「……俺は、本当はそれを知っているが、確認の意味で聞いておこうか」
 妙に迂遠な、ぎこちない言い回しだった。
 女に皮肉を言うことに彼は慣れていない。
「リルム、君はいったい幾つになった。もう相応の分別がつく歳だろう?」
 何を出してくるかと思えばその程度か。少女は値踏みするように相手を眺めまわした。彼はどうやら譲歩を求めているらしい。君ももう15歳なのだから我儘ばかり言うなと。
 つまらない。なんて面白みのない、冴えない毒舌だ。
 だから手本を見せてやった。
「そういうあんたは幾つになったのさ、色男。挑発未満のなよっちい、腑抜けた嫌味しか言えないところを見ると10歳くらいなわけ?」
 当年とって32歳の国王の眉間のあたりに、不快げな皺が刻まれた。



                 *          *          *



 旧大陸様式の、葉あざみの彫刻があしらわれた入口の柱を見上げながら、セリスはオペラ座へと入った。
 重厚な光沢をもつ御影石のエントランスホールと、金糸入りの緋毛氈の敷かれた階段は、いつ見ても荘厳で美しい。訪れた客がうっとりと、これから始まる一夜の夢に期待を膨らませるその空間は、しかし今は独特の緊張感に満ちている。
 受付では広報の人間が、各地から寄せられたチケットの受注数を血眼で計算している。後ろの小部屋では、経理担当が帳簿を広げて予算捻出に大忙しだ。こんにちはと挨拶すると、ああ、セリスさんどうぞ、と一応の笑顔が返ってくるが、すぐに彼らの視線はそれぞれの手元に戻される。遠くからはかすかに、コロラチュラ・ソプラノの声が聴こえる。主役の重圧を担う歌姫が日々の鍛錬を己に課しているのだろう。
 客席へは入らず、関係者用の地味な扉を開けて、セリスは階段を降りる。俳優用の楽屋はロビーの左右にあるが、それ以外の施設は地下にあるのだ。
 薄暗い階段を降りるたび、いたるところにごちゃごちゃと積みあげられた雑多な品物が眼に入る。使い込まれた工具箱、滑車のついた衣装掛け。ドレスが何着も下げられているが、舞台用のせいかくっきりした色使いや大時代なデザインのものが多い。
 表から見れば美しい白亜の城だが、裏を返せば野暮ったい支柱が見えてしまう大道具。紙でつくられた張り子の満月、染めぬいた布を連ねた海。ずらりと棚に鎮座する、色とりどりの鬘――あらゆる品々が並べられたその光景は、セリスに、幼いころシドに連れられてこっそり遊びに出たベクタ下町の市場を思い出させた。
 この広い地下室の、物と物とが氾濫する隙間をぬって、ある人は靴を修繕し、ある人は弟子を叱りつけ、ある人はスコアを見ながら振り付けを確認している。
 オペラ座は今、新作の上演を一か月後に控えて戦場のようなありさまだった。

 セリスは求める人影を探して、地下の楽屋を見回した。絵師の少女と機械遣いの国王がここに来ているはずなのだ。
 2人の姿は、部屋の奥の、大きな円卓と椅子が並べられた一角にあった。壁には劇場の見取り図が貼られ、机上には大道具の配置図が広げられている。ふだん舞台監督や演出家が詰めている場所なのだろう。
 声を掛けようとしてセリスは一瞬、開けかけた口を戸惑いに噤んだ。
 なぜエドガーは、彼らしくもなく不機嫌そうに、机に肘をついてむっつりと黙りこんでいるのだろう? そしてなぜリルムは、これまた彼女らしくもなく、そっぽを向いて生気のない眼でじっと壁を見つめているのだろう?
「……ねえ?」
 恐る恐る、呼びかけてみた。
 顔を上げたエドガーは、ああセリス、久しぶりだね、といつもの笑顔を浮かべる。リルムも振り返り、来てくれたんだあと明るい声を出す。しかし――2人ともどこか変だ。漂う空気が張りつめている。
「そろそろ正念場だって聞いて、差し入れに来たのよ。俳優と裏方の皆さんで召し上がってもらおうと思って……」
 ジドールチーズの詰め合わせと、黄桜桃のワインの入った籠を机に置く。大劇場で働く人間の数は多いので、無論これだけでは足りない。では全員分の差し入れはというと、木箱にたっぷり量を詰めこんで事務所のほうに届けてある。ここにあるのはセリスが手ずから渡すつもりで持ってきたエドガーとリルムの分だ。
「有難う、セリス。女性の細やかな気遣いというものは嬉しいね」
「ナッツ入りのやつある? あたし、あれ好きなんだ」
 口々に言いながら籠を覗きこむ。それでもやはり、彼らの声からは硬さが抜け切れていなかった。わざとはしゃいでいるような、あるいは牽制しあっているような雰囲気だ。
「……まさに追いこみ期って感じね。上の人も下の人も大忙しみたい」
 セリスは周囲に目を配りつつ言った。皆、自分の作業に追われて殺気立っている。この2人も、その影響で神経質になっているのだろうか。
「初日まであと一か月だけど、進み具合はどう? 上手くいってる?」
 チーズの包みを開く手と、ボトルの栓を抜く手が、ほぼ同時に止まった。
 小さな舌打ちの音は、絵師の少女から聞こえた。それを受けて青年王は、ただでも下がり気味だった口の端をますます陰険に下げる。薄氷のようにかろうじて保たれていた雰囲気が、一瞬のうちに砕け散ったのを感じ、セリスは瞳を瞬かせた。
「……あの、ちょっと」
 咳払いとともに、穏やかな声が背後から聞こえた。
 振り向けば、白手袋をつけた、恰幅のいい口髭の男性が立っている。ほんの一時期ながら協力しあったことのあるかつての同僚に、セリスは軽く会釈をした。
「お久しぶりです、団長」
「どうも、セリスさん。その節はお世話になりましたね」
 人好きのする笑顔を浮かべながら団長は口早に挨拶し、エドガーとリルムのほうに向きなおった。
「えーと……エドガーさん、臨時の照明助手が入ったので、奈落に行ってガス灯照明の使い方を教えてやってもらえませんか? あとアローニィさん、3幕1場の酒場のセットの汚しが終わりましたので、確認をお願いします。今日の塗り作業は、裏庭でやっておりますので」
「……解りました」
「あいよ」
 それぞれに返事をして、彼と彼女は席を立つ。エドガーを『陛下』という尊称でも『フィガロ』という姓でも呼ばないのは、エドガー自身が劇場側に要求した契約条件だ。個人として仕事を受けたからにはできるだけ対等でありたい。また、身分ゆえに裏方たちに要らぬ恐縮をされたり、逆に疎ましがられたりするのを避ける目的もある。
 声を掛けあいもせず、別方向に去ってゆく2つの人影を見送って、セリスはひそひそと団長に話しかけた。
「どうかしたんですか? あの2人。なんだか様子がおかしいけど」
 団長は眉を寄せ、肩をすくめてみせた。
「よくあることでは、あるんですけどねえ……」

