「人が恋に落ちる瞬間、というものはさまざまな作品で描かれているけど、君はどういうものが好きだい?」 「数年前だったかな。作家スーザン・ケイの『ファントム』という上下巻組の小説が発売された。オペラ座の怪人を原作にしたパスティーシュの一種だ。怪人の生い立ちを独自の解釈で書いている。話題になっていたので、人と話を合わせるために読んでみた」 「筋はよくできていたが……わたしには少し甘すぎたかな? 重厚な筆致だから鼻にはつかない。が、怪人と歌姫クリスティーヌの関係性がちょっとばかり青臭くてね。心理描写の細やかさは評価できるにせよ……ふふ、それとも君のような初心な子は、ああいったものをお気に召すのかな」 「ただ、そう、人が恋に落ちる瞬間の描写はたしか悪くなかった」 「怪人はそれまで、クリスティーヌを陰から見守っているだけで充分だった。地上の世界で生きる女には関わるまいと、完璧に自制して禁欲を保ってきた。でもある日、彼女が歌手としての自信を失いひどく打ちひしがれているのを知る。なんとか救ってやりたくて、つい、天から遣わされた【音楽の天使】として鏡の中から歌いかけてしまう」 「感動に泣き崩れる歌姫をみて、怪人は思わず声をなくしてこう思う」 『この木陰の道がどこへ続いていようとも、しまいまで歩んでいかねばならないのだ』 「語られているのは恋の希望や絶望ではない。美醜や功罪でもない。ただ、抗えなさだ」 「望もうと望まざると止められない、無慈悲なまでの、抗えなさだ」 「それが恋という感情の本質なのだろう」 「もっともわたしは、その感情をそろそろ君に抱かなくなってきたよ。名も知らぬ君だが、造形や触りごこちは美しかった。そして今は色合いや臭いが美しくない。消す前にこの高台に連れてきたのは、お別れのはなむけだ。平日の夕方になれば人気もないしね。愛していたよ、さようなら」 * * * 川尻しのぶが見つめているのは扉だがそれが開くのを望んではいない。 その扉から帰る人のことは、心待ちにしている。そのためだけに扉を見ていられたらどんなにいいだろう。でも今夜、彼はひとりではないのだ。飽いた映画を巻き戻すような寸劇がまた始まる。さっき電話があったから、あと十数分後には必ず。 軋んだ音を立てて、アーリー・アメリカン風の玄関ホールの扉が開く。天井にヒールの音がこつりと跳ね返る。夫が丁寧なエスコートで、知らない女を家に招き入れる。女はたいてい美しい顔をしていて、必ず美しい手をしている。 わるい遊びにときめいて小鳥のように含み笑いを漏らしつつ、女は手を引かれて邸内に上がりこもうとする。だがホールの奥に視線をやった途端、スリッパに片足をつっこんだ姿勢でぎくりと凍りつく。 あら、こんばんは、奥様? こわばる表情筋を必死で操って、女はぽつんと立つしのぶにぎくしゃくと会釈をする。 当然のように上着を脱ごうとする夫を、ホールの隅に引きずっていって囁く。ちょっと、奥さんがいるじゃあないの……! 階段の上から向けられているもう一対の視線に気づけば、焦った声を抑えて続けるだろう。しかもお子さんまで! 街のバーだか浜辺の展望台だか知らないが、彼女に『吉良吉影』と名乗っているはずの夫はこう返す。最初に言っただろ。わたしには妻がいるけどいいかい? って。 それは誘われた女にとって普通、「自分は結婚しているが構わないか」という意味だ。実際にいま在宅中だと受け取る者はまずいない。でも口をぱくぱくさせる女を後目に、夫は澱みなくしのぶに告げる。『彼女』はわたしのお客さんだ。電話で言ったはずだが、飲みものと軽食は用意してくれたかな? このあと居間で彼女をもてなすので、君は早人と二階にいてほしい。 わかったわ、としのぶは答え、受け取った上着をハンガーに掛けにいく。早人は数秒間、それだけで相手を殺せそうな視線を『父』に向けるが、やがて床を蹴って自分の部屋に飛びこむ。嘘でしょお、と言いたそうな表情で女は見送る。 妻子のいる家に堂々ご招待された女――たいがい旅行者か家出娘――は、このあたりで溜息をつく。既婚者と聞いて平気でついてきた以上、彼女は己の奔放さに自覚があるタイプだ。男は気分で着替えるもの、相性は寝たあとで考えるもの。 今夜の男はたいした厚顔さだが、言動をみるかぎり、別に横暴なタイプではない。きっと割り切った夫婦なのだろう。妻は生活費を渡されている限り口出しせず、夫は便利な家具としてのみ相手を尊重する。彼の世界には女が二種類いるのだ、世話をさせる女と甘やかして遊ぶ女。財布用の男と見せびらかす用の男を使いわけるのと同じね、と彼女は納得する。 しのぶはトレイにグラスを載せて運ぶ。卓上に並べられたボトルを、女が栓抜きで開けようとして、夫にやわらかく止められる。ああ、わたしがやるよ。ボトルを受け取る瞬間にお互いの指がかすめれば、夫の微笑みはより深く刻まれる。君のきれいな爪が欠けたりするのをわたしは見たくないな。 仕事を済ませたしのぶは居間から去る。女はきっと、自分の背中を横目で追いながら、呆れに似た感慨を抱くだろう。そして気持ちを切り替える。せっかくいい男を捕まえたのだから今は愉しもう。セックスが済んだら何をねだるか考えるほうが大事だわ。 しのぶには解っている。彼女が望むような展開にはならない。でもいずれにせよ、見てはいられない。 ホールに出て階段を上りかけ、玄関の扉をふと見下ろす。暦は夏の盛り。ここちよい湿度が夜の匂いを誘う。ちょっと近所に夜歩きに出たら、気持ちがいいかもしれない。夫と、女と、その先にある血みどろの罪過の気配を階下に感じながら過ごすよりはずっと。 だが、しのぶの足はそのまま残りの階段を上がりきる。未練がましいとは思いつつもこの家から遠く離れたくない。 川尻しのぶが見つめているのは扉だがそれが開くのを望んではいない。 川尻早人は、宿題用のノートを持って部屋を出た。廊下を渡って夫婦の寝室の前に立ち、ドアを叩く。 「……ママ?」 扉を開けると彼の母親は、寝台に腰かけていた。膝に飼い猫を載せ、ひらいた絵本に視線をおとしている。絵本は彼女が好きで集めているものだが、いまは趣味を楽しんでいるというより、思考を止めるために眺めている対象だ。 青白い顔が無言で笑みをかたどり、視線だけで息子に応じる。何のご用? 機嫌がよいときも悪いときも本来くるくるよく動き、よく喋る人だったから、相手の無口が少年には辛かった。部屋に入ってノートを差し出す。 「宿題でわからないところがあるんだ。見てほしいんだけど」 すこし節の浮いた女の手がノートを受け取る。少年の用件は、真実ではなかった。川尻早人は高い学力を持っている。担任教師から、いわゆる難関私立への受験も勧められる彼が、日々の宿題に苦労するはずがない。だが高い知能は、いまは母の心を紛らわすことを試みていた。 もうしばらくの辛抱だ。階下からあいつの好きな映画のBGMが聞こえ、伴奏の奥にくぐもった女の悲鳴が混じり、次いで小さな爆発音とともに静寂が戻るまでの。 * * * 川尻早人は悔やんでいる。自分の甘さを悔やんでいる。甘さを自覚できなかった幼さを、ずっと後悔している。 常識的な大人が事情を知れば――話を信じてもらえればという前提だが――慰めと同情、それ以上に『仕方ない』という労りをかけてくれるのは確かだ。11歳の子供に何ができる? もう少しましな年齢だったとしても何ができる? 恐るべき殺人鬼が同じテーブルで新聞をひろげている朝に? しかも気づいているのは自分しかいない。 ようやくビデオを録り、凶行の証拠を掴んだとしても、相手の未知の異能を誰にどう説明しろというのか。警察? 専門家? 現代科学の則によらぬ現象を信じさせる方法など、大人にだって思いつけない。 はたして信用は得られるか。迷いつつも川尻早人が、まずは母親にビデオを見せて真実を話そうと決意したのは、無理からぬことだった。なにしろ彼女は、早人自身の次に危険な立場なのだ。疑われるかもしれない。怒られるかもしれない。でも情報によってもたらされたわずかな一瞬の警戒心が、殺人鬼の魔手から彼女を逃がすかもしれない。すんでのところで危機から救うかもしれない。早人はそれに賭けたかった。 しかし、母に証拠のビデオを見せた少年は、賭けの敗北を悟った。映像を見終えた母は怒らなかった。事態はより悪く、つまり哀しそうだった。 「……おまえが、パパのことを決して好きじゃあないのは、解っていたつもりだけど」 リモコンで巻き戻しボタンを押す。画面内の男が、ほおずりしていた手首を前に差し出す。その切り口から女の腕や肩や全身が生えてゆく。常軌を逸した惨劇がどこか喜劇じみて逆再生される。 「悪ふざけが過ぎるわ。こうまでしてパパを貶めたかったの? わざわざこんなものを作って楽しかった……?」 早人は言葉を失う。トリック撮影だと思われかねない危惧はしていた。怒られる程度の覚悟はしていた。それでも母に猜疑の種を与えられれば十分だった。だが、父との軋轢を原因視されるとは思わなかった。 「あたしをからかうために作ったの? ああ、友達どうしで観て楽しむ目的もあるのかしら。嫌いな大人を悪党に仕立て上げるのは愉快なフィクションよね……」 失敗した。少年は唇を噛む。しかし、彼はひとつの事実も見逃していなかった。映像を見る母の瞳に、一瞬だけたゆたう色が揺れた。迷いに似た色彩だ。 もしかしたら。母もなにか、あの男に小さな相違を感じているのではないか。良し悪しは別にして、この夏になって初めての意外性を夫に感じているのではないか? ママ、と早人は呼びかけた。思い当たる節はないかと尋ねるつもりだった。猶予があと半時間もあれば、彼らはお互いのもつ情報のすり合わせを試みたかもしれなかった。 だが星の巡りは少年に冷酷に作用した。玄関の扉が、がちゃりと鳴った。 愕然として早人は、壁掛け時計と、玄関に繋がるドアを交互に見る。『父』の帰宅が想定よりもずっと早い! そうこうする間に母は、デッキから巻き戻しを終えたテープを取り出して立ち上がっていた。それもまた失策だった。慌てて取り戻そうと伸びあがっても遅い。少年の小柄な背丈では、高く挙げられた手の先に届かない。 取りすがる息子を片手で制しながら、しのぶはリビングに入ってきた男に微笑みかけた。 「おかえりなさい、あなた。すぐご飯にするけど、その前にちょっと聞いてくれる?」 母が、努めて明るい声を出しているのが少年には解った。あんな映像なんか信じていないし、単なる困り事として処理したいのだ。大人ならむしろ、冷静になればなるほど真に受けるわけがないのだ。『種も仕掛けもございません、人間をまるごと消してしんぜましょう』だなんて! 「早人ったら、酷い合成ビデオを作ったのよ。隠しておくなら悪ふざけにしてもまだ遠慮があるけど、平気で母親のあたしに見せたの。悪趣味だわ。あなたからもひとこと注意して」 「…………へえ」 光をあまり映さない瞳孔をわずかに動かし、川尻浩作がうすく笑った。 テープを取り返そうと母に掴みかかる息子の肩を、父親がぐいと引きずりよせる。思わず痛みに声が詰まるほど強い力だ。傍目にはふざけあいに見える腕の絡ませかたで、その実は少年の首と肩を的確に固定し、完全に動きを封じる。そうしておいて川尻浩作は涼やかにしのぶに言った。 「どんな内容か見てみたいな。悪い子はぼくが捕まえておくから、デッキに入れてくれ」 同じ映像が再び繰り返された。時間にして数分、これが自分と母の死出のはなむけか、と早人は最低の気分になった。この映像が最期に見るものだなんていやだ。 「さて」 奇妙なスプラッタ・ムービーを見終えたその主役が、抑揚なく漏らす。拘束している腕が緩まったので、早人は振りほどいて母のそばに駆けよった。かばうように立ちはだかる息子を不思議そうに見下ろしてしのぶが口を開く。 「酷い内容でしょう? 自分の親とちょっと折り合いが悪いからって、こんな悪ふざ」 「わたしは通常なら心配事を放置しておかないタイプだ。健やかに熟睡したいのでね。