復讐だと思ってはいけない。
 だからといって、同情ではない。もちろん篭絡でもない。
 慈悲でも、依存でも、迎合でも困惑でも憎悪でも諦観でもない。

 それに名前をつけてはいけない。



 ポットの中にさらさらと茶葉を落とす。ブロークンリーフは濃く出やすいから、量は心もち少なめに。
 来客用のカップとソーサーをわざわざ出すのも億劫で、普段用のマグカップを2つ並べる。昔はよく、他人行儀な関係性を強調したいがためだけに、お高いカップを並べてやったものだけど。無言の嫌味を演出するのもそろそろ面倒くさい。
 こんなことじゃいけないな、ともエアリスは思う。慣れ合うようなそぶりは見せたくない。でも、茶など出しても出さなくてもどうせ彼はまたやって来るのだ。最低でも月2回、律儀にきちんと。自分と母の生活を保障する誓約書、社長の勅令状、そのほか無駄な書類をずらりと携えて。

 トレイを持ってリビングに戻れば、先ほど椅子を勧めてあげたはずなのにツォンは座っていなかった。入ってきたときの姿勢のまま、後ろ手を組んでじっと佇んでいる。
 もっともこれはいつもの展開だ。エアリスは知らん顔でひとりテーブルに着き、のんびりと茶を啜る。頼みに来るのは向こうの勝手、座らないのも向こうの勝手。
「……いい加減に予定調和の感があるが、言わせてもらう」
 抑揚なくツォンが口を開いた。エアリスはちらりと視線を送り、この人はいつ見ても姿勢がいいなあとあさってな事を考える。
 いつもいつでもぴんと糸を張ったように垂直。きっと肩がこるよね。
「戦争は終わったが、人々の生活はなお不均衡で不公平だ。神羅はそれを憂いている。君が導く約束の地、それこそが人類最後の――」
「何度同じこと言えばいいの。勝手に期待されても困るって」
 無感動な要求に無感動な拒絶。いつも通りだ、お互いに芸がない。
「解らないことは教えられない。できないことはしてあげられない。私、難しいこと言ってない」
「……君が、本当に、かの地の場所を思い出せないだけなら」
 ツォンは気圧されず言葉を続ける。
「われわれは君の記憶を復元するための努力を惜しまない。研究成果を随時公開し、必要ならば世界中の遺跡を訪れてもらう手配もする」
 男の顔が上げられた。黒い瞳は正面からエアリスを射て彼女に渋面を作らせた。
「問題は、なぜ君がそれすらも拒むのかということだ」
 エアリスは無愛想についと横を向いた。わざと関係のないことばかり考える。お母さんは……ええと、今日は商店街の寄り合いで遅くなるんだっけ。見慣れたリビングには、やんわり陽の光が射してる。スラムはいつも薄暗いけど、太陽が地平線にある夜明けと夕暮れにはほんの少しだけ明るくなる。
 そろそろカーテンを閉めたいな。でも、窓のそばまで行くにはツォンが邪魔。テーブルと窓の間に立ってるから、どいてもらわないと通れない。むしろツォンがカーテンを閉めてくれればいいのに。長い付き合いなのに気が利かないよね。
 そのとき、エアリスはふとあることを思いついた。
 馬鹿馬鹿しい茶番、ささやかな遊び心。今日のところはこれで時間を潰して追い払ってやろう。そう思った。
「……あなたとの付き合い、もう10年近くになるけど」
 勿体ぶって、遠い眼をして語りはじめる。
「いつ話しても平行線だよね。このへんでそろそろ、歩み寄ってみるのはどう?」
「どういう意味だ?」
「立場を逆転して、相手の気持ちになって話し合えば、いろんなことが解決するかも」
 エアリスはにっこり微笑む。悪戯っぽい、などと表現するにはその笑顔はどこか底意地が悪く、ツォンは反射的に警戒心を覚えてしまう。
 少女の手がつと上がり、スーツの胸をまっすぐ指さした。
「要するに今からあなたは、古代種セトラの生き残りである青年、ツォン君」
 という設定ねと言い添え、反転した白い指先はつぎに自分の胸を指す。
「そしてわたしは今からタークスの女主任、エアリス・ゲインズブール」
「…………」
 馬鹿馬鹿しい茶番だった。子供の遊びの延長にすぎない。
 だが存外、無意味な実験ではないかもしれない、ともツォンは考える。
 自分がエアリスと初めて接触して以来、どれほどの歳月が経っただろう。これだけの時間を重ねてなお、『古代種についての案件』は一歩の進展も見せていない。社は穏健策を取りたがっているし、ツォンとしても何年でも待つ覚悟はある。だが結果を出せないでいる心苦しさもやはり小さくはなかった。
 状況をいったん整頓し、相互理解に努めてみるのはおそらく悪くない。いずれにせよエアリスの機嫌を取ることは自分の任務のひとつだ。
「……私がもし、君の立場だったら」
 それでもやはり、苦笑を浮かべながらでないと提案には乗りきれなかったが。
「タークスの女主任のことはこう呼んだだろうな。ゲインズブール、と」
「それでいいのよ、ツォン君」
 エアリスはすまして答えた。

