ヴァンダリズムと眠れ/


 吉良吉影はみずからを芸術家だと認識していた。論拠の揃った事実であり、実感できる自己肯定だ。他人の言質が必要なほど軟弱ではない。
 とはいえ、この解答に辿りつくまでには相応の時間もかかった。彼は忌々しく考える、それというのも芸術が、世間において根本的に勘違いされているからだ。あやまちの歴史は古く、自分もその前提に囲まれて育った。だから遠回りをした。
 芸術は見るものの心を豊かにするだの、世間に貢献するだの、安直な人道主義のやかましいこと! 芸術は現象だ、ただ起こることに意味がある無垢な災厄だ。いっそ天気に喩えたほうが凡俗には解りやすいのではないか? 地を潤す雨か、薙ぎ払う嵐か、発現する型はそれぞれ違うだろうけれど。
 吉良の見立てでは、『人間を美しくつくりあげる』という点から己の属性を問うならモードデザイナーに通じる部分もある。だが装飾品ではなく素体を整える意味では美容師に近いし、内面の美に食いこむ意味では教育者の側面も強い。ただし陳腐なご教訓に興味はない。自分が女たちにもたらしているのは清廉な生きかただ。純粋な存在として切り取られた者のみが語りうる清らかさだ。
 町を歩くだけで眼に飛びこむ不純物の多さに、吉良は普段から、為さぬ美を嘆くあまり使命感に似た意識すら抱いていた。唇が吐く言葉は寒々しい虚しさを露呈し、表情は暑苦しく体裁ばかりとりつくろう。わが原点、麗しのリザ・デル・ジョコンド、彼女のかんばせは美しいけれど哀しいかなあれも虚飾だ。絵画であるだけまだ救われる、画集のページを切り取るのは容易い。生身の女にはどれほど苦労させられたか。自分の能力を知ったとき、なにより嬉しかったのは全き恋を穢す不純物をこの世からきれいに抹消できることだった。
 生物は遺伝情報の継承先を求めて生殖を欲する。ただし人間であれば、即物的欲求のみならず、情動による精神性を重視するのが理性かつ文化とされる。吉良は女のもつ美しい名や、爪を切ってもらう行為を愛していた。それが自分の精神性だと考えている。
 世の芸術家は、見出した女を画に描き、彫り起こし、印画紙に収めた。仮に本能だけに従うなら、回りくどいことをせずじかに触れればいい。さもなくば鳥が尾羽を広げるように生活力をアピールするほうが建設的だ。しかし彼らはわざわざ描き、掘り、撮った。その迂遠さが芸術なら、この『切り取る』衝動も芸術だ。安っぽい部位ではなく造形の真髄たる手を尊ぶ、これもまた自分が理性の人である証左だろう。
 しかし吉良は、同時に、この真摯な芸術が世間には容れられないことも理解していた。仕方がない、生き物は生存欲求の枷には抗えない。加えて彼は、植物の心のような平穏さで暮らしたかったので、公にこの思想を訴えてまわる気もなかった。内なる衝動をもてあまして破天荒にふるまう芸術家のことなら理解できる。が、非凡とも思えぬ紛い物どもがちっぽけな迷惑をばらまいて浅ましい箔づけをするのは許しがたかったし、自分が後者と同一視されかねないのも面倒だ。
 社会的な認知は最初から必要ない。だが爪が伸びるのを止められる人間がいないように、わたしがわたしである現象を誰も止めることはできない。己のつくりあげる清らかさと共に、ひそやかに高潔に生涯を過ごしていこう。彼はそう考えていた。

 しかし最近、ある事情により、吉良吉影は生活基盤のまるごとの転換を余儀なくされた。それに伴って発生したひとつの事件を解決しなければならない。事件の名は川尻しのぶという。

 川尻しのぶを構成する要素は凡庸の一語に尽きる。年齢30代、中肉中背、一児の母。属する宗教なし、推定だが前科なし、スタンド能力ほか特殊技能なし。短大卒、性格はやや直情的、親子関係は希薄傾向。外見は年齢より若く見える印象、だが女優や商業モデルほどの特筆性はなし。吉良が彼女と同居するはめになったのは不本意な顛末による。だが人生自体が破壊されかねなかった出来事だと考えれば、逃げおおせただけ重畳だ。
 川尻しのぶを事件と定義したものの、いったいどういう事件なのか吉良は把握しあぐねている。起きた事実はごく些末だ……『彼女を危機から庇った』『無事であると安堵した』『それは居場所を敵に知られる可能性を潰した安堵である』。証明もすでに完了している。
 むしろ理由を知りたい。自分が未だこの例を事件視する理由を。
 川尻しのぶは現状、欺くべき相手であると同時に吉良自身を世に溶けこませる隠れ蓑だ。ひとつ屋根に同居しながらまだ呼吸ができている奇跡に感謝してもらいたい! 保護下に置かねばならない相手とはいえ、生きた女の予想のつかなさに吉良は閉口させられる。金庫の一件、料理の一件、彼女の前では会話ひとつが試される。居なければどんなに楽だったか――だが失神した女を介抱し、遅刻してまで見守った朝を迎えて、吉良は矛盾を思い知る。どうせ殺せない女なら、なぜさっさと出社しなかった?
 彼女から眼を離せない。想定外の行動理由を自己分析し、不安だからだ、と吉良は解釈する。生きた女は何をするか解らない。だから眼が離せない。せめて対策に務めよう。足りていないのは情報だ。
 知ろう、知れば安心できる。川尻しのぶがいったい何者なのか。


 吉良は小さな実験を試みた。かつて贔屓にしていたベーカリー『サンジェルマン』は、地方誌などの取材をたびたび受ける杜王町では多少知られた店だ。美しい町にふさわしい価値ある店だと吉良も信じている。ただ川尻しのぶが普段生活しているエリアからは少し離れるため、彼女にはなじみのない店かもしれない。
 早く帰宅できる予定の日、吉良は電話で「同僚からおすすめの店を聞いたので、君も外出の用意を」と彼女に告げた。帰宅後に車を出し、サンジェルマンまで連れていく。
 店名を見て川尻しのぶは手を叩いて喜んだ。存在は知っていたが来る機会が無かったらしい。今回は車で来店したが、自転車でも来れなくはない距離だ。当日の夕食と、翌日の朝食には美味なパンが並んだ。彼女はその価値を知ったことになる。
 その日から数日間、吉良は食卓を観察した。折を見てそれとなく尋ねる。あのなんとかいう店のクロワッサンを、君は気に入っていたが、また買わないのだろうか?
 川尻しのぶは眉を下げ、憧れを語るまなざしで答えた。
「サンジェルマンのパンは美味しかったけど、普段食べるにはちょっぴり価格帯がね……お店もあまり近くないし。もしあなたが食べたいなら、がんばって買いに行っちゃうけど、日曜のお楽しみでもいいかしら?」
 吉良は夫の顔で頷く。もとの家で暮らしていたころ、彼は心の安寧を得るために一定の生活水準を保つよう心がけていた。吉良邸は古い数寄屋造りで、現代的な観点からいえば維持に手間がかかる。だが歴史の重さとそこから得られる精神性を鑑みて、吉良はそのまま住んでいた。多少手がかかっても趣きある家に住み、よい服を纏って信頼できるものを食べる。ただの贅沢ではない、精神衛生のために必要だ。
 独立店舗のパンは工場生産品に比べれば高価だが、くだらない雑誌を買うよりも遥かに内面の充実が得られる。つまり、川尻しのぶと自分の指針はこの点において合致しない。
 彼女の手料理による現在の食生活に大きな不満はない。標準程度の栄養内容を保っているので良しとしている――最初のように不健康なものばかり押しつけられたら自炊するしかなかった! だがともあれ彼女と自分の間に、生活上の信念で通じる部分はないようだ。
 彼女はこうも続けた。「それにあのお店は、あなたがサプライズで連れていってくれたから、特別な場所にしておきたいの」……予想できない要因だった。他の方法を試すしかない。

