彼は自分をとても幸福だと思っている。ほしかったものを手に入れたからだ。それが何だったのか憶えていないことなど、些細なことだ。


 ショートカットの女は死の淵で喘いでいる。すごく怖かった時間とすごく混乱した時間は終わり、今はただ、世界からどんどん離れていくことだけを感じている。彼女自身はホテルの床の血だまりに伏せたまま一歩も動けない。世界のほうが急激に彼女から去っていく。色も音も感覚も、名前も尊厳も思い出も。
「いつの間に髪を切ったんだい?」
 瀟洒な背広姿の男が、女のそばに膝をついて屈みこんだ。スラックスがべっとり赤黒く濡れるのにも構わず、女の上体を支え起こして胸に抱く。恋人にするように頬を寄せる。『いつの間に』は奇妙な質問だった。彼らは数時間前に知り合ったばかりで、ほぼ初対面だった。
 女の頭を撫でる手は、関節こそ少し太いが、男のものにしては小ぶりだった。色もほかの地肌と比べてわずかに白い。通りすがり程度では難しいが、注意深い人間なら引っかかりを覚えただろう。つぎはぎしたような違和感のある手だった。
「ああ、夏が近いからか。長いのも似合ってたけど短いのも爽やかだ」
 女は刃物で背中から縦横に切り裂かれていた。骨すら覗きかねない凄惨な傷だ。一度は逃げようとしたからだが、それを防ぐ目的以上の執拗さで深く、長く、刻まれていた。しかし彼以外には解らないことだが、殺意は殺意であって、いかに酷い傷であってもそこに憎しみはない。必ず殺したいから執拗になっただけだ。憎しみもその逆も、なんの感情も抱いていない。必要だから殺した。彼の殺人はみなそうだ。2年前のひとつを除いて。
「とてもきれいだ。今夜の君はこんなふうに死んでいくんだね」
 男は恍惚として囁きかけた。蒼白を通りこして青黒くなりはじめた女のおとがいに手を添え、上を向かせる。前髪をくすぐり、こめかみに口づけ、そのままの流れで添えている自分の手にも口づける。甲にほおずりして、舌を這わせ、ふううう……と吐息まじりに癒された表情をする。
 満足げな表情の視線が、自分の指先にふと留まった。瞬間、光をあまり映さない黒い瞳に怒りの色が灯った。右手の人差し指にちっぽけな血の汚れがついている。硬貨大ほどもない小さな紅色だ。
 悪鬼のような形相で、男は愛撫していた女の身体を床に叩きつけた。
「わたしの手を汚したな、くそ女が!」
 数秒前までの態度とはうらはらに、全身から憎悪を漲らせる。髪を引っ掴んで乱暴に持ち上げ、歯軋りして睨めつける。血だまりに沈んでいた後頭部を掴んだせいで、手は硬貨大どころではない血糊にぬるぬると塗れてしまう。矛盾した行動だが、彼の中では筋が通っていた。自分から触れるのはいいが、自分の関知していない触られかたをするのは許せないのだ。
「おまえなんか違う。消し飛べ」
 ぼん、と内に籠もった音がして、ショートカットの女は欠片も残らず爆散した。人ひとり消すだけの圧力と熱膨張が発生したとは思えない小さな音だ。隣室に人がいても気づかれない。自動精算機付きのファッションホテルなので、ひとりで出てきたことをフロントに見咎められる心配もない。
 備え付けのティッシュを取った男は、まず真っ先に血みどろの手を拭った。持ち歩いているウェットティッシュを取り出し、さらに丁寧に拭きあげる。愛用している手袋も取り出しかけたが、血だらけのスラックスを見下ろし、先にシャワーを浴びなければならないと思い直して諦める。
 代わりに男は、うっとりと自分の手を眺めた。ホテルの窓から見える猫の眼の銀月に透かし、爪のかたちや関節の動きにしみじみ見入って眼を細めた。
 男のものにしては小さく、白かったが、特に美しい手ではない。だけど男は熱を帯びたまなざしで呼吸すらひそめて見惚れ続けた。


