「これも駄目ね」 またもあっさりと切り捨てられて、ザトーは口元を歪める。 「……確認しておきたいのだが」 苦りきった声に優越感をくすぐられ、ミリアは男のほうを振り返る。 「個人的な感情が、おまえの判断力に影響している可能性はないか？」 「とんでもないわ」 できの悪い生徒を眺める女教師のように、意地悪く顎に手を当てる。 その動作は彼女の目の前にいる、彼女の嫌いな男の癖によく似ていたのだが、それを指摘する者はここにはいない。 「祖国の伝統に対して妥協をしたくないだけよ。もちろん」 にっこりと微笑む。彼女が自らの上司に笑いかけるなど滅多に無いことだ。 「あなたが諦めるというのなら、私もこれで我慢してあげるけど」 「……いや、もう一度だ」 ザトーはミリアからカップを取り上げ、部屋の隅に備え付けられた給湯設備に向かった。 がちゃがちゃと騒がしく、ケトルを取り上げて湯を沸かしなおす。台の上はいろいろな種類の茶葉の缶、ティーカップ、ジャムの瓶、スプーン、茶漉し……そんなもので一杯だ。 長躯の後ろ姿を眺めながら、ミリアは悪戯っぽい面持ちでベッドの上で伸びをした。 ことの始まりは小一時間ほど前に遡る。 夜はとうに更けていたが、なぜか眼が冴えてしまい、ミリアはまだシーツの中で寝返りを打っていた。 何度か向きを変えるうちに、同衾している男と顔を付き合わせる形になる。 なんとはなしに、寝顔を見つめる。 瞳を閉ざしたやや色白の顔に、どこかで取り違えた過去を想い、記憶が鮮明になりかけるたびにそれを押しとどめ、そんな自虐的な独り遊びに飽きて溜息をついたところで―― 「眠れないのか？」 「…………起きているなら起きていると言って」 呼吸が止まるほど驚いたのを押し隠して、ミリアは苦々しく呟いた。 気恥ずかしさと腹立たしさに黙って背を向ける。視力を失って以来、昼も夜も常に瞳を開けないものだから解らないのだ。 ザトーは身を起こしたようだった。彼女の頭の上に手を置く。 「寝付けないのなら、茶でも入れてやろうか」 「要らないことしないで早く寝れば？」 自分の髪を軽く梳いてくる手を払いのけたかったが、面倒なのでそのままにさせておいてミリアは言った。 「頭領様は明日も忙しいんでしょう。それとも」 彼女としては、単に思い付きを口にしただけだった。 こう言えば相手が諦めると思ったからだ。 「私のくにのお茶、淹れられる？」 受けて立ったものの、どう気を配って淹れてみても、その味は及第点すら貰えない。 負けて恥じる勝負でもないのだが、お情けで譲歩してやると言われて引き下がるのは癪なものだ。自分からした提案だという拘りもある。 斯くして列国の恐れる暗殺組織の頭領は、夜の夜中にポットと格闘しているのだった。 「濃いめに煮出した紅茶に、好みのジャムを落とす」 注意深く湯を注ぎながらザトーがぶつぶつと思案顔で呟く。 「ロシアンティーの定義はそれで間違っていないな？」 「どうかしらね」 涼しい顔で言う彼女の前に、ずいと何杯目かの紅茶が突き出される。 そこにいるのは威厳と冷徹を誇る殺手ではなく、子供のように意地になったただの男だ。 ミリアは口に含み、眼を閉じて丹念に味わった。 瞬間、期待の色を浮かべた男の顔を正面から見ながら……ゆっくりと首を横に振る。 冷静を装いきれず、悔しげにむっつりと押し黙る相手の表情に、わけもなく嬉しくなりながらうきうきとカップをつき返す。 「やっぱりサモワールがないと無理なのかしらね。グルジア茶葉も置いてないし」 わざとらしく嘆いてみせる。実はどうしても必要なツールではないのだが。 「……サモワール、とは何だ……」 「そんなことも知らないで、私を満足させる気だったの？」 このうえ出てきた未知の単語に、彼としては困惑するしかない。だがその憔悴しきった反応はミリアをさらに喜ばせた。 ザトーはカップを受け取り、また彼女に捧げる味を作りに行く。 ミリアはゆったりと、枕にもたれてそれを待つ。 しゅんしゅんと湯の沸く音。渋みを帯びた湿った香り。 ジャムの蓋をティースプーンでこんこんと叩く、長い指。 これは気の迷いなのだ、と、彼女は頭の片隅でちらりと自分に前置きする。 夜更かしの気怠さのせいだ。湯気の熱が部屋を暖めたせいだ。 でなければ有り得ない。こんな静かな――静か過ぎる夜は。 ともあれこの真夜中の茶会のために、 彼女はザトーがいつまでも自分を満足させる味を出せないことを願い、 日頃から彼女に冷酷な運命の神も、その願いだけは承諾した。 ミリアがザトーの私室のテーブルの上に、内部で火を焚く構造の、優雅な装飾と蛇口のついた大きなロシア式湯沸かし器…… すなわちサモワールを発見するのは、それからたった数日後のことだ。 茶を淹れるのがうまい男になんとなくロマンを感じます。 本場のロシアンティーはものすごく濃く煮出し（茶葉と湯が同量）、ジャムや蜂蜜はただ添えるだけだそうです。 |