 次に吉良は、川尻浩作のレンタルビデオ店のカードを使って一本の映画を借りた。『The Remains of the Day』、邦題『日の名残り』。二次大戦前夜を時代背景に、英国貴族の屋敷で執事を務める男を描いている。人に言ったことはないが好きな作品だ。
 金曜の夜、思い出したようにソフトを見せて切り出す。週末はこの映画を観ないか?
 理解のための数秒のあと、川尻しのぶは顔を輝かせて矢継ぎ早に質問をぶつけた。
「映画? 借りてきてくれたの? おうちで映画デート?! なんて映画? 『日の名残り』? どんな話? あなたのおすすめ映画なの?!」
 そうだ、と吉良は押されて短く応えた。こちらから情報は多く出さない。もし川尻夫妻がこの映画をすでに観ていたら、下手な前提で会話をすると違和感を抱かれるおそれがある。だが相手がたちまち曝け出した、未見で間違いないようだ。雑誌で見かけて興味をもったと無難な理由を添えておく。
 彼女ははしゃいで茶を淹れた。川尻早人は夕食のあと二階に引っこんでいる。部屋の灯りを落とし、ソファの隣にいそいそと座る気配を待って、吉良はリモコンを取る。視界がしっとりとした映像美に満たされた。
 恋愛映画とも分類される作品なので、筋は難しくない。だが歴史的背景を把握していないと理解が遅れる部分がある。解らない部分があれば聞いてもいい、とあらかじめ口添えた。うるさく喋られたらどうしてくれようとも危惧したが、彼女はふたことみこと固有名詞を尋ねただけで静かに観ていた。
 エンドロールを終えて灯りをつける。感づいてはいたが、川尻しのぶはぐすぐすと鼻を鳴らしていた。吉良は小さな期待を抱いて尋ねる。どうだった?
 だが、返答は望んだものとは若干ずれていた。
「その……なんて言えばいいのか……哀しすぎるわ」
 折れそうに細い声がしゃくりあげる。
「いい映画だったと思うの。でも、あたしには哀しすぎたの。失恋……というのとは違うけど、好きな相手にすら本音を言わない人生なんて、納得できないわ」
 ……そう観たのか、と当惑する。確かに寂寥に満ちた映画ではある。
 主人公は執事として歳月を生き、女中頭に抱いた想いも任務のもと抑制し、痛々しいまでに誇り高い。だが、私心に揺らぎつつも志を全うする姿に崇高さをみる作品ではないのか。哀愁の中の趣きを味わう作品ではないのか?
「心の底をだれにも打ち明けないなんて、とてもつらいことじゃない?」
 震える頬のかたくなさは子供の潔癖を思わせる。どう応じればいいか解らず、吉良は唇を結んで曖昧に頷いた。相手の無言を慮ってか、川尻しのぶは急いで声を出す。
「ごめんなさい、せっかく借りてくれた映画にいろいろ言って。観れてよかったの。ただちょっと、哀しすぎて心が乱れちゃっただけ……」
 横から縋りつくように腕に抱きつかれた。落ちつくまではと思ってそのままにさせておく。自分自身、心が少し波立っていたのでしばらく静かに過ごしたかった。
 幾分かが経過した。小さく鼻を鳴らす音が、涙まじりの寝息に変わりつつあるのを吉良は聞く。感情の昂ぶりが脳を疲れさせたのだろう。時計を見れば夜も遅い。
 ぬくもりを感じながら彼は、頭の中でひとつづつ確認作業を進めていた。価値観が共有されない。分かち合えない。わたしと彼女に通じるものはない。
 これで把握できた。どうということのない女だ。他の大勢と同じだ。安心していい、川尻しのぶはなんの事件でもない。特に気にかけるべき理由はない。
 清らかな心にしてあげるには殺すしかない普通の女だ。
 視線だけを動かし、肩にもたれて寝入った姿を窺う。やわらかく流れた髪から覗く白い首が眼を灼く。気にかけていた問題が解決したので、彼は安堵していた。そしてなぜか落胆していた。知らないうちに、しきりに爪を噛んでいた。信じるものを裏切られたような、とてもさびしい気分に陥った。強烈に、心の底を打ち明けたくなった。聞いてくれ。わたしの心を聞いてくれ。おまえ自身が言ったことだ、『心の底を誰にも打ち明けないなんてつらいこと』なのだろう? ならばおまえはわたしを救わねばならない。
 あの日おまえの身を案じ、無事でよかったと感じたのは、今夜わたしを苦しみから救ってもらうためだ。その首を締めさせてくれ。痙攣しながら瞳いっぱいにわたしだけを見てくれ。末期の声を誰よりも近くで聞かせてくれ。おまえの最後の男にならせてくれ。
 陶然と手を伸ばした。しのぶ、と無意識に名を呼んだ。それが互いの幸運だった。
 閉じていた瞼が持ちあがり、急速に覚醒して瞬きをする。吉良は息を飲んで腕を引く。眠りが浅かったのだ。
「やだ……うたたねしてたみたい。自分のことみたいに思い悩んで疲れちゃったのね」
 赤くなった鼻先に笑顔を浮かべ、座ったまま軽く伸びをする。茶のトレイを持って立ち上がる姿を吉良はじっと眺める。
「あたし、そろそろ寝るわ。映画を観せてくれてありがとう。あなたはまだ?」
 夕刊に眼を通してから寝るよ。平静を装って返すと、おやすみなさいと女は微笑んだ。躊躇いがちに去ったのは、就寝前のキスをしてほしかったからかもしれないが、危なくてとてもそばには近づけない。
 リビングでひとり男は、鎮めがたい脈動をもてあまして天井を仰いだ。せめぎあう真逆の衝動にしばらく動けなかった。

 ……芸術家は己の人生においてしばしば現実女性のミューズを戴く。ミュシャにとっての伝説的女優サラ・ベルナールのように。ロダンの弟子にして愛人カミーユ・クローデルのように。ピカソにとってのフランソワーズ・ジローのような、反骨心旺盛な女は個人的にはお断りだが、老画家に強烈な経験を与えたことは事実だろう。
 川尻しのぶはあまりにも普通の女だ。見るべき素養のひとつもあれば、まだわたしと通じる部分もあったろうに。さもなければわたしに道を示してくれたリザのようにもの言わぬ美であればよかったのに。
 捨ておけばよいだけの女にもどかしさを抱えて平穏を乱されることも受け容れがたく、吉良は自己嫌悪に苛まれる。だが数日後、意外な形で彼の憂いは昇華した。

 川尻しのぶが二階の寝室の、クローゼットの前で座りこんでいた。目の前に置いた段ボール箱の中にじっと視線を落としている。
 夜着に着替えるために寝室に入ってきた夫を見て、我に返ったようだった。
「散らかしててごめんなさい。すぐ片づけるわね」
 段ボール箱からは平たくて色彩豊かな物体が覗いている。この家の内情をなるべく詳しく把握しておきたい吉良は、何気ない態を装って尋ねた。ええと、それは何の箱だったかな?
 彼女は見やすいように段ボールを夫のほうへ押しやった。箱の中身は、何十冊かの絵本や大判の児童書の類いだった。
「見せるのは確か初めてよね? 若いころ、好きでちょっと集めてたの」
 懐かしそうに、記憶を手繰る面持ちで一冊をとりあげて表紙を撫でる。
「短大時代、なんて講義かは忘れちゃったけど、教育系の授業で絵本の研究をしててね。そこで興味を持ったのがきっかけ。気に入ったのを少しづつ買い集めてコレクションしたわ。早人が幼いころにも何冊か与えたけど、あいつ本はあまり好きじゃなくて、乱暴に扱って傷めちゃうからあたしの蔵書とは別にしておいたの。いつのまにか忘れて集めなくなっちゃったけど……」
 興味を惹かれ、吉良も箱のそばに屈みこむ。目についた数冊を取り出して眺める。ジャンルや作家は多様だが、いずれもなかなか趣味がよいように思えた。
「ル・カインの『雪の女王』は、いつ見ても絵の緻密さにほれぼれするわ。『しろいうさぎとくろいうさぎ』、ふふ、こんな素朴なロマンスに憧れたっけ。ガース・ウィリアムズは動物を描かせたら最高ね。『魚料理もどうぞ』は猫の作ってくれるブイヤベースの描写がすごく美味しそうなの。『不思議の国のアリス』なら、絵柄はちょっと不気味だけどドゥシャン・カーライの色づかいが好きだったなあ……」
 俯いたままの夫が無反応に見えたのか、川尻しのぶは口を噤んで苦笑した。
「懐かしくてひとりで喋っちゃった。今さらの趣味よね、しまっておくわ。そのうち近所のバザーに出しても」
「いや」
 並べられた本を片付けようとする手を、もうひとつの手が引き留める。
「いいコレクションだと思う。詳しくはないが……君の趣味を興味深く思う」
 川尻しのぶは取られた手を見つめた。次に夫の顔を見つめ、え、そう、とはにかんで口の中で呟いた。
 ふたりの大人はそのまま、寝室の床に座りこんで種々の絵本に没入する。静謐のうちに時間が過ぎた。寝台にもたれて並んだ背中は動かず、ただ沈黙だけが雄弁に、たゆたう世界を語りあった。
 鼓動がゆっくり感じられ、どうやら自分は充足しているらしい、と吉良は思った。他者のいる平穏が不思議にも沁みた。
 目ぼしいものを読み終えた吉良は、丁寧に箱の中に本を戻して言った。
「君が好きで蒐集したものなら、置いておこう。家計のこともあるからすべてとはいかないが……これはと思うものがあればまた集めるといい。多少は融通する」
 驚きに揺れる瞳が見つめ返してくる。川尻浩作らしくない発言だったろうか?
 だが普段の観察から判断して、彼女の性格なら声をあげて喜ぶだろうとも予想していた。推測は、よいほうに少しだけはずれた。川尻しのぶは花が咲くように静かに微笑んだ。
「ありがとう。なんだか……すごくうれしいわ。あなたがそんなこと言ってくれるなんて。あなたがあたしに興味を持ってくれるなんて」
 そういえば、と吉良は思い出す。品物としては卑近になるが、絵本や児童書もまたひとつの芸術的価値を認められる分野ではなかったろうか。国際的な賞がいくつか創設されていると聞く。
 ただそれは、付加価値でしかない要素だった。彼女の蒐集品のどれだけが権威ある賞を得ているかは重要ではなかった。彼女の好むものを自分も好ましく思えた事実が全てだった。
「話してて思い出したけど、そういえば若いころから探してた一冊があるのよ。絶版になった古い児童書で、どこを探しても見つからないの。復刊されればいいんだけど……。タイトルは確か『鼻をなくした、」
 階下からキッチンタイマーの鳴る音が聞こえた。廊下のほうを振り返ったしのぶが、音の正体を思い出して膝を打つ。
「そうだ、明日の仕込み、オーブンに入れてたんだった」
 急いで立ち上がり、寝室を出ていく。去ったと思いきや扉の向こうから猫のように顔だけが突き出た。
「箱はそのまま出しておいてね、あとで本棚に整頓しておくから。……ちょっと早人、遅くなる前にお風呂入っちゃってよ!」