彼は自分をとても幸福だと思っている。ほしかったものを手に入れたからだ。本当にそれがここに存在するのかどうかなど、些細なことだ。


 2年前、自分の身になにが起きたのか、彼の記憶はすでに曖昧だった。
 花をたくさん摘んだような気がしていた。どれもみんな白い花で、冷たく澄んできれいだった。世界にはさまざまな花が咲いていたが、彼は愛する自分の町の花で満足だった。摘み取ってかわいがってやるのが人生の楽しみだった。花弁の先端をとりどりに彩るのが花たちの間に流行っており、愛らしかったけれど、趣味のよくない花も多かった。彼は苦笑しながら、摘み取ってもっと似合うほかの色を親切に塗りなおしてやった。茎を上等の貴金属で飾ってやると、花たちは喜んで彼に感謝を述べた。花には口がないから声で聞いたわけではないが、心で通じあっているので理解できた。
 せっかく平穏に過ごしていた彼を、あるとき誰かが手酷く突き飛ばして、地面に這わせた。危ないので這ったまま隠れねばならなくなり、その姿勢では目の前に偶然あった1本の花しか見えない。その花は特別きれいでも艶やかでもなく、彼は溜息をついた。ただ、よく見れば少し可憐かもしれなかった。
 あたしを摘んで、とその花が囁いた。
 彼は驚いた。花が口をきいたのだ。しかも言ったあと急にはぐらかして笑いだした。ぎこちなく沈黙したかと思うと、次第にうっすら涙ぐんで拗ねた顔になった。花のほうから言わせるなんて、とでも言いたげだった。
 彼はこれまで多くの花を愛でてきた。笑う花も拗ねる花も初めてではない。だけど、予想のつかない花は生まれて初めてだった。震える手で彼は花に触れた。花は瞬きをして、笑おうとして、また泣いた。夢のようだった。夢の外側で、なにかを叫ぶ自分の声を聞いたがそれどころではなかった。
 だけどほどなく、その花は黙りこんでしまった。他の花たちとは逆だ。他の花は野原にいるうちは意味のない雑音をきいきい発し、正直うるさく思っていたが、彼がかわいがってやれば心で会話ができた。でもこの花は、さっきまで笑っていたのに、夢中で握りしめたとたん口をきかない。
 彼は困り果てた。これではいやだ。どうにかしなければと悩み、まずはその場所から降りた。降りて初めて気づいたがそこは寝台の上だった。なぜか咽喉がからからに乾いており、なぜかサイドテーブルが倒れてカップが割れていた。裸だったので服を着て、花の茎や根にもきちんと服を着せた。この家にはもうひとつ動くものがあったはずだと今更のように気づいたが、泊りがけのサマースクールに行っているのを思い出した。
 花を根のついたまま引きずって、彼は目指す場所に向かった。今となっては意味も憶えていないことを、彼は幾度も幾度も繰り返していた。「アンジェロ岩」「エニグマの少年」「治癒の能力」「異なる対象同士を一体化させ直す」「永続的な融合」……重たい花を抱きかかえて彼は歩いた。早朝で人目がなかったのが幸運だった。
 今となってはこの名も記憶していないが、東方仗助の家に彼は侵入した。なにやら相手が喚いていた内容など、もっと憶えているはずもない。母親を質にとって脅迫し、切り落とした自分の手首の先に、黙ってしまった花を移植させた。隙を見せて反撃されないように、用心深く片腕づつ処置させた。花は切り口に吸いついたとたん、ぴたりと手になった。
 両手の処置が済むが早いか、少年が彼に襲いかかった。他人の手を接いだのなら本来の力を失ったはずと踏んだのかもしれないし、単に母親に手を出されて我慢の限界だったのかもしれない。いずれにせよ少年は爆ぜて地に伏した。いまや彼のものになった手は、とてもよくなじんでいた。魂から深く繋がり、まるでふたりでひとりであるかのように、彼の力もそのままだった。そこで初めて、これまでの花々とは心など通じていなかったのを思い知った。
 昏倒している少年とその母は放置し、切り落とした自分の元の手は消し飛ばした。万事うまくいったが、ひとつ困ったことがあった。花の残していった葉や茎や根が、どうしても不要物だと思えない。初めての感覚だ。摘んだ部分が痛々しいが、できればずっと見ていたい。
 だがこのままではいずれ傷み、酷い状態になってしまう。とても嫌だが処理は必要だ。せめてこれは得たのだし、と彼は手にほおずりし、茎や葉にくちづけて別れを惜しんだ。できるだけ美しく送る準備のために、一度連れて帰った。この家にはもう住めないので、金庫を壊してあるだけの現金を持ちだした。クローゼットの女物に眼が留まり、なぜか着せたくなったので白い服も持っていった。
 車の後部座席に花の残骸を横たえ、上にブランケットをかけて仮眠しているように装った。M県外の海岸へと向かう。途中で花屋に寄り、百合を2輪買った。「奥様にですか」と笑顔で語りかけられ、「いいえ」と即答した。裏切るかもしれない他人なぞと一緒にするなと彼は思った。
 海辺の駐車場で日没を待ち、真夜中、人気のない砂浜に立った。白い服を着て、失った部分の代わりに2輪の百合を胸にのせた残骸はとてもきれいだった。残骸のはずなのにきれいだった。暁を迎え、空が透きとおる朱鷺色に染まった一瞬で、ふっと腕に抱いているすべてを消し飛ばした。なにもかもがなくなった。
 しばらく茫と風に吹かれていた。割れそうなほど耳鳴りがやかましいのに、鳥肌が立つほど静かだった。自分の両手を見下ろした。誰かにこの心を聞いてもらおう、そう思った。