危惧はしていた。だが確証がなかった。電車が少し遅れたせいで、あたりが既に薄暗かったのがその理由だ。走り去る川尻早人の手にあるものがビデオカメラだという確証が持てなかった。小僧を問いただして確認したい、だが、藪をつついて蛇を出したらどうする? 逆に『そうか、カメラを持って付け狙えばいいんだ』というアイデアを与えてしまったら? 様子見に甘んじたわたしの不安が理解できるかな? やっと平穏に暮らせると思っていた矢先の失望が? 案の定だ、やはり録られていた。だが念のため早々に帰宅してみて正解だった。話が他所に広がることだけは食い止められる」 唐突に言葉を遮られたしのぶが、瞬きを繰り返す。 「あなた、なにを言」 「わたしの名前は吉良吉影」 運命の名が、否応なしに母と子の耳に押しこまれた。それを知る意味をも伴って。 「これまでに48人の手のきれいな女性を殺した。知られたからには生かしておけない」 父の顔をした殺人鬼が真実を語るあいだの、母の痛々しい抵抗を、川尻早人は思い出したくない。あなた、その冗談さすがにきつすぎるわ。ねえ、それあまり好きな話じゃあないわ。早人と口裏を合わせてあたしをからかってるの? あなた、お願いだから、 吉良が突然、デッキから取り出したビデオテープを、空中に放り上げた。ぼん! と音がしてテープが四散する。しのぶはびくりと竦んで口を噤んだ。プラスチックの焦げた匂いが鼻腔を刺す。わざと音と臭いがするように爆破したな、と早人は気づいた。この男のもつ不可解な力は、人間ひとりを消滅させる熱膨張を、本当はもっと静かに発動させられる。 「……まあ、これがマスターテープだとは思ってないがね。あとでじっくり部屋を探そう」 早人を横目に捉えながら、男は、キャビネットに活けてある花瓶の百合を引き抜いた。切り口から水が滴っている生花だ。茎も花弁もほんものの植物。だが宙に放り上げられればそれも、ぼん、と音を立てて弾け飛ぶ。 「手品に見えるかな。トリックに見えるかな? 君の着ているエプロンでも髪留めでも、わたしが手品の種を仕込めるはずのないものを、こちらに投げてみたまえ。爆弾にして消し飛ばしてあげよう」 言葉は、内容だけを取るなら挑発的だ。でも早人の眼には、殺人鬼がずいぶん面倒くさそうな表情に見えた。おまえが信じないから証明せねばならないのだと言いたげな――いや、もう少し不自由そうな印象があった。自分で作った結び目がどうしても解けず、自業自得をうんざりと噛みしめるような。 「……好奇心は猫を殺す。わたしは別段おまえたちを始末するつもりはなかった。その価値がある相手ではないし、周囲にも怪しまれてしまう。もっとも、ときどき幼児や老人の災難を聞くように、家庭内で起きた死亡事故として取り繕う方法はある。それにしても一度に妻子ふたりとは……何に見せかければ自然かな? よいアイデアがあれば聞かせてくれ」 殺人者が殺害予定の相手にする質問ではなかった。母が肩を落とすのを、早人は焦りとともに見守る。 吉良が帰宅してくる直前に見せた彼女の瞳を思い出す。母も、まったく齟齬を感じないわけではなかったらしい。母はこの男に好意を抱いていた。逆にいえば、新しい何かを嗅ぎとっていた。 それが危険を孕んだ魅力であるのも、許されざる手触りであるのも、輪郭だけなら気づけた。でもその自覚には、いつかこの幸福が終焉してしまう可能性も含まれる。だから母は考えないようにしていた。危うい気配なんて夢見がちだと、大人として当然の常識を採用していた。夫にビデオを見せたのも、あっさり否定されたかったからだ。他愛ないと一蹴してくれるのを期待していた…… 「……あなたはなんのために、あたしの夫の顔になったの?」 「この身分を隠れ蓑にするために」 「ということは、隠れる必要があったのね?」 「現代社会において犯罪摘発の任にある警察という組織の存在をご存知ないかな?」 殺人鬼は嫌味な言い回しで、詮索を逸らし不要な情報を与えない答えかたをする。だが彼女は流されなかった。 「……48人って、さすがに一ヵ月やそこらで殺せる人数じゃないわよね? 大きなニュースになるもの。何年も前から殺していたの? 警察のことはそれまで誤魔化せていたの? でも、この夏になって急に、あたしの夫の顔になる必要が出てきた。赤の他人になる必要が出てきた……?」 早人はもう一度母の顔を見る。悲愴な決意をそこに汲みとり、息を飲んだ。彼女はいつのまにか、少年よりも一歩前に出ていた。さっきまではぼくが、殺人鬼からかばうつもりで前に立っていたのに。 「あなたにはどうしても、赤の他人になる必要があるのね。他人に為りすますのって、多分とても大変よね? そういえばあなた、髭を剃るのに剃刀を使ってた。椎茸を平気で食べてた。夫と冷めた関係だったあたしでもそれくらいは気づいたわ。あたしと早人を殺して、そのあとどうするの? 次は誰に為りかわるの? 次の標的が、もっと付きあいの広い社交的な人だったら大変じゃあない? また一からその人のふりをするのは、すごく手間だし大きな危険があるわ……」 実際には、吉良が再び顔を変えてまた第三者に為りかわるのは難しい。『シンデレラ』をもつ辻彩は処分してしまった。だが特に与えるべき情報ではないし、大筋では間違っていない理屈なので彼は黙っていた。 「……それくらいなら……このままこの家で暮らし続ければ、あなたは安心じゃあない? 早人もあたしも生かしておけば、他人はなにひとつ怪しまないわ」 「つまり? わたしはこのまま川尻邸で、体裁上は川尻浩作として暮らし、だが好きなときに好きなように人を殺し、君たちはそれを知りながらもわたしを放置しておくと?」 「そのかわり、早人もあたしも殺さないで。秘密は絶対に守るから」 「生憎とわたしは女の口が吐く言葉を信用していない」 嫌悪に満ちていれば、まだしも人間性の窺える台詞だった。だが殺人鬼の口調はどこまでも平坦だった。 「わたしが君の要求を受け入れたとしよう。ひと晩眠って翌朝、いつものように会社に行ったとしよう。そのあいだに君は警察に通報してすべてを打ち明け、自分と息子は、わたしの知らぬどこか遠くへと逃げてゆくわけだ」 「警察がこんな話を信用してくれるわけないでしょう。ストーカー犯罪だって、実害がなければ相談くらいしか乗ってくれないって聞くわ。ましてや、『証拠はないけどあたしの夫は人殺しです』なんて。『死体は全部ふしぎな力で消しました』なんて。……遠回しに通院を勧められるのがおちよ。早人なんてもっと、子供の言うことだもの、こうして肉眼で証拠を見せられないかぎり誰が真に受けると思う?」 しのぶは浅くなっていた息を一旦止め、深呼吸して続けた。 「あたしと早人にほかに手立てはないわ。死にたくなければあなたに従うしかない。そうすることであなたの面倒もなくなるって言いたいの……」 表情を動かさぬまま、吉良は情報を整頓する。知られた以上は生かしておけない。それが大原則だ。しかし事実、ここで川尻母子を失うことは大きな危険性も伴う。一晩で妻子を失った悲劇の夫を演じるか? 演技に自信はあるが、警察や報道陣などの人目に晒される事態はリスクしか招かない。殺したあと医学整形で顔を変えて雲隠れするか? 偽りの身分や生計の立て方を、また初めから模索するのは大変な手間だ。 空条承太郎や東方仗助、その一党がわたしのことを調べている。杜王町の人口は国勢調査によれば58713人。ふたりをこのまま生かしたとして、空条一党が接触してくる確率はいかほどだ? わたしと似た条件の男、という線に限定すればその家族はかなり絞れるので、舐めてよい数字ではないが…… いや、むしろ。このふたりはわたしの能力をいま知ったが、空条一党の存在やその能力については知らない。つまり現時点で、わたしに勝てる者がこの世にいるとは思わないのではないか? 実際、わたしは怯えて逃げているわけではない。戦闘のストレスを避けたいだけだ。わが能力は殺傷力に特化しており、いざ戦えば負ける理由はない。『時』を止めるらしき空条承太郎は多少脅威だが、奴の能力を川尻母子は知るよしもない。 ならばこのふたりは当然、わたしを追う一党の存在を知ったところで、『吉良を裏切ってあちらについても得はない。彼らはどうせ勝てないし、裏切り者として一緒に殺されてしまう』と考えるだろう。このままわたしに従っていたほうが、生存率が高いと判断する。であればむしろ、死にたくなさに、もし空条一党に遭遇してもわたしに有利な嘘でやりすごしてくれるんじゃあないか? それは一転、これまでの不安定な綱渡りよりも安心感のある状況だ。 猫草を飼い慣らす準備も進んでいる。備えは順調に固まりつつある。そういえば、少なくともこの女には、わたしの窃盗を目撃したが黙っていた実績があるじゃあないか……。 天秤が一方に傾いた。事実に基づいた判断が重りの大半だが、ほんのひとひらの説明できない重さが、そこに加わったのを吉良は自覚していない。用心深くなお会話を重ねる。 「あまりといえばあまりの都合の良さだ。わたしにそれを信じろと?」 「あたしだって早人だって命は惜しいもの」 「警察を頼れないことは理解した。しかし、それに比べれば小さな危険だが、君と息子がどこか遠くへ逃げる可能性は消えてないな。妻子に捨てられたみじめな夫を演じれば済む話だが、日本じゅうでわたしの正体を吹聴されたら、いずれ誰かが信じないとも限らない」 「あたしはこの家にいるわ」 「その保証は?」 「早人は、大きくなればこの家を出るわ。そのほうが自然よね? そのかわり、あたしはずっとこの家にいるわ」 同じ言葉を繰り返して、しのぶは震える唇を引き結んだ。殺人鬼と交渉を重ねた女は、ここに至って初めて痛みをこらえる顔をしていた。ねえ、本当にわからない? 本当に、こうまでしてあたしが家であなたを待ちたい意味が、わからない? 吉良吉影は沈黙した。早人の眼にはまた、面倒くさそうな表情に見えた。でもその面倒くささは、母に向けられたものではなかった。自分の横着のせいでインク瓶を倒してしまった書きかけの手紙を眺めるような顔をしていた。誰に宛てた手紙で、なんと書いてあるのかは早人には解らない。 殺人鬼が足を踏み出した。大股にふたりに歩み寄る。しのぶは咄嗟に息子の前に立った。その肩を最小限の動作で押しのけて、吉良吉影は少年の頭を鷲掴みにした。 「『Another One Bites The Dust』」 ひとことそう告げ、掴んだ手を突き放すように離す。悲鳴をあげて尻餅をついた少年は、てっきり自分の頭蓋が砕けて消滅したものだと思った。 助け起こしてくれた母の蒼白の顔を、長い走馬燈だなと感じた。5秒経ってもそれは消えず、6秒経っても消えず、自分の頭をべたべた触って確認する表情が安堵に緩んでいくのを、あれ、と思った。 「……わたしの能力は物質を爆弾にするのみではない。事象をも爆弾にすることができる。川尻早人、おまえはある種の地雷になった。わたしの本名や正体を他人に教えないことだ。その事実は爆破され、真実を知った者はかならず絶命する」 殺人鬼が無機的に告げる。少年は青ざめてそれを聞く。ただ、実のところ――早人はこの説明について後日考えた――これは吉良吉影の、一種のブラフではなかったろうか? 諸々のリスクとリターンを考慮して、彼は自分たち親子を殺さないと決めた。でも口外しないという保険がもう少し欲しい。凶悪な能力、それを見た衝撃が冷めないうちに、圧力的なはったりで脅しをかけたのではないか? しかし11歳の彼には、そのブラフを証明するだけの度胸はなかった。加えて無意識下で、この男なら、きっかけさえあれば本当にその卑怯じみた力を身につける素質があるようにも感じていた。だから少年は本気で震えていた。 「……いいだろう、交渉成立だ。わたしはこの家を比較的気に入っている。失いたくないのは本当だ。仲良くやっていこうじゃあないか」 少し声を和らげて、ごく平均的な父親のような声を出す。