狭い洗面台の鏡に向かい、髪にブラシを入れていたリルムは、ふと手を止めた。

 ゆるゆると彼女の輪郭をふちどる髪は、色味の濃い明瞭な金色をしている。
 エドガーよりは彩度が高く、セリスよりは透明感が低い。世の中にあるもので一番近い色を探すなら、豊かな穂先を風にあそばせる麦畑だろうか。あるいは晴れた秋の午後のけだるいような陽の光。
 少し身を乗り出し、今度は瞳の色を覗きこむ。動かせば光彩がちらりとゆらめく、猫の目みたいな金褐色。人によっては琥珀色とも表現してくれるが、そう呼ぶには赤系の深みが足りないと自分では思う。お母さんも同じ色だったらしい、あいにくと憶えてはいないけど。


 隣で、熱いタオルで顔を拭いて「おお」と至福の声を漏らしている祖父の頭を見る。
 老齢のストラゴスは白髪だが、その色は純白ではなく卵の殻のようなあたたかみのある黄白色だ。瞳は、愛嬌のある鳶色。こっくりとした赤茶色、焼いたばかりの煉瓦の色。
 かつては瞳も髪もおそろいの色だったらしい。聞くところによれば、若かりしころのストラゴスの頭髪は、北方に棲む凶暴な大型鹿のたてがみとよく似ていたそうだ。北の森に遠征したさい、よく間違われて地元の猟師に撃たれそうになったものよ……と妖物専門の狩人であった祖父は言う。
 そのたびにワシは、すばやい身のこなしでひらりと弾丸を避け、地を蹴って跳躍し、相手の背後に颯爽と舞い降りては「若造、注意が足りんぞ?」と親切に警告してやり……と続くお決まりの流れを、出来た孫のリルムはふんふんと聞き流していた。長年のやり過ごし方だ。


 身支度を終えたリルムは、祖父とともにファルコン中央の食堂を兼ねた大広間へと出た。テーブルの上にはもう朝食の用意が並び始めている。
 大籠にたっぷり盛られたパンはこんがりと狐色、人数分のタンブラーカップは素朴な白磁の色。厨房へと繋がるドアからは、今、ガウが赤銅の大きなスープ鍋を抱えてやってきた。小柄で痩せ型の彼だが、見かけより筋肉がついているので危なげな動きはない。後ろからはカイエンが、ちょうど旬の果物である甘く色づいたあんずを洗い籠ごと運んでいる。
 ガウの髪は、黄みがかった清々しい若葉色だ。緑青系の髪色は、おもにレテ河流域の人々に見られる特徴で、数は多くないが希少というほどではない。瞳の色は、こちらはさほど珍しくない灰色。揺るがぬ天険、コルツの峰の岩肌の色。
 一方のカイエンは、純黒の髪、純黒の瞳。ドマの民には比較的多い組み合わせであるらしい。黒づくめはただでも禁欲的で格好いいが、リルムはそこに加えて、カイエンの具足や長套などに使われている独特な厚みの青を気に入っていた。まるで宵闇を煮詰めた色、月光が夜を濾した色。
 『藍』という染料から採る色だと亡国の侍は教えてくれた。わずかな異国情緒の向こうに謹厳さの嗅ぎとれるこの色は、彼にとても似合っている。


 リルムは、厨房のドアにひょいと首を突っこんだ。
 調理炉の前で、結いあげた髪をリズミカルに揺らしながら炒り卵をかき混ぜている若い女性の後ろ姿が眼に入る。今日の食事当番は、ガウ、カイエン、そしてティナだ。
 ティナの髪の色はガウと同じ緑青系だが、彼以上にはかなく、繊細で、眼にしたものの心を不思議とざわめかせる色彩だった。ほの青く透きとおる翠緑の髪はときとして輝石のように、それ自体が生命を持つようにも見える。春の草原などに立っていると、髪先から風に溶けだしてしまいそうで、美しさよりもどこか不安を覚えるほどだ。瞳はといえば、髪にもまして印象的な深山の緑。昼なお暗い鬱蒼とした森の色。
 ただ――リルムには、ティナの髪や瞳の色は日々少しづつ変化しているように見えた。出会ったばかりのころ彼女が宿していたのは、無垢ゆえに底知れぬしなやかな野生の翠だ。けれど近頃のティナに窺えるのは、美しさはそのまま地に足のついたまろやかな翠。
 モブリズでの経験が作用しているのではないかとリルムは推測していた。半ば人ならざる彼女は、内面の変化が外見にも多少の影響を及ぼすのだろう。己を探す旅の果て、緑の少女は、根を伸ばして枝を広げられる土地をやっと見つけたのだ。