 ――正式なグランド・オペラの公演を打つことは、劇場関係者一同の悲願であった。
 瓦礫の塔が崩壊し、迷える道化が恐らくはじめての安寧な眠りについたあの日から、世界は少しづつ回りはじめていた。痩せた土に根気よく蒔かれた麦はようよう実をつけ、学のある者は更なる土壌改良の研究を重ねる。街の工房は少ない資材でなんとか貨物船を造りあげ、それを買いつけた商人たちが海路を拓いて交易を活性化させてゆく。
 黄昏に沈んでいた世界に、やっと希望の光が見えてきた。
 しかし、人々の生活はまだ楽ではなかった。飢えて死ぬ子が減ったとしても、次はその子が来年死なないための蓄えが必要だ。生活以外のことに割ける余裕はまだ少ない。こういった世情の中で、なかなか光明を見出せないのは、やはり娯楽産業だった。
 もっとも人の世の常として、賭場や娼館などの率直な欲望にからんだ娯楽は、客切れを起こしにくい意味でいくらか安定している。また絵画を為すリルムのように、小規模な個人作業で生みだされる芸術はまだましだ。こつこつ描いて売れれば上々、画材代とて安くはないが、苦しいなりに副業を入れてのやりくりも不可能ではない。
 しかし、本格的なオペラ公演ともなると話は別だった。
 大がかりな装置のための工材費、豪奢な衣装にかかる服飾費。主演俳優のみならず群舞やオーケストラ員にも払われる人件費。舞台上に架空の都をひとつ再現するだけで、いくらの金が消えるだろう? チケットをさばく広告費、照明用の燃料費なども潤沢に必要だ。
 要るのは物や金だけではない。数か月に及ぶ時間的拘束、劇場という巨大建築の管理維持。複雑多岐にわたるもろもろの準備行程――それだけのものを要しながら、形ある何かが残るわけでもない。他とは比べものにならない浪費の花形、それが舞台芸術なのだ。
 幸いこのオペラ座は、存続を危ぶんだ貴族たちの共同出資によって、なんとか潰れない程度の興業は打ち続けられている。有名な曲を抜粋して行われるガラ・コンサート、手軽に観られるオペレッタなどの小演目が中心だ。しかし……莫大な予算と手間暇のかかる、完全な形でのオペラ公演は長らく行われていなかった。
 演劇とは客ありきなので、人々の心が疲弊していたうちは仕方ない。だが世界が恐怖から解放されて4年、巷に明るい話題が広まりつつあるのを見て、団長はむずむずと血が騒ぐのを覚えた。座付きの踊り子も、裏方たちも、同じ思いであった。
 ――大規模公演に耐える設備とキャパシティを持つ、歴史あるこの劇場が、真価を発揮させられずにいるのは舞台人の名折れではないか!
 正統派グランド・オペラ長期公演の決定を、団長は宣言した。
 自腹を切るのも惜しまず、彼は一流の俳優とスタッフをかき集めた。高名な老音楽家に楽曲を、人気の高い文筆家に新作の脚本を依頼する。2人ともオペラ執筆には実績のある、いわば大御所だ。一方で舞台監督には新進気鋭の若手を据え、話題性を狙う。
 金を出してくれるパトロンについては、かつて空飛ぶ賭場を経営していた飛空艇乗りが、主演女優の名を確認したうえで地下金庫から大層な額を提供してくれた。引きかえに彼が要求したのは良席のチケット数枚のみだ。また、ジドールの名家・アウザー氏も資金提供に名乗りを上げた。アウザー氏の動機は、銀髪の飛空艇乗りよりはずっと健全だった。すなわち、眼をかけている芸術家が初めて手がける分野の仕事だからぜひ成功してもらいたい。
 そう、一流のスタッフを求める団長が今回、舞台美術を依頼したのは――今年15歳になる若き天才画家、リルム・アローニィだった。
 同じく今回、斬新な演出を可能にする新しい舞台装置の発明を依頼されたのは――機械文明の旗手、フィガロ国王・エドガーであった……

