「興醒めだわ」
 美しく結いあげていた髪を、女がみずからの手で解く。肩口にばらりと赤みがかった房が零れる。ほんとうは自分の手で解かれるのを期待していた髪型だと、男は知っている。
「つまらない夫が、変わってくれたと感じたからこそ、心が震えたのよ。最初から別人だったなんて。それならそれだけのことじゃあないの。ずっと砂を噛むような結婚生活だったけど、何年も時間を重ねてようやく何かが実ったと思えたのに。やっと心の伴う夫婦になれたと信じてたのに……」
 自分を見る瞳には熱がない。口角は下がり気味に嫌悪をかたどる。造形はそのままなのに、微細なニュアンスでここまで別人めいた印象になるものかと感心する。
「退屈で平凡な夫が、褒められたことではないにせよ、家族のために思いきった盗みまでしてくれたのが嬉しかったの。まさか他人だとばれないための工作だったなんて。そこに心はないじゃあないの。騙された自分が恥ずかしいわ。夫が可哀想だわ。なにもかも台無し。火が消えたみたいに醒めたわ……」
 女の夫の顔をかりそめに纏う男は――微笑んだ。こんな日が来るのを想定はしていなかったが、いざ来てみれば浮かぶのは笑顔なのだなと思う。
 さて、ようやく君を殺せるわけだ! こうなった以上耐える意味はなく、口封じの必要も生じた。まったく焦らしてくれたものだ。よくも無邪気に細い喉を晒して歩き回り、よくも無防備に抱きついて肌身を預けてくれたものだ。わたしが誰かも知らずに! 君のような女をたくさん殺してきたよ。君のようなという表現には語弊があるな、なぜなら君はわたしが選んだ女ではないからね! これまで交情してきたのは我が眼に適った素晴らしい『彼女』たちだ。みんな綺麗で純潔で清廉だった! 君はあいにく美しくない、本来どうでもいい女だが、焦らされた恨みがあるのでね、殺すことにするよ。
 どす黒い粘性のなにかが胃の腑で沸騰している。その熱に押され、いきなり無言で女の頭を引っ掴む。こめかみの髪を爆弾に変えるが早いか、スイッチを押す。水気を含んだ破砕音とともに脳漿が飛び散る。醒めた表情のまま、女が仰向けに倒れる。
 倒れて一度バウンドした拍子に、スカートの裾が少し乱れた。水玉模様の生地が捲れ、きわどい位置まで白い内腿がのぞく。網膜にその白さを認めた瞬間、男は今度は声に出して、機関銃のようにまくしたてた。
「……わたしに抱かれたくて発情してぎらぎらしていたくせに!! 今からでも遅くないな? 抱いてほしいか? ンン、お返事はどうした、いつもいつも邪魔くさいほどまとわりついて気を惹こうと話しかけてきたくせに!! この家を潜伏先に決めたのは、おまえの夫が偶然わたしと似た体格だったからだ! 完全にそれだけの成り行きだ! おまえの夫は単なる道具でおまえはその付属品、いや付属品ならまだ役に立つな、厄介なだけのお荷物だったさ! わたしはおまえを選んだわけじゃあないし居なければどれほど楽だったか! ああもう聞こえてないな、まずったよ、もっと怯えさせてから殺せばよかった。爪を切らせて背中を切り刻んで名前の由来を聞いて好きな体位を聞き出して猫の耳を切り取っておまえの耳にぶらさげて、どんな苦痛のうちにどう殺されるかを懇切丁寧に説明して恐怖に滂沱するのをたっぷり楽しんでから殺せばよかった! 『彼女』にはしないよ、その価値はないからね、わたしはおまえなんか必要じゃあない! 誰でもいいんだ!! おまえなん」
 唐突にぶつりと声が途切れた。大音量のスピーカーのプラグを引き抜いた様に似ていた。男の視線はある一点に留まっていた。女の頬に残っている小さなうすい傷跡。だいぶ眼に近いが、辛うじて眼に刺さらずにすんだ、サボテンの棘の傷跡。
 のろのろとした速度で、男は視線を女の表情全体に移す。見開かれた瞳孔と青白い肌。絶命して筋肉が弛緩したせいか――もう少し経てば逆に硬直が始まるが――嫌悪の陰は拭いさられている。ただ無音の、無彩色の表情。
 怯える顔を見たかったか。
 恐怖に喘ぐ顔を見たかったか。
 こんな顔を見たかったか?