 広間へと戻ったリルムは、部屋の一角に座りこみ、なにやら作業の場を広げている人物に眼を留めた。さっきも居たのかも知れないが気づかなかった。
 床にじかに胡坐をかき、油紙を敷いた上でテーブルランプを分解しているのは、やんごとなき一国の王・フィガロ城主エドガーだ。そういえば昨日セリスが、寝室のランプの点きが悪いとこぼしていたのを思い出す。離れたところで作業しているのは、食事の準備をしているそばで油や煤の汚れを飛ばさないためだろう。
 細い道具で機構をいじっているフィガロ王を、絵師の少女は遠目に見つめる。エドガーの髪は、微妙なくすみのある金髪だ。純粋な金色の上に、うっすらと生成の麻布の色――いや、よく乾いた干草の色? とにかく穏やかな渋みのニュアンスを加えればこの色調になる。これくらいの複雑さをはらんだ色のほうが、自分のように単純な色の金髪よりもずっと上品に見えてリルムは少し羨ましかった。
 瞳は、しずかな湖のような深い蒼。『蒼』という色の種類ならば世間にはあまた存在する。雲のない日の空もそうだし、よく見る種類の小鳥もそうだ。鉱物や花の色にもあるだろう。
 だが、そのうちのどれよりも、エドガーの瞳の色は水を湛えた蒼にもっとも近かった。たゆたう層が織りなす色。さざめき、打ち寄せ、渦を巻いて流れる色。


 背後から、これ、向こうに並べとくよ、と声がした。
 振り向けば、白木のサラダボウルを持って厨房から出てきたのはマッシュだ。屈強剛毅のこの拳闘士は、自分の当番でないときもすすんで仲間たちの家事を手伝ってくれる。外見に見合わぬまめまめしさがリルムには可笑しかったが、聞けば彼の属する格闘流派は生活上の作法にもたいそう厳しく、助け合いの精神は当然必須なのだそうだ。
 マッシュの髪や眼の色は、やはり双子の兄によく似ている。ただ、あくまでも似ているだけで決して同じではない。短く刈りこまれた髪は、エドガーよりは陽に焼けた赤みの金。れんげの花から採れる蜂蜜の色、といえばわりと近いだろう。瞳の色は、夏の天蓋の蒼。はるかな蒼穹の色、高みを吹き抜ける風の色。


 運んできたクポ、と続けて声がした。
 厨房とは反対側のドアを開けて、大小の真白い生物が広間に入ってきた。運んできた、と申告したモーグリ当人はしかし何も持っておらず、中身の詰まった大缶をかるがると担ぎあげているのは背後に控えた雪の巨獣だ。
 厨房からカイエンが顔を出し、かたじけないと言葉を掛ける。調理炉用のアルコール燃料が切れそうになったのを彼らが運んできたらしい。
 目の前を通りすぎる人外の同志たちを、絵師の少女はじっと見送る。ナルシェの小戦士、モーグリの毛皮はつややかな絹毛。色は一点の曇りなき純白、日中の戸外では輝いてすら見える。ただし洞窟に棲むモーグリ族は太陽に弱く、晴れた日は「眠くなる」と言って大柄な弟分のつくる日陰に隠れてしまうのだが。光の刺激から守るため、眼は常に細められているが、暗いところではすぐりの実を連想させるつぶらな黒瞳がぱちりと開く。
 燃料缶を肩に載せ、のしのしと歩む雪男は、こちらは見るからに剛そうな毛皮だった。色は白いがやや偏光性があり、表面がうっすら紫の燐光を帯びている。なかなか味わいのある美しい色だ。瞳は緋色、磨きぬかれた紅玉の色。あるいは暁の雲を切りとった色。