 こういうことは形から入るのも大切。ツォンから奪いとった背広を羽織り、首にはネクタイをひっかけてエアリスが言う。
 言われてみればその格好は確かに、彼女がもし神羅の女性社員だったらという仮定を補強してくれるものだった。一課の主任というよりはせいぜい、辺境から出てきたばかりの、カードキーの使い方から教えなければならない青二才といった風情だが。
 エアリスが洗面台まで鏡を見に行き、自分の格好を見てきゃあきゃあ笑い声をあげるのを聞きながらツォンは首筋をさする。妙に涼しい襟元が落ち着かない。この家にはもう数えきれないほど訪れているが、上着を脱ぎ、あまつさえタイまで取ったのは初めてだ。
 相手の立場になるからには、ここを自分の家だと思わなければならない。土をいじり、花を売って生計を立てるのはどんな毎日だ? 自分が知っているのは硬質の手触り、酸味のきついコーヒーと電子機器のかすかな唸り声。彼女の住む世界とはほど遠い。
 長年監視してきたエアリスの暮らしぶりから、追体験を試みるしかなかった。ただ、自分がワゴンを押して花を売る姿だけはあまりにもお笑い草だ。育てた花はきっと花屋に卸しているのだと脳内で結論づける。それなら無理も感じない。
 ツォンはひとつ溜息をつき、椅子を引いて深く腰かけた。カバー越しの背もたれの感触を昔なじみのものだと錯覚するよう努力しながら。
「どうして」
 振り向けば、かりそめのスーツ姿のエアリスが笑いを押し殺した表情で立っている。後ろ手を組んでいるのは自分の真似をしたつもりらしい。
「どうしてあなたは、神羅に協力してくれないの? ツォン君」
 大人びた作り声で言う。ツォンはテーブルの上のカップを手に取り、ゆっくりと香気を味わいながら茶を啜った。彼女がいつもそうするように。
「信用できないからだ」
「どこが?」
「どこが……そうだな、ひとことで言うなら怪しすぎる」
 堪え切れず、俯いてくつくつ笑い出すエアリスを尻目に、ツォンは涼しい顔で答えた。
「たかが一企業が、世界のためなどと大義を掲げること自体が思い上がりだ。経済体としての本分を超えている。ミッドガルでは既に、治安維持の名のもと堂々と行政にも介入しているな」
 口調に淀みはなかった。そこを擁護する気はもとよりない。
「やりかたが専制的すぎる。社長が私設軍隊もどきを抱えているのも尋常ではない。このうえ、何の関係もない個人を拘束し、相手を『実験体』呼ばわりするような社内機関に預けようと言うのだ。応じる気になれないのが当然だろう?」
「……でも、こっちにだって、巨大企業なりの責任みたいなのがあるもの」
 慎重に考えを巡らせつつ、エアリスが言った。お互いの思惑は知りつくしているのだ。今まで意識しなかった、したくなかっただけで。
「今の神羅のありかたは、みんながそれぞれ幸せになろうとしただけの結果。確かに、目的に向かって突き進むうちにとんでもないとこまで来ちゃったけどね。謝るのは簡単、後悔は気持ちいい。でもそれ、何の解決にもならない」
 彼女は語り続ける。こちらも声に躊躇いはない。
「もし神羅が解体されて、独占してた権利も元通りにしたとして、それでどうなるの? 困る人のほうが多いよね。神羅がいちばんうまくやれてたのに。魔晄を使わないと決めて、供給しなくなって、それでどうなるの? みんな路頭に迷うだけだよね。生きていくだけで精一杯。たとえば家族のだれかがお誕生日でも、あなたのお花を買って帰る余裕さえない」
 なるほど、よく心得ている。ツォンはこっそり感心した。
 これは長年、彼がエアリスを説得するときに言外に匂わせてきた論でもある。
