熱をもって繋げ/


「殺そうと思って」
 投げられた返答は、彼我の距離に隔てられていたが、奇妙に澄んで聞こえた。

 少女は絶句する。見下ろす視界で少年は、汚れた塊のそばにひっそりと佇んでいる。少女は建物の壁にとりつけられた非常階段に、少年はそこから一望できる小さな庭にいる。
 遠くから人々の歓声が、くぐもった潮騒にならされて耳に届く。十数メートル離れたビーチは海開きを迎えて賑やかだ。でもふたりが対峙している辺りには人の気配がない。少年がいるのはペンションの裏庭だが、整地もされずに遊ばせてあって雑草だらけだ。別の建物に三方を囲まれ、まるでここだけ抜け落ちたような空白地帯になっている。
 そんなところに、知らない子が入りこんでいたものだから。手に抱えている塊を地面に放り投げ、懐からなにやら光るものを取り出したから。地面に投げられた物体が、猫だと気づいたものだから――少女は思わず声をかけたのだった。「ねえあなた、その猫、どうしたの……どうするの?」
 質問に答えたというのに、相手が立ちつくしたままなので、少年は会話が終わったと判断したらしかった。足元に視線を戻す。
「ちょ……ちょっと待って!!」
 少女は叫んだ。慌てて非常階段を駆け降りる。急いで足を動かしながら、少年のほうを何度も覗きこみ、妙な動きをしないか確認する。余所見をしながら階段を降りる歩調は危なっかしい。少年は気負わぬ態度で、地面の猫から少し退がって距離をおいてみせた。言われた以上は待ちますよと表明するかのように。
 階段を降りきり、ブロック塀の隙間を抜け、ものの数十秒で少女は裏庭へ辿りついた。息を切らしながら瀕死の生物を見下ろす。汚れているが毛並みは白、成猫の大きさだ。不自然な角度に曲がった後肢が痛々しい。直視できないほどの酷い外傷はないが、両耳から出てこびりついている赤黒い色は、子供心にもひとつの事実を把握させた。もう助からない。
「あなた、この子になにをしたの!」
「ぼくは何もしていない。車に撥ねられたみたいで、道端に落ちていた」
「じゃ、じゃあなんで……殺そうとしたの。……長く苦しむのは可哀想だと思ったから?」
「違うよ。たぶん、気分がよくなりたかったんだろうね」
 淡白な声が応じる。気分がよく? 猫を殺して?
 少女には二の句が継げない。だが返答の中身と同じくらい寒気をおぼえたのは、相手がまるで他人事のような態で語ることだった。箱庭に置いたおもちゃの演技を説明しているみたいだ。少年の手元に視線を走らせる。尖った金属と見えたものは折れた鉄パイプだった。斜向かいの工事現場に瓦礫や鉄屑なんかが積まれてたっけ、と頭の隅で思い出す。
 少女の沈黙を、説明の足りなさゆえと勘違いしてか、少年が続ける。
「たぶんと前置きしたのは、まだ試したことはないからだ。この猫が表の道路に落ちていたから、いい機会だと考えた。元気な猫を捕まえるのは面倒だし、抵抗されて怪我をしてもつまらない」
「…………なんで、あたしが待ってって言ったら、待ってくれたの……?」
「別に急ぎじゃあなかったから。でも」
 熱のない視線がふたたび地面に落ちる。
「今回はお預けだね。もう死んだようだ」
 さっき見たときは、土埃に汚れた腹が、それでも浅い呼吸に動いていた。今はひくりとも動かない。荒い息を少しずつ整えながら、少女はひたすら対応に困った。
 もしこの少年が目の前で猫を殺したら。激しく弾劾する気でいた。たとえ喧嘩になっても、相手が男の子でも、黙っているつもりはなかった。でも。
 すんでのところで殺害者にならなかった相手には、どんな感情を抱けばいいのだろう。
 懸案たる少年の姿をあらためて眺める。齢は10歳前後、自分と同じくらいだ。ゆるく波打つ淡い色の髪。すこし半眼ぎみだが気品のある目元。襟付きのポロシャツを着た姿は、育ちのよさを窺わせるが、今ひとつ特徴のなさも感じさせる。全体的に色素の薄い印象だ。
「……ね、猫を」
 夏の昼間のさなか、階段を駆け下りてきた自分は汗みずくだが、目の前の少年はまるで植物のように汗をかいていない。居心地悪く感じながら言いつのる。
「猫を殺すなんて、そんなことしちゃあ駄目よ……」
「どうして?」
「どうしてって」
 少女は口籠った。聞き返した少年の声には皮肉も反骨も含まれない。
「……この猫がもし誰かの飼い猫なら、そうだね、所有権の侵害はよくない。ぼくだって自分の物を勝手に壊されるのは好まない。でも観察するかぎり、この猫が人間に飼われていたとは考えづらい。かなり肋骨が浮いているし蚤も多そうだ。探し猫の貼り紙を逐一確認してまわったわけではないから、裏付けは甘いかもしれないけど、」
「あの、そういう話をしたいんじゃあないのよ」
 少年は口を閉じた。気分を害した様子ではない。そうか、ではどういう話なのか説明してくれ。素直に促すだけの沈黙だった。意図が伝わればこそ、少女も困った。これはどういう話なの?
 子供らしからぬ口調から推し量るまでもない。少年は怜悧で、冷静で、思慮深かった。会話の単語選びは、彼女にも理解できないほどではないが選択の水準が高かった。すべての単語にどこか現実味のなさが纏わりついているけれど。
 挑むでも請うでもなく、純粋に結果だけを求めて少年が促した。
「どうして殺しちゃあいけないんだい?」
 どうして●を殺してはいけないの?
 少女は無意識に口元に手をあてる。必死で考えた。時間としては数分だが、人生の中でこれほど真剣に思考を組み立てたことはなかった。真摯さは、しかし、都合よく気のきいた言い回しを導き出してはくれなかった。
「……あ、あたしが、そう思ったから……」
 芸のない言葉。精一杯考えぬいた結果がこれだ。でも言い出した以上は続けねばならず、消え入りそうな声を絞り出す。
「……思った理由は、えっと、いろいろある。ひとの話や読んだ本なんかにたぶん影響を受けてる。でも最後の理由は、『自分でそう決めたから』でしかない。足りない考えかもしれないけど、自分で選んで決めたから。あたしが言うことは、あたしが考えたことであるべきだから。……あたしはお肉もお魚も食べるし、だから絶対に殺しちゃあだめではなくて……可哀想だからとも思うけど、気持ちを確かめられないのに勝手に可哀想がるのはそういえば変な話で……野生動物が自分の子供を殺しちゃうのもTVで観たことあるから、ひょっとしたら押しつけかもしれなくて……でも、単純にあたしが、なにかの死を簡単に扱いたくない。誰かのためじゃあなくて、あたしのため。こう言うと我儘みたいだけど……ていうか本当に、そうね、結局これって押しつけで……でもあたしは、誰かにはなれないから、自分のために行動することしかできなくて……」
 語尾はほとんど蚊の鳴くようだった。思考と言語のかぎりを尽くした結果、己のエゴしか見いだせない。恐らくは永遠の未決議題は、10歳の少女には荷が重い。
 とぎれとぎれの吐露を、少年は黙って聞いていた。無機的に返す。
「どこにでもある答えだね」
 ほら見ろ。薄い肩が羞恥に震える。あたしはつまらない女の子だ。
「どこにでもある、価値のある答えだ」
 声のトーンはそのまま、同じ唇から続いた言葉は予期しないものだった。思わず顔を上げる。男の子は涼しげな態度を崩さない。
「……そうなの?」
「目の前で見ていたが、君は他の影響は認めつつ、そのうえで自分で考えぬいて結論を出した。じゃあその解答には価値がある」
「あの、でも、言っておいてなんだけど、自分ではあんまり正解だと思えないの」
「単純に正解・不正解が存在する問題ではなさそうだけど、仮に不正解だとしても、君が自分の意志で考えたという価値だけは損なわれないよ」
 目が覚めるような思いだった。少年が続ける。
「君はどうやら共感能力が高く、ぼくはそうではない。君の答えはぼくの答えにはなりえない。でも、万人共通の解答なんてどうせはなから存在しない。ぼくは君に尋ねたのだから、合う合わないはさておき、君なりの解答をつきつめたのは正しい。……加えて言えば、中身のない修辞で飾りたてずにエゴを認める公正さや、解決に至らない痛みを抱えながらも意志を貫く姿勢には、そうだね、『自分に対する誠意』が感じられる。自分の正体をきちんと見つめる姿勢は好ましい。いわば芸術作品をつくることにも近い。価値があるよ」
 淡々と語る。抑揚は薄いが、口調には淀みがない。少女はただ意外すぎて瞬きを繰り返した。でも、胸になにか小さな灯がともった気もした。
「少なくともぼくは、君の答えに、共感はしないがひたむきな自我を感じた。……そのせいか、この猫に何もしていないけれど少し気分がよくなった」
 少年が視線をこちらに向ける。ようやく興味を持たれたと感じた。今まで会話をしていたが、何かに欠けていたのだ。
 こんな男の子は初めてだった。同時に彼もまた、自分という初めての相手と対面しているらしいと気づく。自分はまったく非凡ではない。特別な子供ではない。でも初めては、ある日突然、どこにでもあるものに起きる。
 少年が、熱のないままだが今度は思案ぎみの面持ちを、地面の猫に向けた。
「ぼくも考えねばならないようだ。何になるべきか」
「何って?」
「ぼくは殺害者にならなかった。だから恐らく別のものになる。何になるべきか、ぼくを止めた君の意見を聞きたい」
「……ええと……とりあえず今は……あたしを手伝う人になってほしい」
 表情の選択に迷ったが、少女は微笑むことにした。
「お墓をつくろう」

 指針を示してみれば、そのあとは少年が的確な助言をしてくれた。
「ほぼ使われてないようだけど、ここもペンションの私有地には違いないから、できるだけ目立たない場所に埋めよう。軒先の真下は避けたほうがいい。雨垂れで地表が荒れて露出するかもしれない」
「できるだけ陽当たりのいい場所がいいな」
「任せるよ」
 少年は手に持っていた、折れた鉄パイプを差し出す。
「場所を決めたら、これで土を突いて柔らかくしておいてくれ。そのあいだに掘る道具を探してくる」
 言い残していったん去り、数分で戻ってくる。手にはL字型の錆びた金具を持っていた。鉄パイプを拾った工事現場でふたたび漁ってきたようだ。右手の人差し指を舐めていたので、どうしたのと訊くと、妙なかたちの三角形をした金属片が混ざっていて指を切ったという。思ったより痛いが、小さい傷だから問題はないとも。
 猫1匹を埋めきれる穴を掘るのは、意外と手間がかかる。屈みこんでL字型の金具を突き立てる土の上に、ぽたぽたと汗が垂れる。拭いながら掘りすすめる少女の視界のはじで、自分のものではない雫がぽたりと地に垂れた。
 となりを見れば、少年も汗をかいている。たったひと筋だ。表情は醒めたままで、さしたる熱意は感じられない。でもこの子も、陽に照らされれば汗をかく人間なのだ。当然のことをしみじみ思い、不思議な嬉しさにうつむいてひたすら地を穿った。少年の視線が、ときおり言いがたい色を孕んで自分に向けられていたことには気づかなかった。
 他人の敷地に勝手に埋めてしまったので、目立つ墓標は置けない。少女はなるべく綺麗な小石を探してきた。盛った土の上に置いて見下ろす。少年も並んで見下ろしている。祈りの言葉も作法も知らないが、これで充分なのだと思った。
「……そんなとこで何してんだ?」
 声が背後の頭上から降ってきた。
 振り返ると、中高生くらいの少年が、さっき少女がそうしたように非常階段からふたりを見下ろしている。髪を耳の下で長めに揃えており、首にはカメラを下げている。
「なんでもないわ、この子と遊んでただけ。……あたしのお兄ちゃんよ」
 少女は返事をし、後半部分はとなりの子供に囁いた。少年は階段を見上げ、初めましてと慇懃に会釈をする。
「外で遊ぶなら帽子かぶれよ、日射病になるぞ。ふたりとも汗かいてるじゃあないか」
 待ってろ、と少女の兄は屋内にとって返した。すぐに戻ってきた手の中には、2個の紙パック飲料が握られている。
 ほら、真下に来い、と言われて子供たちは階段の日陰に立った。落とされた紙パックを少女がうまく受け止め、うちひとつを少年に渡す。ストローを挿して冷たい液体を吸いあげると内側から甦るような気分になった。
 ふと横を見る。渡したパック飲料はそのまま手つかずだ。同じことに気づいた少女の兄が、真上から声をかける。
「遠慮しないで飲んでいいよ」
「……すいませんが、お返しします。甘いものをとってはいけないと母に言われているので」
 少女の兄は一瞬、瞬きをしたが、すぐに得心の表情を浮かべた。
「ああ……なにか身体の事情かな? そいつは悪かった」
「いえ、持病やアレルギーのたぐいはありません。ただ、甘いものをとるのはだらしないし、頭が馬鹿になるので」
 ぐっ、と少女は口に含んでいた飲料をあやうく吹き出すところだった。寸前で堪えて飲みくだしたが、あまり味がしない。となりの少年を思わず覗きこむ。『好き嫌いをしてはいけません』、なら解る。『好きなものばかり食べるのはだらしない』、なら解る。でも――甘いものをとること自体が、だらしなくて、馬鹿になる?
 節制を心がけさせる文言だとしても、不必要に過ぎた表現ではないか。自分に向けられている鼻白んだ顔に気づいた少年が肩をすくめる。
「気にしないで飲んでくれ。ぼくの母がそう言ってるだけだから」
 彼の怜悧さには似合わない言動だった。ふたりの直上に佇んでいる少女の兄が、言葉を選びつつ話しかける。
「……ええと……強いる気はないけど、甘いっちゃあ甘いがそこまで身体に悪いもんかな……水分をとるほうが先って考え方にはならない?」
「もっともなお話ですね」
 少年はあっさり認めた。それでも手にある紙パックを開けようとはしない。伏せられた瞳の奥に、少女はわずかに澱みを嗅ぎとった。彼自身も言いつけの極端さを理解している様子なのに、それを破れないらしいことに薄暗さを感じた。
 今はいい。せいぜい夏の小一時間だ。でも、もっと生命に関わる渇きに晒された場合でも、この少年は母の言いつけを優先するのではないか?
 未開封のまま飲料が差し戻される。戸惑いながら少女は受け取り、その拍子にかすめた相手の指が、ずいぶん冷たいと気づいた。少年は前に向きなおる。何気なく、口元に指を運ぶしぐさをする。爪を噛む癖があるのだろうか? それ自体は珍しくない、よくある癖だ――
「……吉影さあん……?」
 ペンションの正面入り口のほうから、女性が人を呼ぶ声がした。
 応じて少年が頭を上げる。口元に運ばれていた指が、ものすごい勢いで元の位置に引き戻るのを少女は見た。まるで万引きが見つかりかけでもしたように。
「……母が呼んでいるみたいだ。ぼくはもう行くよ」
 少年は言い、頭上に佇む少女の兄にも再び会釈をした。そのまま余韻なく背を向ける。
「ねえ」
 去りかける背中を思わず呼び止めたが、なんと続けていいか解らない。
 振り返った半眼ぎみの瞳が、睫毛の奥で自分を待っている。とにかく何かを伝えるべき焦燥に駆られ、少女は急いで言葉を継いだ。
「よしかげくんっていうのね。あたしは、しのぶ」
「そう」
 応じた声に確たる成分は含まれない。ただ、一瞬だけ、妙に難解なものを眺めるような眼で見られたのを少女は感じた。当惑したが、それに言及する前に吉影少年はふたたび背を向けてしまう。
 あの子もあんな表情をするのね、としのぶは他人事のように考えた。それが自分に向けられた意味には気づかぬまま。