 階下に降りてゆく足音を聞きながら、吉良は寝台に仰向けに転がった。
 吊り下げ照明のくすんだ光が閉じた瞼を押す。夜着、夜着に着替えにきたのだっけ、と思い出して寝転がったまま襟元を緩める。しかしなぜか指先がもつれて進まない。諦めて手を止めた。少し高揚していた。
 なるほど、なるほど。彼女にはこんな一面があったのか。もしあそこで心を打ち明けていたら永遠に知らない一面のままだったろう。
 川尻しのぶは普通の女だ。ただまあ、気にかけるべき価値が多少はあるらしい。彼女の身を案じた理由もこれで判明した。眼のよい女だ。ささやかだが通じるものがある女なのだ。
 彼は珍しく高揚していた。女の表情を思い出し、女の言葉を思い出し、女の仕草を思い出して――あることに気がついた。
 血の気が引いた。
 寝台から跳ね起きる。戸惑いに思わず自分の身を抱く。待て。おかしい。何が起きた? 確かに憂いは昇華した。しかしもっと深刻な疑問を連れて戻ってきた。
 なぜ、わたしは彼女の手を吟味していない?
 つい数分前だ、憶えている。絵本を片づけようとする川尻しのぶの手を止めた。あのときわたしは「彼女の本を読みたい」という純粋な意志しか持たなかった。このわたしが、女の手に直に触れながらそれ意外のことを考えていた!
 わたしは多くの女性と交情してきた。会話も頼み事もとても愉しい。でも逢いたいのはいつだって内ポケットの『彼女』だ。過去には切り取りそこねた例もあるが、時間さえ許せばお迎えしただろう。なのにわたしは、あれだけ身近なしのぶの手をなぜ吟味していない? 砂漠で泉を無視する者がいるか? 水の質はさておいても寄りもしない選択はありえるか?
 彼女の手を見てはいるのだ、概ね記憶してもいる。キッチンで白磁をとり、果物を剥く手を思い出せる。今更ながら品評すれば、関節が太くてあまり美しくない。しかし不思議と悪くない。それならそれでいいだろう、気に入ったなら切り取ればいい。でもそのあとは? 愛撫する? 美しくないのに好ましい手は、それ単体でその価値か?
 混乱が自己を疑いだす。『彼女』たちは完璧だ、この世で唯一わたしを裏切らない伴侶だ。彼女だけを想うひたむきさがわたしの価値を裏づける。純潔を前に貞淑であること、忠実であること、それがわたしの平穏で、それでわたしが完成する。
 そのすべてが生きた女に否定されている。
 悪寒が走る。信じ難い。わたしは自分の価値を失っている。くだらない男に成り下がっている。ただの女に充足した? 不完全なものに卑しく満ち足りた? 最初にわたしは思った、川尻しのぶは何者かと。だが問題の本質は真逆だ。わたしがいったいどうしたのだ!

 手、手、女の手。通勤時に昼食時に退勤時に、吉良は通りすがる女たちの手を必死で観察する。あの子は美人だ、あの子は初心、あの子は磨けば光るだろう。ああ、やはりみんな清廉だ、この世にこんなきれいなものはない。高貴な飢えを取りもどし、安心して帰宅した彼は扉を開けて絶望する。川尻しのぶが笑っている。自分からすべてを奪う女がそこにいる。奪われておいて充足する自分がここにいる。
 手、手、女の手。吉良は試みに瞳を閉じ、夢想のなかで川尻しのぶの手とふたり遊ぶ。君は関節がちょっぴり太いね、色は白いけれど皮膚もかたい。でも構わないさ、この手に似合う華奢すぎない時計をわたしが探そう。夏だからベルトは青がいい、『ミョゾティス』はフランス語で勿忘草色という意味だ。夕食はいっしょに作ろう、共同作業は楽しいよ――あれこれ世話を焼きながら、彼は疑問を拭えない。どうして彼女はものを言わない? いや、以前もそうだった、わたしの彼女はみな慎ましやかだ。わたしが察して問いかけて、代わりにたくさん喋ってやればいい。心づくしに彼女を慈しみながら、意識を不安が黒く食む。なぜ語らない。なぜ動かない。川尻しのぶはどこにいる? 最後はいつも耐えきれずに瞳を開ける。
「どうしたの、あなた。居眠りしてた?」
 夢想していた手の先に繋がる女がきょとんと覗きこむ。背筋を冷えた汗がつたう。彼女が無事であったことに安堵している、あの日のように。

 吉良はよく眠れなくなった。寝室は暗く静かで適温だ。なのに二度と熟睡できる気がしない。
 薄闇に沈む天井の下、自分のものではない寝息が隣から聞こえる。呪わしさにうんざりと脳内で繰り返す。境遇の変化に動揺している。慣れない情報を処理しかねている。呼吸し、動作し、発声する女とともに暮らすのが初めてなだけで、たとえ他の人間と寝ていても単純に同じことが起きる――起きるのか? 起きる証拠は? その論拠は?
 寝返りを打てば眼に入ってしまう、見慣れた髪の長い女。
 夜に倦んだ彼は溜息をつき、寝台から立ち上がる。眠っている女の枕元に音もなく佇む。気配をさせずに立ち回るのは慣れている。喚びだしたスタンドが背後に揺らめく。キラークイーン、猫に似た容姿と死の意匠とを併せ持つ、内なるわたしの具現。
 川尻しのぶは眠っている。訪れる朝を疑いもしない、部屋には夫しかいないからだ。懊悩するわたしの気も知らず、安楽にしどけなく眠っている。隙だらけだ。もう殺そう。そうだ、もういい打ち明けよう。追手どもに怪しまれたくはない。だがもはやそれと関係なくこの女は平穏を脅かす。わたしの心を打ち明けよう。力のかぎり真心こめて、頸動脈を絞めあげよう。跳ねる胴体が静まったら、優しく髪を整えよう。それから手首を切り取って、あますところなく口づけよう。
 打ち明けよう、打ち明けたい、打ち明けたら。死体を処理しなければならない。一刻でも長く発覚を防ぎたければ、跡形なく消し飛ばさねばならない。処理さえ済めば心配ない、手首ひとつのきれいな彼女だ。わたしを乱さない侵さない、勝手をしない理想の彼女。無駄口をきかず、余計なものを見ず、なにひとつ働きかけてはこない――
 冷静になるために確認する事実のひとつひとつが彼を自縛する。殺したい、殺したい、殺したい、本当に?
 虚脱してその場に座りこむ。ほとんど身動きしていないのに、長旅を強いられたかのように疲れ果てている。座った姿勢でゆっくり上体を倒し、川尻しのぶの寝台のシーツに静かに頭をのせる。横向きに緩く丸まって寝ている彼女の顔を同じ高さで見つめる。
 胸のあたりに無造作に手が投げられている。手、手、彼女の手。美しくはないのに好ましい手。吉良は唐突に失敗を悟る。この女を知るべきではなかったのだ。
 彼はなにも命じていない。なのにまるで意を得たかのように、喚ばれたままのスタンドがそろりと動く。動けない本体をよそに、未知を訝る動物のしぐさで女の寝顔を覗きこむ。頭に手を伸ばす。寝乱れた髪を整えている――内なる彼の具現体は、ときに自動的だが暴走はしない。ときに予想外だが、反意の行動は、ない。いっそ笑いたい気分で投げやりに考える。そうだな、肉の手では触れてはいけない。起こしてしまうから。起きて今の自分を見られたら最後、わたしは世界のすべてを消し飛ばさずにはおれないから。
 間違いなく、わたしは惑乱している。新しい事情に刺激された脳が、適応するための活性物質を勝手に分泌している。多幸感はそのためだし、抑鬱感もそのためだ。一過性のものにすぎない。いずれ平静を取り戻す。わたしは自分の本質を把握している。心の平穏と尊い欲求のために生き、その貫徹だけを望む。追手どもを全滅させるための時間はかかるが、それを終わらせてほとぼりが冷めればこの女と息子を殺す。わたしの幸福を取り戻す。確信できる事実だ。実現を待つだけの決定された未来だ。
 決定された未来がありながら歩む片道をなんと呼ぶ?
 腹立たしい。厭わしい。わたしの誇りを返してくれ。触れることのできない女を瞳に焼きつくほど見つめ、吉良吉影は生まれて初めての飢えを自覚する。川尻しのぶは眠っている。手を伸ばせばすぐ届く。あらゆる意味でわたしのものになる。なのに頭をのせている同じシーツが無限より遠い。こんなに殺したい、こんなに殺せない。
 夜は長く、飢えは甘い。幸福な妻の顔で眠る女をただ見つめている。わたしの孤高を返してくれ。わたしの高潔を返してくれ。普通の男になどなりたくない。いつ間違えた。戻れるものならやりなおしたい。わたしは、
 わたしは、












