まつとしきかばいまかへりこむ/


 猫がいなくなった。
 正確に言うならば、猫もいなくなった。老いはもはや覚悟していたので、暖かい静かな寝床を用意してうちで看取ってやるつもりだった。なのに出ていってしまった。死期の近い動物はよく、弱った体の回復を図ろうとして目立たない場所に隠れ、大抵そのまま死んでしまう。しのぶは近所の植え込みや物陰を覗きこんでまわった。だが見つからなかった。
 猫を探している人がいる、と聞きつけた近所の奥さんが、「うちで死んだ猫ではないか」と写真を見せてくれた。しのぶの猫に間違いなかった。聞けば生前からときどき遊びに行っていたらしい。他人の家に上がりこんでいたなんてと恐縮したが、堂々と玄関から入ってくるものですから感心していましたよ、と奥さんは裏のない顔で笑う。なんでもその家の飼い猫と睦まじくしており、可愛らしさについ写真を撮ったという。
「うちの子、雌なんですが、避妊手術をしてたので発情しないはずなんです。なのにそちらの猫ちゃんはよく来てくれて……暖かい日に庭の灯籠のそばで、うちの子とじっと寄りそって、気づいたときにはもう亡くなってました。とても仲良しでした」
 説明の声に涙が混じる。死骸は傷まないうちに庭に埋めたという。勝手な真似をして申し訳ありませんと畏まる相手に、あの子もそれが一番嬉しいでしょう、ありがとうございますとしのぶは頭を下げた。形見として写真を焼き増ししてくれるというので、感謝して別れた。
 猫はみつかった。みつからないのはあの人だけだ。


 今でも待っているかと聞かれたら、もちろんと答えるけれど、それは実際的な意味ではない。川尻しのぶにはそれくらいの冷静さはあった。牛乳屋が歩道を駆け、電話のベルがもの思いを揺さぶり、天気予報が笑顔で余暇の充実を謳う。日常はかくのごとく扉を叩く。
 不在の1日目は、あちこち電話をかけた。2日目は捜し歩いた。3日目に警察に行き、4日目に涙が出てきた。5日目に息子の眼が悲愴な決意を帯びているのに気づいたが、必死で見ないふりをしてまた警察に聞きに行った。それから――それから。
 夫にまつわる情報は、聞きたくもないことばかりだったが、すべてを聞き、確かめ、受け取め、届け出なければならなかった。会社の欠勤は依然続いていること。双方の実家にも連絡がないこと。借金の類いはなく、預金通帳や証書も持ちだされてないこと。財布や身分証が入ったままの鞄が通勤路で発見されたこと。同日、その付近では爆発事故が起きているが、原因は不明であること……混乱と不安で溺れかけているのに、上からどさどさ事実だけが降ってきた。鞄が置き去りなので、故意の家出ではないらしいという推測だけはできた。
 何日経っただろう。泣き疲れることにすら疲れて、しのぶはリビングのソファで眠りこんだ。始終出歩いているため家の中は散らかり、食生活も再び荒れている。やがて息子にそっと起こされた。テーブルの上には熱いお茶が淹れてあった。
「……パパの帰りをぼくも待ってる。でも、いろんなことはしておいたほうがいいと思う」
 向かいのソファで早人がぼそぼそ言う。小さいが芯の通った声だ。馬鹿なこと言わないで、と前までの彼女なら言っただろう。言葉を呑みこめたのは、温かいお茶が、荒れてささくれた心をわずかでも潤してくれたからだ。
「……そうね……」
 まだ認められない。そう思いつつも彼女は息子の助けを借り、努力して手足だけは動かしはじめた。役所に行って相談し、定期預金を解約する。職が見つかるまではこれが当座の生活費だ。この家は引き払い、家賃の安いアパートに移らねば。本当は引っ越しはしたくない。夫がふらりと帰ってくるとしたらこの住所なのだ。でも無い袖は振れない……息子にそう言ったら、「ぼくも節約するから、家を移るのはもうちょっと待とう」と言われた。希望を捨てきれない思いもあり、数か月だけ粘ることにした矢先、SPW財団児童基金から受給資格の通知が届いた。そんな狭き門に息子がと驚いたけれど、そういえば昔から頭のよい子だった。自分のささやかな収入と給付金を合わせた額は、これまでの夫の収入と遜色なかった。
