々の煙と焦げ臭さがどうしても漂う。「様子を見てくる」など言い訳をつけて席を外し、離れた場所で処分しようか? だが事態の仔細が掴めない以上、下手に動きたくない心理もあった。移動した結果さらに誰かと出会い、人目が増えたらどうする?
 状況と可能性を天秤にかけて吉良は計算する。会話が途切れた今、少女の関心は目の前のデザートグラスに戻っている。下手に移動するより、食べ終えて注意がこちらに向いてしまう前に懐で処分したほうがよさそうだ。そうだな、直後に失敗を装ってコーヒーをわざとこぼすのもいい。慌てたふりで立ち上がり、空気を攪拌すれば、煙は薄まるしコーヒーの香りで焦げ臭さも紛れるだろう。
 胸の内でキラークイーンの名を喚ぶ。具現された力が傍らに揺らめく。獣に似た細長い瞳孔が、何気なく顔をあげた少女の姿を映す。
「あら、かっこいい猫さん!」
 吉良は眉ひとつ動かさなかった。自然な演技できょろきょろと首を回す。
「どこかに猫がいるかい? 生憎とわたしは見つけられていないが」
「あなたがいま隣に出した子のことよ。髑髏だらけでロックスターみたいね、かっこよくってかわいいわ」
 慎重に応じたが、もはや疑いはなかった。少女から視線を外さぬまま、背肩の筋肉にゆっくりと緊張をはしらせて居住まいを正す。呼応してキラークイーンが臨戦姿勢をとった。
「……見えるのか」
「見えない人もいるの?」
「見えない者は持たざる者だ。見える者は持つ者だ。君がどういう名前で呼び習わしているかは知らない。が、便宜上、先日憶えた名称を使わせてもらおう――君の『スタンド』を見せたまえ。この異常な事態は君の能力によるものか? 君以外にも能力を持つ仲間がいるのか?」
「質問はひとつづつにしなさいって学校で習わなかった?」
「質問を質問で返すなと学校で習わなかったか?」
 苛立ちつつも声を荒げなかったのは、臨戦姿勢を保たねばならないからだ。優位が確定していないのに調子を崩してはならない。
「スタンドっていうのね。いいなあ、あたしはそういうの持ってない」
「ありえない。わたしも身内から説明を聞いただけで詳しくないが、この力は、持たざる者には決して視認できないはずだ」
「そう言われても……持ってないものは持ってないわよ。このおかしなお店だって、別にあたしが作ったわけじゃないし」
 声に恨めしさが籠もる。もし演技ならずいぶん達者だ、ただでも羨ましいのに痛くもない腹を探られた不快さが滲んでいる。
「その子はあなた自身、みたいなもの? お話しはできないの? いいなあ、持ってたら素敵だろうなあ。もしあたしにいたらどんな子かなあ」
 スタンドの有無は一見しただけでは把握できない。先日の戦闘でも、重ちーと呼ばれる少年に実際に群体を向けられるまで、彼がスタンド使いとは見抜けなかった。だから油断はしない。しかし、鋭さを自負する吉良の洞察力が拭えない疑問を囁きかける。これは本当に演技だろうか? 自然体の態度にしか見えない……。
「……持たざる者にスタンドが視認できるとしたら、考えられる可能性はふたつ。その空間が普通ではないか、その人間が普通ではないか、どちらかだ」
 緊張を保ったまま吉良は思考を巡らせる。口に出してしまうのは半ば癖だ。
「前者については情報が少ないのでいったん置く。後者の可能性を模索しよう。多少の違和感なら抱いていた。スタンドの存在はそれを知らぬ者には正しく怪異だ。明らかな異形を目の当たりにして、『かっこいい』などと悠長な感想に終始する子供はおかしい。叫び声のひとつもあげるのが通常の反応だろう。普通の人間ではないという可能性は、対象がすなわち非実在である可能性も含む。認識上の存在というやつだ。幻覚、錯覚、心象イメージ……解離性人格の線も視野に入れるべきか? いずれにせよ内的他者であるなら、この状況に都合よく順応していることも納得がいく。スタンドを見ても必要以上に驚かず、受け容れる土壌があるというわけだ……」