その平均さ具合があまりにも自然で、川尻早人は寒気がした。こいつは高い知能と洞察力をもち、自在にその立場を演じて人を謀る怪物なのだ。 「遅くなってしまったな。夕食にするとしよう。それがあるべき家庭の姿だ」 川尻家の新しい事情はこうして始まった。 * * * あなたは器に水を入れて歩いている。ここは砂漠なので、水を涸らせばたちまち死に至る。 周囲を見回せば、誰しもみな器を持っている。でもたいがい、とても小さい。みすぼらしい。厚ぼったくて持ちづらい。あまり量も入らないし、すぐに中身がぬるくなる。 あなたの器はよい器だ。軽量かつ堅牢、たのもしい機能美。冷涼な清水をなみなみ湛えている。これほどの器はそう見ない――ただし底に穴が空いている。 その穴は女の手のかたちをしているから、常に接ぎを当てねばならない。 * * * 実のところ、ときどき『彼女』を連れて帰宅することを除けば、川尻浩作として生きる殺人鬼の日常は穏やかだった。 しのぶに声を荒げたことは一度もなく、手を上げる気配など欠片も見せない。隙のない佇まいをしているが、物腰はやわらかく威圧感を抱かせない。ことさら多弁ではないが、いつも的確に落ちついたことばを話す。元来の川尻浩作が無口だったので、その発言は存在感をもって聞こえる―― 川尻早人には、ずっと抱いていた疑問があった。ある日、少年は意を決して母の前に立った。 「ママ、聞きたいことがあるんだけど」 居間で洗濯物をたたんでいたしのぶは顔を上げた。息子の眉間に険しさをみて少し驚く。言いづらいが、あえて唐突に問おうと早人は決めていた。 「あのとき……吉良吉影がぼくらに自分の正体を明かしたとき。あいつは明らかに断言したね。長く苦しむ目には遭わなかったと思うけど事実は変わらない。……ママ、ぼくのパパは、吉良吉影に殺された」 大きく見開かれ、そして伏せられた瞳を見つめて少年は続ける。 「……ママが、そのことについて、どう考えてるのかをぼくは知りたい」 本来なら心の準備もさせずにする質問ではない。でもあえて唐突に切り込みたかった。もはや疑いようのない事実だ――母は、あの男に惹かれている。 自分の両親の仲は冷めきっているのでは、という疑念はずっと存在していた。盗撮までして確かめても、夫婦らしい交流は見当たらず、少年は半ば諦めていた。 いざ父が殺害された段になって、早人は直截な質問をしてみたくなったのだ。この事実を母はどう受け止めているのか? 「……気の毒だと、」 最初の一声ですでに早人は、天を仰ぎたい気分になった。 「……気の毒だと思うわ。あの人に冷たくしていたあたしが、いざ死んだあとに湿っぽいことを言うのは偽善かもしれない。帰ってこなければいいのにと思ったこともある。でも……殺されてしまえとは、さすがに思わなかった。そこまでの目に合わなくても……だから……酷い話だと思うわ……」 気取られないよう、早人は細く息をつく。予想通りの回答だった。反省の含まれた誠意ある回答だった。母は本気で、かつての夫に同情している。命まで落とさなくてもよかったと真っ当に悼んでいる。 実をいえば、早人は、気の毒だなどと言ってほしくなかった。同情などしてほしくなかった。この場合の『可哀想』は、普通の相手に抱く感情だ。できれば母には、もっときつい我儘を言ってすらほしかった。「あたしを省みないあの人がいけなかったのよ」などと言われたほうがましだった。 夫婦が冷めた理由は判然としない。ただ恐らく、単純に交流の無さが原因なのだろう。端を発したのが父で、加速させたのが母だ。でも、責めてくれていればまだ相手への期待が窺えた。責める行為は求めるものがあればこそだ。 しかし母は、やはり、父には何も期待していなかったのだ……。 「早人」 思考に沈んでいた早人は、母が自分のそばに近づいていたことに気づかなかった。急に抱きしめられ、驚いて瞬きをする。抱きしめられるなんて幾つのときぶりだろう? 「本当にごめんなさい。期待に応えられなくて。この家の中で人殺しが行われている状況は、あたしがあの人に交渉した結果だわ。でもおまえの命を守りたい思いがあったの」 しのぶは身を離し、息子の顔を正面から見た。緊張を湛えた面持ちで言う。 「……嫌われるのは怖いけど、正直に言うわ。『おまえができたから結婚するはめになった』なんて考えたこともあった。『おまえがいるから離婚もできない』なんて考えたこともあった。でも今は、おまえみたいないい子が、あたしの息子で本当によかったと思ってる。ありがとう。ごめんなさい。あの人はあたしの夫に為りかわったんだから、今の状況はあたしひとりが抱えるべき問題よ。黙っていれば危険はないし、あたしはこれで満足してるから、おまえは自分の人生を心配しなくていいの。いつかこの家を出て、全部忘れて自由になりなさい。そして必ず幸せになってね」 なんてことだ。川尻早人は頬を歪めた。こみあげる熱をこらえる顔だった。 ぼくの長らくの悩みは、たった今あっさりと解消した。自分はやはり、『愛しあう夫婦の子供』ではなかった。だが確実に、『自分を愛してくれる母親の子供』だった。 確かめる機会はなかったが、父も愛していてくれたろうか? いや、これは希望的観測にすぎない。父とはさしたる交流もなかった。でもどうせ解らないなら、疎まれた記憶もないなら、ぼくの中では取りたいように取っていいのかもしれない。 両親の心は寄り添っていない。でも母は、ひとりの親としてぼくを想ってくれていた。仲良くあってほしいとかつては両親に望んだ。それは叶わなかった。それでもぼくは、幸福な子供だ。ひとりの母とひとりの父から愛されている子供だ。何もかも全部は望めなかっただけで、決して不幸ではなかったのだ。 「……同級生に」 泣き笑いの表情で早人は声を絞り出す。 「……母ちゃんなんか死んじまえ、なんて平気で言うやつがけっこういるよ。そりゃあいいことじゃあないよ。でも母親だって子供だって、人間なんだから、365日いつでも正義の味方みたいに生きられるはずはないよね。ママ、ぼくはママにも、幸せになってほしい」 既に涙ぐんでいた川尻しのぶは、いよいよ子供のように泣き出した。肩を抱いてやりながら少年は思う。母は、父が殺されたことを『酷い話だ』と言った。吉良吉影が川尻浩作を殺害した事実を、非人道的だとは認識している。 ひどいと思うなら。殺人行為を異常だと思うなら。なぜ未だあの男に惹かれているのか――早人は、しかしそう責めることはできなかった。それは母こそが、もっとも苦しんでいる事実だ。母は倫理観を失っていない。吉良吉影の行為を擁護したことはない。彼女も迷っている。恐れ、惑い、苦しんでいる。でもあの男を、嫌いにだけはなれない。 どうすれば母は幸せになれるだろう。それが川尻早人の今後の課題だった。 少年は、ふと宙に視線を彷徨わせた。その課題とは直接は関係ないが、なんとなくもう少し、言及したい内容がある気がしたのだ。ただ今はうまく言葉にできない。だから心にしまっておこうと決めた。残りの思考をうまく言語化できるようになるまで、彼は2年の歳月を要した。 * * * 川尻邸で暮らす吉良吉影は、常としてたいてい機嫌がよかった。 追手どもはこの隠れ家に気づかず、日々の暮らしはのどやかに過ぎる。かりそめの身分を取り繕う必要はもはやなく、好きなときに慈しむ『彼女』は美しい。 「……題材は、P・K・ディックの『父さんもどき』か」 生意気な小僧が、朝食のテーブルで宿題らしき読書感想文を見直していたので、後ろから取り上げてからかう余裕も充分にあった。 早人は身を強張らせる。この小説を課題に選んだのは、ちょっとした精神上の意趣返しのつもりだった。異形の存在が父親とすりかわるSF小説。でも個人的に気を晴らしたかっただけで、当の本人に見せる意図はなかった。何を企んでいる、と凄まれたらどうしよう? 「小学生の読書感想文の題材にしては通好みだな」 「ぼくの勝手だろ」 窺えば吉良吉影は、小馬鹿にしたように笑っている。誰にも気づかれぬ他愛ない悪あがきと受け止められたらしい。事実、そうとしか作用しないだろう。 そのまま数分経った。訝しんだ早人が、もう返せよと言いかけた途端、ひらひらと原稿用紙が頭上から降ってきた。 「2枚目9行。送り仮名間違い。3枚目14行。ウォルトン夫人の視点であれば『気づかない』より『知らない』が適当。4枚目後半。個人的動機と社会的動機をつなげたい意図はわかるが、論の展開が稚拙。字数に余裕があるならもっと工夫することだ」 「……『ぼくの母さんだけでなく、他の人も殺されて手首だけになってしまうから』とでも書いてやろうか?」 「それを読む担任をよっぽど殺したいとみえるな、小僧」 嘲笑混じりに返して、殺人鬼がコーヒーを啜る。そんな真似はできないと確信している。悔しいけれどその通りだ。 早人はちらりと母の様子を窺う。ちょうど卵料理の皿を運んでくるところだった。こちらの会話もうっすら聞こえていただろう。あの日以来、母はやや憂いを帯びた。 夫の正体を知ってはしまったが、表面上見せる態度に極端な落差はない。急に人が変わったようになれば周囲に怪しまれるからだ――ひと月前に既に、急に夫に懐きはじめたのを見られていればなおさら。家事にも積極性をみせ、基本的には静かに笑って過ごしている。たださすがに、以前のような溌剌さには欠ける。 男たちが卵料理を食べている間、しのぶは何気なく、テーブルに置かれたままの読書感想文に眼を落としていた。最後まで読み終えてぽつりと呟く。 「ねえ、これ、もっと重大なミスがあるわ。このままじゃあ感想文として成立しないほどの」 早人は思わず、えっと声を漏らし、原稿用紙を受けとって急いで眼を通した。吉良も眉を寄せ、少年が読み終えた原稿用紙を置かれた端からめくっていく。 構成。内容。そんなにも大きな問題がまだ残っているだろうか? 修正すべき点が見つからず、困惑した早人は母を見た。しのぶが重々しく宣告した。 「1枚目2行。……名前を書き忘れてる」 「あ」 ふたつの声が同じ台詞を発した。高いものと低いもの。低いほうの声の主を少年は意外に思い、父を装う男の顔を見る。吉良は無表情だった。なるほど、と言いたげな苦々しさなら滲んでいたかもしれない。 それなりに珍しいものを見たのだろうな、と早人は思う。この男は神経質で完璧主義だ。多少調子に乗ってでもいない限り、こんな手落ちは見られない。 くすくすと母が声をあげた。悪戯っぽく笑う。以前ほどの天真爛漫さはない。でもかつての彼女に通じるかろやかさがあった。 「……反応があるのってすてきね。交流があるのってすてきね。足りない部分を補ったり、補われたりするのって、素晴らしいことね」 噛みしめるように一語一語を発する。沈黙が、今はやさしく場に落ちた。 そうだ、貰い物のジャムがあるんだっけ、と言ってしのぶは立ち上がる。冷蔵庫へと向かう背中を視線でかすめて、早人は再び吉良吉影を見た。男は窓の外に眼をやっていた。なぜだか庭に植えつけられたサボテンを眺めていた。 この家では常としてたいてい機嫌のよい男が、どことなく不機嫌そうであったのを早人は憶えている。もっと正確に表現するならば、わざと不機嫌になりたがるような表情であったのを、早人は憶えている。 * * * 奇妙な日常は時間を重ね、いくつかの季節が廻った。 6年生になった早人が、ママではなく母さんと呼ぶべきだろうかと意識しはじめたある日。帰宅してきた吉良吉影が、会社でプリントアウトしてきたらしい道路地図をキッチンのテーブルに投げた。素っ気なく続ける。 「次の週末に、近県の図書館に足を延ばそうと思う」 なんでもその図書館は、著名な建築家の手になる設計なのだそうだ。相応の受賞歴もある。図書館自体は一般の公立施設で、特に専門性が高くはない。だが、本を読みながらゆっくり建物内外の風情を味わう休日も悪くない。 「日帰りだが車での小旅行になる距離だ。行きたければ連れていってもいいが、興味がなければわたしひとりで行く」 行くわ、としのぶは即答した。