「で、その2人が喧嘩してるんですか?」
 セリスは少し驚いた声を出した。しっ、と唇に指をあてた団長に目配せをされ、彼女は口元を押さえる。
 肩を並べて戦っていた当時から、エドガーとリルムは仲がよいはずだった。フィガロ王は自ら公言する通りどんな女性にも軟派な男だったが、彼がリルムと交わす会話には一味ちがった小気味よさがあった。口説くというより自然体の軽口になるエドガーと、切り口鋭い台詞をさらりと返すリルムは、はたから見ても好相性だった。
 あれから4年経つが、当時の仲間たちとは折につけ顔を合わせている。成長期のリルムは背も伸び、体つきにも丸みを帯びてきたが、エドガーとの活きのよい会話は変わらない。彼らなら足並み揃えてよい仕事をしてくれると踏んでいたのだが……
「喧嘩の原因は、なんなんですか?」
「お互いに譲れないものがあるみたいですよ。わたしとしては、どちらの言い分も理解できるんですがねえ」

 団長は、まず舞台装置の担当であるエドガー側の主張をあげた。彼曰く――「モーター音をさせて出てくる幽霊なんて、興冷めだ」。
 今回の脚本は、中世風の設定で描かれた男女の愛憎ものであるらしい。主人公は野心に溢れた騎士、ヒロインは亡国の王女だ。作中、追いつめられた主人公は王女を殺めてしまうのだが、彼女はのちに幽霊となって主人公のもとに現れる。そして恨みと断ちきれぬ恋慕とを、激しい旋律に乗せて歌いあげる。脚本を読みこんだエドガーは、この場面はかなり重要な見せ場であると判断した。
 俳優を奈落から舞台上へと押しあげる装置、いわゆる『セリ』はもちろんこのオペラ座にも存在する。ただエドガーは、既存のセリではなく電動の新しいセリを作って、より高い、より神秘的な位置に王女の幽霊を登場させることを提案した。
 安全に俳優を押しあげる装置を作るだけなら、彼にとっては欠伸が出るほど簡単な仕事だ。しかし重要なのは、装置ができるだけ無音であることだとエドガーは考えた。人ならぬ亡霊の存在感は無音の中でこそ磨かれる。そうすれば、静謐な空気を破って彼女がゆるゆると歌いだす凄烈なアリアも映えるのだ。
 駆動部を消音用の部品で覆い、また本体も緩音材で包みこまねばならないので、装置のサイズはやや大型化する。ただ装置本体は、幽霊が現れる古い教会のセットの後ろに隠しておくことがもともと予定されていた。そのセットの表面積がじゅうぶん確保できれば、うまく隠せるだろう……

 次に団長は、舞台美術の担当であるリルム側の主張をあげた。彼女曰く――「ラストシーンが心に残らない芝居なんて、ありえない」。
 このオペラのラストシーンは、王女を殺めた主人公が、凶器のナイフを夜の湖に捨てにくる場面だった。彼は水中に刃物を投げこんで去るが、すぐに戻ってくる。『こんな浅いところじゃ見つかる、もっと深いところへ捨てよう』。そう言ってナイフを拾い、より沖のほうへ捨てなおす。だがまた拾いあげる。『駄目だ、もっと深いところへ捨てよう』。また捨てるが、また拾い上げる。『もっと深いところへ』――『もっと深いところへ』――それを繰りかえした彼は、やがて溺れて死んでしまう。
 ここで観客は気付く。彼がすでに正気を失っていることに。そして幽霊となった王女も気付く。彼は凶器を隠すために必死なのではない、自分を殺してしまった事実から逃れようと必死なのだ。彼は決して赦されぬ罪を犯したが、それだけ自分を愛していたのだ……
 脚本を読んだリルムは、このラストを観客の心に刻みこむのが自分の使命だと判断した。そのために必要なのは、彼らの運命を象徴する夜の湖だった。黒々とした森を奥に控え、月光を受けて濃青にたゆたう湖をリルムは思い描いた。色彩のイメージとともに重要なのは、背景幕に描かれる湖の面積だった。男の狂気を映し、また呑みこもうとする水面は、印象に残る広さでなければならない。湖のそばには王女の幽霊が現れる教会跡のセットもある。このセットも大事ではあるが、そのせいで湖の存在感を邪魔されるわけにはいかない。この湖だけは、相応に広く見せなければならない……

