「いい加減にしなさいロック。勝負はとっくについたんだから」
 セリスが笑いを押し殺した表情で告げる。
 言われた男は頭を抱え、手の中の2本の棒を握りしめ、畜生、と情けない声で呻いた。

 朝から続く雨はさあさあと細やかで、銀の針はぬるく柔らかい。
 彼らの船ファルコン号は、ドマ郊外の田園地帯に停泊していた。同地は今の時期、ちょうど雨季であるらしい。南国ほど激しく降りはしないが、薄青く煙るような雨が長期にわたり続く点に特徴がある。
 カイエンがドマ城の荒廃ぶりを嘆き、戦闘訓練も兼ねていくらか妖物どもを駆逐しておきたいと言い出した。当座はまだ無理にしても、いつかこの地に生き残ったドマ人たちを集めて国を再建するのが彼の願いだ。亡国の剣士の想いに同調したストラゴスが、シャドウを半ば無理やり誘ってパーティーを組み、3人でドマ入りした。
 留守を任された残りの者は、普段と同じく、武具の手入れや日々の雑用を済ませておく予定のはずだった。だが今日は全員がファルコン号の食堂に集まっている。彼らが見守るのは、テーブルに着いているひとりの男とひとりの少年だ。
 バンダナを巻いた男の前に置かれているのは、豆を盛った2つの平皿。
 隣に座っているぼさぼさ頭の少年の前にも、同じ中身の皿が一組。
 ただし両者には決定的な違いがある。左右の皿に分けられた豆の比率が、目に見えて解るほど偏っているのだ。皿の周囲に散らばっている取りこぼした豆の数にも一見して差がある。
「これくらいの年齢の子の学習能力って凄いのよ」
 横からティナがおずおずと口を出す。
「モブリズにも同じ歳の子がいるから解るわ。何しろ伸び盛りだから――」
「放っとけ、放っとけ」
 2階の回廊から彼らを見下ろしていたセッツァーが、にやにやしながら階下に声を落とした。
「言い訳はいらねえんだ。負けられない戦いが男にはある、ってな」

 この飛空艇に乗り込んだ一同は、各国からの出身者で構成されている。
 都市育ちの者、辺鄙な村の生まれの者。温暖な平野、寒冷な高地、海の近く、山脈の麓――さまざまな地域から集った彼らには、いささかの風習の違いも存在する。
 もっとも、その差は1000年前の比ではない。機械文明によって流通が発達し、国交の盛んであった時代を経て、現在では各国の文化素地はだいぶ均一化された状態にある。ほぼ全ての国で公用語が通じるのも同じ理由だ。ただし未だに幾つかの風習は、地方ごとの個性として生き残っている。ドマ国の『箸』もそのひとつだった。
 カイエンが食事のたびに取り出し、使い終わると軽く洗って収納していたそれに、最初に眼をつけたのは彼に懐いていた野生児だ。2本の棒を自在に操ってあらゆる食材を摘み上げる技術は、少年にとって不思議な遊戯に見えたらしい。
 ガウもやる、やらせて、とねだられて悪い気のしなかった侍は、手ごろな木を削り出して彼専用の箸を作ってやった。少年は喜んで受け取ったものの、しばらくの間その道具はテーブルや絨毯に食べ物をぽろぽろ落とすために機能していた。そもそも彼はつい先日、やっとナイフとフォークの使い方を覚えたばかりなのだ。特に器用なわけでもない。
 食堂の床にあちこち染みを作られてしまった飛空艇の主が、ただでも悪い目つきをもっと悪くする前に、幸い変化は訪れた。
 飽きもせず毎日3度使っていれば、嫌でも上達する。彼自身は娯楽だと認識しているのだから集中力も高い。いつのまにかひょいひょいと、苦もなく野菜のかけらや小さな木の実を摘めるようになった少年を、周囲の大人たちが凄い凄いと誉めそやす。
 唯一面白くなさそうのは、仲間内では自分こそがもっとも器用だと自負している宝探し屋だった。
 それくらいのことは自分にも出来る。自らの誇りを証明するため、彼はわざわざ試合のルールを考案して挑戦状を叩きつけた。右の皿から左の皿へ、『箸』を使って1分の間にどちらがより多くの豆を移動させられるか。少年の了承を得てギャラリーも集めた。あとは自分が勝ってさえいれば計画通りだったのだ――勝ってさえいれば。