母の返事は予想しきっていたので、早人ものろのろと名乗りを上げる。 彼らをしばらくふたりきりにしたところで、特に危険はないようだ、と早人は数か月の観察で判断している。好きなときに『彼女』を愛でられる身分の吉良は、どうやら母に指一本触れていない――拍子抜けするほどに。早人とて普通の日常を送っている、片時も母から離れないわけにはいかない。ただ、どうせ暇な週末なので心がけとして同行しておこう。 バイパスを走る自家用車はほどなく目的地に到着した。間延びした立方体をかたちどる建築物を、しのぶは珍しげに見上げる。高い吹き抜けのエントランスホールで、3人はちりぢりに別れた。別れかけたのだが、備えつけの蔵書検索機が眼に入った早人は、ぴんと閃くものを感じた。 踵を返し、書架のほうに行きかけていた母の肩を叩く。彼女は以前から、絵本や児童書が好きでそれを読むのを趣味にしていた。 「ねえ、ここ、施設としてはちょっと古そうだよね。蔵書も古めかもしれない」 「それがどうかしたの?」 ひそひそと母が小声で返す。早人は複雑な気分をおさえて続けた。予想がもし、当たっていればの話だが。 「ほら……なんてタイトルだっけ? 絶版でどこにも見当たらないって言ってた、ママの読みたがってるあの児童書。ここならあるかも知れない」 はっとしのぶは得心の表情をつくり、その題名を呟いた。 「……『鼻をなくしたゾウさん』」 蔵書検索機へと向かう。遅いタイピングを早人はやきもきと見守る。画面を見る表情に、目に見えて明色が灯った。古いだけあって書庫に収納されているらしく、閲覧請求票を書いて受付に出しにいく。 長年求めていた憧れの本を抱え、うきうきとソファスペースへ向かう母の姿を、少年は真逆の感情をないまぜにした表情で見送った。 早人はあまり本を読むほうではない。ただ、かつて目的のために扱いを覚えたカメラなど映像機器のたぐいは、近ごろ趣味の域に入りはじめている。専門書があれば目を通そうと思っていた。 二階の書架を見てまわったが、目的の書籍はどうやら一階に収納されているらしい。吹き抜けに面した開放的な階段を下りてゆく。踊り場からは階下が一望できる。 遠目のソファスペースに、まだじっくりと同じ本を繰っている母の姿を見つけた。何気なく視線をその手前にやる。思わず立ち止まった。見つけるのではなかったと後悔した。 吉良吉影が母を見ている。 当人からは気づかれない位置、斜め後ろに数メートル離れた別の閲覧スペース。いつもどおり物静かな、洗練された佇まいの男は、じっとひとりの女を見ていた。 あの位置からでは表情全体は見えないだろう。斜めに横顔が窺える程度だ。ただ、口元がよろこびに弧を描いているのは見えるかもしれない。白い頬がうすく紅を掃いているのは、見えるかもしれない…… 両者を遠く視界に捉え、早人は唇を噛んだ。ああ、見ているな、見ているから何だっていうのさ? どうせただの偶然だ。考えごとでもするうちに、顔が偶然あの方角を向いただけだ。別に確たる表情も浮かべてはいない。ただ、ちょっと、眩しさに眼を細めるような顔だ。懐かしい風景に気づいたような顔だ。自分の手では完成させられない細工物を眺めるような顔だ――本当はもっと単純な形容があるかもしれないとは、早人は考えたくなかった。 忘れるな、あれは人殺しだ。快楽のために人を嬲りその尊厳を喰い散らかす化け物。そうだ、ついこの前だって。『もう帰る』『それを返して』『なんでもするから』『死にたくない』……最中は常に二階にいるし、声の大きい子はまず喉を潰されるからはっきりとは聞こえないが、耳に届いてしまうこともある。 女性たちにそんな苦鳴を吐かせる男に、あんな表情をする権利があるものか! 早人は階段を下りた。見たものは早く忘れようと思った。なのに少年の足は、勝手に男の座っている閲覧スペースへと向かっていた。到着する前に相手は、すっかり普通に読書している姿勢をとっていた。 読んでいるのは上下巻の小説らしく、似た装丁の緋色の本と紺色の本とが男の手元にある。緋色は表紙を伏せられ、紺色は大きな手が表紙を覆っているので、なんというタイトルかは解らない。 横に立った少年のほうを見もせず、小声で訊く。 「何の用だ?」 早人はじっと吉良を見下ろした。この図書館に来ようと言い出したのはこの男だ。絵本や児童書の好きな母は、絶版になったあの本を以前から探していた。杜王町はもちろん、S市の大きな図書館や古本屋にも赴いたが、見つからなかったと聞いている。この図書館に置いてあったのは偶然なのか? まさかこの男が、わざわざ近県の図書館に電話をかけて、蔵書を調べてもらったとでも? 問いただしても答えないだろう。早人もまた、是であれ非であれ答えを聞きたくはなかった。 「何の用だ?」 黙ったままの相手に、男が再び問いかける。なんでもない、と答えて去ろうと早人は思った。余計なことは言いたくない。少年はひとたび瞑目して、ここから去るべき多くの理由を思い起こした。殺された女性たち。気の毒な父。母の人生。 それなのに、早人の足は動かなかった。そのうえ言いたくないはずの台詞が漏れた。 「母さんのそばに行って座れよ」 図らずも、これが少年にとって『母さん』という呼び名の初舞台になった。吉良吉影が、訝しげに川尻早人を見る。 「わたしはここでいい」 「……行けったら」 「なぜそんな必要が?」 早人はもう少しで声を荒げるところだった。だったらあんな顔で、ぼくの母さんを見るな! あんな顔をして眺めているくらいなら、近づいていってそばに座れ。話しかけなくてもいい。仏頂面のままでいい。とにかく自分から近づいていって、当たり前のようにそばに座れ。 それだけのことで母さんの苦しみがどれだけ軽くなると思ってるんだ! 「いいから行けよ」 理解できないとでも言いたげに、吉良吉影は少年を見た。平静な居住まいは、その意志はないし検討の余地もないと言外に断じていた。せめて欲求に耐える気配があれば見たかったが、少なくとも態度からは汲みとれなかった。 「わたしはここでいい」 同じ返答を繰り返して、殺人鬼が手元のページを繰る。対話は終わりだと示していた。 早人は荒々しく踵を返した。図書館なので、足音を立てないようにするために少しばかり努力を要した。 勘違いしそうな土壌が培われつつあると、三者はそれぞれ思っていたかもしれない。あるいは勘違いではないのではと、女は思いたがっていたかもしれない。でも吉良吉影はやはり、ときどき家に『彼女』を連れ帰るのをやめなかった。勘違いの土壌は、そのたび強い雨で崩れるように流れ去った。でも朝食の卓を囲むたびに、次に咲く季節の花はどれかと庭を見てなにげなく語るたびに、何度でも新しい土が盛られた。 キャビネットの花瓶に活けられた百合を見て、あの男が『帰宅』してきてから3度目の夏になることを早人は知った。中学生になった彼は、かつてはうまく捉えられなかった父についての思考を、今なら言語化できると自覚した。 * * * 「母さん」 呼ばれて振り向いた途端、ぱしゃりと音がして、庭にいたしのぶは瞬きをした。 黒光りする機械を掲げて息子が笑うので、写真を撮られたと気づいた。自分の格好を見直す。服装はともかく、足元は杜王の町章の入った野暮ったいサンダルだ。 「ちょっと、せめてひと声かけてよ。どうせ撮られるならましに撮られたいわ」 「無防備で自然な感じが欲しかったんだ。でもほんとは無許可はよくないね。だから他人をこんなふうには撮らないよ」 早人は着ているシャツの裾でレンズを拭く。息子の手持ちの機材をよくは知らないが、角ばって大きい、ずいぶん型落ちした機種だなとしのぶは思った。 「これ、ぼくの持ってる機器の中で一番古いカメラだけど、ぼくがもっと小さいころ、父さんが気まぐれに中古で買ってきたものなんだ。知らなかったでしょ」 「……知らなかったわ」 「カメラとかビデオとかの映像機器がちょっと好きだったんじゃあない? ぼくがおもちゃ代わりにいじってるのを見て、もう一台くらいかな、中古を買ってきてくれたよ。それっきり別に何の会話もなかったけど」 「知らなかったわ。お年玉をうまくやりくりしてるんだと思ってた……」 「残り大半はそっちで買ったけどね」 母が自省を滲ませてうなだれるのを、息子は視界の端で確認した。静かに問いかける。 「……母さんと父さんは、夫婦としてうまくいってなかったんだよね。それは納得したんだ。ぼく自身は、母さんの息子という事実があれば幸せだ。だから気にしてない」 早人はやさしい発音を心がけた。ただし不要な色も盛ってしまわないように。 「ただ、単純にときどき考える。母さんの気持ちは聞けたけど、父さんのほうの気持ちは聞けてない。父さんはぼくらのことをどう思っていたんだろう? 母さんには解る?」 「…………解らないわ」 応える声は曖昧に流れた。掠れた呼吸を重ねて、おぼつかない続きを唇の隙間から押し出そうとする。 「……解らないけど、もしかしたら……あたしたちのために頑張って……」 「ちょっと待って」 不用意には投げ返さず、やわらかく受け渡すイメージで、早人は言った。 「父さんのことを、『気の毒な死に方をしたから』ってだけで善人だと思おうとしているなら、やめておこうよ。悪人じゃあなかったにしても」 虚を突かれて、女が顔を上げた。はっきりした口調で少年は続ける。 「父さんは殺された。罪もないのに理不尽に殺された。それは絶対に許されないし、認められない。でもそのことと、父さんという人間を公平に考えることは別問題だ。……同情すべき死に方をしたからといって、その人の難点まで消えるわけじゃあない」 早人はカメラを撫でた。もとは中古であったうえ、彼自身も使いこんだのではしばしに使用感が強い。ただ手入れには自信がある。 「誰かが悲劇的に亡くなると、残されたほうは、その人に報わなければいけない気分になるんだね。悪く言ってはいけない気分になる。その気持ちはやさしさだし、礼儀だから、いいことだと思う。公的な場所ではそうすべきだ。……だけど……ぼくは個人的には、あまり理想化しないリアルな父さんを把握したい。できるだけ、ほんものに近い父さんを追うことを、ぼくなりの誠意にしたい」 まあ、今から言うこともぜんぶ推測にすぎないけどね、と早人は苦笑して言い添えた。推測でしか語れない状況にした、少なくともその一点であの男は裁かれるべきだ。 「……仕事への姿勢をみるかぎり、父さんは朴訥で真面目な人だったらしい。でもすべての面でそうだったかな? 家の中で『飯』『風呂』『寝る』としか言わないことは誠実かな? 妻や子にまともな交流を働きかけないことは、はたして誠実かな?……家庭というひとつの責任を背負った男が、なにも行動を起こさないのは怠惰だ。このままではよくないと思っていたとしても、改善しないならそれだけの意志がない。不器用はこの場合、理由にはなるけど言い訳にはならない。……同情は、したい気もする。でも父さんが、家族を怠けていた事実は変わらない。それが父さんをリアルに把握することだ」 心臓の中にちいさな痛みをおぼえ、早人は斜め下を向く。 「でも……かつてはぼくもそうだった。自分のことしか考えてなかった。公平を期すために言うけど、母さんも家族を怠けていたよね」 「……そうね。みんながみんな怠けていたわ……」 「父さんは家族のために、仕事で出世をめざしていたのかな? どうだろう、仕事のほうが楽しかったから精神的にそう思いこんだのかもしれない。少し考えれば理屈がおかしいのは解るはずだ。……父さんがぼくに中古のカメラを買ってくれたのは、きっと好意からだね。ただしそれは、『趣味として自分に解るものだったから』でもある。母さんに何かを働きかけていた感じはないし」 「ええ……あたし個人に興味を持たれたような記憶は、あまりないわ。たとえば料理を作ってくれたこともない」 早人の母は元来、いささか身勝手で子供っぽい性格だ。でも情深い一面もある。