 少年は裏庭から、隣接した建物と建物の隙間をすり抜けて、ペンションの正面入り口へと向かった。
 母の呼ぶ声が続いている。少し甲高い。あの声に従うことが現状、自分の『平穏な生活』であるのを彼は知っていた。飲みものを勧められるよりもずっと前から、喉は渇きにひりついていた。何か飲みたい。母のもとで母の許すものを飲まねばならない。
 猫しか通らないようなコンクリートの隙間は薄暗い。陽が当たらないので涼しいが、温度差のせいで汗が冷えて寒気がする。それでいて頭はくらくらと熱っぽい。具合が悪いのは、軽い脱水症状のせいもあるが、それだけではなかった。
 脳裏に、土で汚れた少女の白い手を呼び覚まそうとした。錆びた道具をなぞる指。死を撫でるうごめき。でもそれは、それだけで終わらなかった。それだけで完結していれば何の疑問もなかった。疑問なのは、彼女の髪だ。小気味よくさらさら踊って光の粉を刷く髪だ。彼女の声だ。迷いつつ言葉をかたどるおぼつかない声だ。小さなおとがい。血の通ったしぐさ。貝に似た耳朶。瞳。瞳。瞳。夏そのもののような少女。すべてがどこか暑苦しく、小うるさく、なのに不快ではない。
 常ならば、彼が女性を見て胸のうちに切りとるのは、清廉で安寧な一部分だった。美しく完結したしずかな領域だった。なのにあの少女は、情報量が多すぎた。思い起こすたび、いたたまれない痺れが心臓に走って少年は混乱した。
 体調がおかしい理由は、もうひとつあった。彼はさっきから、自分の背後を気にしていた。あとを尾けられているわけではない。自分以外の足音はないし、あの兄妹はまだ裏庭にいるままだ。なのに、まるで誰かがすぐ後ろに控えている気がしてならない。
 行く手にふと視線をやる。大きめの石が転がっている。狭い隙間なので踏み越えていくしかない。別に無理な動作ではないが、足元がふらつく今はちょっと億劫だ。
 消し飛んでしまえばいいのに。
 背後から白い腕が伸びた。
 白い影はそのまま、思わず立ち止まった少年の身体をすり抜けて、前へと進んだ。2メートルほど先にある石に指で触れる。身を引き、親指を立てて、ぐっと押しこむ。
 かちりと彼にしか聞こえない音がして、行く手を阻むものは四散した。

 紙パック飲料を飲み終えて、少女は兄といっしょにペンションの部屋に戻った。
 彼らと両親が滞在しているのは、商店街の福引きで当てたファミリールームだ。まだ陽は高いので、帽子をとったら再び外で遊ぶつもりだった。
 部屋に辿りつこうとしていた兄妹の足が、ドアの手前で同時に止まる。
 抑えてはいるが苛つきを隠さぬ声が中から聞こえる。負けじと応じる不機嫌な声。兄と妹は高さの違う視線を合わせて黙った。いつものことだ。彼らの父母は、不仲だった。
 廊下の真ん中に立っていても仕方ない。きょうだいは足音を殺してドアの左右に立ち、壁に背をつけて待つ。妹は手慰みに長い髪を三つ編みにいじり、兄は首から下げているカメラの点検をはじめる。慣れた処理だ。いずれ両親も落ちつくので、タイミングを見計らって中に入ればいいだけだった。
 宿泊施設の壁は相応には厚い。でも至近距離に立っていれば、さすがに会話は漏れ聞こえてくる。『……だけは達者だな!』『あんたごとき……ないでしょ!』『……か?! 俺はまだ疑ってるぞ!』『……があるなら出せば?!』『開きなおりやがって! 全然俺に似てないじゃあないか!』
 少女の兄が、開けていたカメラの裏蓋をぱちんと閉じた。
 溜息をつきかけたが、伸びをするふりで誤魔化して、となりに立つ妹にぶっきらぼうに話しかける。
「しのぶ、小腹減らないか? 屋台でなんか食べよう。奢ってやるよ」
 自分自身というよりも、気を遣ってくれた兄のために妹は頷いた。
 兄の背を追って廊下を戻りつつ考える。父は自分に対し、横暴ではないがほぼ無関心だ。母は世話をしてくれるが、温度はあまり感じられない。両親の不仲の原因はさまざま存在するが、齢の離れた第二子である自分の存在にもあることは気づいている。でもそこに、自責の念や悲劇性を見出すことに少女は飽きていた。それにすら醒めていた。
 自分が本当にふたりの娘か、そうでないのかは解らない。解っているのは自分が、『愛しあう両親の子供ではない』という事実だけだ。幼いころは理想を求めて悲しみもしたが、少し大きくなった今では周囲が見えている。両親が離婚した子は同級生にも珍しくないし、その子が別に不幸だとも限らない。
 彼らはなぜ別れないのだろう? 続けられないものを無理に装うから歪みが生まれる。世間体が悪いからといって、幸せを演じたい見栄があるからといって、浜辺のリゾート地にやってきてまで言い争うはめになる。少女は的確に分析していた。しかし、現状打開のために彼女自身にできることは何もなかった。
 翌日、ペンションの部屋を引きはらって家に帰る間際。
 少女は非常階段から裏庭を見下ろした。猫の墓として据えた小石はそのままそこにある。ぼんやり眺めていると、視界の中で小さなものが光った。
 不思議に思って階段を降りる。猫の墓の手前に、爪の先ほどの丸いものが落ちていた。拾ってみれば服のボタンだ。素材は貝、筋目の模様があしらわれている。
 昨日の少年が着ていたポロシャツに、こんなボタンがついていたのを思い出す。あの子が落としたのだ。唐突に、彼のことばが甦った。
 価値があるよ。
 少女は立ちすくんだ。
 あの少年に言われて、胸にともった小さな灯を思い起こす。それはまだ消えていない。自ら考え、自ら決め、その意志を貫くかぎり決して消えない。たとえ自分が何者でも。望まれていない子供でも。
 価値があるよ。
 価値があるよ。
 握りしめる熱い手のひらの中で、小さく冷たい感触が冴えていた。その冴えた確かさで、やっと自分が自分になれた気がした。視界が潤んだが、哀しさからではなかった。
 ややあって、少女は目元を押さえて苦笑する。ひどいわ、あたしを泣かせるなんて。その挙句に勝手にいなくなるなんて。ひどいことをした犯人は、必ず見つけ出してやるんだから。
 手がかりがこのボタンひとつでも。



* * *



 犯人探しには意味がない、と少年は判断していた。
 まともな大人が、つい先年までの自分の状況を知れば、きっと同情するのだろう。『君は何も悪くない』と慰めてくるのだろう。彼は幼いころから賢く客観的だった。すなわち、亡き母が自分に強いていた日常が、人道的とは呼べなかったことを知っていた。
 でも同時に、母だけをすべての元凶と見なすことにも疑問があった。庇う感情からではない。しかるべき機関に相談すべきだったのだろう、という感想しか母には持たない。ただ、自分を炙りつづけ今日まで燻してきた火種が、彼女ひとりにあるともなぜか思えない。
 超自然の宿命論を信じるほど夢見がちではない。そうであってなお、由来を説明しがたい内なる渦を少年はもてあましていた。何かが足りなかった。それは幽玄な美術館の奥で貞淑をしめして膝の上に重ねられているのか? それはいつか胸ポケットの奥から可憐な姿でくちづけをねだるのか? とにかく足りなかった。それを得るために自分は、いつか行動を起こすだろうという予感だけがあった。
 そう、犯人探しには意味がないのだ。
 座っている自分の膝の上に、どっかりと載せられた他人のバッグを見つめて彼は思う。
 自分になにかが欠けているとして。そうさせた犯人や、原因を特定してみたところで。欠けたものが手に入るとは限らないのだ。自ら求めるより方法はないのだ……。