「同時に練習し始めて、どっちが先に習得するかって勝負だったら……」
 ティナが視線をテーブルに落として気遣う口調で言う。
「ロックが勝ったのかも知れないけど……」
「ていうか、服のボタン留めるのもまーだ遅い奴がこんなのだけは出来るなんて」
 リルムが呆れた声を上げた。
「子供の集中力って恐ろしいもんだね」
 小さな絵師の言葉を聞いたセリスは思わず笑みを漏らす。人間とは自分自身の例に気づけない生き物であるらしい。彼女が朝から晩まで夢中で絵を描き続け、何度夕食に呼ばれてもなかなか返事をしない場面だってよく見るものだが。
「……もう一度だ!」
 観客たちの会話を破って、頭を抱えていた男が歯軋りまじりの声を出した。
「ガウ、もう一度勝負しろ!」
「うー、いいけど」
 彼を負かした少年は上機嫌に応じる。5回戦って5回とも勝利の栄光を得られていれば、当然の表情だ。
「でも、ガウ、またかつぞ?」
 血相を変えて立ち上がった宝探し屋の背中をばしんと叩き、マッシュがからからと明るい声で大人げない怒気を笑い飛ばす。
「あのなロック、これ以上付き合わせても仕方ないだろ? それよりさ、外を見ろよ! せっかくいい感じの雨が降ってんのにお籠もりは勿体ないぜ!」
 太い指で威勢よく窓の外を指し示す。今までおとなしく他人の細かい作業ばかり見学していたせいか、手足を意味もなくむずむず動かしている。
「こんな気持ちよさそうな雨の日は、ガウ、外で一緒に組み手しないか?」
「する!」
 椅子から降りた野生児は、ほぼ飛びかかる勢いで頑健な腕にしがみついた。ドマの剣士と同じくらい懐いている兄貴分のお誘いとあれば乗らない道理はない。
 待て、と言いかけたロックの肩を、元帝国将軍がぐいと押さえつけて座らせる。明快な彼らの力関係を見てリルムがひひひと意地悪く笑った。
「ねえ、行くのは構わないけど」
 ティナが食堂を出ていく2つの背中に声をかける。村で子供たちの世話をしていたときの経験則を思い出したのだ。
「帰ってくるとき、ちゃんと外で靴の泥を落としてから入ってきてね」
「靴だけじゃねえ、いっそ川にでも飛びこんで全身濯いで、タオルで拭いてから上がってこい。泥だらけでそこらじゅう触りやがったら叩き出すぞ」
 セッツァーが不機嫌に付け加えた。返答の代わりに片手を挙げて応え、大小2人の少年は傘も持たずに戸外へと駆けていく。
「雨が降ってるからこそ外で遊びたい、ってのはどういう理屈なんだか……」
 リルムは独りごちて椅子に掛けなおした。季節としては暖かいから、風邪をひく心配こそないけれど――ああ、でも確かに、この地方の雨には独特の美しさがある。植物に濾過された水の匂い、低い雲に透かされた銀色の大気。スケッチブックが濡れてしまうから外で写生はできないけど、雨の情緒をざっと水彩で描いてみても面白いかも。
 思考を巡らせながら窓の外を見る。すると自然に、窓辺に立っている人物も一緒に視界に入った。その人はさながら彫像のように、均整のとれた長身を壁にもたせかけ、じっと硝子ごしの風景を眺めている。
「どしたの、色男?」
「……ああ、いや」
 掛けられた声に気づき、エドガーは曖昧に応えた。心が此処に無かったらしい。
 リルムは思う。そういえばこの人、先程までの茶番にちっとも参加してなかったんじゃないだろうか。彼の性格から考えて、冗談を言ったり混ぜっ返したりしていても良さそうなのに。
「マッシュは……外に行ったのか。俺もちょっと、散歩してきていいかな? 危険な生き物は居なさそうだし、ひどく荒れそうな気配もない……」
 なぜか落ち着きなく、そわそわと躊躇いがちに言う。別に制限されるべき内容ではないのに、まるで誰かの許可を求めるような口調だ。
「カイエン達は夕方に戻るから、それまでならいいんじゃない? あまり遠出しなければ」
 セリスが応えると、ぎこちなく泳いでいた碧眼に喜色が踊った。
「じゃあ、しばらく出てくる。近くの林にいると思うから、何かあったら呼びに来てくれ」
 口早に言い、出入り口に置かれた傘立てから1本を抜いてそそくさと出てゆく。振り返りもしなければ誰かを誘おうともしない。全身から、一刻も早く外に出たいという意思が漲っているのが見てとれた。
「なんか……変に浮かれてなかった?」
 扉の向こうに消えた背を見送り、リルムは小首を傾げる。たかが戸外の散歩ごとき、何がそんなに楽しみなのだろう。
「持ち込んだ公務が忙しくて、ずっと閉じ篭もっててストレスが溜まったとか?」
「どこかで声を掛けた、可愛い女の子を外に待たせてるとか?」
「……2個目のほうの可能性もなくはないけど、たぶん、あれだ」
 女性陣の口々の推測を聞きつけて、だらしなくテーブルに突っ伏したままのロックが呟いた。未練がましく箸の持ち方を模索しながら、ではあったが。
「……あいつ、砂漠の生まれだから、雨が嬉しいんだよ……」



