幽霊曰く/

「『鼻をなくしたゾウさん』というタイトルを見たときは、どうやって草を食ったりシャワーを浴びたりするんだと思っていた。でもそういうリアリズムの話ではなかった」
「鼻をなくしたゾウが、なくしたものを探すために旅に出る寓話だ。ゆく先々で出会うのは、耳をなくしたウサギ、翼をなくしたカモメ、首をなくしたキリン」
「……あの本には出てこなかったが、」

「もし猫が出ていたとしたら、何をなくしたネコだったのだろう」


   *   *   *


母曰く/

 母は毎年1月30日に夢をみるという。
 どこかの数寄屋造りの家でひとりの男性と朝食をとるだけの夢だという。
 料理は男性がつくりコーヒーは母が淹れるという。
 ひとつだけルールがあって決して顔を見てはいけないのだという。
 お互い手ばかり見てるけど誰かは解っているのよと赤い眼で笑う。






サンドリヨン/

 どこの女から切り取られたのかなと思ったあとで、そう思った事実に困惑する。
 ある家の裏庭に、ひっそりと鎮座しているパンプスを幽霊は見下ろす。ヒールから立ちあがり甲側へと滑るたおやかな曲線。白い表面には汚れひとつないが、新品かといわれると違和感がある。
 ふわりとそばに舞い降りる。一足きりの女の靴、何の変哲もありはしない。ことさら事件性も窺えない。奇妙なのは自分が、遠目とはいえまっさきに『どこの女から切り取られた足首かな』などと見間違えたことだ。部位はなんでもいいが、とにかくありふれた日常に、切りとられた人体の一部がまぎれこむ可能性をまるで当然のように想定したことだ。
 住宅の中から、早足で階段を駆けおりる音がした。裏口のドアを開けて、出てきたのは30歳前後の女だ。きょろきょろと見回す顔には焦りが滲んでいる。見上げれば2階の窓の桟に、新聞紙が敷かれて白いパンプスが干してある。
 どうやら片方だけ庭に落としてしまったらしい。上からの発見は容易だが、地上の視点からでは草の茂みに埋もれて見つけづらい。
「……靴ごと足首を切り落すといえば、『赤い靴』だよなあ。でもこの靴は赤くないし、足首もセットで付いちゃあいない。靴をなくした女なら、そいつは別のおはなしだ」
 ボウラーハットに手を添え、洒落めかしたしぐさで幽霊は自分の足元を指す。
「靴はここだよ、シンデレラ?」
 幽霊は生者に聞こえる声、聞こえない声を使い分けられる。インターホン越しに会話をする場合は前者だ。でもこの台詞は独り遊びのつもりだし、騒がれるのもご免なので、後者を使ったはずだった。なのに女は振り向いた。
 思わず口元に手をあてる。しくじったか? でも女は、幽霊とは視線を合わせない。肝心のパンプスにも気づいていない。小首を傾げながら、あさっての方向を探しはじめる。ちょっと鋭いタイプみたいだな、と幽霊は慎重に身を引いた。見えはしないが霊魂をうっすら感知できる人間だ。感受性の強さはスペックや外見からは測れない。虚実にはしゃぐ幼児に見えず、実存主義のレールをゆく老学者に見えることもある。ほとんど神の籤引きだ。
「……どうかしたの?」
 視線をやれば裏口から、10歳前後の少年が庭を覗きこんでいた。年齢から推察すれば彼女の息子だろう。階段を駆けおりる大きな音を不審に思ったらしい。
「なんでもないわ、虫干ししてた靴を落としちゃったから探しにきただけ」
「ずいぶん慌ててたけど、高いやつ?」
「……たいした値段じゃあないわ。でも大事にしたい靴」
 あちこち庭を見回しながらも、女の瞳が過去を浚う。
「よそ行き用の赤いパンプスを持ってたんだけど、あのひとと一緒に出掛けたさきでヒールが折れてしまったの。劣化に気づかなかったのね。だから次は新しい靴で、一緒に出掛けたいと思ってたんだけど……」
 言葉は途中で立ち消えた。少年は続きを促さない。誰の眼にもうつらぬ立場に慣れた幽霊は、ふたつの顔をまじまじと無遠慮に眺めまわした。どうやら訳ありのようだ。
「ママ、爪先」
 少年が鋭い声をあげた。先だって怪我でもしていたのか、女の右足の親指には厚手のガーゼが巻いてある。そのガーゼから血がじっとり滲んでいた。今さら痛みを自覚したのか、女が顔をしかめる。
「つっ……」
「もう、慌てるからだよ。探すのはあとにして座って」
 裏口の段を指し示し、少年は救急箱をとりに行く。あーあ、傷がひらいたな、と幽霊は脇から覗きこむ。どちらにせよこれでは当分、ぴったりしたパンプスなど履けはしない。
「爪剥がしたのってけっこう前だよね。まだ治ってないの?」
「傷は塞がってるけど、爪が生えそろってないの。お医者さんにも、足の爪は時間がかかるって言われたわ。できたばかりの皮膚がまだ薄いから……軽くぶつけただけで出血しちゃうみたい」
 ガーゼで傷を押さえる。出血が落ちついたら貼ってね、と絆創膏を渡し、少年は汚れたガーゼを捨てるため家に入った。すぐ戻ってくるかと思ったが、ややあってビニール袋のがさつく音と、屋内を歩きまわる気配がする。
 幽霊は庭に面した往来の電柱を眺めやった。ごみ収集日の掲示が貼ってある。明日は燃えるごみの日だ。家のごみ箱がいっぱいだと気づき、すすんで収集袋に集めているのだろう。できた子だ。
 母である女も気づいたらしく、淡い感謝を浮かべて屋内に視線をおくる。しばらく沈黙があり、庭木の葉がさらさらと内緒話めいて揺れた。なぜか気まずい息苦しさをおぼえ、幽霊はいらない軽口をたたく。
「……きれいな靴が履けない君は、残念だがシンデレラじゃあないな。爪先から血を流すならなおさらだ。一の姉は爪先を、二の姉はかかとを切り落としたそうじゃあないか……」
 シンデレラ、シンデレラ。口にした単語に引きずられ、謎めいた翳が胸のうちをよぎる。どこかにそんな名前の店がなかったっけ? 場所か地名か店名か。別段めずらしくない命名だとは思うけども。シンデレラ、シンデレラの靴。靴がたくさんある場所に、重たいなにかを置き残したような気がする。でも取りに戻らないほうがいいのかな?
 いつか盗み読みした新聞に、「シンデレラ・リバティ」という語があった。夜12時までの自由時間を意味する軍隊用語だ。そういえば先日、『仕事』の依頼で児童殺害犯を始末した。もっとも喜んでいる瞬間に迎えにいけという指示のとおり、時効成立の数分前、夜12時寸前に息の根を止めた。行為にさしたる感慨はなく、男の過去に興味もない。ただ、男と同居していた女にはすこし興味をおぼえた。殺人犯を匿う女。興味のような、衝動のような、まるで誰かと比較したいような――
 幽霊はかるく頭を振る。今日はどうも調子がおかしい。裏口の段に腰かけた女は、じっとうつむいて長い髪を風にそよがせている。睫毛のおとす影は華奢でほそい。よく見れば眼の下に、植物の棘でも刺したようなうすい傷跡がある。
 幽霊は唐突にぺらぺら喋りだした。
「君は貞淑なカレンじゃあないし、男を射止めるシンデレラでもない。幸福を約束されたヒロインにはなれないし、だけどわたしも王子様じゃあない。ならいっそ刺激的にやっちまおう。今日び悪役のほうが人気が出るってことは知ってるだろ? 君は冷酷無比な殺人鬼、わたしは君に利用されるけなげな相手役なんてどうだい? ラストシーンで対決しようじゃあないか、格好いい曲をかけてね。「帽子のつばを下げて歩いてくる男」の曲がいいかい、それとも「お偉がた専用の彼女の処方箋」のほうがいいかい?……」
 よしなしごとを語る幽霊は、いつしか自分の必死さに気がついた。人目につかない暮らしは自然、だらだら独語を垂れ流すことが癖になる。でもこの必死さはなんなんだ?
 どうやら、女が泣いてしまわないかと焦っているらしいことを自覚し、むしろ呆れて口を閉じる。聞こえもしないお喋りで気が紛れるはずもない。だいいちこの女が泣いたからどうだっていうんだ。
「…………そうじゃあない」
 帽子のつばを下げ、視線をあわせぬ幽霊がぎこちなく言葉を探す。
「そうじゃあないな。ここにはヒロインも王子様も、殺人鬼もその相手役もいない。役割を演じに来たわけじゃあない。利益や隠れ家を求めて来たわけじゃあない……わたしが今日ここにいるのは偶然だが、偶然はいわば純粋無垢の引力だ。わたしが来たかったから来たんだ」
 幽霊は、音のない歩みで移動して、ふたたび叢に落ちているパンプスに近づいた。女のほうを振り返る。驚かせてはいけないから、生者に聞こえる声は使えないが、もう一度だけ。
「靴はここだよ。見つけてくれ」
 こっちを見てくれ。
 女が顔を上げた。
 ふたりの視線が瞬間、かすめるほどに交わった。甘やかな風に吹かれたように、女がわずかに息を詰める。爪先を庇いながら立ち上がり、茂みの陰に歩み寄る。
 ひっそり待っていたパンプスを拾いあげ、女の瞳がやわらかく和んだ。
「……出血は止まったの?」
 戻ってきた少年が背後から声をかけてくる。女は振り向き、ごみを集めてくれてありがとう、と微笑みかける。別にたいしたことじゃあないし、と少年がそっぽを向いた。
「ついでにお願いして悪いけど、2階の窓に置いてあるもう片方のパンプス、下に持ってきてくれない? また落っことしてもなんだから庭で陰干しするわ」
 少年は要求に応えてくれた。庭の風通しがいいところに新聞紙を敷きなおし、取ってきたパンプスを置く。救急箱を取りあげて先に屋内へと入る。
 女は敷かれた新聞紙に近づき、手の中の靴を、もう一足のとなりに並べた。ひとつのつがいがきちんと揃う。幽霊は覗きこむようにそれを見守る。
 あるべきものがあるべき位置に戻った姿を見て、女がちいさく祝福を投げる。
「おかえりなさい」
 ただいま、と幽霊が返した。






