キスをしたので、もう充分だろうと思った。
「ねえ、これ見て」
 ぼくは後ろ手にキャンバス地の小物入れを漁り、余韻にうっとり眼を潤ませている女の子の鼻先に黒いものを突きつける。驚いて開きかけた唇が愛らしい。
「スペツナズ・ナイフっていうんだ。ソ連の特殊部隊が使ってたなんて言われてる、本当はどうだか解ったもんじゃないけどね。刃の部分が、強力なばねで打ち出される構造の飛び道具だ。銃ほど貫通力はないけど5メートル程度は届くらしいよ」
 至近距離に突きつけたまま、ゆっくり鞘を引き抜く。悪戯っぽく付け加える。
「こんな目の前で発射されたら、ひとたまりもないよね」
「ちょっとお、早人くん」
 甘ったるい表情のまま未菜子ちゃんが怒った声を出す。ぜんぜん怯えてない、雰囲気のなさに苛立っている口調だ。旅行先の夏休み、浜辺を歩いてカフェでお茶して、締めくくりに男の子の部屋でキス。こんなときに子供っぽい脅かしをするなんて無粋な奴だと思ったのだろう。ぼくも同意見だ。だけどあと少しだけ、つきあってよ。
「ごめんごめん。つい自慢したくなっちゃったんだ」
 目の前から下げて、ナイフを小さく降る。人間の眼は動くものを追うように出来てるから、未菜子ちゃんの視線もつられて斜めに下がる。必然的に後頭部がわずかに上を向く。微調整を兼ねて薄い肩に添えていた手をぼくは離し、ぱちんと指を弾いて合図する。ぼっ! ぼっ! と聞きなれた発射音がした。
「がっ!……いぎ、ぁ?」
 録画してるからあとで何度でも聞けるけど、生声はこの一瞬だけだ。ぼくはじっくりと集中して味わう。狙いすまして一発、確実を期すためにもう一発。何度も根気よく教えこんだから、ちょうど小脳と延髄を破壊して止まる威力に調節してあるけど、いちおう身を躱して弾道の先に入らないようにするのも忘れない。
 痙攣する未菜子ちゃんが動かなくなったのを見届けて、ぼくは彼女の背後にある自分の本棚に近づいた。緑色の苔をかぶせて偽装してある、植木鉢に鎮座した相棒に語りかける。
「よくやったな。ほら」
 ポケットからささみの燻製を取り出して与える。うにゃうにゃとかわいい声を出して齧りついた。空気弾は材料が無限のうえにお駄賃も安上がりなのが助かる。
 ぼくと猫草はすっかり仲良しだ。ナイフなんて別にちっともかっこよくない。

 心ゆくまで未菜子ちゃんを撮影したあと、血糊がこぼれないよう後頭部の穴に脱脂綿をきっちり詰めこんで頭全体をビニールでくるんだ。肩に担ぎ、足元に注意しながら一階への階段を下りる。リビングに死体を引きずりこんでから台所に声をかける。
「マ――母さん。ぼくはもう済んだけど、いるんだっけ?」
 台所から母さんが顔を出した。口元が緩んでいる、まだママって呼んでもいいのにとでも言いたげだ。うるさいな、ぼくはもう13歳だぞ。
「ちょっと見せて。色を確認してみたいわ」
 スリッパを履いた足がぱたぱたやってきて、死体のそばに屈みこむ。ビニールをほどき、瞼をつまんで持ち上げようとした手が寸前で止まった。
「あら、付け睫毛してるわ。最近の子はおませさんね」
 さすが女性同士だなあと感心する。ぼくはキスまでしておいて気づかなかった。瞼の膜を持ち上げて、瞳の色を覗きこむ。ぼくは全然拘らないけど、つられて観察してみれば確かに、同じ日本人でも虹彩の色や形はわずかに違って千差万別だ。思ったよりも好みだったらしく、母さんが小さな息をつく。
「なかなかいい色じゃない。一生懸命お洒落して杜王のリゾート地に遊びにきたんだろうけど、きっと田舎の子よ。自然の中でのどかな景色を見て育ったんだわ」
 それはどうかなあ、とぼくは思う。『とんぼの眼鏡』じゃあるまいし、見てきた景色が瞳の色に反映されるとは科学的には考えられない。でもまあ、そこは美意識の違いというやつだから黙っておく。
 母さんが台所に器具を取りにいった。後頭部を抉っておいてなんだけど、ぼくはあの作業風景があまり得意じゃあない。それとなく離れたソファに座る。でも最初に比べれば母さんはずいぶん手際がよくなった。以前はよく刃先を引っかけて傷つけたり、力を込めすぎて潰したりして半泣きになってたっけ。金属のへら、ふちを刃物のように研いだスプーン、ニッパー、ラジオペンチ。父さんが母さんのために改造して使いやすくした道具を並べ、さっそく作業がはじまる。ぼくがしばらくよそを向いている10分弱の間にすべては終わった。顔の汚れを拭きとって瞼を閉じてあげれば、残った姿は眠っているときと大差ない。