「で……セリ装置の無音化にこだわるエドガーと、背景とセットのバランスにこだわるリルムが、喧嘩してるってわけですか」
 呆れた調子が声に出ないよう注意しながらセリスは言った。要するに、エドガーは自分の装置を置くために一部のセットを大きくしろと要求し、リルムはそれでは自分の考えた美術効果が台無しになると突っぱねているのだ。
 どちらも些細な問題のように見えるが、このこだわりが一夜の夢には重要なのだとセリスには解っていた。数年前、代役としてほんの数回の舞台を踏んだ経験しかないが、舞台人たちの誇りや職務にかける情熱は当時に目の当たりにしている。
 セリスが呆れているのは、どちらかといえばかつての仲間2人の、子供じみた融通のきかなさだった。
「こういうのって、先に無理を言い出したほうが引き下がるべきだと思うんですけど」
「ですがねえ、それもだいたい同等のタイミングなんですよ。エドガーさんが自分の判断で装置を大型化したのは確かなんですが、アローニィさんのほうも、相手に最終的な確認を取らずにラストシーンの美術配置を決めちゃったのは確かなので」
 思わず苦笑したセリスに合わせて団長も力なく笑い、言葉を続けた。
「わたしとしては、どちらの味方もできないのが心苦しいです。どちらも譲りたくない気持ちがよく解りますから。エドガーさんの技術はたいしたもので、とても高性能なセリを作ってくれました。速度も安定性も申し分なく、実際かなりの静音化も実現している。一方でアローニィさんの舞台美術もむろん素晴らしい。イメージボードを見せてもらいましたが、背筋がぞくぞくするような夜の湖でした。ここで王女の幽霊が歌うのかと思うと今から夢に見そうでしたよ」
「当人同士で、話し合いをさせてみたりはしましたか?」
「お願いしてはみたのですが、売り言葉に買い言葉、の嵐でして」
 団長はそのときの状況を語る。絵師の少女は「エドガーに視覚効果のなにが解るわけ?!」と息巻き、フィガロ王は頑として「美術の方面は解らないが、脚本を舞台に落としこむための取捨選択は君よりできているつもりだ」と譲らない。話し合いという名の意地の張り合いは埒が開かず、やがて本筋から離れた険悪な言葉すら飛び交いだしたのを見て、周囲の人間が慌てて割って入った。
 その後も何回か、討論の場は設けられた。だが歩み寄りは行われず、一度入ってしまった亀裂は修復されなかった。視線を合わせようとしない装置担当と美術担当のあいだで、空しく時間だけが過ぎていった……
「セリスさん、ちょっと確認なんですけども」
 白手袋の指を丸い顎にあて、団長は小首を傾げる。
「エドガーさんとアローニィさんは、以前から仲が悪かったのですか?」
「いえ、逆です。むしろ仲間内でも仲がよいほうでした」
「ふむ……なるほど」
 腕組みをする団長の横で、セリスも考える。
 周知のようにエドガーは、どんな女性にも礼儀正しい。手が早い、色事師などと呼ばれる振る舞いが常だが、それらは決して下品な意味ではない。馴れ馴れしく触ってきたり、強引な態度で言い寄ったりは彼に限ってありえない。甘やかな台詞を交えつつも、基本的には爽やかに、賛美と敬愛を振りまいて女性をよい気分にさせるのが彼の流儀だ。そのエドガーが……気心の知れた仲間とはいえ女性を相手に、そうも強硬な態度に出ているのが意外だった。
 リルムの態度については、ある意味ではあまり不思議ではない。芸術家という人種の常か、リルムには我の強いところがある。勝ち気で、生意気で、少々ひねくれた毒舌家でもある彼女は、敵を作っても仕方ない部分があるかも知れない。
 ただその代わりリルムは、周囲の空気を読むことに長けていたはずだった。ヒドゥン打倒という祖父の夢を汲み、小芝居を計画したのは他でもない彼女だ。また、リルムは確かにぽんぽんと遠慮なくものを言うが、それは彼女の裏表のなさのあらわれでもある。そんなリルムが、周囲を気遣いもせず意固地な姿勢を続けているのも、意外といえば意外だ。

 溜息をつき、セリスは天を仰いだ。
 仲裁役を申し出たほうがいいだろうか? だがこの場合、第三者が口を出すのも得策とは思えない。セリスは演劇に関してはほとんど素人だ。関係者でもないのに内部の事情をつつきまわし、そのせいで事態が悪化したら大問題になる。第一、エドガーとリルムの人柄は知っていても、彼らが喧嘩している状況に立ち会ったのは初めてだ。仲裁しようにも何を言えばいいのか解らない。
 セリスは地下の天井を見つめた。この汚れた素っ気ないモルタルの上には、威厳と風格に満ちた大劇場がずっしり載っている。初日まで、泣いても笑ってもあと一か月。
 ……子供のころ読んだ絵本に出てきた、演劇の神さまの名前は、なんだったかな。
 そんなことをふと考えた。確かあれは、異国の神話の本だったはずだ。もともと酒の神であった存在が、飲酒にともなう恍惚感や陶酔感、また彼の祭で行われていた見世物なども尊重されはじめて演劇の神とも見なされるようになったらしい。海の神、太陽の神というのなら解るが、演劇にも神が発生するというのが幼いセリスには新鮮だった。
 セリスの手はじき絵本ではなく剣を持つようになったが、戦いに明け暮れていたあのころ、神に祈った記憶はない。神というものがいるとして、彼は何ももたらさない。善きも悪しきも、全ては人によってもたらされるのだとセリスは知っている。
 ただ……今回くらいは。
 こんなささやかな、こんな甘ったるい、こんな厄介な困難くらいは。
 神さまなどという曖昧なものが、光る指先をちょいと振るような都合のいい陳腐な方法で、あっさり解決してくれたっていいんじゃないだろうか?