 しのぶは引き続きこの家に住むことにした。いつになるかは解らないが、いつかこの家を買いあげるつもりで貯金も始めた……。


 生活は安定したが、心の底にはまだぼんやり疑問が埋まっている。あのひとがいなくなった。いなくなった?「時間が解決してくれますよ」と役所の民生委員には遠回しに言われた。「諦めがつきますよ」と同義なのだろう。数年が経ち、さすがに落ちつきはした。だけど人ひとりいない家の広さは未だに心を冷たく炙る。あのひとはどこに行ったの? どこかに連れていかれたのだろうか。当人もそこがどこか解っていないのだろうか。安心できず熟睡できず、辛い思いをしているのだろうか。
 しのぶは家の、内側は当然として外側もきれいに整えるよう心がけはじめた。壁の汚れを落とし、垣根を剪定する。庭にはもともと花を植えていたが、もう少しだけ手を入れ、四季ごとに何かしら一種類は花が咲くよう設えた。あのひとがいつ帰ってもきれいなものが出迎えてくれるように。
 1999年の夏のあたしはまるで小娘みたいだった。庭のベンチで咲きそめの朝顔を眺めて、しのぶは自分を顧みる。一生懸命だったのだ、熱に浮かされた言動を後悔はしていない。けれど思い返すと少し眩しい。かつての自分は駄目な意味でも子供だった。相手を理解しないうちから、そして自分を理解しないうちから、優越感にかまけその責任に追われて結婚した。だけどあの夏の夫はなぜか、10年以上ともに暮らした男だとは思えなかった。生まれ変わったように見えた。今までなにを見ていたのだろう! でも、長年ともに暮らした前提で接することができて幸せだった。いくら好きになった相手でも、恋人や配偶者という立場になければ、突然胸に飛びこんで甘えるわけにもいかない。
 あたしは子供だった。でも、ひとつだけ解っていることがある。あのひとを初めて『ロマンチック』だと思った理由。窃盗という犯罪。他人に理解してもらえるかどうか解らないけど、あたしは犯罪そのものをロマンチックだと思ったわけではない。普通なら怯え、下衆な男として軽蔑すべき行為だと解っていた。ただ……鮮やかすぎる手口と悪びれない佇まいに、あたしはあのひとの思考、精神、なんと言うべきか『存在』そのものを見た気がした。生々しいその人らしさを見た気がした。こわいくらい無垢な魂に触れた気がしたのだ。だから好きになった。行動の中身は、悪行でも善行でもどちらでもよかった。
 正当化はしない。気持ちの優先順位がおかしいのも解っている。ただ、あたしは犯罪自体に惹かれたわけではない。あんなふうに触れさせてくれる人は今までいなかったのだ……。


 ところで近年の川尻しのぶには小さな秘密があった。誰にも言わない。言っても信じてもらえない。
 たとえ見てもらおうとして他人に同席を頼んでも、そのとき起きる保証はない。わざと起こそうと思っても起こらないのだ。自然とそんな気分にならなければいけない。
 気持ちのいい朝。年に幾度もないような、心からすてきな気分になれる素晴らしい朝。たいてい夏、気温の上がりきらない8時すぎ。息子が家を出るのを見送ったあと。
 お気に入りのポットとカップでコーヒーを淹れる。もう充分飲んだけど、気持ちのいい朝だから、もう一杯くらい飲んでもいいなと自然に思えた瞬間。
 カップに新しいコーヒーを注ぐ。テーブルに置いて、そっと声をかける。
「お待ちどう様」
 彼女は瞳を閉じる。4分間か5分間だろうか、苦にはならない。ぬるい風に吹かれるような、甘く鳥肌の立つ感覚が身を包む。このままずっと閉じていたい。だけど朝は忙しく、その日やることも控えているから、仕方なく瞳を開ける。