                 *          *          *



 雨傘を小脇に抱え、サンダルの踵を小気味よく鳴らしつつ、リルムは飛空艇の昇降ステップを降りた。
 船の外縁部からはぴしゃぴしゃと雨垂れが落ちている。大気は生温かく、飽和した湿気に満ちているが、それを優しく攪拌する風が心地よい。
 さあさあと降りしきる、幾千幾万の透明な雫。一つ一つは慎ましく控えめなくせに、気がつけば世界の全てを自分の色に塗りかえている――潤った匂いを胸いっぱいに吸い込み、絵師の少女は思う。この国の雨はやっぱり綺麗だ。
 お気に入りの赤い傘を差し、田園の畦道を歩き出す。耕す者のいなくなったドマの畑は、ぼうぼうとどこも雑草だらけだ。物悲しい風景ではあったが、水滴のきらめくその緑に注目してみれば彼らの生命力が頼もしいともいえた。世界が引き裂かれて以来、草すら生えぬ不毛の地になってしまった場所も多い。土さえ死んでいなければ、きっと人は戻ってこれる。
 リルムが目指しているのは、エドガーが向かったと思われる小さな林だった。歩くたびにサンダルの素足に水が跳ねる感覚が楽しい。
「――フィガロ近辺でも、例えばコーリンゲンあたりまで足を伸ばせば普通に降るし……」
 リルムは、つい先程ロックが話してくれた内容を思い起こす。
「ここ数年はあいつも反帝国活動の絡みで、ナルシェやリターナー本部に顔を出してたから、雨や雪なんかをまったく知らないわけじゃない。ただ、フィガロ王が人生の大半を過ごした砂漠の城で雨に降られた経験は、当然だけど皆無だよな」
 セリスが思案顔を作って補足する。
「ある程度の年齢になれば王族として諸国外遊もしたと思うけど、小さな子供のころには砂漠以外の土地をほとんど知らなくてもおかしくない。マッシュはともかく、エドガーは基本的にずっと自国に居たわけだし」
「何にせよ俺たちほどには、雨という存在に親しんでないのは確かだ。俺たちが砂漠について詳しくはないのと同じくらいにね」
 ロックの結論を受けて、ティナがしみじみと呟いた。
「なんだか、世界は広いんだって改めて思い知るわね……」

 リルムは更に記憶を探る。言われてみれば彼女自身、思いあたる節があった。
 飛空艇における集団生活には多少の特殊なルールが求められる。水の節約もそのひとつだ。甲板掃除のときにうっかり水を撒きすぎたり、洗濯物をまとめ洗いしなかったりすると、セッツァーからたちまち小言を食らう。
 歯向かうつもりはなかったが、純粋な疑問を抱いてリルムは尋ね返した。どこにでも着陸できるんだから、水がなくなったらすぐ降りて補給すればいいだけじゃないの?
 長らく空を住処にしてきた男の回答は早かった。あのなあ、水のないとこで水を使うってのは本来ものすげえ不経済なんだよ。
 地上の旅でちょろっと井戸を貸りるのとは違う。汲みに降りるにもいちいち離着陸用の燃料が要る。バラストタンクの雨水で賄える分はまだしも、飲用や調理には上水が必要だ。この船のメインタンクを一杯に満たす水代と、そいつを汲み上げるポンプの燃料費まで含めて、一体どれほどコストが掛かると思う? あと、これも忘れちゃいけねえ。どこにでも降りれるってことは、どこにでも行けてしまうってことだ。
「ファルコンが故障して、真水のない無人島に不時着したとする。この船には緊急用ボートも積んであるし、どんな故障でも俺は直してみせるが……ボートが陸地から救援を呼んでくるまで、あるいは修理を終えるまで、何週間かかかるとしたらどうよ? つまらん無駄遣いのせいで仲良く日干しになるのはご免だぜ」
 リルムは理解の吐息をついた。納得するより他にない説明だった。
 それでも悪しき習慣はなかなか簡単に抜けてくれない。地上と同じ感覚でつい何秒かシャワーを出しっぱなしにしたり、食器洗いのとき無駄な濯ぎをしたり――そのたび傷跡ごしの視線から送られてくる冷たい光に一同は恐々としていた。だが、よく思い返してみれば解る事実がある。機械城の国王とその弟については、セッツァーに睨まれる回数が圧倒的に少なかった。
 あの双子は最初から、貴重な水の使用を最小限に留める意識を持っていたのだ。