 高校生になった吉良吉影は、電車の座席に座っていた。ショルダーバッグを下げた女が目の前に立っている。女はこちらに背を向け、連れの男と話しこんでいる。なので自分のバッグが、背後に押しやった拍子に他人の膝の上に載ってしまったとは気づかない。
 女はおしゃべりに夢中だ。迷惑をかけている自覚すらない。公共交通機関に乗り合わせる以上、ちょっとした不便はつきものだ。足を踏まれる程度は往々にある。でも、だからといって割に合わぬ不快感に耐える義理もない。
 爪の先が疼いた。
 バッグを膝の上から押しのける。女がたちまち振り向いた。ちょっとォ、なに人のカバンさわってんのよ? 男のほうも不審げにじろりと吉良を睨む。構わずに無視したが、ふたりはひそひそと聞こえよがしに話しこみはじめた。スリか? チカンか? ぶっ殺してやるか。
 雑音を聞き流しながら、吉良は視界に入った女の手だけを思い起こす。なかなか悪くない。あまり家事をしないのだろう、所帯くささがなくて愛らしい。欠点があるとしたら、手首の骨の優雅なふくらみの向こうに要らないものがついていることだ。どうすれば完璧な存在にしてあげられるだろう? どうすればやさしく黙らせてあげられるだろう? 純粋な存在に生まれ変われば、きっと彼女も、清い心でぼくに感謝するのに。
 爪の先が疼いた。
「あの」
 張りつめた空気が少女の声で破られた。
 獰猛な高揚に身を委ねていた少年は顔をあげる。でも発言者の視線は、自分ではなく、件のカップルに向けられていた。
「あたし、見てたんですけど。あなたが肩からかけてるバッグが、この人の膝に載っかったんですよ。邪魔だったんです。だから押し出したんです。好きこのんであなたのバッグに触ったわけじゃあありません」
 声はずいぶん硬かった。普段から周囲に首を突っ込むタイプというわけでもないのに、懸命に自分を奮い立たせているらしい。少女は赤みをおびた髪をしていて、着ている制服はぶどうが丘高校のものだった。
「だから、一方的に責めるのはどうかと思います」
 こわばった口調で言いきり、小さく息をついて、こちらに顔を向ける。
「……でも、あなたも、バッグに触る前にひとこと声を掛けたほうがよかったかもね」
 虹彩に映りこんだ陽光がゆらめく。記憶の扉が叩かれて、吉良は軽く眉根を寄せた。
 聞こえよがしに気炎を上げていたカップルの男は、さすがに若い女性に罵声を浴びせるほど野蛮ではなかったらしい。舌打ちしたそうな顔で黙りこむ。代わりに面目を潰された女のほうが騒ぎはじめた。
「はァ? なによあんた。出しゃばらないでくれる? 証拠でもあんの?」
「証拠はないけど、あたしが嘘をついてまでこの人を庇う理由もないでしょう? 公共の場所なんだからちょっと気を遣おうって話です」
 何様のつもり、と女が気色ばむ。吉良としてはもう、うんざりだった。これ以上よけいな目立ち方をしたくない。
 力ある像の名前を心の中で呼ぶ。誰の目にも映らぬ存在であることは、幼少期からの経験で確認済みだ。発現した半人半獣の姿が、女のショルダーバッグの底に指先で触れる。
 ばちん、と皮革が裂けて弾ける音がした。傍目には、不運にもショルダーバッグの底が、何かの拍子で抜けたように見えただろう。ポーチや財布、ハンカチや手帳がどさどさと電車の床に散らばる。力ある像が、その中から財布を、言い争いを遠巻きに眺める乗客たちの足元めがけて蹴りこんだ。小銭やキャッシュカードや免許証をまき散らしつつ床を滑ってゆく。
 慌てて拾い集めるカップルを後目に、吉良は赤毛の少女の腕を取ってささやいた。
「行こう」
 電車は折りよく、杜王駅のふたつ手前のK公園駅に停車していた。目的の駅ではないが、今はこの場を離れるほうが先だ。ちょっと! と女が背後で声を荒げたが、派手にばらまかれた貴重品を放置できはしない。扉はそのまま閉まった。
 吉良と少女はホームで電車を見送る。降車した人々にちらちらと好奇の視線を送られて苛ついたが、杜王駅よりは利用者の少ない駅でまだましと考えるべきだろう。
「……もし急ぎの用事が控えていたなら、無理に降ろして悪かった。でも、君をあそこにひとりで残すのも気が引けてね」
 吉良は女子高生に向きなおって言う。この台詞は嘘だ。
 無視してひとりで立ち去っても後ろめたさなど感じない。でも、もし残った者たち同士でさらに話がこじれたら。つかみあいの傷害沙汰にでもなり、警察の厄介になったら。当事者である自分が後日、参考人として呼ばれるかもしれないのだ。そうしないためには、多少強引にでも事態を収束させる必要があった。
 少女はかぶりを振り、苦笑を浮かべてみせる。
「大丈夫よ。あたしひとりじゃあ降りるきっかけが掴めなかったから、腕を引いてくれてありがとう。……でも、急ぎじゃあないけど用事はできたわ。今、ここで、あなたに」
 意外な申し出に眼を見開く吉良に、女子高生は、学生鞄につけている小さな猫のキーホルダーをとりあげた。布地でできた本体の裏にジッパーがついている。小さなポーチ型のキーホルダーだ。
「……あの女の人には、『あたしが嘘をついてまでこの人を庇う理由はない』、なんて言っちゃったけど……そりゃあ嘘はついてないけど……あたしがあなたを庇うべき理由は、本当はあったの」
 ジッパーを開けて取り出されたものは、爪の先ほどの小さな丸いものだった。
「やっと返せた。『吉良吉影』くん」
 筋目模様の彫られた貝ボタンが、差し出された手のひらの上で光っている。言葉を失っている吉良に、少女は慌てて説明を試みる。
「十歳くらいのときだったかな、杜王海水浴場のそばにあるペンションで、……あ、待って、なんで名前を知ってるかだけど、別に変な手段は使ってないのよ。あなた県の作文コンクールで三位とったことあるでしょ? 図書新聞に顔写真が載ってたし、『よしかげ』って下の名前も一致してたから……ぶどうが丘に入ったときも、つい名簿で名前を探してみたりして……でもたいした意味はないの、軽い幸運さがしみたいな気分よ。帰りの電車が一緒なのも偶然だし、ときどき見かけて、あの人だなって思ってたくらいで、」
 二の句を継げない少年の前で、女子高生は、発言のとりとめのなさを自覚して口籠った。自嘲ぎみに微笑む。
「ごめん、何を言ってるんだかあなたにはさっぱりよね。気持ち悪いって思った? でも、ここでまさか手編みのセーターとか、お重入りのお弁当とかは出てこないから安心して……」
 吉良は黙って差し出されたボタンを受け取る。成長した彼女の手は、ほぼ大人のそれになっていた。となれば良かれ悪しかれ吟味すべき対象のはずだった。でも彼は、その価値をついに計りそびれた。価値は掌に収まりきらなかった。もっと多様に、複雑に、彩り豊かにこぼれおちて、あの日のように彼を混乱させた。
「……客観的に考えて、たいした出来事じゃあないのは解ってる。だから、あなたがあたしのことを憶えてないのは構わないの。子供のころの夏の一日、ほんのしばらく一緒に過ごしただけだもんね。……でも、あたしはあなたを憶えてる。そのボタンはずっとお守りだった。本当にその機会が来るとは思わなかったけど、いつか渡せたらいいなと持ち歩いてた。大袈裟な言い方で驚かせたくはないけど、あたし、あなたに救われたのよ。もし同性だったら、憧れて髪型や服装なんか真似しちゃってたかもね」
 控えめに冗談めかして、少女はその場から数歩後ろに下がった。再会を果たし、ささやかに気を晴らして、落ちついて日常へと帰還する顔をしていた。
「突然いろいろ変なこと言ってごめんなさい。あなたは昔、ボタンを落として、あたしはそれを返した。それだけの話なの。……同じ高校だから、またどこかですれ違うかもしれないけど気にしないで」
 じゃあ、と軽く頭を下げる。背を向ける動作に、特に躊躇いはなかった。当然このまま行かせるべきだ。吉良吉影はそう思う。
 どうやら彼女は自分に対し、ぼんやりとした憧憬を抱いていたらしい。目立たずに生きてきたつもりが思わぬ面倒を遺していたようだ。夢見がちな台詞を聞かされたが、一応、常識的な範疇と呼べるもので幸いだった。彼女自身が喩えたように、軽い幸運さがしの遊戯にすぎないのだろう。子供のころ好きだった本のくだりをときどき思い出すように。
 そして今日、それも昇華された。美しい思い出は、いつしか浮上することも減って記憶に沈む。もし今後どこかですれ違っても、せいぜい会釈をしてくる程度だ。それが望ましい。自分は注目されるのを好まない。もし億劫に感じはじめたら電車の時間をずらせばいい。面倒はたやすく終わる。
 しかし。
 無視できない苛立ちを、吉良は自分の中に認めた。『あなたが憶えていないのは構わない』と、当然のように先んじて言われたことが不満だった。なぜ、ぼくが忘れていると決めつけるんだ? 記憶力には自信がある。ただこの苛立ちは、自分の能力を疑われたことへの不快感ではない。
 なぜ、こちらにとってそれが、忘れてしまえるような思い出だと決めつけるんだ?
「…………君が、陽当たりのいい場所を選んだから、」
 去りゆく姿に言葉を投げる。自分の声がやわらかな刃物になり、彼女を背中からきりひらいて、心臓まで達するのを幻視した。
「今ごろ綺麗な花が咲いてるんじゃあないかな。……あの猫の墓には」
 少女は振り返った。
 若い頬に、可憐な色が差していた。震える唇が開かれて、えっ、とささやくような応答を奏でた。吉良は、もちろん彼女の名前も憶えていた。姓ではなく下の名なので、さすがに不躾だから呼びはしなかっただけだ。
 自分に向けられた瞳が、明らかに引き返せない深みへと転がり落ちてゆくのを、正面から見届けた。逃げそびれたと彼は思い、そうではなくて自ら飛びこんだのだということは、後になってから気づいた。
 吉良吉影の新しい事情はこうして始まった。



「同じくらいの規模のほかの町と比べて、平均の6倍なんだって。意外じゃあない?」
「……ぼくは君が、新聞の犯罪白書に目を通しているらしいことが意外だ」
 ばら売りの胡瓜をビニール袋に詰めながら応じる。ななめ後ろに控えたしのぶが、視界の隅で小さく胸を張る。社会情勢くらい把握しておかないとね、と言いかけたようだが、ちらりと視線を送ると気まずそうにそっぽを向いた。
「……本当のこと言うと、友達の受け売りなの。ひとに怪談聞かせるのが好きな子でね。その一種のつもりで言ったみたい」
「行方不明者や家出人が多いのは由々しき事態だけど、果たして怪談のカテゴリかな」
「もう少しひねれば都市伝説になるじゃない。実は殺人鬼がこの町に潜んでいるからなの、何割かはその犠牲者よ、なんてね」
 吉良は青果売り場の奥へと歩みを進めた。カメユーデパートの地下に入居しているスーパーマーケットは高級志向ラインで、ほかの店より価格帯が高い。そのかわり、酷い混雑もない。母を亡くして以来、学生服姿のまま夕飯の買い出しをせねばならない高校生にとって、人目の少なさは有難かった。後ろに意味もなくついてくる女子高生がいればなおのこと。
 あの日以来、しのぶという少女は、自分の存在をひとつ高次元の位置に据えたらしい。人慣れした仔猫のようにちょろちょろと接触してくる。朝の校門で挨拶をされ、昼の購買で話しかけられ、吉良はその日のうちに、溜息まじりに釘を刺さざるを得なかった――『自分は校内で女子生徒と関わるのを好まない』。
 クラスメイトに察知され、要らぬ囃し立てられをされる前の予防策だった。しょんぼりと去る背中を見送って踵を返す。悪目立ちだけは生来まっぴらなのだ。
 なのに、その日の夕方、早々にこの店で再会を果たしたのはどういう呪いなのだろう?
『……学校の外なら問題はないのよね……?』
 幸運への感謝と拒まれる不安とをこめて向けられた瞳に、彼はなぜか対抗論を失った。実際、クラスメイトに勘繰られるのは面倒だが、彼女本人に具体的な問題があるわけではない。せっかく行きつけの店をわざわざ変えるのも忍びない。
 以来、デパート地下の逢瀬はつつましく続いていた。
『いつもあなたが夕飯作ってるの? お母さん、忙しい人なのかしら』
 そう尋ねられたのは、この交流が三回目を数えたころだ。母は昨年亡くなった、父とふたりで家事を分担している。そう答えると少女は口籠り、『大変ね』と気遣わしげに呟いた。しばらく黙っていたが、急に矢継ぎ早に質問をぶつける。いつもひとりで買い出ししてるの? ご飯を作ってくれる人はいないの? ええと、その、親戚の人とか以外で。
 最後の条件の意味が解らないまま、いないと答える。少女の足取りがあからさまに軽くなったのを察して、吉良は意味を理解した。なるほど、周囲に女の影が見当たらないのを確認したというわけか。
 会計を済ませて出口に向かう。店の外ではお互いそれとなく距離を取るのが、暗黙の了解になっていた。敷地を出る寸前、背後から思いきった声が掛けられる。
「あー……あのね?」
 続く申し出の内容を、吉良はおおむね予測していた。
「前も言ったけど、もしよければ……あたしがお家に夕飯をつくりに、」
「前も言ったが、遠慮しよう」
 口調は静かに、だが最後まで言わせないことで譲らない意思を示す。ん、そうだったね、と応じる声は折れそうに細かった。あまり何度も断らせないでほしいと吉良は思う。自身が把握している理由と把握していない理由、両方の意味で。
 この少女を家に招くことに、どこか本能的な忌避感をおぼえていた。父の眼を気にしているわけではない。夕飯を作ってもらうとしても、せいぜい20時までに帰せば父とは入れ違いになるだろう。亡き母が未だ残す抑圧、なのだろうか、という可能性は自分で疑った。若い女性を連れて帰る行為はあの人の脳内でどう解釈されるのか――原因のひとつではあるかもしれない。でも、それだけで説明しきれない部分もある。
『胸の内ポケットに何を入れているの?』
 数日前、彼女と交わしたやりとりを思い出す。いつものように放課後、このスーパーで落ちあった直後のことだ。
 瞬間、自分を襲った動揺の意味を、吉良は説明できない。反射的に胸に手を当てる。しのぶが小首を傾げる。跳ねあがった鼓動が胸郭を叩く。深呼吸ののち、学生服のボタンを開けて、中身を取り出してみせる。
『ああ、腕時計か。壊れちゃってるみたいだけど』
 覗きこんで彼女が言う。そう、なんの変哲もない腕時計だ。
『素敵な時計なのに災難ね。あたしもこの前、不注意でお気に入りのカップ割っちゃってさ』
 眉間に悔しさを浮かべて語る少女の前で、吉良は平静を装うので精一杯だった。わけが解らない。なぜ焦ったんだ?
 昼食のとき、うっかりこぼした飲み物が手首の腕時計にかかってしまった。機構部分に水が入りこんだらしく動かなくなる。だから外して胸ポケットに入れた。ベルトは平たく畳んでおいたはずだが、何かの拍子でかさばる形に崩れ、学生服の上からでも目立つふくらみになった。よくあることだ。いったい何を焦る理由がある?
 ……どうやら、【内ポケットの中身を尋ねられた事実】に動揺したらしい、と吉良は自己を推理した。彼女に身辺を探られることに……仰々しい表現をしてよければ【正体】を知られることに、なぜか強い抵抗をおぼえる。家に招きたくないのもその一環だ。住む家を知られたくないという衝動はもはや危機感に近い。でもなぜ? 母が存命中ならまだ解る。しかしもう居ない。警察に家宅捜索されても埃ひとつ落ちはしない!
 自分でも持てあます、中身のない焦燥だった。知られれば何かが剥がれる気がしてならない。
 吉良吉影は、店舗の出入り口寸前で立ち止まった。ついてくる気配も合わせて立ち止まる。横顔だけで振り向いて言う。
「じゃあ、また」
 未来を否定しない語尾は、さりとて別に迷惑ではないという意志表示だった。翳りを帯びていた少女の顔がたちまち輝く。猫であれば立てた尻尾が見えただろう。
「うん! また明日!」
 吉良はそのまま足を進める。しのぶは近くを見回し、季節商品の棚を眺めるふりをして立ち止まる。時間差をおいて出るのも無言の示し合わせだった。少年の耳に、入り口ですれ違った男性客が、しのぶに話しかける声が聞こえた。
「おや、こんにちは。そろそろこんばんはかな?」
「え?……えーと」
「忘れちゃった?」
「いま思い出した。今朝、あたしが新聞とりに出たとき、うちの前で犬の糞をふんづけた牛乳屋さんだ!」
 笑い声が弾ける。その節は靴を洗わせてくれてどうもね、と気の良さそうな壮年男性の声が続いた。ありふれた日常が重ねられてゆく。
 歩みは緩めないまま、吉良はわずかに頬を歪めた。
 彼女と接する者はみな、偽らぬ素顔のままの自分なのだろう。当然だ、日常生活の中でわざわざ相手を謀る理由はない。自分だけが意味もなく、奇妙な後ろ暗さを抱えている。底の見えない澱みを隠している。まるで彼女の前で仮面でもつけているかのように。
 つつましい逢瀬から得られる価値の裏で、彼は小さな苛立ちをずっと抱えていた。左手首で、修理を済ませた腕時計が時限兵器めいた几帳面さで時を刻んでいた。