狂気に名をつけて/

 あなたを見ているとなぜかときどき、寒くない疲れてないお腹は空いてない? としつこく聞きたくなるの、でも本当はわかるの、あなたは寒くも疲れてもお腹が空いてもない、すがすがしい気分になりたいだけ、でもそうしてあげられるのはあたしじゃあない、あたしにやらせてとお願いしてもあなたは黙って首を振るし、お願いすること自体があなたを苦しめるし、だからあたしは朗らかな顔でにこにこ笑って、肌触りのいいシーツを敷いてとっておきのお皿を並べて新しいレシピのスープを作って待つしかないの。


   *   *   *


 美那子さんのかわいい手首に、「家には入れないがいっしょに帰ろう」と囁きかけたのは、言うまでもなく川尻家の中に入れるのは見つかる危険性が高いからだが、しのぶが同じ屋根の下にいる家に、しのぶがカーテンを開ける窓や猫を撫でるソファや朝食のトーストを焼きあげるキッチンに『彼女』を上げることに、呪わしいほど耐えがたい抵抗をおぼえたからでもあり、こんなに清廉な彼女なのに家に上げたらかならず穢らわしいと感じてしまう確信の、その理由はわたしにもわからない。






Fall in xxxx/

 正直にいって、毒の混入を疑った。
 芳香ゆらめく鼈甲色の液体を吉良は見下ろす。カップに湛えられているのは何の変哲もない紅茶だ。一見するかぎりは。
 この夏、突然もつはめになった『妻』が淹れてくれたことを除いて。

 川尻しのぶという女を、吉良はまだ把握しきれていない。川尻邸にはじめて『帰宅』したときに得た印象は、さながら氷の壁だ。もはや交流なき夫婦であることが見てとれた。
 彼にとっては好都合というべき状況で、それでも料理を2人分作ったのは、どうにか居場所を確立しようと試みたからだ。陳腐な表現をするなら、媚を売ってみたのだろう。滑り出しさえ押さえておけば面倒な流れにはならない。彼女は小馬鹿にしていたが、やがて無言で皿を空にする。ひとまずの関門は突破した。
 危機はこまごま訪れた。追いつめられてやむなく、目の前で窃盗するという手段すらとってしまったが、通報もされずに許容されたのは正しく幸運だ。あの居丈高な大家によほど彼女も業を煮やしていたとみえる。
 吉良にとっての疑問はそのあとだった。川尻しのぶは、彼からみれば唐突に、手のひらを返すように態度を改めはじめた。家じゅうを美しく磨きあげ、シャツに丁寧にアイロンをかける。ベッドの自分を甘ったるい声で朝食に呼び、隙あらば猫のように肌身を寄せたがる。2階でこっそり筆跡の練習をしていれば、恥じらいつつ茶のトレイなどを運んでくる。夫の帰宅に気づかないふりをしていた妻の所業だろうか!
 ……人間が急に態度を変える場合、そこにはいくつかの動機がある。
 吉良はひとつのものを確認したい衝動に駆られた。川尻浩作の加入している生命保険だ。交流のない、砂を噛むような結婚生活に倦んだ妻が、夫を殺害して保険金を得ようと試みる。説明してしまえば安い筋書きだが、無視はできない確率で現実に起きる事案だ。
 わたしは彼女を殺したくてうずうずしている。しかし、考えてみれば妻という生き物もまた、いつだって夫を殺せる。毒殺に限るなら、主婦として家事を担っている側のほうが有利なのだ。ガーデニング用の農薬、殺虫剤や殺鼠剤。その気になれば個人でも、図書館で得られる程度の知識を材料に、ひとまわり致死性の高い薬品を生成できる……。
 吉良は再び、あたたかなカップの液体に視線をおとした。座った姿勢は変えないまま、背後に立っているしのぶの気配を探る。彼女もこちらの出方を窺っているらしい。
 水色を観察する。一般的な紅茶の色合いに見える。香り。特に刺激性は感じられない。味――よほどの劇物でもないかぎり、ほんの数CCでただちに生命に関わることはないはずだ。意を決してひとくち含む。丹念に味わってみたが、別段、異常は感じられない。
 しのぶは、自分がひとくち茶を啜ったのを背後から見とどけたらしかった。ふふ、と満足そうな吐息が耳に忍びこむ。ベッドに腰かけたらしい。浮かれた子供のようにぶらぶら足を振っているのが、衣擦れの音でわかる。
 急激に疲労感をおぼえ、吉良は肩を落とした。どうやら取り越し苦労だったようだ。紅茶のように色も味も淡い液体は、毒物を仕込むには不向き、と少年向けのミステリにすらよく書いてある。彼女は本当に、夫に茶を淹れてくれただけなのだ。どうやら初めての好意をもって。

   *   *   *

 吉良は、ベッドで眠るしのぶを見守っていた。
 盛夏の近い朝。陽はすでに高い。窓から漏れ聞こえていた通勤や通学のざわめきも止んだ。家を出るべき時刻はとうに過ぎている。
 猫草の一撃を胸に受けて失神した彼女は、まだ目を覚まさない。でも呼吸は落ちついており、深刻な外傷もない。放置しておいてもほどなく目覚めるだろう。
 大きな問題はない。ベッドに安置してやったし、このまま自分は出勤しても構わない。
 構わないはずなのだ。でもひとつの異常が身体に起きていた。なぜか足が動かない。鞄をとって立ち上がり、玄関へと向かうことができない。奇妙なことに、会社に遅刻の連絡を入れるべく、携帯電話をとりに行くことはできた。でも彼女をおいて出勤しようとすると、たちまち足が動かなくなる。
 眼を離せない。立ち去れない。動けない。
 夫の顔をした男は妻を見下ろして思う。身体が動かないということは、やはり毒を盛られていたのだ。
 遅効性の。もしかしたら、致死性の。






Bohemian Rhapsody/

「母さん、ひとを殺しました」
「罪を犯しました。ただ慈悲は望めるだろうか。わたしの愛はただひとりです」
「たしかに欲しいからといって48輪も摘んだのは申しわけなかった。でも『花盗人は風流のうち』というでしょう? ええ、あれらは罪ではありません。わたしの罪はただひとり」


   *   *   *


「『おまえの眼にはあの女だけが、自分と同じ人間に見えていたのではないか』って?」
「別に。人間の女はみな、きちんと人間の女に見えていたよ。わたしの彼女たちはそこから切り取られる手首だ。正しく認識している」
「…………見えていたのは花だ」
「わたしの眼にはあの女だけが、いつも花に見えていた。わたしが植物の心をもつからだ」






