リルムが廊下を歩いていると、背後からぱたぱたという音が近づいてきた。
 ただし足音ではない。床からではなく、大気からの振動だ。
 そういった音を出す生き物は、この船には彼ひとりしかいなかった。リルムは振り返り、柔らかな和毛に覆われた白い獣にようと片手を挙げる。
「どしたの? モグちゃん。そんなに急いで」
「リルム、ちょうどいいクポ。聞きたいことがあったクポ」
 忙しなく背中の翼を動かしていたモーグリは、すたとその場に降り立った。彼はリルムよりも背が低いので、いささか見上げながら喋る格好になる。
「エドガーはどこクポか? ちょっと話があるクポ」
「さっき広間で見かけたけど……え、どうしたの?」
「直談判するクポよ!」
 穏やかではない単語に、リルムは小首を傾げる。
「2日後の最終決戦に向けて、このあいだ皆にバランスよく武器を再分配したクポよね? エドガーはずるいクポ。ドリルなんて強力な武器を持ってるくせに、ちゃっかりグローランスを持ってったクポ。やっぱり……やっぱりあの業物は、ぼくが持つべきクポ。取り替えてもらうクポ。それがパーティー全体のためクポ!」
 なるほど、と少女は頷いた。仲間内で槍を扱うことができるのは、フィガロの若き王とナルシェの白い獣だけだ。堂々たる成人男性である前者はさておき、小柄を通りこして丸まっちい体躯しか持たない後者が、短い腕で巧みに長槍をあやつり勇猛に振り回す技は、ある種の伝統芸として仲間たちの称賛を浴びている。
 グローランスはこの世で一点のみしか存在が確認されていない、通常の店では手に入らぬ名品だ。自らの技量を自負するモーグリとしては譲れないのだろう。
「……あ、そう言えばさ、知ってる?」
 悪戯心を出したリルムは中腰になり、モグの顔を覗きこんで話しかける。
「色男さ、出力が安定しないからって普段はあんまり使わないけど、実はドリル以上に強力な機械も持ってるんだよ」
 愛らしいモーグリの小さな眼が大きく見開かれた。
「それは何クポか」
「回転のこぎり。名前からして、物騒でしょ?」
 モグはぎりと唇を噛んだ。かわいい動物の勇ましい表情というものは、趣があってなかなか面白い。
「そんなものまで持ってるくせに……ぼくからグローランスを奪うクポか!」
 ありがとうクポ! とモーグリは急ぎ飛び去ってゆく。白い背中を見送りながら、リルムはひひひと意地悪く笑った。

 直後、彼女の背後で、ひひひとまったく同じ声が繰り返された。
 リルムは驚いて振り向く。もっとも振り向く直前に、声の正体が誰であるかは気付いていた。こんな声を出せるのはこの船には彼ひとりしかいない。
 視界に予想通りの姿を認め、絵師の少女は溜息まじりに微笑む。
「……まあ、あんたじゃないかとは思ってたけどね」
「……まあ、あんたじゃないかとは思ってたけどね」
 寸分たがわぬ同じ声で、ゴゴはまた彼女の言葉を再生してみせた。