 わたしは何を焦っていたのだろう?
 すてきな青空だ。すてきな気分だ。陽射しに溶けこむ夏は透明、気温は高すぎず風も伸びやか。庭木の緑のきらめきが窓を彩って踊る。杜王町に住んでいてよかったと思うのはこんな朝だ。
 吉良は鼻歌まじりに鏡を覗く。タイを整えようと手を上げると、芳ばしい香りが袖にまつわって届く。鏡面の中のキッチンで朝食の用意をしている彼女が見える。すてきな気分だ。
 川尻早人に殺人がばれた? 問題ない。わたしを追う者がいる? 興味ないね。バイツァ・ダストはわたしを守護し、世はなべて事も無し。
 素晴らしい朝だ。生まれ変わった気分で吉良は世界のすべてを愛でる。少し前まで、眠れずに悶々と過ごした夜があったなど嘘のようだ。わたしは何を焦っていたのだろう! 思い詰めていたことに多少の恥じらいすら覚える。
 芸術家の認める女は非凡なミューズでなければならないなど……はは、それこそ青臭い強迫観念じゃあないか。例えばセザンヌの妻は無名の女だ、確たる伝説は遺していない。マグリットあたりは当人も小市民だ、幼なじみの妻と安アパートに住み規則正しく寝起きする模範的人生。それでいて作品は奇想に満ちているからおもしろい。
 芸術に真摯であることと芸術の埒外にある女を娶ることは、矛盾なく両立する。わたしが高潔な欲求を抱いていることと、普通の女とともに暮らすことは、なんら矛盾なく両立するのだ。いわば運命が取らせるバランスだ。だいたい、植物のように平穏な人生はわたしの信念じゃあないか。
 それに、川尻しのぶは決して鈍くない。再び鏡ごしに彼女の背中を視線で撫でる。シンクへ冷蔵庫へと気忙しい、休日にはわたしが朝食を作ってやろう――昨夜、浴室の前で聞いた彼女のひとことは、無意識なのだろうが預言者めいていた。『あたし最近、あなたのこと不死身だって思うもの』……悪くない。実に悪くない!
 彼女は普通の人間だが、眼力は確かだ。あのときわたしは川尻早人を殺害しかけて動揺しており、言葉の意味を深く取れなかった。だが今になって思い起こせば的確だ。言祝ぎだったのだろうかとも思える。バイツァ・ダストは一種の不滅装置だ。彼女はわたし自身より早くわたしの可能性を見抜いていた。認めよう、川尻しのぶはわたしにとってやはり事件だ。それもどうやら喜ばしい事件だ。
 さて、と吉良はここに至り、心の隅に置いていた疑問を拾いあげる。今の彼には些細なことだ。あるいは些細だと思おうとしていることだ。
 わたしはいずれ彼女を殺すだろうか?
 どう、だろう? うまく模擬が想定できない。考えられない。試みても思索に紗がかかる。うまく想像できない理由については思い至らず、ならば無理に答えを出す必要はないと吉良は結論づけた。すぐ必要な解答ではないのだ、性急に決めなくともいい。一時はどうなるかと思ったが、最終的にこの家は最高の潜伏場所になっている。
 現在まだ二階で寝ている川尻早人は、バイツァ・ダストが発動した今では単なる手駒だ。不要ないざこざを起こす気はないので、恭順をしめすなら普通に扶養してやろう。いまだ打ち解けきらぬ母子だが、息子が死ねば彼女とて心を痛めるだろう。「わたしはこれでも妻の哀しむ顔は見たくないのだよ?」とでも生意気な小僧に言ってやれば驚くだろうか。
 ああ、今夜からはやっと熟睡できる。素晴らしい気分だ。記念すべき日だ。
 記念すべき日だから、そうだな、と鷹揚な君主きどりで吉良は考える。少なくとも今日一日は恩赦を与えてやってもいい。バイツァ・ダストが早人に潜んでいるので、どちらにせよ能力は使えないが……せっかくの記念日だ。一日くらい寛大に、小さな遊びに興じてもいい。
 おでかけのキスをして仕事に行き、夕飯を楽しみにこの家に帰る、彼女のただの夫のつもりで生きてもいい。
 明日どうするかは未定だ、また気侭に考えよう。もはや自由なのだから。わたしは不死身なのだから。もし気が向けばだが、
 一生遊んでみてもいいのだから。


















