「承太郎、帽子を押さえて」
 突然、となりから囁きかけられる。
 永遠に続くかと思われる祖父の小言に辟易し、床の格子模様をボードに見立てて脳内でリバーシゲームをしていた承太郎は、顔を上げて花京院の顔を見た。
 赤い前髪の下にある瞳が、悪戯っぽく笑いかける。なんとなく察して帽子に手を添える。
 次の瞬間、男子高校生たちは座っていた姿勢のまま宙に吊り上げられた。天上から照明を下げているチェーンがぎしぎしと鳴り、ふたりの姿は振り子に似て大きく揺れる。その勢いで、まるで放り投げられるかのように、開いていた窓から夜の戸外へと躍り出る。承太郎はまったく慌てなかった。花京院なら万全に受け止めてくれる。
 なおも小言を続けようとしていたジョセフは、ぽかんと口を開けた。花京院の仕業だと気づくまで数秒かかる。こっそり照明器具から降りていた『法皇の緑』が命綱がわりに結びつき、孫と悪友を吊り上げて、ホテルの窓から放り投げたのだ。同じスタンド使いにすら探知されず空間に潜むのは花京院の十八番でもある。
 孫の喫煙をやめさせるついでに、普段の態度から言葉遣いに至るまで、きっちり改めさせるつもりだった祖父が慌てて叫ぶ。
「花京院!」
「すいません、ジョースターさん、ぼくからよく言っておきますから!」
 笑いをこらえながらの言い訳が夜空から降ってきたが、結局のところ逃避行である。ジョセフは歯軋りをした。

 建物から看板へと、看板から街路樹へと。共犯者たちが夜を渡る。
 じゅうぶん距離を取ったところで、眼下の屋根へふわりと舞い降りた。古ぼけた住宅ビルの屋上だ。普段、人が上がることはないらしく、床材は煤けてほこりっぽい。
「ありがとよ」
「礼はいいから、君はジョースターさんの前では格好だけでも大人しくしなさい。いつか高血圧で倒れられてしまうぞ」
 責める口調だが、花京院の表情は緩い。明らかに状況を楽しんでいる。知ったこっちゃねえな、とうそぶいて承太郎はビルから街を見下ろした。通りには暖色の灯が連なり、屋台のさざめきが耳に遠い。軽食でも買って帰ってやれば機嫌を直すだろう。
「なんだか気持ちいいね。夜の街でふたりきり、開放感がある。別に窮屈だったわけじゃあないけどさ」
 十代の少年の顔をして花京院が言った。優等生の彼はそんな真似をすべくもないが、修学旅行で引率の教師を出し抜くのと同種の表情だ。
「家出ってこんな気分なのかな?」
「男所帯だからな、むさ苦しかったんだろ。というより、おまえはほぼ家出同然でこの旅についてきたろうが」
「両親に手紙は出したからセーフだよ」
「手紙にはなんと書いた?」
「自分を見失ったのでちょっとエジプトまで探しにいってきます、心配しないでください」
「立派な家出の口上じゃあねえか」
 承太郎は苦笑した。会話のあいだにも、夜風がふたりの学生服の裾をいたずらになぞって抜ける。
 季節は冬だが、南国カラチの風は温い。日本でいえば秋ごろの快適な気温だ。都市の夜景はしずかな生命力を湛え、遠方より来た者を旅情に和ませる。確かにどこか、安堵に似た開放感があった。
「君は家出したことは?」
「ねえな。する理由がない」
「ホリィさんに対する最大の惚気を聞いた気がするよ」
 花京院が控えめに茶化した。だが、今このときも病床で苦しみにある女性の名を出したことで、表情がやや改まる。承太郎も逸らした視線をあらぬ方へ向けた。
 この旅は、楽しい。自分たち以外がこの表現を使えば誤解を招くかもしれない。母の命のかかった旅だ。だが人と出逢い、理解しあい、志をともにして歩むことは、事実として快い経験だった。母を救う、そのために心強い仲間を得られたことが『楽しい』――ただ。
 今はホテルで休んでいるであろう、銀髪の陽気な男を思い出して承太郎は小さく息を吐く。ポルナレフは、カルカッタでアヴドゥルと死に別れた、と信じている。
 『残された者にできるのは使命を果たすことだ』と決意したポルナレフに、そのあと暗さはない。おかげで、彼の生存を黙っている仲間たちの罪悪感もある程度は薄い。ただしこれは、本当は生きているという事実があればこそだ。生存の喜びがあるからまだ救われる。
 ……命こそとりとめたが、アヴドゥルの傷は決して浅くはなかった。彼の生存を知ろうと知らなかろうと、それぞれ『死』について考えざるを得なかった一件だ。
 空条ホリィを救う。その決意はみな変わらない。重責ととる者も、重圧ととる者もない。彼女を救うことを通して、各々が奪われたものを取り返す旅だ。意志を、誇りを、己自身を取り返す旅だ。だから楽しい。仲間を得るのは楽しい。だが楽しければこそ――それを喪うのは、怖い。
 アヴドゥルの傷は、決して浅くはなかった。ここカラチで、鋼入りのダンはあっさりエンヤ婆を殺してみせた。言うに及ばず、DIOの力は強大だろう。
 次に傷つき倒れ、そして本当に死ぬのは、誰だ?