 リルムは、テーブルに置かれた洗い籠の中のあんずに視線をあてた。
 はちきれそうに汁気をふくんだ橙色の実は、水滴をまとって美味しそうだ。すばやく左右を見回し、誰も自分に注意を向けていないのを確認する。育ちざかりのリルムは、さっきから腹の虫がうずいて仕方なかった。行儀が悪いけど、一個だけ、お先に拝借。
 手を伸ばした途端――もぞり、となぜか首の後ろの毛が逆立った。
 奇妙な落ちつかなさを覚えて背後を振り向く。黒い痩身の人物から送られている、温度なき無言の視線に気づき、リルムは慌てて手をひっこめて舌打ちした。
 シャドウはいつのまにか広間の片隅に立っていた。リルムは知っている、この男はその気になれば完全に自分の気配を殺せる。臆病な小動物が頭上でうとうと昼寝をはじめるくらい、微動だにせず周囲の無機物と同化できる。
 そのシャドウからの視線に気付いたのは、逆に考えれば明らかに、向こうが意図的に気配を発したのに違いなかった。わざと微かな衣擦れの音を立てたか、視界の端をかすめる程度に身じろぎしたか――とにかく、自分が見ているぞと。
 解りましたよと唇を尖らせつつ、リルムは横目でこっそり暗殺者を観察する。いつも覆面を取らないこの男の髪色は長らく解らなかった。ただ、いつだったかの戦闘後、シャドウの覆面の目出し穴からひとふさの髪が漏れているのをリルムは発見したのだ。初めて見たそれは、鉄灰色をしていた。わずかに茶の雰囲気もあったので暗みの亜麻色かもしれない。
 瞳のほうは、黒とも見まごう濃青。カイエンに教えてもらった『藍』という色にだいぶ近い。低温の色、寒々とした色。新月の夜、星だけがささやかに真の闇ではないことを囁きかける色。


 おはよう、と言いながら美しいその人は扉をくぐって現れた。
 女性にしては長身の、ほっそりしながらも強靭さを秘めた体つき。セリスは腰に締めた剣吊りの金具をかちゃかちゃ鳴らしつつ、ランプの修理に専心しているエドガーに歩み寄りなにか声を掛けている。無事に直ったかどうかの確認をしているのだろう。
 セリスはこの船に同乗する仲間たちの中で、誰よりも身体の色素が薄かった。髪は淡い、ごく淡い白金。かろうじて金髪とは呼べる色味だが、黄みは限りなく希釈されて風をはらめばきらきらと透明に散る。瞳の色は、澄みきった氷の碧。冬の寒い朝、踏めばさくさく音のする霜柱の、うすくてうすい華奢な碧。
 色素の薄さは、一見、かよわさにも通じる。だからセリスは最初のうち虚勢を張っていたのだろうか? 祖国で過ごした時代について彼女は多くを語りたがらない。だが軽からぬ役職名と帝国の行状とを考えあわせれば概ねの過去は想像できる。日々の軍務をこなすうち、セリスの胸中に弱さを嫌悪する価値観が培われていったのは当然だ。
 薄さは確かに脆さとも取れる。でも、それ以上に自由のあらわれと取ればいいのだともうセリスは気付いているはずだった。彼女はこれから何を選び、どんな色に染まるのか。白紙の画用紙を前にしたような心地よい高揚を、絵師の少女は少しだけセリスに感じていた。


 続いて広間に入ってきた男は、セリスとは対照的にむっつりと無言のままだった。
 不機嫌そうにしか見えない剣呑な目つきだが、それが彼の素の状態であることを仲間たちは心得ている。もっとも、いま起床したばかりの彼は本当に不機嫌なのかもしれない。「俺が毎朝同じ時間に起きるとは、時代も変わったもんだ」と日頃ぼやいていることも仲間たちは心得ている。
 セッツァーという人物を見る場合、まず眼を留めずにおれないのはその銀の髪だ。貴く希少な鉱物の色、柔軟にして硬質の色。黒衣の背にまつわり、風に絡まる細い糸は、彼の存在感をあざやかに決定づけている。セッツァーの髪は彼が好んでくゆらせる紫煙のシルエットにも似ており、両者は「とらえどころがない」という意味でその持ち主にも似ていた。
 瞳の色は、あえかに青く翳る紫。この男が眼に宿す紫は、藤や菫のような生命の色ではなく、やはり刹那的な夕空の色をこそ思わせた。落日の深紅が夜の群青と混じりあう明暗の色。一刻も経てばうつろってしまう黄昏の色。
「人は、あまり同じものを見すぎると、その色の瞳になってしまうのかも知れない」
 いつだったか、セリスがぽつりと漏らしたことがあった。彼女の言葉は、セッツァーがかつて夕闇の中ばかり飛んでいた時期があるのではないかと示唆していた。太陽が同じ角度にかたむく空を、毎日毎日、ずっとずっと。二度と逢えない誰かに「日没までに帰れ」などと言ってしまったばっかりに。