返事をしない自分に「行ってきますは?」と言い続けたように、彼女が欲したのは反応だ。だから打てば響かないわけではないのだ。それで父に惹かれたかまでは不確定だが、ああも冷淡な態度は取らなかっただろう。 「……ぼくが言うのもなんだけど、母さんの交際の動機は、かっこいい人を自慢したいだなんて子供っぽい見栄だよね。でもそれを見抜けずに、見抜いたとしても問題視せずに交際をつづけた父さんも、やっぱり子供だったんだろうね。これでいいやと状況に流されるばかりで、母さんのことを、きちんと好きにも嫌いにもならなかった」 「あたしはあたしで、それに勘づいたなら、『ごめんなさい、あなたを好きではない』と正直に伝えるべきだったのね。生活のことがあったにせよ、だらだらと冷めた時間を続けるんじゃあなかった。関係を改善するか、解消するか、きちんと選ぶべきだった。それが誠意だわ」 言おうと思っていたことを母がほぼ補完してくれたので、早人は微笑んだ。 「ここからは希望的観測だけど。父さんは、できればうまくやりたいとは考えていたのかもしれない。だから自分の好きなものをぼくにくれたのかもしれない。ぼくは昔、『ぼくは父さんに愛されていただろうか』と考えたことがあった。『愛されていたに違いない!』と信じこむこともできた。でもそうはしなかった。『父さんが何を考えていたかは解らない』というのが、偽りない正直な感想だったからだ。……ただ、まあ、どうせ解らないなら、取りたいように取ればいいと思った。希望的観測にすぎないけれど、ぼくのほうからサービスしてやればいいと思った。息子のことはちょっと好きだったろ、解ってるよ、と受け止めてやろうと思ったよ。それでちょうどよかったんだと今更ながら思う」 「……昔から思ってはいたけど、おまえは本当にかしこい子よね。誰に似たの?」 「ぼく自身ががんばった結果だよ」 「そのとおりね」 玄関のほうで遠く、がちゃりと音がした。気づけば陽はかなり傾いている。 家に入ってきた人物の気配が、廊下から居間へと抜けて歩いた。やがて庭に面した裏口の前に立つ。ノブを回して開け、帰宅した男が母子の姿を見つけた。 「……ふたりとも庭にいたのか。部屋に誰もいないからどうしたのかと思った」 カメラの照準を戸口に合わせて待ち構えていた早人が、ぱしゃりと一枚を撮る。吉良吉影はたちまち不審の顔を作った。 「何の真似だ」 「別に誰にも見せないよ。というか、見せたって怪しまれるほどの写真じゃあないだろ」 爪の先でこつこつとカメラを叩いて早人は言った。 「気になるなら現像しないし、この家からも持ちださない。なんならこの場でネガをやるから自分で管理しろよ。ただし処分したりはするな。そうしたらまた撮るからな」 少年の父の顔をした男が、ますます不審を色濃くする。しのぶが微笑んで、家に入りましょうと言った。 「早人」 後日、廊下で母に呼び止められて、少年は振り向いた。 ついてこいと手招きで合図される。従って居間に入るとキャビネットの上を示された。 様々の小物類が並んでいるが、いちばん右端に見慣れないものが置かれている。写真立てだ。父の写真が収まっていた。 印画紙は黄ばんでいて古い。1999年より前の写真を探したが、ろくに記念撮影などしない家だったので、結婚直後の写真を出してきたのだろう。あまり光を映さない虹彩は、やはり何も語らない。ただ父である男だった。 写真の前に小さな香立てを置き、しのぶが線香に火をつけた。早人にも数本を渡す。 まっすぐに立ち昇る白糸を透かして、彼らは手を合わせた。大きな思い出のある相手ではない。粉飾することはせず、世帯主として勤めてくれたことへの素直な感謝を捧げた。母も同じ思いだろうと少年は思った。 対外的には生きている男の遺影を、もし他人に見られては説明できないので、写真は早人が引きとって部屋にしまった。事態はなにも解決していない。殺人者の罪は未だ裁かれていない。ただ、彼らはわずかな節目は過ぎ越した。 * * * あなたは器に水を入れて歩いている。 だが器には、女の手のかたちをした穴が空いている。 器にはいつのまにか、一輪の花が挿してある。ここは砂漠なので、水がなければ花はすぐに枯れる。あなたにとってもその花だけが旅の慰めだ。 水を保つためには穴に接ぎを当てねばならない。 血に濁る水を吸うつらさに、花が悶えて苦しんでも、あなたはその器しか持っていない。 * * * 川尻しのぶが、笑顔で自分の帰宅を迎えるのは、吉良吉影にとっていつもの光景だ。 すこし痩せた頬がけぶるような憂いを帯びていたとしても、現状の生活を選んだのはこの女なのだから、自分には関係ない。関係ないと思おうとしていた。でも珍しくその日、女は普段よりも屈託なく彼に笑いかけた。 「今日はちょっといいものがあるのよ」 小走りにキッチンに向かい、暗緑色の瓶を一本抱えて持ってくる。差し出されてラベルを確認した吉良はそれなりの意外さで呟いた。 「モエ・エ・シャンドン」 ブランドが有する銘柄のうち、極端に高いほうではなかったが、何の理由もなく一般家庭で供される酒ではない。 「これはどうしたんだ?」 「ふふ、商店街の福引きで当たったの。お食事のあとにいただきましょう。合うように夕飯も洋風にしたわ」 瓶を抱えたままでは上着を受け取れないと気づき、スリッパを履いた足がぱたぱたとキッチンに戻っていく。浮かれて転ばなければいいがと吉良は思った。 「なんかの映画で観た気がするけど、シャンパンに苺を入れると美味しいんだっけ? でもこんな高級なお酒でやるものじゃあないかしら?」 「……映画の影響で流行りすぎたイメージがあるが、その組み合わせ自体は英国ウィンブルドンの伝統的な風物詩だ。ただし中に入れるのではなく、シャンパンにクリームがけの苺を添える。材料が揃っているなら好きにしなさい」 「はあい」 夕飯は美味く、食後には説明どおりの組み合わせが出てきた。女の声が、普段よりまろやかに転がっているように吉良には聞こえた。TVはすこし前衛的な昔の映画を流している。夏の宵がゆっくりと時を刻んだ。 吉良は深酒をしない。もとの吉良邸でも、この川尻邸でも、アルコールは適量をたしなむ程度だ。酩酊せず、判断力を失わないよう節度を保つ。今夜もきちんと抑制をきかせていた。 映画が終わりかける段になって、母である女は時計を見た。 「早人、あんた明日、課外学習で早いんでしょう? そろそろ寝たほうがいいわ」 指摘の通りだった。早人はソファの男と、同じソファに遠慮がちに掛けている母をちらりと見る。 躊躇いが脳裏をかすめたが、長らくの事実の集積が少年を納得させた。ふたりきりにしたところで何も起きない。今夜は軽くアルコールをとったが、どちらも正体を失くすような酔いかたはしていない。自分が先に寝ることもこれまで何度もあった。欠伸をして早人は二階に去った――いつか自分が望んだ矛盾に小さな痛みをおぼえながら。 襟元を緩めて、吉良は満足の息をつく。名に恥じぬいい酒だった。映画を観るために絞られた照明が、昼の陽光に疲れた瞳を労わる。国営放送に切り替えられたTVは、低音量で天気予報を流している。いい夜だった。 翌日は快晴でしょう、と壮年のアナウンサーが言う。本当だろうか? 大気に少し、湿気が混じってはいないか。朝方くらいに通り雨が降ったりはしないか。平衡感覚を失った獣のように、吉良はどうでもいい思考をふらふらと循環させる。酒精のせいではなかった。理由は解っていた。隣に座る女の肩が、いつのまにかこちらに触れていた。 視線を動かす。予想はついていた。女はじっと吉良を見つめていた。気づかれたと知ってしのぶは、口の中でもぞもぞと、ごめんなさいと言って瞳を伏せる。睫毛の描く曲線がいじましく影をおとした。 吉良は深酒をしない。酩酊せず、判断力を失わないよう節度を保つ。今夜もきちんと抑制をきかせていた。 それがいけなかった。 神経質に一滴も摂取しないか。もっと呑んで酔いつぶれるか。どちらかに踏み外していたほうが自身のためだった。 女にじっと視線をあてたまま、吉良は薄い肩を掴んだ。身構えず、間も置かず、流れるような動きで、唇にくちづけを落とした。 気負う意識はなかった。そうするのが当然に思われたからだ。一度。二度。接触は頬へと移り、首筋に流れた。見開かれた瞳の濡色を覗きながら、無理を与えない姿勢で、ソファにゆっくりと圧し倒した。やはり、そうするのが当たり前のように思われた。 きれいな女だな。率直に感じた。腕の中にいる女は美しかった。でもそれは知っていた。これまで見ないふりをしていたのだ。彼女はいつだって、この世のなによりも吉良の眼には際立っていた。 空白の数秒を経て、やっとしのぶは震え、吐息だけで男を呼んだ。……あなた。 こんなに間近にいる。鼓動が悦びに跳ね、全身の肌がざわめく。しかし同時に、この先に待つものも女は知っていた。男が内に飼う獣を知っていた。彼女はごく尋常な人間なので、死は恐ろしかった。ただし恐れることと、嫌悪することは別だった。待つものは綺麗ごとではない、痛苦と蹂躙に違いない。でも、それだけでこの男を嫌悪できたらもっと楽に生きられていた。 きつく抱きしめられて、甘やかな苦しさに視界が潤んだ。 女の耳のうしろの生え際あたりを、男はついばむように唇で喰んだ。浅いわななきが伝わって、白い肌が熱の色を刷いた。少しだけ頭を上げて、吉良はしのぶの顔を見た。澄んだ虹彩が自分を映した。蜜でできた声が再び、焦がれぬいた渇望をこめて男を呼んだ。あなた。 女が怯える姿を、彼はたぶん好きだった。絶対の優位から与える圧倒感を、彼はたぶん好きだった。でも、恐怖を知りながらそれを我がものとして容れる女を、彼ははじめて見た。彼のための女は無垢のまま、獣の牙が自分の喉にくちづけるのを待っていた。その姿はただ、新床の花嫁に、似ていた。 すべてが許されていた。すべてが認められていた。手中に脈を納めて渾身で想いを遂げれば、相手の全存在が手に入るとわかっていた。この世の誰も及ばない、とろけるような幸福に到達できるとわかっていた。ふれたい。さわりたい。撫でたい抱きたい犯したい舐めたい嗅ぎたい、――たい。 ごっ! と響いた硬質の振動にしのぶは息をつめた。 音のしたほうを見る。ソファに倒れこんだことで、床に触れる距離になっていた男の腕が、拳で床を殴りつけていた。小さからぬ衝撃だった。 がばりと男が跳ね起きる。鉄の自制で鎧った相貌は、紙の色をしていた。酷薄に告げる。 「わたしを誘惑するな」 語気に絡む怒りは、自分自身へのものだったが、女は絶望に身を竦ませた。上体を起こして後ずさりし、防御めいた姿勢で身を抱く。吉良の眼にはそれすらも扇情的に見えた。駄目だ。物理的に逃げ出すより方法はなかった。 外へ。家の外へ。 立ち上がり、よろめきながら早足で、玄関から戸外にまろび出る。小僧は起きてこないのだろうか、と頭の隅で思う。成長期の子供の眠りは深い。一回の物音程度では起きださなくても無理はない。 行くあてなどない。だが無目的に歩けば、足は自然と慣れた道を選んだ。通勤で使う杜王駅のほうへ。 女子大生らしき数人連れに、居酒屋から出てきたOL。日中とは比べるべくもないが、人影は少なくない。遅い時刻だが本当の深夜ではないし季節は夏だ。見通しのいい通りなので、ひとり歩きの女もいる。観光客とわかる若い娘も。 みな愛らしい。みな素敵だ。誰から可愛がってあげよう? 誰から良い子にしてあげよう? 己を鼓舞するように吉良は自問する。あのこは爪の切り方が上手かな。あのこを刻めばどんなふうに鳴くだろう。血の幻想は、彼を落ちつかせた。一刻も早く、安らかな気分になりたかった。なりたくなかった。なにかを虐げ屈服させてすがすがしさを得たかった。得たくなかった。これまでそうしてきたように誰でも殺せる気でいた。そうではなかった。赤みを帯びた髪をして猫が好きでわたしと眼が合えば微笑んで今も家でわたしを待っているあの女を殺したかった。殺したくなかった。 