 セリスはしばし空想し――いかにも夢見がちだと自分自身に苦笑した。



                 *          *          *



「……結論から申し上げますと、お2人には少しづつ、妥協していただくことになりました」
 開幕初日。
 お祝いに持参した花束と引きかえに、そんな回答をセリスは団長から受け取った。

 あのあとエドガーは、開き直ったように自らの装置を改造しはじめた。かさばる部品をいったん取り外し、新しい機材を自国から届けさせて改良に改良を重ねる。結果、当初の大きさから4割ほど体積を削減させた、なおかつ音も静かな新しいセリ装置が完成したらしい。
 リルムはリルムで、ラストシーンのイメージ稿を一から描き直してそれを元に背景幕を起こしはじめた。効果的に誇張した遠近法をあやつり、画面に奥行きを出す。結果、騙し絵かと錯覚するほどの広大な黒い森と夜の湖が、舞台上に出現したらしい。
「あれ以来、顔も合わせておられませんが、私を通じて何回もあっちの仕事は今どうなっているかと尋ねてきました。その情報をもとにお互い作業を調整なさったので、全体のバランスも完璧ですよ」
「2人とも、ただ引き下がるのは嫌だけど、じゃあ自分の分野で勝負してやると受けて立ったわけですね……」
 安堵と呆れをないまぜにしてセリスは微笑んだ。つまらぬ意地を張りつつも、さすがは彼らというべきだろう。
「おかげさまで無事に初日を迎えられました。……あとはお2人が、仲直りしてくださるとよいのですけど」
 団長とセリスは、同時にちらりとロビーの一隅を盗み見た。
 リルムはドマの準礼装を着たカイエンにまとわりつき、見慣れぬ服をおもしろがって引っぱりまわしている。エドガーはエドガーで、清楚なワンピースで慎ましく装ったティナを褒めちぎるのに大忙しだ。
 記念すべきこの日、さすがに全員ではないがかつての仲間たちも駆けつけてくれていた。久しぶりに皆が一堂に会したのだから盛りあがるのは当然だが、それにしても2人の浮かれ方は大袈裟だ。エドガーもリルムも、お互いさりげなく相手を牽制し、これ見よがしに楽しそうに振る舞っているのが解る。
 外部嘱託とはいえ彼らは制作側の人間なのだから、今は舞台裏に詰めていなくてよいのだろうか……とセリスは思ったが、ぜひ観客席で観てほしいというのが団長の心遣いらしかった。エドガーに付いていた助手は装置の構造をすでに熟知しているので、仮に故障しても自分で修理できるらしい。考えてみれば長い公演期間中、一国の王をずっと劇場に縛りつけておくわけにもいかないだろう。美術担当のリルムは実際、いざ公演が始まってしまえば特にすることはない。団長としては本当は、彼女自身の知名度もあるので公演後の関係者祝賀会には出席してほしかったが、面倒臭いと断られたそうだ。
「セリス、そろそろ行こうぜ。チケット見たけどすごくいい席だよ」
 長話に痺れを切らせたロックが声をかけてきた。着飾ったお歴々が集うロビーで、軽装の彼はやや浮いている。それでも襟付きの上着を羽織っているだけ普段よりましだ。
「その良席が誰のおかげで手に入ったかも忘れるなよ、泥棒」
 瀟洒なディナージャケット姿のセッツァーが、煙草を灰皿に押しつけながら言った。その隣にいるマッシュも比較的きちんとした格好をしている。ただ、軽食を出すバーの立食テーブルにさっそく空の皿を積み上げているのが彼らしい。
 団長に会釈して去りかけたセリスは――迷ったのち、再び相手を呼び止めた。
「あの、団長」
 振り向いた男に、今度は深々と頭を下げる。
「私がお詫びする筋じゃないかも知れませんけど……今回は身内がご迷惑をおかけしました」
「いえいえそんな、迷惑だなんて」
 白手袋の手を挙げ、団長はにこやかに首を振る。
「終わりよければすべてよしですよ。どうかお気になさらず」
「でも、あの2人にもっと協調性があればお手間をかけずに済んだわけですし……」
「……協調性、ですか?」
「え?」
 会話の中の意外な部分を反復されて、セリスは瞳を見開いた。
 団長は何か言おうと口を開く。しかし彼女の背後でまた、セリス、と呼ぶ声がした。それを聞きつけた彼は口を閉じ、にっこりと微笑む。
「いえ、なんでもありません。お連れ様のもとへどうぞ。そして舞台をご覧ください。観てもらえれば解っていただけますので」
 オペラ座を采配する男は、そういって一礼し、ロビーの人混みの中に紛れていった。






 全幕を終えて緞帳が下り、客席ホールに灯りがついた。

 明るくなるやいなや、待ち構えていた人々が、わっと出入り口に詰めかけた。
 急いでロビーへ出ようとしている者は、全観客のうち半分くらいだ。騒々しいざわめきがやっとホールから吐き出されると、後にはまだ座席についたままの客が残される。
 残っている者たちは、一様に口数が少なかった。彼らはみな半ば放心していた。では急いで出ていった者たちは冷静だったかというと、少し違う。単に彼らは、放心するよりも先に行動を起こせる人種だっただけだ。つまり、早くロビーに出て、次回以降のチケットを予約しなければならない。
「……申し上げたでしょう」
 セリスたち一行の傍にやってきた団長は、おごそかに囁いた。
「観てもらえれば、解っていただけますとね」
 座ったままのセリスは答えなかった。
 とめどなく溢れてくる嗚咽のせいで、頷くのが精一杯だったからだ。

