「嬉しいなあ和食。ずっと食べたかったんだよね」
 縁側からにぶく冬陽が差す空条家の居間で、にっこりと花京院は言った。
 制服のシャツにクリケット・セーターを合わせた姿で、卓袱台の前に正座している。いただきます、と箸をとる。骨ばった意外と大きな手を承太郎はじっと見つめる。箸の使い方が綺麗だ、花京院の箸使いをきちんと見るのは初めてだ――こんなありふれた仕草を見ることが、実は初めてだ。初めて家に泊めた翌朝は、母が倒れていつものように朝食を作れなかった。香港で入った中華料理店では、ろくに食事をとらないうちに戦闘に移行してしまった。それ以降は箸をつかう文化圏からだんだん離れてしまった。
 互いの魂を認めあい、タフな冗談を交わしつつ熱砂の道を歩み、野営の戯れに好きな映画を語りあった仲なのに、こんな日常的な姿を見たことがなかった。
「きざみ葱入りの納豆。鯵の干物。特にこだわるわけじゃあないけど、味噌汁の具が油揚げだとちょっと幸せになるね。切り干し大根のおひたしをつけて……そうそう、漬け物は白菜がいいな。唐辛子の入った辛めのやつ。鰹あえの梅干も好きだけど」
 白菜の芯を箸でつまみ、口に入れて旨そうにさくさくと噛む。こちらの視線に気づき、微笑みかける。
「君は卵焼きは甘いほうが好き、塩味のほうが好き? ホリィさんは甘いのを作りそうだけど。ぼくは両親の仕事の都合でよく海外に行ってて……それでエジプトで奴に遭遇したわけだが……海外ではいつも、その国らしいものを積極的に食べることにしていた」
 父の教えでね、と味噌汁を啜りながら付け加える。
「せっかく知らない土地にいるんだ、普段味わえないものをめいっぱい楽しむのがいい。そのほうが帰ってきたときの故郷の味もまた格別だ」
 承太郎は食卓に視線を落とした。自分の前にも箸が、いつか母がはしゃいで買いこんだ小さなイルカの箸置きにきちんと揃えてある。少女趣味なガラスの小物は、純和風の食卓にはあまり似合わない。でもこのミスマッチが承太郎にとってはいつもの風景だった。湯呑から薫りたつ煎茶。湯気をたてる白米。
 平凡でささやかなこういう朝食を、花京院が最後に味わったのはいつだろう?
 おん、と庭から声が聞こえた。眼をやれば縁側から見える松の木のそばで、知らない犬がくるくると跳ね回っている。白地に黒ぶち模様の賢そうな大型犬だ。猫ならまだしも、あんな大きな洋犬がどこから迷い込んだのだろう。しかもこちらを見て千切れんばかりに尻尾を振っている。知らない仲ではないとでもいいたげに。
「食べ終わったら学校だけど、君、徒歩通学だよね?」
 ごとん、と身体が揺れて承太郎は顔をはっと上げた。朝食の卓についていたはずなのに、いつのまにか鞄を抱え、鈍行列車の席にふたりで並んで座っている。
 車内は中混みで、さわさわとした心地よい活気が耳を打つ。スピーカー越しのざらついた声のアナウンスが、承太郎の知らない駅の名を告げている。車窓の向こうで、寒さに羽毛を膨らませた雀たちが、電車の通過を受けていっせいに飛び立つのが見えた。
「転校するまでぼくは電車通学だった。車内ではもっぱら本を読んでたけど、少々見栄を張りたい気持ちもあってよく硬そうな本を持ち歩いたっけ。ははは、中島敦だの堀辰雄だの。それはそれで面白かったけど、さすがに肩の力を抜きたくなってSFの文庫本を買ったよ。タイトルはなんていったっけなあ、ちょっと前に出たばかりの……そうそう……『たったひとつの冴えたやりかた』」
 ごとん、とまた列車が揺れる。隣同士に座っているふたりの腿が軽く触れあい、その位置で落ちついた。ズボンの生地越しに感じる体温を承太郎はそっと追う。確かにここにいるとしか思えない体温だ。
