赤い靴 (Dance with Vandalism)/


「あなた、お待たせしました」
 大声ではないにせよ通る発音を心がけたのは、当然わざとだ。
 ショッピングモールのベンチから立ち上がる夫の腕に、しのぶはそっと指を絡める。遠巻きに見ていた大学生と思しき女の子たちが、お互いに目配せしあうのを視界の隅で確認する。なあんだ既婚者か、まあ、そうかもね。無言の会話内容は手に取るように窺えた。
 川尻しのぶの夫は、美丈夫とまではいわないが細面の涼しげな顔立ちをしている。加えて、サマーシーズンの杜王町には観光客が多く、男も女も開放的に異性を誘うものたちが少なくない。しのぶも声をかけられた経験がある。子持ちには見えないらしいという自負こそ得られたが、さすがに無視して通りすぎた。家で腐っているときのあたしのだらしなさを見せてやりたいわね、と自嘲的に思いながら。
 すこし空調の効きすぎたモールの中を並んで歩きつつ、夫の横顔を盗み見る。『物静かで格好いい』というのが短大時代の友人たちの評だった。でもそれは『無感動で無反応』と表裏一体で、10年以上そちらばかりが勝っていた。この夏になって初めて、あたしの夫はくらくらするような魅力を従えている。具体的にどうとは言えないが、変わったことは解る。おだやかな物腰の裏から匂いたつ隙のなさ。謎めいたするどい佇まい。
 若いころは無味の時間にうんざりしながら夫婦の型をなぞっていた。心の距離は出産以降なお遠ざかり、ふたりきりの外出などまったくしていない。早人が学校の社会科見学で出かけたこの土曜、しのぶは意を決して夫を街歩きに誘った。何年も無視しておいて今さら、と撥ねつけられても仕方ない覚悟で切り出したが、川尻浩作は「そうか」と応じて普通に立ちあがる。その表情はこれまでのような無味ではなく、夫婦である以上は同行すべきだろう、という覚悟に似た色彩がある。甘い雰囲気ではなかったけれど、しのぶは踊りだしたくなるほど嬉しかった。
 ともあれ久方ぶりに夫と歩くしのぶは、さっきの女の子たちを見るまで、川尻浩作――を装った隠遁の殺人鬼――がどのくらい異性の眼を惹く男なのか知らなかった。これまで不貞を疑ったこともない。メディアの浮気報道などを見かける折、ふと考えたことはあるが、そんな度胸はないだろうという冷笑と女に貢ぐ金があるなら家計に入れさせたいものだという苛立ちしか浮かばなかった。
 だけど今は。
 夫の肘に絡ませている指先にかるく力を込める。今さらだ、本当に身勝手だ。だけど今は、もしこの人が自分以外の女を見ていたらと思うと、胸の底が冷たく澱む。
 モールの通りの向こうから、華やかなシルエットを翻して若い女性の一群がやってくる。きゃあきゃあと笑いあって楽しそうだ。しのぶは無意識に背筋を伸ばし、できるだけ姿勢のよい歩き方ですれ違った。外見に相応の自信はあるし、浮かない程度にめかしこんでもきた。でもなにしろ10年以上の失点を埋めなければならない。夫はあたしを、連れ歩くに相応しい女だと思ってくれているかしら?
「……今はおあずけだ」
 鼓膜に刃がすべりこんだ。
 鳥肌が立った。地を這うような声だった。まわりの大気が氷点下に落ちこむ声だった。呟きが聞こえた方向、つまり夫の顔を見ることも憚られ、しのぶは息を詰めたまま黙って歩く。今のはなに? 小さいけれど確かに聞こえた。この人が言った。
 なんだろう。どういう意味だろう。確認したい。勇気を総動員するのに数秒を要した。しのぶは何気なさを装い、ぎこちなく笑いかける。
「……ねえ、いまなにか言った?」
 夫が妻を見下ろした。刹那にも満たない一瞬、狼狽が頬のあたりを駆けぬけたようにも見えたがよく解らない。
「ぼくはなにか言ったかな」
「おあずけ、とかなんとか」
「ああ、あれだ」
 川尻浩作は立ち止まり、斜め後ろを振り返った。紳士靴を売っている店がある。
「通勤用の革靴の底が減っているから、新しいのをほしいと思ってね。でも今日はもう持ちあわせが怪しいだろう」
 手に提げている買い物袋を持ち上げる。確かに生活用品をあれこれ買い回った。
「だから今はおあずけと言ったんだ。心に留めておくつもりが、声に出てしまったらしい」
 なるほどね、という納得をこめて妻は微笑みかえした。少なくとも、夫にそう見せることには成功した。
 連れだって再び歩きはじめる。靴。靴。新しい靴。しのぶは足元に眼を落とし、自分の履いている赤いパンプスを見つめて胸中で繰り返す。人間は、ほしい靴を諦めるというだけであんな声を出すものだろうか。
 ……おあずけなのは、『女の子に声をかけるのを』、ではなくて? 心臓にずしりと氷塊がわだかまる。ただ、単純にその意味には取りきれなかったのも確かだ。むりやり疑念を殺しているわけではない。逆にいうなら、もっと不穏な泡立ちを感じた。切迫した響きに聞こえた。でもいずれにせよ、切迫した欲求をほかの女の子に求めているとしたら――それはあたしではいけないの?
 モールの通りの向こうから、今度は楚々とした制服姿の、施設の案内嬢らしき女性が歩いてくる。眼鏡をかけて上品だ。すれ違う少し手前で、ほつれ髪を耳にかきあげる。ペールブルーのきれいなネイルが眼に入る。
 小さな吐息が夫から聞こえた、ような気がした。しのぶは唇を噛む。神経質になりすぎだろうか? 疑心暗鬼だろうか? たぶん大きな意味はない、きっと荷物が少し重いだけだ。でも彼女は、普段のような楽天さをうまく取り戻せなかった。よく解らないまま不安だけが頭をもたげた。
「……今日は長々とつきあわせちゃったかしら?」
 暗澹とした気分で話しかける。自分のものばかりでなく、夫の身の回り品も買ったし、どれが好みかと問いかければ中身のある応答も返ってきた。でも今日の外出を、楽しんでもらえたかどうかは解らない。
「疲れてない? もう帰りたい?……早く帰りたいかしら?」
 川尻浩作は、首を回してしのぶを見た。意外そうな表情をしている。たっぷり数秒ほど見つめられて、しのぶもさすがに戸惑った。
「いや……早く帰りたいわけではない」
 考えながら男は言った。おぼつかなく言葉を探している。
「早く帰りたいとは思っていない。これは本当だ。……暮らしのものを一緒に買うことで、君のことや家庭のことが把握できた……」