 ハンカチで口を押さえながら隣のリルムを見る。彼女はセリスのように、激しく泣きじゃくってはいなかった。しゃくり上げることも忘れて茫然としていた。雷に打たれたように微動だにせず、瞬きを忘れて充血した眼から、恐らくは無意識にはたはたと涙を零していた。
 反対側に座っているエドガーを見る。彼はまったくの無表情だった。しかしそれが、沸き立つ感情を押し隠すための必死の抵抗であるのはすぐ解った。目元は変に赤く、噛みしめて引き結ばれた口元が寒くもないのにぶるぶると震えていたから。

 芝居は大成功だった。
 高揚の序曲、あとに続く珠玉の楽曲が、まず観客の耳を捉えた。舞台美術はめくるめく幻想をなし、照明の技と巧みな舞台装置がドラマを際立たせた。
 主演俳優は乱世の騎士を演じきり、歌姫は可憐な王女をその身に宿らせた。彼らの姿は悲愴を通りこして凄みすら感じさせ、人々は固唾を飲んで両者を見守った。ボックス席の貴族たちは彼らの常で、観劇というより社交目的で劇場に訪れていたのだが、やがて歓談そっちのけでバルコニーから身を乗り出しはじめた。
 ラストシーンの最後の和音が重々しく大気に溶け、マエストロが指揮棒を下ろす。
 瞬間の静寂ののち、万雷の拍手が怒濤となってびりびりと屋根を揺るがした。女たちは手を叩いて涙し、男たちは立ち上がって口笛を鳴らす。抑え切れぬ感動がホールに熱気の渦を巻く。カーテンコールは何度、繰り返されたか解らない。客席から舞台へと花が投げこまれるのは、どの公演でも行われる儀礼的な慣習ではあったが、今回は身に着けているスカーフや宝飾を投げる者まで現れた。
 歓呼と喝采、称賛と栄光。間違いなく演劇史に名を残す一夜。
 鳴り止まぬ声が、いつまでもオペラ座に響いた……

「……いい仕事をする人たちは、たいてい頑固です」
 ロビーにて、物語の余韻に浸っているセリスに、団長は遠い目をして語りかけた。
「頑固とは揺るがないことです。揺るがないとは、倒れないということです。……無論、それは諸刃の剣でもありますがね。頑固をはき違えて、仕事の順番さえ守れなくなって、駄目になった人間をわたしは沢山知っています。また逆に……『喧嘩をすればよいものができるはず』なんてのも幻想ですね。別にしたければしてもいいのですが、したからといって必ずよいものができる仕組みはない。今回のお2人は譲れぬ立場から衝突なさいましたが、衝突自体が彼らの才能や努力を証明しているわけではないでしょう。……喧嘩をこじらせて、落としどころを見失い、互いに潰しあうはめになった人たちもよく見てきました」
 団長はしばし口を閉じ、燭台の煌めくロビーを見回した。観客や従業員、さまざまな人間の行き交う空間を見つめる彼の視線は厳しくも優しい。
 セリスは突然、あることに気がついた。この男が食えない老将であることに。剣も振れない、兵法も知らない。しかし、一歩間違えば転落するだけの破滅と隣りあわせの世界で、今まで生き延びてきたのは違いないということに。
「わたしに言えるのはふたつだけです。自分の仕事をやりとげる頑固さは素晴らしい。そしてあのお2人は、それができる人間だ」
「そうですね」
 万感の思いをこめて、再び眼を潤ませたセリスは頷いた。
「本当に、そうです……」

