1:院長室 「ばあ」 顔を上げると扉の前に、世にも美しい狐が立っていた。 「――人里に迷い込んだ獣の常として」 唇の端に穏やかな微笑を刻んで、メフィストが問う。 「私に狩られる覚悟は、おありなのだろうな?」 「狐狩りは、古く欧州においては、貴族にのみ許された高尚な娯楽だ」 黒衣を纏った狐は涼やかに答える。 白い面が外れ、それより更に白い貌が、雲から出ずる月のように現れる。 「おまえはただの医者だろう?」 そう言ってせつらはデスクに近づき、手のものをことりと置いた。 「それは何かね」 視線を落としながらメフィストが尋ねる。 きめ細やかな和紙と膠の層が美しい、それは張り子の狐面だった。 「ロビーで貰った。あれは患者か?」 「誰の話をしている?」 「違うの?羽織着て正装したご老人が、ロビーで誰彼構わずこれを配ってる」 「そのような患者はいない筈だが」 日々幾百人と入れ替わる、入退院・外来・救急患者達のカルテがすべて頭に入っているらしい医師は、そう即答した。 「ふうん。まあ害がないならいいんじゃない」 おざなりな返事を返しつつ、美しい手はふところから紙包みを取り出した。彼の店の名が印刷されている。 「配達」 ぞんざいに投げられたそれをやわらかく受け取り、メフィストは柳眉を顰めて溜息をついた。 「君は職人の鑑だと思っていたのだがね」 「どういう意味だ」 「そのような扱いで煎餅が割れたらどうする」 「おまえ、僕の煎餅を受け止めそこねる気だったのか?」 図々しい返答に、むしろ慈愛の色を滲ませてメフィストは苦笑した。 休憩していけ、という相手の申し出を聞き終えぬ間に、せつらはくるりと背を向けてしまう。 「つれないことだ。急ぎの依頼かね」 「別に予定はないけど、だからっておまえの誘いを受ける理由にはならないよ。それに」 「それに?」 既にドアに向かって歩き出していた影が立ち止まり、肩越しに軽く振り向く。 横顔だけでちらりと視線を寄こす、その艶やかさには、三日月が嫉妬したかも知れない。 「――なんだか、厭な晩だ」 瞳を細め、足音にさえ聞き惚れるように、医師は彼を見送った。 2:院長室前廊下 しばらく部屋は、その主のみを内に留め、静かな時を紡いだ。 せつらが来るまで広げていた医学書を2ページも進めぬ間に、院内電話が鳴る。 「何だ」 「今、ロビーだけどさ」 澄んだ声が名乗りもせずにそう答えた。 「面を配ってるご老人はこう言ってるよ。……祝言のお祝いだって」 「誰のかね?」 返事はなく、唐突に電話は切れた。 白い医師は通信ボタンを押し直そうとしたが、数秒ほど逡巡し、立ち上がった。 重厚な造りの扉を音もなく開け、蒼い光の満ちた部屋から出たところで、ひっそりと廊下に佇む人影に気付く。 「せつ――」 言いかけた言葉を呑み込んだ。 それは、狐の顔をしていた。 見紛う筈も聞き違う筈もない。つい先程の電話の声は確かに彼であり、目の前にいる人物も彼だ。 数秒前にロビーから連絡を寄こした者が、なぜ今ここに居られるのか。そもそも彼の面はまだ院長室にある筈である。 無言で対峙するメフィストに、美しい不審者が口を開く。 「視ましたぞ」 それは秋せつらの声で言った。 「貴方様の内におわす彼の方を。その振舞のひとつまで」 「せつらは何処だ」 「いま目の前に。そして其処彼処に」 黒衣の長躯は恭しく一礼し、慇懃にこう続けた。 「貴方様の望む、すべての時と所にも。これにて顛末とさせて頂こうぞ。 其れが報いに我が眷属は、今日の姿のままの彼の方を、供物として永劫に貴方様に奉ろう」 「私と彼の間に入るつもりと見えるな?――まがいもの共」 余人が聞いたなら死を覚悟するであろう医師の言葉に、狐の顔をしたせつらは、彼の声のまま老人のように笑った。 「彼の方をお探しなさるか?行くが宜しかろう。 しかし直に知れる。貴方様はもう彼の方に逢えぬ。しかし無限に逢い続ける。 ――今宵は我が主の祝言であるからに」 メフィストは無言のまま、白い腕を彼のほうに伸ばした。 狐のせつらは避けることなく、むしろ胸を張ってそれを迎えた。 長い指が、面を掴み、ゆっくりと引き剥がす。 するすると紐が解け、狐面が繊手に渡るのと同時に、どさりと音がしてその男が崩折れた。 面の下のその顔はせつらではなく、その姿も黒衣ですらない。 