おかえり明日のロマンス/


 こんなに出て大丈夫なのかと思う。血液の話だ。

 鏡面仕上げのされたパールホワイトの床材に、ぼくの血がみちみちと歪んだ面積を広げていく。汚してしまって申し訳ないと考え、背中に大穴をあけて倒れている自分を叱ってやりたい気分で見下ろしたところで、ようやく気づく。ぼくがぼくを見下ろしている時点で手遅れなのだ。
 あたりを見回す。歯医者だろうかと一瞬思ったのは馴染みのない場所だからで、据えてある診察台が歯医者のものではないとはすぐ気づいた。壁紙の色調は華やかだし、洒落たラグも敷いてある。ワゴンに並んでいるのは基礎化粧品の類いで、加えて、ぼくの死体のそばで肩で息をするシャツ姿の男がこう言っている。
「エステ・シンデレラ……」
 男の左手からは赤黒い血がぼたぼた滴っている。手首の関節から先は切りとられて存在しない。撫でつけられた髪は乱れ放題、量販店の吊り下げとは見るからに格が違うのに、もったいなくも血泥まみれで床に投げられた高級背広。止血のために巻いたらしい手首のネクタイを解き、男は涸れた呼吸音を漏らす。
「表の看板にはこうあったね。愛と出逢うメイクいたします。何日間かしばらく観察させてもらったが、幾人もの女性たちが足取り軽く玄関から出てきた。ふふ、記憶力には自信があるんだ、眉や目尻や髪質や、ささやかな変化をつけて彼女らは出てきたね。高確率で君に礼を言うために戻ってもきた。『スタンド能力』、君も同じ単語で呼び習わしているという理解でいいかな? そして君のスタンドは、人間の外見に変化をもたらすもの、その認識で間違ってないね?」
 語りかけられているのは白い制服を着たエステティシャンの女性だった。足を折って床に座りこんでいる。気の毒に、震えているのは恐怖だけが理由ではない。
「……」
 戦慄く唇がごぼりと血泡を吹いた。女性の咽喉には鉛筆が通るほどの穴が開いている。
「あな、たは、いったい、」
「質問を質問で返すなあーっ!! わたしが君の能力を聞いているんだッ!」
 男の腕が制服の胸ぐらを掴んで床に叩きつけた。声を上げて女性が這いつくばる。痛々しさにぼくは声を上げかけ、制止の手を伸ばしたが、指先が不可視に霞んでいるのを見て自分の無力を思い知る。ぼくは死人だ。そこに転がされている湿った肉塊だ。ただ、ひとときを許されているだけの傍観者だ。
「失礼したね、でも今のは君が悪いよ? 君の手はなかなか美しいから本当はもっと愉しみたいが、質問には迅速に答えるべきだ。わたしは急いでいるのだから」
 焦れた早口で男が言う。声に含まれている主成分は苛立ちだが、どこか陶酔じみた成分も感じる。慣れた作業をどれだけ早く済ませられるかを試す職人のような。
「あた……あたしの能力、は人の顔を変えられるけれど、それが主眼じゃあ、ない」
 身を起こした女性が呻きまじりの言葉を継いだ。発音に合わせて咽喉の穴がごぼごぼと血腥い音を立てる。
「あたしの能力、は幸福の顔をつくること……美しさが幸せとは限らない、幸運を捉えるための人相や肉体、に変換してあげ、るのがあたしの、」
「ふむ、君は正直な情報を伝えているようだ。わたしが山岸由花子とかいうスタンド使いを調べて得られた状況とだいたい理屈が重なる。小柄な少年と睦まじく歩いていた、あの年頃の少女が願う幸運なんて十中八九は異性関係だ。安心したよ? この期に及んで嘘をついていたらとてもとても惨い方法で殺さなければいけなかった」
 苦痛に耐える息を抑えて男がにっこり微笑んだ。表皮にあらわれる清涼感の下に透けているのは腐臭を放つ狡猾さだ。
 女性が黙りこみ、殺人鬼が満足げに頷く。正解に近い推測をすでに持っており、わざと答えさせて相手を試したらしい。おまえに繋がる人脈はだいたい調べあげている、彼らにも手を出せるのだぞという警告も含めて。
「さて、本題だが、わたしの顔をこの男の顔に変えてもらう。髪の毛と右手の指紋もだ。時間がないから今すぐ取りかかれ」
 血溜まりに溺れているぼくを顎で指し示す。その仕草によって男の表情が、肉体の直上に曖昧に存在しているぼくにも正面から見えた。疲弊しきっているが、エリートめいた気品のある風貌だ。なぜわざわざぼくの顔なんかに?
「ま、待って、あたしの能力は」
「一定のルールやリスクがあると言いたいかね? かもしれないな、無償では都合のよすぎる能力だ。わたしのスタンドが持つ能力にも、特定の条件づけで発動するものがある。強力だがそれだけに条件は変えられない。同じく君の能力も、なんらかの対価を要すると考えるのが妥当だ」
 恐怖と嫌悪に塗りこめられた女性の顔に驚きがよぎった。男の読みの深さに戦慄したらしい。傍観者の冷静さでぼくは考える。彼らがなにを言っているのかは解らない、いや、意味は掴めるけれど常軌を逸している。だが観客もいない密室でこんな芝居を打つ理由もない。なによりも男が振るった暴力は本物だ。
 どうやらこのふたりは、一般世間の預かり知らぬ奇妙な力を持っているのだ。
「『心がけ』がいる……運勢を固定するエネルギーを保つための……例えば愛を捉える人相を24時間固定するには、30分ごとに口紅を塗ら、なければい、けない」
「けっこう煩わしいねえ。わたしは運勢はいらない。欲しいのは外見だけだ」
 男が腰に手をあてて尊大な姿勢をとる。
「幸運の人相とやらにも興味はあるが、今の状況を打開するには即効性に欠けるだろう。永続的に顔と指紋のみ変換、付随する運勢は不要、かわりに煩雑な『心がけ』も不要というのは可能かな?」
 他人を必要以上に信用しない慎重さからか、神経質に問いかける。
「や――ったことがないから解らないわ……『魔法使いのルール』自体は、曲げることもできる。魔法使いとしての沽券にかかわ、る場合、あたしのスタンドは特例を作れる。記憶から再現して元の顔を作りなおした例もある……だけど人相と運勢、は本来切り離しがたいもの。運勢抜きで顔だけの植えつけ、は、まだ試したことがない」
 男が溜息をついた。探る視線で脅迫相手を見下ろす。女性の蒼ざめた眉間に口惜しさが刻まれているのを窺い、嘘は言っていないと判断したようだ。女性にしてみれば、犯罪者に協力させられるのは業腹だろうが、相手が知人の名前まで把握しているとあっては下手な嘘もつけない。
「まあいい、人相が変わることだけは事実だね? 言った通りの処置をわたしに試しなさい。君の傷は当然そのままでは危ないし、妙な真似をすれば山岸とかいう君の顧客の無事も保証しない。関係ない他人を巻きこまない、これは沽券にかかわる問題じゃあないかね? となると案外、君のスタンドは特例を適用してくれるかもな?」
 穏やかさを装った口調だが、語気の端々に余裕のなさが吹きこぼれている。もしかしたら誰かに追われている最中なのか? もう少し粘れば追手がここに――いや、頭の回転の速いこの男なら、逆算して逃げねばならない刻限は計算している。刻限がきてしまえばこの女性を殺し、そのあと追手に見つかるまでの時間できっと山岸という女性も殺してみせるだろう。どうしようもない。
 男が、足元に転がるぼくの髪の毛を掴んで引きずり上げた。片手作業で苦労しつつ、どうにか鏡台の前のスツールに座らせる。弛緩してぐんにゃりと突っ伏しかけるぼくの上半身を掴んで引き留め、早くしろ! と怒鳴る。叱咤に動かされて女性の指が宙に閃く。
 なにが起きたのかは解らない。なにも見えなかった。ありのまま起こったことを話すなら、男の顔が一瞬乱れた映像のようにぶれたかと思うと、ぼくの顔に変化した。
 頭髪も、ほんの瞬きする間にぼくのものに移り変わっている。黒くて固そうな見慣れた髪だ。女性の指先がふたたび翻り、ぼくを掴んでいる男の手も一瞬乱れてぶれる。そういえば指紋も変えろと命じていた。男がぼくの身体を放す。もはや素性も解らない顔無しの頭がどさりと天板に落ちる。
 男が、中腰になって鏡台を覗きこんだ。上方から、下方から、横顔からと念入りに確認する。不可視に透けているぼくは悪酔いに似た気分で立ちすくむ。ぼくの顔が、ぼくではない表情で、ぼくとして鏡に映りこんでいる。
「ンン――成功したようだね。素晴らしい能力だ、君は誇っていい。多少の違和感はあるが悪くないなじみかただ。 ……今まで顔を変えた経験などないから、これは実感からの勘だが、もしや……」
「なんてこと」
 床に座りこんだままの女性が茫然と呟いた。もともと土気色の顔が、唇からつたう暗紅色のひとすじのせいでなお青白く引き立つ。
「死人の顔……運勢の持ち主がいなくなった顔は、固定を必要としない……? 由花子さんのために『ルール』を曲げようとは努めたけれど……それだけではないわ」
 ぼくの顔をした男の眉が小刻みに動いた。女性が自分の許可なしで話すのが好きではないらしい。ただ彼にとっても知りたい情報ではあるらしく、視線で鋭く説明を求める。いずれ知られると観念した態で、女性はぼそぼそ喋りだす。
「実感、としてあなた、も気づいている……その顔を固定する作業はいらない。顔も指紋も永続的にあなたのもの。理由は、持ち主が亡くなった顔はどうやら奪いやすい、のがひとつ。あたしのスタンドが特例を認めてルールを曲げた、のがひとつ。最後は推測だけど……あなたがこの男性を殺すとき、思考、意識、なんと言うべきか、この人の『認識』そのものに傷をつけた……らしいのがひとつ。その傷が入りこむ余地を与え、だからリスク無しで顔を奪えてしまった。あなたがこの人に、何を言ったか、までは解らないけれど」


『やあ、すみません』
 ぼくの記憶が意識野に蘇る。ほんの10分弱前のことだ。
 帰宅ラッシュ直前の杜王駅は、有線放送や買い物客の活気がそれなりに賑々しい。だが地方のベッドタウンの無情さで、通りからひとつ角を曲がれば路地は寂れてせせこましい。商店街の人が朝夕の仕入れに使うのが関の山という町の空隙だ。
 そこから彼が手招きしていた。
『お時間はありますか? ちょっと難儀が起きたのですが、ひとりでは難しくて。できれば手を貸していただけると助かるんですが』
 駅前通りを歩いていたぼくに声をかける。思わず立ち止まって瞬きをした。相手はぼくと同じサラリーマン風の男性で――正直にいえば少し異様だった。ひと喧嘩してきたみたいに全身が埃だらけだ。建物に半身が隠れてよく見えないけど、血痕もついている?
 でも、難儀が起きた、と彼は言った。側溝にでも物を落としたのか? 土埃だらけなのはそのせいだろうか。
 事情を尋ねてみようと考えた。でも同時に警戒して、不用意には近づかず十分に間合いをとっていたつもりだった。2メートルも離れていれば通常、こちらに手は出せない。なのに次の瞬間、不可解な力学でぼくの身体は路地の奥に引きこまれた。まるで見えない腕がぼくの腕を掴んで引っぱったように。
『ありがとうございます。助かりますよ』
 ちっともぼくの意図ではないぼくの行動に、男は慇懃に礼を言った。
『万一を考えて備えておくものですね。以前から複数のあたりを付けていました。背格好の同じ相手。あなたの内情までは把握しかねますが――』
 記憶上、そこでぼくの視界は暗転している。聞こえた声は、鼓膜の機能が視神経よりも何秒か長く活きていたおかげだろう。
『どうせつまらない人生だろう? せめてわたしの役に立ち、植物のような平穏を与えてくれ』