 アルコールを満たした硝子のボトルに未菜子ちゃんの眼球がゆらりと沈む。標本といえばホルマリンだと昔は思っていたけど、ホルマリンは劇薬で購入には身分証が必要だし、毒性が強いから個人使用は控えたほうがいいらしい。ホルマリンにせよアルコールにせよ、退色はいずれ起きてしまうから、期限つきのお楽しみという意味では同じだ。
 上気した顔で母さんがボトルを照明に透かした。澄んだ虹彩が、清浄な液体のなかできらきら光の粒を降らせる。夢見心地な母さんを見ていたらぼくも、さっき撮った彼女の画像を見返したくなった。二階に上がろうと思ったところで、がちゃりと玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
 現実に引き戻ってきた母さんが、ボトルをテーブルに置いて玄関に飛んでいく。おかえりなさいあなた、早かったのね、うれしい! リビングに引きずりこんで背広やら鞄やらを剥がしていく。父さんとぼくの視線が合った。
「ただいま、早人」
 涼やかな笑顔で言う。ぼくは口の中でぼそぼそとおかえりを返した。もっと大きな声で言いなさいと怒る母さんの顎を、父さんが仔猫をあやすように撫でてなだめ、床に転がされた未菜子ちゃんに視線を落とす。
「今回は早人の番だったね。夕飯がもうできてるみたいだから、手早く済ませよう」
 屈みこんだ父さんが、未菜子ちゃんの細い手首をつまんで持ちあげる。ぼん、と内に籠もった音がして、持ちあげられた部分以外のすべてが一瞬で消滅した。どういった仕組みの能力かは未だに解らないけど、カーペットに焼け焦げひとつ付かないのは単純にすごい。
 残った右手首に父さんは眼を閉じてほおずりをした。指に毛が生えてないのを確認し、すがすがしい面持ちでそっとシャツの胸ポケットに収める。
「さあ、食事にしよう。楽しみにして帰ってきたんだ」
 母さんを抱きよせて額に口づける。ポケットから指先が覗いている胸に母さんがうっとり頭を擦りよせ、それを見たぼくは肩を竦めた。


 2年前の記憶は、ぼくの中でまだ明瞭だ。思い出すたび凍った石を飲みこまされるような気分になる。
 ただしそれは後悔ではない。罪悪感でもない。そういったものに震えることを、ぼくはあの日にすべてやめた。この重苦しさは単なるさびしさに近い。きれいな絵本を手に取るのをやめて、文字ばかりの本を選びはじめた幼年期の終わりのような。
 父さんの――2年前はまだパパと呼んでいた――ほんとうの正体を、当時のぼくはまったく知らなかった。正体を探ろうとする人々がこの町にいたことも、父さんが彼らを陰でひとりづつ始末していたことも、まったく気づかなかった。
 最後のひとりが、仲間の遺した情報をもとにぼくらの家を突き止めた。人気のない夏の朝、うちの裏庭にあがりこんで父さんを睨みつける、リーゼント頭の高校生をぼくは憶えている。彼はその時点で満身創痍だった。なぜ体じゅう穴だらけなのか不思議だった。父さんが猫草を番犬がわりに使っていたことも、当然知らなかった。
 そのときはちょうど、ぼくと母さんも庭にいた。彼らの対峙を目撃していた。リーゼント頭の高校生には計算があったらしい。川尻家を隠れ蓑にして静かに暮らしたい父さんは、自分が川尻浩作ではないことや、殺人鬼であることを知られたがらない。だからぼくらの目の前で即座に戦闘態勢に入ることはない。そう踏んでいたようだ。でも大きな誤算だった。もっとも父さん自身にとっても、ほぼ衝動的な決意だったようだけど。
 小さな石がひゅんと放られた。くぐもった炸裂音がして、リーゼント頭の高校生が消し飛んだ。
 彼が持っていたらしい写真だけが、腐葉土の上に散らばった。正確にはビデオカメラの映像をプリントアウトしたものだ。若い女性が、耳から誰かのちぎれた耳をぶらさげて泣き叫んでいる画像だった。
 父さんが写真を拾いあつめた。ぼくらのほうを振り向き、脱力して座りこんでいる母さんの足元に放り投げる。ぼくは気がついた。父さんは母さんに、自分が何者かを告白するために、目の前でわざと爆殺してみせたのだ。
「わたしは」
 普段の父さんは自分自身を『ぼく』と呼んだ。『わたし』という一人称は初めてだった。
「わたしは、こうせずにはいられない人間なんだ」