ハッシャバイ/

「そう気張らずともおまえたちの勝利は造作ないよ」
 夏の朝、廃ビルの屋上。薄い霧の向こうで白麻のスーツを着た陰影が語る。
 殺人鬼は面倒くさそうだった。川尻早人、空条承太郎、東方仗助、みずからの敵対者たちを視界に認めつつも面倒くさそうだった。なにもかも億劫だと言いたげだった。仇敵を追いつめた3人は、身構えながらも……とるべき態度に迷った。
 あまたの犠牲者に続き、川尻家の主婦を殺害した吉良が行方を眩ませて1ヵ月。手がかりを追い、潜伏先に乗りこんでみれば、迎えうつ台詞は実に消極的だ。破滅的とさえ言える。『造作ない』だって?
 大儀そうに吉良は空を見あげた。時間帯が早いせいで陽はまだ低く、夏の朝にしては暗い。霧のせいか風が重い。
 影はゆるゆると語りだした。長くも長い告白のはじまりとしては素っ気なく。
「子供のころわたしは病的に眠りが浅かった。慢性不眠に悩まされていた。理由は色々あるがおまえたちに言う必要はない。体調維持の面からみても深刻なレベルだった。適度な運動をすればすんなり入眠できる、などと謳うのはおのれの健康に奢るものの戯言だ。脳も身体も猛烈に休息を欲しているのに眠れない辛さが理解できるか? 疲労と憔悴にまみれて夜明けを迎える苦痛が? 母があの猫さえ救ってくれれば、いやその話はどうでもいい。ともあれ生活にも支障をきたしていた。薬も飲んでみたが気を失う程度でごまかしの域を出ない。強い薬は依存性が高くリスクが大きい。毎日毎日、今夜はうまく眠れるだろうかと気に病みながら生きてきた。いかに熟睡するかが人生のテーマだったと言ってもいい! やがてわたしは方法を編みだした。中身自体は単純だよ。寝る前のあたたかいミルクと20分ほどのストレッチ。ごくベーシックな方法だが、とにかく『これさえすれば疑いようもなく絶対に眠れる』と強固に思いこんだ。自己暗示だ。儀式であり信仰だ。スポーツ選手がやるスイッチング・ウィンバックにも近いね。これさえ守れば熟睡できるし、赤ん坊のように疲労やストレスを残さずに目覚める。この確実性に比べれば、太陽が東から昇ることのほうが疑わしい。大袈裟でもなんでもなく心からそう信じこんだ。効果はあったよ。わたしはようやく熟睡を得たんだ。もっとも危機はのちにもおとずれた。二次性徴にともなう爪の伸びる時期がそれだが、幸い、10代後半からのわたしのそばには『彼女』がいた。彼女たちに慰められ、清い心でいたわってもらうと甘美な眠りが味わえた。鉄のルールと愛しい彼女。二重の保障を得てわたしの眠りは安泰だった。さて君たちだ。君たちのせいでわたしは他人の顔になり、その家族と同居せざるを得なくなった。恐怖と憂鬱がふたたび甦ったよ。熟睡? できるわけがない。あたたかいミルクと軽いストレッチがない。なによりも『彼女』がいない。普段づかいの寝具すら望めない見知らぬ天井。絶望的な気分だった。仕方がない、しばらくは幼少期以来の苦痛と向きあおう。『彼女』はさすがに無理だが、ミルクとストレッチの習慣くらいは、自然に取り入れればこの家族に怪しまれないだろう。そう思って床についた。意外にも、最初の晩は眠れた。まあ子供の時分にもまれながら眠れた日はある。でないと生命も危ぶまれたろうね。幸運に心から感謝した。次の日もどうやら眠れた。なんとその次の日もだ。意外だった。環境がいちじるしく変わったというのに。むしろ環境の変化がよい影響を及ぼしたのか? 理由はじき判明した。ある夜、川尻家の猫が体調をくずした。しのぶは今夜は猫のそばにつくと言い、わたしに先に眠るよう促した。わたしはひとりでベッドに入った。眠れなかった。何分も何時間も。わたしは起きて台所にいき、ホットミルクをついでだから2杯つくって1杯をしのぶに渡し、飲んで軽くストレッチをした。ようやくとろとろと眠れたが、浅い眠りだった。翌日に猫は復調した。その夜はしのぶもベッドで眠った。女の体温にじっと寄りそって寝息を聞いていたら、いつのまにか朝だった。爽快な目覚めだった。ぐっすり眠っていたらしい。川尻しのぶはわたしに熟睡をもたらした。驚くべき事実だった。さてわたしはあの女を殺した。疑いなくわたしの意図的な行動だが、ある意味では不可抗力だ。せっかくの隠れ蓑を失いたいはずがない。でも殺人衝動はわたしがわたしであるための作用だ。どうしようもなかった。金庫の現金をもちだして川尻邸を離れ、郊外の地味なシティホテルに隠れた。ともあれ休もうとした。眠れなかった。ミルクを買い部屋のポットで温め、ストレッチをした。眠れなかった。せっかくなじんでいた環境から離れ、神経が昂ぶっているのだろうと思った。翌日もその翌日も眠れなかった。ほぼ一睡もできなかった。久方ぶりの苦痛だ。環境が悪いのだと思った。海岸沿いの別荘地にある、布団で眠れる和室の旅館に移った。眠れなかった。本来なら控えたほうがいいのだが、緊急事態なのでしかたなく、町に出てかわいい『彼女』を得て部屋に連れ帰った。ネイルを塗って甘噛みしてやさしく慈しんでもらった。眠れなかった。閑静な場所にある、わたしの実家に似た風情の旅館に移った。環境に慣れて落ちつくために1週間ほどゆっくり滞在した。くつろげる部屋にとびきりの彼女を招待して、好きなメーカーのミルクを用意して、丁寧にストレッチをして、もちろん心から強固に『これで疑いなく眠れる』と信じこんだ。眠れなかった。一睡もだ。朦朧としているのに意識を失えない。暗いところで安静にしていても頭の中が鍛冶場のように騒がしい。つらい。暑くて寒くてうるさくて痛くて不安で眠れない。わたしは二度と眠れない! なぜか。あの女がいないからだ。意味がわからない。わたしの不眠の症状は教科書どおりだ。パニックに近い苛つきと泥土じみた倦怠。身体の震え。脳がいつもミキサーにかけられているようで何を食べても吐く。幻聴と幻覚。厭な音と厭な色ばかりだ。どうせまぼろしならなぜあの女を見ないんだ。いないからか。どこにもいないのか。わたしが殺したものな。平和に生きのびてみせると思っていた。人を殺さずにおれない性を背負っているが幸福に生きてみせると。現在のわたしの幸福はただ眠ることだ。もはや1秒でも一瞬でもいい眠ることだ。熟睡したい。頼むから眠らせてくれ。なんでもするもう寝たい」
 抑揚のない声がやっと途切れた。
 滔々と聞かされていた2人の少年と1人の男は、無言で立ちつくした。川尻早人だけは、何かを言おうとした。言いたいことは山のようにある。この男は母の仇だ。でも何を言えばいい? ただひとりの女を殺して、そのせいで二度と眠れなくなった男に。
 自分の身に何が起きているのか当人だけが気づいていない男に何を言えばいい?
「1秒でもいいから眠りたい。それだけが求める幸福だ。あとに何が待っていても構わない。聞いた話だが、脳は一定の重力負荷がかかると自動的に意識が飛ぶらしい。試す価値はある。この高さなら後顧の憂いもない」
 承太郎が、半秒あとに仗助が、ビルの屋上の床を蹴った。早人は驚いたが、すぐに意図を理解する。殺人鬼に駆けよる承太郎の背中が、突然、数メートル先に瞬間移動した。時を止めたのだ。だがいかんせん遠すぎた。
 屋上の柵を爆破した吉良はすでに建物の縁を蹴っていた。
 背面から虚空へと躍り出る男を、早人は見た。視線は宙の一点に向けられていた。あきらかに誰かを見ていた。口が動いた。それは挨拶だった。おやすみ。
 3秒後に地上で衝撃音。つんのめる勢いで立ち止まった仗助が、反転するやいなや背後の階段へと駆けだす。彼がもつのは治癒能力だ。でもここは通電していない廃ビルで、エレベーターは動いていない。上ってきたのと同じ距離をかけて階段を降りねばならない。それ以前に……30階建ての高さだ。
 ものの数分で、1階のドアを蹴破る音が聞こえたのは、男子高校生の体力の賜物ではあったろう。承太郎は、屋上から身を乗りだして落下地点を見下ろしていた。ややあって溜息をつく。下から仗助がジェスチャーで伝えたらしい。
「……即死だ」
 低温の声が早人に告げた。
 横顔だけで続ける。君はしばらくここにいろ、財団の車を呼んでくる。いずれ制服を着た人間を迎えによこすから、そいつと一緒に降りてこい。言い終えたあと、白い背中は階段へと向かう。どうしてぼくは一緒に下に降りちゃあいけないんだろう? タイムラグを設ける理由が解らなかったが、そうか、酷い状態であろう遺体を見せたくないのかと思い至る。気高い彼らの判断だった。
 残された早人は、爆破で破られた金網の柵を見つめる。縁には靴の跡。……3秒弱くらいだった。よく眠れたか、殺人鬼。1秒でもいいと言っていた身分からすれば、最高に贅沢じゃあないか。
「…………おやすみ」
 母の仇だった。嫌悪すべき我欲で殺害をかさねた犯罪者だった。赦してなどいない。ただ、父の顔をした男が母に挨拶をしたのに、自分も挨拶をしないのは落ちつかなかった。
 空を見あげる。霧は晴れてきた。だが雲の天蓋が、太陽をほどよく遮ってくれる。今日はきっと気温が上がりすぎず過ごしやすい。どんな人間でもぐっすり眠れる日になるだろう。
 そうあってほしいと祈った。






The show must go on/

「その女をしっかり捕まえていろ、小僧。決して離すなよ」
 ぼくに命令するな。
 そう言ってやりたかったけど、ママの両足にしがみつくのに精一杯で返事ができない。
 はたから見ればどれだけ、演技が大袈裟すぎてダサいお芝居の一幕に見えるのだろう。ダイニングから出ていこうとしているパパ。それを追おうとしてぼくに体当たりをくらい、這いつくばったママ。ママの両足に全身でしがみつき、必死に拘束しているぼく。 

 だいたい展開も唐突すぎる。これがお芝居なら脚本家は三流もいいところだ。
 いつもどおりの幸福な夕食。じっと空になったシチュー皿を見下ろすパパ。うきうきと食後のデザートを取り出すママ。ぼくのパパはパパじゃあないと勘づいているぼく――ここで前触れもなく、唐突にパパが言うんだもんな。
「わたしはこの家を出ていく」
 ママは笑って振り返り、「悪いけど、もういちど最初から言ってくださる?」と返した。おもしろい冗談の前半を聞き逃したと思ったらしい。仕方ないよ、パパは普段『わたし』なんて自称しないしね。殺人鬼は最初から言いなおしてくれた。わたしはこの家を出ていく。
 ママは小首を傾げて、笑おうとして失敗して、パパの瞳に気づいて、あなた? と呼びかけた。今夜の殺人鬼は親切だ、わかりやすく噛み砕いて説明してくれた。
「わたしはおまえの夫ではないし、こいつはわたしの息子ではないし、わたしは殺人鬼と呼ばれる部類の犯罪者だし、だからこの家を出ていく」
 わけが解らないなりに、本気だと気づいたママは、殺人鬼に取りすがろうとした。ぼくは椅子から立ち上がり、ママに体当たりしてそれを止めた。どういう心境の変化か知らないけど、行きたいのなら行かせるべきだ!
 できることならばこの男を倒したい。でも方法を思いつかない。どうせ倒せないのなら、せめてママとは引き離すべきだ。だってママはこいつに惹かれている、正体を知ってなお!
 ママは暴れて身をよじらせ、早人、離しなさいと何度も叫んだ。絶対に離すもんか。ママはぼくを引き剥がそうとしたけど、殴ったり叩いたりはしなかった。振り払いたくてもそれだけはできないのだ。喉の奥が熱くなり、ぼくはいっそう強くママの両足を押さえこんだ。
 ママの息が上がっている。小柄なぼくでも本気でしがみつけば十分な枷だ。腕に力をこめなおすと、圧迫されていた胸が少し楽になったので、ぼくは後ろ姿の殺人鬼に言った。
「出ていくのか」
「出ていく」
「どういう心境の変化だよ」
「その女はどうせ殺せない」
 へえ、そいつはまたどうとでもとれる台詞だな? そう言いたいのをぐっとこらえて返す。
「なにか、ママに言うことはないのか」
 男の背中が黙りこんだ。まったくこのお芝居はマジ三流だ、ぼくの台詞が矛盾してやがる。ママとこいつを引き離したいはずのぼくが、別れの言葉を促すなんて展開がおかしい。でも、それでもだ、芝居をつづけろ、殺人鬼!
「きっと二度と逢えないぞ。なにかママに言うことはないのか!」

「……それを言ってしまわないために、この家を出る」

 パパの顔をした男の声は、どう表現すればいいんだろう、男の声だった。
 振り向かずに殺人鬼は出ていった。ママがアイロンをかけたシャツを着て、ママが作ったシチューをきれいに食べ終えて、ママがバスルームに置いていた石鹸の匂いをまとわせて。

 ぼくは念のため、あいつを追いかけても追いつけないように、20分くらいはママを押さえているつもりだった。でも殺人鬼の姿がドアの向こうに退場したとたん、ママはだらりと弛緩した。20分が経つ直前、小さな声で言った。
「……もう暴れないわ。離して……」
 しがみつき続けた手足はじんじん痺れて、ぼく自身も床からうまく立てないほどだった。身を起こしてぺたりと座りこんだママは、ぽろぽろ涙をこぼしてぼくに言った。
「ありがとう。ごめんなさい。早人」
 ありがとう、は自分を止めたことへの感謝ではない。ママは本気であの男を引き留めたかったはずだ。ありがとうと言ったのは、ぼくがママを案じる気持ちに感謝してくれたのだ。ごめんなさいはそのまま、面倒をかけたことへの謝罪だ。
 後悔はしてないけど、ぼくも哀しかった。叶うべくもなかったママのささやかな幸福が哀しかった。