 男の視線がちらりと、彼自身の腕に落とされる。そこに絡まった女の手を見たらしい。扱いに困るものを見るような表情だ。さっき視界に入れた自分のパンプスに引きずられ、しのぶはふとアンデルセンの童話を思い出す。お世話になった人のお葬式に赤い靴を履いてくる浮かれた小娘。
 夫の肘に絡めていた指をそれとなく離す。浮かれすぎていただろうか。貞淑さのない女は嫌われるだろうか。急にすべてに自信が持てなくなった。
 この人に相応しくあるためにはどうすべきだろう。必要とされるには? 妻の座に納まってはいても、始終そばに居られるわけではない。職場や通勤電車の中で、夫がどんな顔をしているかは知らない。こっそり見てみたいと思う。監視したいわけではない。ただ知りたいのだ。空白の10年を埋めたい。
 だけどそんな詮索は、きっと彼の好むところではないだろう。この夏になって夫は口数が増えた。話しかければ応じ、求めれば助けてくれる。とても幸せだけど、なぜか未だに隔てられた部分があるような気がしてならない。彼にはひとりきりの秘密の部屋があって、ときどきそこで過ごしている。あたしは鍵を持っていない。
 そばにいたい。あなたの部屋に招かれたい。それが叶うなら、あたしは別にあたしの形じゃなくてもいい。この人が綺麗だと思う形になりたい。あたしは小さなそれになって、黙ってかわいらしく内ポケットに収まろう。そばにあって癒せるものになりたい。ときどき語りかけてやさしくほおずりして、できれば口づけてくれればもうなにも、
 ぱきん。
 乾いた音とともに、視界が斜めに崩れた。足元がぐらつき、小さな悲鳴を上げてしのぶはよろめく。とっさに夫が腕を掴んでくれたので転ばずに済んだ。
「……ああ……」
 パンプスに眼をやったしのぶは恨めしい声をあげた。ヒールが根元から折れている。
「靴か」
 川尻浩作は、手近なベンチにしのぶを支えて誘導した。座らせてあたりを見回す。
「婦人靴の売り場もあるだろう。代わりの靴を買いにいこうか」
「いえ……とりあえず接着剤でつないでみるわ。こうなったらあとは帰るしかないし、それこそ持ちあわせも怪しいから」
「さっき文具店があったな。買ってこよう」
 ありがとう、と小声で返しながらしのぶは惨めだった。癒してあげるどころの騒ぎではない! ただの面倒な女になっている。
 戻ってきた夫がパンプスの修理をはじめる。ヒールの接着はできたが、折れた面が平らではなくささくれているため、万全の強度ではない。荒く扱えば剥がれてしまいそうだ。当座は歩けても、家に帰ったら捨てるしかないだろう。
「手間をかけてごめんなさい」
 もはやしのぶこそが早く帰りたかった。思えば久しぶりに履くパンプスだ、劣化に気づかなかったのもそのせいだ。目の前をまた、溌剌とした女の子たちが通りすぎていく。外見や身だしなみ以前の問題を思い知る。10年のつけはこんな形でやってきた。
「謝る必要はない。意図的に壊したわけじゃあないだろう」
 座っている彼女の足元に屈みこんで夫が言った。履かせたヒールを横から押さえ、具合を確認しながら続ける。
「ものが壊れるのは自然の摂理だ。天気と同じだ。雲が増えれば雨が降る。劣化すればヒールが折れる。生きていれば爪が伸びる。……誰にも止めることはできない。抗えない現象なのだから、気に病まなくてもいい」
 夫の言葉は滔々として淀みない。ことさら慰めようとする成分はないけれど、逆にそれが説得力を裏打ちして聞こえる。しのぶは気が楽になった。
 ひざまづいた姿勢のまま、川尻浩作が続ける。
「家までは保つと思うが、大丈夫と保証はできない状態だ。いざとなればおぶって歩くしかないのかな。目立つからあまりやりたくはないが」
 しのぶも頷いた。気持ちは嬉しいけれど、さすがに恥ずかしい。
「その場合はもう、安いサンダルでもなんでもそのへんで買うわ。人間ひとりを簡単に運ぶ手段なんてないものね」
 ほろにがく微笑む。文字どおりのお荷物だ。
 夫はじっと自分の足首を見つめている。それどころではないと解っているが、足を見られているという状況の艶っぽさに気づき、わずかに鼓動が高まる。でも、なんだか少し一生懸命すぎるとも思った。まるでどこか他の部分を必死で見まいとしているようだ。
「君を」
 ぽつりと、相手以外には聞こえない声で男が囁く。
「…………君を、ぼくの内ポケットに入れられたらよかったのに」
 女は眼をみはった。
 心が、そして肌が、ふるえた。しずかな声は自分への愛撫だった。語尾には熱が溶けていた。どうしてわかったの? あたしと同じことを考えていたの?
 夫の黒い虹彩の奥に、情欲の火をみて、しのぶの背筋が甘くわなないた。言葉の内容こそなんでもないが、昼間のショッピングモールで睦言を交わしたような気分になり、頬の熱さをおぼえて顔を伏せた。ふたりは同じ部屋にいた。
 なのに夫は、唇を引き結んで立ち上がってしまった。瞳はいつものように知的に醒め、あやしい影はもう見当たらない。
「冗談だ」
 少し疲れたような声だった。当惑しているようにも、呆れているようにも聞こえた。そしてわずかながらも確かに含まれるのは、ある種の強い後悔だった。聞いたしのぶが哀しくなったのは、それがすべて彼自身に向けられていたからだ。
「行こう。接着剤はもう乾いた」
 しのぶは立ち上がる。少しだけ迷ったが、再び夫の肘に指を絡めた。たぶんこうしていいのだと思えた。いつまた支えが必要になるか解らないし、という理由はほんの後押しだ。
 夫婦は家路を歩く。妻は考える。
 もう一度。接着したヒールが家まで保たず、もしもう一度、折れてしまったら。力をかけたりしてわざと折ってはいけない、それは裏切りのようなものだ。だけど意図的にではなく、抗えない現象として折れてしまったら。
 あたしは夫に言おう。内ポケットに入れてちょうだいと。なにか綺麗なかたちになるから、あなたの心臓に一番近いところに居させてねと。
 夫婦は家路を歩く。帰りつけるかどうかは天が決める。女は赤い靴を履いている。とてもそれで踊れはしない、だけどふたりを踊らせる、赤い靴。


