「ねえ、言ってる意味がそろそろ解んないんだけど」
「別に君に理解させる気はない」
 目に見えて少女はむくれた。吉良はひとつの行動をとるべきか迷っていた。反応をみることで小さからぬ情報が得られる行為だ。だが危険も伴う賭けだ。
 仮にこの子が、実在する本物の町民であった場合、その行為のあとは始末せねばならなくなる。ただ吉良はその線は薄いと判断した。恐らくは非実在の、現象上の少女だ。この存在の意味するところと自分の前に現れた理由を知りたい。仮に彼女を操る黒幕がいるなら、もはや倒すべき相手と認識してよいだろう。その情報を得るほうが先だ。
「……冷たい言い方に聞こえたかな。考え事に夢中だったのでね、気を悪くしないでくれ」
 吉良は猫撫で声を出した。その気になれば彼は社交的に振る舞える。
「こうして同席しているのも何かの縁だ。君に紹介したい人がいるんだが、会ってくれるかな?」
「だれ?」
「綺麗なひとだよ。わたしの大切な『彼女』だ」
「……ふうん」
 眉間に刻まれた皺が愛らしい顔を一気に暗色に落としこむ。なぜ急に不機嫌になったのだ? 自分以外の女性が褒められたからか。一人前に張り合いたいようだ。
 吉良は懐に手を差しいれた。丁寧なエスコートで『彼女』を取り出し、いちばん美しく見える角度で卓上に安置する。指にはオーバルカットのトパーズの指輪。どこかの地主の息子に向けていた文句は言わせない、繊細なアームに据えられているのは指の白さに映えるインペリアル・トパーズだ。もっとも口を持たぬ清らかな『彼女』はもう何も語れはしないが。
 誇るべき恋人を吉良はほれぼれと眺めた。様子を窺えば少女は、眼ばかりをまるく見開いて完全に停止している。まるで人形がもうひとつ増えたようだ。空白の数十秒のあと、妙に角ばったぎこちない動きで首を動かしたのは、念のため見る角度を変えて作りものか否かを確認したとみえる。
 やっと情報の処理がおいついたらしい少女が重々しく男に宣告した。
「あなた、頭がおかしいわ」
「端的かつ率直なご意見をどうも」
 吉良は優雅な口調で返す。思ったとおりだ、悲鳴をあげたり怯えたりはしない。対話の場を崩すような反応はしない。この少女がどこから生じた何者かは知らないが、目的はとにかく、わたしという人間に介入することだ。
 『彼女』に拒絶を示した以上、わたしを全肯定する存在ではない。ただし外的な存在とは限らない――わたしは自分が社会的には罪人だと知っている。知ればこそ忍んで平穏に過ごせている。第三者視点は重要だ、この子は私の中で客観性を司る存在かもしれない。あるいは、まさか……疑わしく吉良は少女を見つめる。自らの性質を心から肯定するわたしに、懺悔の念や良心の呵責はありえない。でも、仮に、それに類似した存在だとしたら?……小さく肩を竦める。そんなものがあるかどうか以前に、自分のジミニー・クリケットがこんな少女の姿だとは考えたくないな。陳腐すぎて興醒めだ。
「あなたはひとを好きになったことがないの?」
「いま彼女をなんと紹介したか聞いてなかったのかな」
 テーブルの上に置かれていた小さな手が、落ちつかなげに膝に移動する。吉良は静かに諭した。
「身の危険はおぼえなくてもいい。子供の手は寸足らずで未完成でなにひとつ美しくない。わたしの愛には値しないよ、自意識過剰なお嬢さん」
「……ひとを好きになるってそういうことじゃないと思う」
「概念の定義を問う時期は過ぎたし、個を圧殺する俗論にいまさら従う気もない。自我のありようは自由だ」
 清涼感ある笑顔で殺人鬼がおだやかに語る。