足元に倒れ付した、耳鼻科の若い医師の無事を確かめ、メフィストは立ち上がった。 時は冬の夜。 星が煌びやかにさざめく今は、確かに獣の時間であるらしかった。 3:第二外科・レントゲン室 外科はメフィスト病院の中で最も忙しい分野だ。 もう夜も更けたこの時間帯も、常ならば患者たちの喧騒と医師たちの緊張に溢れ、気忙しい活気に満ちている。 それなのに、この沈黙と暗黒はどうしたことか。 白い医師はしばらく闇に満ちた廊下を見回していたが、やがて、ある扉に歩み寄ってノブを回した。 普段ならばありえぬ事だが、室内には明かりが点いていない。 窓からやんわりと差す薄明に照らされた、ストレスを緩和する色彩に活けられた花、子供にも使いやすい高さの更衣籠。 そして、その向こうの診察台に巡らされたカーテン越しから――それさえも美しいシルエットが声をかけてきた。 「誰か、探してるの?」 「君をだ」 「ふうん」 影は診察台に腰かけ、子供のように足をぶらつかせているらしい。彼の形に切り抜かれた闇が微かに揺れている。 その輪郭の動きだけで、粗末なカーテンが貴人を俗世から隠す御簾のように見える。 「で、なんで僕はいなくなったの?」 無邪気かつ奇妙な問いかけに、医師はひっそりと答える。 「やんごとなき媛君の婿に取られたようだ」 「婿」 相手の言葉をそのまま繰り返して、影はやや大袈裟に天を仰ぐ。 「僕の店はどうなる。誰が継ぐんだ」 とぼけたようなその反応も、確かに彼のものだ。 メフィストは音も無く近づき、しゃらしゃらとカーテンを開けた。 黒衣の狐がゆっくりと顔を上げ、彼を見つめた。 「そう思うのなら、返してもらおう」 「大丈夫」 自分で言ったことを棚に上げて、狐のせつらが断言する。 「心配なら店に行ってみろ。たぶん僕が煎餅を焼いてる」 言い終わるか終わらないかのうちに、白い手が無遠慮に狐の鼻面に伸びた。 「――狐面の君がな」 するすると紐が解け、洗いざらしの浴衣姿で力なく診察台に横たわったのは、三角巾で片腕を吊った小柄な老婆だ。 老婆に毛布をかけ、メフィストは踵を返して部屋を後にした。 4:三階ナースセンター 真っ当な病院――少なくとも商売をする気のある病院ならばどこでも、24時間体制であるべき場所だ。 ましてこの病院のそれが眠りにつくことが、いかな凶事であるか。 だが、当然予測されるパニックも、緊急ナースコールのランプの点滅もここには無い。 微かに軋むドアを開き、メフィストは薄闇の満ちた部屋に入った。 乱雑にファイルを詰めこんだ棚が西の壁を塞ぎ、反対側の壁はというと、巨大なホワイトボードが賑々しく占めている。スケジュールが過密に書き込まれ、隙間という隙間にびっしりと貼られたメモはまるで魚の鱗のようだ。 雑多な日常が、まるで一瞬で凍結させられたように静止し、音もなく夜に封じ込められている。 そんな俗世の真ん中に、ただ夢のようにひっそりと佇む黒衣の麗人は、誰の眼にも場違いに見えただろう。 ましてや、狐の顔をして。 「僕がなんに見える?」 部屋に入ってきた医師に、狐のせつらはいつもの調子で尋ねた。 「秋せつら」 尋ねられた側もまた、いつもの調子で答えた。 「――そして、彼でだけはないものだ」 「最初に言ったはずだけどなあ」 狐はポケットに手をつっこみ、呑気に小首をかしげてみせた。 「おまえの内の秋せつらをすべて視た。そして僕はそれになった。 おまえの眼にも、眼以外の全てにも、僕は秋せつらとしか映らない。そうだろう?」 「おまえは私の知るせつらで出来ている。だが私の知らぬせつらは多い」 ゆっくりと歩み寄りながらメフィストは言った。 「例えば私と出会う前の彼だ。私はそれを知らぬが、知る者も居る。 その者と、私と、おまえとが一堂に揃ったとき、決して矛盾が生じない自信があるか?」 「例を挙げて説明したほうがいいかな」 その声には少し喜色が滲んでいる。 魔界医師を前にしてのこの不遜さは、世界で唯一人に許されたものだ。 「おまえは僕が、父親から糸使いを習っている過去を見ていない。 だけど、僕の糸使いをおまえは知っている」 「……成程」 流麗な声の奥に隠された不吉さに、誰が気付いたか。 「どんな細かい過去もそうだ。おまえが知ろうと知らなかろうと、過去はすべて今の秋せつらに繋がっている。 おまえの知る現在の秋せつらは、ひいては秋せつらの全てだ。