街角にて/


「恐ろしい執念だったわ。あいつはこの、『振り返ってはいけない小道』の秘密を知っていた」
「あたしをむりやり振り向かせて、排除しようとしたの。アーノルドとよく打ち合わせておかなかったら一体どうなったことか。あいつは言ったわ。これから自分は幽霊として生活するのだと。『わたしの求める安心した生活が、ここにこそあるのかもしれない』と」
「……幽霊のあたしが言うのもおかしいけど……人って、なぜ幽霊になるのかしら?」
「この杜王町で亡くなった人すべてが、幽霊になるわけではない。世間ではよく、未練を残した者が化けて出るのだなんて言うわね。でも重ちーくんにも、未練ならきっとあったはずよ。想いがあたしより弱いはずもない」
「今だから言うけどね、露伴ちゃん。あたしはずっと迷っていたの。命を落とす最期の瞬間からずっと。『このことを誰かに伝えなければ!』『でも、こんなにおそろしく狡猾なやつを誰が捕まえられる?!』……あんたと再会したとき、町の誇りだなんて大層なこと言っちゃったけど、心の中では迷っていたわ。できることなら警察に任せたい、でも通報するために証拠を探りだせば当然命を狙われる。そんな危ない賭けをさせるのが、あの日せっかく助けた露伴ちゃんだなんて!……でも、あたしはあんたたち以外に頼む相手がいなかった」
「だからね、露伴ちゃん。あたしはどちらかといえば、『迷い』や『矛盾』を抱えて死んだ人が幽霊になりやすいと推測しているの。その精神のとおり、魂までどっちつかずになってしまうんだわ」
「……吉良吉影の求めていた、『安心した生活』って何? 幽霊になってしまえば、生きている人とは基本的に関われないわ。安心した生活って、誰にも気づかれずに暮らすこと? 植物のように生きたいのなら、そうなのかもね。でも女の人を殺して持ち歩いたりなんか二度とできないけど、それで満足だったの?」
「…………もしかしたら……殺したいけど殺せない矛盾を、ひとつ抱えていたのかしら」
「幽霊は生きている人に手出しできない。その状態を、あえて望んでいたとか? 触れてはいけない、でも離れたくない。同じ町で同じ時間を過ごして、ただ姿を見ていたかったとか?」
「あいつにそんな殊勝さが、あるとは思えないけど……それだけの何かがあったのかしら……?」


















いたい嘘 いたくない嘘/


「あの女に、」
「言うな」

 空条承太郎は――怯んだ。
 意識せず、床を擦って後退した。歴戦の男、白金の覚悟を抱く最強の星がわずかながらも気圧された。別室のモニタで見守っていた広瀬康一は、まずそれに戦慄した。承太郎さんが怯むことなどありうるのか?!
 モニタの画面内に佇んでいるのはふたりの人物だ。白いコートと帽子の男。それに対峙する、青い検査着をつけた男。後者の男の側頭部には、以前より短くなった髪に埋もれて、親指の先ほどの金属片が覗いている。
 検査着姿の吉良吉影は、さらに一歩を踏み出した。よろめく足を踏みしめ、脳が沸騰する激痛に耐える姿は、本当ならいたいたしく脆弱なはずだ。しかし承太郎の眼前にいるのは、鬼気で他者を圧する殺意の暴風だった。手負いの虎だった。
 荒ぶる獣がもう一度、唸りを漏らした。
「あの女に、わたしの正体を、言うな」