「神羅だけが世界を統括できた。神羅だけが、人々に、不安のない夜を約束できた。この、決して優しくはない星の上で」
 エアリスは言葉を切り、首を回して窓の外を見た。ツォンもつられて同じ方向を見た。
 スラムでは太陽は見えないが、夜明けと夕暮れどきには少しだけ明るくなる。強くはないが真横から射す光を眩しく思い、ツォンはカーテンを閉めに行こうかと考える。
 だが、すぐ彼女に向きなおる。今はそれどころではなかった。
「……思い上がりと言われても、神羅にしかできないことだから。みんなが幸せになる可能性、それに賭けるのも、神羅にしかできないことだから」
 窓外の明色を眺めつつ、エアリスは呟くように言葉を終えた。この歳になれば理解できない事実ではなかった。
「……それを知ったところで」
 ツォンが口を開く。ここまで言われた以上、同じ重さのものを返さねばならない。世界にただひとり残された古き種族、その存在が味わってきた過去を。
「私の、父と母は還るのか」
 少女の瞳がまっすぐに相手を映した。男は正面から受け止めた。
「雪深い山村で、ただ静かに暮らしていただけの、彼らのささやかな幸福は還るのか」
 エアリスは初めて逡巡し、困って顔を伏せた。
 神羅が彼女に対して強行手段を採れない最大の理由。そしてツォン自身の中でも、彼女に対する最大の負い目。
「絶対多数の幸福のために、父は存在を否定され、母は権利を否定された。……“おまえひとりの我儘のせいで全員が不幸になる”という脅しが、私に通用すると思うか」
 発した単語が一つづつ、他でもない己の胸に突き刺さる。それでもツォンは最後まで言い終えた。痛烈な皮肉がそのまま自分への弾劾になるとしても、今これを言わないのは卑怯だった。
 長い沈黙が場を支配する。うつろうものは傾いていく陽の光だけだ。
「……だからこそ、わたしがいるとは……思ってもらえないかな?」
 エアリスが、やっと弱々しく笑ってみせる。
「その過ちを繰りかえさないために。神羅とあなた、それぞれの立場を尊重しながら、良好な関係を築いてゆくための仲介役として、ね」
「仲介ね。科学部門総括に提言が許されるほど、タークスの主任は偉かったか?」
「じゃあ、こう取ってもらえないかな。罪滅ぼし」
「罪滅ぼし?」
「神羅のせいで不幸になった人がいるのなら、神羅がその人に、手厚い保護と保障……」
「待て」
 ツォンは低く相手を制する。それこそあまりにも反論がたやすい。
「援助を求めているわけでもない相手を捕まえ、『保護』と称して隔離し、しかも目的のために協力させることを贖罪とは呼ばない。……それ以前に、タークスの主任とやらはそんな生ぬるいことを考える生き物か、ゲインズブール?」
 エアリスは押し黙った。ツォンはツォンで思わず自虐的に苦笑する。お互いに手の内を明かしすぎだ。今後の彼女とのやりとりは、一層厄介なものになるに違いない。
「……小憎らしいなあ、ツォン君は」
 エアリスが道化たように恨めしい声をあげた。本来、その台詞を投げつけてタークスを黙らせるのは自分の役割だと思い出したらしい。
「ああ言えばこう言う。管理職のわたし、どうすればいいの」
「こちらは自営業だ。サラリーマンの苦労など知ったことではない」
「ほんと小憎らしい。飴玉をあげたら大人しくなった、かわいいツォン君はもういないのかな」
「…………懐かしいことを言うな。あれは私が9歳のときだったか」
 よく覚えていたな、という言葉を危うく飲みこんでツォンが返す。
 それはつまり逆転させれば、かつてのツォンとエアリスの情景だった。