 コーヒーがなくなっている。
 理由はわからない。稀にこんな朝がある。最初のきっかけはひとり遊びだった。祈りだったのかもしれない。だけど眼を開けてカップの中身がないのを見たとき、まったく驚かなかった。安心すら覚えた気がする。
 理由はわからない。実はひどい健忘症で、自分で飲んだのを忘れているのかもしれない。把握できない自然現象が、局地的に起きているのかもしれない。まさかコーヒーの香りが嫌いだったうちの猫が、わざわざ里帰りしてこっそり流しに捨ててるはずはないわね? もっとも望む解答はあるのだが、もしそうじゃあなかったらという不安のあまり、彼女は自分をはぐらかす空想ばかりを試みる。だけど。
「……あなたは、だれなのかしら」
 乾されたカップを見下ろして、常の空気をとりもどしたリビングに声を掛ける。
 陽射しに溶けこむ夏は透明、窓には緑にきらめく木々。杜王町に住んでいてよかったと思えるような朝。家には彼女ひとりだ、誰も聞いてはいない。
「いつかの朝、もう一杯のコーヒーを飲めなかった人なのかしら。それはあたしの待っている人かしら? でも、そうね、なんだっていいの。どんな正体でもいいの。お化けでも怪物でも。こわくてひどいなにかでも。この世にいちゃあいけないってみんなが言うものでも。……あなたがあなたであれば、あたしはそれでよかったの」
 語尾が揺れるのを堪える。誰も聞いてなどいない。だけど家族への挨拶だ、言わなくてはならない。ぱたりとテーブルに滴が落ちる。
「行ってらっしゃい。あたしはここで待ってるわ」
 移ろう町が活気づき、息子の背が去年より伸び、時は戻らず繰り返さない。ただ夏の恋だけが、ここであのひとを待っている。叶わないと知りつつ待っている。起きるのはカップ一杯の奇妙でささやかな事件だけ。それでいい。全然よくはないけれど、それでいい。
 行ってらっしゃい。いつかまたこんな朝に、会えないけれど逢いましょう。


















埴生の宿/


「かわいい婆さんなんだ」
 背広姿、と呼ぶにはいささか前衛的な格好をした男は、灯籠の上に腰かけている。和式のどっしりした石造りの灯籠だ。ここがたとえ寺の境内でなかったとしても行儀が悪く、行儀以前に、かなり危ない。
 だがそれを見ている尼僧は何も言わなかった。彼と同じ存在はさまざまな場所に居るが、いずれ浮世の埒外だ。品行を注意することに意味はない。
「かわいい婆さんなんだよ」
 ボーラーハットのつばを持ち上げて繰り返す。視線はもの思いに似て遠くに向けられ、こちらに相槌は求めない。いつも疲れ、眉間に皺を寄せ、心の平穏を得られず彷徨う男にしては珍しい表情だ。
 この男について尼僧はほとんど情報を持たない。名は『吉良吉影』であること。どこにも行けない半端な身分であること。終わらない時間にせめてもの生きがいを求めて仕事を欲していること――幽霊であること。それ以上のことは聞いても解らない。この男が自分自身について持っている情報もその程度だ。
「……誰がかわいいですって?」
 会話を促したのは義務感からだった。自分の務めは依頼人から寄せられた『仕事』を霊たちに斡旋する役目にすぎない。だが与える任務の適・不適を見定めるため、彼らの内情を把握しておく必要もある。
 返事を予想していなかったのか、男は少し驚いた顔で尼僧を見返した。が、すぐになぜか得意げに微笑む。
「このあいだ仕事で行った、S市の杜王区に、ちょっとかわいい婆さんが住んでたんだよ。白髪だけど髪がきれいで、目元に愛嬌があって、ただどことなく口うるさそうかな?」
 どうでもいいことを歌うように語る。たいそう上機嫌だ。