 落ちついた声は淡白で、温度がなくて静かだった。特におかしなところはなかった。だけどぼくには見えていた。父さんは拳を握りしめ、力を込めるあまり指先から血の気が失せていた。
 母さんが地面の写真と父さんを見比べた。首ふり人形みたいにゆらゆらと、何度も視線を往復させた挙句、そうなの、と無感情に呟いた。難解な映画でも眺めているような顔だった。
 父さんが眉間にわずかに皺を刻んだ。興醒めした顔にも似ていたけれど、もっとなにか不自由な感情に満ちていた。父さんがジャケットのボタンをひとつ、ぶちりと毟りとった。さっきと同じ爆発物なのだとぼくは直感した。素直に、自然に、死ぬのだと思った。
 母さんの視線がゆらりと家の中に吸いついた。窓からリビングの中が透けて、TV画面の時報が見えていた。
「そろそろじゃあないかしら」
 小さいけれどはっきり聞こえた。父さんがボタンをいじる手を止めた。母さんが立ち上がり、地面に座っていたスカートのお尻を払う。おぼつかない言葉を続ける。そろそろ支度をすませて、家を出ないと、遅刻しちゃうんじゃあないかしら?
 サンダルを履いた足が、あやうい足取りで父さんに近づく。母さんは少し前、不注意で足指の爪を剥がしてしまって庇う歩き方をしていた。ボタンを持っている父さんの手にそっと触れる。危ない、と叫びかけた声をぼくは飲みこむ。爆発のタイミングや威力は調節できることをまだ知らなかった。
「もう、子供みたいな手遊びしないでよ。付けておくから脱いでちょうだい……」
 触れた指がゆっくり上がり、糸の出たジャケットの身頃を撫でた。さらに上にのぼり、父さんの頬を包みこんだ。父さんの唇が動いて、母さんの名を呼びかけた。でもそれをかぼそい囁きが先に制した。かえってきてね。
「……ごはん作って待ってるから。あなたが帰ってきてから、あたしも食べるから。遅くなるようなら、電話をちょうだい。あたしのいる家に帰ってきてね……」
 ボタンが地面に落ちた。ぱちん、とおもちゃみたいな音をたてて、雑草が一株だけ四散した。
 父さんの顔をした殺人鬼が恐る恐る、母さんの背中に腕をまわす。抱きしめる手が震えている。ぼくが言うのも変だけど、不慣れな男の子みたいだった。胸の中で母さんは声を殺して泣いていた。欲しいものを得た涙だった。
 それはロマンチックな光景だった。すべてを見ていたぼくは認めた。自分の意志で受け入れた。ふたりが夫婦になったことを。


 家族になったぼくたちに、相互理解は自然なこととして舞い降りた。はじめのうち父さんは気を遣い、ぼくらの見ていないところで『彼女』たちと会っていた。一度見せてと言い出したのは母さんで、やってみたいことがあるのと切り出したのも母さんだった。
 そういえば母さんは昔からきれいな食器が好きだった。小遣いを貯めて買っていたウェッジウッドは、素焼き風のジャスパーウェアよりもハンティングシーンのような磁器タイプを好んだ。半透明でつやつやした硝子質のものが好きだった。あと大事なのは、母さんに言わせれば、眼球の色から『これまでなにを見てきたか』を想像することらしい。それは模型じゃあ無理だもんな。
 でも眼球は標本にすると、保ちはするものの早い段階で退色が起きてしまう。期限つきのお楽しみという意味では父さんと同じで、その意味ふたりの息はぴったりあった。
 ぼくは少し性質が違う。予感自体は母さんよりも早かった。あの運命の朝、父さんが真実を告白するために母さんに見せた写真。あの写真を見たとき、実はぼくは言いようのない興奮をおぼえた。映っているモチーフがどうではなく、今は生存していないらしき女性が画像の中に閉じこめられている事実に、強く心が動いた。
 ぼくは自室の屋根裏に、ずらりと映像メディアを溜めこむようになった。冷たくなっていく女の子たちがテープやディスクの中にひとりひとり眠っていると思うと、心が充実感でいっぱいになる。画像や動画に姿を閉じこめ、しかもその子が現実には生きていないのは、なんだかすごく彼女たちがぼくのものになった気分がした。父さんや母さんが持っていくご執心の部位は、お好きにどうぞという感じだ。
 生身の女の子と話すのも好きだし、最期の声も好きだから、撮りためたスナッフフィルムだけでは完全には満足できない。ときどきは自分の手で殺したい。だけどいちばん重要なのは、ファインダー越しにこのあと死ぬ彼女たちを閉じこめて保管しておくことだ。