 挨拶まわりがあるので、と言って退出した団長と別れ、セリスは仲間たちがたむろしている立食テーブルへ近づいた。
 押し寄せた感動の波はひとたび落ちついたが、今度はみな細かい部分の感想を語りあうのに一生懸命だ。見ればエドガーはカイエンを相手に、リルムはマッシュを相手に、夢中になって今夜の興奮を喋っている。
 仲間たちのちょうど中央にセリスは立ち、軽いアルコールを含んで一息ついた。ここに立っているとエドガーとリルム両方の声が聴こえる。何とはなし、セリスはそれらに耳を傾けた。同時に聞こえるので少し解りづらいが、大まかな内容は取れる。
「あの主演俳優は実にいいね。俺が男を褒めるというのは相当なことだよカイエン。あのラストシーンは主人公の悲哀とともに、どうしようもない運命の残酷も匂わせているんだ。夜の湖がそれを象徴していただろう、臨場感あふれる見事な情景だった。暗い湖の圧倒的で絶望的な広さが、いまも眼に焼きついて――」
「さすが当代一の女優だよ、あのアリアはすごかった。王女さまの真白いドレスが教会跡にゆらっと見えただけで蒼ざめたもん。導入が鳥肌ものだよね、暗闇の中に声だけがそおっと響きだすの。寸前までぴしっと静けさが保たれてるのがすごく効果的でさ、他の音をいっさい入れないことで声の存在感が――」
 フィガロ王と、絵師の少女が、同時に語尾をすぼませた。
 セリスは思わず首を回して、2人の顔を交互に見る。それぞれの顔にある気まずさを読み取り、状況を把握する。
 そうだ。彼らは今日、ずっとお互いに牽制しあっていたのだ。相手の動きが見える位置、相手の声が聞こえる位置にわざわざ陣どって。熱心に語っているうちに一瞬それを忘れてしまったようだけど。
 急に口を閉ざした相手を訝しみ、カイエンが「エドガー殿?」と尋ねた。マッシュも「え、どうかした?」と少女の顔を覗きこんでいる。
「……ああ……失礼、少々酔いが回ったようだ。夜風に当たってくるよ」
「あたし、あの……まだパンフレット買ってないんだよね。行ってくる」
 ぎくしゃくと言い訳を絞り出し、ぎくしゃくと違う方向へ駆けだす。
 残されたカイエンは、エドガーの傾けていたグラスを手に取り、中身の香りを嗅いでみて首を傾げた。マッシュはロックの肩をとんとんと叩き、「制作側の人ってパンフレットただで貰えないのかなあ?」と尋ねている。
 堪えきれず、セリスは笑い出した。突然起きた笑い声に、今度は全員がこちらを見て目を丸くしている。仕方がない、彼らの喧嘩を知っているのはこの場ではセリスだけなのだ。
「……なに笑ってんだ、おまえ」
 横合いからそう声をかけられた。
 視線をやればセッツァーが、琥珀色の液体の入ったフルートグラスを手に立っている。彼は今まで、仲間たちとは一緒におらず席を外していた。高額出資者の特権で、プリマドンナの楽屋まで挨拶に行っていたのだ。
「ごめん、なんでもない、なんでもないの……」
 セリスは滲んだ涙を拭い、こみあげる笑いをどうにか押し留めた。呼吸を整えつつ、ふとセッツァーの格好を見る。彼は頭に何かきらきらしたものを載せていた。
「あら、セッツァー。それってもしかして」
 賭博師の頭上で光っているのは、金色の小さな冠だった。その形状には見覚えがある。ついさっきまで、主演女優が身に着けていた小道具だ。
「ああ、マリアにもらった。今日の舞台で使われた、歌姫演じる亡国の王女さまの冠だ。今夜の記念にどうぞってな」
「でもそれ、もらっちゃっていいの? 公演はまだまだ続くのに」
「いや、こいつは小道具としてはお払い箱になったそうだ。あんまり目立たねえが、舞台裏を移動したときに低い梁にうっかりぶつけて傷が入っちまったんだとよ。工房のほうで新しい冠をもう作ってるから、次からはそっちを使うらしい」
 ふうんと頷いて、セリスは光る細工物を見あげた。萌えいづる草花が彫りこまれた上品な意匠だ。もちろん鍍金なのだろうが、相応の価値はありそうに見える。
「だが……俺は銀髪だから、どうも据わりが悪いんだよな」
 セッツァーは腕をあげ、片手だけで器用に冠を髪に固定しているピンをぱちぱち外す。
「こういうのは、色を合わせたほうがいい」
 セリスの淡い金髪の上に、ひょいと王女の冠が載せられた。

 瞬間――彼女はあることを思い出した。
 小さいころ読んだ、異国の神話の絵本について。演劇の神さまの出てくる物語、その登場人物とあらすじについて……

「おい」
 セリスが何かを言う前に、内に刃を秘めた声が耳に届いた。
 声のしたほうを見ればロックが、瞳に低温の炎を揺らめかせて立っている。相手の鬼気を避けるように、セッツァーは薄く笑い、肩をすくめて一歩引いた。
「……セリスが、こういうのを着ける日が来るとして……」
 ロックは賭博師に視線をひたと据えつつ、ゆっくりと歩み寄った。
 手を伸ばし、白金の頭から同系色の冠を取りあげる。
「そのときの冠は、俺から贈るよ」
「待ってロック。私、それもらっておくわ」
 格好よく決めたはずがこの返答に、ロックは思わずもの凄い勢いでセリスの顔を見た。セッツァーも紫青の瞳をやや見開き、愉快そうに彼女を眺める。
「違うわ、自分用じゃなくって。私、今夜まさにこれを必要としている人を知っているの。その人に渡してあげないとね」






 エントランスから客用庭園へと出たセリスは、求める2つの対象をすぐに見つけた。
 ひとつは自分から近い距離に。もうひとつはやや遠い距離に。

 夜の庭の、規則正しく植えこまれた低木の脇に、エドガーは茫と立っていた。
 暗い場所でいったい何をしているのかと、余人なら不思議に思うだろう。だがセリスには解っていた。彼の視線の先にある小さな人影。
 石造りの手摺にもたれて星を見上げている、うすい珊瑚色のドレスを着た少女。
 あれはサマサの絵師に他ならない。

 セリスは思う。今回の喧嘩騒ぎは、どういう経緯で起こったのだろう。
 エドガーもリルムも、本来そこまで厄介な性格ではない。もちろん団長が言ったように、2人とも自分の仕事に頑固なのはある。でも本当に、それだけだろうか。彼らがそんなにも、相手の理解を引き出すことに固執した理由はなんだろう?
 あなただけは自分を認めてくれ、受け入れてくれ、拒まないでくれと願う、嵐のような欲求。
 その感情には、どんな名前がつくだろう?

 あの少女の中で、この王の中で。
 お互いの存在は、大きくなりつつあるのではないだろうか?