あの女ではないから誰でもよかったのだ。 夜を歩く殺人鬼は、今、どんな男よりも安全な存在だった。うろうろと彷徨って疲労ばかりを蓄積させる。時間こそ食ったが、大した距離は歩いていない。なのに妙に呼吸が上がり、吉良は心臓を押さえた。休息したかった。 細い路地に入り、閉店した店舗の裏口の段に腰を下ろす。帰りたかった。帰りたくなかった。自分はいったいどんな顔をしているだろうと思い、苛立ちのあまり、再び蛮性がじわじわと胸にこみあげた。見たものは眼を潰そうと思った。 かたりと物音が聞こえて、吉良は振り向いた。 白い手をみせて立つ者がいた。 しのぶはソファの上で、迷子の少女のように膝をかかえて座っていた。 涙は出ない。心はもう一生分泣き腫らした。実際に涙をこぼしていないのは、泣いている最中にあの人が帰ってきてはいけないと、きっと泣かれたって不愉快だろうと、これ以上あの人に面倒な思いをさせたくないと、その努力だった。 このまま帰ってこなかったらどうしようとも考えた。でもその可能性は低い、と自分に言い聞かせる。彼は平穏に生きることを信条としている。住む場所や身分まで失うリスクは背負わない。今夜が不運だっただけで、本来自分は彼にとって、惑わせるほど価値のある女ではない。あたしが余計な真似さえしなければ、この家は都合のよい隠れ家なのだ。使えるうちは使ってくれる。二度、三度と今夜のような面倒ごとを繰り返せばわからないけれど。 がちゃりと玄関の開く音がした。しのぶは安堵のあまり立ち上がる。迎えに出ようとしたが、これも余計な真似だろうか? 逡巡するうちに居間の扉が開いた。 いつも帰宅時そうであるように、男は、何ひとつ含まぬ風情だった。確たる表情も浮かべてはいない。「おかえりなさい」と言ってしまってからしのぶは、この言い方もおかしいだろうかと思った。もう遅いけれどシャワーを勧めて、明日もあるから寝てください、と続けようとした。 男が、シャツの胸ポケットから白いものを取り出したので、しのぶは凍りついた。 彼女は知っていた。常であれば背広の内ポケットにあるもの。今は上着を着ていないから、夜を幸い、シャツのポケットに入れたもの。白く小さく、男の手のひらに乗る大きさで、なめらかな五つの突起が伸びたもの。 でもそれは、もぞもぞと動いた。全体が毛に覆われていた。夫の顔をした男が、しのぶにそれを差し出す。混乱したまま思わず受け取る。白い仔猫が、きいきいと鳴きながら手のなかに落とされた。 あたたかく、やわらかい、彼女がこの世で愛するもののひとつ。 しのぶは数秒だけ言葉を失い、手中の生き物と、男の顔を見比べた。生まれたばかりの仔猫。大きさからみて生後2週間ほど。目やにがひどくてろくに瞼が開かず、所在なさげに鳴きわめく。猫好きな彼女は、次にやるべきことを心得ていた。 まず保温。母猫の体温は38℃、それと離れて一匹きりではたとえ夏でも体調を崩す。古布にくるみ、熱すぎないお湯入りのペットボトルを添える。 濡れた綿棒で排泄をうながす。ろくに出ない、一昼夜はなにも摂取していない。仔猫用ミルクの常備はないが、普通の牛乳では下痢をおこしかねない。あたためた砂糖水をガーゼで吸わせる。応急処置だが、低血糖と脱水を免れるだけでかなり違う。 慎重に眼を拭ってやると、キトゥンブルーの瞳がぱっちり開いた。砂糖水を吸わせながら全身をくまなく触る。痛がる様子がなければ、外見からは解らない大きな怪我もしていない。朝一番に獣医に連れていけば大丈夫だ……。 くるくると立ち回る女の様子を、吉良はソファにもたれて見ていた。歩きまわって疲労しており、眠気が雲のように意識を覆いつくして怠い。それでもじっと見ていた。 身体が温まり、栄養を得た仔猫が、やがてしのぶの腕の中でまどろみ始めた。安堵に肩を落とした彼女は、ソファの男を振り返る。何かを言おうと口を開ける。 ありがとう、とたぶん言おうとした。でも伝えるべきものが感謝でいいのかどうか、よく解らなかった。この子を授けられたことはなぜか自然なことにも思えた。 声を出したら、こみあげる熱さが嗚咽に溶けてしまう気もした。だからしのぶは黙って白い仔猫を抱きしめた。 無言のまま、男が自分の足元近くを顎で指ししめす。クッションが落ちている。しのぶは瞬きをし、察して、ソファを背にしてクッションにおずおずと座った。 吉良は二人掛けのソファに、本格的に横になった。肘掛けに頭を載せ、眠るための姿勢をとる。ふたりは身体が触れあう位置にはなかった。だけど距離は近く、空隙はせいぜい仔猫が通れるほどの細さだった。 しのぶの背後から低い呟きが聞こえた。 「……言い忘れていた。ただいま」 ここに至ってやっと、女は許しを得られたように、しずかに泣きはじめた。それを聞きながら吉良は深い眠りにおちた。 川尻早人が目覚めると、家族が一匹増えていたが、あまり驚くことでもなかった。 母の猫好きは知っている。これまでよく増やさずに我慢していたと思うほどだ。ただ、一夜のうちにどこで拾ってきたのかは疑問だった。 「……家の前で鳴いてたの。どこかに運ぶ最中、母猫が事故に遭ったのかもね」 伏し目がちの回答を、悲劇の想像によるものと受け止めて、早人は吉良吉影を盗み見る。父の顔をした男は黙っていた。うるさく鳴かれるくらいなら引き入れて黙らせたほうがいい、程度の考えなのだろう。 先住の飼い猫との折り合いが気にかかったが、想定よりも好感触だと母は言う。先住猫は雌なので、縄張り意識が比較的低いらしい。仔猫は幼すぎてまだ風呂には入れられないが、絞ったタオルで拭いてやりブラシをかけると、見違えるようにきれいになった。 「さあ、これで今日からうちの女王様よ」 「待ってよ。こいつは雄じゃあないか」 尻尾を持ち上げて早人は言った。仔猫の性別判定はむずかしく、辛うじての判断だがたぶん間違いない。 「猫って、たとえ雄でも、なんだか女王様みたいな雰囲気ない?」 うきうきと語る母の自論に、水を差しても仕方がないので早人は肩をすくめた。一ヵ月半もすると白い仔猫は足腰も伸び、人のあとをついて歩いた。捨てられていたわりに人を恐れない猫だった。先住の猫とも、まるで知らない仲ではないようにぴったり寄り添って眠った。 ひとつ、不思議なことがあった。 白い仔猫は、吉良吉影のあともついて歩いた。脛に背をこすりつけ、膝に乗って丸くなる。大抵の場合そのまま構われず放置されている。でもときどき、男の手が猫をつまみあげ、じっと瞳を覗きこむのを早人は見た。 猫はふつう視線を合わせることを好まない。敵意のしぐさだからだ。でもこの仔猫は嫌がらない。黒い虹彩を見つめかえし、黙ってなにかを託される。 そのあと吉良吉影は、わざわざ母に猫を渡しに行く。家事で手がふさがっていればしばらく待つが、いずれ折をみて渡しにいく。母は黙って猫を受けとり、猫もおとなしく渡される。母の腕のなかで猫はごろごろと幸福に溶ける。吉良吉影はそのまま立ち去る。 奇妙な儀式だった。意味があるのかどうかも解らなかった。解らないなりに早人は、どこか哀しいと思っていた。 * * * シャッター音が止むのを待って、同級生の少女が声をかけてきた。 「川尻って、猫が好きなの?」 「特に好きではないかな」 「……好きじゃあないものをわざわざ撮ってるわけ?」 当然の質問だった。放課後、あらかたの生徒が帰った教室。校庭をゆきすぎる野良猫を見つけた早人は、いい位置に差しかかるのを待ってレンズを構えていた。 少年はたまに、自分の通う中学にカメラを持ちこんでいる。使い捨てでもない私物のカメラを、バッグに忍ばせているのが教師にばれたらさすがに注意があるとは思う。友人に、『父の形見なんで見逃してくださいって言ったら通るかな?』と言ったら、『おまえんちの親父生きてるだろ』と笑われた。 「猫って、なに考えてるか解んないところあるから、どうにかして見透かしてやりたくて撮ってる部分はある」 「ふーん」 早人は、引き続きファインダーを覗くふりをして、隣に立つ少女を窺った。よく話すようになって半年が経つ。嫌いじゃあないと思う。その逆だと思う。 母に似ているだろうか、と考える。少し口やかましいところは似ている。だが思春期の女の子は、早人から見ればだいたいみな姦しい。数学が得意で自分と順位を競っているあたりは、文系の母とはむしろ真逆だ。 『男児は母親に似た女性に惹かれる』という俗諺がある。でも俗諺だな、と早人は思う。同性なら、ある程度の共通点があるほうが普通なのだ。押しつけられればうんざりするが、度を超さなければ微笑ましい程度の言い回しだ。 だが、少なくとも自分の母は、この少女を見ても自分に似ているとは思わないだろう。今の母は、たとえどんな子を見ても自分と似ているとは思わないだろう。自分などに似てはならないと思うだろう。自分と似た人生など送ってはならないと思うだろう……。 「じゃあ川尻は、猫派か犬派かでいえば、犬派なんだ」 「単純に犬のほうが頼りになるしね」 「ちなみにあたしは鳥派ね。そういや思い出したけど、来月あたし誕生日だわ。全然関係ないけど、駅前の雑貨屋さんでかわいい小鳥柄のポーチ売ってたわ」 「全然関係ないけど、金欠なんで余計なもの買う余裕これっぽっちもないわ」 笑いながらこづく真似をしてくる。とるにたらない会話だ。でもそれが早人には救いだった。些細な日常、日々に埋もれる会話がもたらす安息を知っていた。 金のかからない場所に、遊びに誘えたらと思う。鳥派だというけれど、うちの仔猫がかわいい盛りだから家に呼んで宗旨替えさせてやろうかとも思う。でもうちには、人を殺す男がいる。もし吉良吉影が、この少女に眼を留めたとしても、それは早人がこの子を見初めた意味とは違う。しかし命が奪われるのは事実だ。 決意がそっと、少年の扉を叩いた。 終わらせよう。暗い水の底から、輝きが音もなく浮上する。劇的ではなかった。でもその静かさに反して鮮烈だった。そういうものかもしれない。必要なのは時間だけだったのかもしれない。 「あのさ」 少年の声色にわずかな生真面目さを感じとり、少女は相手の横顔を見る。 「今度、人物写真を録ってみたいんだけど、ぼくの家に来てモデルをやらないか? 誕生日が近いなら記念写真ってことでちょうどいい。報酬もつける」 「報酬?」 「うちで飼ってる仔猫がかわいい盛りで撫でほうだいだ。あと、母さんが近ごろ手作りのシフォンケーキに凝ってて、出来たてが美味い」 自宅で写真を撮らせろという申し出は、たとえ好意を抱いている相手でも、女性なら抵抗を抱いて当然のものだろう。だから情報の中に母の在宅を織りまぜて、安心感を抱かせるようにした。 正しく使えば正しい尊重になる、こういった知的なはたらきを、誰の日々の言動から学びとったか。早人は認めなければならなかった。認めた上で終わらせなければいけなかった。 「……考えとくわ」 悪しからぬ反応を覗かせて少女が答えた。早人はカメラから眼を離し、背筋を伸ばして立つ。終わらせよう。 不用意な真似はできない。母の身を危険に晒したくない。でも終わらせるのだ。誰のために。恐らくは関わるすべてのために。 * * * 東方仗助。虹村億泰。岸辺露伴。広瀬康一。 吉良吉影は呪詛としてそれらの名を呟く。見知らぬ他人の家の、植えこみの陰に隠れ、かがみこんで気配を殺しながら。明日からも安心して熟睡するために。 吉良が、東方仗助以下四名と遭遇したのは十数分ほど前だ。 『川尻浩作』が『吉良吉影』であることを、追手どもがなぜ突き止めたのか、吉良は把握していない。だがいくつかの推測はできる。たとえば写真の父親。姿をしばらく見ていない。町を飛びまわるうちに再び捕えられ、岸部露伴の能力で情報を読まれたか。あるいは川尻早人。2年前、自分に仕掛けられた能力『Another One Bites The Dust』が、はったりにすぎないと勘づいたか。 ただし早人に語ったあの能力は、実効こそないが、完全な無根拠でもなかった。