アリサは思いきり、自分の犬を蹴り上げた。 いつもやっていることだった。見つかると大目玉を食らうから、人前ではやらないだけだ。 人形の靴を片方失くしたとき、髪がうまく巻けなかったとき、夕食にレバーが出たとき。 どんなときも、アリサはにこにこ笑っていた。 あとで犬を蹴ればすむと解っていたからだ。 「いいわね、昔のことなんか、忘れるのよ」 逞しい大型犬の耳をぎりぎりと引っぱりながら、憎々しげにアリサが吐き捨てた。 三年前までの扱いなんか、覚えていてもらっては困る。 お腹が痛いと言い訳して骨付き肉を残し、仔犬の夕飯を少し豪華にしてやったこと。 冷え込む晩、あの子を私のベッドに一緒に入れてやると駄々をこねたこと。 「あんたがまだ、小さくて可愛かったからしてあげたのよ。こんなうすのろの、でかぶつになっちゃったあんたなんか」 アリサは知る由もない。犬のほうこそ、そんな雑事はすっかり忘れている。 いかに賢い犬でもそんな些細な日常を具体的に憶えてなどいない。 犬がこの三年間ずっと憶えているのは、アリサの匂いだけで、ただそれだけだ。 アリサは犬の首を乱暴に抱えこんで、大きな顎をむりやりこじ開けた。 一本が彼女の小指ほどもある、見事な牙がずらりと揃っている。 『犬のなかでもこれだけが、一対一で狼とやりあって勝てる犬種なのよ』 お母さんがそう言っていたのを思い出す。強いものならなんでも好きなお母さんが。 まだ小さかったこの犬を抱えあげて、前足の頑丈な太さを自分に見せながら。 あの日の記憶はぼんやりして、紗がかかっているけど、ひとつだけ妙に覚えてるものがある。 勿忘草色をしたタフタのリボン。あの日わたしの髪でふわふわ揺れていた。 あれ、どこやっちゃったのかなあ。 犬の、うす赤いぬらぬらした口の中に、アリサは無遠慮に手をつっこんだ。 眼を白黒させる相手の表情を覗きこんで、冷たく嘲笑する。 「悔しかったら喰いちぎってみなさいよ」 奥までぐいぐい指を押しこむ。犬が苦しそうに顔を背けてもアリサは許さない。 「あんたなら、私の首だってひと噛みなんだから、簡単でしょ」 狼をも斃せる犬は、しかしぴくりとも顎に力を込めない。 突然、気分が悪くなるほどの苛立ちを覚え、アリサはまた犬の脇腹をどかりと蹴った。 けたたましく笑う女の子たちに囲まれてブローチのピンを突き刺されたとき、 道を歩いていただけで「女郎成金め」と泥を投げつけられたとき、 お母さんが目の前で男に体をまさぐらせながら「あら、私の子じゃないわよ」と言ったとき。 やっぱりアリサはにこにこ笑っていた。 あとで犬を蹴れれば、それでよかった。 なのに、アリサは気付いてしまった。 ほんの三年前まで、こいつはまるまるした可愛い仔犬だったのに。 ふと気がつけば手足は伸び、鼻面は長く、体高はしゃがんだ自分よりもとっくに大きい。 難しい計算は知らなくても、解ってしまった。 人間よりも遥かに早い速度で、犬はその生涯を駆け抜けていってしまうのだ。 いくらなんでもそれはない。それだけは許してなるものか。 涎をぼたぼた落とし始めた口腔から、アリサは手を引き抜いた。 力ない緩慢な動作で、濡れた指をエプロンドレスのすそで拭く。 解放された犬は、喉にからみつくおかしな声をあげて辛そうにえづいた。 苦しさを紛らわせるためか、ざりざりと地面に顔を擦りつける。 だがじきに落ち着くと、アリサの足元におそるおそる鼻を寄せる。 匂いを嗅いで、くうと鳴く。 言葉にならない怒りの声をあげて、アリサはもう一度、力いっぱい犬を蹴り上げた。 Fin. 2009/01/18 |