いつも通りの訓練報告をしたあと、退出しようとして呼び止められた。
「ミリア」
 振り向いて声の主を見つめる。彼女の上司、死を為す組織を束ねる男は、いつも通りの姿勢で部屋の中央に据えられたデスクに座っている。
 背後の大窓から差しこむ黄昏の逆光のせいで、顔がはっきり見えないのもいつも通りだ。
「なに」
 聞き返したが、いつまでも返事がない。
 ここからでは黒い輪郭としか窺えぬ人物は、もの言わぬ影のようにじっと動かない。訝かしんで眉を寄せたとき、やっと少し掠れた低音が耳に届いた。
「あとで私の部屋に来るように」
 ミリアは何の用かと尋ねようとしたが、それより早く相手が続けた。
「嫌なら、来なくてもいい」
 口調は平坦だったが、逆にいえば平坦すぎた。
 それだけ告げるとザトーは、椅子をくるりと回転させて窓のほうを向いてしまった。



 ……そんな言い方をするから、解ってしまった。
 ……普通の用で気負いなく私室に呼ぶことなら、今までにもあったのに。
 ……解ってしまった。

 ……解っているくせに、行く私は、同罪なのだろうか。



 両目を眼帯で覆った男が、何不自由なくグラスに淡紅色のワインを注ぐ。奇妙なはずのその光景を彼女はぼんやりと眺めていた。
 薦められて、少し飲んだ。味がよく解らないのは、飲み慣れていないからだとミリアは決め付けた。出自のせいか彼女はあまり酔えない性質だった。
「私は……来なくてもいいと言った」
 背の低いソファに掛けたミリアの背後に立ち、指先だけでゆるやかに金糸をなぞりながらザトーが呟く。
「だが、おまえは来た。……そうだな」
 その言い方は卑怯だ、と思った。
 暴君でこそないものの、ザトーは常に師父として、支配者として、自分を指導する立場にいたのだ。こういう時だけ自己責任を追求されるのは割に合わない。
「そうね」
 自分の声が不機嫌そうに聞こえなかったか、少しだけ気にかかった。
 どうしてこうなったのか、ミリアは考えようとして止めた。私は来た、この部屋に満ちている事実はそれだけだ。確たる動機もなければ悩むほどの逡巡もない。別に望んではいないけど拒むほど拘ってもいない。
 ただなんとなく足が向くに任せた。少なくとも彼女は、そう思いたかった。
「……いや、どちらにしろ」
 自分を抱くために背後から回された腕の熱さを感じて、ミリアは瞳を伏せた。
「……おまえの意思は、関係ない」
 ますます卑怯だと思った。
 そういう態度を取りたいのなら、部屋に入った瞬間に押し倒していればいいのだ。

 しかし、それきりザトーは何も言わなかった。
 ことさらゆっくりと慣れたように動く手の、指先だけがわずかに震えたのを感じとって、ミリアは気が済んだ。
 自分のものではない体温は、嫌なものではなかった。
 ささやくような吐息の振動も、悪くはなかった。
 慎重すぎるほどの触れかたは、少し気に入った。

 痛みを伴って躍動する熱を、ミリアは声を殺して受け止めた。
 ただ彼女は、ひとつのことだけは忘れなかった。



 その後もときどき、「嫌ならいい」という枕詞を忘れずにザトーはミリアを私室に呼んだ。
 自分たちの噂が、狭い組織の中でどんな尾ひれを付けて泳ぎまわっているか。多少は気になったが基本的にはどうでもよかった。失うものは何もないし、ザトーが悪く言われる分には胸がすくというものだ。
 だが表立って問題にならないところを見ると、この手のプライベートは見過ごすのが礼儀とされているらしい。合意のうえの関係ならミリアを組織に留める理由になるし、合意でないとしても生意気な部下を屈服させるための手段だとでも判断されているのだろう。どちらにせよ組織に損はない。ミリアは反吐の出る思いだった。
 公然の秘密というわけだが、ザトーはいつまでも神経質に人目につくのを避けたがった。
 それはプライドの問題だと、彼女はずっと思っていた。
「誰にも見られなかったか」
 後ろ手にドアを閉める金髪の少女にザトーが静かに尋ねる。
「多分」
「それならいい」
 ベッドに腰掛けて靴を脱ごうとするミリアの手を、骨ばった大きな手が止めた。
 彼女の前に膝をつき、恭しく足首を持ち上げる。
「……ちょっと」
 長い指が、丁寧に靴の紐を解きはじめる。白い華奢な足首が次第にあらわれてゆく。ミリアは口元をきゅっと引き結んで顔を背ける。
 ザトーは喉の奥で低く笑い、ベッドサイドの灯りを消した。
「男という生き物は仕様がないものだ」
 裸足の指をくすぐるように愛撫しながら、低くささやく。
「ここに来るおまえを見かけて、いらぬ妄想を抱く輩が現れないとも限らない」
「……そんなの、隠しても仕方がないでしょう」
 冷静さを取り繕った声でミリアは答えた。
「どうせ皆、知ってるわ」
「……頭で知っているのと」
 ザトーが足の甲に口づけた。
 その唇は少しづつ、上へと這いのぼっていく。脚に点々と残されていく愛撫の残滓が、あえかな温さで肌に留まる。
「今から抱かれる女を、実際に目の当たりにするのとは、違う」