潜在下ではかすかに手応えを感じていた。目覚めるだけのきっかけが足りなかったのだ。川尻家の生活の中で、それを身につける原動力を得られなかったのかもしれない。 ともあれ吉良は、川尻浩作として通勤する途中、尾行されている自分に気がついた。 2年間絶やしていない注意深さの賜物だった。敵陣営のうち1名、空条承太郎の不在については疑問ではない。海洋学者であれば表向きの生活もあろう。いつまでもこの町に滞在はできない。東方仗助たちは、仕事で外洋にいる彼と連絡が取れず、彼抜きでの接触を試みるしかなかったのだ。 眼前に立ちはだかったリーゼント頭の高校生が、『吉良吉影』という名を出した時点で、逃走する準備はできていた。 吉良は攻撃速度において東方仗助に劣る。しかし仗助は、相手が、スタンド能力ではなくごく原始的な手段を最初にとることは読めなかった。街路樹のそばに立っていた吉良は、足元の砂を蹴りあげて目潰しを図った。この近所に2年あまり住んだ男の地の利だった。 爆弾ひとつは点の攻撃だが、散らばる砂は面の攻撃だ。対処しそこねて仗助はまともに食らった。爆音。吉良とて余裕はない、投げた石がどこかに当たれば上等という攻撃しかできない。だが成果はあった。学生ズボンの左足がまともに爆ぜた。 駆け抜けざま、曲がり角に潜んでいた尾行者のひとりに、爆弾化したボタンを投げる。そいつは苦鳴をあげてのけぞった。広瀬康一だった。『重くする』能力は厄介だが、強引に引きずれば移動できなくはない。東方仗助とタイミングを併せ、効果的に攻撃をしかける気だったのだろう。急所は外したが、小柄な肩から血が噴き出るのは確認した。 慌てて駆けよってくるもう2名を振りきり、吉良は住宅街に逃れてこの植えこみに隠れた。追手どもはまだ近所をうろついている。 だが成果はあった。左足がちぎれかけている東方仗助は、路上に伏して動けない。速やかに処置を受けねば生命も危ない。『治す』能力を当座、無力化できたのは大きい。 わたしは勝つ。安心して熟睡する。平穏に、幸福に生きのびてみせる…… 「露伴先生、だめだ、仗助のやつがもう限界だ」 数メートル先の路上で虹村億泰の声がした。吉良は頭を低くし、耳をそばだてる。 「オレの親父は左手を失っても戦った、吉良のやつだって手首を切って逃げただろ、なんて強がってたけど、ついに失神した。顔が土気色だ」 「馬鹿な奴だ。手より足の方が切断面が大きいから失血の速度が違うんだよ……」 「でもこのままじゃ、せっかく突き止めたのに、あいつがまた逃げてしまう!」 応じた声は岸辺露伴、それに続いた憔悴の声は広瀬康一らしい。間があって、岸辺露伴が言った。 「情報が確かなら、平穏な生活に執着するあいつは杜王町からは離れない。いずれまたチャンスはある……仗助に死なれちゃあこっちが不利すぎる。勝てるものも勝てなくなる。この2年がふいになるのは悔しいが、倒せなくては元も子もない」 場における年長者としての判断だろうが、押し殺した口惜しさが透けている。 「承太郎さんはさすがに待てないが、ここはいったん引いて体勢を立て直すべきだ。康一くん、きみだって決して軽傷じゃあない。救急車を呼ぼう。見つけてもらいやすいように大通りに出るんだ……」 立ち去る足音がした。さらに遠くでかすかに、数人でなにかを担ぐ物音も聞こえる。東方仗助を担ぎ上げたのだろう。音はさらに遠ざかり、大通りに続く角の向こうで消えた。 吉良は落ちついて呼吸を整え、茂みから立ち上がった。 これからどうすべきか? 逃亡経路。潜伏先の模索。準備のうち大きなひとつを片付けるため、吉良はひとたび川尻邸に戻ることを決意した。猫草を取りにいこう。 戦いは好まない。だが正体がばれた以上、待ち受ける荒事に備えねばならない。中距離射撃に長ける猫草の力はおおいに助けになる。考えてみれば、東方仗助が入院し、空条承太郎が不在である現在、追手どもをひとりひとり葬り去る好機ではないか? それに潜伏生活に入るのなら、今朝のスーツを脱いで印象の違う服に着替えたほうがいい。 短い距離だが気を抜かず、それでいて人にも怪しまれぬ態度で往来を歩き、吉良は川尻邸へと戻った。 「あなた?」 玄関に入ったとたん、しのぶが声をかけてきた。ハンドバッグを提げている。買い物に出かける寸前だったらしい。 「どうなさったの? 忘れ物?」 そうだ、と答えようと吉良は口を開け、そして閉じた。 川尻邸に戻ると決めた時点で、どう説明すべきかと考えていた。素性が知られた以上この家にはいられない。億泰と露伴は、負傷者2名を病院に届け終えたらここの様子も見にくるだろう。猫草をバッグに詰めて服を着替えたら、迅速に立ち去らねばならない。そして当分は戻れない。しかし……いずれは帰れるだろうか? わたしの殺人は法的には立証されない。警察には手配されない。東方仗助、虹村億泰、岸辺露伴、広瀬康一、いずれは空条承太郎をも始末すれば。 この家に再び帰れるのだろうか? 平穏な生活という目的において、必ずしもこの場所は必要条件ではない。だが既にここで2年暮らした。社会的な立場も得た。安心を得た…… 「君は」 思考を巡らせつつも、口からは問いが出た。 「君は自由になりたいか?」 自分が口走った質問の意味が、吉良には解らなかった。自由? この女には自由にさせているじゃあないか。わたしとの共同生活を望んだのはこの女だ。 しのぶは瞬きをした。どういう意味なの、と聞かれると思った。突然なんのこと、と問われると思った。どちらでもなかった。女はあの日と同じ言葉で答えた。 「あたしはこの家にいるわ」 誓いに似たかよわい微笑みを、吉良はなぜかまともに見られなかった。視線を合わせぬ態度が彼女の眼にはどう映ったか、わずかに気にかかった。 「……忘れ物をとりに来ただけだ。少し探すから時間がかかる。買い物に行くなら行きなさい。鍵は閉めておく」 解ったわ、行ってきます、としのぶがサンダルに足を入れる。閉じた扉を男はじっと見送った。 わたしは勝つ。安心して熟睡する。平穏に、幸福に生きのびてみせる。 クローゼットの奥から屋根裏に上がる。猫草は、そこで眠りについているはずだった。 暗い中で探し物をするのは面倒だが、不用意に日光は入れられない。半ば手さぐりで進み、猫草を入れてある戸棚の裏板に仕込んでおいた釘をまさぐる。 違和感をおぼえた。仕掛けの釘が上がっている。 釘が下がっている状態が閉、上がっている状態が開だ。確かに閉じておいたのに、裏板が勝手に開いている? 「探し物はこれだろ」 唐突な声に吉良は振り向いた。 部屋の反対側、窓のあるほうの壁際。背を向けていて気づかなかったが、木箱に誰かが腰かけている。暗がりに慣れつつある眼はその正体をすぐ悟った。 「すごく慎重に隠してたんだな。屋根裏部屋の、古い戸棚の、さらにその裏に隠し戸を作るなんて。2年前、ぼくはおまえの犯行をビデオに撮る前にこの変な草も見つけていた。でもその後どこにも見あたらないから、役に立たないと処分されたんだと思っていた。念を入れて隠しなおしてたんだな。……おまえを倒すと決めた以上は、ともう一度よく調べてよかったよ。武器が手に入った」 人影は立ち上がり、雨戸を開けた。 太陽光が差しこむ。吉良は咄嗟に戸棚の後ろへと回る。だが、相手の手にあるらしき猫草はまだ空気弾を撃たなかった。 自分の古いランドセルを手に抱え、川尻早人が立っていた。 「猫草はこの中だ。前に見たときより凶暴化してるな。分厚い本に簡単に穴が空いた。射程は5メートルくらいか? ……戦い慣れてないぼくなんかより、できれば仗助さんたちにとどめを刺してほしかったけど」 「……なるほど、手引きしたのはやはりおまえか、小僧」 吉良の胸中に、憤りは沸かなかった。来るべき日が来たと思った。来るべき日だとわずかでも予期していたなら、なぜ備えなかったという自分への疑問のほうが強かった。 「事実、おまえは素人だ。わたしは不注意にもおまえに気づいていなかった。わたしが棚を調べているあいだに素早く窓を開け、背後から撃てばおまえの勝ちだった」 「それは考えたよ。不意打ちしてやろうと思ったさ。でもおまえが」 川尻早人がなぜ一瞬、言葉に詰まったのかを吉良は理解できない。 「……おまえが母さんとあんな会話をしていたのが聞こえたから、最後の挨拶くらいしてやろうと思ったんだ」 深呼吸をして、少年が殺人鬼に告げる。 「終わらせてやる、吉良吉影」 背板から身体がはみ出ないよう注意しつつ、吉良は考える。この戸棚はかなり頑丈だ。すぐには空気弾は突き抜けない。だが二度か三度、同じ場所に集中的に撃ちこまれればやがて貫通する。 当然こちらにも武器はある。カフスのボタンをひとつ、予備としてもうひとつ吉良は毟り取る。爆弾は一度にひとつしか生成できないが、爆発後すぐに次弾を投げられるようにしたい。猫草は2発まではほぼ連射できるが、連射のあとわずかなタイムラグが生じるはずだ。なんとかしてその隙を突くほかない。 川尻早人を殺すことには何の抵抗もない。ただ、この小僧が死ねばあの女がどんな顔をするか。とてつもない面倒くささに似た感情に、吉良は唇を曲げた。彼にとって彼女は小さからず、容易ではなく、身のうちにいつも存在を意識してしまう相手だった。 ぼっ! と空気弾の音が跳ねた。 戸棚に着弾して表装が砕ける。ぱらぱらと木片が落ちる。想定どおりの威力だ。牽制として、こちらからも接触弾をひとつ投げる。くぐもった鈍い音から判断して、向こうも古い座布団かなにかで防御したらしい。次はどの角度から投げるか――視線を動かした吉良は、発見したものに眼を疑った。 慌てて視線を逸らし、まだ気づかないふりをする。早人の角度からは見えず、吉良からしか確認できない。下げっぱなしになっている、階下への折りたたみ階段。 そこに川尻しのぶが伏せている。 忘れ物でもしたのか、自分の妙な質問が気にかかったのか。買い物に向かわず戻ってきたらしい。頭を下げて震えながら屋根裏の攻防を聞いている。経緯が解らないなりに、戦闘状態にあることは把握したようだ。吉良が自分を見つけたことにはまだ気づいていない。 「…………」 どうすべきか、と吉良は本日、何度目かの思考に捉われた。どうも何も、考えるべきことはない。戦っているのはわたしと小僧だ。この女は決着を待てばいいだけで――いや。 使える? 臨戦のため研ぎすまされた感覚に、ふつりと仮想が閃く。生存への欲求は、吉良の中でも執念じみて強いもののひとつだ。わたしが勝つために、この女を使える? 安心して暮らすという目標は当然、命あっての物種だ。 生き延びる? この女を盾にして? 猫草は2発までは連射できるが、そのあとわずかなタイムラグが生じる。連射のあと、思いきって勝負に出るふりをして、戸棚の前に出て小僧を狙う。しかし焦りでバランスを崩したかのようにわざと転ぶ。それを見た女は、わたしをかばおうと飛び出してくるだろう。空気弾があの女に命中し、驚愕した小僧に、確実に狙えるだけの隙ができる…… 筋書きはシンプルだった。吉良はひとたび瞑目し、口の中で唱えた。わたしは、安心して、熟睡する。 ぼっ! ぼっ! 空気弾が2発、連続した。吉良は床を蹴った。女に気づかせる合図代わりに、とどめだ、と叫んで戸棚の前に飛び出す。しのぶがはっと頭を上げる。 次の1秒で、『慌ててまろび出たせいでバランスを崩し、床に手をつく』演技をする。その実、即座に身を立てて相手を狙えるよう、足首はばねの効いた角度を保っている。 川尻早人が勝機に気づいた。猫草を構える。圧力の溜めこまれた花弁が膨らむ。 「あなた!」 よく知る声が鼓膜を打った。川尻しのぶが目の前に飛びこんでくる。目論見どおりだった。素直な女。哀れな女。かわいそうだけどさようなら。 攻撃に己の身を晒した女は、瞬間、振り返って死なせたくない男を見た。吉良はまともに彼女の眼を見た。 2年前、潰れなくてよかったと安堵した瞳。あの夜、きれいだなと思った瞳。 なぜそうしたかの理由など誰にも問えない。 