 リルムはものまね士に向き直り、その風体を上から下までじっくり眺める。
 多種多様な色彩・柄・素材の布を、不規則にぐるぐると巻きつけた格好。ときに宝飾が、ときに房飾りがあちこちから飛び出し、まったく統一性がない。
 頭と顔はすっぽり目出し頭巾で覆われており、表情は窺えない。それだけなら、人前では決して覆面を取ろうとしないシャドウも同じだ。ただシャドウの場合、その目元から少しくらいは情報を得ることができた。様々な修羅場をくぐり抜けてきた、壮年と思わしき年齢の男の眼。薄いながらも筋肉質の体つきや低く錆を含んだ声も、最低限、彼の性別を示してくれる材料にはなっている。
 しかしゴゴは違う。その目元からは、何の情報も得ることができない。鋭いような柔和なような、幼いような歳を経たような――如何様にも取れるその眼は、無個性であるとも呼べるが、それよりは『どうとでも見える』という表現が一番近い。体つきは、ごっそり着こんだ布類によってカモフラージュされている。声については、ついさっき実証したように他人のものを完全に再生するばかりだ。
 男なのか、女なのか、そもそも人間であるのかどうか――得体の知れぬ妖物の体内の、得体の知れぬ迷宮に住まっていた彼は、今日も自らの言葉では語ってくれなかった。
 リルムは頭を振り、無駄とは知りつつも目の前の存在に尋ねてみる。
「……あんたはさあ、ケフカを斃した後、どうすんの?」
「……あんたはさあ、ケフカを斃した後、どうすんの?」
 リルムは腕を組み、爪先でとんとんと床を叩く。ゴゴもまったく鏡写しに同じ動作をなぞり、とんとんと床を叩く。
「あんたって、いつまでそうしてるわけ?」
「あんたって、いつまでそうしてるわけ?」
「よく続くよねえ――」
「よく続くよねえ――」
 頬が思わず緩みそうになり、リルムは慌てて下を向いて笑いを押し隠す。なんだかちょっとだけ楽しくなってきたのだ。
「まあ、あれだわ」
「まあ、あれだわ」
「ひとつだけ言えるのは」
「ひとつだけ言えるのは」
「あんたはあんたで、美学の人だってことだよね」
「ありがとう」
 瞬間、耳に届いた言葉の意味を捉えかねて、ばっと顔を上げる。
 ものまね士の姿はもうそこにはない。
 呆然としてリルムは立ちすくみ、ただ意味もなく、何度か自分の眼を擦った。

 彼はいったい何者なのか。
 少なくとも確かなのは、そんなものは考えるだけ無駄だということだ。
 なので賢明な少女は、おとなしくその場を立ち去ることにした。



                 *          *          *



 扉の奥からぼそぼそと、誰かの会話が漏れ出ている。
 飛空艇下部の倉庫区域を通りがかったリルムは、その音を聞きつけて、ああそうかとひとりで手を打つ。そういえばあの人はよくここにいるんだった。
 倉庫の扉の前に立ち、ノックしてから開ける。
 彼女が求めていた人物は、彼女の近しい人物と共にいた。
「あら、リルム」
 振り向いてティナがそう言い、ストラゴスが眼だけでおおと頷いた。