 胸を支配する穏やかな痛みを、ミリアは自覚した。
 ただ彼女は、ひとつのことだけは忘れなかった。



 来いと言ったくせに、ザトーが部屋に居ないときも稀にあった。
 そんなときはいつも少し遅れてやってくる。人気のない廊下で、所在無げに待っているミリアを見てひっそりと薄く笑う。
 どこか疲れているようにも、何かに耐えているようにも見えた。
 灯りを落とした部屋の広いベッドに、無造作に身を投げ出す彼女を、上から覆いかぶさるように抱きしめる。
 そしてそのまま何もしない。
「……どうしたの」
 聞いてもザトーは答えない。反応があるとしても、ミリアの髪や耳朶や額にかすかに口づけるだけだ。
 そんな夜はどちらも動かない。合わせた肌からお互いに、鼓動に乗せてゆるやかに伝わりあう体温を感じる。巣穴で嵐をやりすごす2匹の獣のように、闇の中で、ただ身を寄せあってじっとしている。
 眠ってしまった無意識を装い、ミリアは指先に触れるザトーの指を軽く握る。
 折り重なったまま、やがて本当に眠ってしまう。
 そんな夜も何度かあった。

 全身に男の気怠い重さを感じると、ミリアはよく眠れる気がしていた。
 ただ彼女は、ひとつのことだけは忘れなかった。



 しんとした夜気のなかで、ミリアはふと眼を覚ました。
 同衾している男に背後から抱きこまれたまま頭を上げる。
 時計の針は真夜中を指しているのに、部屋の中がしっとりと明るい。寝台のシーツが夜目にも仄かに浮きぼりになっている。光源を探して視線を彷徨わせる。
「………」
 しばらく、言葉を失った。
 少し開いたカーテンの隙間から、美しい大きな真円の月が真っ直ぐ自分を見下ろしている。
 畏敬すら覚えさせる明月。湛えられた色はそこだけ切りぬいたような純白だ。銀を帯びた光は闇に濾過され、地表に届くころには透きとおった藍色になる。
 部屋中が、その色に満たされていた。
 藍色に閉じ込められそうな錯覚に陥り、ミリアは小さく頭を振る。動きに合わせて、裸の肩に絡みついていた男の長い髪が肌をすべって流れ落ちていく。振り向けば、ザトーはまだ眠りに沈みこんでいた。
 整った顔立ちの瞼は、覚醒時と同じく閉ざされている。寝息は安らかで低い。
 薄明の中に沈みこみ、ある種の満足を漂わせて、ミリアが起きていることには気づかない。
 無防備すぎるその様子が、ふと腹立たしくなった。

 ミリアは、目の前にある相手の首にそろそろと手を伸ばした。
 眠りを妨げないよう、実際には触れない位置で指だけをゆるく曲げる。
 まるで首を絞めているような構図になったのを見て、満足げににやりと微笑む。ささやかな意趣返しだ。

 ……血と呼吸とが循環している、男の喉。

 ……もし、力を込めれば?
 ……このまま本当に引っ掴んで、一気に両手に力を込めれば?

 いや、それは無理だ。
 真の殺気を纏った時点ですぐ気取られ、たやすく撥ね退けられてしまうだろう。力の差は否めない。溜息をついてミリアは手を引く。
 くだらない遊びのせいで肩が冷えてしまった。男を起こさぬよう最小の動きで、そっと腕に納まりなおして身体を暖める。ぬくもりが肌身に浸透してゆき、外気にこわばっていた身体の芯がゆるゆると緩む。
 引きずられて意識も蕩け、心地よさにうとうと眼が閉じかけた。



 夢に霞む意識の中で、いつのまにか彼女は――
 幸福というものについて考えている自分に気がついた。



 ミリアは大きく眼を開いた。
 きっぱりと眼を見開いて、ミリアはザトーを見た。
 自分を軽く抱いている、見慣れた腕を見た。
 彼女は、ひとつのことだけは忘れなかった。



「これは人を殺した手」



 これは人を殺した手。
 これは人を殺した手。
 聞き取れないほど小さく声に出して、ミリアは呟いた。
 馴染みはじめた肌の温度を意識しながら、それでも呟いた。
 絶え間なく続くことばの一片一片は、己の決意を繋ぎとめるための鎖の輪だった。

 ともすれば月光に溺れてしまいそうになる部屋で、彼女は自分に呪いをかけつづけた。



Fin.










あるいは忘れずにいることが思慕だったのだろうか。

2003/05/20