第三者を介入させたところで……」 言葉は奇妙に途切れた。 闇にあってもなお暗い黒衣の前に、匂いたつように白く霞むケープ姿が立ったのだ。 「……僕は僕のままで」 メフィストの手が上がり、面の上に被さった前髪に触れる。 さらさらと、黒絹の手触りを楽しむように、白い指がまがいものの想い人を愛撫する。 「……永久に、おまえの前に現れ続ける」 言葉と同時に、糸が切れた傀儡のようにうずくまったのは、ややくたびれた白衣姿の四十がらみの看護婦だ。 手に残された面を無造作に投げ捨て、メフィストは背を向けた。 それは願わくは実物から聞きたい台詞だと、彼が思ったかどうか。 5:ICU前廊下 「そろそろ、解っただろ」 背後からの聞きなれた声に、メフィストは立ち止まった。 その人物は歩みを止めず、悠々と彼を追い越し、数歩ほど先に進んでから立ち止まる。 おどけたように振り向いてみせるその顔は、やはり、白面の狐だ。 「おまえは僕に逢い続ける。だから――もう逢えない。 狐はそういう生き物だ」 「ひとつ質問がある」 医師の声が、薄闇の廊下に刃を呑んだような響きで流れる。 「彼を選んだなら、彼をのみ連れてゆけば良いことだ。 何故まがいものなど用意して、私に要らぬ世話を焼く」 狐のせつらはしばらく沈黙した。 やがて起きた、くつくつと悪戯な笑みも、そのまま彼のものだった。 「案外、奥手だね、ドクター」 くるりと背を向け、ひらひらと手を振りながら去ってゆく。 突き当たりのT字路まで来ると、ふわりと黒衣が翻り、しなやかな長躯は右の曲がり角に消えた。 「おぞましい事実をひとつ、認識せざるを得んな」 残された医師は、冷ややかにそう独りごちた。 しんしんと冷える廊下をメフィストは歩み、突き当たりまで来たところでせつらが去った方を見る。 曲がってすぐの床に倒れているのは、まだ中学生くらいと見えるパジャマ姿の少年だ。側には松葉杖と狐面が落ちている。 暫しの沈黙の後メフィストは、窓から透かして遠く、冬の夜を見上げた。 光の雫がこぼれ落ちそうな、手を差し伸べれば指先が金銀の真砂に触れられそうな、見事な星夜だった。 「狐の婿に選ばれたのは、せつらではなく――私か」 6:屋上 「寒いね」 彼はそう言って、恐らく微笑んだのであろう。 しかしその顔は面に隠れ、確認することはできない。 満天の星々が飾る、凛とした夜気のもと。 せつらは主を無くした影法師のようにぽつんと立っていた。 近づこうとする医師を手で制して、狐のせつらは、自分で自分の顔に手をかけた。 息を呑む間もない。 からんと狐面が落ち、せつらはせつら自身の顔で、正面からじっとメフィストを見つめた。 眼前に佇む人は、水鏡に人心を映すがごとき狐の所業か――あるいは。 この都市に住まう人の身をしても、それを見抜くことは出来ない。 白いケープがふうわりと、死を招く濃霧のように広がった。 その先から覗く手に握られているのは、淡く輝く針金の束だ。 医師がつと些細な指使いをしただけで、それは細く流れおち、しゃりしゃりと音を立てて彼の足元に精緻な立体を組み上げてゆく。 「 豺 《やまいぬ》 」 せつらが掛け値なしの賞賛の視線を送るのも珍しい。 降り立った生物は、純銀の牙をがちがちと鳴らし、反射光に縁取られた頭を振りたてて威嚇する。 耳まで裂けた顎から血腥い息さえ感じられそうな、それはかつて大口の真神と呼ばれた、日本古来の狼だった。 躊躇さえ見せず、針金細工の豺が躍りかかった。 だが同時に、不可視の糸もまた虚空を駆ける。 きんと澄んだ音がただ一度鳴り、続いて金属片の散らばる耳障りな音を立てながら、重たそうな豺の首が転がる。 しかしまだ終わらない。四肢を張って着地したその爪は、なお血を求めてざりざりと床を掻いている。 頭部を失って怒りに震えた獣は、大きく地を蹴り、星を背負って跳躍した。 天頂の敵に応じようとせつらは身体全体で宙を仰ぎ、だがその瞬間、自分が久遠の白に包まれたことに気付いた。 メフィストが、背後からせつらを抱きとめたのだ。 彼の動きは封じられた。無論、豺の牙は彼をめがけて剥き出されたままだ。 その首を、真紅の花が凶々しく彩る光景を、人々は見たいと欲しただろうか。 「…………」 布が千切れ肉が裂け、ぱたぱたと滴る鮮血の音をせつらは聞いた。 目の前には、無残な白い腕があった。 