 しらない、きらい、あっちにいってと逃げまわる少女。
 やっとスーツ姿が板についてきた風情の若い男。
 追うのは簡単だった。確かにこの古い教会は、彼女にとって自分の庭のようなものだし、小柄な身体はさまざまな隙間に潜りこむことができる。しかし、彼は特殊工作隊の一員だ。ろくに気配も消せない子供ひとり探し出せないようでは話にならない。
 埃の積もった祭壇の後ろ、崩れかけた石像の影。見つかるたび少女は小さく息を飲み、慌ててまた次の隠れ家へと駆け出す。男は溜息をつきながら歩いて後を追う。
 走りまわってさすがに疲れたらしく、やがて小さい背中はつんのめるように床に座りこむ。
 はあはあと呼吸を乱す後ろ姿を不憫に思い、男は離れた場所に立ち止まる。あまり近づくと、懲りずにまた逃げ出そうとするだろう。彼としても途方に暮れていた。自分の任務はこんな不毛な鬼ごっこを続けることではない。
 やがて彼は思い出す。ポケットに、社の受付でもらった安物の飴玉があることを。
 手のひらの上に載せて、少女に手招きをする。笑顔を作れるほど器用ではない。それでも面白いように、幼い視線はぴたりと菓子に吸いつく。
 今でこそ物流ルートが発達し、スラムでも大抵の品物は手に入れることができる。だが、あの当時の伍番街はまだまだ発展途上にあった。本物の貧民窟とはいわぬまでも、特に必要とされない贅沢品の類いは十分に供給されていなかった。
 つまり、ことさら貧しい家の子でなくても甘いものは珍しかった。