 紙箱や木樽がうず高く積まれた倉庫の一角で、魔導の娘と老魔導士は、小さな隙間に窮屈そうに向かい合わせで座っていた。
 ティナの全身は蛍のようにぼうと燐光を発している。あたたかな淡紅色が美しい。トランスによる幻獣化をしているときと同じ光だが、人間の姿は保ったままだ。
 ティナが幻獣の力を自在に使えるようになってから相応の時間が経つ。しかしかつて一度は強大な力に振り回され、自失状態で暴走したという経験は、ストラゴスをして「気を抜いてはならない」と言わしめた。
 幻獣の力は、もともとティナを構成する要素の半分なので、完全に抑え込むのはよくない。戦闘などで適度に発散するのはむしろ望ましい。ただし日頃から、内なる力をコントロールする方法の復習はしておいたほうがよい。
 確かにティナは、あれ以来暴走することはなかったが、トランス後しばらくその場に座りこんで呼びかけにも応じず獣じみた唸り声を漏らしていることがまれにあった。幻獣という生き物はすべてが野生の質ではなく、彼女の父がそうだったように高い知能を持つものも多い。しかしいわば交雑種であるティナの身体では、幻獣の血はより原種に近いものに戻っているらしい。
 仲間内でもっとも魔法の扱いに長けるストラゴスが、ティナの訓練を受け持った。週1回、この倉庫に籠もり、さまざまな形で彼女の中の血に刺激を与える。場所が倉庫なのは、万が一暴走したときの被害をできるだけ抑えるためだ。
 ティナがいま試みているのは、わざと半端に力を解放し、人の身に幻獣の気配だけを帯びる技だった。以前リルムも何度か見学していたが、半端に力を引き出すのは完全にトランスしてしまうより難儀なのだそうだ。最初は状態が安定しなかったが、近頃はうまくできている。
「今日の訓練、もうそろそろ終わるかな?」
 後ろ手に倉庫の扉を閉めつつリルムが言った。
「あたし、ちょっとティナに用事があるんだけど」
「そうか、では上がりとするゾイ」
 ストラゴスがつと手を振る。それを合図に、ティナの身体を彩っていた燐光が一瞬の閃きを残して弾けて失せた。大気から独特の気が消え去り、ゆるやかに逆立っていた髪の毛がふわりと寝て、魔導の少女はふうと息をつく。
「ありがとう、ストラゴス」
「最近はすっかり制御できるようになったな。しかし、継続こそが大事じゃからな」
 もったいぶった教師の口調で言う。ティナは生真面目に頷くと、少し乱れた髪を撫でつけてリルムに微笑みかけた。
「で、ご用ってなあに? リルム」
「ちょっと待って、その前におじいちゃんに出てってもらわないと」
「なんじゃ、つれないのう」
 老魔導士は子供のように口を尖らせた。
「ティナだけに言いたい用事なの。女の子同士の秘密。じじいはお呼びでないんだよ」
「ふん、冷たいのう。ならばじじいは執筆に精を出すことにするよ」
 拗ねた声を出してストラゴスは背中を向ける。ふざけ半分の演技だとは解っているが、一応気遣っておこうと思ったのか、ティナが痩せた背中に声を掛ける。
「楽しみにしてるから、書きあがったら見せてね?」
 背中越しに了承したと手を振って、ストラゴスは扉の向こうに消えた。
 ストラゴスは現在、時間を見つけてはある本の執筆に取り掛かっている。その名を『原色魔獣大全』だ。若いころ名うての魔獣狩人であった経験と、今また世界を旅しながら得たさまざまな獣についての見聞を、1冊の本にまとめる試みであった。
 昔は捕らえることばかりに夢中になっていたが、その血気が落ち着くと、彼らの習性や生態について興味が沸きはじめた――とストラゴスは仲間たちに語った。相当厚い本になる予定らしく、執筆にはだいぶ時間がかかっている。しかし元来が研究熱心なストラゴスは根気よく作業を続けていた。
「気軽に言ってくれるけどさあ、図版を担当してるの誰だと思ってんの」
 リルムが頬を膨らませて言った。これもふざけ半分の拗ね方だが。
「サイズこそ大きくないけど、1枚1枚フルカラーで、かなりの枚数描かされてんだからね。これがもしジドールのお貴族さまからの依頼だったら、ギャランティも入るからいいけど、身内からの依頼となるとほぼ只働きだっつうの」
「そんなに大変なの?」
「……ま、いろんな獣たちを描き比べてみるのは、そこそこ楽しくもあるけどね」
 肩から掛けていた紐付きのスケッチブックを抱えなおし、サマサの絵師は魔導の娘に向きなおった。
「そんなリルムをもし可哀想と思うなら、ティナ、お願いきいて? あたし前から、幻獣の力を宿したときのティナの姿を描きたいと思ってたの。モデルになってくれないかな」
「モデル、に?」
 たどたどしく単語を反復してティナは瞳を瞬かせた。
「それは構わないけど……今、ここで?」
「うーん、詳しく言うとねえ」
 リルムは視線を彷徨わせて説明の言葉を探す。
「今すぐ本格的に描きたいわけじゃないんだ。ていうか、そうしたくても今からじゃ腰を落ちつけて描く時間は取れないでしょ? ただ今のうちに、色だけでも作っておきたいの。トランス状態のティナが持っている髪の、眼の、気配の、独特の色。それだけなら、今しっかり見せてもらえればこの場で作れるから」
 リルムは腰に結わえつけている小さな雑嚢を叩いた。中には水彩絵の具のチューブ、折りたためる小さいパレット、携帯用の水入れが入っている。
「うひょひょ野郎との戦いが終わったら、きちんとキャンバスに描こうと思ってる。その前に習作として、ティナの色彩をスケッチブックに起こしておきたい。いいかな?」
「ええ……私でよければ」
「ありがと!」
 待ってて、水を汲んでくるから。そう叫んでリルムは扉へと駆けていった。