 ぼくたち家族はだいたい順番を決めている。父さんはどんな物証も簡単に処理できるけど、あまり一気に人が消えるとさすがに露見しかねないからだ。持ち回りで誰かが殺す。その様子をぼくが撮影し、母さんが眼をとり、父さんが手首をとって処理する。ただ母さんは、想像を補強するために自分でやるときはあっても、殺しに主軸に置いてないからぼくらに譲ることも多い。昔の父さんは数年ごとにやりたい時期が偏ったそうだけど、今は2〜3か月にひとり程度と均等になっている。
 父さんは手のきれいな女性ばかり選ぶ。母さんは眼が好みなら性別は問わない。知らない世界が想像できる意味では男性のほうが面白いそうだけど、選ぶ確率は半々だ。死体が男だった場合、父さんは手は切り取らない。ぼくが選ぶのも現状、女の子ばかりだ。男を撮影して閉じこめておくのは、今のところむかつく相手を負かしてやったトロフィーの喜びしか感じない。まあ将来的に他の欲求が出てきてもそれはそれで構わない。対象の性別があまり偏らないほうが特定されづらいのだろうし。
 都合の悪さが重なってしばらく殺しができないと、父さんはだんだん苛々してくる。母さんはヒステリックになって他人にあたる。ぼくはすべてが億劫になって引きこもる。でも死体がひとつあれば円満だ。これはおかしなことだろうか? どんなに仲のいい家族だって、金銭的な余裕がなければひびが入る。食事が貧しすぎれば、住まいが劣悪すぎれば、やがて心がささくれる。今の時代きちんとした大人なら言ってくれるじゃないか、『精神論だけで物理的な困難をカバーできると考えるのは無謀だ』って。それとなにも違わない。ぼくの家の場合、必要なものが他人の死だっただけにすぎない。
 ただ、ぼくは別件を少し気にかけていた。あまり深刻にではないけど、ふたりに別々に尋ねたことがある。……父さんというものがありながら、母さんというものがありながら、相手が『彼女』や『彼』と愉しんでいるのは許せるの?
 単純明快、簡潔明白。答はあっけらかんと返された。
「早人、おまえはたとえば恋愛小説に感動するのも浮気の範疇にいれる主義かい?」
「意外とかわいいこと聞くのねえ。誰だって好きな俳優くらいいるでしょう?」
 安心半分、ごちそうさま半分でぼくは溜息をつく。予想はついたからこそぼくも質問できたのだ。父さんと母さんはそんな疑問がばかばかしくなるほど仲がいい。
 日曜日、たまに家族でカフェ・ドゥ・マゴでお茶をする。ふたりとも目立つのは嫌いだから派手なお洒落はしない。でも父さんは量販店の吊り下げのスーツでも瀟洒に着こなすし、母さんも似たような価格帯の服だけど上品に肌を出して都会的だ。離れたテーブルの女子大生なんかがふと眼を留める。雰囲気のいいご夫婦だなあ、といった表情でちらちら見ている。ふたりが談笑している内容も知らずに。
「こっちを見てる青いブラウスの子、純朴そうでかわいいわ」
 該当人物のほうをちらちら見るなんて素人臭い真似はせずに母さんが囁く。父さんがデミタスカップを傾けるふりをしてうまく確認する。
「そうだね。ひとり暮らしかな? 旅行者がいちばん楽なんだが……」
 女の子から戻ってきた視線がふと、母さんの横顔に留まった。父さんが指を伸ばす。見れば母さんの、細いチェーンの下がったデザインのイヤリングがわずかに捻じれている。
 直そうとしてくれていると気づいて、母さんも動きを止めた。丁寧にチェーンを整えた指が下がる、と思いきや、父さんがさりげなく顔を寄せて母さんのこめかみにキスをした。
「もう動いてもいいよ、わたしの奥さん」
「やだ」
 母さんが耳を赤くする。気障ったらしい! でも畜生、父さんがやると自然できまっている。女子大生は瞬きをして、慌てて視線を逸らした。盗み見る顔には隠しきれない憧憬が溢れている。憧れのご夫婦とは、そのうち親密になれるだろう。

 そして――その。ぼくの両親は昼間だけ夫婦なわけでもない。
 家族のあいだで理解が進み、暮らしに多くの変化があったころ、ぼくは寝室に仕込んだ盗聴器の存在をすっかり忘れていた。部屋を整頓しててやっと思い出したくらいだ。動作確認のつもりで深く考えずスイッチを入れる。衣擦れの音と吐息まじりの会話を聞いてしまったぼくはものすごく動揺した、それが当初の目的だったくせに!