「今日はあたしも買い物するね」
 その日は吉良に続き、しのぶも備え付けのバスケットを取りあげた。理由を求めて視線を向けると屈託なく微笑む。
「最近うちの家族に、縁あって新しい知り合いが増えたの。お世話になった方もいるから、カメユーでお茶菓子やらお中元やら用意してきてってお母さんがさ」
 店内を進む吉良の後ろで、しのぶは問わず語りに指を折って数える。
「ひとりはまだ4歳の男の子で、ときどきうちで預かって面倒みてるの。今のあたしと同じでお父さんがいなくて、その関係で母親どうし知りあって助けあってるみたい。おうちには一応、お祖父ちゃんもいるそうだけど、お仕事がお巡りさんだから……」
「……警察官だと夜勤がある。母親も遅くなる日は大変なのだろうね」
「そう。だから今日は、うちにいるとき出してあげるお菓子を買うつもりだけど、一応その子に好きなもの聞いてみたら『鎌倉カスター』って言うのよ。神奈川まで使いっ走らせようとはいい度胸じゃない、なんて思ったけど、よく聞いてみたら自分じゃあなくてお母さんの好物だからおねだりしたみたい。泣かせてくれるわ」
 吉良は無言で青果売り場を行きすぎた。調味料や乾物を陳列している棚に差しかかる。
「もうひとりは、お兄ちゃんの職場の上司さん。あたしはよく知らないけど、入社以来親身になって面倒みてくれてるみたい。だからお中元送りたいってお兄ちゃんが……ええと、確か、椎茸だけは食べられない人だから避けてくれって言われたな」
 贈答用の干し椎茸を眺めながら呟く。周囲にある品々を見比べるが、吉良が先に行ってしまったのに気づき、急いで素麺の箱をバスケットに突っこんであとを追う。
「最後のひとりは、知り合いっていうか、顔馴染みになった牛乳配達のおじさん。うちの前で犬の糞をふんづけて、靴を洗うのに外の水道を貸してあげたら、お返しにたっぷり試供品もらうようになっちゃった。そのうちお茶くらい出さないと悪いかなって」
「君の周りにはいろいろな出逢いがあるね」
 向けられた言葉を、しのぶは小さな感心と受け取ったらしい。吉良にしてみれば、自分だけが彼女の前で着けている透明な仮面の再確認だったが。
「星の巡りっていうか、誰にでもこういう時期があるのかもよ。些細なきっかけから人との出逢いやものごとが続くみたいに……あたしがあなたと再会したみたいに」
 おずおずと、淡い期待をこめた声が背後から投げられる。
「あの……よければだけど、あなたもうちに遊びに、」
 不意に立ち止まられ、しのぶは学生服の背中に追突しそうになった。
 どうしたのと聞こうとして、相手の視線を追う。数メートル先の商品棚の奥から、ぶどうが丘の女子制服を着た半身がのぞいていた。顔は見えず、向こうもこちらに気づいてない。
 少年は小さく肩をすくめ、また歩きはじめたが、察したしのぶは歩幅をちぢめてそれとなく距離を置いた。『人に見られるのを好まない』というのは以前に聞いたとおりだ。残念だけどこの隙に、鎌倉カスターは無理にしても子供用のお菓子を選んでしまおう。
 別の売り場に去ってゆく背中を視界にかすめ、吉良は前へと進んでいく。陳列棚の奥に立っていたボブカットの少女は知らない顔だった。歩みながらいつもの習性で、品物を持っている手に視線を送る。きれいな手だ。水準の高さに、へえ、と賞賛のざわめきを抱いた。美しく完結したしずかな領域は平穏だった。
 しのぶとの時間に、吉良は、やや疲労を感じていた。自分の語彙では『疲労』と認識するしかないのだが、余人が聞けば誤解を招くだろうかとは思う。疲れは、情報量の多さからきていた。彼女は情報量が多すぎた。当人に問題はない。口数の多い娘だが、黙ってほしいと思ったことも早く帰りたいと思ったこともない。言動や立ち居振る舞いは、若い女性としては平均的だ。
 情報過多だと感じるのは、自分自身のせいだと解っていた。これまで女性と相対するとき、不要として削ぎ落としてきたものが、しのぶの場合はどうしても捨てられなかった。言葉。しぐさ。表情。何を好み何を厭うか。対象を見て思うことは。女性個人に属するそれらの要素は、彼にとって本来すべて不要なもののはずだった。
 ボブカットの少女の手を見て思う。不要なものを削ぎ落とした先に美がある。平穏がある。疲れるなら避ければいいだけだ。最大の疑問は、避けようとしない自分自身だ……。
 吉良は売り場を離れた。しのぶがこちらの様子を窺っているのには気づいていたが、今さら目立たないように合流するのは難しい。そのまま会計に向かう。
 レジを担当した店員は新人で、処理にやや手間取った。時間差で他のレジで会計を済ませてしまったしのぶが、惜し気な視線を送ってきたが、明日もあると思いなおしたように先に出ていった。
 地階からエスカレーターで上がり、1階出口からカメユーを出るとき、赤い髪の後ろ姿をもう一度見かけた。
 英国の伝統ある陶磁器会社のショーウィンドウの前に、買い物袋を提げてぽつんと立っていた。硝子の向こうにはカップやソーサー、ポット類を組み合わせた華やかな一式がディスプレイしてある。『お気に入りのカップ割っちゃってさ』、という数日前の言葉を思い出した。思い出したのは、やはり、不要な情報として切り捨てていなかったからだ。
 思い起こせば彼女は、『夕飯を作ってくれる相手はいないのか』と確認することで、間接的に自分の周りに女の影がないことを探っていた。そして今、自分も確認できている。憧れをこめて高級なカップを見つめている彼女に、割れたからとて新しいものを買ってくれる相手はいないらしい事実を。
 彼は裕福な家の息子だった。毎晩の夕飯の材料を、デパート地下の高級スーパーで賄うくらいには。小遣いも計画的に貯金している。彼女が去ったのち確認したが、カップとソーサー1客程度なら大した額ではなかった。
 またしても好きこのんで疲れることを考えているらしい自分に気づき、吉良は溜息をついた。

 必要なのは理由だったが、定期的に逢うようになって最初のころ、夏生まれだという自己申告を得られている。詳しい日付は知らないが、多少前後するとしても今の季節ならちょうどいい。誕生日の申告は、こちらの誕生日を聞き出したいがための前振りだったので、期待はしていなかろうが。
 難しいのはタイミングだ。いつもの買い物のときに渡すのがもっとも手間がない。だが、思いがけぬものを渡されて浮足立った彼女と、そのあとの時間を過ごすことに抵抗がある。彼女に奇妙な後ろ暗さを抱える吉良は、距離を詰めることにまだ躊躇があった。さっと渡してさっと帰れる状況が望ましい。別れ際に渡してもいいが、イレギュラーな持ち物を提げていれば中身を聞かれるかもしれない。
 いっそ家を訪れて渡したほうが手間がない、と思い至る。いつものデパート地下、話題が杜王町の地理について至ったある日、吉良は試しに『君の家はどのへんにあるんだい』と質問を投げた。たちまち具体的な町名と、目の前にあるという公園の名と、いまいち垢抜けず気に入ってないらしい屋根の色と、玄関先に植えた百合が今年はみごとに花をつけたという情報までもが得られる。呆れるほど容易かった。
 週末、開店直後のカメユーに赴き、カップとソーサーを購入する。優雅なギフトボックスを納めた袋を受けとり、受けとったあとになって根本的な疑問に気づいた。
 自分と彼女はこういった品物を渡すだけの関係にあるのだろうか?
 ……埒の開かない思考に捉われかけ、頭を振って意識を切り替える。今さら問うても仕方ない。購入してしまったのだ。好意を持たれているらしき感触はある、それで充分だろう。
 日曜の夕方、少年は少女の家を目指した。
 目的地が近づくにつれ、だんだんと言いわけが欲しくなる。『近くに来る機会があった』という一言を添えたいがために、吉良は途中にあるベーカリー・サンジェルマンに寄ってパンを購入した。解っている、あらかじめ贈り物を携えている以上、あまり意味のない言いわけだ。自分の迂遠さに自分でうんざりする。今夜は父親が出張で留守なので、このパンは自分用の夕食になるだろう。彼女の存在に、吉良はあらゆる意味で振り回されていた。
 説明を受けたとおりの場所に、説明を受けたとおりの家が建っていた。門前の植え込みにかがみこんでいる人影に気づき、思わず歩みを止める。暑気の中、身を折って懸命に土をいじる姿は、幼いあの日を想起させた。いまは夕暮れで陽は薄れかけているが。
「……やあ」
 声を掛けると、軍手とエプロンを着けたしのぶが顔を上げる。きっかり3秒後に弾かれたように立ち上がった。
 なんで、えっ、あれ、どうしたの?! 裏返らんばかりの声が落ちつくのを待って、吉良は用意していた台詞を並べる。
「近くまで来たので寄ってみた。確かにみごとな咲きっぷりだ」
 スコップや肥料袋、さまざまな庭道具を広げた足元で、白い百合がみずみずしく宵の風に揺れている。戸惑いを引きずりつつも少女が微笑んだ。
「……あ、ありがとう……あの、実は、切ってあなたに持っていこうとも思ってたの。よく水を吸わせれば放課後まで保つし……でも活きたまま見てもらえてよかった……」
 沈黙が舞い降りる。口を開こうとした矢先、少女がほとんど叫んだ。
「そうだ! お茶淹れるから上がっていって!」
 いや、ここでいい、という申し出は、サンダルを履いた足がじょうろを蹴とばす音で遮られた。濡れた道具をがちゃがちゃ拾って玄関先に押しこめる。上がって! と扉の奥から再び呼ばれ、少年は思わず天を仰いだ。順調に予定が狂っていく。
 しのぶの家はあまり広くないが、中は機能的に片づいていた。高校生の娘と社会人の息子が、母親に負担をかけまいと普段から整えているのだろう。落ちついた内装のリビングの隅に、原色を使った玩具が遠慮がちに積まれている。恐らくときどき預かっているという幼児のものだ。
 椅子を勧められ、吉良は腰かけた。来るなら来るって言ってくれれば、でも、そっか、近くまで来たから寄ってくれたのよね……女子高生がぶつぶつ唱えながらしきりに髪を撫でつける。気の抜けた格好をあまり見られたくなかったらしい。
 彼女の手が、薬缶を火にかけ、戸棚からコーヒー粉の袋を出すのを見守る。今だろうか、と吉良は思った。今まさに、飲み物を淹れてもらおうとしている。カップを差し出すなら今ではないのか?
「あのね、お気に入りのカップを割っちゃったって、このあいだ言ったでしょ?」
 内心を言い当てるかのようなタイミングの話題に、開きかけていた唇を閉じる。だが続いた内容は、もっと口を閉ざすべきものだった。
「だけどね、見て! すごいの!」
 目の前のテーブルに、ソーサーに載ったカップが差し出される。完全な形状をした美しいカップだ。
「これ、昨日まで無残に割れちゃってたのよ。すごいでしょ? どこから見ても解らないでしょ? 実を言うとね、直してくれた人がいるの!」
 陶磁器に視線を落とす。ひびひとつ見当たらない。
 新品のものと並べても見劣りしない。物質ではないものが割れる音が胸の底から聞こえた。
「前に言った、顔見知りになった牛乳配達のおじさんに、カップ割っちゃったことをこぼしたの。そしたら、よければ直してみるから預けてみないかって言われて。接着剤でくっつけるだけならあたしにもできるけど、はみ出したら見栄えが悪いし……けど、ほかに当てもないから駄目元でお願いしたの。こんな見事に直してもらえるなんて思わなかった!」
 カップをとりあげて嬉しそうに撫でる。吉良は思う。美しくない手だ、節が目立つし爪のかたちも悪い。
「……詳しくは聞かなかったけど、どうやって直したのかしらね? すごく粉々になったわけじゃあないから、破片の組み方はともかくとしても、接着剤がぜんぜんはみ出してないのが不思議。どんなものを使ったのかしら? 趣味で模型とかやってたりするのかな……」
 彼女の声こそ届いていたし、意味も理解していたが、少年の耳には次第に無感動な音に聞こえはじめていた。脳の奥がしんと氷結して冴えてゆく。すがすがしさすら感じる。五体を縛りつけていた疲労感から解放されたのだから当然か。
 開放感があった。だがそれは、多すぎる情報量を、ついに処理するのを諦めただけにすぎなかった。憤りか自嘲か、苦笑か憎悪か、押しよせるさまざまな奔流を無視することでしか、彼が溺れずにいる方法はなかった。何を抱き、何を抱くべきでないのかも解らないまま、泥濘がふつふつと胸に満ちた。欲しいものがひとつだけあった。それは平穏だった。
「おかげさまで、お気に入りのカップであなたにお茶を、」
「すまないが」
 椅子を引いて立ち上がる音を聞いて、薬缶の火を止めたばかりのしのぶは振り返る。
「急用を思い出した。もう帰るよ」
 そのまま応答も待たず、自分の荷物をとりあげて吉良はリビングの出口へと向かう。唐突すぎて対応しそびれ、少女は数秒ほど立ち尽くす。
 廊下を歩く背中を、慌てて追いかける。玄関で靴紐を結んでいる隙をつかまえて、やっと声をかけることができた。
「あの、ちょっと待って……急用ってそんなすぐに?」
「用事があるんだ」
 たとえ意図的ではなくとも自身の望まぬ対応を取られたが最後、全存在を否定されたようにしか受け止められない。
 それは彼が彼の母親にされていた行為に近しかったが、それを指摘できる第三者はここにはいない。
「君にもう用はない」