「活き活きした女の子の主人公が愛らしいんだ。SF界隈はよく知らないけど、きっと名作として長く残る一冊だと思う。とはいえ、実は最後まで読み切れてなくてさ。長くもない中編だけど、両親に無理をいって転校手続きをしていたから、話が盛り上がったところで電車通学をやめてしまったんだ。君を叩きのめしたらゆっくり続きを読もうなんて考えてたんだよ。肉の芽に支配された歪な思考の中で」
 白いマフラーを巻いた花京院は一旦口を閉ざした。まだどこか眠そうな朝の街が、窓の外にごとごとと流れては消えてゆく。
「……続きを読みたかったなあ。星の世界に飛び出したみどりの瞳の主人公が、自分の体内に潜むちいさな友人とともに、故郷を襲う悲劇をどうやって阻むのか。彼女らがどんな決断をするのか知りたかった。『The Only Neat Thing to Do』、ぼくにとっても、たったひとつの冴えたやりかただった。……君の旅についていくと決めたのは」
 承太郎は何かを言おうとした。たぶん否定の声を、彼の決断を阻止する声を上げようとした。だが何の意味がある? あの旅はもう終わったのだ。若く急いた言葉を、ひたむきな視線を、だんだん縮まる距離の中で求めあい与えあった日々は、既に。
 車窓の風景が速度を落としはじめた。横向きに引きつる力が徐々に強まり、ブレーキを軋ませて電車が停まる。乗客たちがぞろぞろ出口へと向かう。通勤客や学生のコートの暗色が群れる中、鋲付きのブルゾンを羽織りバンダナをひるがえした金髪の男が、すぐ目の前を通り過ぎる。なぜかシャボンの香りがふわりと尾を引いて続く。
「君は背が高いから、座席はきっと一番うしろなんだろうね」
 バンダナの男が去って視界が開けてみれば、そこは学校の教室だった。
 灰白にくすんだ黒板、埃っぽいチョークの匂い。承太郎は教室の一番うしろの席に座っている。特注サイズの椅子の背もたれはしっくり身体に馴染み、壁の掲示物は見慣れた角度に剥がれかけている。間違いなく、いつも承太郎が通っていた教室だった。
 花京院は右に2列ほどずれた列の、前から3番目の席に横向きに腰かけている。教室にはふたり以外誰もいない。窓は校庭に面しており、風の強い日にはよくあることだが、巻き上げられたグラウンドの砂がぱたぱたと硝子を打つ音が聞こえた。
「これは旅の中で言ったことがあったかな。ぼくはあまり眼がよくない。『法皇の緑』は遠距離の探知に特化したスタンドだから、戦闘に支障はなかったけど……これ以上うしろの席になると黒板が見えづらいんだよね。君と座席が離れるのは寂しいなあ」
 肩をすくめて花京院は、胸元のポケットを探って何かを取り出した。
「というわけで、見立ててほしい。このさい自分で言うけど、きっとぼくには似合うアイテムだと思うんだよね。どうだい?」
 細い銀縁の眼鏡をかけた顔がもったいぶって胸を張る。レンズの奥の瞼には、目立たないが光の具合によって淡い陰を落とす縦長の傷跡がのぞく。
 承太郎は口角を上げて答えようとした。ああ、似合ってるぜ。銀縁も知的でいいが、髪色と合わせた鼈甲色のフレームも試してみたらどうだ? そんな他愛ない会話を交わそうとした。
 だが、言葉が出てこない。どうしても出てこない。花京院の顔をじっと見たまま、開けそこねた唇を震わせていることしかできない。何気なく話題に応じて、この雰囲気を保っていたいのに。ぱたぱた、ぱたぱたと砂粒が窓を叩く音だけが教室に響く。
 ぱたぱた、とんとん。……とんとん。風に煽られた程度の砂にしては、妙に音が強くないか? 思わず視線を送った承太郎は、窓を打つ砂嵐が塑像のような立体感を持っており、しかも小柄なボストン・テリアの形をしていることに眼を疑う。その傍でゆらりと、紅蓮の炎をたなびかせた鳥の頭をもつ像が首をもたげるのも見える。