 中空に伸びた瑞々しい枝葉を見上げつつ、リルムは目的の林へと入った。
 比較的ひらけた明るい雑木林だ。樹木は青々と茂っているが植生の密度は低い。必然的に考えて、大型の獰猛な生物が潜んでいる可能性も低いだろう。地元の人も普段から通り抜けに使っていたらしく、いくらか踏み固められた通路も出来ている。左右からはしとどに濡れた草の穂がぴんぴん突き出ており、進むたび脛がくすぐられる。
 目指す人影はすぐに見つかった。淡い水色の傘を差してゆっくりと歩く長躯の姿。まだ奥までは進んでいなかったようだ。
 標的を遠目に捉えつつ、一旦リルムは立ち止まる。何と言って声をかけよう?
 そもそも、なぜ後を追ってきたかといえば、からかってやるつもりで来たのだ――『あら陛下、よいお歳の殿方が雨に浮かれて大はしゃぎって本当ですの?』――でも、とリルムは思う。ことさら浮かれている様子が見られなければこの台詞は掛けづらい。相手はどうやら普通に散策しているだけだ。足どり軽く鼻歌でも歌っていたら笑ってやれたのに。
 考えあぐねるリルムの視界で、だが小さな異変が静かに起きた。
 淡い水色の円が、すいと横に倒れる。
 彼女の見守る前で、エドガーは傘を真横に下ろしていた。そしてそのまま骨を畳み、くるくると巻いて閉じてしまう。
 リルムは思わず空を見上げた。雨は、止んでなどいない。
 勢いは弱いほうだが、明確に水滴と呼べるものは振りつづいている。視線を上げてエドガーの頭上も確認する。樹木の枝が天を覆ってはいるが、完全に雨を遮ってくれるほどではない。つまり雨宿りというわけでもない。
 数多の粒に自ら打たれながら、男は今までと変わりなく歩み続ける。まるで何も起きてはいない態度で、淡々と、平々と――
 好奇心に動かされてリルムは前に踏み出した。がさがさと草を分けて近づく。音を聞きつけた男が振り返る。すっかり濡れてしまった顔の双眸がわずかに見開かれる。
 結局、リルムはごく平凡な第一声をかけざるを得なかった。
「……何、してるの?」
 投げられた質問を受け、エドガーは意味もなく周囲を見回した。ややくすみのある金色の前髪から雫がぽたりと垂れる。
「…………何を、してるんだろうね?」
 自分でも意外なように、いささか時間をかけて一国の王は応えた。
 エドガーがつと、自分の手の中にある傘に眼を落としたことにリルムは気づく。しかしもう今更だと考えたのか、改めてそれを広げようとはしない。落ちついた態度で濡れた髪を整えながらむしろこう聞き返してくる。
「リルムこそ、ここで何を?」
 絵師の少女は一瞬、返答に詰まった。あんたを笑いに来たんだよという動機は、その計画が頓挫した段階となっては言いづらい理由だ。
「あたしは……ほら、モチーフハントっていうのかな? 雨の風情を絵に描いてみたくて、ちょっと題材探しにね」
 咄嗟に出た台詞だが、まったくの嘘でもなかった。ドマの雨に魅せられたのは確かだ。
「でもお天気柄、外で写生は出来ないでしょ? だからあとで思い出して描くために、出来るかぎり眼に焼きつけておこうと思ってさ」
「成程……では、供回りを努めさせていただこうかな」
 エドガーはくるりと背を向け、背中ごしに横顔だけを残して言う。
「道をお譲りしたい所ではありますが、狭くもある悪路ですので、このまま先行して露払いをさせていただいても宜しゅうございますか? 絵師殿」
「うむ、良きに計らえ」
 喉の奥でくすりと笑いあい、2人は前後に連れ立って歩き始めた。
 周囲の緑からは、清涼な匂いが立ち昇っている。雨音に混じって、どこかで鳥が物憂げに啼いている――なぜ傘を閉じているのかの理由は、結局聞けていないままだ。まあ、今のところはいいやとリルムは思う。質問を許さぬ雰囲気とまでいうと大袈裟だが、相手にこうも平然と構えられると少々聞きづらい。
 付け加えるならば、実はなんとなく、気後れに似た感覚をもリルムは覚えていた。その感覚の正体については彼女自身も上手く説明できないのだが。
「……雨が降ると、生き物はみな巣に篭もってしまうと思っていたけど」
 鳥の気配がした方向を見上げ、エドガーが言った。大きくはない声だが、辺りは静かなので十分聞き取れる。
「意外と普通に活動しているんだな」
「これくらいの雨だったら、鳥もねぐらには帰らないよ。もっと激しくなってきたら別だけど」
 赤い傘の柄をくるくる回してリルムは応えた。
「雨が降ってるときにこそ、出てくる動物ってのもいるし」
「ああ、蛙とか蝸牛とかだろう? それは知ってる」
「……じゃあ色男、これはどうよ」
 企みの笑顔を浮かべつつ、リルムは問いかける。もっとも相手は前を向いて歩いているので見えはしない。