 1999年の夏、吉良吉影を捕捉・撃破できたのは、さまざまな幸運が重なった結果だった。生かしたままの捕縛に成功したのはなおさら幸運といえるだろう。
 吉良と仗助のスタンド戦闘を、ガス爆発事故とまちがえた民間人が、現場に消防車と救急車を呼んだ。しかしSPW財団医療車がそれに先んじて到着することができた。無力化された殺人鬼を収容し、鎮静のためにたっぷり3日は昏睡におちいる麻酔が与えられ、――同時に財団は緊急会議を招集せざるをえなかった。議題は、とある装置の使用認可について。
「……認識力に起因する物理干渉現象を減殺する装置……ひらたく言えば【スタンド能力を無効化する装置】は、理論上、完成はしていました」
 数週間前、SPW財団の開発部から受けた説明を承太郎は憶えている。
「でも実用までは遠かった。出力の不安定さ、莫大な開発コスト……国家予算とまでは申しませんが、その曾孫くらいの額には達するとお考えください。量産はとうてい不可能です。そして何より、装着者に与える絶大な苦痛」
 目の前で語る男もまた、財団でその才を発揮するスタンド使いだと聞く。実用のむずかしさを語る顔には当事者のリアリティがあった。
「開発初期の段階では、装置をつけることによる苦痛は、意識レベルを保つことすら難しいと判断されました。また生じるのは物理的な痛みだけではありません。伝達物質のいちじるしい機能障害も伴います。不安障害や統合失調症の、しかもかなり重篤な症状がいっせいに起きる……外出を制限されていなければ、すぐにもビルの屋上から飛びおりかねないほどのね。スタンドを抑制する装置とは、すなわち自己認識を阻害する装置にほかならない」
 小さな声で開発部長はつけ加える。要するに、いつ狂い死にしてもおかしくない拷問装置、です。
「倫理的な見地からの問題提起がなされました。ここをアウシュヴィッツにしてはならない。しかし、凶悪なスタンド犯罪は実際に起きている……。改良をかさねた結果、苦痛軽減については一定の進歩がみられました。いわゆる『スタンドを出そうとする』状態をとらなければ、せいぜい強めの倦怠感を抱く程度に改善されている。ただし、いざ出そうとした際の苦痛は変わりません。これでは問題が解決したとは言いきれない。おわかりでしょう?」
「……スタンドは反意の行動はとらないが、半ば無意識に発現する場合はある。とっさに身を守ろうとしたときなどに多い。自動操縦系の能力ならなおさらだ」
 承太郎の返事に、初老の開発部長は頷いた。
「音石明の捕縛に成功したさい、まずひと議論ありました。彼を用いての人体実験を是とするか非とするか……それまでは知能の低いスタンド生物のみで実験していたのです。理論上は、スタンドさえ出さなければ命には関わらない。でも無意識のきっかけで出してしまえば死に至りかねない苦痛を与える。そんな装置を、犯罪者とはいえ人間に装着してよいものか?……最終的には、現行法と照らし合わせて判断がなされました。音石が殺害した人間の数は1名。そのほかの罪状は窃盗。いずれも法的には立証できませんが、一般的な判例にあてはめれば、死刑判決までは下されない。装着実験は見送られ、音石が通常の刑務所に収監されたのはご承知のとおりです」
「そして次のケースが、48名の犠牲者数を誇る連続殺人犯だったわけか。極刑に処されるのが確実と思われる――ありていに言えば、『命を落としかねない者』として扱っても、まだしも罪悪感を抱かずにすむ相手が」
 開発部長は沈黙する。人として、研究者として、さまざまな思惑が胸に交差しているのだろう。承太郎は急かさずに待った。
「……装置の装着から3か月、吉良吉影は従順です。状況をよく理解しているらしい。あの男自身が望んだような『植物のような』人生を送るかぎり、彼は無害です。スタンドさえ呼ばなければ苦痛もない。……次にわれわれが危惧すべきは、吉良に再び、爪の伸びる周期がおとずれた場合です。殺人欲を叶えるべく、無理にスタンドを出そうとして苦痛に悶えるのか? 満たされない欲望に心身を蝕まれて衰弱してゆくのか? それとも存外、望んでも得られない環境にあれば平坦に過ごすのか? ……こればかりは解りません」
「やつ自身にも解らないだろうな。無人島に放りこんで生き延びられるかどうか、に似た思考実験だ」
 かつて経験してきたスタンド使いたちとの戦闘を思い起こす。そばに現れ立つ像は、彼らの強さの具現でもあり、弱さの具現でもあった。吉良吉影にとって殺人行為は、欠くことのできない生理作用であるらしい。抗えぬ衝動、あるいは自己実現そのもの。それは彼の強さだろうか、弱さだろうか?
 承太郎の脳裏に、シートン動物記の一節がふと浮かんだ。無人島に何種類かの犬を置き去りにして、半年後に確認した場合。生き残っているのは喧嘩に強い犬種でも、機動力に長ける犬種でもない。どこにでもいる平凡な雑種犬だという……。



 そして今、承太郎は殺人鬼と対峙している。
 川尻浩作の顔をした男の眼光が、黒い刃じみて相手を貫く。その瞳孔が一瞬、ぐるりと裏返りかける。だがすぐに戻ってひときわの猛々しさを増す。想像を絶する激痛に苛まれているのだ。常人なら即座に失神するほどの。
 それでもなお殺人鬼は、むりやりスタンドを出そうとしている。ひとつの脅迫のために。
「あの女に、わたしの正体を、言うな」
 人のかたちをした殺意がまた血反吐じみた警告を吐く。この対峙のきっかけは些細なものだった。無力化手術を施された吉良は、意外にも大人しかったが協力的だったわけではない。過去の罪状を追及する問いに返されたのは、「黙秘権を行使する」というひとことだ。そして緘黙しつづけた。
 苛立ちはじめた質問係をなだめようと、今日たまたま同席していた承太郎は、殺人鬼に軽く挑発を投げたのだ。『やれやれ、外堀を埋めたほうが早そうだな。あの奥さんから情報を引き出すか。旦那さんは殺人鬼でしたよと思いきって教えてしまえば、思い当たるふしもあるだろう』……
 殺人鬼の背後に、ゆらりと白い影がぶれた。承太郎は息を詰める。いや……出ない。キラークイーンは発現しない。財団の開発力は確かだ。この男が常軌を逸しているのだ。
「あの女に、わたしの正体をいえば、かならずきさまらを、ぜんいんころす」
 狂気の痛苦にまわらぬ舌の発音はあやしい。だが発音できることが驚異だ。
 なぜそこまで? 今さらの疑問に気づく。そうだ、なぜ、川尻しのぶに正体を知られることを恐れる? かりそめの夫婦を装わねばならない時期は終わった。あの家を出た現在、嘘をつきとおしても得はない。その嘘にまだしも得があるのは……夫が人殺しだとは知らずにいられる妻だけだ。ならば理由はひとつだ。
 ひとりの女の小さな世界を守るために、この男は自分の脳を焼き切ろうとしている。
「…………」
 承太郎は警戒の姿勢をといた。もとより、実際にはいまや戦闘力のない相手だ。肩をすくめて応じる。
「解った。言わずにおくとしよう。だからおまえも無茶な真似をするな」
 吉良吉影は姿勢を崩さない。唇が蒼白に震え、脂汗がしたたりおちている。このままでは限界を迎える。
「率直に言って、おまえは貴重な実験素材だ。解るだろう、その装置を心おきなく使用できるスタンド使いは少ない。ろくに臨床データも溜まっていないのに死なせては損害だ。約束が必要ならば保証しよう。川尻しのぶにおまえの正体は明かさない」
「わたしがこの施設から出られない以上……本当にあの女がわたしの正体を知らずにいられるか、確認する術がない」
 承太郎は少し考えて言った。
「川尻早人に協力してもらおう。『川尻しのぶは夫の正体を知らない』と証明できる言質を、うまく彼女から引き出してもらい、おまえに伝える。それでどうだ?」
 しばらく沈黙したのち、吉良は崩れるように両膝をついた。承太郎は一瞬焦ったが、咳きこまんばかりにぜいぜい喘ぐ殺人鬼の表情に、かろうじて正気の色があるのを認める。
「……いいだろう。わたしが望むタイミングで、母子の会話を録音したテープを提出してもらう。会話内容は、川尻早人がそれとなく母親に『川尻浩作』の話題をふるものであること。川尻しのぶの言葉に、『川尻浩作』が他の何者でもなく、自分の夫であるという認識が含まれること。以上が守られるなら、わたしは自らを苛むような真似はしない」
「職員に通達しておこう」
 その返事を聞いて、吉良はやっと全身の力を抜いたようだった。
 震える膝で立ち上がり、奥にある診察用ベッドに倒れこむ。ものの数秒で気絶に近い眠りにおちた。
 職員たちがバイタルチェックに駆け寄る。承太郎は引き下がり、部屋の壁にもたれて細く息をついた。吉良吉影は……ひとりの女に小さな嘘をつきとおすことを、自らの支柱にしているのか? 現在この男は虜囚の身だ。せめて誰かの世界でだけ、『自由な普通の男』と信じられたい。いわば願望を託しているのか? そうだとして、託す相手の選択にも意味があるのだろうか……。
 承太郎は壁から背を離す。職員のひとりを掴まえて、彼はひとつの提案を伝えた。