 承太郎は椅子を蹴って駆け寄った。窓を開けて、叫ぼうとした。勇気ある友と義に厚い友、それぞれの名を呼ぼうとした。だが見開いた眼に砂が入り、角膜を刺すちくりとした痛みに思わず瞼を閉ざす。
「察しがつくぞ承太郎、どうせ君、素行は良くないくせに成績いいだろ?」
 眼を擦りつつ瞼を持ちあげれば、承太郎は校舎の屋上のコンクリートに立っていた。
 フェンスにもたれて胡坐をかき、赤毛の少年は『不良』の相棒に拗ねた視線を送る。見上げる空は雲混じりの晴天、切れ間からしばしば陽光が漏れる。寒いけれどこれくらいなら、人目につかない気楽さを優先して屋上で昼食をとる選択肢は有効だ。下から聞こえるかすかなさざめきは、女生徒たちが学食へと向かう声だ。
 手に弁当箱、膝の上に参考書を載せ、花京院は箸の先でなにやら書面の文字を追っている。ぶつぶつ唱えているのは午後の授業の対策らしいが、ひと段落したらしく溜息をついて頭を振った。
「参るよなあ、ときどき君みたいな人種がいるんだ。ジョースターさんも放校経験があるんだって? 努力なんか大嫌いだと公言する人間が社会的に成功している事実と、世の大人はどう折り合いをつけてるんだろうねえ。でもぼくだって負けちゃあいないぞ、君の得意科目はなんだい? 英語はなしだぜ、身内にネイティブがいるんだから」
 ぱたんと閉じた参考書を投げ出す。事実、承太郎の成績は決して悪くない。典型的な理数系なので古典や歴史は並程度だが、他教科でかなりの点を稼いでいるため校内では上位成績者の位置にいる。有名私立をも狙える総合点なので、教師陣は「ジョジョを本格的な入試までにいかに真面目にさせるか」と頭を悩ませているくらいだ。
 だが、改めて何が得意か? と問われると戸惑いがあった。教師たちは常日頃――それが彼らの職務なので仕方ないが――得意科目を掘り下げることより、他教科でもバランスよく点をとることを重点的に教えようとするものだから。
 花京院が立ち上がり、腰の後ろを払った。品定めするような悪戯っぽい視線で、じっと承太郎の深みのある緑眼を覗きこむ。
「ぼくたちはあの旅で図らずも、紅海でスキューバダイビングをするはめになったけど……憶えてるかな、潜水艦から脱出した直後、ポルナレフが大騒ぎしたろ。「オレは泳ぎが苦手なんだよ、海の波は荒いって聞くぜ、潮の流れに巻きこまれて溺れ死にたくねえ!」……往生際が悪いったらない。そのとき君はこう言ったね。「下を見ろ、ポルナレフ。あの巻き貝の形を」……貝がどうしたんだよと返されて君は答えた。「貝殻のツノが小さいか、ほとんど無い種類ばかりだろう。つまり、この周辺が流れの穏やかな海域であることの証拠だ。波の荒い海に棲む貝は、望まない場所まで転がされてしまうのを防ぐためツノが大きく発達している。ここにいるのはツノが小さく丸っこい種類ばかりだから、心配しなくていい」……ポルナレフは単純に喜んでたけど、ぼくはひそかに感嘆したんだよ、あの状況で冷静に周囲を見ている君の観察眼に。ねえ、君の洞察力や集中力はきっと研究職に向いている。それもフィールドワークを軸に据えた行動派の研究職だ。他人と無理に折り合う必要もない、得意分野で自分の感覚をじっくり磨けばいい。どうだ、一度、真剣に考えてみないか?」
 承太郎は瞬きをした。考えてもみなかった進路を提示されて、その意外性に驚いた。同時に、それが自分にとても馴染む道だと確信を抱けたことにも驚いた。
 そいつはいいな、と言おうとした。ありがとうよ、と言おうとした。そして何より、おまえはどうするんだと聞き返したかった。花京院、おまえはどうするんだ? おまえは将来、どんな男になるんだ?
