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 居てはいけないとされている場所。
 だからこそ潜りこんだというのに、もし先客が居たら、どうすべきだろうか?

 まずは話しかけるしかない。共犯者であることをアピールするために。
 お互いの罪を口外しないという了解を導き出すために。

 だけど、と彼女は思った。
 我ながら、この第一声はないだろう。

「……君って、『鳥男くん』だよね?」

 まいったな。
 屋上に出られるドアの鍵、ヘアピン一本で開けられるのは私だけだって、こっそり自負してたのに。


 自分が立っている、校舎の屋上のコンクリート床。その真下にはもちろん教室がある。
 位置的に考えればそれは3の2あたり、つまり彼女自身のクラスだった。木曜の5限目にあたる今は日本史の授業が行われている。
 当然のことなのだが、妙に落ち着かない、と菜穂子は思った。

 足の裏の数メートル下では、今まさに、担任の花川があいかわらずの草書体で黒板を書いている。
 そして生徒たちが、毎度のごとく、それを苦労して解読しながらノートに写している。
 自分がいつもそこにいた、馴染みの景色を、踏みつけて立っているのだ。
 何となくおかしな背徳感だった。午後の授業を屋上でさぼると決めたのは、もちろん彼女なのだが。

 そして、そのやってきた屋上で、図らずとはいえ男子生徒と2人きりになってしまった。
 これもまた背徳感に色を添える状況だった――本来ならば。
 相手が、この界隈でよく知られている、奇妙な有名人でさえなければ。

「……その渾名、上級生のクラスにまで伝わってるとは、思いませんでした」
 彼女の足元にちらりと目をやって少年が言う。
 菜穂子が履いている3年生用のサンダルは、くすんだ緑だ。陰気で嫌だなあと常々思っている。
 少年の履いている、可愛いえんじ色をした1年生用のサンダルが羨ましい。
「ていうか、それはもう、うちの学校の常識でしょ」
 風に乱された髪をなでつけながら、菜穂子は人懐っこそうな声を作って答える。
 こんな場所にいる以上、彼もさぼりのお仲間には違いない。すなわち、今からの50分をここで共に過ごさなければならない相手だ。
 先輩である自分のほうから、親しげに接してあげたほうがいいだろう。


 『鳥男くん』。それは、彼女の眼の前の少年につけられている呼び名だった。
 菜穂子は、彼を初めて見た2年前の日のことを、はっきり覚えている。

 ある放課後。帰宅部の彼女は、学校近くにある商店街のバス停に立っていた。
 夏のはじめの夕方のことだ。魚屋の店先には『うなぎ』と書かれた暖簾がはためき、ディスカウントショップからは早口の、やたら威勢のいい店内放送が漏れてきている。
 色褪せた看板を掲げたお好み焼き屋の前では、中学生たちが買い食いの品物を分けあい、むずかる赤ん坊をベビーカーに乗せた主婦がその横をすり抜けていく。

 所帯じみた日常を、何とはなしに眺めていた彼女の視界に、それは悠然と現れた。

 極彩色の大きな鸚鵡を、両肩と頭に合計5羽も留まらせて歩いてくる、背の高い少年。

 少年の姿勢は安定しており、5羽はそれぞれバランスを崩すことはない。
 うるさく音を立てて走るスクーターとすれ違っても、鳥たちは暴れたり、鳴き声をたてたりしない。こうして街を歩くことに、よほど馴れているのに違いなかった。

 眼を丸くしている彼女のことは意にも介さず、少年は菜穂子の前をゆっくり通りすぎる。
 商店街の雑多な生活臭と、ビビッドカラーの生物の群れと、その留まり木と化した人間。
 不条理な光景のはずだったが、なぜかそれらは、ぎりぎりのところで調和しあっているようにも見える。菜穂子は思わず瞬きをした。

 ……何だったかの古い邦画に、こんな人がいたな、と菜穂子は彼を見送りながら思う。
 オレンジ色の衣を着たお坊さんが、肩に大きな鸚鵡を乗せてるの。
 でもあれは、舞台が南国だったからおかしくなかったのよね。鳥もせいぜい2羽だったし。

「――ああ、菜穂の中学って市外だったっけ?」
 翌日、面白いものを見たと友人に報告した菜穂子は、逆に相手から説明を受けるはめになった。
「あの子、このへんじゃ昔からよく知られてるよ。いっつもああやって鳥を連れてるの」
「いつもあんなに沢山?」
「あ、もしかして5羽バージョン見たの? 初めてでそれはレアだ」
 普段はせいぜい、2羽から3羽バージョンだよ、と笑いながら教えてくれる。
 『鳥男くん』という渾名を知ったのも、そのときだった。