 彼は自分をとても幸福だと思っている。ほしかったものを手に入れたからだ。そう思うたびに何かが失われ続けていることなど、些細なことだ。


 かつての彼は、生まれ育った町を出ていくなど考えられなかった。不安に怯え背後を気にしながら生きるのは真っ平だったし、そうならないために神経を割いてきた。しかし、もう戻れないと覚悟してみれば安寧は町の外にこそ期待された。
 偽名を使うなどの基本的な策は講じながらも、彼は好きなところを訪れ、手とともに気楽に過ごした。あれこれ面倒に思いわずらうのはもう止めていた。ぬかりなく慎重に、だが神経質にはならず、くつろいで暮らした。むしろそれが彼を世間に溶けこませた。
 手持ちの現金はすぐ少なくなったので、ある地方で金融機関のATMを襲った。彼の能力を使って注意深く開孔し、金を抜きとり、そのあと機械本体を消滅させれば手口すら解らない。約1000万円の札束は、1万円札だけなら大きさは辞書程度で重量は約1キロ。思ったより小さい。旅行の荷物だと思えば身軽の域だ。
 正絹の手袋を買い、粋な型のスーツを誂えて、観光地の旅館に長逗留した。小さなカメラをわざとちらつかせ、素性を聞かれれば「ここには取材で来まして」と曖昧に微笑んだ。もの書きの類いと勘違いさせておけば、周囲が勝手に遠慮してくれる。田舎をのんびり堪能するのに飽きれば、都会のウィークリーマンションに移った。美術館や博物館めぐりを楽しみ、特に触れられるタイプの彫刻を置いている施設にはよく通った。長期宿泊の手続きとして身分証を求められれば、堂々と偽造品を見せた。問題さえ起こさなければいちいち照会などされない。移動するときは新幹線のグリーン席をふたつ取った。すてきな青空を眺め、移動する景色を楽しみながら、すべすべした絹ごしに語りかける。今夜はどこで休もうか?
 温泉地の湯治宿には、ほぼひと冬滞在した。人目の煩わしさを避けるため鄙びた宿の個室をとったが、建物の古さは実家がそうであったので苦にならないし落ちつける。江戸川乱歩を読み、花の絵を描き、骨董品のLP盤を聴いた。川釣りは、彼の手が虫餌を怖がるものだから練り餌の釣りしかできなかった。部屋に戻ってやさしくなだめ、クリームを擦りこみ、甘噛みして心をこめて慈しんだ。彼にはこれまで絶望したら爪を噛む癖があった。しかし自分の手にもうそんなことはできないし、する必要もなかった。
 ただ――
 きっかけは彼自身にも解らない。物憂い雨が続くときだろうか、街角で猫を見かけたときだろうか。正体のないものを探してあてどなく歩いてしまう夜がたまにあった。どこに行ったのだ、だいたいなにを探しているのだ。無表情な街並みを苛つきながら回遊する。冷えた手をいたわって撫でさすり、その一瞬は満たされても決定的に足りていない。
 焦りに疲れ、ひと休みしようと深夜営業のバーに眼を留める。カウンターでは女の子が、旅先でのちょっとした火遊びを期待してグラスを傾けている。入ってきた男は知的な風貌で、上級仕立てのスーツを着ており、出張ついでの高給ビジネスマンにしか見えない。加えて彼はそうしようと思えばいくらでも社交的に振る舞える。
 そのままの流れの晩のこともあるし、約束して翌晩のこともあるが、彼はたいてい近日中にその女の子にこう語りかけることになった。「今夜の君はこんなふうに」――「違う」。
 求めているのは条件や要素ではない。機会や状況ではない。どちらにせよ彼は、もう理解することを放棄していた。ただひたすら、不思議だとばかり思っていた。何度でも何度でも心を打ち明けたかったはずなのに。