「この雨の中で、蝶々を見るには、どうしたらいいと思う?」
 砂漠育ちの男はしばし無言で顎に手をあてた。知識の引き出しを探っている様子だ。
「そういえば、蝶には巣のような隠れ家はない。しかし、あんな脆弱な羽根しか持たない生き物が、雨の中を飛び続けるのは自殺行為といえる……あれ? 言われてみたら、彼らは雨のときどうしているんだ?」
 十数秒ほど粘っていたが、推測も立ちゆかず、ついにエドガーは降参の表情で振り返る。リルムはにっと口の端を上げた。
「……ま、別に、ごく単純な話なんだけどね」
 リルムは周囲を見回し、比較的大きめの葉を茂らせている低木を見つけて歩み寄った。顔を近づけ、枝の奥をいろいろな角度から覗きこむ。
 やがて、エドガーにそっと手招きをする。
 ある葉の裏側を指し示す。少女の指の先には、美しい羽根を震えさせた純白の蝶が数羽、ひっそりと息づいていた。
「雨宿りをする知恵があるのか! ……いや、考えてみれば当たり前か……」
 小声でエドガーが囁く。予想通り、彼にとっては新鮮な驚きであったらしい。リルムはふと疑念を抱いてこう質問する。
「砂漠にはやっぱり、蝶みたいな虫はいないの?」
「本当の熱砂地帯には流石にいないね。周辺の、乾燥した荒野には辛うじて棲息している」
 蝶を脅かさないよう、そろそろと身を引いてエドガーは答えた。
「ただ、姿を見られるかどうかは運次第だ。砂漠に比べれば多少ましとはいえ、そこも雨は年に2〜3回降れば上等という程度だからな。春に雨が降らなかった年は、草花が芽を出さない。食べ物がないのに飛びまわっても仕方ないから、その年には蝶は羽化しない」
「……あれ?」
 今度はリルムが、顎に手をあてて考えこむ番だった。
「羽化できない年のあいだ、蝶たちはどうしてるの?」
「蛹のままで次の春を待つんだよ」
「1年以上も? 死んじゃわないの?」
「死なないために蛹の姿なんだ。養分を取らずに休眠している状態だね」
 林の道を再び歩きながら、事もなげにフィガロ王は説明を続ける。
「蝶の蛹も、花の種も、たった一度の雨が得られるまでは何年でも土の中にいる。俺の知る限り……最長で7年降らなかった時期もあったかな? だが8年目の久方ぶりの春の降雨のあと、蝶たちは待ってましたとばかり一斉に姿を見せたよ」
 リルムはへえと感嘆の声を漏らした。彼女にしてみれば、その生態のほうがよっぽど驚異的だ。
「サマサでは、雨は春と秋にまあまあ降るよ。夏は暑くて陽が照って、冬は寒くて雪が降る……リルムにとっては当たり前の繰り返しだけど、違った当たり前を過ごしてる国もあるんだね」
「長い旅暮らしの中で、互いに見聞を広めることはできたというわけか」
 エドガーは頭を屈め、低く垂れている木の枝を注意してくぐり抜けた。
「初めてナルシェに行ったときもいろいろ新鮮だった。頻繁に訪れていたサウスフィガロでも、粉雪に降られた経験くらいはある。夜の冷え込みに関しては、気温だけを見るなら砂漠の夜も相当低い。しかし年中雪と氷に覆われた土地の、湿気が媒介する寒さはまた格別だった。呼吸するだけで寿命が縮んでいく気がしたよ」
「えー、大袈裟」
「いやいや、何しろこちらは慣れてない」
 苦笑混じりの、しかし真面目な声でエドガーは続けた。
「不可避の状況に押し流されて始まったこの旅だが……滅多にできない体験を重ね、様々な見識を得られたことは良かったと思っているよ。世界は神秘に満ちていて、発見の喜びは尽きない。もっとも、王が国を離れないほうが世界が平穏であるなら話は別だけどね……」
 フィガロ王はふと歩みを止めた。異国の林に降る、異国の雨を見透かす。
 豊かに薫る湿潤な空気、しんとして佇む旺盛な緑。いずれも彼の国には存在しえないものだ。近くにある枝の先からは、自らの重みに耐えかねて大きな雫がぼたたと一気に落ちる。
「…………できれば」
 言葉は不自然に途切れ、あとには何も続かない。
 奇妙な間を訝しんでリルムは眉を寄せた。何かが僅かにひっかかったのだ。不安感が意識の底でむくりと頭をもたげる。
 あまり聞き慣れない響きが、今の言葉には込められていなかったか。
「できれば……何?」
 聞かないほうがよかったのだろう。だが口に出てしまった。男の横顔から視線がちらりと少女に向けられる。それはどこか無機的で、鼓動が一瞬冷たい緊張に跳ねる。
 でも次の瞬間そこにあるのは、優しく誤魔化してからかうための笑顔だった。
「何て、言おうとしたと思う?」
 沈黙するしかない相手に、申し訳なさそうに微笑みかけ、エドガーは彼女を促してまた歩き始めた。リルムの胸中に、微細な影がぽつりと落ちる。
 ――まさか?
 ――かえりたくない、とか?