 がさり、と足元で音がした。承太郎は下を見る。『サンジェルマン』と店名の書かれた紙袋が、吹き寄せられて足首にまとわりついている。風上に視線を向けると、大きな犬を従えたボブカットの少女がこちらを見つめていた。冬だというのにノースリーブのワンピース姿だ。少女は躊躇いがちに眉を下げ、哀しそうにふたりに微笑みかける。まるで同じ痛みに浸るものを見るように。
 突然、もう1枚の紙袋が吹きつけてきた。今度は足首ではなく承太郎の顔面にだ。く、と声を出して慌てて剥ぎとる。
「言ってしまうけどね、ぼくは友人がいなかったから、あまり買い食いというやつをしたことがない」
 眼前の光景はまた様相を変えていて、今度は色とりどりの棟が並ぶ商店街だった。
 隣を歩く花京院は楽しそうに周囲を見回している。派手なロゴをあしらったナイロンの暖簾が軒先で揺れ、買い出しの主婦たちがレジそっちのけで話しこんでいる。連れだって歩く歩道の幾何学模様は、承太郎のよく知るものだった。帰宅途中、気が向けば軽食を買いに立ち寄る商店街だ。
「でも考えてみたら、別にひとりで街歩きを楽しんだって構わないんだ。他人の眼を気にしなくてもいい、ぼくは君からそういう強さを学んだ気がする。もっとも今はふたりだから関係ないけどね。……おすすめはどれだい? ああこれ? たしかに美味しそうだ」
 見れば花京院の手には、藁半紙に包まれた揚げたてのコロッケがある。いつの間にと思った次の瞬間、ふと自分の右手にも熱を感じる。さっき顔面から剥ぎとったはずの紙袋は、同じ揚げたてのコロッケに化けていた。
 大きな口で一気に半分も齧りつき、あつつ、などと言いながら花京院は幸せそうに頬張っている。包み紙に刷られているのは、空条家が昔から贔屓にしている肉屋の名前だ。小学校の、中学の、高校の帰り道、ひとつ買えば店の主人が片目を閉じてもうひとつおまけしてくれるいつもの味。――異国の夜、「日本に帰ったら何が食べたい?」と振られ、かつて似たような質問に『母の手料理』と応えた幼少期を思い出して苦笑しつつ、「今は教えねえ」と、「帰ったらおまえにも食わせてやる、楽しみにしとけ」と返した――いつもの味。
「ホリィさんの手料理で育ったんだもの、君の舌は確かなんだろう。でもねえ承太郎……確かに世の中には営利主義の、料金以下の食事を出すひどいレストランがあるけど、そんな店でも代金を払わないで出てくるのはまずいよ。法に訴えられたら負けるのは君だ、気をつけたほうがいい」
 あっという間に食べ終わり、汚れた指を舐めつつ花京院が言う。
「だから次は、その店に是非ぼくを連れていってくれ。お会計のとき店員に、君の胸がすくような強烈な嫌味を言ってやるからさ」
 澄ました顔で自分よりも高い肩を叩き、花京院は歩き出した。追おうとして承太郎は、商店街から横に伸びた路地にふたりの男がかがみこんでいるのに気づく。警察官……らしいのだが、なぜか日本の警察の制服ではない。色や形は似ているが、スラックスの横にラインが入っている。海外の制服だろうか?