 ひとり残されたしのぶは、閉められた扉の前で、伸ばした手の行き場を失っていた。
 できごとの展開が早すぎて把握しきれなかった。訪れてきたのも唐突なら、去っていったのも唐突だ。用事があるという相手を引き留めるわけにもいかない。でも、最後に向けられた強い言葉は何なのだろう。
 機嫌を損ねるような真似をしただろうか? はしゃぎすぎた? 不安に心が惑う。でも、多少舞い上がっていたにせよ、いつもと比べて特に騒がしくしたつもりもない。
 腑に落ちない別れ方だった。時間を取らせて悪いけど、できればもう少し話をさせてもらえないだろうか。
 伸ばした手をドアノブに下ろす。外に出て追いかけるつもりだった。そこで妙なことに気づく。あれ、なんでサムターンキーが濡れてるの? 思った途端、触ってもいないのに勝手にがちゃりと横に回り、【閉】の状態になる。
「やあっと帰りやがった」
 背後から聞こえた声に、息が止まるほど驚いた。
 全身でばっと振り返る。視界に入ったのは、一応は既知の姿だったが、飛びあがった心臓が急には落ちつかない。
「……え、お、おじさん?」
 驚愕と混乱に呑まれながら確認する。つい今しがた話題に出していた、牛乳配達の男性が廊下に立っていた。
 なぜここに? 勝手に入ったの? 奥のテラスから? さすがに無断は駄目よね? というか鍵は? どれから言葉にすべきか解らないまま、ぱくぱくと口を震わせる。
「いいこと教えてやるぜ。これ、接着剤は使ってねえんだわ」
 相手の様子などどこ吹く風で、男は手に持ったカップを眼の高さに掲げてみせる。居間のテーブルに置いておいたはずの彼女のカップだ。勝手に持ってきたらしい。いよいよ何かがおかしい。
「水にも粘度ってもんがある。『水の首飾り』を手に入れて以来、こりゃあ使えるってんであれこれ試してみたんだよ。水飴みてーな固さとか、なんならもっと固くってな。割れ目と割れ目の隙間に水を染みこませて、その部分だけ極端に粘度を上げてくっつける。はみ出た部分は粘度をゆるめて蒸発するにまかせりゃいい。だから綺麗に仕上がるってわけさ。接着剤なんざ使ってねえ。だから、逆に操作すりゃあ、ほれ」
 直っていたはずのカップが、指先ひとつ触れていないのに、ソーサーの上にがしゃんと崩れた。
「口から入って体内から食いやぶるのも同じ理屈さ。身体の中で粘度を高めて、目や耳の穴をぐちゃぐちゃにしてぶち出るときの爽快感ったらねえぜ。あんまし固いものやゴムなんかの伸びるものは破れねーが、ただ溺れさせるよりゃあ気のきいた殺し方だろ?」
 ぎひひと喉を鳴らす。普段なら愛想のよい男の、もはや隠さぬ邪悪さに、女子高生は後ずさりした。逃げよう。後ろ手に玄関扉のサムターンキーを回す。動かない。錆びついているはずもないのに、【閉】の位置から動かない。濡れた感触だけが指に伝わる。男はしのぶの焦りを眺め、裂けたとみえる角度まで口角を上げる。どうしよう? 警察へ? 大声を出そう、そうだ、悲鳴をあげれば、
「……き」
「おっと」
 男の足元にこぼれていた水溜まりが鎌首をもたげて持ちあがり、細長く噴出する。弧を描いてすばやく背後に回られた、と認識する暇もなく、首の後ろに衝撃を感じ、しのぶはその場に昏倒した。



 たいした出来事ではない。そう、たいした出来事ではないのだ。
 吉良吉影は夕闇を歩いていた。大通りから横道に逸れた住宅街は、ちらほらと街灯こそ立っているがその数は少ない。黒い服の少年は夜に溶けつつ道をゆく。
 なにも拒まれたわけではない。軽んじられたわけでもない。状況を客観視できないほど冷静さを欠いてはいない。たかがカップ1客を渡しそびれただけだ。些細な話だ!
 その些細な話ごときにどうしようもなく乱される自分に耐えられない。
 相手に他意はなく、すべては悪しき偶然であり、そうと承知したうえで、吉良吉影は耐えられなかった。自分の無様さに耐えられなかった。見苦しい憔悴。些細な事実に揺るがされ惑わされ、疲労させられる矮小さ。もううんざりだった。そんなものを必要としない自分になりたい。生きて動く予測のできない相手などいらない。
 激しい喜びはいらない、その代わり深い絶望もない、そんな植物の心のような人生を。
 ぎちり、と爪の先が疼いた。
 夕闇を征く少年は、ふと顔をあげた。住宅街の小道から見透かせる明るい通りを、ひとりの少女が歩いている。かきあげられたボブカットの髪を背景に、かたちのよい手が映える。いつだったかカメユー地下で鉢合わせた女子高生だ。
 暗がりから姿を窺う。きれいな手だった。愛らしい小ささだった。しずかで清廉で安寧で、こちらを乱さず侵さず、邪魔にならない存在だった。
 美しいものがほしい。美しいものがほしい。
 ほとんど無意識に、電柱の後ろに身を隠す。そろそろ辺りが暗いので、少女も自衛として大通りを歩いているようだ。でも、住宅街に入るならいずれ道を曲がるだろう。そのとき……いや、焦らなくていい……時間は沢山ある。父は今夜帰らないのだ。なんなら深夜まで待って押し入ってもいい。
 自分が何をしようとしているのか、吉良吉影はそこで自覚した。幼少期から抱いていた、模糊とした欠損がようやく埋まるらしい。思いがけぬ天啓を受け、満ち足りる悦びに震えた。それを天啓とまでも感じた理由が、代償行為かもしれないとは思わなかった。
 予想通り、少女は角を曲がった。暗い道ではやはり気を張っている様子で、早足で自宅らしき家に辿りつく。『杉本』と書かれた表札を眺めて少年は昏く微笑む。やはり深夜まで待とう。道具も調達したいことだし。
 ただ殺すだけ、証拠を消すだけなら、彼には力ある像という心強い半身がいる。だけど少し遊んでみたい。気分がよくなりたい。刃物がほしかったが、店舗での購入はのちのち足が付きかねない。吉良は忍び足で周囲の家を観察して回る。目的のものはすぐ見つかった。田舎はこれだから不用心でいけない、草刈り鎌を軒先に干しておくなんて。
 道具を調達し、立地の下見をし、外見からおおまかな間取りと侵入経路を探る作業は、とても楽しかった。飼い殺された嗜虐が初陣を迎えて猛り、喜々として地を掻くのが感じとれた。時間はたちまち過ぎ、体感としては大して待たなかった。全室の灯りが消えたのを確認してから20分後、少年は植え込みの陰からゆらりと立った。さあ、鬼になろう、心の底をうちあけよう。
 周囲の家から死角になる側の塀に取りつく。力ある像を呼び、膝をつかせて踏み台にする。塀を乗り越えようとして――吉良は思い出す。そうそう、この家には犬がいるらしい。玄関先に犬小屋があるが、夜は番犬として屋内に入れているようだ。うるさく吠えないよう、人間たちより先に黙らせておかねば。やっとここまで来たのだ、繰り返してはいけない。
 繰り返してはいけない?
 心臓がぞくりと掴まれた。
 繰り返してはいけない? 何を? 初めての経験なのに? 犬に裏をかかれることを? そんな経験もないのに?
 動悸が不規則に跳ねまわる。重苦しい警鐘が耳の奥で鳴る。ついさっきまで、血の予感に甘く昂ぶりながらも、頭は狡智に冴えていた。でも今になって思考がおぼつかない。緊張しているのか? 不安定な情動の隙間から、不明瞭な危機感だけが浮上する。それは今夜の行為のみならず、たぶんもっと大きな全体を指していた。
 繰り返してはいけない。間違えるな。間違えるな。何を?
 動悸が収まらない。いったん落ちつくべきだと判断し、吉良は取りついている塀から離れた。心臓を押さえながら植え込みの陰に座りこむ。かさり、と何かが足に触れた。
 自分の私物、カップの箱を納めた袋と、サンジェルマンの紙袋をそこに隠しておいたのを思い出した。もう少し奥に隠しなおそうと荷物を取り上げる。
 違和感をおぼえた。サンジェルマンの紙袋が、妙に軽くはないか?
 サンジェルマンで買ったパンは3つ。それなりの重さになるはずだ。でも重量感が足りない。薄くて軽いものが入っているように感じる。不思議に思い、そっと紙袋を開ける。
 人間の手首が入っている。
 驚きのあまり、しばし声を失う。なぜこんなところにこんなものが? 混乱しつつも、解消されない違和感にはすぐ気づいた。手首だとしても重さが足りない。つまみ出してみて理解する。これは、ただの軍手だ。暗さのせいで見誤ったのだ。
 数時間前のできごとが意識野にひらめく。記憶力には自信があった。門前で庭道具を広げている彼女。軍手をつけている。自分を家に招こうとして、慌ててじょうろを蹴とばし、濡れた道具類を拾って玄関先におしこめた。浸水をまぬがれた道具の中に確か、細かいものを入れるのに転用しているらしいサンジェルマンの紙袋があった。
 そのあとは推測だが、さほど難しくもない。彼女は濡れた軍手を洗濯するために、家に持ちこんだ。しかし来客中に洗濯機は回せない。だからちょっと、あたりを汚さないよう紙袋に入れて、下駄箱の上に置いておいた。続けて自分が、家から出ていくとき、靴紐を結ぶために私物をいったん下駄箱の上に置いた。そのとき取り違えたのだ。重量感の違いには、気づける精神状態ではなかった……。
 吉良はつまみ出した軍手を眺める。手首、なるほどね、と妙な感慨を抱く。先程まで、ここの杉本一家を殺害して、娘の手をその場で愛でるつもりだった。ものいわぬ美しい五指に心の底をうちあけるつもりだった。でも確かに、切り取って持ち歩けば、一晩と言わず傷んでしまうまでは一緒に過ごせるわけだ。切り取るという単純な発想に気づかなかった。このヒントがなければ切り取りそびれていただろう。
 その機会があればの話だったが。
 軍手を紙袋に収め、吉良は立ち上がった。疲労感も、凶暴な高揚も、平穏への飢えも無かった。澄んだしずけさが胸に満ちていた。
 これは彼女のものだ。熱をもち、小うるさく、自分のとなりで笑う彼女のものだ。
 たかが軍手だ。汚れた消耗品にすぎない。失くしても二束三文で売っている。でも、美しく清廉で崇高なものを手に入れるよりも、しのぶにこれを返すことのほうが重要だった。彼女の手を傷や汚れから護るほうがずっと重要だった。
 深夜だが、今から届けに行こう。もう眠っているだろうが、玄関先に置いておくだけでもいい。強い言葉を投げて別れてしまった。せめてそれを和らげる役目も果たすだろう。
 少年は自分の身体を見回す。人の立ち入らぬ隙間に入りこみ、座りこんだので、あちこち砂埃だらけだ。叩いて払い落としていると、邸内から犬の唸り声が聞こえた。
 硝子ごしに照明がついた。からからと窓が開く。眼光鋭い番犬をそばに従えながら、ボブカットの少女が緊張した面持ちで戸外を窺う。
「……誰かいるの?」
 小道に立つ吉良は居住まいを正した。杉本家の敷地からはすでに適度な距離をとり、不審ではない印象を心がけている。
「……すみません、夜分に妙な音を立てまして。ものを探していたものですから」
 言い訳は考えていなかったはずだが、すらすらと言葉が出た。
「ここで鍵を落としたと思ったんですが、思い違いでした。よそを当たります。ご迷惑をおかけしました」