「この際だから、有名人にインタビュー、いいかな?」
 右手をマイクを握ったような形に作り、おどけて菜穂子は尋ねた。
 時間潰しになるし、何か新情報を仕入れることができれば友人への土産話になるというものだ。
 少年は特に笑顔も作らなければ、あからさまに嫌な顔もしない。ただ、彼女が来るまで読んでいた文庫本をぱたりと閉じてみせる。これは一応、了承の合図なのだろう。
「さて。……鳥が好きなの?」
「ええ、好きです」
「好きだから、あんなにいっぱい連れて歩いてるの?」
「そうです」
「ちょっと度を越してない?」
「好きなものだから、そうなってしまったんですね」
「……」
「……」
 いざ蓋を開けてみれば意外性がない。菜穂子のほうが言葉に詰まる。
 “有名人”は無表情だったが、少し見透かしたような視線を、眼の前の上級生に送った。
「確認してしまうと案外つまらないでしょう。僕は見たままの、単なる鳥好きな人間ですよ」
 少年は立ち上がり、学生服のボタンを開けて、文庫本を内ポケットにしまいこんだ。そのままボタンを全部はずし、いったん脱いでから袖は通さずに羽織りなおす。確かに今日は天気がよくて、上着をきちんと着ていると少し蒸し暑い。
「……近所の人はもう慣れていて、普通に挨拶してくれるけど、学校では毎年何人かに同じような質問をされます。そして毎度のように、いささか白けた顔をされるんですけどね」
 毎年何人かに、毎度のように。その言い回しに菜穂子はちょっと敗北感を覚えた。
 つまるところ、おまえは没個性な発想しかできない、と言われているのと同じではないか。
 ただ、それ以上に感じているものは、微細な違和感だった――少年は礼儀正しかったし、嘘をついているような印象もなかったが、なんだか妙に従順すぎる気がしてならない。
 そうですよ、ご想像のとおり鳥好きです。そう答えておけば済むと思っているような。
 そう答えておけば、何か大事なことを、言わずに済むと思っているような。

 だが、すべては推測だ。わざわざ真意を暴く必要はないしその自信もない。
 どうでもいいことね、と菜穂子は思考を放棄する。彼女としては50分、せめて気まずくないように過ごそうと、軽い気持ちで会話を振っただけなのだ。
「……じゃああれだ。名前教えてよ、鳥さんたちの」
 そう言ったのも、思いつきに過ぎない。
 個人の事情に深入りすることのない、ささやかな世間話。そのつもりだった。

「…………」

 返された沈黙と気後れしたような表情に、彼女の方が、あれと小首を傾げた。

「名前、あるでしょ? あの鳥たちの」
「あります」
 返事は早かったが、相手はどことなく防御的な態度のままだ。菜穂子は質問をたたみかけた。
「それを教えてほしいんだけど」
「……聞く意味がありませんよ」
 おかしな返し方だと思った。名前は、それを知ること自体に意味があるものだろう。
「意味があるかないかは私が決めるよ。それともすごく難しい名前なの?」
 少年は溜息をつき、抑揚のない声で答える。
「全部、同じ名前なんです」
「え? ……5羽全部が?」

 少年はいよいよ言いにくそうに口を開く。
 むりやり話題を逸らそうとはしないあたり、無駄に真面目な子だな、と菜穂子はふと思った。

「僕は自分の家で、数十羽の鳥を飼っていますが、それらの名前はみな同じです」

「……どういうこと?」
「そのままの意味ですよ」
 ひゅう、と風が微かに鳴る。10月の風は不規則で、これだけで髪を乱すには十分だ。肩の下で切りそろえた髪を押さえながらさらに尋ねる。
「みんな同じ名前で、区別をつけてないってこと? それってすごく不便じゃない?」
「長年飼っていれば、たとえ同種類の同色の鳥でも、見分けはつきます」
 そういう問題じゃないよね、と菜穂子は思う。何を考えてのことなんだろう?
 例えば、養鶏場の管理人は、いちいち鶏に名前をつけたりはしない。鶏たちは事務的に管理すべき商品だからだ。だからむしろ、『名前がない』というのなら彼女にも理解できた。彼と鳥たちがビジネスライクな関係なのか、それとも彼が『名前をつける』という行為に価値を見出してないか、そのどちらかだと納得できただろう。

 だが、何十羽もの鳥をすべて同じ名前で呼ぶとは、どういう意図によるものか?
 本当に鳥を好きな人間が採る行為なのかどうかも、彼女には解らない。

 たっぷり数十秒、相手のことを上から下まで眺めまわした後、菜穂子は口を開いた。
「――君の鳥たちにつけられてる、たったひとつの名前って、何?」
 少年は困ったように眉を顰めた。大人びた顔立ちだが、そういう表情を作ると年相応に見える。
「あまり言いたくありません」
「どうして」
「聞いたら、きっと笑いますから」
 菜穂子はかぶりを振った。正直なところ、何を聞いても絶対笑わないという自信はない。
 だが、今までのやりとりを経ておいて、肝心のその名前を聞き出せないのも気が済まない。

 少年としても観念していたのだろう。逡巡はさほど長くなかった。

「――“イカロス”」

 聞き覚えがある、何だったっけ、と菜穂子は一瞬思考を巡らせる。
 そのとき、風が唸った。
 ごうと寄せて木の葉を散らし、音を立てて渦を巻き、彼女と彼とを翻弄した。

 少年が肩にかけている学生服の、両方の袖が、風をはらんで舞いあがる。
 一対を為して背中にはためき、気流を受けてしなやかに翻る、まるでそれは。

 あ、と菜穂子は、その名前に課せられている運命を思い出す。


 そして彼女は突然――ものすごく唐突に。

 眼の前のこの少年に、恋したかもしれないと思った。


Fin.



私の中学生のときの同級生が、本気で顔だけしか知らない男の子のことを好きになっていた。
相手との接点はいっさいなく、ひとことも喋ったことがなく、「通学途中によく見かけた」というレベルのエピソードもない。好きになった理由として「(顔が)格好いいから」という意味のことも聞いてない。文字どおりはしかのように、神様がくじ引きで選んだだけの相手に恋い焦がれていた。
当時は理解できなかったが、今にして思えば、ああいうのが純粋な意味での恋なのかも知れないと思う。
2009/01/18


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