 ともあれ彼らは、警察官の職務らしき作業をしていた。ピンセットでひとつひとつ、丁寧にビンのかけらを拾い集めている。恐らく証拠品の回収だろうが、根気のいる作業だ。そこまでやる必要があるのかという疑問がつい浮かぶ。
 でも彼らは黙々と作業に励んでいた。ひとりは黒髪の、ひとりは銀髪の警官たちは、真摯に職務を全うしていた。地を這うように身を屈めながら、彼らは誰よりも誇り高かった。『真実に向かおうとする意志』が重要なのだと無言のまま語っていた。
 承太郎は商店街に視線を戻した。今にも落ちて来そうな空の下、前を歩む背中がとつとつと揺れている。承太郎は自ら瞳を閉じた。もう、彼には解っていた。
 瞳を開くとそこは家にほど近い神社の階段だった。
 花京院と並び、境内へと続く階段をゆっくり上っている。黙ったまま同じペースで一段一段を踏みしめている。ざり、ざりと靴底を擦る音が、まるでいつかのふたりの鼓動のように重なって響く。
 ここは彼らが初めて出逢った場所だった。
 薄暗い雑木林の連なりがしんと佇み、夕暮れに近づく冷気のむこうで鳥がけだるく囀っている。何の変哲もない冬の日だ。ただひとつの齟齬を除いては。
 ふらりと一羽の蝶が、階段の上から落ちるように舞ってきた。急勾配を上る彼らとすれ違う。すれ違ってから思う、冬に蝶が飛ぶだろうか? それに蝶の脚には、細くて長い一本の糸が結ばれてはいなかったか。承太郎は背後を振り返る。階段の下に20歳前後の女が立っているのが見えた。
 日本ではやや目立ちそうな露出度の高い服装で、ふたつに分けた髪を左右で高く結い上げている。遠目にも解る、自分と似た色の瞳をしている。女がこちらに気づき、驚いた表情で何かを言う。それは英語で、家族の続柄を示すもので、ごく簡単な単語だった。
 承太郎は振り切るように前を向いた。そして花京院が遅れない程度の速足で、残りの石段を上りきった――あの女が誰なのか、承太郎には解っていた。
 身に覚えはない、自分より年上の相手との続柄がそれであるはずもない。でも女の言葉は正しかった。それが解った。解ってしまった。だからせめて、時間が欲しかった。彼女に恨みはない、むしろ本来なら自分が詫びるべきだ。だが今だけはどうしても邪魔されたくなかった。
 神社の境内を抜けて住宅街に差しかかる。ふたりはずっと無言のままだった。角を曲がり、空条邸の軒が見えてくる。承太郎は急に歩く速度を落とす。家に着きたくなかった。たぶん、あそこまでだという確信があった。
 道は無限に続いてはくれなかった。とうとう着いてしまった門扉の前で、花京院が立ち止まった。
「ここまでだ。承太郎」
 赤い前髪の下にある瞳が、ちっとも笑いたくはなさそうに無理に細められる。
 承太郎はぎりと唇を噛んだ。
「…………おまえは、」
 この日、承太郎がはじめて発する言葉だった。言いたいことは沢山あるのに、最初の言葉は結局これだ。ああ、いやだな、今日こいつの前ではじめて言う言葉がこれだなんて。
「おまえはおれのゆめだ」
 絞り出すような現状認識を、花京院は黙って聞いている。
「おまえはおれの夢だ。おれたちが立っているのは、決して来なかった冬だ。おまえが生きて帰った冬だ。来るものと信じていた、疑いすらしなかった、おまえと過ごす冬だ……」
 承太郎には解っていた。これは夜の夢、未練の産物。