 全員集まっただろうか、とティナが頭数を数えはじめた瞬間、勢いよく扉が開いた。
 子供のように頬に泥汚れをつけて、立っていたのは宝探し屋だ。すでに普段の行動服を着こんでいるロックは、本日は戦利品あり! と高らかに言い放つ。
 毎朝ではないがロックはしばしば、飛空艇がどこかの野地に停泊するたびに早起きして周辺の探索に出かけていた。お宝は、古代の遺跡や山洞にばかり眠っているわけではないと彼は言う。むしろそういった場所での重大な発見を逃したくなければ、日ごろから観察力を鍛えねばならない。
 どんなに何もない場所に見えても、本当に何もない場所は存在しない。そう主張するロックは、探索のあとは必ず何かしらの手土産を持ち帰った。それなりの値で売れる香木、塩茹でにするとおいしい球根。旅に役立つ情報のこともある。南に行けば湧き水があるだの、葉兎の巣穴を見つけたから捕まえてシチューにしようだの……。ただ、正直大したものが見つからず苦しまぎれに持ち帰ったらしい手土産のときもあった。かぶと虫や、蛇の抜け殻や、変な形のただの石。
 幸い今朝については、宝探し屋の面目躍如といったところだ。彼がバンダナに包んで持ち帰った山盛りの木苺に、リルムは歓喜の口笛を吹く。
 得意げに胸を張るロックの髪は、かろやかな灰茶色。濃くはないけれど落ちついた色だ。なんとなく、古いもの全般を連想させる色だなとリルムは思った。何世代にもわたって読まれつづけた古書のページの色。手に馴染んだなめし皮の色。
 瞳のほうはくすんだ淡緑。光源によってだいぶ雰囲気が変わり、日向で見れば夏の萌える丘、日陰で見れば秋の枯れ野原だ。移ろいやすいこの手の瞳は、地方によっては『はしばみ色』と呼ばれる。陽気さの裏に薄暗い未練を抱えていたこの男が、自分の眼の色をどう呼んでほしいのかはリルムには解らなかった。