「理解や共感と呼ばれるものは人間が人間自身に自惚れるためのシステムだ。これがあるから動物より上等だと思い上がるためのね。そうまでして権威づけた人間らしさとやらは損得や好悪でたやすく矛盾し、正義や道徳はその外にあるものを死ぬまで責めたてていざ死ねば神妙に反省してみせる演出を忘れない。他者を解りたいという願いは、相手を自分の手のひらに乗るサイズまで矮小化して見下したいという願望だ。おかげさまで世界は万人にとって生きづらい。共感が尊いなどと信じこむから唱える神の名が違えば殺すしかなくなる。……わたしが『彼女』に癒される理由を理解してもらえたかな? 完全な美はひたむきで純粋で見るものをやさしく包む。欲望を押しつけず、言葉すらいらず、そっと寄り添うだけで満たされる清らかさを愛と呼ぶ。その定義は有名だろう?」
「あなたに殺された人はきっと痛くて怖くて苦しかったと思うわ」
「そうだね。それで? もしわたしが事故や災害に巻きこまれて死ぬなら同じ思いをするだろう。その偶然においてわたしと彼女たちは公平だ。わたしはこう生まれつき、生まれついた以上どうしようもなく、どうしようもない以上は肯定する。わたしがわたしであることは、たとえば爪が伸びるのと同じく否定しえない現実だ」
 小さな唇がもの言いたげになお動き、無力を噛みしめて閉じた。言い募る言葉を持たないらしい。子供の限界だなと吉良は無感動に眺める。
 実際には、いま述べた論はいくつかの反駁が可能だ。『法治国家の恩恵に預かって生きたければおまえ自身も遵法に努めろ』と言われればそのとおり。自分が矛盾を抱えていることは知っている。どうせ万物は矛盾を抱えている。そのうえで人はそれぞれ、何を優先すべきかを自分で決定しているにすぎない。
「……あなたは……黙って座ってれば気品があるのに、中身は全然違うのね……」
「褒めていただけて恐縮だが、なにもかもご期待に添う義務はないのでね」
「あなたの目が覚めたらいいのに。あたしが覚まさせてあげたい」
 吉良は嗤った。あくまでも上品に侮りをこめて。
「自己犠牲もロマンチックでけっこうだが、よそで幸せを探したほうが建設的だよ。どうぞ君は、低からぬ学歴とそれなりの身長をもつ、周囲の友人が『格好いい』と羨ましがる男を選んで結婚するといい」
「あたしがかっこいいって思う相手じゃあなくて、あたしの周囲の人がかっこいいって言う相手と結婚しろってこと?」
「それが最善の選択だ。わたしは自分の幸せが何かを知っているが、君はそうではない。ならば幸福は結局、他人との相対で決まる。人に見せつけて優越感を抱けるかどうかで男を選びなさい」
「自慢が目的だなんて間違ってるわ! あたしは、えっと、あたしと心が通じあえる人と幸せになるの!」
「さっきわたしが言ったことを気にして、優しさだの誠実だのという疑わしい基準を挙げないのは賢いね。だが小賢しい。おめでとう、これで君の不幸は決定した。幸せになるのにも才能が要るんだよ。その才能はだいたい2種類に大別される。ひとつはわたしのように、自分の幸せを正しく掴んで入手すること。もうひとつは、世間並みの価値観にじょうずに騙されること」
 吉良は口角を上げた。蛇が微笑むとしたらそれだ。
「君はわたしを否定したい、だが否定しきれない。善や美徳を信じたい、だが信じきれない。わたしのようになる度胸はないくせに、世間並みに愚かでいられる覚悟もない。小賢しいばかりの君には中身がない。自分を得られないものは幸せも得られない。当然だ」
 吉良はもう手加減をやめていた。理不尽な事態が未だ解決しないことに苛立っていた。どうせ非現実の相手なら後腐れもない。この状況とも無関係ではないだろうし、鬱屈を発散するために遠慮なく傷つければいい――ただ、少し、自分自身に戸惑う気持ちもあった。恥をかかされたわけでもないのに珍しく攻撃的だ。価値観を否定されて苛立っているのか?
 考えてみれば、父親や目撃者以外で、自分の内情を人に知られるのは初めてだ。すすんで打ち明けるのは本当に初めてだ。理解など最初から求めてないはずなのだが……どうやらわたしは、『この少女に拒絶されたこと』に苛立っている? なぜ?