 たった50日間の、それこそ夢のように走り抜けた日々が、これまでの17年間の自分をまるごと塗り替えた。なのに肝心の塗る色を決めた男は、塗り替えるだけ塗り替えておきながらいなくなってしまった。バランスが取れなかった。戻ってきた日常にあの男がいないのは、どう考えても間違いだった。あやうい精神が均衡を求め、どこにもない国をつくりあげた。スタンドは存在を確信することで立ち出ずる異形、認識の力が生みだす像だ。最強を謳われる『星の白金』、その主が抱く認識の力もまた最強を誇る。――こうあってほしいという願望の楽園に己を封じ込めかねないほどに。
「……そうだね。君が気づいた真実ならば、ぼくはそれを否定できない……」
 自分の言葉を認める相手の顔を見ることができず、承太郎は俯く。
「なんと言えばいいんだろうね。ぼくは君になんと言えば?……慰めの言葉は、あまり意味がない気がする。あえてこう言おうか。人が死ぬことは、別に大したことじゃあない。思い詰めないでほしい、旅に別れはつきものだ。そうだろう?」
 かっ、と脳の奥に青白い炎が走る気がした。ああ、そうだな、そうだとも。承太郎の胸中に声なき台詞が吹き荒れる。そうとも、人が死ぬことなんざ別に大したことじゃあない。些末だとすら言っていい。誰の肉体が停止しようと、暦のとおりに陽は昇る。死は単なる事象のひとつ、そうだな? そこに是非や美醜を見たがるのは、勝手な感傷というやつだ。いつの世も起きる当然のこと。騒ぐまでもないこと。
 ただな――気づいてないようだから教えてやるよ花京院。死とは、おまえが二度と朝飯を食わねえことだ。本の続きを読まねえことだ。似合ったはずの眼鏡を掛けねえことだし、まずい料理に嫌味を言わねえことだし、家の前で「また明日」とは言ってくれねえことだ。
 それだけだ。それだけのことだ。たったそれだけの、二度と立てなくなりそうなくらい、心臓が握りつぶされそうなくらい、ちっぽけなことだよ、花京院!
 口の中で血の味がした。噛みしめすぎて唇を切ったと自覚しても、力を抜くことができなかった。花京院の声が低く、抑揚なく、静かな響きで耳に届く。
「ぼくが君に望むことはたったひとつだ。生きてくれ。どうか平穏に生きてくれ。空条家、ジョースター家の人間は数奇な運命を背負わされているそうだけど、同時に強運も保証されている。君の未来も、たとえ困難はあっても閉ざされてはいないはずだ。君は……君はここにすべてを置いていって、どうか幸福に、………………なんて、」
 抑揚のなかったはずの語尾が急に揺れた。垣間見えた感情の色に、承太郎は驚いて顔を上げる。
「――――なんて、言うとでも思ったか……?」
 抑えた声は灼熱を孕んでいた。耳朶に火がつき、焦げるような錯覚に囚われて、ぞくりと背が震える。
 思い詰めないでほしいと言ったはずの男は、いま、誰よりも思い詰めた眼をしていた。忍耐の目盛りが振り切れたように早口でまくしたてる。
「君は、たぶん、ぼくがこういうことを言う人間だと思っているよな! 別れの間際に人徳をみせる男だと! ぼくのことを忘れて幸せになれとか、殊勝なことを言える人間だと思ってるだろ……! 仕方ないね、ぼくはずっと、君に立派な人間だと思われたくてそう振る舞っていた。いい格好をしたかった! 誤解されていたとしても君のせいじゃあない、ぼくの責任だ。でも本当は違う!!」
 骨ばった手が承太郎の両腕を鷲掴みにした。食い込む指の痛みが、肌をつたって心臓に届く。痛い。
「……本当のことを言ってやる。いいか、一回しか言わないからよく聞けよ……よく聞けよ!!」
 割れるような叫びの直後、花京院は急に静かになった。
 短い沈黙のあと、顔を上げて深緑の瞳を見つめる。彼のどこにこんな凄みがあったのかと思わせる獰猛な笑みで、甘やかな声で、そっと呪いをかける。