 一部始終を別室のモニタで見守っていた広瀬康一は、知らないうちに抱いていた自分の肩を離した。震えが収まらない。思いきり爪を立てたので服に跡が残ってしまった。
 社会見学のつもりで承太郎さんについてきたら、凄まじいものを見せられた。……『財団の施設を見学したい? 願ったりだ。君にはいずれ手伝ってほしい仕事もある。仗助や億泰はいいやつらだが軽率にすぎてね。助手に選ぶなら君が最適だ』……自尊心をくすぐられて浮かれていたが、こんな緊迫した場面を見るとは思わなかった。関係者として同席せずに済んだのはよかったけれど。
 だが10分後、康一はモニタ室に入ってきた承太郎に、関係者として巻きこまれる任務を託されて頭を抱えることになる。



 なにもかもが白い部屋で、吉良吉影は植物のように暮らしていた。
 簡素なベッドと水回りの設備。無個性を煮つめたような床と壁、タイムテーブル通りに明暗する自動照明。ドアは施錠され、監視カメラが全方位をカバーしているが、強化ガラスの窓から空は覗く。許可できる種類なら本を差し入れてもよいと説明を受けたが、特に希望していない。装置を脳に埋められて最初の数日は、この部屋ではなく壁全面がクッション材で覆われた保護室で過ごした。いちおう希死念慮が警戒されたのだ。
 それなりの栄養水準が保たれた、一般的な給食程度の食事。日に何度か行われる取り調べは、暴力や暴言もなく人道的。あらゆるものが自分の意思ではないという前提さえ無視すれば、『平穏な生活』だった。いずれにせよ吉良吉影は、もう何も望まなかった。そのために自分の脳を焼き切ろうとした唯一の意志を除いては。
 その日は珍しい面会人があった。動く感情は残っていなかったが、多少の意外さをおぼえて吉良は瞬きをする。
 白い部屋の入口に立ったのは広瀬康一だった。
「……ぼくは、これから起こることの説明に来た。ええと、どう言えばいいのか……」
 康一は言葉を絞りだす。なぜ、この役目がぼくに託されたのだろう?
 承太郎さんには、君が最適だと言われた。別にぼくは口も上手くないし、交渉事が得意でもない。いまの吉良はただの一般人、というより常に倦怠感に包まれた病人のようなものだ。スタンド能力が必要なほど危険な相手でもない。
「……いいか、約束は守られている。だから早まった真似はするな。驚くかもしれないけど、くれぐれも早まるなよ」
 ベッドに身を起こした殺人鬼が眉を寄せる。こちらの意図を掴みかねているのだろう。くそ、緊張が抜けない。一度は口に靴をぶちこまれた相手だ。
「ひとつ言っておくが、これはおまえのためじゃあない。おまえに責任を取らせるためだ……」
 ばん、と廊下の向こうで別室のドアが開いた。駆けてくる足音。待ってくださいと叫ぶ職員の声。康一は焦って振り返る。まだ早いよ、説明は終わってないよ。
 足音は収容室の前で止まった。この部屋は常に施錠されており、今はドアの前に承太郎も控えている。だからすぐには入れないと踏んでいたが、「やれやれ」という呟きとともに、ドアランプが【閉】から【開】へと変わった。止めきれないと判断した番人が自分のカードキーで開けてやったらしい。
 入ってきた女はぐしゃぐしゃに泣き濡れていた。
 康一はとっさに、殺人鬼へと視線を送る。……この表情をどう形容すればいいだろう? きょとんとした子供のような。呆気なさすぎて拍子抜けしたかのような。ひとたび何かが、無垢な白紙の状態に戻ったかのような。
 廊下を駆けてきた川尻しのぶは息を弾ませていた。部屋の入り口から、意外なほどゆっくりとベッドの夫に歩みよる。
 吉良がなにか言葉を発する前に、ぺしり、とその頬が間の抜けた音で鳴った。
「……な……なにが夫よ……」
 怒りと動揺と情けなさと、なによりも再会の喜びが混じりあい、女は混乱の極みだ。平手は平手とは呼べないほど弱々しかった。せいぜい勢いよく撫でた程度だ。
「大事なこと、ちゃんと話してくれなくて、なにが夫? なにが夫婦? ぜんぶひとりで勝手に決めるなんて……心配もさせてもらえないあたしは何? 思いやりの嘘にも限度があるわ……勝手にいなくなるなんて卑怯よ……」
 吉良の視線が、一瞬だけ凄まじい色で康一に刺さる。おまえたちはまさか――だが少年の結ばれた口元を見て、おおむねの真意を悟る。正体を明かさないという約束は守られているらしい。別の言い訳を被せて。
 ぺしり、と殺人鬼の反対側の頬がまた鳴った。さっきの平手よりもさらに弱い。もっと強く殴ればいいのにと吉良はぼんやり思う。
「あた、あたしがどれだけ、」
 ひたり、とまた向けられた手は、ほとんど顔に触れるだけだった。そのまま離れない。
「何年もないがしろに、してきたから、や、やっぱり嫌われたのかもって、」
 しのぶは感情の濁流に溺れかけている。吉良は息を吐いた。
 頬に触れている女の手を掴む。引き寄せる。倒れこむしのぶを抱きとめて、そのまま自分もいっしょに仰向けにベッドに沈んだ。夫の首に抱きついた妻ははげしく泣き出した。
「……すまなかった」
 赤みを帯びた髪を撫でる手を、康一は見つめる。
 コンサートピアニストのような手だと初対面のとき思った。数多の女性たちをいたぶり、嗜虐のままに殺め、そして今、泣きじゃくる妻の髪を撫でている。
「すまなかった」
 仰向けの姿勢で女を抱きとめた男の顔は、少し離れた康一からは見えない。見えなくていい気はした。その表情はただひとりに向けられるものであったろう。
「いなくなってすまなかった……」