吉良は、足首に力を込めて身を起こし、自分をかばう女を床に突き転がした。 * * * あなたは器に水を入れて歩いている。ここは砂漠なので、水を涸らせばたちまち死に至る。 さて、なぜ、そう言われてたやすく信じたのだろう? 器にはほんとうに穴が空いているのか? そもそもここは砂漠なのか? 一輪の花はいつまでも、苦しみ続けねばならないのか? 「そうではない」とは言わない。「そうだ」とも言わない。なぜならあなたは、自分の眼で確認すべきだからだ。 あなたの母になんと躾けられようとも。一幅の絵画になんと教わろうとも。あなた自身の眼で。 * * * 心臓。脳。死に至る威力が死に至る位置に食いこむのを感じる。 ぐ、がっ! と男の喉から獣じみた声が漏れた。衝撃に悶えてもんどりうち、それでも衝撃であるうちはましだった。焼けた鉄じみた痛みが脊髄に突き刺さる。うげあああ、と無様な声を発する。痛い!! 糞が糞が糞が畜生が!! 胸の内でありったけの毒づきが沸騰する。彼があまたの女性たちに与えてきた痛苦に比べればささやかな苦しみだ。 血と脳漿の上で転がる身体を、必死に抱きとめて取りすがるものがいた。女だ。驚愕のあまり唇まで青白くなった川尻しのぶが、わたしの顔を見下ろしている。激痛に失神しかけた脳の奥で、ぶつりと何かが断たれる感覚があった。痛覚が神経の許容量を超えたらしい。そのかわり、朦朧と悪寒と吐き気の泥海に頭まで呑みこまれる。遠くなりかける意識を必死で握りしめる。 わたしは何をしているのだ? これはなんの茶番だ? 吉良の自問は解を得られぬまま、ぼろぼろと思索の外にこぼれた。生き延びるんじゃあなかったのか。安心して暮らすんじゃあなかったのか。自作して自演する自滅劇か? 愚かにもほどがある。チャンスはわたしに訪れたはずだったのに。 畜生。この眼だ。ぐらぐら乱れる視界で吉良は、なにごとかを必死に呼びかける女の顔を見上げる。この眼で見られたからだ。すべてが狂った。しかし、それなら2年前、サボテンの棘でこの眼を潰すまいとしたときから、わたしの敗北は決定していたのか。 わたしの敗北はわたし自身が招いたというのか。 「……正気の沙汰じゃあない」 吉良はぽつりと呟いた。男を呼び覚まそうとしていた女が口を閉じ、耳を傾ける。吉良は半ば愚痴のように続ける。こんなのは変だ。こんなのはおかしい…… 「……なにもおかしくない。おまえが欲しかったのは『安心』なんだろ」 川尻早人の声が聞こえた。しのぶは顔を上げた。視線をやるのも億劫だった吉良は、動かずに声だけを聞く。 「おまえは『安心』がほしかったんだろ。これでもう安心だ。母さんに危険はない。おまえによって殺されない。おまえは母さんを死なせない。これで安心だ……」 言い終えて早人は、床に横たわる吉良の顔を見た。 血糊にべっとりと濡れた顔は、表情が掴みづらい。それでも眉が動いたのは確認できた。不満を抱く少年のように、わずかに口角も下がる。なんだ、言い返せないからって子供みたいな拗ね方しやがって。そう思ったあとで早人は、自らの気づきに眼をみはった。 そうだ。かれらは子供だったのだ。父、川尻浩作は子供だったのではないかと、以前に早人は考えた。だが吉良吉影も子供だった。母もまた。 あの家には自分も含め、子供しか住んでいなかった。ひとりの子供が殺されて、別の子供が為りかわった。出逢った子供たちは、手を繋ごうとしたがどうしようもなく幼かった。判断も感情も住み分けられず、だけど愚かしいほどひたむきだった。子供のままで時を経たふたりは、それ以上成長することができなかった。ぼくだけが先に少し大人になったのだ…… 早人は母の後頭部に視線をあてる。彼女はもう取り乱してはいなかった。 「母さん」 恐る恐る声をかけたが、詫びるべきではない、とも思った。終わらせねばならなかったのだ。憎まれても厭われても構わない。痛みには報いたい。しかし詫びるべきではない。 少年の母が後ろ姿で呟いた。 「早人。……怖いことなのに、ありがとう。危ないことをさせて、ごめんなさい」 予期しない言葉が先んじて返された。いや、予想はできていた気はする。母は、吉良吉影を喪いたくこそなかったが、いつかこんな日がくることは覚悟していた。覚悟しながら日々を重ねていたのだ。なんという強靭さだろう。 喉の奥が熱くなるのをこらえて、早人は血塗れの男に視線を戻す。殺人鬼、おまえの分水嶺はどこだった? ぼくはあの図書館だ。 もしおまえがあのとき、自分から母さんに近づいていたら。当たり前のようにそばに座ったら。それに母さんが気づいて、ちょっと驚いたあと、少しでも微笑んだら。 おまえは本当にうちの父さんになったかもしれなかった。 誰が犠牲になってもいい。誰が哀しもうと苦しもうと知らない。おまえが母さんを微笑ませることができたら。たったその事実だけで、おまえという化け物が、父さんになってもよかったんだ。 でもおまえは行かなかった。だからおまえはここで滅びるしかない――殺人鬼。 砕けた頭蓋で横たわる吉良は、もう浮沈する意識を保つのがむずかしかった。世界が遠ざかってゆくかと思えば、急に不気味に明瞭になる。ひとたびすべてが漂白されていくのに、またいちどきに立ち戻る。 寄せ打つ波のさなかで、自分を覗きこむひとりの女を見つけて、男は考える。ええと、おまえは誰だ? そうか。わたしの妻だったな。 しのぶは手指で、血腥い夫の顔をゆるく拭った。血の臭いが消えはしないが、それはどうでもよかった。できるだけ普段どおりの顔を見たかった。 引力に委ねるように、しずかに唇にくちづけを落とした。当たり前のことを、きちんと言おうと思った。 「あなたが好きです」 夫の胸に、いつかのように頬をすりよせた。ぴったりと寄りそって耳をあて、消えつつある鼓動を聞いた。もう一度だけ繰り返した。あなたのことが、すきです。 夫の腕が上がり、背中に回されるのがわかった。今の彼の全力であろう、かすかな力が込められた。とても弱い圧迫だったが、しっかり抱きしめられている気分になった。しのぶは幸せだった。 なにか言葉を返そう、と吉良は思った。きっと妻が好むであろう、もろくやわらかい言葉たちを想起した。でも繊細な言葉は、その意味をきちんと血肉にしている人間が言って初めて価値がある。もろい言葉たちは、吉良の内側にうまく溶けていなかった。たぶん不在ではないにせよ、きちんと溶けきっていなかった。 だから吉良はできるだけ、自分と彼女をなだらかに繋ぐ言葉を探した。どう言えばいいかはすぐに見つかった。 「……わたしはきみのものだ」 もつれる舌で男はささやいた。 「……きみをわたしのものにしたかった。でもどうすればいいかわからなかった。だから、わたしは、きみのものだ」 幼児のようにとりとめのない台詞だと自分でも思った。伝わっているだろうか。女がもう一度、顔を上げて、くちづけをよこした。唇にひとつ。瞼にひとつ。雫の落ちる感触もひとつ。伝わっていると思った。はじめて欲しいものを手に入れた。そして与えていた。 意識野が死の灰白に塗られはじめる。孤高にあり、不遜にあり、自分自身を誰にも渡そうとしなかった男が、ひとりの女にまた打ち明けた。わたしはきみのものだ。 ぜんぶ。 ずっと。 きみのものだ。 肺が止まるまでそれだけを繰り返して、男がこときれた。 * * * 川尻早人は、足音を殺して折りたたみ階段からクローゼットへと降りた。 もう少しふたりだけにしてやりたい。でも、いずれは通報せねばならない。ただでも変死として扱われる遺体だ。あまり時間をかけると、母が不審死への関与を疑われてしまう。話に聞くSPW財団の人間が対処してくれるといえども。 足元に小さなぬくもりを感じて、早人は視線をおとした。白い仔猫が擦りついている。抱きあげて、その瞳を覗きながら思った。おまえに何が託されていたのか、本当は知っている。 早人はすべて知っていた。日々の買い出しのとき、あの男がさりげなく重いほうの袋を選んで持っていたことも。まれに母が体調を崩したとき、鍋に消化のよい料理が作り置きされていたことも。庭の柵のささくれで母が擦り傷を作った翌日、やすりがかけられて滑らかになっていたことも。子供の宿題をみてやることも。 家庭で『夫』と呼ばれる者がやるすべての役割を、触れられもしない女のために、あの男が務めていたことを、川尻早人は知っていた。 仔猫がにゃあと鳴いた。少年は声を殺して泣きはじめた。 * * * 「仗助さんはどうしていますか?」 何気ない問いかただった。だが慎重に答えるべきだろうか、と岸辺露伴は思う。黙ったまま視線を遠くに投げる。 住宅地に新しく整備された公園。小山を模した滑り台の遊具に、岸辺露伴はもたれて立っている。遊具の上には学生服姿の早人が座っている。公園から見える通りを透かして、川尻邸の玄関が小さく見える。 「……SPW財団が威信を懸けて開発した義足の調子はよさそうだ。NYから飛んできたジョースターさんに、義手と義足で似たもの親子っスよ、と言って号泣させていた」 早人はためらいがちに微笑む。露伴はやや気づかわしげな視線を送る。 この少年が2年のあいだに、わずかでも、何かしらの近しさを吉良に感じていたとしたら。仗助が負傷して義足となったことに罪悪感を抱いているかもしれない。罪は加害者ひとりに帰せられるものであり、少年が気に病む必要はない。だが、これはそもそも杞憂だろうか。吉良吉影を倒したのは彼だ……。 「君のほうは、最近どうしている」 「先日、彼女ができました」 返された話題の、祝福すべき意外さに、露伴は遊具の山頂を見上げた。照れくさそうに少年が笑う。 「家に招待したんですけど。困ったのは、うちの仔猫が人懐っこいから撫でられるよと言って誘ったのに、仔猫が存外そっけなかったことです。つまらなそうな顔でするりと逃げてしまった。そのほうが猫らしいといえば猫らしいですが……。どうやらあの猫は、うちの家族にだけ懐いているらしい。母と、ぼくと、うちの先住の飼い猫。それだけが特別らしい」 ここから小さく見える川尻邸の、玄関の扉が開いた。 白い仔猫を腕に抱き、川尻しのぶが出てくる。遠すぎて表情は見えない。猫を抱えあげてほおずりする動作は見えた。じっとそのまま頬を寄せあっている。 やがて、仔猫を玄関の段の上に置いて彼女は歩き出す。仕事に行くのだろう。バッグに下げられた定期入れには、家の裏口から庭を覗きこむ男の写真が収められていると、露伴は聞いている。 同じ女を、早人も見守っている。少年にはひとつの奇妙な確信があった。猫の寿命は人間ほど長くない。でも、あの仔猫はきっと将来、うちの先住の猫と子供をつくるだろう。そのうちの1匹にきっと、白い仔猫がいるだろう。母さんはその仔猫を育て、その猫もいずれ白い仔猫を生むだろう。 母さんの一生には、これからずっと白い猫が共にあるだろう。朝のひとときに、夕の黄昏に、平穏な部屋で寄りそってしずかな時間を分かちあうだろう。決して独りにはしない。 そばに現れ立つ像のように。 だいたいこの町は奇妙な町なのだ。待ち合わせ場所として親しまれる人面岩。鉄塔で暮らす男。妙な音をたてて人間を跳ね返す岬の岩。かつて幽霊が出たという小路。宇宙人だと言いはる男。口をきくという噂のある図書館の本。今さら何が起きたっておかしくない。『なぜか白い猫の絶えない家』というささやかな存在くらい、きっと懐深く受け入れてくれる。 それだけで早人は、この町の住人でよかったと思っていた。 白い仔猫を玄関の段の上に置いて、しのぶは歩き出した。 表情は静謐で、また精気があった。受け取ったものと与えたものを想いながら、生きていく顔だった。 小さな獣はじっと、彼女の姿を見送っている。自動車が1台、女の真横を通り過ぎた。路上にあった小石をタイヤが弾き飛ばす。しのぶの背中めがけて飛んでくる。 その小石が、ぽん、と爆ぜて四散した。 Now I'm Here / Queen 2018/01/19 Twitterのほうでいただいたイラスト |