 視界の遠近感がおかしいな、と思う。
 でも、実はおかしくなかった。意識のない状態で椅子に座らされ、脱力するまま首を折って項垂れ、その姿勢で目を覚ましたせいだ。自分の膝が不自然なほど近くに見えるのは、実際にそこまで眼を近づけているにすぎない。
 ゆっくり頭をあげる。一定の角度まで上げた途端、ずきりと首の後ろに痛みが突き刺さる。呻き声を漏らしたつもりだったが、もごもごした不明瞭な声しか出なかった。
 しのぶがいるのは自宅の居間だった。うっかり寝てしまったんだっけ? 立ち上がろうとして、動かない足と、背中側に回されている手に気づく。座った姿勢のまま足首を椅子の脚にくくりつけられ、両手を結束されている。
 状況が理解できない。首の痛みをこらえてあたりを見回す。目につくかぎりの引き出しが開けっぱなしだ。買い置きの菓子や飲料がテーブルに食い散らかされ、まるで誰かがくつろいでいたような痕跡がある。書類入れの中身が床に散乱しており、奥の部屋から、ごそごそ何かを漁る音も聞こえた。
 奥にいる人物が立ち上がる気配がした。こちらに歩いてくる。居間に入ってきた壮年の男が、よう、と気安い挨拶の声をしのぶに掛けた。
「現代日本でよォ、民家への押しこみ強盗はわりに合わねえんだわ。せめてコンビニくらいじゃねえとなあ」
 ぶつぶつと漏らしながら、引き出しごと持ってきた母の箪笥の中身を床にぶちまける。そばに座りこみ、慣れた手つきで物色をはじめる。
「貴金属は転売しようにもあっという間に足がつきやがる。スタンダードに預金通帳と印鑑、といきたくても最近は持ち歩いてるやつが多い。嬢ちゃんの財布は部屋か? でも高校生が貯めたけなげな小遣い、手ェ出すのは心が痛むぜ。やっぱこの家で期待できんのはクローゼットの金庫くれえだな。暗証番号は嬢ちゃんの爪でも剥がして聞き出せば……待てよ、考えてみたら、子供にわざわざ番号教えねえか? もしおれがガキなら速攻くすねるもんな。隙間から入りこんで内側から開けられるタイプならいいがよォ、面倒くせえな」
 混濁を引きずる脳裏に、理解が、雪のようにだんだん降りつもった。遅れて恐怖も。
 意識を失う前のことをやっと思い出す。弾かれたように身をよじる。でも、無益にがたがたと椅子が鳴るばかりで拘束は緩まない。叫ぼうとする。くぐもった声しか出ない。口に感じるこわばりに、粘着テープで塞がれていると今さら気づく。
「ま、今回の主目的は強盗じゃあねえけど。嬢ちゃん、おめえはちょっとおしゃれな前菜ってやつだ」
 上機嫌な笑みが向けられる。つい先日まで人の好い配達員だと思っていた顔だ。
「おれが杜王町に戻ってきてけっこう経つが、懐かしの東方巡査へのお礼参りを忘れてたぜ! 見つけたときはさーてどうしてくれようと思ったが、全然こっちに気づかねえし、あまりにも簡単に殺れちまいそうなんで、どうせならいっちょ遊ぶかと思ってなァ。リボンで頸を絞めあげてお花をおめめにぶっ刺した顔見知りの死体を、きれーな箱に詰めて送りつけるなんてどうよ?」
 腕を広げて語る。息子への誕生日プレゼントを計画する父親のように。
「映画でも何でもそうだが、伏線は解りやすすぎちゃあ失礼だ。初手はあえてまわりくどく、【知り合いの若い娘】くらいが最適だろ? たとえば孫の面倒をときどき見てくれる女子高生とかな。なぜこんなことを、なーんて痛ましい顔をしてる最中に、次はてめえの娘がラッピングされて送りつけられる。いよいよ愕然とするわけだが、駄目押しでてめえの孫をプレゼントだ! どのへんでおれの仕業だと気づくかねえ? なんにしても、絶望の淵に首まで浸かってからくたばってくれねえとなァ」
 呵々と笑う声は心から楽しそうだった。言ってることが理解できない。現実味がない。理解したくない。
 肺が固まってうまく息ができない。ひきつった呼吸音を漏らす。冗談でしょう? ちょっと笑えないわ? 目の前の男が、ふと手を止めてしのぶを見る。狂人の眼ではなかった。筋道だてて論理を組み立てる常人の眼だった。すべて本気だった。
「あ、もしかしてあれか? 貞操の危機ってやつ感じてるかァ?」
 男は眉を下げ、呑気にうーんと苦笑してみせる。道化てすらみえる態度だ。
「別になァ、犯ったっていいんだが……メスガキは存外つまんねえんだよ。だってほら、嬢ちゃんがさっそくそういうの案じちまってるだろ? 予定調和に乗っかるのって面白みがなくねえ? わざわざ縛りつけたのは、金庫の暗証番号聞こうと思ってたからだぜ。心をへし折るって意味じゃあ、オスガキを犯るほうが断然愉しいもんよ」
 うっとりと過日を浚う表情をする。脱獄してきた連続殺人犯は、かつて自らの死刑判決を招いた所業を思い浮かべていた。
「阿呆まるだしのオスガキも、身体を拘束されりゃあさすがに、『あれっボクもしかして生命の危機かな?』って顔はする。でもまさか、自分が犯されるなんざ露ほども危惧しちゃいねえ。この国のいけねえとこだよなァ、米国みてーにちゃんと、男児にも女児にも分け隔てなく危機管理を教えたほうがいいんじゃねーの? まあとにかく、せいぜい生命の危機しか感じてなかったやつをひんむいて、急転直下ぶちこんでやると、この世の終わりみたいなものすげえ声で喚く。そのベキベキ心の折れる音はちょっと癖になるぜ」
 語り終えると、男はあらためて腕組みしつつ女子高生をじっくり眺める。親切かつ無慈悲な値踏みをこめて。
「嬢ちゃんが処女のまま死にたくねえタイプなら、犯ってやってもいいが……そういうリクエストの顔でもねえな。んじゃまあ清い身で死になよ。手始めにだ、東方巡査に送りつけるとき、でかすぎると箱に入んねえから、これから手ごろなサイズに切」
 ぼん! と音がした。
 饒舌に動いていた男の口が止まる。その頬に、赤黒い飛沫が跳ねた。男は差し出していた自分の右手をまじまじと見つめる。手の甲が半分と指が二本、吹き飛んでいる。
 部屋の中に、いつのまにか風が吹いていた。居間に面したテラスの戸が開いている。男としのぶが、テラスの人影を認めるより早く、ぴしりと小さなものを投げつける音がした。ぼん! と再び音がして、男がその場に片膝をつく。右足が爆ぜてちぎれかけている。
 テラスの奥から少年が、夜から溶け出るように現れた。
「て……め!?……てめえもそれを?!」
 壮年の男が、少年自身ではなく、彼の背後を見て叫ぶ。でもそれに気づける余裕はしのぶにはない。彼女はただ、少年の表情を見ていた。憤怒や殺意をもはや凌駕した、無彩色の顔だった。相手を抹消する意志のみで練られた生物だった。
 がああ、と男が激痛に吠える。床の水溜まりから細長い渦が生じ、少年へと躍りかかる。でも五体を欠いたばかりの身では狙いが正確に定まらない。標的の頬だけを空しくかすめる。少年は避けなかった。見切っていたというより、躱すつもりがなかった。一歩一歩近づきながら、手のうちにある小さな石をぴしり、ぴしりと弾く。左肩が爆ぜ、こめかみが爆ぜた。脇腹が爆ぜたときは滑稽なほどきれいな穴が開いた。
 ぐぐ、と唸り声を漏らして倒れかかる、ぼろ布のようになった男の頭髪を掴んで見下ろす。少年は「死ね」とすら言わなかった。消す。無くす。取り除く。
 ぼん!! とひときわ大きな音がして、跡形もなく男が爆散した。
 吉良吉影は、拘束されているしのぶのほうを振り向いた。床に散乱している物品からカッターナイフを拾い、足首を縛る粘着テープを切る。後ろ手に縛る針金を解く。口を覆うテープを剥がす。椅子から引き起こして立たせる。
 そのまま強くかき抱く。
 ただ密着することに必死な、きつい抱擁だった。水中から陸へ上がったばかりのような、乱れて震える呼吸がしのぶの耳に届いた。力の加減ができないらしく、身が折れるかと思うほど強く抱きすくめられた。でも、しのぶは怖くなかった。もう怖くなかった。
「……う、」
 もういいのだ。大丈夫だ。来てくれた。ここなら泣いてもいいのだ。
「……うう、ええ……うええええ……」
 感情が弱々しく堰を切った。大声で泣きたかったが、未だ引きずる怯えが喉元を硬直させてかぼそい声しか出ない。それでも声を出して泣く行為は、恐怖に凝った心身を少しずつ解きほぐしてくれた。
 泣きじゃくりながらずるずるその場に座りこむ。少年も合わせて座りこみ、頭を胸に押し当てて撫でてくれる。涙が溢れて止まらなかったが、同時にこびりついた何かも洗い流された。手を握ってほしくなり、少年の手の甲に指を添わせたが、そこだけはなぜかそっと引かれた。代わりに肩をしっかりと抱かれ、より得られた体温に安心したので、しのぶはそれ以上は意識しなかった。
「身体にどこか、痛みや異常のある部分はないか」
「……だ……大丈夫……」
「会話の最後の部分も、聞こえてはいたが、……大丈夫か」
「ええと……大丈夫……」
 着衣に乱れもなく、違和感もなく、おぞましい話だがいわば言質も取れている。再び背筋に怖気が走り、しのぶは改めて吉良の胸にとりすがった。
「な、なにが起きたの……?」
 荒事が起きた証拠である血痕と、そのくせ肉片ひとつ残っていない床を見下ろす。男の身体が、弾けて消滅した、と彼女には見えた。
「……さあ、何だろう。迷惑極まりない話だが、爆薬のたぐいでも身体に仕込んでいたのかもしれない。妙な言動があったのなら、薬物の影響も考えられる」
 しのぶが少し落ちついたのを見計らって、吉良は家の中を見回した。
「君の家族は?」
「おかあさんは、旅行中……月曜まで帰らない……お兄ちゃんは、今夜は友達の家に泊まり……」
 言いながら、牛乳配達の男性に、そういえば家族の週末の予定を話したことを思い出す。留守を狙っての計画的な行為だったのだ。
「お母さんの旅行は遠出か。お兄さんの友人の家はS市内? じゃあ帰ってこれるな。連絡先は控えてあるか?」
 しのぶが、冷蔵庫に貼ってあるメモを指した。吉良はそれを確認し、キャビネットから電話の受話器を取り上げる。深夜だが、緊急である旨を告げて取り次いでもらう。
「……夜分に申し訳ありません。妹さんと同じ高校に通っている吉良と申します」
 ひと呼吸置いて、過不足なく説明を始める。お宅に不審者による住居侵入がありました。窃盗未遂に加え、妹さんが傷害未遂に巻きこまれたようです。未遂でしたが、ショックを受けて怯えているので、帰宅してそばについて差し上げてください。不審者は……うまく説明しづらいのですが、少なくとも現在はここにおりません。ぼくは、夜半に失礼かとは思いましたが、取り違えた品物を門前に置いておこうとお宅にお邪魔し、住居侵入を目撃しました……。
 妹の声を聞かせてくれと請われ、吉良はしのぶに受話器を渡す。
「あたし。……うん、いちおう、大丈夫…………吉良くんは学校の知り合いで……20分程度ね、解った。……そうしてもらう……」
 電話を切り、しのぶは小さな声で伝える。
「タクシーですぐ帰るって。吉良くんが信用できる子なら、自分が帰るまでは居てもらえって」
「……酷い散らかりようだ。お兄さんが帰ってくるまで片づけよう。君は座っているといい」
 後始末までさせるのは悪い気もしたが、手伝おうにも、まだ少し手足が震えている。しのぶは大人しく従うことにした。
 本当は部屋の片づけより、もう少しそばに寄りそっていてほしかった。でもその意志をこめた視線に、彼は気づかなかった。むしろ遠慮に似た空気を感じた。なぜだろう、さっきは抱きしめてくれたのに……自分が少し落ちついた段になって、彼のほうが含むものを抱きはじめたようにも見える。
 家の前で車の停まる音がした。玄関ドアが開き、やや着崩した格好の男性が、足早に居間に入ってくる。
「しのぶ!」
 吉良は片づけの手を止め、男性に軽く頭を下げた。あのころの面影が多少あるな、と顔を見て思う。少女の兄のほうはさすがに吉良を憶えていなかったが。
 ソファに座っていたしのぶは、兄を見てまた少し涙ぐんだ。大丈夫かと聞かれて何度も頷く。肩をさすってやりながら、男性は吉良に視線を向けた。
「君が電話をくれた子か。ええと、不審者は君を見て去ったのか? 助けてもらったことになるのかな……?」
 礼を言うつもりではあるのだろうが、深夜に妹ひとりの家を訪れた相手への警戒が、わずかに覗いている。仕方あるまい。別の意味では事実でもある。
「……夕方ごろ、妹さんを訪ねてお邪魔したのですが、荷物を取り違えました。中に、このお宅の軍手が入っています。恐らく玄関に、ぼくが買ったパン入りの同じ袋があるでしょう」
 サンジェルマンの袋を見せて説明する。指摘どおりのものが、下駄箱の上に置いてあった。納得を得た少女の兄が、本当に世話になったと頭を下げる。
「軍手は門前に置いて去るだけのつもりでした。結果的にはお役に立てましたが、ともすればこちらが不審に思われる真似をして申し訳ありません」
 淡々と詫びる。そんなことないわ、ありがとう、来てくれてありがとうと繰り返す妹を見て、兄はほぼ完全に信用したらしかった。
 戸締りの点検をしてくる、と少女の兄は家じゅうを見回りはじめる。正直、力ある像を持つ者にとって通常の防犯はあまり効果がないが――物音と人影に疑念を抱いた吉良が、たやすくテラスから侵入したように――確率から考えればレアケースだ。普通の犯罪者への対策は、しておいて損はない。
「ぼくはそろそろ帰るよ。あとはお兄さんがいるだろうから、安心して休むといい」
 立ち上がる吉良に、玄関まで見送るわ、としのぶが立ち上がった。顔色は悪いが、普段の調子を取り戻しつつあった。
「……本当にありがとう。あたし、またあなたに救われた……」
 玄関の土間に立つ少年に、ひときわの思慕をこめた瞳が向けられる。吉良は黙って少女を見つめた。信じきっている。目の前の男が着けている仮面にも気づかず。
 なぜ彼女に、【正体】を知られたくないという抵抗をおぼえたか。なぜ後ろ暗さを抱えていたか。彼はもう、その理由を自覚していた。
「じゃあ……また明日ね」
 また明日、と、返したかった。そうしてはいけなかった。
 気取られぬように深呼吸する。どう告げればいいだろう。「おやすみ」と?「さよなら」と? 怪しまれずに身を引く言葉を探した。でも、答えを見つける前に、唇が勝手に内情を吐いた。
「――――……ぼくに触るな」
 しのぶが瞬きをした。彼女は別に、手を伸ばしてすらいなかった。言葉とはうらはらに、口調は静かで、だが切実だった。少年が、自らの迂闊さを悔やんで唇を歪める。そのまま背を向けて扉から出てゆく。
 しのぶには意味が解らなかった。そういえば、と思う。彼が手にしていた私物は何なのだろう。うちに入ってくる前にテラスに投げ置いたらしく、部屋の片づけのとき回収していた。取り違えたサンジェルマンの紙袋ともうひとつ、なんだか箱の入った袋のように見えたけれど。