 でも、それでも彼は自分をとても幸福だと思っている。ほしかったものを手に入れたからだ。それ以外のことはすべて、些細なことだ。


 少し寒くて海のある古い町。最期の地がどこか故郷に似ていたのは、単なる偶然だったのだろう。ともあれ彼の生活は唐突に終わった。
 彼の足取りを追っていた財団の追跡組織は、対象の居場所を長らく掴めなかった。対象が元々持っている用心深さと計算高さに、放埓さゆえの読めない不規則性が加わり、追跡を困難なものにしていた。財団の力は小さくないが、さすがに日本全土に網は張れない。事件として立証されていないので指名手配も不可能だ。
 それでも彼らは、心に課した使命感と執念でやっと殺人鬼を探しあてた。2年前、治癒の能力をもつ東方仗助は辛うじて一命をとりとめていたが、後方支援にまわるほかない後遺症を負ったため参加していない。友人たちと、年長の甥と、このとき13歳になっていた勇敢な少年とが志を受けて動いていた。
 住んでいたウィークリーマンションに踏みこまれる寸前、気配に気づいて立てこもったのは、彼の敏感さの為せる技だった。包囲戦となり、数回の爆発がおき、負傷者が出た。敵陣が動揺した隙をついて、彼はベランダをつたい地上へと降りた。
だが張りこんでいた追手と鉢合わせ、揉みあいになって車道にまろび出る。現場にちょうど駆けつけた救急車にもろともに接触した。目的地付近のため車は徐行しかけていたのだが、彼だけが反対車線に弾き出され、走行中の大型トラックに撥ねられた。
 ブレーキ音と叫喚が場にいるものの鼓膜を貫いた。救急隊員たちが慌てて車から降り、現場に規制線を敷く。彼を追っていた者たちも閉め出されかけたが、救急車に撥ねられた軽傷一名の連れであるため、留まるのを許された。
 13歳の少年は一歩づつ、救命士に囲まれて横たわっている男に近づいた。割れた頭蓋から流血し、逃れられない死に浸りつつある、あれこそが母の仇だ。少年を見た救急隊員が誰何したが、白いコートと帽子の男が「その男の、……息子だ」と言い添えた。
 憎悪と、怒りと、あえかな逡巡が少年の眼にあった。視線は男の手に吸いついていた。今はこの場にいない東方仗助から、かつてこの男に何を強制されたかは聞いている。加えてつい先程、目の前で見てしまった。男は救急車に撥ねられる瞬間、反射的に自分の両手をかばおうとして身体を捩じった。だから反対車線に弾き出され、トラックに轢かれたのだ。
 それでもこれらは、あらかじめ情報として知っており、覚悟していた事実だった。そのままであれば肉親を奪われた怒りにも転化できた。だが救命士が、手遅れとは知りつつも応急処置のため、脱がせた上着を『息子』に渡したのがいけなかった。なにか固いものが内ポケットにあると少年は気づいた。取り出した物体には見覚えがあった。割れたウェッジウッドのカップの持ち手部分だった。
 すでに呼吸すら弱まっていた男が唐突に眼を見開いた。力なく弛緩していたはずの手を少年に伸ばす。安静を命じる声を無視し、焦りに掠れた声で言う。「返せ」
 少年は無言のまま、小さな陶片を差し出した。よく知っている手がそれを受けとった。白いかけらを手のひらごと頬に押しあてて、希代の殺人鬼が瞳を閉じる。
 固い質感をよすがに、遠く想起されるものがあった。これは彼女の手だ。わたしの手にしたんだった。失っていたのだと、そこで初めて気がついた。わたしはわたし自身によって彼女を喪った。割れた底をようやく自覚した。だがじきに何もかも消える。生命は本来みなそうだ、死ねば天地に国などなく、ただ消える。
 彼は自分をとても幸福だと思っていた。ここに至って、本当にそうなのかどうかを一度よく考えてみて――どうでもいいなと放り投げた。
 彼は自分が世界と相容れない生き物であると知っていた。他人どころか自分の痛みすら解さない化け物であると知っていた。救われも赦されもしないが全くそうされたいとも思わなかった。だけどたったひとり、帰りを待ってくれた女がいた。それでよかった。
 静かに彼はこと切れた。意識が無に溶ける寸前、目の前の見知らぬ小僧が「おまえは、ママを、……」と言いかけて続けられず、崩れ落ちて泣き伏したのも、どうでもいいことだった。







Somebody To Love / Queen
2016/12/13