 ……一糸纏わぬ、と表現すると、いささか艶めかしくも聞こえる。
 でも、とリルムは思う。このいきものの美しさはそれとは違った美しさだ。
 椅子代わりの樽の上で、人ならざる幻獣の娘はじっと姿勢を保っていた。先程とは比べものにならない強い光となめらかな獣毛が全身を覆っており、裸体といっても人間のような生々しさはない。しかし豊かな生命力には溢れていた。言わばそれは春の野辺で風の匂いを嗅ぐ雌鹿や、清流で銀の背をくねらせる若魚に通じるイメージだ。
 楽な姿勢でいいよ、できれば長時間そのままでいられる体勢でね。そう言われてティナが取ったのは、樽に腰掛けて片膝を抱き、顎を立てた膝に乗せてどこか遠くを見つめる姿勢だった。高貴な気怠さともメランコリックともとれるその構図は、実際悪くない。女性らしい曲線と獣らしい超然さがうまく共存している。リルムは時々見惚れそうになりながらも、夢中で鉛筆を動かした。
 訓練によってしばらくは維持できるようになったが、ティナはあまり長くこの姿ではいられない。ざっと鉛筆で輪郭をとったあと、早めに色を吟味しなければならなかった。
「……ねえ」
 姿勢は崩さぬままティナが呟いた。もし暇だったら、あまり動かなければ喋っていいよ、とあらかじめ絵師からは言われている。
「今日の会議で、シャドウが皆に質問したでしょう? ケフカを斃したその後は、って」
「……ああ」
 じゃっじゃっと鉛筆を動かしながらリルムは返事をした。
「さっきまで、ティナを探していろんな場所に顔を出したんだけどさ。皆それぞれ考えるところはあったみたいだよ」
「そうなのね、やっぱり……」
 小さく漏らされた声には、哀愁の成分が含まれていた。不思議に思ってリルムはティナの顔をちらりと見る。
「リルム、きっとシャドウはね、私だけに向けてあの言葉を言ったのよ」
「え、どういう意味?」
「他の人たちは、ケフカを斃した後のことをちゃんと考えてる。でもおまえは考えてない。シャドウはそれを見抜いて私に注意してくれたんだと思うの……」
「なんでそう思ったの」
「だってね?」
 一瞬、頭を上げそうになってしまい、ティナは慌てて元の姿勢に戻る。
「だってステファンったら、まだ茸が食べられないのよ?」
 言葉の意味が取れず、絵師の少女はきょとんとして手を止める。それが、彼女が母代わりを務めるモブリズに住む少年の名だと理解するまでしばらく時間がかかった。
「タニスはすぐお夕飯のつまみ食いをするわ。ディーノに牝牛の世話をさせると服をどろどろに汚してくるから大変。ヘンリーは本当はエルシーが好きなくせに、つい意地悪をしていつも大げんか。アイザのお当番さぼりの癖も直さなきゃいけないし……私、モブリズにいたころ、毎日が眼が回るほど忙しかったわ。毎日毎日てんてこまいで、ほかのことを考える余裕なんかなかった。今はちょっと離れてるけど、この戦いが終わったらすぐ戻らなきゃいけない。みんな私を待ってるもの。でも帰ったらまた忙しい日々が始まるの。『その後』のことなんか、とても考えられそうにないわ。私、どうしたらいいのかしら……」
 堪えきれずリルムは、片頬を上げてくすりと笑った。
 これだからティナは愛らしい。彼女はまるで気づいてないのだ。いま自分が語っている内容こそが、シャドウが一同に求めた『その後』の具現であることを。
 ケフカという狂気に仮託することなく、自らが真に求めるもの、立つべき位置。身を呈して子供たちを護ったティナの姿はまさしくそれだった。幻想的な野生美を持つ生物が、所帯じみた日常を懸命に語っている姿は少し可笑しかったけれど。
「そうだねえ……」
 11歳の少女は鷹揚に、まるで人生の大先輩のような顔をして語りだす。
「引き受けた立場に背中を押されてるから、順番がちょっと曖昧になっちゃってるけどさ。それがティナの『その後』でいいんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうもの。それをしたい、しなきゃならないって思うものが正解でいいの。もしかしたら後になって、ティナがティナ自身のためにやりたい何かが見つかるかも知れないけど……見つかるまでは、それがティナの『その後』でいいんだよ。ティナは人よりちょっとスタートが遅かったから、焦らないで、ゆっくりやんなさい」
 幻獣の娘は、視線だけをリルムに向けてにっこりと微笑んだ。
「ねえ、私、ほんとはよく知らないんだけど」
「なに?」
「今のリルムの言葉を聞いて思ったわ。リルムってなんだか、すごく頼りがいのある素敵なお父さんみたいね」
 笑うべきか、困るべきか。感情の選択を決めかねて、リルムは口の端をおかしな方向に曲げた。お母さんと呼ばれるのもむず痒いけど――それを通りこして、お父さん、とは。
「……そう言えば」
 ティナが遠い目をして言葉を継いだ。リルムは素描の出来栄えに視線を落としつつ、鉛筆をホルダーの中に戻す。いよいよ着彩だ。
「リルムは前に言ってたわね。お母さんは、すごく小さいころに亡くなった。お父さんは、そのあと家を出ていってしまったって」
「うん」
「よければ教えてほしいんだけど……そのとき、どんな気持ちだったか憶えてる?」
「んー」
 パレットに絵の具を絞りつつ、絵師は曖昧に返した。小さいころから何度かされてきた質問だった。そのたび微妙に答えを変えたりもしてきたのだが、今回はもっとも真実に近い返答をしてみようと彼女は真面目に胸中を探る。
「……こんな気持ちでした、って言えるほど憶えてないんだよね、本当のとこは」
 チューブの蓋を閉めて、リルムは淡白な声を出した。
「お母さんがいなくなって哀しかった、ような気がする。お父さんが出ていって寂しかった、ような気がする。そのことでおじいちゃんに泣きついた、ような記憶もある。でもそれだけ。うっすらした手触り以上のものはないんだ」
 筆に水を含ませて、パレットの上で色を溶く。ティナの姿と見比べながら少しづつ配合を調整していく。
「強がってるわけじゃなくて、ほんとにもやっとした不確かな記憶なの。だって今よりさらに子供だったんだよ? 細かい状況も憶えてないし。それを思い出してさめざめ泣くとかは、正直ないかなあ……」
 言ってから、あれとリルムは気付く。間接的にだが自分を「子供」と言ってしまった。事実ではあるのだが、当の子供としては常ならばあまり認めたくない事実だ。
 でも不思議と悔しいとは思わなかった。ティナの前ではなんとなく自分が素直な子でいられることをリルムは知っていた。その理由については、彼女の持つ母性とやらの為せる技だろうかと最近まで思いこんでいたが――本当は違うらしいということも。