「晴れた気持ちのいい朝でね。さほど広くないが、趣味のいい花の咲きこぼれるこぢんまりした庭でね。婆さん、膝に仔猫をのせて、庭のベンチで本を読もうとしていた。『鼻をなくしたゾウさん』、あんたこの本知ってるか? 本屋でタイトルを見て気になってたんだ。ちょうど表紙を開けるところだった。これ幸いと、隣に座って盗み読みさせてもらった」
 足を組んで座り直し、本を開く真似をする。若干のわざとらしさはつい独り遊びの多くなる幽霊生活のせいか、それとも珍しく浮かれているからか。
「誰かの本を盗み読みするのは、こんな身分だとしょっちゅうだ。ただで読めるのは助かるが、他人とペースを合わせるのが面倒くさい。早すぎても遅すぎてもストレスが溜まる。満足いくように読みこめたことはついぞなかった――しかし、その婆さんの読むペースは快適だった! ページを捲る速度がオレの希望とぴったり合った。読み返したい部分や余韻に浸りたい部分まで完璧だ。裏表紙を閉じるまでまったくストレスがなかった。本もおもしろかったし、久しぶりにいい時間を過ごせたよ」
 幸福そうに頬杖をつく。幽霊たちには本質的に安住の場がない。生命に触れられるのを神経質に避け、厄介なルールと不便な世界を呪い、あてどなく浮世をうろつく彼らが満足感を得ることは稀だ。
「婆さん、ちょっとかわいかったから、頬に感謝のキスをしてきたよ。こっちから触れるのは問題ないからな。しわのある頬っぺたもいいもんだ。そしたら眼をぱちくりさせて、突然ぽろぽろ泣きはじめた。泡を食ったが、あんたみたいに『見える』人間でもなかったし……偶然か? 辛そうな具合ではなかったけど」
 小首を傾げる男に、尼僧は溜息をついてみせる。
「以前から言っていますが……わたくしが僧籍にあって卑しむべきこの仕事をしているのは、わたくしを頼って依頼を持ちこむ人々のためです。本来ならあなたがた霊たちには、俗にいう成仏、仏教でいう解脱を遂げよという意識しか持ちあわせません。君がどこにも行けず、あの世の存在も信じられず、浮遊しているのは君自身どうしようもないのかもしれない。でもできれば不要な未練を持たず、いくべきところにいけるよう心がけたほうがよいのでは?」
 男は不愉快そうに口の端を曲げた。ただし予感はしていたのだろう、強い口答えはしない。
「解ったよ。つまんない奴だなあんたも」
 灯籠からひょいと降りる。重力作用など働いているわけもない霊魂の身体なのに、体重を感じさせる動きで着地する。生前の認識が魂に沁みついているのだろう。
「OK、仕事の話をしよう。報酬は現金だろうね? 幽霊になっても現金が必要だなんて、生前は思ってなかったけどな」


「おい、飲めたぞ」
 また別の日のことだ。境内に現れるなり男はそう言った。
 参拝路の石畳をかつかつと、聞こえないものには聞こえない足音で踏み、尼僧に大股に歩み寄った。勝手な勢いで話を続ける。
「飲めたぞ、どういうわけだ。どういうルールだ?『品物の幽霊』でもないかぎり不可能なんじゃあないのか? 差し出されたから飲めるっていうならデパートの試食コーナーもありか? そんなわけないよな」
「話の前後が見えないのですが」
 尼僧は静かに返した。勢いを削がれて男は口を噤み、顎に手をあてる。
「ああ……そうだな、順を追って話そう」
 聞いてみれば確かに、少なからず驚きを含む内容だった。いつぞやお邪魔したという、S市杜王区の『花の咲いているこぢんまりした庭』を彼は再訪したらしい。時刻は朝、ちょうど前夜、その付近で仕事を済ませたばかりだった。へとへとに疲れていたが、安心して休める場所を探さなければならない。人が通らず、静かで、落ちつける場所――すべての条件を満たす場所などまずなく、せいぜい公園の樹上あたりで妥協しなければならないが――軽い気持ちでふとあの庭を覗いたという。
