お母さん、月が綺麗です。

 最近は特に
 夜が長いので
 ええ、本当に――





 誰かが入ってくる気配にも、少女は動かなかった。
 ベッドに臥せてはいるが間違いなく眠ってはいない。
 それを知っていても、部屋に入ってきた男は灯りをつけなかった。
 窓から覗く華奢な三日月。それさえあれば良い。
 言葉を交わすには十分な光。
 見透かされぬには十分な闇。
「……医療班から連絡を受けました」
 ベッドに自分も腰掛ける。口調はいつもと変わらない。
「おめでとうと言っておきましょうか。明日から隣室に専門医を待機させます」
 眼鏡を直す動作にも、なんの感情も窺えない。
 少女の肩がわずかに震えても、男は気にかけるふうもない。
「定期的に健康診断を受けるように。大事にして貰いたいものですね。何しろ」
 薄い雲が晴れてゆく。
 月光の落とす影が、くっきりと輪郭を増してゆく。
「能力者同士の、純血培養を試みるのは、これが初めてで……」

 淡い光に髪をひらめかせて、少女の身体が跳ね上がる。
 細い肢体に似合わぬ猛禽のような獰猛さで、男に掴みかかる。

 次の瞬間、男は逆に少女の手首を掴んで捻り上げていた。
 痛みに声を上げる間も与えず、上体をベッドにねじ伏せる。
 からん、と乾いた音がする。
 隠し持っていたナイフが、捻り上げられた拍子に床に落ちた音だ。
 押し倒されたような格好になって、少女は荒く息をつく。
 失敗したのだ。

 男は視線だけをめぐらせて、床に落ちた凶器を見やる。
「なるほど」
 愉快そうに、毒を含んだ余裕さで納得する。
「今夜に相応しい、素晴らしい趣向ですね」
 男を跳ねのけようと、身体の下で足掻く少女を押さえこんだまま部屋を見回す。
 やがて、テーブルの上に載っている物を見つける。
 籠に盛られたいくつかの林檎。
「……微熱が続いて、果物くらいしか食べられないと…」
 技巧的に、声をひそめて囁く。
「数日前からそう言っていたのは貴女自身です。それは事実なのでしょう。実際、身体には変調があったわけですから。しかしそれを利用して、部屋にナイフを持ち込ませることを企むとは……隙のないことだ」
 少女は貝のように口を閉ざす。だがその沈黙こそが肯定だった。
「それにしても、武器になりうる道具の回収を怠るとは手落ちにも程がある。ここの職員の質も落ちたものです」
 男が哂う。
 支配者の顔で。
「担当者には、それなりの処罰が必要ですね」

 意味が理解できず、少女は少し眼を細める。
 次の瞬間、ぎこちない微笑みが脳裏をかすめる。
 やっと少しづつ打ち解けはじめていたあの笑顔。
 自分とさほど歳の変わらない、この部屋担当の、世話係の女の子。

 理解と同時に頭の中が、氷塊を押し込まれたように凍りつく。

「……やめて……」
 弱々しい自分の声を、どこか遠くに聞く。
 声に力が無いのは、何を言っても無駄だと解っているからだ。
「やめて、お願い……」
 大声を出して訴えたいのに、喉は震えて言うことをきかない。
 身体に覚えこまされた諦念と恐怖が、指先までもすくませる。
 男の顔が、すうと近づく。
「貴女のせいですね?」
 慇懃な口調。響きだけを取るならば、紳士的とさえいえる穏やかな声。
「貴女のせいで、人が死ぬのですよ、パトリシア」
 少女はかたく瞳を閉じる。
 きつく閉じれば閉じるほど、はっきりと瞼に浮かぶ。
 はにかんだ仕草。食器を並べるときの優しい語らい。
 枕元に活けてくれた白い花。真摯な同情の瞳。
 ささやかな慰めとなったその全て。
 赦しを乞うことも、できない。

「貴女さえ堪えれば、今後、誰も不幸にはならない」
 非情な理屈を、男は笑顔で語る。
「無駄なことをしなければそれで良いのですよ」
 手を離しても、少女はもはや抵抗しなかった。
 青ざめた顔の、形のよい小さな顎を男の手が捉え、ぐいと自分のほうを向けさせる。
 手袋はしたままだ。
 素手で誰かに触れるなど、男はもう何年もしたことが無かった。
「十分思い知ったのなら、あとは深く考えないことです。ストレスは母体に悪影響を及ぼす」
 少女は薄く瞳を開ける。
 病める者がそうするように、虚ろにあらぬ方を見る。
 総毛立つような、凄惨な決意が、瞳の中にたゆたう。

「……生まれてくる子は私の子よ」
 可憐な声が呪詛を吐く。
「私は全てを教え込む。
その身に半分、受けた血が、獣のものであることも。
いつか自分の足で立つ日には、その事実はきっとこの子を強くしている。
貴方の思い通りにだけは、ならない者になる」

「……生まれてくる子は私の子です」
 酷薄な笑みが事実を語る。
「力に焦がれ、全てを欲する。だがその悉くは私に潰される。
業ゆえに充足もなく、性ゆえに安息もない。
往き場無くただ人を滅ぼし、国を滅ぼし、
飽き足らず全てを喰らい尽くした、その後は」



   恐らくは私をも
   滅ぼすのでしょうね。



 奇妙に途切れた言葉に、少女は思わず男に視線を向ける。
 しかし眼と眼が合う寸前、男はふいと顔を逸らして立ち上がる。
 それきり一言も発せず、ただ一度、靴の鳴る硬い音を残してリチャード・ウォンは部屋を出る。
 いかな時も屈することを知らぬ、長躯のその後ろ姿が、

 少女には何故か、酷く飢えているように見えた。

 見慣れた天井は夜目にも無個性に白い。
 屍のような静けさで、パティはいつまでも動かなかった。
 獣の子を産み、その子を愛でる自分自身の姿を、彼女は想った。
 愛でながら、黒く濁ってゆく自分の姿を想った。

 その子は毎夜、恨みごとを寝物語に育つだろう。
 私は何も隠さない。自分は望まれる生ではなかったと知って、その子は泣くだろう。
 ならば求めるもののために、その手を血に浸せと私は言うだろう。
 その子は私のために、修羅に堕ちるだろう。

 ああ、お母さん――

 お母さん、今夜も月が綺麗です。
 澱みに沈む私にも、月はいつも通り冷たくて柔らかいです。
 おぼろげな光は、何かに似ている気がします。

 そう言えば、

 獣は、月に吠えるものだといいます。






Fin.










邦題 『金糸雀は夜に啼く』
パティEDにおけるウォンの「すぐマイトに会わせてあげます」という台詞を鑑みるに、マイトの父親の正体は明らかかと。
この話はウォン×パティというより、ウォン→マイト←パティであるがゆえのウォン→←パティかもしれません。


2003/10/01