 ティナは特異な生い立ちのせいで、自我の目覚めがかなり遅かった。ゆえに11歳のリルムから見てすら、情緒の発達が足りていない部分が多い。
 数か月前のことだ。ぎこちなく、さりげなく、セリスが女言葉を使うようになりはじめていた。勇ましく格式ばった口調が抜けて柔らかな言い回しを取り入れつつある。
 もちろん全員、彼女の変化には気づいていた。しかし暗黙の了解として表立ってそれに触れる者はなかった。こういったことは騒ぎ立てず、優しく見守るのが礼儀だ。今はセリス自身、慣れない思いをしているのだから、そのうち自然に身に付くまで気付かないふりをしてあげればいい。
 しかしある日、皆の見ている前でティナは堂々と言ったものだった。「セリス! 今あなた、女の子らしい言葉遣いをしたわ! いつから変えたの? とっても可愛いわよ!」
 気の毒な元帝国将軍は、耳まで朱に染めて「聞き間違いだ!!」と吼えた。以来、すっかり言語の武装を取り戻してしまったセリスが、また少しづつ軟化の努力を見せはじめるまでには相応の時間を要した……。
 それでリルムは理解した。ティナの前ではなんとなく素直になれるのは――良い意味で――彼女が半分ほど、人間ではないからだ。
 人間相手には言いづらい心情もかわいがっている犬猫には吐露できる、そういった例に近いものがあった。別にティナを犬猫扱いしているわけではなく、彼女の持つ無為自然の雰囲気、あるがままの態度などが好作用しているという意味だ。もっともあの黒い暗殺者が、自らの頼む愛犬だけに心を許すのとは少し状況が似ているかも知れない。