 ふたりの少年は黙って夜景を眺めた。擬似的な家出を経て、彼らは同じ気持ちを味わっていた。安堵に似た開放感だ。その理由もわかっていた。
 もしこのままふたりきり、旅に戻らなければ。
 君を。
 おまえを。
 喪わずに済む。

「承太郎」
 不意に話しかけられ、思わず肩が揺れた。
 次の台詞を言わせてはならない。だが間に合わず、花京院が口を開く。
「――このままふたりで逃げようか」
 視線は合わせないままだった。ぞっとするほどやさしい声だった。承太郎は唇を噛む。
「言いづらければ、君はイエスもノーも言わなくていい。さっきそうしたように、勝手にぼくが君を縛りあげて攫っていこう。ふたりきりどこまでも、地の果てまで逃げよう。君は何も言わなくていい。ぼくが君を連れ去る。そうしても、いい」
 静かな声が肌身に刺さる。言わせてしまった。舌打ちしたくなるのを堪える。苛立っているのは、『逃げようと提案したこと』に対してではない。おれが絶対に断ると解っているくせに、あえて提案してきたことだ。
 『自分が悪者になってわざと心の弱い提案をし、あえて断らせておれを立派な位置に押し上げようとしたこと』だ。勝手におまえ自身の位置を下げたことだ、この野郎!
 ……それとも、いっそ言ってやろうか? おれがなにも望まない聖人君子だとでも思っているのか?『ああ、このまま攫ってくれ』。『ふたりきりで逃げよう』。
 『おまえ以外なにもいらない』。


 承太郎は、黙ってゆっくりと右手に拳を形作った。
 花京院の胸板をぐっと突く。
「……ノーだ」
 すべての想いを、そのひとことに込めた。花京院がわずかに呼吸を詰めた。申し訳なさそうに、少し笑った。想いは通じており、だから承太郎は許すことにした。
 空条ホリィを救う。その決意があればこそ出逢えたふたりだ。ともに歩んだ苦難の道が、不折の誇りが、ふたりの絆を確かなものにした。喪いたくはない。だが、自分たちの魂を結びつけてくれた決意まで否定できない。それでは本末転倒だ。
「……今更だけど、そして陳腐なもの言いだけど、聞いてくれ。ぼくの魂を君に捧げる。勝利のために必要なときがあれば、いつでも勝手にぼくの命を賭けてくれ」
「賭ける。そして絶対に勝つ」
 おごそかな響きが異国の風に舞った。
 眼下には夜の街。どちらともなく、仲間たちの待つホテルの方角を見る。言葉は交わさず頷きあう。帰ろう。
 花京院が触脚を長く伸ばし、道路の対岸にある看板に巻きつけた。強度を確認してから、承太郎に手を差しだす。黒い学生服の腕が、きっちり閉じた真面目そうな詰襟の首に回される。自分よりやや高い腰を花京院は抱く。
 街灯りが落とすふたつの影が、抱きあった姿勢のまま、ふと止まった。
 しばらく動かなかった。横顔らしき輪郭が、ひとつは上がり、ひとつは下げられた。ふたつの影が触れあった面積は、とても小さかった。だけど確かな面積だった。





2017/04/04

pixivのほうでぼす様から挿絵をいただきました。ありがとうございます!