 厭な音の耳鳴りがする。殺したかった、すごくすごく殺したかった、ようやく叶った。それで? 切り取って愛でないのならこのまま処分を?
 ……『処分』とはいらないものやほしくないものに対して使う語彙ではなかったか。
 周囲の空気が透明な石と化してゆく。錯覚だと解っていても身動きがとれない。怒気が昂ぶりすぎて具合が悪い。苛立ちのあまり吐き気がする。心臓に妙な異物が混入している。何かは解らないが形状は尖っている。拍動のたびに刺さって穴が開き、二度と戻らないものが流れ出る。
 巻き戻さないのか? もうひとりの自分が尋ねてくる。
 巻き戻せるのか? もうひとりの自分に応える。絶望が引鉄となってあの力は発動する。精神を限界まで追いつめられるぎりぎりの縁に立てば。だがこれは絶望だろうか。ああ、どうやらこの場合、絶望というより虚無らしい。巻き戻したところで、わたしが本物の夫ではない事実は変わらない。正体を知られていない時点まで戻っても過去の事実は変わらない。わたしはこの女が求める男では、
 思考がその後の展開を拒否して遮断される。なぜ遮断されるのか解らない。冷えてゆく死体を見下ろす。触れようとして屈みこみ、腕を伸ばし、わたしにだけは触られたくないだろうなと思ったとたんに腕が動かなくなる。なぜ動かないのか解らない。
 これがほしい。ほしいな。ほしかったのにな。
 控えているキラークイーンの腕を、自分のこめかみに添えさせる。止まない耳鳴りがうるさくて仕方なかった。加えてひどい違和感も解消したかった。ここには虚無しかないのに、肉体だけが残されている不整合。とてつもない違和感だ。状態を揃えねばならない。
 違和感を正せばせめて平穏は得られるか。虚無に呑まれればそれも認識できないか。もういい。もういい。












 ひゅう、ひゅう、という聞き苦しい音は自分の喉から出ていた。
「あなた」
 焦りの滲んだ呼びかけが耳に滑りこむ。その声を知覚した瞬間、弾かれたようにシーツから跳ね起きる。自分の顔を覗きこんでいた女の肩を掴む。
「……、……!」
 顔を突きつけて何かを言いかけたが、何を言おうとしたのか解らない。唇だけが空回りして無声に震える。驚いた表情で川尻しのぶが瞬きを繰り返す。体温と反応がある。それを確認すると動悸が次第に速度を落としてゆく。
 吉良吉影はゆるゆると常態を取り戻す。見慣れはじめた寝室。馴染みはじめたベッド。同衾しはじめた妻――元来すべて他人の。
「……ああ……その」
 呼吸を整えながら身を引く。女の肩を掴んだ手も下ろそうとしたが、すべて離してしまうのはなぜか躊躇われ、片手だけは握力を緩めてそのまま残す。
「すまない。寝惚けていたようだ」
「いやな夢でも見たの?」
「……だと思う。憶えていない」
 乱れを残す脈拍と悪寒が尾をひく背筋。言いようのない不快感。どんな夢を見ていたかは、本当に憶えていない。記憶を探ろうとしたが、それにすら忌避をおぼえて吉良は細い息を吐く。
「起こしたなら悪かった。うるさい声を上げたかな」
「声はほとんど上げてなかったけど、呼吸がなんだか変で……寝汗もかいてたから不安になって起こしたの。水分、取ったほうがいいわ」
 寝室の薄暗さに少し手間取りながら、しのぶが枕元のミネラルウォーターを取って寄こす。夏の室温のぬるい水だが、嚥下すると確かに体内に心地よく沁みる。欠けたものが補われる感覚があった。全てではないにしても。
「ただ魘されてるのも不安だけど、呼吸が変だったのは、ちょっとだけほんとに怖かったわ。まるで瀕死の人の呼吸みたいだったから……。もし呼んでも起きなかったら、救急車まで呼んじゃったかもしれない」
 雰囲気を重くしすぎないようにか、女の口調は冗談めかされている。だが瞳に湛えられた色は真摯だ。心から気遣っている。誰を? 自分の夫を。
「……今夜、という意味ではないがね。救急車より先に呼ぶものがあったんじゃあないかな」
 ペットボトルを返しながら吉良は仮面じみた笑みをつくった。迂闊に振るべき話題ではないと思いつつも、なぜか持ち出さずにはおれない。
「なんのこと?」
「警察だよ。大家さんがうちに集金にきた日、ぼくが何をしたか君は見ていただろう」