 慌ててスイッチを切りかける。でもイヤホンの奥から、ノイズ混じりの涙声が聞こえてきて手が止まった。小さくて聞きとりづらいけど、父さんの声も合間に挟まった。喧嘩や諍いの声ではなかった。「……あたしは、」「……こそ……」「……だけ…………」
 断片的なヒントを得て、ぼくの中で小さな情報が形を為しはじめた。気づいてはいたのだ。父さんのナイトガウンの帯に、固く結んだようなしわが付いている。父さんの左手首にときどき擦り傷があり、そんな朝は腕時計を着けずに胸ポケットに入れて仕事にいく。いつのまにか、寝室のドアノブが取りかえられている。簡単な鍵のかかるやつだ。強盗対策なら鍵は室内側に付けるだろう、でも廊下側についている。
 ――父さんと母さんは、獣を飼い慣らすように、喰うか喰われるかの瀬戸際で熱を交わしている。女の人をたっぷり殺し、片手を縛り、お守り程度の鍵を首にかけさせて、やっともう片方の手で触れあえる。そこまでしても綱渡りだ、父さんは常に耐えている。能力を喚ぶ衝動に耐えている、いちばん大事な相手にだけいつも必死で抑えている! 決して満たされないと知りながら、ふたりはそれでも確かめている。積み上げた死体の山の上でだけ、ようやくほんの少しいっしょに眠れている。
 つんと鼻の奥が痛くなって枕に顔を押し当てた。誰だって幸せになりたい。
 迷ったけど、盗聴器は残しておくことにした。スイッチを入れるのは気が進まないけど、これも一種のお守りだ。間に合うかどうかは解らないけど、もし悲鳴が聞こえたら駆けつけて邪魔してやる。ともあれ当初の目的は果たした。ぼくの両親は名実ともに夫婦なのだ。


 肉団子の香味ソースがけは美味しかった。母さんの得意料理のひとつだ。食べ終わった父さんが、自分の食器を流しに下げ、夕刊を持ってリビングのほうに行きかける。背中に母さんがすまして声をかけた。
「キラさん、キラさん、ところで冷蔵庫にデザートの鎌倉カスターがございますが」
 小さく口笛を吹いて、父さんが踵を返す。『キラさん』は母さんがつけた綽名だ。ぼくたちには見えないけど、父さんの持つ力には名前がある。「キラークイーンという名で、猫にすこし似ている」という説明を面白がった母さんがこの愛称で呼びはじめた。だけど姿は見えないものだから、呼ぶ対象はだんだん見える相手にすり替わり、今ではすっかり父さん自身の綽名だ。この秘密の名前で呼ばれると、父さんはどこか満ちたりた顔をする。
「ごちそうさま。デザート、ぼくはお風呂のあとで食べるよ」
 食器を重ねて流しに運んだ。上着や靴下を投げ散らかしながら脱衣所に向かっていくと、母さんの鋭い声が耳に刺さる。
「ちょっと早人、脱ぎちらかさないでって何度も言ってるでしょ!」
 悪かったよ、とぼくは口の中でぼそぼそ返事をした。舌打ちまではしなかったけど、態度の不真面目さは見てとれたのか母さんがくどい小言を続ける。
「いつまでもだらしないわね。そんなんじゃ将来、女の人にもてないわよ」
「知ったふうなこと言わないでよ。ぼくだって女の子とキスしたことくらいあるよ」
 近ごろ母さんはぼくを子供扱いしすぎる。だから軽い意趣返しをしてやった。坊やのままじゃあないんだぞ。
 ぼくを見る眼が丸くなり、開いた口が丸くなり、指がフォークを取り落とした。あんた、へえ、いつのまに。平静を装った台詞を押し出そうとするけどあいにく成功していない。何秒かの努力のあと、母さんはふらりと椅子から立ち上がった。洗濯物取りこんでくるわ、と言い残して裏口から庭に出ていく。もう陽が落ちてるんだけど。