「いつベンチに人が座るか解らないから、そこで休むのは難しい。だけどきれいなものを見て心を落ち着けたかった。くちなしが咲いてていい香りだった。あのちょっとかわいい小母さんはどうしてるかな、と思って窓の中を覗いた」
「小母さんですか?」
「……彼女のことはあんたに話したよな?」
「そうですね。続けて」
 窓の中を覗いたら、ちょうどその小母さんがコーヒーをカップに注いでいたという。ああ、いいな、こんな疲れた朝は熱いコーヒーを一杯ほしいな。そう思った瞬間、小母さんが『お待ちどう様』と言った。ふっと張りつめていたものが解け、腕がぬるりと窓を通り抜けた。魂の許可を得た状態になったのだという。
「驚いたよ、だって彼女はオレに気づいてない。感知してない相手への許可が作用するとは……まあそれはいい、一応『招き入れる』というルールは守っている。本当に驚いたのはその後だ。家のリビングに入れたし、せっかくだからと悪戯心でカップを持った。半信半疑で口をつけた。コーヒーを飲めた! 温かかったし味もした、とてもとてもうまかった。横目で窺ったら小母さんは眼を閉じていた。なんの儀式か解らんがね。ただ、飲み終わってカップを置いた瞬間……ばちんと家から弾きだされた。逆回しの力が作用して、入ってきた場所からもとの庭に戻された。こりゃあいったいどういうことだ?」
 尼僧は額に指をあてて考える。幽霊たちは、品物へと物理的に介入することは可能だ。できなければ『仕事』をこなすのは無理だろう。紙をちぎる、ナイフを持つ、いずれも可能だ。
 しかし飲食は少し摂理が違う。例えば幽霊がちぎった紙をその場に捨てても、風に舞って地に落ちるだけだ。なのにコーヒーは飲めたという。ざあざあすり抜けてその場にこぼれたわけではない。コーヒーはどこへ行った? 肉の身でない霊体が、飲食によって対象物を消滅させるとは……何が起きればそうなる?
 ふと眼をやれば、疑問を投げかけてきた当人は、落ちついた態度を取り戻していた。なにごとか得心した笑みを浮かべている。
「思いきって単純に考えれば、別に難しい話でもないかもな」
 石造りの灯籠に背を預けて続ける。
「オレとあの小母さんは波長が合う、それだけのことじゃあないか? 本を読む速度がぴったり合ったし、ほしいと思ったときにコーヒーを差し出してくれた。もちろん彼女はなにも解っちゃあいない。が、解らないなりに幽霊の存在を信じる人間は大勢いる。哀れな霊にひとときの安らぎを与えようと願い、オレがそれを受け取れた、そんな小さな事件なのかもな? 事実、弾きだされたあと窓から覗いてみたら、彼女はコーヒーがなくなったことに驚いてなかったよ。そのつもりで注ぎました程度の表情だった」
 相手の夢見がちな台詞を、尼僧は聞いてはいたが、面倒なので流していた。言い終えるのを待って推測を挙げる。
「起きている現象としては、風化でしょうね」
 男が虚を突かれて瞬きをする。
「……つまり?」
「家に入ることができたのは、確かに『魂の許可を得た』からなのでしょう。しかしコーヒーを飲めたのは……そうですね、たとえばの話、コーヒーを飲んだ人間がそのあとすぐ亡くなったらそのコーヒーはどうなりますか? 肉体とともに胃の内容物は傷み、腐り、分解されていきます。経過は人の眼には酷い状態と映りますが、長い時間をかければいつかは分解されつくして塵と消えるでしょう。つまり風化です。おそらくそれと同じことが起きている。生きていたころの君の肉体は、そのものは荼毘に付されたかもしれませんが、もし発見されなければ自然に風化していた。君の魂は肉体の死を記憶しており、『自分のものとして取りこもうとした対象』……この場合コーヒーですが、それを肉体と同じ死の状態にまで自然下の条件でおっつけたのでしょう。君がそのコーヒーを魂に触れさせた瞬間、超高速で風化したのですね」
 理知的で事務的な説明を、男は鼻白んだ顔で聞いていた。