 あえかに息を飲み、川尻しのぶは気まずそうに視線を彷徨わせる。どちらが窃盗を犯したのだか解らない態度だ。
 本来これは、むやみに思い出させるべき案件ではない。他に手段がなかったのは事実で、ゆえに慣れた方法を採ってしまったが、あれは危うい賭けだった。殺人ほどではないにせよ、夫の犯罪に立ち会うのは衝撃の経験であるはずだ。交番に出頭しろと説得されてもおかしくない。川尻浩作に盗癖でもあれば話は別だが、可能性は高くない。
 だがしのぶは、「盗ったのね」と確認までしておきながら、以降それに触れることはなかった。むしろ当たりが柔らかくなった気がしている。犯罪も辞さぬ相手と知って腫れ物扱いをはじめたかとも思ったが、どうやら違う。態度は好意へと転化している。
 吉良としては好都合だった。事実を見たうえで、秘密を守り、同時に何を強請るでもないのだ。幸運としか言いようがない。ただ逆に言えば、あまりといえばあまりの都合の良さだ。今更ながら理由を知りたい気持ちがあった。でないと少々うそ寒い……推測ならできなくもないが。
「なぜ、通報しなかったんだい」
「……あなたにも、悪いことだっていう自覚あったのね」
 表情に迷ったあげくの選択肢という態で、しのぶは眉を下げて笑った。
「あまりにも自然で堂々としてたから、悪いことだと感じてないんじゃあないかとすら思ってたわ。うん、いいことのわけない。悪いことなのよ。……ただ……」
 吉良は黙って言葉を待つ。今夜はなぜか、この件に触れずにはおれない。川尻浩作という男を吉良は、まだ把握しきれていない。妻にどう思われていたかは、しのぶの当初の態度から推測できる。だが十年連れ添った夫婦ならではの前提があるのだとしたら、それは自分には解らない。本物の夫ではないから解らない――胃の腑でどろりと黒が沸く。
「……あなたに逢えたと思ったの」
 いささか突飛な解答だった。言葉の繋がりを捉えかね、思わず心中で反芻する。『犯罪を見てしまったが』『通報しなかったのは』『あなたに逢えたと思ったから』……つまり?
「変な言い回しよね、解ってる。でもそうとしか言いようがなくて」
 肩に置かれたままの夫の手に、しのぶが自分の手を重ねる。ぞくりと吉良は緊張する。ここで衝動に負けるわけにはいかない。だが、危惧したよりは冷静さを保てると気づく。熱い手だ、これまでの冷たく澄んだ『彼女』たちとは違うからだろう。そう受け止めておく。
「あのときあたし、初めてあなたを見つけたの。今まではあなたがどこにいるのか解らなかった。そのことに苛立ってもいた。でもあの日あなたを見て、この人は誰かしらと一瞬ゼロに戻って考えて、これがあたしの夫だと理解したわ。悪びれなくて、大胆で、少しこわいくらいの……野生動物みたいに自由なあなた。それが嬉しくて、できごとの判断を一旦よそに置いてしまったの」
「……ぼくはてっきり、『家族のためにしてくれたから』と言うんじゃあないかと思っていた。夫が家族のために思いきって罪まで犯した、その飛躍がよかったのだと」
「そういう考え方も幸せかもしれないわね。でも正直な感想はいま言ったとおりシンプルよ。あたし、……」
 語尾が小さく窄まる。逡巡ゆえか羞恥ゆえかを判断しそびれて、吉良は女の顔を見る。どちらでもなかった。川尻しのぶはただ、無垢な幸福を噛みしめていた。
「あたし、あなたに逢えたの」
 重なった女の指に少し力がこもる。男は無言でその熱を追った。
「……あのね、ただ」
「解ってる。もうしないよ」
 静かに応じる。あのあと、川尻浩作の机や鞄や物入れを引っかき回し、開錠番号のメモは無事に見つけ出した。金庫についてはもう問題ない。心がけるべきは慎重策だ。
「魔が差したというやつだ。すこし焦ってもいた。二度としないよ」
 夫の返事に頷きながらも、川尻しのぶは正確に把握していた。この返答は真実ではない。再び窃盗をするだのしないだの、そういった次元の話ではないが、夫は恐らく変わっていない。彼は自戒や反省といった倫理から遠い。外面はともかく内面は、不遜で、超然として、自由なままの夫だ。
 嘘をつかれた形になるが、それは気にならなかった。自分のための思いやりの嘘かどうか、その自信は明確には持てないが構わなかった。あの日見た彼であることが第一だった。他人には決して言えないけれど。