「お母さんのことは、どうしようもないご不幸だったけど……」
 ティナはさらに問いかけを紡ぐ。素朴だが相手を慮るような穏やかな口調だ。あのころに比べれば、ティナもだいぶ情緒が発達したらしい。
「出ていったお父さんのことは、つい恨んだりはしなかった?」
「うーん」
 すうっと紙の上に一筆を掃いてリルムは唸った。この色はだいぶ近い。だが、まだまだ遠い。もう少し色を重ねてみよう。
「今はとにかく、なにもかも解んなさすぎて、うまく感情を向けらんないって感じかなあ」
 ぺたぺたと筆を動かしつつ、リルムは続けた。
「なにしろお父さんがどんな人だったのかも、なぜうちを出ていったのかも、全然わかんないんだよ。この野郎って殴りたくなるような理由だったのか、ああそれは仕方ないなって思える理由だったのか……唯一の証人のお母さんは死んじゃったし、じじいはお母さんと友達だったけどお父さんのことは間接的にしか知らない。あたしなりにも考えたけど、なにが正解かなんてわかんない。わかりっこない。あー、その『わかりっこない』っていう事実だけについて、なんか無性に腹が立ったことはあるかも」
「よそのご家庭のお父さんやお母さんを見て、羨ましくなったりは?」
「少しはなった。なったけど、じゃあ実際にうちに両親がいたらどうだったのかが想像できないんだよ。基本的な家族の役割ならおじいちゃんがやってくれたし……あ、ただこれ大事なんだけど、もしリルムんとこが生活苦しい家庭だったら、よそのお父さんやお母さんのことすっごく羨んだと思う。実際にはうちは食うに困らない程度の家だったから。じじいが若いころ稼いだお金と、サマサに少し土地持ってるから、そっちの収入でね……」
 言いながらリルムは、燐光を放つ幻獣の娘を上目使いに盗み見た。
 ティナは自分に、ずいぶんとプライヴェートな事情を尋ねている。そして自分も、ずいぶん深いところまでぺらぺら喋っている。もちろん言いたくなければ言わなくてもいいのだ。ティナはきっと、そう、ごめんなさいと言って引き下がるだろう。
 ただなぜか、ティナが向けてくるこの質疑応答をリルムは図々しいとは思わなかった。いちいち律儀に答えている自分のことも変だとは思わなかった。どの会話も自然なやりとりであるように思えた。ティナもまた幼いころに両親を亡くしている。お互いの境遇に似たような匂いを嗅ぎ取ったのか? それだけではない気もする。
 ふと、リルムは思い至る。あたしとティナ、いまこのふたりを繋いでいるのはごく単純なたったひとつの関係だ。すなわち――絵師とそのモデル。
 じゃあ。
 じゃああたしにとって、絵を描くというのは、こういうことなのかも知れない……