 母さんはぼくが女の子を撮影してるのは知っている。相手が息をしてないだけで中身は健康的と思っているらしく、まあ今のところその通りだけど、どう油断させているかはやっぱり気づいてなかった。言っておいてなんだけど、早まったかな。今更ながら少し恥ずかしい。
 思わず、父さんのほうを見た。変にからかうでも慌てるでもなく、感心したような視線で端然とぼくに微笑み返す。くそ、とぼくは賞賛をこめた悪態を心の中でつく。こういうときの男親の態度として、その顔はきっと満点だ。
「気にするな。母さんは動揺してるだけさ」
 冷蔵庫から出そうとした鎌倉カスターをしまい直して続ける。
「早人は頭がいいから、節度をもった交際ができると父さんには解っている。母さんは父さんが宥めておくよ。向こうもじき、大人になっていくおまえに慣れるさ」
 そう言って父さんは、自分も裏庭に続くドアへと向かった。後ろ姿を見送りながらぼくは思う。最近、父さんの髪質がすこし垢抜けた気がする。昔は固そうだったけど、今はやわらかい曲線になり、色も淡くなって洗練された雰囲気だ。そういえば目元の印象も変わったな。昔はあまり光を映さない切れ長の瞳だったけど、二重がくっきり出てきて端正な感じになった。エリートめいた気品があるとでもいうのだろうか。

 脱衣所の湯気を払おうと窓を開けると、裏庭のふたりの会話が漏れてきた。
 ちょっと気がひけたけど、ついそのまま内容を窺う。「気づいてはいたの」「何に?」「最近あいつ、背が伸びたなって」「そうだな。おでかけのキスをするとき、あまり背伸びをしなくなった」……
 照れくさくなって窓を閉じる。ぼくの父さんは父さんじゃあない。でもいつのまにかぼくは、父さんの仕草や言葉遣いをそれとなく真似ている自分に気づく。恥ずかしいから言わないけど、目指したい大人像に据えている。夫婦はもともと他人だけど、交わしていくものを重ねて家族になる。それと同じで、交わしていくものを重ねてぼくと父さんも親子になった。
 ……本当のことを言うと。
 通学途中の並木路で、ペプシの看板があるビルの近くで。ぼくはときどき、見えない誰かとすれ違っているような不思議な気分に陥る。うまく説明できない感覚だから人には言わない。幽霊だろうか? 仮にその名で呼ぶとしたら、血が繋がっているほうの父さんだろうか。リーゼント頭の高校生だろうか。ぼくにとって分岐点になりえた人たちだろうか?
 でも、恐らく幽霊ではない。彷徨う霊魂なんて存在しない。不確かながら抱いている推測は、あれはたぶん、もうひとりのぼくだということだ。もし人を殺すとしても、例えば誰かを護るために必死の決意でそうするぼくだ。『どうかこのぼくに人殺しをさせてください』と、天におわす誰かに生まれてはじめて祈るぼくなのだ。
 ぼくは後悔していない。自分の意志で決めたからだ。ただ、後悔していないことを後悔するかどうかは解らない。いつか終わりの日が来るだろうか? それも解らない。
 どうしても終わりが来るのなら、こんな日であればいいとぼくは想像する。追いつめられて後がないと判断した朝、父さんが手を打って「ピクニックに行こう」と言い出す。サンジェルマンに寄って美味しいパンを買いこむ。一家そろってどこか眺めのいい海か野原に行き、楽しく笑って過ごす。そして最後に「愛してるよ」と言いあって、みんなで「せーの」で爆散するのだ。
 その日までここはしあわせの我が家だ。たとえ血と臓物の海に杭を打って建てられているとしても。







"Mama, just killed a man" / Queen
2016/12/27