 からころと音がする。小さな口が、ちっぽけな甘味を堪能する音だ。
 それが聞こえるくらいの距離に接近することはどうやら許されたらしい。エアリスがちょこんと座っている教会の階段に、自分も腰かけてツォンが思う。
 だが、これからどうしろと?
 挨拶しただけで逃げだすような相手と、何の取引が出来るというのか。いかに世界の秘密を握る存在だとしても只の子供だ。懐柔から始めるのが常套手段だろうが、どうすれば子供に気に入られるかなど知るわけがない。そんなことは教わっていない。
 考えに考えぬいて、やっと思いついた台詞は我ながら間が抜けていた。
「…………何味だ?」
「教えない」
 しかも、間髪入れずに返ってきた答えは冷酷だった。

 ツォンは天を仰いだ。
 一刻も早くオフィスへ帰りたい、それが正直な気持ちだった。



「……もので釣ってみるか、あの時のように」
 天を仰いでツォンが言う。いま見えるものは教会の屋根ではなく、居間の古びた天井だ。ただし見慣れたものであることに変わりはない。自宅のマンション、神羅のオフィス、その次くらいに見慣れてしまった、この家とあの教会。
「ものじゃ靡いてくれない人がなに言ってるの」
 エアリスが口を尖らせた。だが、何か思いついたのか身を乗り出してくる。
「じゃあ逆に訊くけど、なに持ってきたら神羅に協力してくれる?」
「そうだな、辞表でも持ってきたらどうだ」
「そんなの勝手に辞めろって言うだけでしょ。サラリーマンの苦労なんて知らないって言ったのは誰。それに」
 胸を張って、きっぱりと断言する。
「わたしはぜったい神羅を辞めません。だから冗談でもそんなこと、しない」
 自信に溢れた物言いに、ツォンは眉を動かす。これも自分の真似をしたつもりか。
 だが言われてみれば確かに、その類の手段に訴えたことは一度もなかった。自己犠牲とひきかえに要求を通す行為が幼稚だとしか思えないのがひとつ。実際問題、こんな方法で彼女に圧力をかけられるわけがないというのがひとつ。そして――
「……そこまで社に帰属したがる精神が解らない。何かのコンプレックスでもあるのか」
 図らずも自分自身に向けた問いかけになった。断言したものの深く考えていなかったらしいエアリスは、きょとんとして首を傾げる。
「わたしが神羅にいたい理由? ……神羅がいちばんつよいから、かな?」
 あまりといえばあまりの子供じみた動機に、ツォンは怪訝な表情を作った。言った当人は自分の意見を再確認するように視線をさまよわせる。
「だってこの星で、神羅の力の及ばない地域なんてほとんどないし。……ね、神羅があなたを自由にさせておくのは、なんでだと思う?」
 彼女がこちらに向きなおる。なだらかな輪郭に漂うあえかな翳りをツォンは見た。
 窓から射しこむ光がいよいよ薄くなっているのだ。陽が落ちつつあるらしい。
「お花を育てて、街を気ままに歩いて。けっこう自由に暮らしてるよね、貴重な古代種さんなのに。何も制限されてないし、何も阻害されてない。本当はこんなのおかしいよね。社の命運をかけるほどの貴重な相手なら、普通はがっちり束縛しなきゃならないのに」
 ツォンは返事をしなかった。答えは明快だ、わざわざ口に出すまでもない。
「なぜかといえばこの星で、神羅の目の届かない場所なんかないから。逃げても隠れてもいっこうに構わないから。逃げることや隠れることが、物理的にできっこないから」
 まるで他人事のように話す。今の彼女はタークスの主任だから、確かに他人事か。
 いや、やはりそれは他人事ではないのではないか。
 軽い錯覚をおぼえてツォンは頭を振った。彼女が自分で、自分が彼女。いったいどちらが何なのだろう? 境界が溶けてゆく。
「大抵の街に支社がある。あちこちへ強い影響力を持ってる。優秀な社員もいっぱい。世界中どこへでも監視の目を送りこめる。それだけの力がある。あなたがいつ、どこで、なにをしていても、わたしたちはそれを把握している。……してみせる」
 彼女の口調に、日頃の柔らかさや穏やかさがないことにツォンは気づいた。生臭いようなひたむきさと頑迷さ。それも私の真似か、エアリス?
「そんな芸当が可能なのは……世界でも、神羅だけ」
 こつ、とサンダルが鳴る。ツォンは密かに息を詰めた。エアリスがこちらに歩いてくる。
 薄闇の満ちゆく部屋の中、もう子供ではない女が私に近づこうとしている。
「なんでも自由にすればいい。でもあなたは神羅のもの。今までも、これからも」
 エアリスが椅子の前に立つ。大きな瞳の奥に、ネクタイを取った男の姿が映りこむ。それは視線で訴えかける。もうやめろ、遊びは終わりだ。本来の役割に戻れ。
「……だからわたしは、」
 白い腕が伸ばされる。
 指先が黒髪に触れるか触れないかのところで、ツォンはきつく唇を噛む。
「…………神羅であり続ける」