「……なるほど、なるほど。納得のいく説明だ、さすがは専門職」
 手袋をはめた手で覇気のない拍手を送る。
「納得はしたよ。たぶんその通りなんだろう。しかし、なんというかまあ、もうちょっと『ロマンチック』さを加味しても罰は当たらないんじゃあないか? 彼女がコーヒーを差し出してくれた意志ってのも尊重してほしいもんだ」
 返答はせず尼僧は思う。ロマンチックであるかどうかは、自分の管轄外であるし主観の問題なのでどうでもいい。ただ、その出来事は――それこそ専門職にある自分にとっても前代未聞の――とんでもない『奇跡』であることに、彼は気づいているのだろうか。
「その家にはよく行っているのですか?」
「たまには。ささやかな癒しになっている」
 一軒家だが、住んでいるのはその女性と飼い猫だけらしい。借家だったのを少し前に買い取り、持ち家にしたようだ。結婚して所帯をもった息子が近くに住んでいる。彼女は花の咲く庭のベンチでよく絵本を読んでおり、どうやら一種のコレクターであるらしい。ある程度名の知られた絵本・児童書紹介サイトをwebに運営している、と近所で小耳に挟んだ。たまに家に遊びに来る、東方とかいう名の女性教師に協力して、学校教育にも提供しているらしい……。
「確認しますが、小母さん、といえる年齢だったのですね?」
「……実年齢は知らんが、40後半か50代くらいの女を小母さんと呼ぶのは一般的だよな?」
「そうですね。普通です」
「あんたもそういうことを気にするとは意外だな」
 特に感慨はなさそうに男は呟いた。軽く両手を広げる。
「まあいい、仕事の話をしよう。彼女に逢いに行くにも足代がいる。幽霊に足代が要るだなんて、生前は思ってなかったけどな」


「前にもこんなことがあった気がする」
 また別の日のことだ。尼僧はそのとき、ある別の幽霊に仕事を斡旋し、説明を済ませて送り出したばかりだった。不意に聞こえた声に振り返れば、『吉良吉影』が灯籠の上に佇んでいる。驚きはしない。霊とはそういうものだ。
 人の身長ほどある灯籠の、さらにその屋根に立っているため、地面にいる尼僧とは視線の高さが違いすぎて表情はよく解らない。見上げて見えるのは顎くらいだ。
「『屋敷幽霊』に標的はいなかった。いたのは『掃除屋』どもだ。報告は以上。……あんたの差し金だったらただじゃあおかないと思ったが、ふん、調べたがあんたは無関係のようだな。あれは自動的な存在らしい。しかし依頼内容に虚偽があったことはどうしてくれる?」
「わたくしは依頼をそのまま伝えるだけ。依頼人の真意までは関知しません。道義上の問題として依頼人の素性を明かすわけにもいかない」
「まあいい。死人を処分したがってる奴が世間にいるってことが解った。疲れる生活にひとつ疲れる要素が増えただけだ。そんなことよりも」
 男は中空に左腕を突き出した。肘から下がない。出血はなく、粘土細工を乱暴にちぎったようなぎざぎざした切り口だけが覗いている。
「左腕を失った。不便で参っているが、なぜか初めてのような気がしない。前にもこんなことがあった気がする。もしやこれは、オレの生前の記憶か? 手を失うなんて経験、なかなかあるもんじゃあないよな? 自分の素性を調べる手がかりになるんだろうか」
 どうでしょう、と返して尼僧は断言を避けた。有史以来あまた存在する死者のうち、片腕を失う経験をした人間のみを選り分ければ、実のところ対象はかなり絞れる。ただしどういう経緯で腕を失ったかまでは解らない。事故や事件ならともかく、堅気ではない人間の荒事だった可能性もある。素性を知るのがよいこととは限らない。
「手がないのは面倒で辛い。あんたでも誰でもいいから、代わりを奪ってくっつけてやろうかと思った。しかし肉の手が霊体にくっつく保証はないし、……どうせなら彼女の手がほしい。いや、違う、ほしくない。誰の手だろうと構わないが、彼女のだけは駄目だ。彼女だけは無事でいないといけない。若い身空で片手を失うのは気の毒だ」