 拙者が洗ってこよう、とカイエンが木苺の包みに手を差し出した。
 受け渡そうとしたそのとき、バンダナの端から木苺が2個ほどころげ落ちてしまう。おっと、とリルムは咄嗟にかがみこんで木苺のひとつに手を伸ばす。するとまったく同時に、もうひとつの手がもうひとつの木苺に伸ばされる。
 同じタイミング、同じ腕の角度、同じ指の形。一瞬、落っこちた木苺はほんとは1個だけで、それを拾う自分の姿が鏡に映っているのかと錯覚したほどだ。腕を引き、立ちあがり、果実を包みに戻す動作までもが瓜二つ。真打ち登場、と絵師の少女は思わず心の中で呟いた。
 リルムの動作を完璧に模写してみせたのは、言うまでもなくこの船一番の奇傑、ものまね士ゴゴだった。さて、彼の髪や瞳の色はなんだったろう? 答え合わせを我慢する気分で、リルムは隣に立つゴゴの顔をわざと見ずに思い出そうとする。
 あいにく髪色については、今まで確認できておらずこれからも確認できそうにない。ひとときも頭巾を取らない彼はシャドウのようにほんの一房の隙すら見せてはくれないのだ。でも目出し穴から覗く瞳の色なら、これまで何度か視界に入れているはずだった。こうして寝食も共にしているし。
 記憶を必死でたぐったが、思い出せない。いかに視界に入っていても、注意を留めない対象についての情報は曖昧で不鮮明だ。リルムは諦めて、くるりと振り向いてゴゴの顔を見る。ゴゴもまったく同じ姿勢で彼女の顔を見つめる。
 ……へえ、こんな色だったっけか。まるで猫のような金褐色――――あれ?
 ある疑念を覚えたリルムは、皆に取り皿を配っているセリスに近づいてそっと耳打ちした。
「ねえ。ゴゴの瞳の色ってさ、どんな色だか知ってる?」
 唐突な問いにセリスはきょとんとしたが、言われてみればという表情で顎に指をあてた。よし、と皿を抱え、離れた席まで配りにいくふりをしてゴゴの顔をちらりと窺う。
 戻ってきたセリスは、少し意外そうにリルムに囁きかえした。
「今まで気がつかなかった。ゴゴってすごく薄い碧の瞳をしてる」
 ただ、どこかで見た色のような気もするんだけど……と小首を傾げる相手に、リルムは力なく笑い、次は椅子の上にクッションを積みあげている最中のモーグリに声を掛ける。
「モグちゃん、ちょっとゴゴの瞳の色、見てみなよ」
 モーグリは頷き、クッションの頂上によじ登って座り心地を確かめるふりをしながら、テーブルを挟んで斜向かいに立つゴゴを眺めた。
「……へえ、真っ黒なんだクポねえ」
 いま知ったクポよ、と続ける小さな頭をぽんぽんと撫でてリルムは天を仰ぐ。なるほど、そういうことか。
 どうせ祖父が見れば鳶色と言うのだろうし、フィガロ王が見れば蒼と言うのだろう。誰かを誘って同時に確認してみても同じことだ。ほかの誰かの視界には、その人自身の瞳の色として見えるに違いない。
 じゃあ、とあの頭巾をむりやり剥ぎとり、髪の色を確認してみたい衝動にも駆られる。だがやめておこうとリルムは頭を振った。明かしてはならない謎もある。ちょっと大袈裟に言うなら、なんだかその瞬間に全宇宙が原始の状態に戻ってしまってもおかしくない気がする。


 いざ全員が、朝食の席に揃った。
 それぞれの人物が、それぞれの精彩をもって一堂に会している。器を取りあげ、談笑し、飲みものを注ぐ個々の風景。ひとつひとつの総天然色。
 リルムは、腰のホルダーに挿した絵筆をぎゅっと握りしめた。どこにでもある、ありふれた、だけど喪えないあたしの常備色。
 そうだ、あたしのための色皿だ。これがあるからあたしは描ける。本当はあたしは、世界を救うことなんか考えてない。痩せた家畜、死んだ土、項垂れる人々、いずれも心が痛むけど、そのために自分を犠牲にしようとは思わない。見知らぬ誰かのための救世主にはなれない。
 ただ、他でもないあたしの色のために、あたしは――――



                 *          *          *



「リルム!!」

 焦りを帯びた声に、少女は瞳を開けた。

「大丈夫か。どこか、どうかしたか!」
 フィガロ王が、物騒な得物の切っ先を仇敵に向けたまま肩ごしに叫んでいる。こめかみのあたりに汗で髪が貼りついている。
 リルムは即座に叫び返した。
「ごめん、少し考えごとしてた。なんでもない!」
 リルムは一瞬で身も心も現実へと復帰した。大丈夫、瞑目していたのはほんの数秒、油断していたわけではない。ちょっと思い出していただけだ、ありし日の朝を。
 目の前にあるのは平和な食卓ではない。粘土のようにひしゃげた鉄骨、泥まみれで半壊した何かの水槽。溶けた樹脂がべったりこびりつく焦げた柱、瓦礫の隙間をぬって鼻腔を刺す澱んだきな臭さ。