「……えい」
 思いきってふざける声がして、ベッドに上体を起こしている吉良の肩がぐっと押された。大した力ではなかったが、油断していた男はバランスを失い、シーツに横向きに倒れる。吉良は少し驚いた。押し倒されたことではなく自分が油断していた事実に。
 薄い夏布団ごと女の重みがなだれこむ。薄闇の中でもぞもぞと衣擦れの音がして、圧迫感が横から包まれるものに変わる。抱きしめられていると男は気づく。頭全体を抱えこみ、胸に押しあてるようにして。
「……さっき手に触ったときに思ったの。あなた、身体がとても冷えてる」
 頭の上から聞こえる川尻しのぶの声は上ずっている。緊張しているらしい。地下室の様子を見てきてくれ、と頼みにきたときは気安く抱きついてきたくせに。解らない女だ。だが他人のことは言えない。わたしもあのときは、衝動に駆られて焦燥していたのに、今はなぜか別の心持ちだ。
「あなたがこうしてほしいかどうかわからないけど、……あたしがこうしたいから……」
 声は上から聞こえるが、音の振動は密着している肌全体で感じる。早鐘の鼓動。耳朶をくすぐる指。鼻先を埋められている頭髪にかかる熱い息。少し心配になるほど熱いなと思ったあとで、自分が冷えているのだと思い至る。
 慣れない感覚があった。体温、触感、それだけではない。どうやらわたしは、単純に驚いている。とても驚いている。何に?
 腕を伸ばすまでもなかったことに?
 吉良は瞳を閉じる。わたしの身体が冷えていても、必ずしも寒いとは思っていない。特定の状況下において必要なものが万人一致とはかぎらない。寒かろうといって寒冷地の植物を温暖な土地に植えればたやすく枯れる。無理解の傲慢だ。
 ただ、寒冷地の植物とて成長は陽光に頼む。短い夏に花を咲かせる。……
 手をからだの曲線に添えた。少しずつ背中に回して浅く力をこめる。夫という生き物の真似事をする。女が息を詰めて震えるのが解る。おもしろいように反応がある。
 自分自身の意図が掴めない。いや、したいことは明らかだ。心の底を打ち明けたい。君を今から殺すよと囁きたい。何人そうしてきたか聞きたいかい? わたしと秘密を共有しよう。そのあと折れんばかり首を絞めてあげよう。したいことは解っている。解らないのはできない理由だ。
 おまえはわたしに逢えたという。だがそもそもなぜ逢えたと思う? おまえの夫を殺したからだ。情の抱けない相手としても死まではさすがに願うまい? 殺されて当然の悪党だったか? 仮にも息子の父親だ、後ろめたい心境には?
 わたしがこの寝室に至るまでに幾つの死があったろう。吉良自身はその数にまったく何の感想もない。切った爪の長さのほうがまだしも関心事だ。ただ、普通の女がその数に抱く感想については意識する。目立たず俗世に溶けこむためには客観視点も必要だからだ。真実を知られればこの家は隠れ蓑たりえない。知られればこんな夜は決して来ない。知られればこの女はわたしに擦り寄らない。知られればこの女とてきっとわたしを――息苦しさを感じはじめて吉良は思考を追い払う。わたしに落ち度はない。なぜ息苦しくなるのだ。
 息苦しさからの逃避を求め、無意識につよく女の肌に顔を埋めた。物理的に矛盾しているのに、こうすれば軽減されるとなぜか解っていた。石鹸の香りの奥に、どこかをくすぐられるような生き物の匂いを嗅ぎとる。もどかしさが首をもたげる。美しい手にくちづける悦びとは、このうえなく近いのにありえなく遠い。ここから先は綱渡りだ。渡りきれるか。わからない。渡りたい。
 背に這わせた指をやわらかな肌に食いこませた。何かに歯を立てたい衝動に駆られ、胸元に顔を埋めたまま薄い夜着の布地に噛みついた。女が自分の髪に口づけるのを感じた。やはり息が熱かった。夫の姿をしているから、ということだけが理由ではない、と解っていた。
 欠けたものが補われる感覚があった。全てではないにしても。理由や原因や動機や可能性を、ひとたび全部捨てて、ひとつの結果だけを見つめることにした。見たい結果はひとつだけだった。
 この夏に逢った。







"To absolutely drive you wild, wild..." / Queen
2018/01/19