「……つまりおまえは、『体調不良をおぼえて医者に診てもらったら、重篤な脳腫瘍が見つかって余命わずかと宣告され、残される妻子のためを思って姿を消し、ひそかに医療施設に入所した夫』……というわけだ」
 承太郎に教えられたままのシナリオを、康一は説明する。吉良はかるく腕を組んで聞いている。
 夫との再会を果たして少し落ちついたしのぶは、施設スタッフを装った財団員に伴われ、別室に案内された。今ごろは『当施設についての説明』を受けている。口裏を合わせておいた財団員が、既存の治験のシステムに虚実を織り交ぜて、うまく話してくれているだろう。あなたの旦那さまは新しい治療法の実験に志願なさいました。施設のご利用は全面的に無料とお考えください。実験と申しあげるとご不安もおありかもしれませんが、従来の治療法と比べて、余命が短くなるわけではありません……。
「この施設は、特に偽装しなくても、一般人の眼にはじゅうぶん医療施設に見える。ぼくも詳しくは知らないけど、財団は近ごろ医療団体としての側面も強めているそうだ。だからたいして嘘もついてない」
「……脳腫瘍ね、なるほど」
 吉良吉影はやや皮肉に笑う。
「外見上の変化が少ない病気だから、詐称しても気づかれない。一方で予後不良も多い。頃合いをみてわたしの死を偽装し、自然な別れを演出するのは容易だ」
 皮肉気ではあったが、殺人鬼はおだやかだった。いまの吉良の目的は、川尻しのぶという人にできるだけ心的負担をかけないことに向いているらしい。いずれ別れねばならないことは……収容された時点でさすがに覚悟しているようだ。でもだからこそ、彼女に不要な苦しみを与えるのは許せない。
 承太郎さんがこのシナリオを計画したのは、『突然いなくなって二度と逢えない』のと、『別れねばならないが心の準備ができる』のとでは、後者のほうがまだ救いがあると判断したからだ。難しい選択ではある。でも、いっしょに過ごせる時間が増えるだけでも確かにましだ。これは吉良も同意見なのだろう。連れてこられたしのぶさんの態度をみて、確信したのかもしれない。
「……宣告をどうするかは、つい先日決まったそうだけど」
 そう、ましなのだから、康一は言わねばならなかった。
 吉良にこれを伝えることも、彼の任務のひとつだった。
「しのぶさんにした説明は、そりゃあ嘘だ。でもすべてが嘘じゃあない。……おまえに脳腫瘍があるのは本当だ。手術前のレントゲンで財団の人が気づいた。悪性度も高くて、摘出できない大きさらしい。……おまえの残り時間は、お医者さんの見積もりでは、約1年だ」



 吉良吉影の身柄は、SPW財団支部から、S市郊外の関連施設へと移された。
 与えられる環境はこれまでと大差ない。ドアは施錠され、監視カメラが稼働している。ただし部屋は広くなり、ソファとテーブルが置かれた。取り調べは続けられるが、自由時間の拡大は決定した。毎日のように通ってくる女性のために。
 純粋な医療施設にしては警備がものものしくないか、という疑問はしのぶも抱いたらしい。「実験施設のために多くの企業秘密が関わっているのです」という説明に、「じゃあ、ここのことは他であまり言わないほうがいいのね」と納得した。その理解で好都合だった。
 吉良吉影は――静かだった。余命宣告を受けても態度は変わらなかった。
 康一に真実を告げられた直後も同様だ。こいつの諦めの悪さは知ってるぞ、絶望のあまり暴れだしたりしないかな、でも今ならエコーズ単体で鎮圧できる、だからやはりぼく向きの任務だったのかな……ぐるぐる思考を巡らせる康一の前で、殺人鬼は5秒の沈黙をおいて、「なるほどね」と言った。確たる起伏のない声だった。
 そして何事もなかったように尋ねた。しのぶが次にここを訪ねてよいのはいつだと。
 夫に逢うために妻はやってきた。彼女が来ているあいだは、監視員のひそかな同行のもと、敷地の庭を散歩することが許可された。調理室を借りてしのぶが料理をつくり、ふたりで食事をとることも許された。
 しのぶが持ちこんだ本や音楽CD、品のよい小物が、収容室にすこしずつ増えた。なにもかも白く乾いていた部屋に、ぽつぽつと花が咲くように色のあるものが増えた。暖かそうなひざかけが畳まれ、ロートレックのポストカードが貼られた。季節の植物も活けられて、空間はだんだんちいさな家を模しはじめた。どこか小鳥の巣づくりに似ていた。
 ウエッジウッドのカップが置かれそうになったときは、担当者は制止する説明に苦慮した。陶器は割れば刃物の形状にもなる。いまや異能持たぬ病人とはいえ、収監中の犯罪者に渡してよいものではない。施設の食器や花瓶は、すべてプラスチックで統一されている。
 言葉に詰まる担当者の横から、殺人鬼がこともなげに言った。
「……薬の副作用でね、手がたまに震える。陶器やガラス製品は落として割るとあぶないから、この部屋には置けない」
 そうだったの、としのぶは紙に包んでしまい直す。言葉を失っている職員には目もくれず、ふたりはドアの奥に消えた。代わりに数日後には、武骨なプラカップの下に、美しいブループラム柄のコースターが敷かれるようになった。