 パレットから筆にとった色を、はたりと紙面に落とす。
 だいぶ近づいてきた気がする。あたしが描きたい色に。あたしが見た彼女の色に。
 質問に答えるではなく、今度は自らリルムは口を開く。
「……あたしが思っているのはね」
 身体を動かせないティナが、視線だけをこちらに向ける。
「あたしはお父さんやお母さんのこと、ほとんど憶えてない。よく解らない。だからあんまり、恨みや哀しさもない。その、かなしさすらないってことが……ちょっとかなしい、かな?」
 沈黙したティナは、遠慮がちに弱々しく微笑んだ。
 リルムも応じて、困ったように眉を下げて微笑み返した。

 絵師の少女と幻獣の娘は、ぽつぽつと会話を交わしつづける。そうしながらふたりは、たったひとつの繋がりを保ちつづけた。
 今度はティナの瞳に塗る色を吟味しながら、リルムはシャドウの言葉を思い返す。『その後は?』 ケフカを斃した、その後は?
 リルムには解っていた。本当は仲間たちは、あの言葉にもうひとつの可能性を嗅ぎとらずにはいられなかったはずだ。今夜、話を聞いた中で、それに触れるものはいなかったけど。

 誰もが思ったはずだ。
 あの狂った道化、強大な禍つ神に挑む我々に。
 『その後』など、あるのだろうか?

 誰もが思ったはずだった。
 そしてそれゆえに、皆はリルムに各々あるべき後日を語ったのだ。確かな自信などありはしない。しかし、なればこそ語らねばならない。生きて帰ったその後について。
 ただねえ、とリルムは心中でこっそり笑う。あたしはほら、生意気だから。みんなが避ける縁起でもないことについて、わざと考えてやろうかと思ってさ。
 あたしに『その後』というものがないとしたら。
 最期の時までにやっておきたいことは、やっぱり絵を描くことだ。
 だからあたしは、ここで彼女を見ていよう。描きたい人を見ていよう。今はティナがその人だ。もし生き延びて帰ったら、いずれ別のモチーフにも心奪われるだろうけど、何にせよあたしは、いつだってあたしが見たいものを見ていたい。終末の足音が聞こえるならば、せめてそいつに肩を叩かれるまで。



                 *          *          *



 だから俺は、ここで彼女の声を聞いていよう。
 閉ざされた倉庫の扉の前で、自己嫌悪と自分の欲求とを持て余しながら、エドガーは瞳をかたく閉じた。

 リルムを見送ったあの後。広間のソファで機械類を磨いていたら、大層な剣幕で近づいてきたモーグリと論争するはめになった。
 エドガーは先日の武器の再分配のとき、自分の戦力をわざと過小申告することで業物・グローランスの所持権を得た。なのにリルムが、自分が持っている強力な機械の存在をモグにばらしてしまったのだ。
 「ならば自分こそがグローランスを持つべきだ」というモーグリの意見は当然であり、彼はそれを説き伏せるための対抗論を持たなかった。結果、フィガロの王は言い負けて、2番手の槍であるホーリーランスで我慢せざるを得なくなった。
 致命的な不利というわけではない。極端な戦力差が生まれるわけでもない。ただエドガーとしては、絵師の少女にひとこと言ってやらないと気が済まなかった。もっとも実のところ真剣に怒っているわけではなく、自分なりの冗句を交えながら抗議をしてやろうと、つまり会話を楽しもうと思ってやってきたに過ぎないが。

