* * *

 空条承太郎は煙草を切らしたことに気づいた。
 仕方なく、アルニール通りを走るSPW財団医療車のシートに背を預け、長旅を終えた虚脱感やこれから本格的に訪れるであろう喪失感をもてあましつつ、ひとつの疑問について考えた。常に周囲を劣るものとして見下し、自分たちの血を嘲笑って饒舌な挑発を繰り返し、馴染む肉体に狂喜して己が優位を謳歌していた、あの忌まわしい仇敵が――
 なぜ、ずっとずっと絶望そのものの眼をしていたのか。
 理由は解らない。ただ承太郎は窓の外を見なかった。外が暗闇のとき硝子は鏡の役割を果たす。自分も同じ眼をしているのを確認するのが恐ろしかった。17歳の彼は多くのものを喪っていた。強い煙草がほしかった。

* * *

 ウィル・A・ツェペリは注意深く7年間について聞き出した。
 それは敵を知るための調査であり、戦いに必要な準備だと愛弟子には説明した。ジョジョ、私はおまえほどディオ・ブランドーを知らない。共闘するからには足並みを揃えねばならぬ。おまえの知る彼奴を教えてくれ。
 応じてジョナサンは知るかぎりの情報を開示した。義弟がよく採っていた方策や傾向について。ものの好みについて。日頃何を読み、何を語っていたかについて。
 しかし、実を言えばツェペリがこれを語らせたのには別の目的があった。師として彼は見極めねばならなかった。……愛弟子はあの男を殺せるか?
 たとえ偽りであっても、7年を暮らした義兄弟を、切磋琢磨した学友を、青春を共に駆けた相手を殺せるか。友誼は殺意を鈍らせ、敬愛は対立を躊躇わせる。今は怒りに燃えていても、いざ膝をついた相手を前に、昔日の思い出が打ち下ろすべき刃を押しとどめはしないか。気高く優しく誇り高いジョナサン、おまえは本当に彼奴を殺せるか? 見極めるためにジョジョの心理を探り出すことが真の目的だった。できぬとあれば自分がやるしかない。
 だが聞き出すうちに、ツェペリは小さな違和感をおぼえた。不安といってもいい。「――しかしジョジョ、聞いてみればディオ・ブランドーは外面は良かったのだねえ。明晰で能弁、人当たりよく紳士的。君とて優秀だが、ひとつに打ちこむと寡黙になる性質のせいか社交能力には一歩劣るようだ。事情を知らぬ他の学友たちが、きみたちの決裂を知ったらどう思うだろう。もし彼らが片方に味方するとして、どちらを選ぶね?」……若干の挑発もこめてツェペリは言った。ジョジョは相手の有利を認めるか、認めないか。それは敵を殺すうえで未練となるか、ならないか?
 ジョナサンは何度かまばたきをして、微笑んだ。
「……学友たちは、ディオを選ぶかもしれませんね。なにしろ」
 ツェペリが戦慄したのはこの瞬間だ。若い口元に滲む優越感は間違いなく、ひとつの色を刷いていた。
「かれを憎むのは、ぼくの特権みたいなところがありますから」
 なんということだ。
 驚くべき弟子を持った師ははっきりと悟った。彼が警戒していたものは友誼のはずだった。敬愛のはずだった。それに通じる部分もあったろうが、深山を思わせる翠緑の瞳の奥に、余人を入れぬ侵しがたい領域があるのをツェペリは見た。思いがけなかった。よりによって彼らに。そんな陳腐な――ありきたりで生臭い――無垢な感情が。世にも恐ろしい感情が。
 なんということだ。
 だが。
 老獪なツェペリは決意した。それでもよい。それがよい。
 その感情は、相手を殺せる。ともすれば憎悪よりたやすく、その感情は殺意に化ける。悲愴、煩悶、独占欲、あらゆるすべてを動機にして、人はかけがえのない相手を殺す。欲しくて欲しくてたまらないものの前でこそ、人は誰よりも傲慢になれる。
 友誼であれば隙となる。敬愛であれば仇となる。だがひたむきな矛盾に満ちた切なる感情は、実にたやすく相手の死を願う。もっとも強い嵐がもっとも強い結果を生むのだ……
 石仮面の生む化け物を斃すことが、ツェペリが自らに課した至上命題だった。そのためには何をも犠牲にすると誓っていた。自分を、家族を、そして愛弟子を。
 知りながら見過ごすのだ、赦せなどとは言えない。だがツェペリは覚悟していた、未来を拓く若者を解き放つべくいずれ贄となる自らの運命を。詫びきれなどしないが、己の死がせめて愛弟子への償いとなるのを願うほかない。
 ツェペリは老獪だった。恐るべきことに、哀しむべきことに。