 数日後、『吉良吉影』はこの世からも退場した。仗助さんや億泰さん、そのほかさまざまな能力をもつ人たちが力をあわせて斃した。ぼくは殺人鬼がもつ奇妙な力を見ていたので、彼らがうちに調査に来たとき、すすんで協力を申し出た。
 殺人鬼について知るだけの情報を伝えたぼくは、あいつを斃すときはぼくも立ちあわせてほしい、と頼んだ。彼らは首を振った。子供を巻きこむことはできないと。
 じゃあせめて、あいつの最期のひとことを教えてください、と頼んだ。彼らはそれは了承し、後日きちんと教えにきてくれた――「それらしい言葉はなかった」と。「救急車に轢かれる寸前まで足掻き、われわれを罵倒していたので、そういう発言しかなかった。命まで落としたのは予想外だったが、なんにせよいわゆる『最期の台詞』らしきものはなかった」と。
 ぼくは頷いた。たぶんそうだろうと思った。あいつは自分で決めた役を演じぬいたのだ。

「……あいつはしばらく、きみの家を潜伏先にしていたんだったな」
 立ち去るまぎわ、承太郎さんが玄関先からぼくの家を見上げて言った。なにかを類推するような視線だ。
「きみのお母さんはよく無事だったものだ」
「……そうですね。なにしろ」
 おまえたちに何が解る。浮かんできた陳腐な台詞をこらえて、ぼくは言った。
「父は、母のことなど、愛していなかったので」
 全身全霊で――必死になって――ひたむきに――愛さずにいたので。
 露伴さんが眼を見開く。ぼくの表情に驚いたらしい。あーあ畜生、このお芝居の脚本家はほんと救えないぞ。つまんない凡ミスしやがって。
 ぼくが殺人鬼のことを父だなんて呼ぶわけないだろ。
 それにここで、ぼくの頬を涙がつたうわけがないだろ。






Killer Queen/

 カップに注がれた液体は愛によるものだと思っていた。

「苦くなかった?」
 這いつくばった姿勢のまま、吉良は女のやさしい声を聴く。混乱する脳裏で、かろうじて自分の状況を確認する。カップを取り落として、床に倒れたのか? 口腔内のしびれ。立てないほどの眩暈。心悸の乱れと心臓の灼熱感。
 何が起きたんだ、と聞こうとしたが、震える唇がろくに言葉を為さない。開けた口の端から唾液がこぼれる。分泌量がおかしい。耐えがたい悪寒。無益に床の上でもがく。
「きちんと抽出できたみたいでよかった。あたしって文系でしょう? 化学はあまり得意じゃあなかったの。あんなに勉強したのって学生時代以来だわ。すっかり覚えちゃった。ジテルペン系アルカロイドのアコニチン。エタノールやベンゼンに溶けるが水にはあまり溶けない。解毒剤はなく、致死量を摂取したうえで体外排出できなければまず死に至る。……キンポウゲ科トリカブト属に含まれることで有名」
 しのぶはテーブルから立ち上がった。数分前まで向かいに座っていた、今はダイニングの床に突っ伏している夫のそばに屈みこむ。胸を押さえ、ぐ、ぎ、とあらぬ声を発する苦悶の表情をじっと見下ろす。
「……高校のときの友達が山岳部でね、毒性の強いオクトリカブトが生えてる場所を教わったことがあるの。日帰りで行ける低山だったから、朝、あなたと早人を見送ってすぐ出かけたわ。ちょうど花の盛りで、こぼれそうな花房がいちめんに咲いててすごく綺麗だった。英語だと『毒薬の女王』なんて異名もあるそうよ。……葉っぱを食べての死亡例もあるから、おひたしを出してもよかったけど……致死量に不安があったからちゃんと抽出したの。根っこをすりつぶして、溶剤で煮溶かして。純度を高めるために物騒なお薬がいくつか必要だったけど、ドラッグストアに印鑑と身分証をもっていけば買えたわ。苛性ソーダなんて、趣味でハンドメイドの石鹸を作ってる人がよく買うって、あたしでも聞いたことあるもの」
 だくだくと耳の奥で不規則に脈が鳴る。アルカロイド。神経毒。カップに? 入れられた?
 しのぶはふところからハンカチを取り出した。毒の発汗作用でぐっしょり濡れた男の頬をていねいに拭う。やさしく、とてもやさしく囁きかける。
「もうぜんぶ知っているの。……あなたはひとごろし」
 見開かれた男の眼差しの、上にかかる前髪を持ちあげて、汗みずくの額も拭ってやりながら続ける。
「たくさん考えたけど、ほかに方法を思いつかなくてごめんなさい。これ以上犠牲になる人たちを出したくなかった。早人に危ないことをさせたくなかった……もっと楽な手段があればよかったけれど、あたしには腕力もないし、ほかの毒物を入手できるあてもなくて。苦しいわよね……でも、そんなに長くじゃあないはずだから……」
 手足が氷のように冷えはじめた。呼吸中枢が興奮と麻痺のサイクルに移り、死へと歩みはじめる。吉良は思う。成分はエタノールに溶けると言ったな。さっきわたしに、知人からの海外土産だと言って見せた小瓶がそうか――友達から珍しいお酒をもらったわ。苦いから好き嫌いは分かれるけど、紅茶で割ると美味しいんですって。ゆっくり舐めると口がぴりぴりするから、3口くらいの量をきゅっとあおって後味を楽しむものだそうよ……。
「……おまえがああも口の上手い女だとはな」
 地に這う殺人鬼は凶暴な笑みを浮かべた。身体の苦痛と、精神の不快がその成分だ。もはや『君』という丁寧な二人称も使わない。
「……悪を成敗する正義の味方きどりか? 法に任せず感情的に私刑をくだすのは気分がよかろうな。ああ、夫の仇討ちでもあるのかい? 長年無視していた夫にいまさらのご執心とはね。平凡な男と地道に関係をはぐくむのは面倒くさいが、被害者代表のような顔をして、悪に鉄槌をふるうイベントならやる気が出るというわけか。……偽善者が」
 ふらつく声をおして吉良は喋る。言わずにはおれない。
「……他者の断罪はいつだって愉快な娯楽だ。労せずに自分が優位に立った気になれる。生前はろくに顧みもしなかった男の死を、これ幸いと健気なヒロインごっこに利用できて楽しいな? あいにくトリカブト毒は検出が容易なはずだ。司法解剖で足がつく。おまえも犯罪者の仲間入りだ。わたしと同じ人殺しだ。復讐などと美々しく飾りたてれば同情が引けるとでも? おまえは自分に酔いたかっただけの浅ましい女だ」
 粘っこく挑発しながら、吉良は心の中で、力ある半身の名を喚んでいた。大丈夫だ、キラークイーンはまだ出せる。ひび割れて色褪せ、本体とともに消滅寸前だが、爆弾化の能力はまだ保持している。
 しのぶの顔を下から睨めつける。夫の仇討ちねえ、ご立派なことだ。視界が黒く歪むのは毒性物質のせいだろうか。殺してやる。爆殺してやる。楽に死ねると思うな。まず足の腱を爆ぜさせ、自由を奪ったあとで声帯を潰す。眼窩の中で眼球を爆破してやる。口の中で舌を爆破してやる。わたしが意識を失うまで嬲りつくしてやる。ぱくぱくと唇だけで命乞いすればいい。聞く気はないが。恐怖を与えるわたし以外、ほかの誰のことも考えられなくしてやる!
 吉良を見下ろした女は、かるく眉根を寄せていた。でもそれは、怒りや不快をしめすものではなかった。何かが理解できていない表情だった。
「……ああ!」
 得心の声をあげて立ち上がる。2メートル以上遠ざかる前に、と吉良はスタンドの指先を突きつけたが、しのぶは立ち上がっただけで足は動かさず、テーブルの小瓶を取っただけだった。再びその場に座りこむ。
 目の前で瓶の中身を乾す女を、吉良は声もなく見つめた。
 唇を離したしのぶが、軽くむせかけて咳きこむ。本当に苦いのねえ、と涙目になって瓶を置く。バランスが悪く、かたんと横に倒れたが、注ぎ口からは一滴の残りもこぼれなかった。
「ごめんなさい、とっくに決めてたものだから、あなたの言う意味が最初わからなかったわ。ちゃあんと2人分作ったの。後でばれるとかばれないとか、どうでもいいの」
 女は湿ったハンカチを広げ、乾いた面を表にするように折り直した。指先の動作はなめらかで落ちついている。早ければ数十秒、遅くとも数分以内には、避けられない死の発作がやってくる人間のしぐさとは思えない。
「効果を確認したらすぐに飲むつもりだったけど、あなたの汗があんまりひどいから。あなた、汗かいたままでいるの大嫌いでしょう? こまめにシャツを変えるものね。だからしばらく拭いてあげようと思ったけど、誤解があったみたいだからも、う飲んじゃっ、た」
 語尾が跳ねるように乱れた。顔から血の気が引いている。ん、ぐう、と唇を噛み、胸を押さえてしのぶは申し訳なさそうに目を伏せる。
「……早人にはお手紙を書いたわ。分厚い封筒になったけど、まだ謝り足りないくらい……酷い母親よね。でもこうするしかないものね。……それで償えはしないけど、金額を上乗せした生命保険がおりるし、あたしの両親がまだ元気だから、……ひとりぼっちには……ならないはず……」
 女の表情から見るまに色が抜け落ちた。悪寒をこらえて身を折る。そのまま吉良のとなりに倒れこんだ。脂汗をかいて肩が痙攣している。医学に詳しくはないが、たしか神経毒は、心機能や肺機能の麻痺によって死に至る。それまで意識は保たれる。
 なぜおまえまで飲むのだ? なんの意味もない行為だ。死は覚悟していた、というだけなら解らなくはない。相手が殺人鬼と知り、爆弾化能力にも気づいていたなら、反撃されかねないという危惧は当然だ。だがすすんで苦しい毒を含む理由がどこにある? 嬲って殺してやるとさきほど思ったが、それを見越していたわけでもあるまい。
 ぐるぐると思考を巡らせたが、吉良は、実のところ理解していた。他でもない彼女が自分に添い遂げる理由などよく解っていた。
 理解していたことを理解したくなかったのだ。
 馬鹿な女だ。そう言おうとしたが、ぜいぜいと鳴る喉がうまく声帯を震わせてくれなかった。言えないのか言わないのか、自分でも解らなかった。胸郭内を殴りつける吐き気まじりの鈍痛。目の前が明滅する。焼けるように熱い。痛いほど冷たい。知覚がおかしい。
 なぜこんなことになったのだ? 幸福に生きてみせると思っていたのに。どんな窮地も切り抜けてきたのに。だが、しかし、幸福とはなんだったろう。なぜあんなものを飲んだのだろう。カップに入れて鼻を近づけた時点で、だいぶ苦そうだなと思った。気がのらなければ飲まずともよかった。理由をつけて断ればよかった。でも思い出してしまったのだ。いつかの朝、うっかり椎茸のソテーを食べてしまったときの彼女の言葉を。「ふふ、でもうれしいわ……あたしの料理を食べてくれて」
 吉良は突然、なにもかもどうでもよくなった。生への執着が、平穏への渇望が、消えたわけではないが薄くてなめらかなものに包まれはじめた。神経毒の麻痺作用だろうか。逃れえぬ死を前にして得られる諦観ならば、それは慈悲なのだろうか。少しだけ忌々しいが。
 すぐとなりに横たわっている女が、首だけを動かして吉良を見上げた。息が荒くて辛そうだ。充血した眼がいっぱいに潤んでいる。
「……ほんとに苦いわ。口の中がまだ痛いくらい……最期くらい美味しいものを食べさせてあげたかったけど、あんまり薄めることもできないし……あ、なんか甘い口直しをテーブルに置いておけばよかったわね。失敗しちゃった」
 それについては心底同意だった。吉良の咥内もひりついている。
 痛みと悪寒に汗を滲ませ、それでも自分に微笑みかけてくる女をじっと見る。死の淵にたたずむ女は、不思議と可憐にみえた。あと数分程度のうちに、この姿勢のままで、手に入れられる口直しはないだろうかと考えた。
 ……くちづけくらいしか思いつかなかった。