 殺す瞬間、男はそう言った。植物のように。
 ぼくの顔をした殺人鬼を見下ろして、ぼくは傍観者ではいられなくなっていた。

 ぼくの名前は川尻浩作だ。川尻浩作とはなんの名だ? 杜王町に住むひとりの男だ。人間の名だ。植物の名前ではないのだ。
 ぼくが妻であるしのぶと暮らし始めて10年以上経つ。短くない歳月だが、彼女との絆らしきものはまったく育めていない。地方都市でならステータスとして通用する程度の学歴と、遺伝の産物である身長。彼女がぼくと交際をはじめたのはそれを連れて歩く優越感を得るためだ。結婚することになったのは子供ができたからで、正直なところ想定外だったが、ぼくは就職が決まっておりしのぶは短大卒業後の具体的なあてが無かった。半ば暗黙の了解として、結婚して出産した。急かされるように川尻家の生活は始まった。
 しのぶはどうやらぼくに情を抱いていなかった。ぼくのほうは当時、しのぶに悪しからぬ印象ならば持っていた。彼女は子供っぽくてやや勝手だが、感情豊かで、くるくる変わる表情に率直な言葉をのせる。一緒に暮らしたら賑やかなのだろうと思った。ぼくは幼いころから無口で大人しく、何を考えているか解らないとよく言われた。感情が表に出づらい性質だった。
 映画を観て涙を誘われるシーンがあっても、ぼくは涙が出ない。心のうねりをうまく発露できない。だけど隣を見るとしのぶはぽろぽろ泣いている。滑稽なシーンもそうだ。せいぜい片頬しかあがらないぼくの横で、朗らかな声をたてて笑う。それを見てぼくは、納得に似た満足感を抱いていた。感情の発散はしのぶに任せて、自分は必要な用件だけを口にすればいいと考えるようになった。それがすれ違いの種だった。
 事情に押されての結婚は唐突だった。予期せぬ人生に戸惑ってか、しのぶは子供の前でもときどき拗ねた溜息をついた。だけど当初はまだ、完全に没交渉ではなかった。「あなたってカミソリ負けするのね」「椎茸がきらいなの?」日常のささやかな発見を、彼女はいちいち口に出した。それ自体に恐らく意図はなかった。理解を深めて親密になろうとか、そこまで慮っての発言ではない。率直な彼女は思ったことがすぐ口から出るだけだ。「ああ」「そうだ」とぼくは返した。それで会話した気になっていた。――本当はもっと中身を返さなければいけなかった。特別な意図などなくていい。眼についた平凡な事実でいい。「きみは水玉柄の服が好きだね」「子供の前で溜息をつくのはあまりよくないよ」……たとえ些細に思えても、怠けずに言葉で伝えなければいけなかったのだ。
 家の中はどんどん静かになった。やや勝手、で済んでいたしのぶの態度に明確な無視が混じりはじめた。家庭運営も綻びだした。浪費というより管理不足で支払いは滞納ぎみになり、食事は気が向いたときしか作らない。それも自分と早人の分だけで、ぼくの割り当ては常に市販品だ。地方都市の古い常識で育ったぼくはろくに料理もできない。
 ぼくは仕事を――仕事を頑張ろうと思った。給料はなかなか上がらないけど真面目に勤めよう。仕事は幸いぼくに合っていて、やれば結果が出るだけ楽しくもあった。いつしかぼくは、家の中では植物のように生きようと願いはじめた。植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐くように役に立とう。主張せず邪魔もせずに過ごそう。それが幸せだと思いこんだ。それが幸せだと思いこんで、手に負えないものを置き去りにしようとした。
 妻を愛しているかと聞かれたら、正直なところわからない。スタート地点にも立たないままここまで来てしまったのだ。早人にもどう声をかけていいか解らない。自分の子供なのに怖ろしい。そう考えたら、放任が過ぎるけれど未だに「行ってきますは?」と声をかけるだけ彼女は逞しい。
 しのぶはぼくを侮り、嫌悪している。ぼくも投げやりに躱している。だけどずっと考えていた。実際には行動できない程度の臆病者だけど、明日こそは明日こそはと考えていた。
『会話をしよう。対話をしよう。ぼくらがこのさきどうなるかは解らない。でもこのままでは、夫婦以前に人間同士としていけない。ぼくにも、きみにも、怠惰がある。まずそれを払拭しよう。続けるにせよ終わらせるにせよ、きちんと向きあい話しあったうえで答えを出そう。誠実に心を交わすことから始めよう』。
 口に出してそう言うべきだったのだ。
 あの男に言われて気づいた。ぼくは植物ではない。川尻浩作は人間だ。つまらない平凡な男だけど、動く心を持っている人間なのだ。


 ……エステ・シンデレラに佇む、ぼくの顔をした男は、裏の非常口から出ていこうとするところだった。服もぼくのものに着替えてある。床に昏倒している女性は虫の息だ。
 ようやく男の魂胆が飲みこめた。恐らく、ぼくの殺害の他にもなんらかの罪を犯してきたのだろう。顔を変えて逃げおおせ、今夜ぼくとして川尻家に帰り、ぼくに成り替わって暮らしていくのだ。
 もう遅いだろうか。そうだ、もう遅い。機能不全の川尻家をどうにもできないまま、ぼくはここで消えてゆく。今さら夫ぶるのも父親ぶるのも不可能だ。それはぼく自身の責任でもある。だけどすべてが消えるだろうか?
 ぼくはしのぶに退屈しか与えられなかった。それは残念だと思う。でも逆に考えれば、退屈に倦んで本当のなにかを求める心、はそこに生まれたかもしれない。皮肉な形だが、それだけは残したかもしれない。
 ぼくの顔はこの男に奪われた。完全に彼自身として変換されてしまった。固定のリスクが要らない死人の顔は、たぶん本当に何の影響力も持たない。でもあの女性の言った「人相と運勢は切り離しがたい」という言葉は、なにも超常的な力だけを指さないのではないか? ぼくの顔になった以上この男は、少なくとも、川尻しのぶのいる家に帰らざるを得ないのだ。つまらない平凡な男の舞台で生きざるを得ないのだ。
 いいだろう。
 殺人鬼、おまえに『普通』を教えてやる。ぼくにはおまえの思考や精神を動かす力なんてない。できることはこれだけだ。でもこれがどんなに恐ろしいことか、おまえは身をもって知る。
 おまえが何を考え、どう行動し、しのぶにどんな感情を抱くかは、それはおまえの心次第だ。ただしぼくが今まで立っていた凡俗という舞台で起きることだ。
 殺人鬼、おまえに『普通』を教えてやる。おまえに『普通』の哀しさと度し難さとやるせなさと、強さを、教えてやる。


