一瞬の間を置いて、どしゃりと針金細工が力なく地に伏す。 主の美しい腕を傷つけたことを悔いてかも知れない。 背後から伸ばされた医師の腕は、自らの攻撃からせつらを守り、その代償として完膚なきまでに引き裂かれていた。 せつらは首を回して、メフィストを見上げた。 無言であったが、問う者がいれば医師はこう答えたかも知れない。 彼をこの腕に抱くために、支払う対価にしては、安くついたと。 せつらは動かなかった。絡めとられたように動けなかった。 メフィストは無事なほうの腕で、黒衣の肩をしっかりと自分の胸に引き寄せた。 指が食い込むほど強く抱きすくめられても、動けなかった。 ゆるやかに白皙の貌が近づき、互いの睫毛が触れあう距離になっても、せつらは動けなかった。 それが約束であったかのように、接吻が舞い降りた。 美しい唇同士が、重なったその隙間から熱と吐息とをやわらかく吐き、また貪るように重なった。 「ふ」 せつらが微かに、喘ぎを漏らした。 薄紅をひいたような唇がいったん離れ、甘く震えて、言葉にならない言葉を吐いた。 名残惜しげに艶を刷いたそれが、また重なろうとした瞬間―― 片方の口元が、それさえも秀麗な苦悶に歪んだ。 黒衣の背には、血塗れの腕が、なお新しい紅に濡れて生えていた。 「私を買いかぶり過ぎたな、狐よ。それが獣の浅知恵だ」 想い人の胸に深々と腕を突きこんだまま、メフィストは淡々と語る。 「彼は永劫に、決して私に屈しない。 私はそれを承知しながら、それでも、いつか自分が彼を組み伏せる幻想を捨て切れずにいる。 おまえは私の中に住まう彼に化けた。だからそのようなまがいものにしか成れない」 腕が引き抜かれ、せつらの形をした生物がその場に膝をつく。 床にわだかまる黒衣を見下すメフィストの瞳は冷たく乾ききり、そしてどこか、飢えている。 「私に容易に接吻されてしまうような君は、私の妄念の産物でしかない。 ……秋せつらその人では、無いのだよ」 それでも彼は、せつらと同じ顔をして白い医師を見上げた。 その視線が――首全体ごと、つうと右にずれた。 それだけで天上の造形のような、斬りおとされた美しい首は、地に転がる瞬間には塵と化していた。 メフィストは振り向かなかった。 いつしか訪れていた暁によって落とされている、背後に佇む影に気付くまでもない。 彼を完全に葬れるのは、彼自身しかいないと最初から解っていた。 何処かで老いた獣が、長恨の声を上げた気がしたが、気には留めなかった。 「聞きたいのだが」 背後からすたすたと歩み寄り、隣に立って夜明けの方向を眺めるせつらに、メフィストが聞いた。 「昨晩、君は、狐の面を被って院長室に来たか?」 「いや」 「昨晩は何をしていた」 「徒労を強いられてたよ」 どういう事かと視線で問う相手に、せつらは溜息まじりに答える。 「おまえの注文の煎餅が、確かに包んでショーケースの上に置いといたはずなのに失くなった。うっちゃっておいても良かったけど、おまえは一応、上客だ。焼き直してやったからありがたく受け取れ」 メフィストは小さく苦笑し、差し出された包みを受け取った。 「あれは、僕か」 残されたまがいものの身体が、塵と化して微風に散るのを見ながら、ぽつんとせつらが尋ねた。 「そうだ」 「よく出来てるな。双子でもああはいかない」 自分と同じ姿をした生物を、発見と同時に斬って捨てた青年は、ひょうひょうとそう言ってのけた。 「何故、僕じゃないと解った?」 「さて」 メフィストは遠く空を眺めたまま、せつらと眼を合わせない。 それを奇妙に思い、彼としては珍しく探るような視線を相手に注ぐうちに、すぐその痛々しげな片腕に気付いた。 ぼんやりと、だが無性に、せつらは彼に声をかけたくなった。 内容はなんでもいい。多分、ひとこと声をかけさえすればいい。 しかし彼は一言も発さなかった。 その代わり、同じ空を見上げた。 狐は髑髏を冠とし、北斗の星を七度拝して人身に化けるという。 そんな隣国の故事を知ってか知らずか、ともあれ彼らは、暁に滅ぼされてゆく星々を共に見上げた。 黎明に霞む天のもと、黒白の影はまつろわず、しかし離れず。 一対で一個を成すかのように、ただ――そこに在り続けた。 Fin. 2004年冬コミにてゲストさせていただいた小説。サイト掲載にあたり表現部分のみ改稿。 2005/05/06 |