 カップに注がれた液体はやはり愛によるものだった。






罪と罰/

 妻がこわい夢をみたというので、夫の顔をしている以上は聞いてやらねばならない。
「あたしは夢の中で彼氏のいる女の子なの。彼氏はあなたの顔じゃあなかったけど、あたしもあたしの顔をしてなかった。ふたりで家に帰ったとたん、誰かがドアから押し入って、彼氏がむごたらしく殺される。怖い思いをさせられたあと、あたしも同じ目に遭うの」
 涙目の妻の肩を抱きながら、ただの夢だと言ってやる。

 またこわい夢をみたというので、無視もできない。
「どこかのカフェで友達とお茶をしているの。夢の中だからあたしの知らない友達だけど」
 妻は顔色があまりよくない。小声で続ける。
「男の人にもらった指輪をあたしは友達に見せるの。趣味がよくないなんて馬鹿にしながら。そのあと誰かに声をかけられて、軽い気持ちでついていく。路地裏に引きずりこまれた瞬間、あっけなく首を折られて、」
 怯える妻をやさしく落ちつかせる。夢の話なんだろう?

 もう何回も、こわい夢をみたという、
「あたしは夢の中で女子高生なの。その日は近所に住んでた4歳の男の子を家で預かってた」
 眼の下にはひどい隈ができている。
「夜中に誰かが家に忍びこんできた。お父さんもお母さんも殺された。怖くて気絶しそうになりながら、男の子だけは逃がさなきゃ、と夢中で窓から外に押し出した。おかしな音を確認してみたら、あたしの犬が血塗れで吊るされてた。ベッドの下から男の声が、」
 急に夫に抱きしめられ、思わず言葉に詰まる。すこし驚いたけれど、妻は今だけ安心する。
 夫の顔をした男は――焦りに口元を歪める。残りはあと何人だ。彼女は苦しみつづけるのか。いずれわたしに気づくのか。それとも良心なきわたしの身代りか。
 神というものはどうやらいるらしい。
 そして罰の与えかたを知っている。






ここよりはじまる/

「最後の宇宙船はもう出てしまったわ」
「……そのようだね。あんなに小さく見える」
「地球にとり残されたのは、あたしとあなたふたりだけよ」
「君も乗り遅れたくちかい?」
「あたしはあなたを待っていたの」
「? なぜ?」
「あたしが宇宙港に着いたとき、船はまだ出てなかったわ。でも遠くにあなたが見えた。今さら走っても間に合わない距離だった。だから乗らずにいたの」
「だから、なぜ?」

「この世でひとりくらい、あなたを待つ人がいてもいいと思ったの」






愛とは何でないか/

「こんなあたしが見たかった?」
 吉良吉影は視線をあげた。
 カフェのテーブルについた自分の正面に、いつのまにか女が座っている。年齢は50代くらいだ。赤みをおびた髪をうなじで纏めており、こめかみには白髪が窺える。口元に刻まれたうすい皺。落ちつきのある印象だが、さすがに若々しいとは言いがたい。
「いや」
 応えて吉良は、それまで読んでいた新聞に視線をおとす。おとしたあとで思う。若々しいとは言いがたいが、瞳が大きいせいかどこかしら愛嬌はあるな。
「こんなあたしが見たかった?」
 吉良吉影は視線をあげた。
 今度は目の前に、13歳くらいの少女が座っている。つやつやした頬、無垢と無知とがひとしく混在している瞳。あどけなさを残す口元には、この時代特有のわずかな小生意気さ。
「いや」
 ふたたび視線をおとす。おとしたあとで思う。少女の口元には、少しだけ強がりも覗いていた。きっと奥底には素直さのある子なのだろう。
「こんなあたしがみたかった?」
 問われてまた顔を上げれば、ちょこんと腰かけているのは4歳程度の幼児だ。垂らした足をぱたぱたと動かして落ちつきがない。
「いや」
 口調に気を遣いながら、言い聞かせるように返す。そうしてから思う。この子はこれから、いったいどんな成長を経ていくのだろう?
「こんなあたしが見たかった?」
 しわがれた声の響きから予想はついた。顔をあげれば案の定、座っているのは80前後とおぼしき老婆だ。撫でつけた白髪はおさまりが悪く、頬がたるんで顔じゅう皺だらけだ。
「いや」
 返してから思う。でも、皺で目尻が下がったせいで少し微笑むような表情になるのは、愛らしいといえなくもない。
 19歳。63歳。25歳。8歳。つぎつぎと移り変わる女の姿を、吉良は一瞥しては撥ねつけた。とはいえ、これと指定して望む姿もなかった。自分がいったいなにを見たいのか、自分自身で知りたかった。
「こんなあたしが見たかった?」
 顔をあげれば目の前に座っているのは30前半の女だ。
 よく見慣れた姿の――いや、違う。全身の輪郭がすこしふっくらしている。顔から胴体へと視線をさげる。身体の線を拾わないワンピースを着ているが、腹部が膨らんでいる。浮かべた笑顔はやわらかく、緊張や不安はあまり含まれない。2人目だからだろう。
 吉良はしばらく無言で考えた。よく考えたうえで、解答を導き出した。
「少し違う」
 読んでいた新聞にまた視線をおとす。でもそれは、相手を撥ねつけるためではなく、真摯に自分の思考と向きあうための姿勢だ。
「……夫婦を装う一環として、望まれたら考えてもよい程度に捉えていた。経済面や体調面で問題がなければね。生活上の不都合は増えるが、家庭のなかに新しい一員ができれば、もともと異物であるわたしに対する違和感も薄まる。リスクとリターンは五分五分だ。中庸だ。だからどちらでもよい。ことさら希望していたわけではない……」
 淡々と述べる。相手はどんな表情で聞いているだろうと考える。
「……ただ……正確に言うなら、」
 顔を上げる。
 女の姿はどこにもない。
 開きかけていた口を、吉良は閉じる。――『望みが叶えられた妻の姿』なら、見てみたかったかもしれない。
 必ずしも子を為すことでなくてもよいが、望んだものが得られることは幸福だ。わたしから何らかの幸福を得る姿を、もしかしたら見たかった。夫の正体を知らない以上、それは愚かで甘ったるい幻想だ。ただしわたしはその幻想を、生涯にわたって守りぬいただろう。夫婦の幸福はそのまま家庭の平穏につながる。わたし自身の平穏のためだ――それがそのまま君のためだ。
 真実たるべく守りぬいた幻想は、真実とどこが違うのか?
 ……見たかったものはそれだけだったかもしれない。






愛とは何でないか (reprise)/

「こんなぼくが見たかったか?」
 川尻しのぶは視線をあげた。
 カフェのテーブルについた自分の正面に、いつのまにか14歳くらいの少年が座っている。ゆるく波打つ淡い色の髪、大人になりきれていない丸みのある顎。姿勢のよさは育ちのよさを感じさせるが、すこし神経質さも垣間見える。
「いいえ」
 応えてしのぶは、自分の注文であるらしいテーブルのカップに視線をおとす。おとしたあとで思う。いったいどこの男の子かしら。知らない子のはずだけど、なんで自然に返事をしてしまったのかしら?
「こんなわたしが見たかったか?」
 川尻しのぶは視線をあげた。
 今度は目の前に、初老の男性が座っている。おそらく60を過ぎたあたりだ。あまり光を映さない涼しげな目元。髪を後ろに撫でつけており、知的ではあるがやや無機質な印象だ。
「いいえ」
 ふたたび視線をおとす。おとしたあとで思う。でも、女性とみれば愛想をふりまく男性のほうが、尻軽みたいで好きじゃないわ。これくらいの人のほうが誠実そうよ。
「こんなぼくがみたかったか?」
 問われてまた顔を上げれば、きちんと膝をそろえて座っているのは6歳程度の幼児だ。年齢のわりに大人びて、半眼ぎみの眼でこちらを見上げている。
「いいえ」
 強すぎる口調にならないよう、やさしい声音で返す。そして思う。6歳のころの早人も、どちらかといえば大人しいほうだったけど、すこし不安になるほど上品な子ね。
「こんなわたしが見たかったか?」
 聞きなれた声の響きから予想はついた。
 顔をあげれば案の定、座っているのは30前半の――彼女のよく知る夫だ。穏やかさの裏に匂うするどさを秘めた佇まい。いつもと違うところを上げるなら、こっくりとした栗色のセーターを着ていることで、……それは秋の服装だった。
 一緒に1999年の秋を迎えられなかったはずの夫だった。
「…………」
 しのぶは言葉に詰まる。叫びが喉から出そうになる。そうね。そうね。見たかったわ。でも、これだけが見たかったわけじゃあないの。
 51歳。27歳。9歳。18歳。つぎつぎと移り変わる男の姿を、しのぶは確認しながらも断りつづけた。奇妙なことに、30前半までとそれ以降の年齢で、まるきり容姿が違っていた。でも受ける印象は一貫して同じだ。
「…………」
 ピッ、ピッ、と電子音だけが耳に忍びこんだ。
 顔をあげれば目の前に、横たわっているのは70後半くらいの男性だ。病院のものとおぼしき手すり付きベッド。横には生命維持に関わるらしきもろもろの装置。何本かのケーブルが男性の纏ったブランケットの下へ伸びている。
 一見して察した。これは死の床だ。
 しのぶは立ち上がり、ベッドの枕元に立った。男の顔を覗きこむ。青白く老いた表情には、さすがに往時ほどの洗練された雰囲気はない。でも、この漂白されたような渋さも悪くないと思ってしまうのは、惚れた強みかな。
 しのぶは男性の耳元に口を近づけた。ゆっくりと、噛んで含めるようにささやく。
「あなたは本当は、あたしの夫じゃあないんでしょう?」
 男性が眼をあけた。瞳に揺れる驚愕を、すぐ近くで見届ける。
「驚いた? ふふ、そうよ。あたしはそんなあなたが見たかったの……」
 あやうく語尾に混ざりかけた嗚咽を、しのぶは堪える。
「あなたや早人だけが秘密を抱えてると思ってた? お生憎さま。ぜんぶ知ってたんだから。たぶん最初から解ってたんだから。知らないふりをするの、すごく大変だったんだから」
 さらさらと髪を撫でて、皺だらけの顎に手を添える。肌が乾いていた。唇も渇いていたけれど、キスをしない理由にはならなかった。
「ああ、すっきりした。ずっと言いたかったの。最後の最後に言おうと思ってたの。大事にとっておくつもりだったの、何十年でも……」
 ついに涙声になってしまった。しのぶは男性の痩せた胸に顔を埋める。
「あたし、あなたのその顔が見たかったの。その顔を見るまで、何十年もわくわくしながら、いっしょに過ごしていたかったの」
 顔をあげたくなかった。すぐ横で鳴っていたはずの電子音がもう聞こえない。顔をあげたらあの人はいないのだ。
 でも、秘めていたものを伝えられただけでもよかったと思う。そのうちきっと、あたしは眼が覚めてしまう。すこし泣いちゃうだろうけど、泣いたあとで美味しいコーヒーを淹れよう。
 そして、いつか来る再会のときまで、ゆっくりからかいの言葉を考えておこう。