 まさか、まさかね、と思いながら慌てて後を追う。だってこの人は、自分の国をとても愛しているのだし――いや、間違いなく愛してはいるだろうけど――
 溜息をついて、リルムは項垂れた。思い出してしまった。
 思い出さざるを得なかった。彼が双子の弟に自由を贈ったことを。自分が責務を引き受けると決意して、弟の人生を解放したことを。
 もちろんフィガロの王弟は、単純に兄にすべてを押しつけたわけではない。向き不向きを見定めた上で、兄弟はそれぞれの方法論で祖国を護ろうとしたのだ。留まり続けて見える指標、解き放たれて得られる強さ。二つの異なる支点があればこそ、彼らの国は安定を得て磐石となる。その事実は年若い彼女でも理解できる。
 だが、同時にもうひとつのことも簡単に推測できてしまう。
 弟が自由に焦がれていたなら、兄もそれに心動かされぬはずはないと。

 心から納得し、誇りとともに覚悟を抱いているのだろう。
 揺るがぬ想いと意志を以って、彼は国を背負っているのだろう。
 ただ、それでも、どうしても――自分の領土にはない風景に出逢うたび、若い王の心は憧れに震えてしまうのかも知れない。氷雪の炭鉱都市、古都を育む雨の林。世界は広く、まだ見ぬ驚異と可能性に満ち――何の庇護も受けない代わりに、ただ自由に歩むのがもし自分であったらと――
 ああ。
 急に気づいて、リルムはエドガーの背中を見上げた。

 傘を差さずに濡れて歩くことが、この人の精一杯の自由なのだ。
 17歳で国を継ぎ、その年齢にして個よりも公を望まれ、責務を担ってきた彼の。せめてもの反逆、せめてもの愚行。
 遊びかたを忘れた子供の、精一杯のはしゃぎかた。