 いい加減にしろ。
 私は、おまえは、いや私は、そんなことを考えていない。

 黙らせなくてはいけない。口を塞がなければならない。自分はそんなことを考えていないから、そんなことを言わせてはいけない。
 立ち上がった。白い腕を掴んで引き寄せた。
 そのまま、抱きしめることもできた。





 どすん、という小さな振動に、エアリスの家の屋根でまどろんでいた雀は瞼をあけて迷惑そうに羽毛を震わせた。
 しばらく耳をそばだてる。それきり何の音も聞こえない。
 彼は安心して、ふたたび巣の中で安寧な眠りに落ちていった。





「なに、今の」
 ぺたりと尻餅をついて、床に座りこんだエアリスが言う。そんなに強い衝撃ではなかったから別にどこも痛くはないけれど。
「すまん」
 腕を掴んで引き寄せておきながら、その一瞬あとに相手を突き離した男は短く詫びた。視線を合わせようとはせず、床の一点に視線をおとして言う。
「釘の頭が出ている。底の薄い靴で踏んでは危ない」
 凄まじいまでの仏頂面。
「ふうん」
 ありありと何かを滲ませた相槌の声。

 助け起こそうとする手を払いのけて、エアリスは自分で立ち上がった。
 大きすぎる上着を乱暴に脱ぐ。くしゃくしゃのまま相手の顔めがけて投げつける。
「つまるところ、」
 背広を受け止めたはいいが、続いてぴしゃりとネクタイが顔に叩きつけられる。ツォンは一瞬、声を詰まらせてから続けた。
「……相手の気持ちとやらを、理解できたところで、何も変わらないようだ」
「そうみたいね」
 エアリスは不機嫌だった。何かがとても恥ずかしく、腹立たしく、哀しかった。やりきれない感情に任せて邪険に言葉を付けくわえる。
「ね、お母さん、そろそろ帰ってくるんだけど」
 商店街の寄り合いが終わる時刻は、本当はもう少し遅い。でも今日は、ツォンに早く出ていって欲しかった。あなたの顔なんか見たくない、そう考える自分でありたかった。
 何を言いつのることもなく、男は静かに背を向ける。その素直さがまた癪にさわる。ただ、まあ、それでもいいやと彼女は自分を宥めた。自分には切り札があることをエアリスは知っていた。この鬱憤を晴らしてくれるものが、いつも最後には用意されている。
 どんなつまらない意地の張り合いをしても、最後に勝つのは自分だと証明してくれるもの。
 私がつれなく、ぴしゃりとドアを閉めた向こうで彼がいつも言う言葉。
 いつものあの言葉。

 広い背中が戸口をくぐるが早いか、余韻もないまますぐにドアを閉めてかんぬきを下ろす。ツォンをこの家から追い出すときのお決まりの流れだ。
 しかし、そうしておきながらエアリスは、閉じたドアにひたりと身を寄せた。
 固い木肌に耳を押しあてた。じっと向こう側の音を聞いた。

「また来る」

 革靴を履いた足音が去ってゆく。彼女はそれを、瞳を閉じて聞いていた。

 ひとり残されたエアリスは、リビングを見まわした。
 辺りはもうすっかり暗い。部屋の灯りを点けて、カーテンを閉めなきゃ。そしてお母さんが帰ってくる前に急いで夕食の支度を始めなきゃ。
 ふと、テーブルの上のカップに眼が留まった。普段使いのマグカップは2つ、仲良く寄りそって並んでいる。だけど中のお茶はすっかり冷めている。
 なぜか突然、喉の奥が熱くなるのを感じて、彼女は慌てて上を向いた。


 ひとつだけ解っていることがあった。それに、名前をつけてはいけなかった。



Fin.








“knowing me knowing you”
2008/08/13