 兄と妹は、翌朝話しあい、今回の件は母には言わないことに決めた。
 心労はかけたくなかったし、ともあれ無事ではある。兄が不審者の行方を気にするので、しのぶは見たものをそのまま伝えた。男の身体は目の前で弾けて消えた。言動に不審なところもあったし、爆発物を腹に巻いていたのではないだろうか……。多少の疑問は抱きつつも兄は頷き、今後はより防犯を意識しようと言った。人と親しくなるのはいいが、不注意なことを話してしまわないようにとも。
 血痕で汚れたカーペットは、漂白剤でしみ抜きをすれば母に気づかれない程度まで薄まった。月曜の午後、遅刻してしのぶは学校に行き、彼女の日常を取り戻した。
 そのはずだった。
 カメユー地下のスーパーマーケットで、いつものようにしのぶは吉良を待った。少し遅いなと思いながらも待った。時計が19時を超え、彼女は困り始めた。さすがに遅い。家の門限はもっとあとだけど、昨日のこともある、早めに帰らないと兄が心配する。後ろ髪を引かれたが今日は帰ることにした。たまたま用事が入る日もあるだろう。
 次の日も待ったが、来なかった。次の日も来なかった。見つけやすいように、見つけてもらいやすいように店の真ん前に立っていたのに逢えなかった。その次の日は、あらかじめ兄に「店まで迎えに来てくれ」と言付けて、カメユーが閉まる21時まで粘った。
 やはり来なかった。
 彼が、学校で普段通りの生活を送っていることは確認している。いつもの電車に乗り、授業をこなし、いつもの電車で帰るのを遠くから見ている。放課後はどうしているのか、あとを尾けたい衝動に駆られたがさすがに憚られる。幸か不幸か、答えはすぐに得られた。日直の仕事でやや遅くなったある日、電車の窓から、買い物袋を提げて歩いている吉良の姿を見かけたのだ。袋に書かれているロゴは、カメユーではない店舗のものだった。
 避けられて、いるのだろうか?
 何らかの理由で買い物先を変えたが、自分に黙っていたのだろうか。言う必要は、ないといえばないけれど……。学校内では話しかけないという不文律は破れない。その隙も見せてくれない。しのぶは悩んだ。でも、哀しみに惑うよりも先に、解決すべき違和感があった。
『ぼくに触るな』
 あのとき遺された言葉の意味が、未だに掴めない。型どおりに取るならば拒絶だ。心が冷えかける。でも、さすがに唐突すぎないだろうか。あの晩、偶然とはいえ危機に駆けつけて抱きしめてくれた人の台詞としては、繋がらないし不自然ではないか……。
 自室でもの思いに耽っていたしのぶは、ふと学生鞄に目をおとした。持ち手に猫のキーホルダーがついている。ブルーグレーの毛色をした、小さなポーチ型のキーホルダーだ。
 長年ずっと、彼の落としたボタンをお守りとして入れていた。信じる対象の威光をわけてもらう品物が『お守り』だとしたら、その対象と話せる立場になったので、品物自体は無くても大丈夫になった。
 彼女は瞳を閉じた。遠い記憶を浚う。あの夏、彼のことばで胸にともった灯を思い起こす。それはまだ消えていない――自ら考え、自ら決め、その意志を貫くかぎり。
 数分後、開けた瞳の奥には小さな決意がたゆたっていた。考えてみれば、まだきちんとお礼もしていない。

 吉良は、月曜の時点で、しのぶが無事に登校してくるのは確認していた。
 以降、滞りなく学校生活を送り、帰路につく姿を遠くから把握していた。それでよかった。もう関わりを持つ気はなかった。向こうが自分の挙動を窺っているのも知っていた。でも応える気はなかった。
 ある朝、吉良は彼女が登校してくるところまでは確認した。だが午後の教室移動のタイミングでは見かけないことに気づく。自分の教室の窓から、渡り廊下をゆきすぎる姿をいつも眺めていたはずなのだが。別の通路を通ったのか。早退したのか。たまにはあることだ、気にかけるほどではない。感情が起伏するよりも早く、些細なことには動じない『植物の心』を思い描いて自分に反映させる。自己コントロールは上手くいっていた。
 放課後までの話だったが。
 授業を終え、下校するために校門に向かう。近ごろ役職についた父は、また出張が入っており今夜も帰らない。ひとりの夕食の場合、献立はいくらか簡素なもので済ませている。ただ、健康と精神安定のためには適度なバリエーションを保ちたい。何にしようか。
 校門を出て駅の方向に曲がるが、数メートルも行かずに立ち止まる。彼女の姿を見かけなかった理由を吉良は悟った。午後の授業をわざわざ早退して買いに行ったのか。
 校舎の塀に背中をつき、食材を入れたビニール袋を提げたしのぶが立っていた。
「……茄子の味噌炒めと、冷やしすまし汁でいい?」
 異存はなかった。

 初めての家の台所は使いづらくないだろうか、と女子高生の背中を見て思う。
 ときどき「お醤油はどこ?」「生ごみはこっちのバケツでいいのかな」と尋ねられる。そのつど教えるのは、手間でこそないが少し気を張る。でもしのぶは自然体だった。慣れない場所を慣れないなりに使いこなそうとしていた。
 調理にとりかかる前に、今夜は父親が帰らないので1人分でいいと告げた。しのぶは少し考え、「材料を2人分買っちゃったから、作るだけ作ってあたしも一緒に食べていい?」と聞き返してくる。少年は曖昧に頷いた。
 料理ができあがり、和室の大きな卓袱台に並べられる。
「少し早いけど、温かいうちに食べてしまいましょう。あと、今夜は夕飯いらないってうちに連絡したいから、電話借してもらえる?」
 廊下に備えつけてあると教えると、しのぶは部屋から出ていった。吉良は卓袱台を見下ろす。野菜の切り方がやや不揃いだが、美味しそうだ。切り方のまずさは、緊張というより単なる不慣れからなのだろう。一緒に帰宅して以来、この家の住人である自分より、彼女のほうがよほど落ちついている。
 しのぶが戻ってきたので、ふたりは食べ始めた。特に会話はないが、気まずさは感じない。この吉良邸で、向かいあって食事をとる空気は、不思議な新鮮さと不思議な自然さで彼らの感覚になじんだ。
 自分のあと彼女が食べ終わるのを待ち、ごちそうさまと告げる。お粗末さまでしたと返された。間を置かず、「話があるの」と切り出される。そうではないかと思っていた。そのために家に上げたのだ。
「……どうして、買い物するお店を変えたの?」
 想定していたはずの質問に、解答を用意できなかった吉良は黙った。逆にしのぶが気遣うように苦笑する。
「あたしに事前に言う義務は、うん……ないわよね。でも、言ってほしかったな。もし迷惑だったんなら、はっきり言ってほしかった。迷惑にならないように努力するから。それでもどうしても駄目なら、」
 少女が俯いた。声の震えを隠して続ける。諦められないけど、諦めるから。見ているくらいは許してほしいけど、それ以上は何もしないから。黙って突然いなくなることだけは、してほしくなかったな……。
 少年は、言葉を選ぼうとした。事実を隠したまま理解を求め、かつ要請を容れてもらう台詞を構築しようとした。だが不可能だ。理由を言わないかぎり彼女は納得しない。
「……ぼくは君のそばにいるべきではないし、君はぼくのそばにいるべきではない。理由はすべてぼくに帰結する」
 自分が冷静であることを吉良は確認した。心を平らに保つ。
「端的に言おう。ぼくは、君を拘束して殺そうとしたあの男と同属の生き物だ」
 着けていた仮面。隠していた正体。だがその事実を、冷静に語ることができる時点でやはり同属なのだろう。
「他者を痛苦と恐怖で虐げ、殺して無に帰すことに悦びをおぼえる生き物だ。生命を冒涜することに快楽を得る種の生き物だ。そのことに罪悪感も抱かない。学習した社会性を纏うことができるだけだ。倫理を理解はしても、実感に至る共感が足りない。……情動に欠けているだけなら、人間性の種を与え、それを育てればいい。でもぼくは根本から違う。ぼくにとって人を殺すことは、たとえば爪が伸びるような抑えがたい生命活動なのだと推測できる。選んだ相手を一片の肉に変えて愛でることは、清廉で充実感のある行為だとすら感じられる……」
 まっすぐ正面に座るしのぶは、微動だにしなかった。顔色はただ白い。与えられた事実を、どうにか理解しようと咀嚼している。
「……今まで、誰かを殺してきたの……?」
「辛うじてまだ無い」
 快楽殺人という意味では、と胸中でつけ加える。先日あの男をはじめて爆殺したばかりだ。見えざる力への理解を得がたいので説明はできないが、一片の罪悪感も抱かなかった事実を自分がよく知っている。
「でもいずれ実現に至ると確信している。君が殺されかけた夜、ぼくは別の場所で、まさに人を殺すための不法侵入を企てていた。深夜にきみの家を訪問できたのはそのためだ」
 少女の瞳がさすがに見開かれ、睫毛が震えた。
「……殺したいほど憎い人がいたの?」
「言っただろう。快楽を得る気でいたんだよ。準備を整えて侵入する直前、ぼくの荷物が、君のうちの軍手とすり替わっていることに気づいた。だから止めて届けに来た。それだけだ。そんな偶然の、些細なきっかけがなければ、ぼくは確実に人を殺していた」
 些細なきっかけには、実は充分すぎる意味があった。だが語らずにおいた。それだけの抑止力が自分の中でまた得られるかどうか解らない。
 しのぶは視線を伏せた。動揺し、驚いていたが、心底からの意外さはなかった。出逢いの夏を憶えているからだ。そして再び、あの夏のように考えねばならない。必死に、誠実に、自分なりに。たとえ気のきいた言い回しを思いつけずとも。永遠の未決議題であろうとも。
「……子供のころ、あなたが猫を殺そうとしているのを見たわ。でも、あたしが一生懸命話したら、共感は得られなかったけど必要を感じなくなったと言ってくれたわ」
「そうだね。でもそれを経ての現在だ。根本的な解消ではなかった」
「あなたはあたしを助けてくれたわ」
「君はまだ解っていない」
 声量は抑えたが、伝えるべき内容は抑えられない。牙をもたない獣が顎を開く。
「君はあずかり知らぬことだが、ぼくは君に小さな齟齬を感じ、その苛立ちから人を殺そうとした。そうしたら同じ夜にあの事件が起きた。ちょっと目を離した隙にこれだ。自分が乱される現実を拒み、平穏なもので埋めようとした途端のできごとだ。君を助けたのは事実だ。間に合ってよかったと心から思った。しかし、何に『間に合ってよかった』のか聞きたいか? ほんの一瞬だが確かな欲求だ。誰かに殺されるくらいなら、ぼくが先に殺せばよかった。どうせ喪うのなら、君の心をぼくへの恐怖だけでいっぱいに満たして終わらせればよかった」
 獰猛な言葉がおだやかに紡がれる。緩い速度で。
「……そして今、ぼくが何を考えているか聞きたいか? 目撃者もいない屋内で。無防備な君とふたりきりで」
 家に上げて話をしたのは、計算だった。
 犯罪に巻きこまれた記憶の新しい彼女は、心の底をうちあければきっと恐怖する。それが可能な状況であることに戦慄する。あとも見ずに逃げ帰ればいいのだ。こちらはきっと自制してみせる。追いかけたりなどしない。根の張った植物のように。
「もう理解できただろう。行きたまえ。二度と関わりを持つ気はない」
 最後まで平静に話せてよかった、と吉良は思った。
 会話が終わった合図として、身体ごと視線を逸らす。焦れない程度の沈黙があり、卓袱台の向こうで立ち上がる気配がした。少年は息をついて瞑目した。安堵の息だと、自分では思おうとした。
 陽の長い時期なので、まだ照明はつけていない。戸外から差す薄明が、ふと自分のまわりだけ翳ったように感じられて眼を開ける。
 少女の脛のあたりが見えた。
 思わず身構える。眼の前にしのぶが立っていた。ゆっくり膝をついて座りこみ、吉良と視線の高さを合わせる。
 白い手が伸べられる。動きに合わせて肩口から、まっすぐな髪が流れおちる。逃げろ、いや、逃げようと思った。でも身体が動かない。根の張った植物のように。
「……何の真似だ」
「わからない。ただ、あなたに触りたくなったの」
「ぼくの話を聞いていたか」
「聞いてたわ。聞いてたからだわ」
 なめらかな頬の輪郭が、ひたむきさで少しだけ硬くなっていた。大きな瞳はいつかのように、潤んだ奥に夏の残光を閉じこめている。
「……ぼくを見るな」
「……あなたはきっとあたしを殺さないわ」
「なぜそう言える」
 数秒だけ、しのぶは黙った。根拠などない。触れたら最後、呆気なく頸を折られるのかもしれない。でも言わねばならない。傲慢だろうか? 自惚れだろうか? 自分が誰かの特別だなんて。でも、彼の話を聞いて、自分で考えぬいて、こうしようと決めたのだ。自分を卑下することは簡単だけど、その簡単さに逃げこむことで見えなくなる真実もきっとあるのだ。
「……だから、それを証明させて……」
 それに、としのぶは思う。あたしだって少しおかしい。あなたが心に飼うものを決して認められはしないのに、あなたから眼を離せない。あなたの位置からしか得られない視点が、あたしを救ってくれた。あやうい境界に立つあなたにしか語れない言葉が、あたしをあたしにしてくれた。
 畳に片手をついて、本格的に身を乗り出した。身じろぎ程度の後ずさりをして、少年の虹彩に苛烈な色が走る。警告は獣性を帯びていた。
「……ぼくに触るな」
 しのぶは平気だった。
「……いやよ」
 だって、あたし、あなたなんかこわくないもの。
 内心の己の呟きが、思いがけず深い納得をともなって胸に沁みていく。そうだ。それは真実だった。長い眠りから醒めたような気がした。少女はひそやかに微笑んだ。
「あたし、あなたなんか怖くないわ」
 あなたのことこわくないわ。あなたがあたしをこわがっているんだわ。
 しのぶは手を伸ばした。指先を少年の頬に落とす。少しつめたかった。わずかに浮いている頬骨をなぞり、耳の上を撫でた。やさしい痛みに心臓を掴まれて、堪えきれず、立て膝でさらに近づいて両手で頬を包みこんだ。
 信じられないものを見るような瞳を、至近距離から見下ろした。
「……触らせてくれてありがとう」
 相手のつめたい肌に、自分の指先の熱が溶けてゆく。苦しいほど弾む鼓動を自覚しながら、その意味を悟らせる発音で、ゆっくりと囁いた。
「…………あなたにも触ってほしい」
 吉良は少女を見上げていた。信じられない。触れられている。
 自分の内側から、無垢な飢えの声を聞いた。それは荒く、甘く、他の誰とも違う意味で、目の前のただひとりを求めていた。彼女の言葉やしぐさや体温を、そのあまたの情報量を、まるごと呑みこんでも足りないほどの強い飢えだった。ということは、触ってもいいのだ。
 なにもこわくないなら、触ってもいいのだ。
 夕闇に染まりつつある畳の上に、衣擦れが鳴り、2人分の体重の倒れこむ音がした。