「子供は甘やかされることに慣れている。事実として幼なければ享受するのも選択肢だ。だが聞いたふうな勇ましい主張で格好をつけたがりながら、同時に弱者として甘やかされようなどと虫のいい話は通らない。『未来の旦那様』か! わたしの選択権を無視できる自信はどこから来るのだろうね。予言するが君のように空っぽの娘は不幸な結婚をする。退屈と後悔にまみれて歳月を過ごし、心を震わせる相手ともめぐり逢えず死んでいくだろう」
 少女の頬には怒りの朱すらなく蒼白だった。瀕死の小動物めいた呼吸が精一杯で、容赦ない侮蔑に蹂躙された瞳はいたいたしく潤んでいる。泣きたいのだろうな、泣けばいい。吉良は自分の背後にちらりと視線を走らせる。後ろのテーブルの人形に見覚えがあると言ったな。席を立ち、わたしと背中合わせに座っている男にでも泣きつけばどうだ? どうせ最初からわたしを選ぶ気もないくせに。不快感の正体を掴めないまま心中で切り捨てる。
 だが、少女は席を離れなかった。逃げなかった。唇を噛んで座っている。抉られた傷から見えない血を流し、そのせいで蒼ざめながらも座っている。瞼が痙攣しているのは必死で涙を堪えているからだ。
「あた、あたしは、」
 溶けかける語尾を飲みこむ。声を出すと泣いてしまうらしく言葉が続かない。他人の涙は、吉良にとってはっきり無意味だった。死の恐怖に面した女たちはよく泣き、邪魔をした男たちも自らの結末を知る猶予があれば泣いた。泣かない者や手向かう者も稀におり、気丈さには感心したし何なら賞賛も向けた。だが『殺す』という決定にはまったく影響しなかった。他人の涙には痛痒も喜びも感じない。怪我などで痛い思いをすれば自分とて落涙する。単純な生理作用だ。
 ただ、それにしても、少女は耐えた。あまり遭遇しない型ではあった。泣く女はいた、泣かず立ち向かう女もいた、だけど泣くのをじっと堪えつづける女は見なかった――会話を楽しめない相手はつまらないので迅速に始末してきただけではあるが。吉良は次第に、別の不快感を抱きはじめた。彼はもともと神経質で、整然としない状態のものが苦手だった。靴下を裏返したまま履く人間をみるとぞっとする。玄関口などで靴が乱雑に散らかっているのも気に障る。人目さえなければ、きれいに並べ直したあとですべてを爆破してしまいたい。
 少女は薄い肩を震わせている。既に感情は堕しており、涙を落とさぬことだけに意地を張っているにすぎない。諦めて早く泣け。不安定は見苦しい。どっちつかずの綱渡りにストレスが溜まってゆく。耐えきれず口に出した。
「そこまでいけば泣いているのと同じだ。泣きたまえ、中途半端は気持ち悪い。わたしの視線が気になるなら、よその席に移ってさっさと泣き終えろ」
 俯いていた少女は鋭く顔を上げた。
「それは、あた……あたしの勝手でしょ」
 嗚咽の衝動をどうにか怒りで誤魔化せたのか、喉のつまった声を絞り出す。
「泣くのも、我慢するのも、あたしの勝手だわ……あなたの言ってた、自我のありようは自由ってやつだわ! なんで強制されなきゃいけないの。せ、席も移らないわ。あたしは空っぽかも、しれないけど、あたしが決めたのはこの席なんだから。……それだけは確かに自分で決めたんだから……!」
 意志ある眼が年上の男を睨めあげる。うんざりしながらも吉良は、なるほど、と拙い言い分を容れざるを得なかった。余計なことを言ったのは認めよう。行動選択は個人の自由だ。
 ひとりきりの悦びをひそかに心に飼う吉良は、『個』というものに相応に敏感だった。行きたくもないサマーキャンプ、つまらない飲み会。愚かしい強制だ。義務なので渋々応じてきたが、できれば家で安寧に美しいものを愛でていたかった。こんな子供の矜持など本来どうでもいい。が、自分が他人に――『彼女』にしたい相手ならともかく純粋な個人に――個の圧殺を強いていたなら、それは自らも愚行に倣っていることになる。多少、居心地が悪い。
「……諒解した。好きにしたまえ」
 片手を挙げて吉良は引き下がった。本性まで見せておいて優位を譲るのは、普段なら耐え難い苦さだ。だが今回は不思議と、よい酒がそうであるように含む気になる苦さだ。納得はすべてに優先するという理屈だろう。
「確かに余計な口出しをした。わたしがこう申し出るのは珍しいと思ってくれていいが、ささやかな借りができたようだ。君の内情など興味はない。が、微細とはいえ自分の落ち度を放置するのをわたしは好まない。健やかに熟睡したいのでね。借りに対して小さな支払いをしよう。それで差し引きゼロだ。なにか求めるものはあるか?」
 言いながら、吉良には計算もあった。子供に大したことが思いつけるはずもない。耳ざわりのよい詫びでも聞かせてやれば満足するだろうと踏んでいた。
 だいぶ落ちついたらしい少女は、赤くなった目元を擦りながら考える。思考の時間はさほど長くなかった。
「じゃあ、キスして」