 顔を上げれば虚天に舞う、狂奔の道化。
 禍つ神となったケフカは奇妙に身を捩じり、眇めて見下ろす。取るに足らぬ虫たちを。

 斬撃や打撃、あるいは炎熱や凍氷がもう何度も中空から打ち下ろされてきたが、リルムに怪我はなかった。前衛の面々が身体を張ってくれている。
 ストラゴスが口の中で、癒しの呪をもごもごと唱えている。もごもごとしか聞こえないが、余人にはとうてい真似できぬ高速詠唱だ。驚異のスピードで正確無比に複雑な魔語を紡ぐ。優しくとぼけた祖父が歴戦の勇士であることを、孫娘はこうしてたまに思い知る。
 道化の手が無造作に振られ、黒い羽根の竜巻がふうっと生じた。あれは破壊の翼だ、風に乗ったとたん、ちりぢりに砕けて超硬の刃となって降り注ぐ。
 飛び出したカイエンが自らの肩甲と剣の平で迎え撃ち、ほとんどを薙ぎ落とした。と、その空隙を狙って真っ白い雷が大音量とともに立て続けに地に突き刺さる。慌てて物陰に転がりこみ、耳を押さえ口を開けてびりびりと大気を震わす轟音をやりすごす。
 侍はどうなった、と一瞬背筋が冷えたが、セリスが歯を食いしばって剣をかざしているのが見えた。なんとか封じるのに間に合ったようだ。

 ああ、くそ、道化野郎。
 リルムは瓦礫ごしに、くるくる宙で回転しながら笑うケフカを睨みつける。あんたは知らないだろうけど、あたし、あんたを描いたことがあるよ。ただ今のあんたには――色がない。
 ばさばさに褪せた髪はつくりものの繊維みたいで、剥きだしの半裸の肌は屍肉のよう。瞳はまるで穿たれた穴。黒い色の穴ですらない、あんたのは色じゃなくて無だ。ときどき不吉な鬱金色に輝くけど、三闘神の霊能によるものであんた自身の色じゃない。
 くそ道化、あんたは自分の色を捨てちゃった。でもそれは、最初はあんたの意思じゃなかったのかな。極彩の衣装は、失くした色を補うためだったのかな。欠損を隠すための道化姿は、だからあたしは嫌いじゃなかった。ううん、実は今の姿も嫌いじゃない。色のない夢、無明の孤高。無慈悲で無軌道で、歪で圧倒的で絶大で――だからこそ惹かれる。なんでかな、人間にはそういう部分がある。たぶんこれはあたしだけじゃない。
 だけど。

 絵師の少女は、ひゅうと息を吐いて背筋を伸ばした。
 呪の構築を思い描きながら、いつもの癖で手の指を前に組む。意味のある行為ではないが、いつもの癖には従っておいたほうが集中できる。
 彼女の挙動にはっと気づいたティナが、一堂に抑えた声を発した。
「リルムが究極魔法を撃つわ、備えて!」
 軽装の者たちは低く頭を下げ、甲冑で重装した者たちがばらばらと脇を固める。長く入り組んだ詠唱に心を尖らせつつも、リルムの意識は水鏡のごとく粛然と保たれている。
 ……毒々しい道化姿をしていたときのケフカの髪や瞳は、せめて元々の、人間としてのケフカの色だったんだろうか。あの髪は――たよりない愁いの金色。あたしにはまるで、いつまでも飛べない小鳥の雛の色に見えた。瞳はかぼそい萌黄色。顧みられない草の芽の色、やわくて幼いうたかたの色。
 あたしたちに斃されれば、あの色はもう二度と見られない。
 誰かがいなくなるとはそういうことだ。

 手の中の光球がきりきりと軋む。
 掌に収まる程度の大きさの内に、莫大な膨張力を凄まじい密度で押しこめて、純白の光が目映い渦をなす。構築されてゆく呪は、唱えるものの精根を削ぎ魔力を吸い取って成長する。
 気を抜けば全てが弾けとんでしまう超高圧の力源を、細心の神経で制御しながら、絵師の少女は瞳を閉じる。

 あんたにしてあげられることはなにもない。
 でもあんたの色は、あたしが憶えている。……いつか使う色として。



 祈りに似た感情をこめて、リルムは掌に導かれた力をそっと解放した。



Fin.








媒体によって少々ズレのあるFF6の色設定ですが、自分なりの解釈を整頓しました。
基本的にはゲームの顔グラ準拠ですが、細かいところは天野絵を参照したり趣味に走ったり。

2012/09/28