 ストラゴスに、自分の孫娘はティナと共に倉庫にいると教えられ、彼は扉の前に立った。
 辺りが静かであったのがそもそもの間違いだった。
 ノックをする直前、エドガーの耳が捉えてしまったのだ。『……こんな気持ちでした、って言えるほど憶えてないんだよね』――彼女が自らの境遇について語る声を。
 聞くつもりはなかった、という言い訳は時間によって駆逐された。立ち去る機会はいくらでもあったのだから。しかし彼は最後まで立ち聞きしてしまった。絵師の少女がとうとうと告白する、自らの父母に抱く私観と、諦念と、そこに満ちた透明でもろい感情について。

 ……せめて扉を叩いて中に入り、正々堂々と話を聞けばよかったか。
 自らの胸に自らが捺した、『卑怯者の出歯亀』という烙印にちくちくと身を焼かれつつエドガーは考える。しかし彼女たちの会話は、どうにも侵しがたい雰囲気を持っていた。もしあの空間に第三者が現れたらリルムは口を閉ざしてしまったかも知れない。エドガーは人に自信家と呼ばれる性格を自認していたが、この場の空気に受け入れてもらえるという自信はなぜか持てなかった。
 ふたりの会話を立ち消えさせることだけは避けたかった。それでいて立ち去れなかった。高揚感と罪悪感に震えながら、どうしても聞いていたかった。

 あたしは、ここで彼女を見ていよう。
 扉の内側で、絵師の少女がそう考えるのと同時に、扉の外側でフィガロ王は開きなおり混じりにこう考えた。
 俺は、ここで彼女の声を聞いていよう。
 待ち受ける滅びの夢に押し流されぬよう、せめてできるだけ近いところで。

 戸板ごしのあえかな言葉がぽつぽつと耳を打つ。
 扉にもたれてエドガーは、後ろめたさと甘やかな痛みに苛まれながら、くすぐるようなその流れにじっと身を任せ続けた。






                 *          *          *






「……さて」
 翌日の夜。
 特別会議の卓の、上座にあたる司会の位置にはストラゴスの姿があった。一同の表情を見回して老魔導士は口を開く。
「昨日シャドウが出した議題について、それぞれ考えてきてくれたかの? ケフカを斃したその後について……。一晩で結論が出るものではないかも知れんが、少なくとも考える時間を設けられたのはよいことじゃ」
 本日の会議の席に、しかしシャドウ自身の姿はなかった。明日の決戦に向けて個人的な準備があるとかで、実務的な内容でないなら欠席させてもらうとの言伝てが、あらかじめストラゴスから伝えられている。
 黒い暗殺者のいつもの定位置であった、今はからっぽな食堂の片隅に目をやってリルムは思う。残念だなあ、ちょっと聞いてみたかったのに。あの物静かな男が胸中に秘めている『その後』について。
「ねえ」
 隣に座っているフィガロ王に、リルムはひそひそと声を掛けた。なんだいと応じる声はなぜか少し硬かったが、気にせずリルムは続ける。
「シャドウのおっさんがいないの、気にならない?」
「どうして?」
「あいつ、この議題を出した張本人じゃん。言いだしっぺってことは、本当は誰かに聞いて欲しいことがあったんじゃないかな? それか他人の答えにすごくこだわってるか……」
 エドガーは、何かをこらえるような表情を形作った。
「……あとで、個人的に聞きに行ったらどうかな」
「んー、どうせあたしには喋ってくれないでしょ」
 逡巡したあと、エドガーは曖昧に頷いた。彼がリルムに何かを言うのか、それとも言わないのか、実際にどうであるかは彼にも判断しかねた。確かな事実はこの場にシャドウがいないことと、それが彼の選択であることだけだった。
「では、誰から行こうかの? まずは挙手制でどうじゃ。それ」
 祖父の声に、リルムは慌てて前に向きなおった。

 様々な色の――あるいは太く、あるいは小さく、あるいは毛に覆われた腕が、一斉に天に向かって挙げられた。



Fin.








サブタイトルは『テクニカラー・ナイト』。本当はエドガーに「娘さんをください」もさせたかった。

2012/04/03