「……君はマゾヒズムの気があるのか? つまり、さんざん自分をいたぶったわたしにキスをされて嬉しいか?」
「ただのごっこ遊びよ。あなたはとてもひどい人だけど、黙ってれば王子様みたいだから、黙ってキスして。やさしく手を取ってから、おでかけ前にするみたいなのを」
「注文の多いお姫様だ」
 吉良は天を仰ぐ。勘弁してほしかった。場所は指定されていない、頬か額あたりで構わないのだろう。だがこの国では挨拶としての接吻が一般的ではないし、相手は親戚でもないプレティーンの娘だ。見るものが人形以外ないとはいえ、犯罪じみた行為には抵抗がある――殺人や窃盗なら気にならないアンバランスさを吉良は自覚しなかったが。
「あ、でも待って。これ以上ほっとくと溶けちゃうから、先にパフェ食べてしまうわ」
 銀の匙をふたたび取り上げる。ロマンスごっこよりも甘味を優先させるような子供だ。ますます抵抗だけが跳ね上がった。眉を寄せている男の視線をどう勘違いしたのか、少女は思いついたように申し出る。
「あなたもひとくち食べる?」
「遠慮しよう」
「甘いもの嫌いなの?」
「好き嫌いはないが、あまり食べてこなかったので馴染みがない。砂糖を採ると脳の働きが鈍って馬鹿になると聞かされて育ったものでね」
「お母さんに?」
 目の前の男の沈黙を、肯定らしいと取って、少女は斜め後ろを振り返る。ついさっき両親だと紹介された夫婦の人形が座っている。一見する限りでは、きつそうな性格の女性だとは見えない。
「よく知らないけど、お砂糖って、頭の働きにはむしろいいんじゃあなかったっけ」
「君くらいの少女でも知っているような常識が通用しない人でね。彼女の住む世界でのみ成立している真実、に、よく付きあわされた……」
 両親の人形を視界に入れないようにして吉良は呟く。何を口走っているのだろう。これまで誰とも、当事者である父とすらしたことがない。母親の話など。
「だったら一度、ちゃんと馴染んでみたほうがよさそうよ。どう?」
 長い柄をくるりと反転させ、目の前にひとくちの分け前を差し出す。匙の先端にチョコレートソースで彩られたクリームが小ぢんまりと佇む。ふたたび固辞しようとしたが、吉良の視線はささやかな甘味に吸いつけられた。興味はないはずだった。なのに、急に、ひどく魅力的なものに見えてきた。
 思いきって受け容れたらどんな味がするのだろう?
「…………スタンドというのは、」
 唐突に話を切り出した。胸にざわめいた揺らぎの正体については心の底に転がしておく。
「精神の力、超能力の一種と考えてよいが、厳密に表現すれば『認識の力』であるらしい。父親からの受け売りだが……できて当然、と認識すれば当然のごとく操れるようになる。動物のスタンド使いもいるそうだよ。獣にも認識力はあるだろうからそこは驚かないが、興味深いのは器物にスタンドが宿った例だ。小耳に挟んだかぎりでは、亡くなった持ち主とは関係なく、能力だけが器物の中で自立しているらしい。物自体の性能や関わった人間の思惑などが交差するうちに、ある種の『力場』が発生したのかな? どの規模までの存在がスタンドをもつのだろうね。場所や空間、たとえば杜王町の銀杏並木に何らかの力場が生じて、スタンドが現れてもいいのかもしれない。銀杏の葉の裏あたりにこっそりと。場所自体がスタンドをもつ、というケースも想定してみてよいわけだ……」
 語りながら次第に、吉良の中ではひとつの仮説が組み上がっていた。謎めいた揺らぎから逃げるために重ねた話題だが、真実の一片を掴んだ気がする。
「……半ば思いつきで言うがね」
 乾いた唇をいったん舌で湿し、周囲を見回す。人形、人形、また人形。しかも必ず2体組の。
「この状況は、『カフェ・ドゥ・マゴという店のスタンド』の仕業ではないだろうか?……飲食店という、多くの人間が行き交う場所はひとつの力場だ。また名は体を表す。名の示す通り、現在ここは『2体の人形たちの店』だ。具体的な能力内容は解らない。ただ、わたしも多くは知らないがスタンドの種類はどうやら多岐にわたる。つまらないほど単純な能力とてありうるだろう。ここの人形たちは夫婦、兄弟、恋人、憧れの相手、親子……恐らくそういった手合いの組み合わせだ。「逢うべき人形を逢わせる」、「向きあうべき人形を向きあわせる」、それだけの単純な能力かもしれない。ここに出現する時期が一律とは限らず、ここでの対面は現実には反映されないかもしれないが、」
「ねえ」
 急に言葉を遮られた。思考から意識を引き戻した吉良は、少女がまだ、銀の匙をこちらに差し出したままなのに気がついた。
「食べるか食べないかだけ決めちゃわない?」
 長話のあいだ保持されていた先端はやや震えている。口を噤んで吉良は、自分に向けられた顔を注視した。そう、仮に推測が当たっているとして、未だ謎は残る。この子は何者だ。いつか出逢った相手か? それとも未来の?