恐怖に名をつけて/

 こわい。こわい。おそろしい。
 幽霊に憑かれている。わたしの殺した女だ。夫を殺され息子を殺され、自らもむごたらしく殺された女だ。昼も夜もまとわりつく。
「わたしが憎いのだろう?」
 半透明の腕がこちらに伸びる。
「わたしを殺したいのだろう?」
 透きとおった指で頭を掴まれる。
「わたしを、」
 温度のない唇がわたしにくちづける。
 はにかんで微笑みかけてくる。可憐に、いじましく、花のように。
 わたしの背中を冷えた汗がつたう。
 夫も息子も自らも、むごたらしく殺されてなお、この女はわたしがいとしいと笑う。
 こわい。とてもこわい。おそろしい。

 殺すのではなかったと地獄のような後悔に呑まれたくなどない。






恋草からげし/

『待っています』
 面会室のデスクには、畳まれた上着とプラスチックのトレイが載せられている。トレイの上にある小物はありふれたものだが、一見しただけではそれとは解らない。なにしろ小さすぎる。あるいは薄すぎる。
 まとめた刺繍糸のように見えるものは、極小の目が並んだ糸鋸。それより細い髪の毛のように見えるものは、金属製のワイヤー。親指の先ほどしかない剃刀の刃。名刺をさらに8つに切ったほどの油紙に描かれた地図。裏にはただひとこと、女の手で書かれたらしい文字――『待っています』。
「……こう言ってはなんだが、あの方は諦めが悪い」
 強化ガラスの仕切りの向こうにいる吉良に、施設職員がつぶやいた。彼はトレイを脇に押しやり、畳まれた上着だけを、仕切りに設けられた小窓から殺人鬼に渡す。
 吉良は上着を広げてみる。裏地がついている。裾のほうの縫い目に、一度糸を抜いてから縫いなおした痕跡があった。トレイの品物の数々は、裏地の中に隠されてこの施設に持ちこまれたのだ。
 収監された殺人鬼を脱獄させようとする女のもくろみは未だ成功していない。
「……財団の施設は正規の司法施設ではない。だから我々も、彼女を法律でいうところの逃走幇助の罪に問えるわけではない。……現状、放置しておいたほうがむしろ幇助を防ぎやすいとして泳がせてある。必ずなにかが仕込まれている、という前提で差し入れ品を調べればいいだけのことだ」
「実のところ、それらの物品で、この施設から脱出できるとはわたしも思わないね」
 吉良は部屋の内装を見回した。ここは収容室ではなく、物品の受け渡し専用の面会室だが、警備の厳重さは似たようなものだ。窓の強化ガラスは嵌め殺しで一分の隙もない。ドアはカードキーで施錠され、防火扉なみの強度を誇る。
「前時代的な道具ではあるが、それでもおまえには渡せない。人質をとって脅す目的には充分に使えるし、週に一度の外気浴のときに隙をつかれるかもしれない。おまえをここから出すわけにはいかない……」
 ちらりと油紙に眼をやる。ひとことの想いをしたためた女の字は折れそうに細い。
「川尻さんには、永遠に待っていてもらうしかない」
 吉良はどうでもよさそうに小さな息をついた。世間話のように続ける。
「あの女が、なにを『待って』いるのだか知っているか?」
 職員は訝しげに瞬きをした。
「……おまえのことじゃあないのか?」
「そりゃあわたし宛てのメッセージだ、相手としてはわたしに決まっている。言いたいのは、わたしをここから出してなにをしたいのかという話だ」
 なにをしたいのか? 質問の曖昧さに職員は戸惑う。自由を与えることが目的ではないのか。仮にこの男が脱出できたとして、次に考えることは潜伏先の確保だろうが、そういう実利的な内容を聞いているわけではあるまい。
 口籠る相手を視界の端で見やり、吉良は猫のように喉を鳴らして笑う。
「……わたしに言わせればたいした自惚れだよ。節のめだつ不格好な指と、かたちの悪い爪をしているくせに。わたしがあの家を選んだのは単なる偶然だし、もちろん好きこのんで同居していたわけでもないのに。……嫉妬だけは一人前とはね」
 何を言っている、と返しかけて、若い施設職員は絶句した。
 川尻しのぶの目的は。手を尽くして執拗に夫を脱獄させようとする妻の目的は。
 ――次こそは自分を『彼女』にしてもらうためなのだ。
 二の句を継げない相手を後目に、吉良は立ち上がった。上着をとり、自分の収容室に戻るためのドアに向かう。
「……だから、せいぜいわたしをここから出さないことだ」
 施設職員は顔を上げた。あやうく聞き返すところだった。それは、どちらの意味でだ?
 根本的な問いかけをしそうになった。おまえ自身はどうしたいのかと。それは尋問でもなければ連絡事項の通達でもない。感情的な私語だ。SPW財団職員には、きびしい職務意識が求められる。秘密裡のスカウトや紹介によって財団に入り、世に知られぬ任務につく彼らは生半可な外圧には揺るがない。
 その職員が一線を踏みはずしかけたのは、殺人鬼の声に、あえかな葛藤を読みとったからに他ならなかった。どうすればいいかわからないような……まるでただの男のような。

   *   *   *

 古典に学ぶべきだったな、と承太郎は思う。
 自分だけではない、職員全体がきちんと古典を学ぶべきだった。人間を相手にする以上、いわば基本的な学問だ。恋に狂った女が何をしでかすか、300年も前からきちんと書き残してあるのだ。
 川尻しのぶが施設に火をかけたのは1か月前のことだった。
 承太郎はその当時現場にいなかった。ただ、事件資料と残された防犯カメラの映像とでだいたい概要は掴める。中規模の出火が確認されると同時に、非常用システムが作動し、すべての扉が解放された。職員たちは避難し、かろうじて死傷者は出なかった。
 施設には、財団によって捕縛されたスタンド犯罪者たちも収容されている。脅威度の低い者はともかく、脅威度の高い者は構造的にいって施設の最奥部に軟禁されている。現在ただひとりそこに収容されていた吉良吉影は、脱出が遅れた。……でも遅れるだけのはずだった。あらゆる扉は解放され、非常用の案内音声も放送される。遅くはなっても、出られない道理はないのだ。
 混乱しきった現場で、状況を把握して収容者の確認に向かえた職員はいない。焼け落ちる寸前まで、映像を本体に転送していた監視カメラだけが様子を記録していた。承太郎は録画ディスクを機材に入れ、モニタをつけた。
 紅蓮の色が視界を染めあげた。音声データは破損しているので無音の映像だ。壁の大半が炎に舐められ、天井が黒く焦げつつある。収容室から何区画か離れたあたりの廊下を、吉良が歩いている。進行方向の奥で黒っぽいものが動いた。
 灼熱に彩られた世界で、煤だらけの女が無邪気に笑った。
 長い髪が風に煽られてゆらめく。まばゆい朱に包まれて、白い頬がなまめかしく映える。口元が動いた。距離が遠く、画質も悪いために読唇はむずかしい。さほど長い言葉ではないことは解る。
 吉良は、その場に立ち止まっていた。このカメラでは斜めの角度からしか表情は窺えない。ほんのすこし焦れる時間のあと、男の口元が動いた。女よりは長く喋ったようだ。
 川尻しのぶは瞑目した。数秒後に開けられた瞳のきらめきは、高貴ですらあった。次の言葉はごく簡素だったので、承太郎は唇を読むことができた。
 無上の幸福をこめてただひとこと。『はい』と。
 吉良はわずかに眼を細めた。しのぶのほうへと足を踏み出す。陽炎の向こうで、女も男に向かって歩みはじめた。ここで映像が乱れ、ジャミングの走った画面がめまぐるしく瞬く。ブラックアウトする。カメラが熱で壊れたのだ。
 焼け跡から男女の遺体は発見されていない。
 ただし、2人でどこかに逃げのびたという確証もない。映像で確認するかぎりでは、彼らは完全に炎に閉ざされてはいない。廊下の奥から川尻しのぶは歩いてきた。でも焼け落ちた壁や天井によって帰路を失った可能性はある。
 吉良がもつスタンド能力には、燃えさかる建物に強引に開孔し、抜け道を作るだけの威力がある――それは大人ふたりの肉体を跡形もなく爆ぜさせる威力でもあるが。でもいずれにせよ彼のスタンドは、財団がただ1台の実用化にこぎつけて脳内に埋めこんだ減殺装置によって封じられている。でなければ軟禁など不可能だ。財団の開発力は確かだが、『あの装置は出力の不安定さがネックだった』という情報も承太郎は聞きつけた。いかなる状況においても必ずスタンドを無力化できるのだろうか?
 ……結論からいえば、生死すら不明のまま、あのふたりは消えた。
 捜索は続けられているが、今になって財団にできることは何もなかった。承太郎はあることに思い至る。受話器をとり、資料担当者に内線をつなぐ。
「川尻しのぶの生年は解るか?」
「生まれ年ですね。調査資料をお部屋にお持ちしますか?」
「いや、口頭で教えてくれればそれでいい」
 しばらくお待ちください、と応えて幾秒かの間があった。
「川尻しのぶの生まれは1966年。昭和41年です。吉良と同い年ですね」
「1966年だな」
 ありがとう、と言って承太郎は通話を切る。念のための確認として、パソコンに入っているカレンダーソフトも立ち上げた。30年以上前まで日付を遡る。
 おぼろげな記憶だったが、推測は当たっていた。1966年の干支はひのえうま。
 火の気性で男もろともその身を焦がす女。
「…………迷信だ」
 学者でもある男は独語し、つまらぬ事実を忘れるために瞳を閉じた。
 それでも瞼の裏にはしばらく、カメラ越しのあざやかな熱と光と恋が焼きついていた。