「若い身空で?」
「そりゃあ女の子とは言わないが、30代はじゅうぶん若いだろう。残りの人生ずっと苦労させてしまう」
 それにしても、なぜ一瞬でも彼女の手をほしいなんて思ったのかな。独りごちる男に、尼僧は少し考えて口を開いた。
「わたくしがこう尋ねたからといって、わたくしがそれを勧めていると思ってもらっては困りますが……念のため聞いておきましょう」
 回りくどい前提をおいてから質問する。
「あなたがた幽霊は、生者に話しかけることは可能です。あなたは彼女をずいぶん気に入っている。これまで話をしてみようと思ったことはないのですか?」
 静寂が落ちた。風が無音のままに境内の木漏れ陽を撫でる。
「そうだな。話しかけてもいいんだよ」
 どうでもいいことのように男は呟いた。
「聞こえるように発声すれば、生きている人間に通じる。過去に何度もやった。霊だとばれちゃあ騒ぎになるが……ドアスコープに適当な写真を映しこませ、訪問者のふりをして声を当てるのはよくやる。電話もかける。間違い電話を装ってもいいわけだ。『もしもし、桜井さんのお宅ですか』なんてな。でも、……やりたくない」
 理由については、尼僧は問う気はなかった。言いたくないなら言わなくていいと思ったのだ。だが相手のほうが勝手に続ける。
「なぜだろうな。彼女に子がいるからか?」
 言葉の足りない表現だが意図は伝わる。つまり、相手の男は誰だ? 話すことで確認できるだろうか? まさか生前の自分である可能性は……あるいはそうではなかったら?
 尼僧の位置から男の表情は見えない。だが、頭を振る動作は下からでも窺えた。
「それも違うな。そういうことじゃあない。もっと別の、恐怖にも似た抵抗がある。オレは彼女に深く関わってはいけない。そんな気がしてならない。……彼女がコーヒーを注いで『お待ちどう様』と言えば、魂の許可を得て家に入れる。だが飲み終わった瞬間、いつも勝手にばちんと家から弾きだされる。他の家なら許可さえ取れば当分はいられるのに、あそこには5分程度しかいられない。彼女が眼を閉じている間だけだ。……どうやら、オレの内心の躊躇いがそうさせているらしいと最近気づいた。ずっとそばにいてはいけない。してはいけないことをしてしまう……」
 口調の平坦さは、逆に秘められた情動の起伏を物語っていた。やや沈黙があって、男は力強くこう続ける。
「ただ、あのコーヒーは飲んでいいんだ。あれはわたしのものだと確信している。あの女も出してくれたし、小母さんも出してくれたし、婆さんも出してくれた。あれは、わたしのものなんだ」
 子供が言い張るようなひたむきさだった。尼僧は静かに聞き返す。
「小母さんと、婆さんというのは、どなたのことですか?」
「あれ?」
 驚きの声が降ってきた。他人事のように戸惑っている。
「いや……確かに言ったな。自分でそう言った。誰のことだ? あの女以外にコーヒーを出されたことなんて無いのにな」
 もうひとつの疑問については、尼僧は黙っていた。いつも少なくとも自分の前では『オレ』という一人称を使う男が、『わたし』という一人称を使ったことを。

 尼僧には、彼の巡っている運命について推測があった。
 この『吉良吉影』という霊はおそらく、同じ時間を何巡も巻き戻して過ごしている。1990年代末から21世紀にかけての……数十年間くらいだろうか? 会話をしているとときどき、おかしな認識が混ざりこむ。『駅前の廃ビル』も『あの震災』も、尼僧には心当たりがない。かと思えば何年も昔の出来事を『つい先日の』例として語る。彼の時間認識は規則性を失っている。どれほど繰り返したのか解らない数十年分の記憶が、ごちゃごちゃに混ぜられて混濁の極みにある。
