わたしの師匠が死んだ。 つい数日前から、ベッドから起き上がれず、ものを言わなくなっていた。 それでも何かを呟いたように聞こえて、顔を覗きこんだらもう亡くなっていた。 こんなふうにお別れするには師匠は若すぎて、わたしは哀しかったけれど落ち着いていた。 いつかこんな日が来るような気がしていた。 心のどこかで、この人は長生きしないということを感じとっていた。 長患いしたわけでもないので、遺体の顔はやつれておらず綺麗なままだったけど、なぜか特に髪が綺麗だった。 長い豊かな金髪は、不思議なほどの精気をしばらく保ち、青白い頬をとりまいていた。 でもそれも、時が経つにつれ後を追うように萎びていった。 師匠がわたしを拾ったのは、わたしが特別な子供ではなかったからだと思う。 有り体にいえば、そこにいたから拾われたのだ。 貧民街の片隅で、座して死を待つ子供たちの中で、わたしはいちばん弱っていた。 路地に転がったままついに動けなくなり、道行く人々が自分の胴体につまづいては舌打ちするのを遠く聞いていた。 何人めかの誰かが、わたしにつまづいた。 その誰かは、じっとこちらを見おろして……突然、わたしを上着でくるんで横抱きに抱えあげ、どこかに運びはじめた。 幼いわたしは恐くなかった。恐怖を感じるのにも体力が要る。そんな力は残っていない。 街の郊外の小さな低山のふもとにある、森に抱かれた古い一軒家に連れていかれた。扉をくぐった瞬間に暖かいところだなと思ったが、そこから先はよく覚えていない。 とりあえず次の朝、わたしはベッドの中でまだ生きていた。 「おはよう」 声に振り向くと、綺麗な女の人がいた。 「私の名前はミリア」 女の人はそれだけ言った。他には何も言わなかった。 何の前触れもなく、当然のように、わたしと師匠の生活は始まった。 師匠とは呼んでいたが、なんの師匠かと人に聞かれると少し困った。 女が生きるには物騒な時代だからと、自衛の体術や生存の技を教えてくれた。 そのくせ何かにつけ、野山に色づいた小さな蕾を指さしては、いささか少女趣味な花言葉を教えてくれた。 武器を帯びた暴漢を素手のまま撃退する技も、美味しいロシアンティーの淹れ方も同じように教わった。あの人は何をしたかったのだろう? たぶん、生き方を教えたかっただけだと思う。 「あのとき、師匠がわたしを助けてくれなかったら……」 ほのかな感謝の意をこめたわたしの言葉を、師匠はぴしりと止めた。 「人を救ったつもりはないわ」 二の句をつげないわたしに、今度はやわらかくこう言う。 「……あなたみたいな子を本当に救いたければ、それこそ大統領にでもなって社会から変えなきゃいけない」 話に聞く、師匠の知人のことを思い出して、わたしはくすりと笑った。師匠も微笑んだ。 「私はしたいことをしているの。礼も感謝もよして」 そういう毅然さを持ち合わせた人のくせに、ある意味では極端なほど繊細な人だった。 あるとき組み手をしていて、子供だったわたしは深く考えもせずこう尋ねた。 「相手にとどめは刺さなくていいんですか」 その言葉を聞いたときの師匠の顔は、怒りや悲しみがどうというより、傷つけられた子供のように見えた。 そのまま一言も発せず自室に籠もってしまった。わたしが扉の前でおろおろしていると、師匠は比較的すぐ出てきて、なんでもないわ、ごめんなさいと言った。 「……あなたはまだ白紙なだけ。そこから選べるのは幸福なことなの」 成長してから知ったけれど、師匠の教えてくれた格闘術は、自衛のためだけに使うにしてはあまりに実用に近いものだった。 戦闘における実用は、確実に相手の息の根を止めることに他ならない。 わたしは師匠の過去についていろいろ考え込んだ。もちろん答えは出なかった。 師匠は花を育てて街の店に卸し、それでわずかな日銭を得ていた。 街まで出て小売店と取引を交わすのは、やがてわたしの仕事になった。師匠はあまり騒がしいことが好きではなかった。 温室と花壇は小さいもので、2人で世話をするのにさほど手間はかからなかった。 「花に興味があるわけではないわ」 植え替えの作業をしながら、涼しい顔で師匠は言い切った。 「ただ、花が好きなくせに面倒がって、と言うより失敗を怖がって自分で育てようとしない人がいてね。それで私が試しに挑戦してみたら、別に難しくなかったのよ」 少し勝ち誇ったような口調を珍しく思いながら、わたしは背中ごしに聞いていた。 「……自分がまともに育てられたのは、おまえだけだと言われたわ」 何気ない声だったけど、思わず振り向いた。