“FALL” in love/
(拙作『熱をもって繋げ』世界軸)

 自分を待つ少女の顔が遠目に窺える距離になった。
 公園のベンチに座っており、頭上に伸びる枝々は紅葉に色づいている。うつむいた目元も合わせたように赤い。
「……」
 吉良は意図的に足音をたてた。ざっ、と靴底でアスファルトを擦る。
 聞きつけた少女がベンチから立ち上がる。こちらに向かって駆けだそうとするのを手で制し、足早に近づいた。座りなおすよう促して、自分も腰かける。
「……ここで待ち合わせて、駅に向かう予定じゃなかった?」
「それなんだけどね」
 動こうとしない自分にしのぶが尋ねるので、吉良はちいさな嘘をつく。
「人から聞いたんだが、あの映画は意外と人気らしく、S市内の映画館は混んでいるそうだ。違う電車で郊外の施設に向かったほうがいい」
 そうなんだ、と応じる声。吉良としては、泣き腫らした眼の女子高生と歩いて、好奇の視線を向けられたくないのが本音だった。少し時間をおいて落ちつかせたほうがいい。
「……君は秋になると、なぜ情緒不安定になるんだろうね」
「……自分でも理由が解らないの……」
 潤みをたたえた瞳でしのぶが苦笑した。
 彼女には秋になると、些細なきっかけでわけもなく涙を浮かべる奇妙な癖があった。朝晩は冷えるわねと言っては目尻を押さえ、赤蜻蛉を見たとはしゃいでは肩を震わせる。今日とて、ふたりで映画を観にいくだけの、高校生の男女としてはごくシンプルな予定だ。どこに落涙するほどのドラマが含まれるのだろう?
「ただ……秋っていう季節をあなたと迎えることが、すごく奇跡みたいに思えるの」
 まっすぐな髪が、さらりと流れて吉良の肩にもたれかかる。異性との接触を他人に見られるのは好まない。だが幸い周囲には人気がない、そのままにさせておく。2人がしばらく動かないので安心したのか、ベンチ裏の茂みでこおろぎが遠慮がちに鳴きはじめた。
「……今日の映画、どんな内容だっけ。イギリスの執事さんのお話だっけ?」
「二次大戦前のね。ぼくの好みで選んだから、君の好みに合うかどうかは解らないよ」
 これもちいさな嘘だった。自分の好みで選んだのは事実だ。でもしのぶを誘ったのは、彼女の好む恋愛映画としての要素もあると聞いたからにほかならない。そうでなければ自分ひとりの空き時間で観に行った。必ずしもしのぶが映画を気に入る保証はないが、少なくとも同じ体験は分かちあえる。
 吉良は自分自身に肩をすくめた。なぜ、ちいさな嘘ばかりついてしまうのだろう? 他愛ない内容なのが救いではある。たとえばとんでもない犯罪歴を隠蔽しているだの、自分以外の身分になりすまして素性を偽っているだの、そういう深刻な嘘はついていない。つく理由もないが。
「そうだ、郊外の映画館を目指すなら、M島方面に行きましょうよ」
 何かに思いあたる様子で、しのぶが胸の前で小さく手を合わせる。
「そっちのほうに美味しいイタリアンのお店があるって、友達に聞いたことがあるの。いまの時期なら牡蠣のグラタンが食べられるとか……」
 語尾がすぼまった。沈黙が落ちる。理由は解っていたので、いちいち問いたださない。
「ご――ごめんなさい。なんなのかな、あたしのこれ。……あたたかい料理を一緒に食べに行くのって、夏にはできなかったことだなって、……思ったら……」
 かぼそい声が震え、熱を籠もらせて溶けた。秋の気配はあいかわらず彼女を泣かせる。
 見る側としては困惑するしかないが、不思議といつも、彼女の涙は辛そうなものではなかった。単純に感情が昂ぶっているだけの涙だ。まるで、欲しくても欲しくても得られなかったものをやっと手にしたような。その価値を心から噛みしめているような。
 嘘ばかりつく自分――秋になると泣きだす彼女――ベンチの裏から虫の音。
 ある一致を見いだして、吉良はしずかに言った。
「君が泣く理由が解ったよ」
 しのぶが赤い眼を丸くする。構わずに続けた。
「君は、秋になると鳴きだすこおろぎだ。どうやらそれが君の使命だ。君は毎年、無事に務めを果たしているだけだから、安心するといい」
 君の名はジミニー・クリケットだ。木でできた……植物の心でできた嘘つきの人形を、辛抱づよく導くこおろぎ。
 こおろぎは諦めずに鳴きつづける。嘘をついて鼻が伸び、欲をかいて首を吊られ、堕落して驢馬に変えられる人形が、いつか人間になる日まで。
「君と出逢ってなお、夏を越えられなかったら、きっと危なかった。でも秋を迎えた。こおろぎが毎年鳴くかぎり、もう大丈夫だ」
「……ごめん、言ってる意味がよく解らないんだけど」
「ぼくが解っていればいい話だよ」
 意味だけを取るなら、会話を切りあげるような返事だ。でも少年の声はしずかだった。突き放しているわけでも、蔑んでいるわけでもなかった。無理に解らなくてもいいって意味かしら、と少女は思った。もしかしたら……彼自身もよく解っていないのかもしれない。選ばなかった道の話かもしれない。実はあたしの方が理解に近いのかもしれない。
 しのぶの頭は、吉良の肩にもたれかかったままだった。ここは屋外だ。今さらのように気恥ずかしさが胸に湧く。
「……郊外の映画館に向かうにしても、そろそろ駅に向かったほうがいいわね」
 頭を起こし、身体をまっすぐ立て直す。お昼は向こうで食べることに、と続けようとしたところで、視界がぐらりと斜めにかたむいた。起こしたばかりの頭が、まるで時間を巻き戻すようにさっきの肩へと再びおさまる。
 彼女は反対側の自分の肩を見る。いつのまにか回された少年の手が、しのぶを自分のほうに抱きよせていた。さっきまでの遠慮がちな寄りそいかたではなく、寒い朝にぴったり身を寄せあう小鳥のような、睦まじい距離になった。
「それなんだけどね」
 吉良は数秒だけ口をつぐんだ。いま用意しているのは、すぐにもばれる見えすいた嘘だ。彼女は自分がそこまで迂闊ではないのを知っている。
 でも世の中には、ばれてもいい嘘もあるのだろう。
「……財布を忘れた。急ぐ理由も無くなったから、しばらくゆっくりしていよう」
 言い終えて横を向くと、赤みを帯びた髪に、鼻先を埋めるかたちになった。髪にくちづける。交わされる体温がおたがいに溶けてゆく。
 彼の小さなこおろぎが、またしずかになきだした。






ここよりはじまる (reprise)/

「はじめまして。あたし見たわ。あなたが女の人を殺すのを」
「はじめまして。さようなら。見られたからには生かしておけない」
「どうして殺したの?」
「愛しあって幸福になるためだよ」
「あたしのことも愛してほしいな」
「君はわたしの愛に値する手をしていない」
「じゃあ、どうして危険から守ってくれたの?」
「……何を言っているのかわからない」
「じゃあ、どうしてあたしが無事だと安心してくれたの?」
「……何を言っているのかわからない」
「わかってしまうことはあなたの不幸なのね」
「そうだ。君はわたしを不幸にする。わたしにとって人間は2種類しかいない。幸福をもたらす『彼女』か、それ以外の置き物か。なのに君だけがわたしを不幸にする」
「…………」
「ただひとり、君だけだ」
「ありがとう」






Fly Me to the Moon/

 劇的なきっかけなどなかった。
 しいていえば街角で、猫のつがいを見かけたことだ。木陰で幸福そうに寄りそっていた。何気なく眺めるうちに、ひりひりする何かが心臓を炙りはじめた。その正体を自覚するまでしばらくかかった。気づいて吉良は、あまりにも単純すぎる真実に呆れかえった。
 なあんだ。だったら取るべき行動はひとつじゃあないか。
 急ぎ足で家に戻る。日曜の昼下がり、牛乳が切れたというので近所まで買いに行った帰り道だった。しのぶは庭で洗濯物を取りこんでいた。吉良は玄関には入らず、横手に回ってじかに庭に入った。
 洗濯かごを抱えた女が立っている。物干し竿にぴんと乾かされたシーツがキャンバスのようだ。まばゆい白を背景に、こちらを振り向くシルエットが絵画めいて映える。
「おかえりなさい。暑いのにありがとう」
 吉良は黙ってしのぶの手から洗濯かごを取り、足元に置いた。買い物袋もその中に置いてしまう。きょとんとしている女の背後に腕を伸ばし、シーツを物干し竿から引き下ろした。地面に着かないよう注意しつつ、赤みをおびた髪の上にふわりと纏わせる。
 純潔の色に包まれて、しのぶがぱちぱちと瞬きをしながら吉良を見上げる。その瞳を閉じさせないまま、唇にくちづけを落とした。
 ええと、あとは何が必要だったかな。立ちつくす妻をシーツごと抱きすくめて考える。そう、祝福が必要だ。あいにく庭木や物干し台しか参列者がいないが、天気はすこぶるよい。あまねくすべてに祝福されていると考えておこう。となればあとは誓詞だ。
「……健やかなるときも病めるときも」
 富めるときも貧しきときも。喜びのときも悲しみのときも。
 腕の中の女が顔を上げた。いたずらっぽく口角が上がっているのは、なにやらすてきな冗談だと受けとめているらしい。でも目尻に透明な感情が光っている。
「……死がふたりを分かつまで?」
 女の声が続きを引きうける。言ったあとで、ふふ、とはにかんで夫の胸に額をおしあてた。彼女はこれまで何者でもなかった。でもこの夏、はじめて妻になった。
 男はこれまで偽物の夫だった。でも今日やっと気がついた。これまで十数年、どうやら扉ではないところを叩きつづけていたのだ。もうその必要はない。
 とある借家の小さな庭で、たった2分の結婚式が終わった。その簡素さとはうらはらに、儀式に込められたすべてが真実だった。