「……それ、重そうだね」
 背後からの声にエドガーは振り返った。
 赤い傘の中から、唇を引き結んだ少女がまっすぐこちらを見つめている。
 自分の姿を顧みれば確かに、いつも身に纏っているお気にいりの蒼い長套が、雨水を吸ってだいぶ重くなっていた。裾は既にたっぷり水分を含み、雫まで滴っている。
「ああ……飛空艇に戻ったら、念入りに乾かさないとな」
 リルムがもう一度、噛みしめるように繰り返した。
「重そう――だね」
 エドガーは、身を打つ水滴の中、無言でリルムの顔を見た。
 両者の視線が正面から絡みあう。その片方の碧眼の奥に、ある色彩がふつりと湧く。名付けてはいけなかった、口に出してはいけなかった、かつて葬ってきた感傷の色。
 だがそれもほんの数秒だ。すぐにいつもの顔で、少し気障に微笑んでエドガーは言う。
「でも私には、これが一番似合うだろう?」
 リルムは頷いた。うまく微笑み返せたかどうかは自分では解らない。
 それは肯定すべき事実でもあった。彼が不幸だなどとは思わなかった。そう見えたことは一度もなかった。
 ただ、やはり、軽くはない。

「……やれやれ、先刻からどうも話題が辛気臭いなあ」
 前を向いて歩き出したエドガーが、道化たようにわざとらしい嘆き声を出した。背中を向けたまま片手を挙げ、人差し指を振ってみせる。
「できればもうちょっと、色気のある会話をさせてくれないか?」
「させてくれないかって、人のせいにするなよ、王様」
 リルムは笑い、こちらもわざとらしく拗ねた声を出した。慣れない雨情に魅入られて、僅かながらも心中を覗かせてしまったのはエドガーが先だ。
「仮にも色男なら、女を楽しませる会話を心がけたらどうだっての。いつもすらすら出てくる誰彼かまわずの美辞麗句はお留守なわけ? 君の瞳の輝きはどうだの、君と出逢えてなんとかだの……歯の浮くようなお得意のやつはさ」
 軽口のつもりだった。だから軽口の返答が、すぐ投げ返されると思っていた。
 しかしエドガーは押し黙っている。
 珍しい態度を意外に感じ、リルムは何度か瞬きをした。靴底が泥を擦る音のみがしばらく木々の間に響く。
 長い沈黙に焦れて、リルムが再び口を開きかけたとき、やっと小さな呟きが耳に届いた。
「そういえばそうだ」
 男の声は戸惑いに揺れていた。
 普段のエドガーの印象からは遠い、不器用な青さの見え隠れする口調だ。幼さすら帯びて聞こえる。
「呼吸するように、やってきたことのはずなのに、……」
 続く言葉は、不明瞭にもぞもぞと口の中で発されてとても聞きづらかった。
 当人には聞かせるつもりがなかったかも知れない。でも彼女には、辛うじて聞こえた。


 君が相手だと、うまくいかないんだ。


 リルムは黙ったまま、赤い傘の向こうの灰青色に淀む空を見上げた。
 雨に打たれて歩いているのを見られたとき、エドガーは一瞬だけ驚いたけれど特に慌てはしなかった。考えてみれば、格好つけの彼なのだから、己の奇行について何かしらの言い訳をしてもよさそうなものなのに……。それとも、もし見られたのが他の誰かだったら急いで体裁を取り繕ったのだろうか。そんな気もする。
 あたしだから、そうしなかった?
 だとしたらそれは、何を意味するだろう?
 リルムはふと、自分の頬に指で触れる。いつのまにか気温が下がったのかな。顔に当たる風が、少し冷たくなった気が――
 違う。
 あたしの頬が、熱くなってる。

 傘を差さずに歩く、ささやかな少年。
 背ばかり大きい男の子。
 彼の後ろ姿に、少女は心の中で話しかける。ねえ、きみ、初めまして。
 ……まずは一緒に歩くことから、始めようか。


 翠緑の林に、雨は蕭々と降りつづける。
 付かず離れず、無言の2人は歩み続けた。
 緊張感と、躊躇いがあった。わずかな羞恥と、息苦しさがあった。あまり普段の彼ららしい雰囲気ではなかった。ただ、いずれ時間さえ経てば日頃のような気安い会話も交わせるとは解っていた。
 だから2人は同じことを考えていた。
 それまでの間、この沈黙を保つのも悪くないと。

 どこかで鳥が、また気怠く、啼いた。



Fin.








雨がふる恋をうちあけようと思ふ  (片山桃史)

2011/07/09