「……エドガー」
 セリスはそっと、小声で呼ばった。
 フィガロ風の蒼い詰め襟の肩がびくりと震えて、正装した王は慌てて振り返る。まるで悪戯が見つかった子供のようだ。
「あ、ああ、セリス……」
「ごめんなさい、驚かせたかしら」
「いや、大丈夫だ。おかしな動きを見せて失礼したね。……それというのも、今夜の君の艶やかさが俺にはとても刺激的だったからで」
「これ、あげる」
 滔々と流れはじめた麗句をさえぎって、セリスは手に持った小道具を差し出した。
「……これは?」
「見覚えあるでしょ? 今日、舞台の上でプリマドンナが着けていた冠よ。事情があって今後は使えなくなったから、セッツァーが記念にもらってきたんですって」
 ほう、と声を漏らして品物を受けとる顔を見つめ、セリスは口を開いた。
「あなたとリルムに何があったか、団長から全部教えてもらったわ」
 エドガーは表情を変えなかった。だが、セリスも見逃さなかった。ごくわずかな険しさが相手の額のあたりに一瞬だけ走ったのを。
「本当はもうふっ切れてるんでしょう? リルムだってきっとそうよ。結果的にお互いの仕事をまっとうできたのなら、いつまでも不仲を引きずる必要はないわ。……その冠、あなたから絵描きの王女さまに渡してあげて。仲直りのきっかけになるから」
 フィガロ王はあくまでも沈黙を保った。夜風がさわさわと葉擦れを起こす音だけが、しばし空間に流れる。
 ややあって、上げられた顔に浮かんでいたのは、隙のない完璧な微笑だ。
「でもセリス。この素敵な冠は、君の頭上で輝きたいと願っているよ? 美しい品がそれに相応しい人のもとに還るのを邪魔したくないなあ。君の美貌の上にあってこそ……」
「エドガー、エドガー」
 セリスは大きく首を振り、厳めしく腰に手を当てた。
「そういう逃げ口上が通用すると思われてるのかしら、私って?」
 今度こそエドガーは黙りこんだ。先程の計算された沈黙とは違う、言葉に詰まったがゆえの苦しい沈黙だ。
「…………確かに、俺も、強情を張りすぎたかも知れない」
 導き出された声は、苦渋と反骨の色をしていた。
「でも、リルムにだって責任があるだろう。なぜこちらが折れなければいけないんだ。俺だけが泥を被らされるようで、不公平に思えて仕方ないんだが」
 セリスは思わず笑いを噛み殺した。『明朗かつ明晰』、『能弁でしたたか』、『柔軟な政治的手腕にも長け』――などと評されるフィガロ王の物言いがこれだ。もし彼の臣民が聞いたら、支持率がいささか低下するかも知れない。
 そして、同時に彼女はひとつの確信を抱いた。エドガーが女性に対して折れるのを嫌がるなど、普通ならありえない。
 相手を尊重するだけではなく、自分が認められたいという我儘。人の心は美しいものばかりではできていない。内外ともに紳士であろうとするエドガーが、そうできない相手。それはある意味で特別な存在だ。
「別に私、エドガーだけに譲れとは言ってないわ。どちらにどう責任があるかの話は難しいけど、もし謝るとしたら両方じゃないかしら。ただ、少なくとも」
 眼を細めてセリスは言った。押しの強い笑みであるのは自覚している。
「歩み寄りのきっかけを先に作ってあげるのは、あの子の2倍は生きている、年長者の役目だと思うんだけど?」
 あらぬ方を見ていたエドガーは、手の中にある冠にじっと視線を落とした。
 観念したのか、肩を落として長く長く息を漏らす。
「……了解した。ありがたく、使わせてもらう」
 金色の冠を軽く掲げてみせ、彼は最後の矜持でか、気障な角度で笑った。

 夜風に乱された髪を撫でつけ、襟元を整えてエドガーは居住まいを正す。
 端整な横顔に緊張が滲んでいるのを、セリスは微笑ましい思いで見た。
「……受けとってもらえなかったら、どうすればいいんだろうな」
「大丈夫、必ず受けとってもらえるわ。演劇の神さまがついてるから」
 少し意外そうな視線を向けてきたエドガーに、セリスはつい咳払いをした。確かに夢見がちな表現だが、実際にある話なのだから仕方ない。
「……私が子供のころ読んだ異国の神話に、演劇の神さまの出てくる物語があったのよ。怪物を斃しにやってきた男にある王女が恋をして、怪物の棲む迷宮から無事に帰ってくる方法を教えてあげたの。入り口に糸を結びつけて入っていけば、帰りはそれをつたって出られますよってね。でもつれない男は、一緒に祖国に連れて帰るという約束を破って王女を置いてけぼりにしたわ。演劇の神さまは、傷心の彼女を慰めるために、美しい冠を贈ったの……」
 つれない男に、置いてけぼりに。
 セリスの脳裏を、痩身黒衣の暗殺者が一瞬の残像を走らせて消えた。
 きっとエドガーも同じ人物を連想しただろう。彼はリルムの想い人ではないけれど、そこにあった何かの糸が断ち切られたことは違いない。
「……あれだけの舞台をつくりあげた貴方たちだもの。演劇の神さまが味方してくれないはずないわ」
 エドガーは頷いた。色々ありがとうと眼だけで感謝を伝え、リルムのほうに向き直る。
 そして決意の一歩を踏み出す。

 距離を縮めていく2つの人影が1つになる前に、セリスは踵を返した。
 振り向くことはせず、石造りの殿堂の中へと戻る。最後まで見届ける必要はなかった。彼女は物語の結末を知っていた。王女は冠を受けとり、やがて彼と結ばれる。

 神というものがいても、いなくても。
 物語がそうであるなら、人もそうであるはずだと、彼女は知っていたのだった。



Fin.








個人的に楽しかった演劇界描写。
作中のオペラは『ヴォツェック』という実在の演目から、1シーンのみをだいぶアレンジして引用しました。

2012/07/06