見果てぬ家/


「……そういえばぼく、ひとつ単純に『困った』ことがありました」
 空条承太郎は卓上のカップから、正面に座っている少年へと視線を移した。
 杜王グランドホテルの一階レストランはティーラウンジも兼ねている。平日の夕方5時という半端さも手伝い、埋まった卓は店内のうち半数程度だ。個々の客が目立つほど空いてはおらず、それでいて近隣の席から会話を窺われる心配もない。
 まさか自分たちが猟奇殺人鬼の話をしているとは誰も思わない。
 吉良吉影による事件が収束して一週間後。空条承太郎は、自身の滞在する杜王グランドホテルにて川尻早人と待ち合わせた。事件の事後調査はSPW財団が行っている。少年への事実確認も行ったが、ただでも孤独に戦っていた未成年者の精神的負担を鑑みて、最低限の拘束に留めた。一刻も早く日常に返したいという財団の方針だ。
 ただ、落ちついたころを見計らい、空条承太郎は個人的に川尻早人と話をしてみようと考えていた。東方仗助の「あいつは小学生とは思えないほどタフだ」という人物評を信用したのもある。目的は、実際上も名義上も『父親』を失った川尻家の今後についての説明がひとつ。もうひとつは、家庭という密室にて起きた出来事を――忘れたいなら無理強いはしないが――内部からの視点でも把握しておきたいと考えたのがひとつ。
 ハイグレードホテルへの呼び出しは気後れさせてしまうだろうかとも危惧した。しかし、川尻早人は落ちついた態度で現れた。いつか見た通り、聡い眼をした少年だった。
「あいつは、吉良吉影はすごく恐ろしかった。怖くて強くて不気味で、なによりも憎らしかった。だけど」
 アイスティーのグラスを取り、咽喉を潤してから早人は繰り返す。
「あいつを見ていて、一瞬だけシンプルに『困って』しまったことがあったんです」
 承太郎はじっと相手を観察した。震えてはいない。緊張は少しみられる。
 生死に関わる体験を思い出せば、誰であれ心中穏やかではない。だが少年は冷静だった。緊張を変に押さえすぎないところが巧かった。決意を己に課し、成長をとげた者の顔をしていた。じっくり話を聞いても問題ないと判断し、承太郎は促した。
「それは?」
「あいつ……仗助さんたちに倒された日の朝、ぼくにこう言ったんです。『これからは安心して仲良く生活するんだよ』って。そのうえママにおでかけのキスをしていった。今までそんなことしなかったくせに。それを見たぼくは……一瞬だけど、単純に困ってしまった。『こいつ、勘違いしてるぞ』と思ったから。『自分でそれに全然気づいてないぞ』と思ったから。他人の勘違いってなんだか困ってしまうでしょう? すぐに怒りの感情に変わったから、次からは邪魔をしてやったけど……」
 早人は視線を彷徨わせて説明の言葉を探す。
「あいつが言う『仲良く暮らす』っていうのは、上から支配してやるって意味だ。汚らわしい自分勝手だ。おまえたちは都合がいいから利用してやろうって意味だ。だけど……どうやらあいつは本気で、いつまでもそうできると信じていた。ぼくやママを殺さずに、ずっと川尻浩作の身分を使っていけると考えていた。単なる利用目的だし、殺人も止める気はない。でもとにかく、もしかしたら一生、ぼくらだけは殺さずに暮らしていけると思っていた」
 少年は倍以上も年上の男を正面から見つめて断言する。
「無理に決まってる。あいつは呼吸をするように、どうしようもない衝動で人を殺すんだ。支配だって結局は他人と過ごすってことでしょう? そんな間違った共存すらもあいつにはできやしない。たとえ周囲に怪しまれたくないと思っていても、些細なきっかけでいずれママやぼくを殺してしまうはずだ。一緒になんか暮らせない。……でもあいつは、自分でそれを忘れていた。あの朝に限って、なぜだかそんな勘違いをしていた……」
 早人は口を閉じた。あなたはどう思うかと眼が問うている。承太郎は慎重に応えた。
「君は賢い少年だ。君の観察はおそらく正しい。やつが君の家に一生潜伏しつづけることは……やつ自身がそうしたいと願っても、無理なことだ。自我の衝動を抑え、他者と折衝する訓練をしてこなかった人間には不可能だ」
 言葉を切ってしばらく思案した。ここから先は小学生には難しい話になる。
 だが、この少年なら理解できるとも考えた。財団は事後調査のため、川尻早人の使用していた録音・録画器材をいったん借りだしたのだが、担当者が舌を巻き承太郎も驚かされたのを憶えている。少年が使いこなしていた各種器材は、小学生が扱っていたとは思えない高度で専門的なものだった。
 彼なら理解できるし、受け止められる。承太郎は先を続けた。
「吉良という殺人犯を、もし正式に逮捕できていたら、刑罰はほぼ間違いなく死刑になる。ただその前に司法は、人道的処置としてさまざまな更生プログラムを提供するだろう。カウンセリング、認知療法による衝動コントロール、被害者の存在しない代替対象への誘導。ただ、それで改善がみられるかどうかは解らない。犯罪者更生は分野として未だサンプルケースが少ない。また、死亡直前の時点では謝罪や改悛の意志も見られなかった。既に成人しており価値観も成長しきって長い。……音石明の例もあるから、できるともできないとも断言はしないがね。おれは少し前、吉良が生まれ育った屋敷を捜索している。蔵書や経歴から推測して、高い知能をもっていると判断した。もしかしたらやつは、犯罪者としての自分を分析するついでに、更生の可能性くらいは手遊び程度にシミュレートしたかもしれん。仮にそうだとしても思考実験でしかなく、自己を肯定し、葛藤もせず生きてきたようだがな……」
 承太郎はカップを取って口につけた。カーテンを透かす夏の陽が水面にきらめく。
「……ここからはさらに推測になるが」
 当事者と暮らしていた君から見て、もし違和感があったら言ってくれ、と申し添えて承太郎は続ける。
「吉良吉影は、高い知能も相まって、自分を特別な存在だと据えていたように思える。あくまで内心の思考だが、『自分は凡人の尺度では計れない』と。目立ちたくはないため社会的な特権は求めないが、『他者は自分の嗜好のために供されて然るべきだ』と。……しかし、反社会性というくくりで分類するなら、吉良のようなケースはそこまで極端に特異でもない。対象が女性の手首だという独自性はあるが、逆にいえばそれだけだ。人間はさまざまな衝動をもつ。盗癖、窃視癖、いろいろな心的依存。96年あたりから注目されはじめたストーカー犯罪もそうだ。人の心にそもそも『普通』などない。異常と正常の違いは大雑把に言うならただひとつ。実際に行動に移すか、移さないかだけだ……」
 少年はじっと聞いている。子供向けの内容でも単語選びでもないが、きちんと理解を伴って聞いている。承太郎は以前から考えていたことを尋ねた。
「吉良を倒したあの朝、君は言っていたな。『裁いて』ほしかったと。あいつを誰かが『裁いて』ほしかったと。どういう意味なのか尋ねてもいいかい」
 早人は瞬きをした。考えるために細い腕を組みかけ、失礼な態度に見えると思ったのか、慌てて元に戻す。
「そのままの意味です。誰かにあいつを裁いてもらって、正式な罰を受けてほしかった。同じ死ぬのでも、事故死ではなくて死刑判決をきちんと受けてほしかった。……無理なのは解ってますけど。倒すだけで精一杯だったし、スタンド能力っていうのが世間に知られてないし。けどできればそうあってほしかった」
 少年の眼がつと遠くなった。自分の思考と、自分の過去とを浚う。
「承太郎さんが言うように、あいつはたぶん自分を抑える訓練をしてこなかったんですよね。その訓練を充分受けて育たなかったのは、考慮というか、理解すべき部分ではあるのかもしれない。ただ、それがすべての動機かは解らない。あいつが更生できたかどうかはぼくにも解らない。あいつは人間じゃあない、怪物なんだとも最初は思った。でも……あいつというよりぼくら自身のために、ぼくら自身が気高くあるために、あいつを人間として裁きたかった。人間として扱って、正式な罰を受けさせたかった。そう思ったんです」
 深い感心を抱きつつも――承太郎の反応は、わずかに遅れた。
 川尻早人自身が、育児放棄とは呼ばぬまでも乾いた環境で育てられたという報告を受けていたからだ。目の前の大人のぎこちなさに気づき、早人は照れくさそうな表情をした。
「ぼくの家族は、少し前までちっとも仲良くありませんでした。パパもママも無関心で、静かで冷めた家でした。でもママは、これだけはいつも言った。ぼくが出かけようとするとき、面倒くさそうにこれだけは言った。「行ってきますは?」って。……大した意図はたぶんない。普段ほとんど会話はないし、ぼくもろくに返事をしない。ママ自身が寝坊してたこともよくあった。でも、ぼくが出かけようとするのに気づけば必ず言った。あいつがママにおでかけのキスをしたのを見て、どうにかしなきゃあと決意できたのはこのおかげです。大した意図はなかった。でも、言ってくれること自体に意味があった」
 承太郎は、今度こそ迷わず微笑んだ。はにかむ少年を見ながら、同時に己の過去をも顧みずにはいられなかった。承太郎の反応が遅れた理由は、もうひとつあった。
 『おれが裁く』――10代の自分の台詞を承太郎は思い起こす。かつての盟友、花京院典明に向けた言葉だ。スタンド使いの犯罪は法では裁けない。それゆえの決断だった。
 自己責任において裁きを下したことを、承太郎は後悔していない。法の届かぬ悪を前に、あえての独善を貫く覚悟を示す自分なりの矜持だ。ただ、あの台詞は、相手が花京院だったから言えたのだろうかとも今は思う。『敗者こそが悪だ』という強迫観念に追いつめられている彼を見て、ならばと打ち負かして更生を試みた部分があるかもしれない。危険を冒してまで肉の芽を抜いた理由は、本人に伝えたとおり『よくわからない』。ただ、結果として花京院はそれに応えてくれた……。
 一方の川尻早人は、社会的な裁きをこそ望んだ。吉良はその言動から人間性には期待しづらい。だから早人は、あいまいな期待はせずただ公正な待遇を望んだ。承太郎とは反対の選択だが、対象とする相手の性質がまるで違うと考えれば、筋は似通っていたかもしれない。
「……次の話題に移ろう。SPW財団から、すでに通達が来ていると思うが」
 思考を切り替えるため、承太郎は改まった声を出す。
「名義上の父親を失った君の家は、単刀直入に言って、すぐにも世帯収入が途絶えることになる。法的に死亡しておらず失踪扱いだから生命保険も厳しい。お母さんも働きに出るだろうが、にわかに川尻氏ほどの収入は得られまい。……失踪宣告の申請をすれば保険金や遺族年金を受けとれるが、事件性のない場合7年の不在事実が必要だ。遺体の出ない事故死を財団が偽装してもいいが時間がかかる。……まるで不安材料ばかりのようだが、安心できる話をしよう。君の家庭には今後、SPW財団児童基金からの援助が下りる。だから生活のことは心配しなくていい」
 承太郎はふところから幾枚かの資料を取り出した。広げて少年に見せる。
「全国の学校に働きかけているはずだから、SPW財団主催の学力テストを受けたことがあるだろう? 学力測定と同時に才能発掘という名目も掲げている。その結果をみて選抜された、という態でいくつか試験を受けてもらう。君はその試験にパスし、奨学金や特待生資格などの援助を受けることになる。……これは、財団が実際に行っている事業だが、同時にスタンド使いの絡む事件で被害を受けた人々を保護する事業でもある」
 驚きの表情で少年が資料に目を通しはじめた。その頭を見下ろして、承太郎は再び過去を思い起こす。