* * *






 あたたかい湯に沈んでいるような感覚だ。それでいて清浄な空気が肺に満ちている。
 広くて、曖昧で、やわらかかった。感触は悪くないが、不安定だとは思う。いままで求めていたような、閉じて安寧で完結したものではない。
 でも、これでしか埋まらないのだ。予測の外からおとずれるものでしか、なにひとつ満ち足りはしないのだ。そんな単純なことに長らく気づかなかった……
 あたりはもう暗かった。
 自宅の和室で、吉良吉影は、まどろみの海からゆるゆると浮上した。
 おぼろな意識の中で、規則正しい小さな音を聴いていた。自分よりやや高い体温と、心地よい圧迫感が心臓のあたりにあった。
 朦朧としたまま、自分が胸の上に抱いているものを見る。
 女が眠っていた。
 じっと視線を当てて吉良は、あるべき場所にあるべきものがあると思った。
 密着した肌は汗ばみ、髪が貼りついている。衣服は頭の横に乱雑に脱ぎ捨てられ、彼女が「友人に貰っておいてよかった」と言ったゴム製品の包みが散らばっている。かるく抱きあって折り重なるような姿勢は、眠るためには不安定だ。布団を敷いてないので背肩も痛い。
 でも、それですべて正しかった。
 すべてのものが正しい位置にあった。
 眠っている少女の手をそっと取り上げた。んん……と漏れる覚醒しきらない声を聴きながら、触れるだけのくちづけを落とした。
 美しいものがほしいと思っていた。ここにあった。
 時間そのものが美しかった。






「……あなたは本当に、なにか違うもので出来ていて、」
「理解だとか許しだとか、そういう次元のひとではなくて……それを欠落と呼んでいいのかすら解らない。あなたには最初から不要なのかもしれない」
「自惚れてよければ……あたしにだけ何かの偶然が生まれて、……でもその偶然がない相手のことをあなたは救わない。社会性を見せる必要があるときに、そう装うだけ。自分に損がなくても、たとえすごく簡単でも、視界に入れすらしない」
「でもそのままだと、きっとあなたは世界から取り除かれるべき存在になっていた。あたしはそうされたくない。だからどうにかして、あなたを世界に繋ぎとめたい」

「……ぼくはずっと、犯人探しには意味がないと思っていた」
「たとえ同情を得られても、それ自体に意味も価値も感じない。同情にいちいち屈辱を感じる人種でもない。注目されるのは煩わしいと思うだけだ」
「説明しがたい衝動にずっと苛まれていた。とにかく何かが足りなくて、それを得るためにいつか行動を起こすだろうと予感していた。何かを欠けさせた犯人を探すより、欠けたものを手に入れに行くほうが建設的だ。だから意味がないと思っていた」
「でも犯人探しには、実は意味があった。見つけてみて気づいた。ぼくに足りなかったのは犯人そのものだ。自分にとってすべての理由になる相手が、犯人だ。そして手に入れた」

「……ごめん、言ってる意味があまりよく解らないんだけど」
「だろうね。ぼくが解っていればいい話だ」
 横になって背後から抱きこんでいる少女が、もの言いたげに身じろぎする。腕の中に閉じこめて、耳朶に噛みついてみると、たちまち体温を上げておとなしくなった。
 いま何時なのだろう。確認したくはない。でも門限までにはきちんと帰さねばならない。その心がけが、いつか自分が彼女の待つ家に帰るための布石にもなるだろう。






* * *






 返す返すも昨晩は、「夕飯を食べて帰る」と家に電話しておいてよかったと思う。
 疲れはてて寝入ってしまったけれど、門限ぎりぎりに帰宅できたので母には何も言われなかった。でも、もしひとことも連絡がなければきっと兄が心配したはずだ。あとは怪談好きの友人に、「半分以上は冗談のつもりだったけど、貰っておいてよかった」とお礼を言っておかねばならない。まさか本当に使うとは思わなかったから。
 淡い色の髪をした少年の後ろ姿を、カメユー地下のスーパーマーケット前に見つけ、しのぶは近づいた。相手が振り返ると同時に、思わず視線を伏せる。まだちょっと、明るいところで正面から顔は見られない。
 早かったのね、と小さな声で言ってとなりに立つ。店内を何歩か進んだところで、何気なく垂らしていた片手がなにかに攫われた。
 視線を落とす。手が繋がれている。
「……触ってほしいと君が言った」
 横顔だけの吉良吉影は自然体だった。
 絡んだ指先にぬくもりを感じながら、しのぶは前を向いた。やっとここまで来れたと思った。スーパーの入り口近くの季節商品の棚には、秋の味覚が並びはじめていた。すごく長い夏で、すごく短い夏だった。時間は常に一方にゆき過ぎ、たとえ困難が待っていたとしても都合よく繰り返せはしない。それでよかった。ふたりで歩む道だった。
 並んで歩く少年の姿を横目で見上げる。彼は学生鞄といっしょにギフトボックス入りの袋を提げているが、しのぶはまだそれに気づかない。その代わりこう思った。
 最近、背が伸びた?


















My Dad Is Not My Dad/


 私とパパは、別に仲良しじゃあない。
 世の中には子煩悩な父親、娘に甘い父親がいるらしいけれど、パパはぜんぜんそうではない。幼いころは私も世間並みに可愛らしいことを、たとえば「パパと結婚する」だの「パパとデートする」だのと口にした。でもそれに対し、「わたしはおまえと結婚する気はない」と正面から言ってのける父親がいるだろうか。いるのだ。私のパパだ。
 ただしパパは、横暴ではないし冷酷でもない。そして無関心でもない。「おまえと結婚する気はない」にせよ、「親子の外出を一般的にはデートとは呼ばない」にせよ、逐一堅実な答えを返してくれた。解りやすい甘やかしを得られないことに私が泣き出すと、パパは表情こそ変えないけれど私を抱きあげて、「泣いてもわたしはおまえの思い通りにはならないが、泣きやんでほしいとは思っている」と言った。
 子供らしいことを言い、子供らしいものを欲しがる私をじっくり眺め、『なぜそうであるのか』『なぜそれが欲しいのか』を平易なことばで尋ねた。子供の主張だから、中身も一貫性もないただの我儘なのだけど、我儘は我儘でいってみれば発達心理学のカテゴリだ。理由のある要求は叶えられ、過ぎた駄々は諫められた。パパはどうやら、私というものを真面目に学習しているらしかった。だから私とパパは、別に仲良しじゃあないけれど、何を考えているか解らない間柄ではなかった。パパは私を知りたいのだ。
 パパは世間体はよく心得ており、「やっぱり娘さんは可愛いでしょう?」と誰かに水を向けられたら、「ええ」と微笑んで返した。そしてそれは嘘ではない。笑顔は単なる体裁にすぎないものの、少なくとも私に興味があるから学習している。私とパパの距離感をなんと呼べばいいのだろう? 親子には他ならないのだけど。

 私とママは仲が良かった。たまに喧嘩もしたけれど、よくいっしょに買い物や食事に出かけた。ママのお兄さん、伯父さんにあたる人ともよく遊んだ。夜更かしや買い食いにつきあってくれる甘い伯父だったけれど、一方で、ときどきじっと見定めるような視線を向けられているとも感じた。
 『友達はいるか?』『普段の生活は楽しいか?』と何度か遠回しに尋ねられた。でもその聞きかたに圧迫感はなく、素直に心配し、気にかけてくれている証左だと感じた。母親の兄ともなればだいぶ年上なのだけど、私はまるで自分の兄のようにも思っていた。
 伯父さんもママもどこまでも普通の人で、比べてみればパパは、やはりどこか普通ではないもので出来ていた。でも、私の両親はとてもお似合いだった。種類の違う生き物が共生することで自然界は成り立っている。
 パパとママの関係は、私に言わせれば、なんだか猛獣と猛獣使いに近かった。パパは落ちついた気品ただよう物腰をしており、決して野蛮でも乱暴でもないので、その意味での『猛獣』ではない。直感的にこちらとは違う生き物だと感じとれる意味での『猛獣』だ。
 猛獣使いはそれが仕事なので、猛獣にさまざまな芸を仕込んだ。子供の行事に参加させたり、休日にどこかに連れていくようせがんだり、地下室の様子を見てきてと仕事を言いつけたり……猛獣は溜息をつきつつも、逆らいはせず上手にこなした。猛獣使いはよく、無邪気にはしゃいで猛獣のふところにもぐりこんだ。パパは乱暴でこそないけれど、印象としてはそれこそ仔猫が虎の爪にじゃれついているようで、私は感心して眺めていた。
 そして、猛獣のほうから猛獣使いに近づいてじっと寄りそっている場面も、私はしばしば見た。私のパパは無機的というか、ウェットな印象のない人だけど、子供の前で妻と触れあうことには躊躇いをもたない人だった。映画で見かける欧米の夫婦のように、自然に肩を抱いたり挨拶のキスをしたりは日常的な行為だった。
 肌寒い雨の日、ママが窓際でぼんやりしていると、パパは後ろから歩みよって無言で背中から抱きしめた。ふりむいて微笑むママは綺麗だった。そういったところを見るのは、私はわりと好きだった。

 パパの影響もあってなのか、友達に言わせれば私は、どこかおもしろい雰囲気の子供だったらしい。勉強は比較的できるのに目立ちたがらない。では引っ込み思案かと思いきや、望まない役職か何かに選別されそうになると「お断りします」とはっきりものを言う。私としては、自分にとって価値が感じられないことで余計な注目を浴びるのが嫌だっただけなのだけど。友人の静は――杜王町生まれだが諸事情あって15までNYで育った子だ――私を評して、『彼氏がつまらなくなったら殺して置き物にして愛でてそう』と言い、大いに賛同を得ていた。つまらない男をはなから彼氏にしなければいいだけだと思う。
 高校3年生になって、私は東京の大学を受験し、無事に合格した。勉強が比較的できたのは、どうやら幼少期からパパの姿を見ていたのが功を奏したようだ。私というものを真面目に学んでいたパパの姿勢が、当然のように目に映っていた。でも楽観的なママの存在があってこそのバランスだし、私自身の個性もある話なので、幸福なたぐいの結果論だとは思う。
 3月、引っ越しの準備を終えて、上京の朝を迎えた。
 静もいっしょに都内に進学が決まっていたこともあり、特に不安や緊張はなかった。パパとママは杜王駅まで車で送ってくれた。ママは少しおしゃべりで、パパはいつも通りだった。私は後部座席で、ママの相手をしながら頭の中でずっと考えていた。私とパパは別に仲良しじゃあないけれど、無関心ではなく、何を考えているか解らないわけでもなく、知りたいとは思える相手で、なんなのだろう?
 改札の前で、じゃあね、とふたりに言った。身体に気をつけてきちんと戸締りして変な人についてかないで何かあったら連絡して、とママは言った。元気で、とパパは言った。
 私はそこで急にぴんと来た。パパの顔を正面から見てこう言った。
「今まではなにしろ、私が子供だったから、ママを大半とっちゃっててごめんね。でも私のことも、ママの半分くらいは好きだったから問題ないでしょう? これからはママを丸ごとひとりじめしてね」
 パパは黙って瞬きをした。ママは何秒かきょとんとしたあと、声を上げて笑いはじめた。言ってやった。言ってやった。なんとなく気づいてはいた。ママの存在がそもそも奇跡で、だからその半分というのも相応な量なのだ。たとえばひとりの父親が、ひとりの娘を普通に想うくらいには。
 パパは溜息をつき、電車が来るぞと言った。私は笑顔でふたりに手を振って背を向けた。
 さて、私も幸せになろう。







Let Us Cling Together / Queen
2018/07/19

本として発行した際につけていただいた表紙 (Pixiv)