それはそういう声だった。 でも師匠はそのときにはもう、苗のケースを持って温室を出るところだった。 師匠が花言葉に詳しいのも、仕事柄のものだとわたしは思っていた。豊富な知識が頼もしく、わたしは折につけ様々な種類の花言葉を尋ねては言い当ててもらった。ただ、聞けば必ずというわけではなかった。 「この花のは知らないわ。ごめんなさい」 そんなときの師匠は、だからといって後日調べることはしなかった。 いま以上の知識を増やす気がないように見えた。 自分が知っている言葉だけを、大切にしたがっているように見えた。 師匠は猫が好きで、家の中にも外にもたくさん飼っていた。 いつもの冷静さを蕩けさせて、文字どおり猫かわいがりをする様子は、見ているこちらが微笑ましくなった。 「昔から飼いたいと思ってたのよ」 2匹も3匹もひざに乗せて、ゆっくりと揺り椅子を揺らしながら師匠が言った。 「子供のころは、猫を飼えるような環境じゃなかったから」 師匠は、でも犬は大嫌いだと言っていた。 「大きくて乱暴な生き物は嫌いなの。花壇も荒らされるし」 でも実際には、猫もときどき土を掘り返したりして花壇を荒らす。単に好みの問題だとわたしは思った。 ある朝、わたしが玄関のテラスに出ると、前庭の隅で黒いかたまりが動いた。 真っ黒の大きな犬だった。 手足が長くて本当に大きかったけど、がりがりに痩せて貧相に疲れきっている。毛並みもみすぼらしい。追い払おうかと思ったが、浮き出た肋骨を見たら哀れになった。 ちょっと元気づけるくらいなら構わないだろう。そう思い、平皿にミルクを満たして急いでテラスに戻ると師匠も偶然そこにいた。 気まずくなってしまったが、師匠はわたしの持ってきた皿を見ても何も言わなかった。 舌を鳴らして呼ぶと、蹲っていた犬は身を起こしたが、そこからが遅かった。空気の匂いを嗅いで歩き出すが、妙なことにまっすぐ歩かない。しきりに頭を振りながらあちらこちら意味のない遠回りをする。 植え込みに肩をぶつけたのを見て、やっと何かがおかしいと解った。 「……ああ、あの犬は」 師匠が洩らした声は、なぜか掠れていた。 「……眼が見えないんだわ」 師匠はわたしから皿を取り、テラスを降りて歩み寄った。気配を察知した犬は頭を上げて不機嫌に唸りはじめる。その眼が白濁しているのが、はっきり見えた。 威嚇と警戒をあらわにして、それでも未練ありげにうろつく犬が、やっと師匠の足元に近づきミルクを飲み終わるまで2時間はかかった。 なぜそこまでしてやるのかというわたしの疑問に、師匠は問わず語りに答えた。 「他者を容れぬという覚悟が、見えない彼をこれまで生き延びさせたのよ。臆病なくせに強がって見栄を張るのは、敵が多くて弱みを見せられなかったから。……仕方ないことだわ」 そう言って師匠は、じっと足元の生物を見つめた。 師匠が犬を家に招き入れたときは、猫たちも驚いたけど、わたしはもっと驚いた。 「ごめんなさい。しばらくこっちの部屋には入れないわ」 信じがたいことに師匠は、愛する猫たちの一頭一頭に詫びながらよその部屋へと追いやった。そうしてまで大嫌いな犬を自分の部屋に住まわせた。 師匠がお気に入りの揺り椅子に座っているとき、犬はいつも足元にいた。 影のように這いつくばって、面倒くさそうに呼吸をしていた。 犬は何年か一緒に過ごしたけれど、半年ほど前に病気で死んだ。 時間をかけてやっと、自分の上で仔猫が昼寝するのも許すようになった矢先だった。 「埋めてあげなきゃね」 生前よくそうしてやったように、黒い頭をひざに載せ、耳のうしろを掻いてやりながら師匠は言った。 「猫なら身体も小さいから、裏庭で済むけど……こいつはそうもいかないわ」 そう言いながらいつまでたっても行動を起こそうとはせず、犬の頭を抱いたままだいぶ長く座っており、陽が傾きはじめてからやっと立ち上がった。 「……そうね、あなたも来なさい」 布にくるんだ大型犬を苦労して抱えあげ、ほんのしばらく歩いて見晴らしのいい高台にたどりついた。春には草花の絨毯が期待できそうな南向きの地所だ。 そこには木を組んだだけの、粗末な十字架が立っていた。 となりには白い花房をいっぱい下げた低木が植えてある。明らかに誰かが定期的な手入れをしていた。 「わかる?」 急に言われて戸惑ったが、その低木の名前を尋ねているのだと気がついた。 「……Japanese andromeda……『馬酔木』、でしたっけ」 今は亡い国を原産にする、可憐な姿とはうらはらに強い毒を持つ花だ。 