 『塔』の暗示をもつグレーフライ。それはかつてのエジプト行にて、承太郎が初めて接した真の敵スタンド使いだ。肉の芽による精神操作ではなく、自らの意志でDIOに忠誠を誓い、一行を襲った最初の相手だった。
 承太郎は旅の友から聞いた。「やつは金品を強奪する根っからの悪党スタンド使いだ」と。それは事実だった。死後、財団による調査がそれを裏づけた。贅を尽くした邸宅、ガレージに眠る高級車。地下のカジノで酒と薬を提供し、高級娼婦を呼びつける。自らの愉悦のために殺人遊戯をする老人。それは事実だった。
 ただ――彼の故郷の友人には病魔に苦しむ孫がおり、貧しさに喘ぐ両親や祖父の代わりに、治療費を出して養っていた――というのもまた共存する事実だった。
 グレーフライは友人にまったく実情を漏らさなかった。ただこう言ったという。「わしは事業を当てた。身なりと車が示すとおり、金には不自由していない。だから気にせず受け取れ。ガキのころ貴様がわしにひとつ多く菓子をくれたことの礼だ」
 グレーフライは犯罪傾向として旅行者を狙う。300人が死亡した旅客機事故にも関わっており、殺害者数だけならDIOの部下のうちトップクラスだ。対して彼が救ったのはたった4人の家族にすぎない。しかし、数の問題ではなかった。SPW財団は彼の資産を操作し、病気の子の家族に「貴宅を受取人に指定していた」として資金援助を提供した。
 これは善行ではない。なぜならグレーフライによる犠牲者たちの遺族は救われていないからだ。もしかしたら犠牲者たちの遺族にも、同じ病気の子がおり、稼ぎ頭を失ったことで苦しんでいるかもしれない。財団は各種支援基金を設立しているが、さすがにすべての例は救済できない。そちらの悲劇を無視して、グレーフライが養っていた家族だけを財団がピックアップして支援するのは明確に不公平だ。
 だから財団は、『これは善行ではなく事後処理である』と標榜するしかなかった。悪徳スタンド使いたちを処断してきた承太郎、その仲間、ほか財団員たちが罪悪感を抱いてしまわないための処置だった。すべてを救えないという不公平に囚われて、手の届く相手まで救うことを止めるべきではない。そう割り切らせるしかなかった……。
 両立する。蜘蛛を救った罪人のように、他を踏み躙る邪悪さと他を慈しむ厚情は、ひとりの中で両立してしまう。それが人間だった。

 視線を戻せば、川尻早人は資料を熟読しおえたところだった。神妙な顔をして自分のポケットにしまう。
「何から何まで、ありがとうございます」
「礼はいらない。吉良は君のお父さんを亡きものにした張本人だが、一時的でも君の家の世帯主の役割をしていた。それを始末してしまったのだから責任を取るのは当然だ」
 承太郎は手を上げて応えた。伝えるべきことはこれで伝え終えた。
 窓に眼をやれば、陽は傾きかけて淡い黄みが眩い。帰宅ラッシュにはまだ早いが、帰路につく人々が街角に増えはじめている。ふと思った。この気高い少年は、これだけ活躍しておきながら、家に帰っても事情を知る家族にねぎらいの言葉をかけてもらえない。
 自分が代理を務めるなどとおこがましいことは言わない。だが今一度、心からの謝辞を述べておこうと承太郎は居住まいを正す。
「最後に、一連の事件に関わった年長者として言わせてくれ。よく頑張ったな。君は立派な少年だ。君の活躍がなければ吉良は倒せなかった」
「……あ、えっ、ありがとうございます。で、でも承太郎さんや、仗助さんや億泰さんたちのおかげだし……」
 大人に正面から褒められることに慣れていないのか、川尻早人はどもりがちに返した。困ったような笑顔が、何かを思い出してだんだんと真顔になっていく。
「あの、変なお願いをしてもいいですか」
 躊躇いながらも申し出は切実さを帯びていた。
「ぼくにしてくれた感謝を、当人には黙っててほしいけど、ぼくのママにもしてあげてください」
「……どういう意味だ?」
 戦うものにとって守るべき対象は心の支えでもある。そのたぐいの感謝か、と思ったが、別の重さがあるように感じられて承太郎は聞き返した。
「……うまく言えないんだけど……」
 少年は口の端を下げる。説明しづらいというより、内容そのものへの抵抗が若干あるように見える。
「最期の朝、吉良吉影はなんだか妙に浮かれていた。とても上機嫌だった。勝利を確信して完全にぼくを見下していた。でもあいつは根っこがすごく用心深いから、猫草の企みを気づかれそうになったし、仗助さんとの戦いでもぜんぜん油断してなかったけど……」
 苛烈な体験を思い起こしてか、早人は軽く自分の頬を撫でる。治されたとはいえ一瞬でも爆死を味わった子供など他にはいない。
「でも全体的に、油断はしてなくても、万能感ってやつでふわふわしてる感じがあった。あいつはなぜか最後まで、自分はすごく幸運だと信じこんでた。言ってたんです、『昨夜あたりからツキがわたしにまわって来てる』って。なんの根拠もなく、だけど心から、自分は生きて家に帰ると信じていた。その思いこみが細かい隙に重なって、結局は敗けに繋がった」
 川尻早人はいったん言葉を切った。
「確証はないけど、あいつにそう思わせたのはママのような気がします」
 承太郎は頷いた。筋のある推理だ。吉良の変化は一晩で起きており、新能力の開花については間違いなく『矢』が関係する。ただ、さらに影響を与えた者がいるとすれば、晩のうちに接触した家族しかいない。写真の父親は味方だが、変化を与えるにはいわば新鮮味がない。川尻早人に覚えがなければ、川尻しのぶだ。
「ママはあいつの正体を知らない。だから仮にどんな言葉をかけていたとしても、裏の意図はない。思ったことを言っただけだ。ママはあいつを信じてたから、きっといい言葉だったんだろう。でも、その言葉が自動的に縛りをかけたというか……喩えるなら、ママの与えた祝福が、あいつには呪いとして作用した。そんな気がします」
「なるほど。君のお母さんも、ある意味で功労者というわけか」
「……その祝福は、あいつがあいつでさえなかったら、きっと祝福のまま作用した。あいつにとっては呪いになってしまっただけだ。……ママこそが遠回しに、吉良吉影にとどめを刺した気がしています。だから当人には黙ったまま、ちょっとだけ感謝してあげてください」
 少年は薄く感情を纏わせた声で振り返る。
「もしママがあいつの正体や自分の行動の意味を知ったら、どんな顔をするだろうとは思う。でもぼくらも、あいつも、あのままでいいはずはなかった。あのままでは駄目なものを終わらせてくれたんだから、やっぱり呪いではないかもしれない。祝福ではないにしても、幕引きだったのかもしれない。……これでいいんだと思います」
 承太郎は返事をしようとしたが、戸惑いに沈黙した。
 吉良吉彰は川尻家を隠れ蓑にしようとしていた。犯罪を隠匿するための利己の行動だ。しかし何の力も持たない一女性の言葉を、吉良はなぜそうも強く信じたのだろう。不遜で自負の篤いあの殺人鬼が。
 最初の疑問に立ち返れば。高い知能を持ち、自己分析にも長けるであろう吉良が、なぜ川尻家の中でだけは己を抑制できると勘違いしたのか。間違えたというより、願ったのか?
 真逆の心が、ひとりの人間の中で、両立していたのだろうか。
「……そろそろ行こう。時間を取らせたな、家まで送るよ」
 口にはそう出して承太郎は立ち上がる。早人も続いた。
 この少年も、同じ可能性に気づいているかもしれない。人として裁いてほしかったと言わせた所以かもしれない。だとしても、それで赦される相手ではない。遺族の痛みを思えば同情にも値しない。天への糸をのぼった罪人は再び地に堕ちる。
 でも救われた蜘蛛だけは、あの日の男を想って、巣で風に揺られているのだ。いつまでも。







やさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは/島崎藤村
2016/12/13

本として発行した際につけていただいた表紙 (Pixiv)