   *   *   *

「できません」
 しめされた拒絶に、医師は驚かなかった。よくあるケースだったからだ。
 対面しているのは70代後半になる男性だ。品のある物腰、光を映さない切れ長の瞳。定年を迎えてしばらく経つだろうにスーツの手入れもよい。
 男性の隣には、壮年の息子が座っている。気まずそうに溜息をつき、「父ともう一度話しあいます」と言い残して退出していく。これもよくあるケースだ。できることは待つことだけだった――法と、倫理と、現状についての説明をすませたうえで、家族の承諾を。

 医師とは逆に、早人は意外でならなかった。父にはウェットな印象を抱いていなかったからだ。いつも知的に醒め、感情的な言動には遠く、いつまでも少女のような母をあしらうのが常だった。それでもふたりは不思議と睦まじかったけれど。
 病院側から渡された書類にも、すすんで眼を通していた。ここに来てまさか拒絶をみせるとは思ってもみなかった。
「……解ってると思うけど」
 病院の白いベンチで早人は切り出す。
「容体が悪化した場合の『延命措置の不要』は、本人が決めていたことだ。母さんはもう覚悟していた。回復の見込みがないのも解ってて、お医者さんにきちんと指示書を残していた。歳も歳だしねと笑ってたよ。終末医療で優先されるべきは当人の意思だ」
 自分よりも勉強していたはずの相手に理解を説くのは妙な気分だ。落ちつかないながらも続ける。
「ぼくだって完全に割りきれたわけじゃあない。だけど、いつまでも決めないままでは苦しむのは母さんだ。それを考えてほしい……」
 横目で盗み見る。足を組んで座ったまま、彼の父は微動だにしない。
「……わたしは彼女を殺さないと決めた」
 そうじゃあない、無益に長引かせないだけだ。言いつのろうとしたが、言葉を選びそびれて口籠る。どうやら話の前提そのものが違う。
 1999年の夏以来、川尻早人は父に対して謎めいた気配を嗅ぎとっていた。最初のうちそれは違和感だった。ぼくのパパはパパじゃあない。修理に出しているビデオカメラが戻ってきたら正体を探り出してやる。でも夏が終わるころ、違和感は少し違うものにずれた。消えたわけではないが、不快ではない手触りになった。寄りそう父母のあいだにある温度が、いつのまにか家を満たしていた。長らく求めた、『愛しあう両親』を手に入れたのだと気がついた……。
 父が細く息をつく。立ち上がる動作に躊躇はない。
「わたしの決定は覆らない。しかし、あくまでもわたし内部の決定だ。現実の手続きは当人の意思に沿うべきだし、その実行はおまえに一任する。いっさい口を出さないことも約束しよう。担当医にもそう伝えておく」
 医師の待つ相談室へと去ってゆく。早人は黙って見送った。

 小ぢんまりとした葬儀は、それも彼女が生前に望んだものだった。親族への配慮もあっていちおうの形式は取られたが、ほぼ家族や友人たちが語りあうだけの素朴な式だった。
 喪主である川尻浩作は完璧に務めをこなした。葬儀社と打ちあわせ、進行を采配し、弔問客から花と慰めを受けとって謝礼を返した。ひとつだけ完璧ではなかったのは、……式の終了と同時に倒れたことだ。
 救急車が呼ばれ、心筋梗塞と診断された。健康には気を遣っていたはずですと早人は言ったが、お歳を考えれば仕方ありませんとやんわり諭される。そのまま意識は戻らず、5日後、すべての生命機能が停止した。
 顔布をかけられた遺体を前にして早人は思う。――父の顔をしていれば、それは父なのだろうか。ではいま、布で顔を隠されているこの遺体は誰だろう?
 1999年の夏以来、父はおそらく父ではなかった。いつか病院で交わした会話を思い起こす。『わたしは彼女を殺さないと決めた』……父にしては感情的な表現だった。そういう精神状態なのだと受け止めていた。でも、もし自らの過去を踏まえた発言だったとしたら……実際にその経験があるとしたら?
 確証はない。ただ、仮に語られざる過去があったとしても、父にはきっと反省も後悔もない。謝罪や償いの意思もない。そういう印象だ。でもたったひとつだけ理解したのだ。
 誰かを喪うとはどういうことか。
 その理解とて自分のみに限定される。妻以外の他者を慮る材料にはならない。でもそれで充分だった。他人には言えないが、充分な事実だった。
 ぼくには父がいたのだ。

「……立て続けになっちゃったけど、どちらのお葬式も無事にすんだわね」
 クリーニングから戻ってきた礼服をクローゼットにしまいつつ、早人の妻が言う。
「弔事に対してあまり使う表現じゃあないけど、誤解しないで聞いてね。……なんていうか、どちらもいいお式だったわ。おふたりがいなくなっちゃったのはとても哀しかった。でも、お逢いできた縁と生前の思い出を、せめて大切にしていこうと思えた。別に特別な何かがあったお式じゃあないけど……天気がよくて、お花がきれいで、おふたりとも遺影がすてきで。そんな些細なことに、なんだか少し救われたわ」
「うん、解るよ。……いい式だった」
 小さな歓声が耳に届き、早人は隣のリビングに視線を送る。つけっぱなしのTVがドラマのワンシーンを流していた。登場人物の結婚式が行われるようだ。
 健やかなるときも病めるときも。富めるときも貧しきときも。
 これを愛し、敬い、助け、死がふたりを分かつまで、
「……お義父さんとお義母さん……いまごろどうしてるかしらね」
 妻の震えた声を聞きつけ、夫は振り返る。クローゼットのほうを向いたまま、うつむいて耳を赤くしている。誰かを喪うことは、誰にとっても大きいことだ。
「決まってるだろ」
 早人は妻の肩を抱いて笑いかける。
「『式』が終わったんだ。次はハネムーンだよ」






あしたは手を繋いで/
(拙作『熱をもって繋げ』世界軸)

 できるだけ手を注視しなかったのは、トリガーになることを恐れたからだが、気がつけば自然に視界に入っている。
 どうとも思わない。いや語弊がある。思わないわけはない。彼女の手だ。
 声や髪や肌や言葉やしぐさや視線と同じく彼女を構成するものだ。
 はじめての行為の熱に浮かされて、あまりなにも考えられない。ときどき、我ながら譫言のように口走ったのは憶えている。君か。君だな。いちいち応答があったのも憶えている。あたしよ。あたしよ。
 簡単なことばは無限の意味を内包していた。それだけで充分だった。
 あとはもうお互いに、いろいろなことに必死だったので。






かれ曰く/


「人間は人間以外に恋をできるだろうか?」
 デッドマンは考える。影法師めいて樹上に立ち。聞くものはないが口に出して。
「……恋の概念による、が解答かな。たとえば人間と猫は恋をできるか。精神的交流の命名権は当事者にある。知性なき身の認識の欠如が不安だが、相手に愛着をみせるなら、広義における芽はあるだろう。原始的な位置まで恋の概念を引きさげねばならないがね。高等知が期待される生き物、たとえば人間を、洗脳的に懐かせて自由意志を奪うことには問題がある。獣の場合はその自由意志をどう問うか……適切な飼育環境と安心欲求を満たす交流があるならば、あとはロマンの問題かな? まあ恋など元来ロマンの産物だ」
 デッドマンは腕を組む。たいらな影法師にはできないことだ。そのかわり悩みは奥深い。
「次。有機物は無機物に恋をできるか?……いちじるしくハードルが上がる。精神的交流には期待できない。だが精神とはなにか? せいぜい脳が受けた刺激を再構築したものだ。ひとつのものを白と呼び、黒とも呼ぶのがヒトの脳だ。となれば有機物と無機物を、いったい脳はどう区別する?……ふむ、無機物ではないが人体のごく一部分を想定してみよう。ひとりの男がその部分にのみ心惹かれる。それは恋か? 半ば自己を見る行為ではあるかもな。二重人格者は内部人格どうしで恋をできるかという論にも通じる。意識がそれぞれ別に確立していると捉えれば可能かな? 自己の檻は突破できないが……まあ突破せねばならない義務もない。これも概念の問題だ。自認する感情への命名権は当事者のものだ、そこに満足があるならね」
 デッドマンは眼下の家を浚う。ひとりの女が庭に出てくる。実はそれを待っていた。
「最後。死者は生者に恋をできるか――生者は死者に恋をできるか?」
 デッドマンは女を見る。赤みをおびた長い髪。
「死は無だ。……ところがわたし自身がその反証だ。もっとも俗にいう成仏は果たしてない。あわいに立つ不安定な身だ。でも物質世界における死を経たのは事実だ。人は無を愛せるか? 虚ろを愛する退廃思考の意味ではない。かつて有であった無を、さながら有のように愛せるか?……そもそも無とはなんだろう。『屋敷幽霊』で掃除屋に喰われたわたしの腕は、植物のようなものへ変化した。あれがわたしの消滅か? 枝葉を伸ばし花実をつけ、萌えいづる生物へとうつろえば、いずれ彼岸へのきざはしが? わからない。期待はまだやめておこう。希望が高みを目指すだけ、落下の距離が絶望だ」
 女は庭のベンチに腰かける。大事に抱えた絵本をひらく。ベンチの隣にはトレイが置かれ――2人分のコーヒーが乗っている。デッドマンはふと幻視する。ベンチにいるのはひとりの老婆。傍らの盛り土には白い花。はげしい喜びはないが深い絶望もない、しずかにただ添う無辜の花。老いた指が伸ばされて、優雅な茎をかたむける。少女のように花弁にくちづける。自分の頬に唇の感触をおぼえ、デッドマンの肩が揺れる。たちまち眼下は現実にもどる。
「…………」
 デッドマンはこの女が、何かに似ているとずっと思っていた。若くあれば蒼穹のごとく、盛りにあれば熱のまま。老いてあれば夕べの海を思わせ、きっとその死は蛍に似る。
「なあんだ」
 デッドマンは口に出す。影法師めいて樹上に立ち。たとえ聞くものがおらずとも。

「わたしは植物だから、夏に恋をしたのだな」







2019/06/05

本として発行した際につけていただいた表紙 (Pixiv)
 いたい嘘 いたくない嘘