 少女もまた吉良を見つめた。視線はひとたび、自分が差し出す匙にちらりと移ったが、滲む色をあえかに増して正面の男へと戻る。
「……要らないなら要らないって言って。もしそうなら仕方ないから」
 目の前でゆるりとクリームが崩れる。奥には薄くスライスされた紅い果実が覗く。食べたいわけではなかった。慣れない味は胸焼けしそうだ。潔癖症というほどではないが食器の共用もあまり好きではない。健康には気を遣っているのに不要な糖分を採りたくもない。
 なのに、やはり、ささやかな甘味は抗いがたい魅力で彼を手招いた。わたしはなにがほしいのだろう? 吉良は今度は意図的に、斜め前のテーブルにいる母親の人形へと眼をやる。見てから匙の上に視線を戻す。甘いものは蠱惑を失わぬままそこにあった。禁じられた過去ゆえの忌避感も抱かなかった。
 殺人鬼は頭を垂れた。
 身を乗り出して、少女からもたらされる甘味を、そっと口に含んだ。花に惹かれる蜜蜂を他人事のように連想した。

 がたりと音がした。驚愕のあまり思わず自分が立ち上がった音だと、遅れて気づく。
「……これは、」
 口に手を当てる。咥内のものを、吐き出すのも憚られて飲みこみはする。急に立ったせいで椅子が倒れたが構ってはいられない。意外すぎた事実に、吉良は言葉にならない唸りを喉の奥から漏らす。
 味が、しない、だと?
 顔を上げて少女の顔を見る。温かくからかうような、少し寂しそうな微笑みがひらめく。忌々しさに似た納得が胸に落ちた。そうか。そういうことか。君は気づいていたんだな?


「……やはり現在の状況は、この店のもつスタンドの仕業だった。呼ぶならばそのまま『カフェ・ドゥ・マゴ』。2体の人形たちの店。客はもれなくすべて人形。もれなくだ。たとえ少しくらい動けて、少しくらい話せて、少しくらいものを思えたからとて――」
「そうみたい。あたしたちも人形」
 平静な声が続く言葉を引き取った。


「君は自覚していたのか? いつから?」
「あなたから店名の意味を教えてもらったときになんとなく。そのあとパフェをひとくち食べたら、味がしなかったから、ああ、そうなのかなって」
「無味のものをよく美味しそうに食べられたな」
「せっかくきれいなパフェだから、味がしなくても食べてあげないと可哀想でしょ。あと、あなたに言おうか隠そうか迷ってもいたの。でもぜんぜん気がつかないから、やっぱり教えたほうがいいのかなと思って」
「……店名の意味を知ったからとはいえ、自己の前提を覆す答えによく辿りつけたものだ」
「だって単純じゃない? 名前に全部意味が入っちゃってるわ」
 敗北感より呆れに近い衝動で吉良は眩暈をおぼえる。あるものをあるまま受け止めていた少女のほうが真実に近づいていた。小賢しいのはどちらだ?