 川尻早人も、ときどき母親とともに訪れた。
 雑用を頼まれて施設に赴いたある日、康一は少年の姿を見かけた。こんにちはと挨拶され、やあと返したが、ある種の緊張感を抱かざるをえなかった。11歳の男児は、現状をどう受けとめているのだろう?
 かける言葉に困った。でも少年は、心配したよりも割りきった顔をしていた。
「……ぼくの目的は、なによりもママの安全、町の人たちの安全だったから」
 中庭のベンチに座り、紙パック飲料を手にして語る。
「あいつにもうスタンドの力がなくて、しかも病気で死にかけなら、一番の目的は果たされた。……誰かに裁いてほしい、とは今でも思っています。あいつの罪は赦されない。パパとは別に仲良しじゃあなかったけど、意味もなく殺されていいはずがない。……軟禁されて、無害化されて、余命1年。捕まって死刑判決を受けた場合とあまり変わらないかな。ただ、やっぱり、正式に裁かれて判決が下されることに意味があるとも思う」
 力なく微笑んで少年は続ける。
「でも、それは仕方ない。スタンドの存在が世間に知られてないことのせいだから、誰のせいでもない。……杜王町が負った傷は深いけど、これ以上の被害が出ることは食い止められた。うちの生活も、財団の児童基金のおかげでどうにか。あとはママの心だ。ママの心にできるだけ負担がかからない方法を選びたい。せめて心の準備をさせてあげて、ママの小さな世界を守りたい」
 康一は少年の顔を見た。殺人鬼も同じ考えらしいと知れば、この子はどう思うだろう。それともすでに気づいているのだろうか?
「……あいつの部屋には行かなくていいの?」
「もう顔は出しました。ママの手前ちょっとだけ話して、お茶くらいはするけど、あとはいつも詰め所でゲームさせてもらうかそのへんで撮影してるかです」
 首から下げたカメラを示す。写真を趣味にしはじめたとは聞いている。
「だいたい、いちゃつきを見せつけられるのって単純にうっとおしいですしね」
 康一は苦笑した。苦笑していいのだろうとは思えた。



 吉良吉影は静かだった。とても静かに暮らしていた。
 症状は進行しており、頭痛に臥せる時間が多くなった。免疫力の低下から発熱が増えた。体調のよいときを見計らって取り調べは続けられたが、やはり黙秘した。
 しのぶが訪れているあいだは起き出そうとしたが、日によっては難しかった。女は微笑んで、「お茶を淹れるわ」と言った。横になった夫の額に手をおいて、猫のことや、本屋で見かけた絵本のことを話した。週末はときどき泊まりこんだ。カフェ・ドゥ・マゴの焼き菓子を紙皿に盛って、ボードゲームをした。施設は郊外にあり、周囲に町の灯が少ないため夜は暗い。屋上で星を見る日もあります、と康一は職員から聞いた。
 手足の運動麻痺が見られるようになった。立ち座りはともかく、走るのはもう難しい。意識障害がたまに起きるようになり、口数が減った。「迂闊なことを口走らないか危うんでいるのでしょう」と担当医は言った。脳腫瘍の症状には記憶力や判断力の低下も含まれる。会話の矛盾、忘れっぽさなどの認知障害があらわれる。自分が『川尻浩作』ではないことを、うっかり彼女に話してしまわないか警戒しているのだ。
「おまえがまずい内容を口走っても、そちらのほうが譫妄による妄想だと説明しておこう」
 承太郎の提言に、殺人鬼は返事をしなかった。
 意図的な無視であることは、横で見ている康一にも解った。礼くらい言えよ、と苛立ちをおぼえたが、承太郎は意に介さず踵を返した。皮肉だけど、実際いかにも妄想らしくはある。「実はわたしは君の夫を殺してなりかわっている殺人鬼だ」なんて。

 吉良吉影は静かだった。それは死の受容がなだらかであることも意味した。否認も、怒りも、取引も、抗鬱もみられなかった。「もっと荒れると思っていたのですがね」と職員のひとりが呟いた。「ぼくもです」と康一は返した。口には出さなかったが、お互い同じことを考えていたのだろう。それはひとりの女性の貢献によるものだ。
「……ぼく、あの部屋、ちょっと入りづらいです」
 広瀬康一はある日、空条承太郎にそう漏らした。
 吉良をここに収容して以来、康一はこまごまとした雑用を頼まれては施設を訪ねている。内容はたいしたものではない。平凡な買い出しや届けものばかりだが、吉良やしのぶに関わるものが多いと感じている。
「あの部屋とはどの部屋のことだ?」
 錆を含んだ声が聞き返す。本当は解ってるでしょ、意地悪な質問だなあ。
「吉良吉影の収容室です。……ものが増えましたね。たまにいい匂いもする。活けられてる花だったり、施設の調理室でしのぶさんがお菓子をつくってたり」
「生活空間だからな。それがどうして入りづらいんだ」
「生活空間だからですよ」
 康一は唇を曲げた。あまり考えないようにしていたが、意識しはじめると蓋が開く。
「どうしてあそこは生活空間なんですか。なぜ、あいつは暮らしているんです? 偽物の奥さんに付き添われて。平穏な時間を重ねて。48人も殺したくせに。……先日しのぶさんが、庭でお昼を食べましょうと言ってあいつにパンを渡していた。サンジェルマンのパンだ。テリヤキサンドがあった。重ちーくんの好物だったと聞いている。……重ちーくんはある日突然いなくなって、二度と帰ってこなかった。鈴美さんだってそうだ。ご両親や親しい人たちには覚悟する暇もなかった。そうだ、ふたりとも大人になれなかった!」
 跳ねた語尾を抑えて、康一は続ける。
「……天気のいい日に外でお昼を食べることなんか、もうできない。きれいな画集を眺めることも。好きな音楽を聴くことも。それらのどこが気に入ったのか、親しい人に話すことも。誰かと星空を見あげることも二度とできません。なのにどうして、あいつがそれを享受してるんです……?」
「……一般の死刑囚にも娯楽の自由があり、希望すれば家族との面会も許される」
 予想どおりの返答が返ってきた。公平で冷静な答えだ。承太郎さんは誠実だ。康一は泣き笑いに似た表情をつくる。
「……ぼくは重ちーくんを直接は知りません。早人くんも、お父さんとはもともと微妙な関係だったらしい。だからまだしもあいつと顔を合わせられる。でも、もし仮に、あいつの犠牲者のひとりが由花子さんだったら、」
 想像するのも恐ろしい。恐ろしさのあまり率直な言葉が口にのぼる。
「ぼくは、あいつのことなんか何億回でも殺している」
 承太郎は黙っている。黙っているのがこの場合、真摯な態度なのだと康一には解っていた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「……すいません、本当は解ってるんです。吉良にここで最期の時間を過ごさせているのは、あいつのためじゃあない。しのぶさんのためだ。財団はできるかぎり、スタンド犯罪で被害を受けた人々の支援を行っている。吉良をここに収容した結果、一般人であるしのぶさんが、どうしても精神的な被害を受けそうになった。だからせめて和らげている。そうされるべきだ。ぼくが……ぼくの心が狭いだけだ」
「そうじゃあない。自然な感情だ。あの町が喪ったものは大きい。被害者の無念や、遺された人々の痛みは消えない。それは吉良吉影の罪だ」
 承太郎は康一に歩みより、小柄な肩に手を置いた。
「……そうと知った上で、誰の感情も否定しない君は、強くて優しい。やはり君が適任だった」