「ご名答」 師匠は適当な場所を指さして、穴を掘るように言った。 掘りながらわたしは、つとめてさりげなく尋ねた。 「……あれは、どなたのお墓ですか」 聞きながら、横目で盗み見た。師匠は無意識に髪の毛をいじっていた。 「……いろいろなものをくれた人」 師匠は溜息をつくように答えた。 そして小さな声で続けた。良いものも良くないものも、とにかくたくさんくれたひと。 わたしの顔を見て、師匠は笑った。 「この人が私にくれたもの、自分自身で学んだもの……私が持っているものは全部、あなたにあげたつもりよ」 やがて掘れた穴に犬を横たえ、土を盛って短い祈りの言葉を捧げた。 わたしが十字架のほうにも指を組んで祈ろうとすると、師匠は私の手を止めた。 「そういうのが相応しい男じゃないわ」 師匠は馬酔木に近づき、慣れた手つきで花ざかりの枝をととのえながら言った。 「殺して、殺して、殺し続けて、最後には殺された人だから」 どう返答していいか解らなかった。 曖昧に視線を彷徨わせ、ついに下を向いたわたしを師匠はじっと見ていた。 そして近づいてきたかと思うと、ふいにぎゅっとわたしを抱きしめた。 幼いころはともかく、成長してからそんなことをされたのは初めてで少し慌てた。 抱きしめられて、優しく頭を撫でられながら、わたしは師匠が泣き出すのではないかと思った。 しかし、やがて身を離した師匠は穏やかなきれいな眼をしていた。 師匠は小さく手を振って、ひとりにしてくれと合図した。 立ち去りかけて、一度だけ振り向いた。師匠は十字架に手をのべ、指先でするすると撫でていた。唇が動き、墓標に話しかけたように見えたがよく解らなかった。 夕闇の中で、彼女の手はあまりにも白かった。 わたしは墓の主についていろいろ考え込んだ。やっぱり答えは出なかった。 ……つらつらと師匠のことを思い出しながら、わたしは遺品の整理を始めた。 ごく稀にこの家に訪れた、師匠の少ない友人たちに連絡をしたかったが、生憎と連絡先のメモが見当たらない。でもわたしは焦らなかった。なんとなくあの人たちはこの死を覚悟してくれている気がした。 整理しているうちに、師匠のベッドサイドの引き出しに白い封筒を見つけた。 さらさら鳴る中身を不思議に思い、手のひらに開けると、やわらかく眩い光がこぼれる。 入っていたのは丁寧に束ねられた金髪の房だった。 師匠のものとはわずかに違う色味。 感傷かも知れないが、懐かしい匂いがした。 しばらく考えたあと、わたしはその房を2つに分けた。 片方の房はそのまま白い封筒に戻し、師匠の棺にいっしょに納める。もう片方の房は、はさみで少しもらった師匠の遺髪と合わせてひとつの束に編みこむ。 光を交錯させて揺れる二種類の金髪の束を、わたしは自分の机に収めた。 わたしは考えた。明日は人を頼もう、ひとりではあの高台まで棺を運べない。 あの十字架のとなりに棺を埋めることを、師匠がどう思うかは解らなかった。 でも、わたしがそう決めたんですと言えば、師匠はいつもの口調で「そう」と言ってくれるのに違いなかった。 ささやかな式の手配をすませたあと、わたしはその夜ベッドの中で、もう一度師匠のことを考えた。 正確には師匠と、その向こうにいつも見えていた人物について考えた。 『私はしたいことをしているの』 今になってその言葉の意味が解った気がした。師匠がわたしにやりたかったことの意味が。 師匠は、その人からもらったものと自分で知ったもの、全部をわたしにくれたと言った。 わたしもいつか、師匠からもらったものを誰かに贈るだろう。 その誰かもまた誰かに贈るだろう。 そうやって師匠とその人は、世界に存在を残してゆく。 溶け合うひとつの流れとなって、別離をたやすく飛び越える。 せつなくなって、寝返りをうった。 わたしが受け取ったもの、わたしの中で息づくもの。その中に二人はいる。 何も知らない。でもこれだけは解った。 こういう形でしかいっしょにいられない人たちなのだ。 喉の奥が熱くつまり、ぐにゃりと視界がぼやけた。 こみあげた嗚咽の声に自分で驚いた。 わけもわからず、わたしは気の済むまで泣いた。 わたしはわたしでしかなく、他の誰でもないけれど、自信をもって断言できる。 わたしの師匠は幸せだった。 そして今も。 Fin. 馬酔木(アセビ)の花言葉は 「あなたと一緒に旅をしましょう」 です。 彼らの旅へのお付き合いありがとうございました。 2003/07/07 |