「カフェ・ドゥ・マゴ。2体の人形たちの店。向きあうべき人形たちを向きあわせる、ただそれだけの単純な能力。把握した。だがまだ不明点が残る。なぜ君と同席だ? 11歳前後と見受けられるが、そんな少女がわたしとどう繋がる?」
「いつか知り合うんだとは思うけど……そのときのあたしはもう子供じゃあないのかな。あたしを見て「昔はどんな子供だったんだろう」なんてふと思ったのかもね。もし周りに他の子供がいれば、比較して11歳のあたしを想像したりとか」
 加えて、と吉良は補足を考える。人形たちの年齢はさまざまだ。兄弟らしき高校生。憧れに対面した幼児。わたしを身籠った当時の母。人生の分岐点となる時点の姿を、掬い上げられた例もあるのだろう。あるいは俗にいう精神年齢も影響するか。
「逆に、あなたはどうしてその年齢なの? 20後半か30前半くらいよね」
「最近、わたしの周囲では面倒なことが起きた」
 秘密を見た男子中学生の顛末には触れないまま続ける。
「現時点のわたしには、運命の流れを変えるきっかけの出来事が起きているのかもしれない。きっかけは様々あるが、小さからぬひとつだったんだろう……」
 語尾が窄まったのは、あることに気づいたからだ。少女は会話をしながらも、ずっとデザートグラスの中身を口に運んでいた。最後の苺のひとかけをつつましく咀嚼している。小さな借りを返さねばならない約束を、吉良は思い出した。
「ごちそうさま」
 匙が卓上に置かれた。ハンカチを取り出して口を拭い、椅子から立ち上がる一連の動作を男は無言で見守る。
 水玉模様のワンピースの裾を揺らして、少女は吉良の前に立った。
「食べ終わったわ。キスして」
 間を置いてから、弱々しい笑顔とともに、自分自身の台詞をもう一度なぞる。
「あなたはとてもひどい人だけど、黙ってれば王子様みたいだから、黙ってキスして」
「…………」
 自ずと唇にのぼりかけた言葉が信じ難く、吉良は立ちすくむ。「傷つけるつもりはなかった」と言おうとしたのか? 誰が? わたしが? 彼女を? 嘘だ。大嘘にもほどがある。
 明確に傷つけて嬲る意図があった。吉良にとって女たちは、肉体も精神もそのままでは完成しえない生き物だ。清らかなかたちに加工してやらねばならない。刻み、いたぶり、爆ぜさせ、殺し、切り取るのはそのための儀式だ。信念を撤回しようと思ったことは一度もない。なのに、いま抱いている情動は明らかに相反している――彼女だけは傷ついてはいけない。
「あなたと話してつらかったわ。でも、そういうあなたが見れた体験だけはたぶんよかったの。私にとって痛いものでも、怖いものでも、それも剥き出しのあなただから。あなたがしていることを、赦すことも認めることもできないけど、……とにかくそれがあなただから……」
 殺人鬼の前にちっぽけな少女が立っている。身を守るものは何もなく、言論すら頼りない。殺人鬼を縛っているのは彼自身の内から出た矛盾だけだ。
「あなたがあたしのために思いやりでついてくれる嘘があれば、きっと素敵ね。あなたがあたしにだけくれる柔らかい何かがあれば、もっと素敵ね。でも、ここにいるあなたも、あたしが向きあうべき相手なんだわ。あたしは人形だけど、人形は人間を模してるから人形よね。だから本物のあたしも同じことを言うと思う」
 それに、と少し努力して明色を纏わせた声が弾ける。
「あたし、あなたに言われたひどいことは気にしてないの。だってさっきのあなたの予言、少なくとも、ひとつは思いきりはずれたもの……」
 明るさを保って続こうとした声が、伏せられた顔のせいで曖昧に崩れた。不安に折れそうになりながらも続ける。思いきりはずれたもの。心を震わせる相手と、死ぬまでめぐり逢えないなんて、大はずれだったもの……。
「キスを」
 ごく平坦に吉良は切り出した。自分の声がどこか遠い。
「わたしは君にキスをしなければならない」
 上げられた少女の顔はやっと撫でてもらえた仔猫のようだった。その熱量を躱し、あくまでも植物の心で告げる。
「しかし正直に言わせてもらえれば気が乗らない。ねだるほうの君は気楽でよいが、構図としてはまるでわたしが小児性愛者だ。君がせめて成人女性ならよかったのだが」