「君が、ほかの誰かのものになるくらいなら、こんな世界ぶち壊してやりたい」


 立ち竦む承太郎の前で、花京院は、ふふ、と脱力の声を漏らした。
 両腕を掴んでいた力を緩める。それが惜しいと承太郎は感じる。力を込めるあまり前屈みになっていた背中を伸ばし、花京院はいやにゆっくりと発音する。
「改めて言おう、承太郎。ぼくにこの感情を伝えられたうえで、君は生きてゆけ。平和に平穏に、まっとうに幸福に。誰かと心を通わせて、人を愛して愛されて、ごく普通に生きていくんだ。ぼくのこの感情を知ったうえで、だ。…………ぼくを最低な男だと思うか? それでいい。なんでもいい。ぼくはもう君の隣に立てない。誰かに憑りつくしか能のない、下衆なやつであるぼくは、こんなことしかできないからね」
 泣き笑いの顔でぎりぎりの冗談を吐く。こんな花京院を、自分は知らない――こんな灼けつくような執着を、嵐のような独占欲を、知らない。おかしくはないか、自分の精神が生み出したはずの国に知らない花京院がいる。ならば彼は、夜の夢ではあるとしても、自分ひとりでつくりあげた幻想ではなく。
 花京院が一歩、前に踏み出した。房になった髪が鼻先にかかる。学生服を着た腕が上がり、承太郎の鎖骨のあたりをゆるく撫でた。
「おかしな話に聞こえるだろうけど、強い、剛い、誰よりもつよい君のことをぼくは護りたかったよ。なぜだろう、出逢ったときからそう思っていた。そして今も思っている……」
 鎖骨に添えられた手指が震える。承太郎の襟元を掴み、引き寄せる。あまり力は籠もっていなかった。激情を口にしながらも、優しい男はまだ迷っていた。
 だから承太郎は、半ば自分から首を下げた。
「今も、想っている」
 くちづけは冷たかった。冷たさの中のあえかな、ぬめるような感触が、生々しくてもの悲しかった。

 承太郎は眼を閉じている。もう二度と開けたくない。でも耳は塞いでいない、音は聞こえてしまう。ちりちりと鼓膜に刺さる電子音。目覚まし時計の音だ。
 やめてくれ、起きたくない、時計を止めてくれ。お願いだ花京院、止めてくれ――時計を壊してくれ。






 かちりとボタンが押されて人造の音は止んだ。
 早朝の部屋は薄明に満ちている。肌を硬くさせる低温の空気が、音もなく背中やうなじに圧し掛かる。布団に上体を起こした承太郎はのろのろと時計から指を離した。
 冬だった。
 寒い、と感じる。生きているからだ、と思う。まだ生きている。生きているものは生き続けねばならない。それを果たせなかったもののために。

 承太郎は、これからの自分の人生をはっきりと理解していた。彼に言われたとおり、この世界で生きてゆくのだろう。平和に平穏に、まっとうに幸福に。誰かと心を通わせて、人を愛して愛されて、ごく普通に生きていこうとするだろう。
 そしてそのすべてを失敗するだろう。
 それだけは二度とできなくなったから。おまえに呪いをかけられたから。おまえに塗り変えられたすべて、見聞きし触れる世界のすべてに、花京院典明が静かに根を張っているから。
 これからの自分の人生には絶望が満ちている。
 予感する未来に、まだ17歳の高校生は身を折って自分の肩を抱いた。そうしておきながら、深緑の瞳はひっそりと暗く細められていた。誰にも言わない痛みを愛でるように。
 おれは呪われている。
 おれは呪われている。
 いつか再び逢える日まで繰り返す、この痛みだけが、花京院が自分の内に息づいていることの証しだった。





2015/09/09