 迷走に似た記憶の中から、ひとつ垣間見えるのはある女性の存在だ。老婆であったり、女性であったり、小母さんであったりするが、彼の認識がおかしいだけで該当者はまっとうに過去から未来を生きているだろう。話の中に、30代より若い姿が登場しないのは、その女性が彼と初めて出会った年齢がそのくらいだったと窺える。
 『何億回でも何兆回でも巻き戻り続ける時間に閉じこめられる』この裁きが、『吉良吉影』のどんな罪に起因しているのかは解らない。ただ、ひとつの推測ならばある。思うにその女性こそが彼の罰を決定づけている。彼は彼自身の罪によって天の国に昇れず、しかし彼のための女性によって地の国にも堕ちない。死後の国の存在は不明だが、少なくとも魂がそういった状態にならない。一本のほそい蜘蛛の糸がこの男を浮遊霊たらしめる。恐らくは老いた彼女の死を看取ることで『吉良吉影』の時間は1990年代末まで巻き戻り、苦難と疲労に満ちた安らげない数十年を歩き、また彼女の死をもって繰り返す。
「でも、かわいい婆さんなんだよ」
 時の流れを完全に取り違えた男が言う。視線はもの思いに似て遠くに向けられ、こちらに相槌は求めない。現実の彼女は現在いくつなのだろう? いくつであれ姿を見れば、彼は疑問も抱かず受け入れ、少しだけ満ち足りて微笑むのだろう。これは祝福だろうか、呪いだろうか? 決して出られない牢獄から眺める花はどちらだろうか……。

「そうだ。思い出した。あんたも坊主ならひとつ頼まれてくれ」
 声とともに、1枚の書きつけが上からひらひら落とされた。受け止めてみれば紙はレストランのレシートだ。『ハンバーグ・セット』『オニオングラスープ』などの会計が書かれている。からんと音を立ててインクが切れかけたボールペンも落ちてきた。どちらも拾い物だろう。
「裏の白紙に彼女の家の住所を書いておいた。これから頼むことは、実際に起きるかどうかも解らないし不確定要素も多すぎる。だから、できれば構わないが……」
 突き放した表現の裏に滲む色は、隠しているつもりなのだろうか。それとも当人も自覚していないのか。
「『屋敷幽霊』で『魂の掃除屋』どもに襲われたとき、左腕を失った。腕はやつらに喰い荒らされ、切り離すしかなかったが、その直前なにやら植物のようなものに変化しかけていた」
 男は自分の身体を見回す。淡々と続ける。
「どうやらオレは、掃除屋に喰われたら植物に変化するらしい。喰われれば自我を失うし、それであの世とやらに行ける確証もないので逃げてきたが……もしオレが、やつらに完全に喰われつくして植物になったら。あんたがそれを見つけたら。彼女の家まで届けて、庭のベンチのそばに埋えてくれ」
 尼僧は黙って書きつけを見つめた。後で保管場所にしまっておくつもりだが、万が一失くしても困らないようにしっかりと住所を記憶する。
「なんの植物になると思いますか?」
 聞いてから、踏みこみすぎた問いを少し後悔した。男はそうとは思わないらしかった。
「さあ。でもできれば棘のない、足の爪も引っかけない、そばにいて危なくない植物になりたいね」
 頭上の声が遠くなった。疲れた身を引きずって、どこか落ちつけそうな場所を探しにいくのだろう。永劫に見つからないと知りながらも。
「あとは――夏に咲く花になれればいい」
 灯籠の上の男は空に溶けた。
 いつかその日が来るだろうか。植物の心に身をやつせば、彼の輪転は終わるだろうか。誰にも解らない。霊として浮世を彷徨ううちは決して静かには暮らせない。ただ、疲れ果て、世界に倦んだとき、とある家の美しい庭を訪れることだけは許されている。
 偲ぶ花に寄り添うことだけは赦されている。







青いソフトに降る雪は過ぎしその手か囁きか / 北原白秋
2016/12/27

本として発行した際につけていただいた表紙 (Pixiv)