 1年間――病める殺人鬼に、爪の伸びる周期はついにおとずれなかった。
 吉良邸に残されていた記録から推測するかぎり、彼の殺人欲求は4〜5年おきの周期で発生する。装置を埋めこまれた1999年の夏から、たまたま休眠期に入ったのだろうか?
 でも、広瀬康一には確信があった。休眠期に入ったというより、単純に必要なくなったのだ。殺人はあの男の生命活動の一環だった。迫りくる己の死を、肉体的にも精神的にも感じとり、その必要性が消えうせた。あるいはこの1年間……彼は本当の意味で、ひとりの女性の小さな世界の住人になれていたのかもしれない。
 吉良吉影は寝台から起きられなくなっていた。
 頭痛と高熱がつづき、点滴しか受けつけなくなった。しばしば意識混濁を起こした。でも彼自身が危惧したように、あらぬことを口走りはしなかった。最期まで決して、自分の正体など口走ることはなかった。
 肥大化した腫瘍が脳を侵し、多臓器不全に陥った。血圧と脈拍が這うような低値をみせた。しのぶはここ数日のあいだ泊まりこんでいた。誰の目にも猶予のなさが見てとれた。
 ある夜、2昼夜ぶりに吉良が眼を開けた。おそらく意思疎通ができる最後の覚醒だった。
 別室にいた早人が呼ばれ、念のため承太郎と康一も呼ばれた。スタンド能力の仕組みは未だ解明しきれぬ分野だ。死後になって発動する力がないとも限らない。でも部屋に入った康一は、もう先はないと直感的に理解した。ただ黙って、承太郎や看護士たちと壁際に控えていた。
 寝台のそばに座っているのは、しのぶと早人だけだった。横たわる男の手が上がった。なにかを求めるように空を掴む。しのぶがそっと声をかけた。
「……お水か何かほしい?」
 意外なほどはっきりした声が応じた。
「君の手がほしい」
 かつて幾度も言ったであろう台詞だ。そしてそのどれとも意味が違っていた。
 しのぶは黙って男の手を握りしめた。両手で包みこむように指をからませ、自分の手ごと頬にあてた。痩せた指が動き、女の肌をゆるく撫でた。
 早人は黙って座っていた。ややあって、振り向かないまま小声で言った。すいません、みなさん、家族だけにしてくれませんか?
 承太郎が頷き、ほかの全員が部屋から出ていった。承太郎と康一は念のためモニタ室に控えていたが、ろくに観なかった。その必要もなかった。静かな夜だった。
 ひとりの夫が妻に看取られて亡くなっただけの夜だった。



 片づけはゆっくりで構いませんよ、との言付けをしのぶに伝えるため、広瀬康一は施設の廊下を歩いていた。
 ドアをノックして、貸与されたカードキーをスロットに通す。中に入ると、白かった部屋は元の白さに戻りつつあった。
 収容室にすこしずつ持ちこんでいた生活の痕跡を、女はていねいに箱に納めていた。1輪また1輪、花を摘みとって押し花をつくるように。1年間の暮らしを納めた箱だ、相応には大きい。でも彼らの時間が詰めこまれていると思えば、信じられないほど小さい。
 言付けを伝えると、ありがとうと言ってしのぶは頭を下げた。康一は落ちつかない気分になる。年少の相手に、こんなにきちんとお礼を言ってくれる人はあまりいない。葬儀を終え、最終的な手続きのために久しぶりに施設を訪ねた彼女は、職員たちに律儀に頭を下げていた。心から感謝していた。ここで夫と過ごせたことを。
 背後でドアがまた開いた。振り向けば早人が立っている。
 来てたんですね、と康一に短い挨拶を投げて、少年は母に歩み寄った。箱の中身を覗きこみ、一番上にぺたりと厚い封筒をのせる。
「おかげさまで、1年間でものすごく隠し撮りの腕前が上がったよ」
 瞬きをして、しのぶが封筒を手にとる。中身はすべて夫婦の写真だった。
 中庭で落ち葉をひろう姿。天気のよい日にベンチで食事をとる姿。窓辺でじっと黄昏の山を眺める姿。しのぶ自身も写真は撮っていた。康一もシャッターを頼まれたことがある。でも思いがけない視点から得られた、ふたりの証しだった。
「ばかね」
 少年の母が呟いた。発音が少しおかしい。溢れ出そうなものをこらえている。
「……ばかね……」
 泣かせてあげたほうがいいのだろうか、と康一は迷う。ひとりにしてあげて、心おきなく泣いてもらうべきか? それとも誰かがそばにいたほうがいいのか?
 でも、しのぶはほどなく顔を上げた。
「あなたたちも、いい恋をしてね」
 やわらかい微笑みの奥に、ひとつの芯があった。強い人だと思った。
 彼女の恋は終わっておらず、生きるあいだ静かに続いてゆく。


 承太郎が車を出し、川尻邸まで送り届けてくれるという。去ってゆく母子の姿を見送りながら、康一は、由花子に逢いにいこうと思った。
 学校で毎日のように顔を合わせてはいる。でもそういう日常のなりゆきではなく、わざわざそのために足を運ぼう。なにか彼女の喜ぶものを持ってゆき、眼をみてきちんと渡そう。
 ここに至って康一は、承太郎が、吉良吉影にまつわる一連の任務を自分に託していた理由に気がついた。適任だと言ってくれたのは、ぼく自身のためでもあったのだ。
 ぼくと由花子さんの未来のために。得るものがあるはずだと。
 広瀬康一は瞳を閉じた。おだやかな痛みを意志に変えて、恋をするための一歩を踏み出した。







2019/06/05

本として発行した際につけていただいた表紙 (Pixiv)
 赤い靴 (Dance with Vandalism)
 街角にて (自作表紙)
 いたい嘘 いたくない嘘