 往生際が悪いとは思わなかった。逃走は吉良にとって恥ではない。自分の平穏を守るためには当然の手段だ。
「成人であれば問題がないわけでもない。わたしは公共空間でプライヴェートな接触をする行為にまず抵抗がある。相手が若い女性となると、鼻の下を伸ばした男のようでなおさらだ。わたしと同世代の、ちょうど妻に見えるくらいの年齢の女なら譲れもしたかな。愛妻家に見せかける程度なら、まだしも屋外で」
 こつり、と踵の鳴る音がした。斜め下に顔を背けている吉良の視界に入ったのは、サンダルを履いたすんなりした脚だ。子供のものではない。
 顔を上げてみたが、先程まで少女の顔があった位置にはサマーセーターの襟元がある。ゆっくり視点を上げる。白い喉。赤みを帯びたまっすぐな髪。面影を残す顔立ちは期待を湛えてうすく紅潮している。20後半か30前半くらいの年齢の女。
 吉良は諦めをこめて胸中でひとりごちた。なるほど、人形たちが向きあうための要求なら、この空間は叶えてくれるというわけだ。
 サンダルの踵が再び鳴り、目の前に立っている女がもう一歩踏み出した。ほぼ抱きとめているような近い距離で、妻のような女が待っている。花のように待っている。他でもない自分を待っている――わたしはなにがほしいのだろう? 女の顎に添えられた男の手を見つける。誰の手かと思えば自分の手だった。
 名前を聞いてもよかったな。そう思った時点で、逃げそびれた自分を吉良は悟った。

 頭の片隅で思う。わたしたちはいつまで動ける人形なのだ? 向きあうべき相手と向きあい、受け容れるまでだろうか? 不完全から完全となって人形へと戻るのだろうか。じゃあ、それは次の瞬間だ。




* * *




「はい、どうぞ」
 勘弁してほしいと思った。今日のカフェ・ドゥ・マゴは比較的空いている。昼食には少し早いからだ。ただ座席は中混みの埋まり具合で、つまり人目は少なくない。
 同席している女が手ずから差し出すひと匙を味わうにはいささか勇気がいる。
 川尻早人が手洗いにたった隙の出来事なので、至近距離で見ている者がいないのがまだ救いだ。そもそも差し出す前に要か不要かを聞くべきではないのか? この夫婦にとっては日常茶飯事なのだろうか。川尻しのぶの表情を窺う。喜色の奥に恥じらいがたゆたっている。慣れてはいないようだ。久しぶりに、あるいは初めて、その気になったらしい。
 疑念を抱かせるわけにはいかない。いずれにせよ不慣れなら、動作がぎこちなくとも疑われる危険性は低いだろう。川尻浩作の顔をした吉良吉影は観念して、差し出された匙を口に含んだ。
「どう?」
「甘いな」
「シンプルな感想ね」
 微笑んでしのぶはデザートグラスからまたクリームを掬った。今度は自分の口に含む。
「あら?」
 疑問の声がテーブルに跳ねた。顔を上げた吉良は、女の頬にひとすじ滑りおちている雫を認めて小さく驚く。どうしたと尋ねようとしたが、しのぶ自身も驚いて、頬をしきりに拭っている。
「なによこれ? あたしもいま、ひとくち食べて、甘いなと思ったら、」
 言葉は続かなかった。目尻からぽろぽろと透明な感情だけがこぼれる。ちょっともう、なんなの、と彼女自身が苦笑しているが止まらない。
「甘くて美味しいと思っただけよ。あたし、なんで」
 吉良は黙ってハンカチを妻に差し出した。抑えた嗚咽に揺れる肩をぼんやり見守る。なぜか後悔に似た充足が胸に満ちてゆく。後悔と充足、ほぼ真逆のはずのものが似ている理由は解らない。
 落ちついた様子を見計らって言う。
「……結局はそれが欲しかったようだ」
 唐突な告白にしのぶは瞬きをする。欲しかった? 急になんのことだろう。甘いもののこと? もしかして、あたしの泣き顔のこと? だとしてもなぜ過去形なのだろう。
 夫自身、口走った台詞の意味を掴みかねている表情だ。ただ慰めとは呼べないはずのその言葉に、無垢な素直さを感じとり、しのぶの胸はやさしく痛んだ。
 少女のような泣き笑いで返す。甘いもののことだとしても、泣き顔のことだとしても。
「……子供みたいね」







2017/04/04

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