* * *

 空条ホリィは高熱に魘されながら夢をみた。
 父と息子が旅の途上にあるあいだ、何回か嬉しくない夢をみた。金髪で癇の強そうな白人の男の子が、壊れて止まった懐中時計の蓋をあけて必死に直そうとしている。でもホリィは知っている。本当は、その子に似た面差しをしたこわいくらいきれいな男の人が、大事な部品を腹の中に飲みこんでしまって海の底でぐうぐう眠っている。
 だから絶対に直らないのだけど、気の毒すぎてとても言い出せないのだ。

* * *

 ジョルノ・ジョバァーナはあまり信じていなかった。
 父だという男の写真を懐に入れて持ち歩いてはいたが、心から真剣にその関係性を受け止めてはいなかった。珍しく家で呑んでいた母が、まわらぬ呂律で大袈裟な修辞麗句を垂れ流し、小さい掌に押しつけてきたポートレートには美しい男が映っていたが、得られた具体的な情報は「お父さんよ、おとおさん」という酒臭いけらけら笑いだけだ。
 翌朝、初流乃の手の中にある写真を見た母は眼を丸くして「あんた、それどうしたの」と尋ねた。昨晩あなたから貰ったのだと正直に答えると、記憶を探るように視線を彷徨わせ、思い出せはしなかったらしいが妙に納得した顔で、「あの人に見せちゃだめよ」と夫の部屋を顎で指した。それは彼女自身の生活のためだと初流乃には解っていた。
「あんたにあげるけど、最後にもう一度だけ見せて」
 きれいに爪を彩った手を出す。童心に初流乃は、母が感傷的な意味合いで最後の目通りを求めたのだと思った。かつて関係した男をしげしげ眺める美貌の母を、幼い息子はちらりと窺った。でも表情にあるのは未練というより多少の怪異を見る色だった。
「……ほんとにいたのねえ」
 あっさり初流乃の手に写真を返し、二日酔いの母はバスルームに向かう。いま考えれば酔った母は、若いころ幾度かみた、退廃的でインモラルで甘ったるい悪夢の話をしたつもりだったのかもしれない。芥子の煙がもたらす恍惚にも似た夢は唐突に醒め、気がつけば膨れた腹をかかえ、冗談みたいな額の小切手を懐に押しこまれた状態で帰国便の機上にある。すべてが決着したあの朝、館に立ち入ったSPW財団は事後調査を開始したが、DIOが実験的に受胎させ各地に放った女性たちの行方は掴みきれなかった――という事実を、ポルナレフを通じて空条承太郎と会見した現在のジョルノ・ジョバァーナは知っている。
 母は自分を飾ることにしか関心のない女で、イタリア人と結婚したのもそれが己に相応しいステータスだと信じたからにすぎない。恨む恨まない以前に、物心つく前からそういう女だったので、ジョルノは母を愛していなかったが積極的に憎む理由もなかった。ひとりぼっちの夜は寒かったが、それが普通と思いこんでいればどうしようもない。恐らく二度と会うことはないが、利己心を旨とする彼女の姿勢はある意味で『無駄』だけはないな、とジョルノは独自の美学で分析した。母はたぶん、自分が知るうちでもっとも見目好い男を子供の父親ということにしただけだ。だからポートレート越しの血の絆を、さほど真に受けてはいなかった……自分の髪がきらきらと陽に透ける黄金色になるまでは。
 ……もしかしたら写真の男は、本質的に自分のことしか考えない女だけを選んで孕ませたのだろうか。なんらかの目的で試みに子を為したが――ジョルノは知る由もないがその目的を極端化させるのがプッチ、阻むのが空条徐倫となる――できるだけ純粋な結果を導くべく、産まれてくる子に頓着せず何の影響も与えない女を選んだのだろうか。
 マホガニーの執務机の上で指を組みパッショーネの若き頭領は考える。ともあれ印画紙の中で視線すら寄こさぬ男について、人となりを掴む情報はこれ以上はない。
 実在さえおぼろげに捉えていた母からはろくな情報を引き出せないし、空条承太郎は「肉体的形質が遺伝していないと判明した以上は」として多くを語らない。「ごく表層の印象なら語れるが、君とあの男を繋ぐ精神の線は推察できない」とも。ジョルノの預かる裏組織とて飾りではない、1988年1月のカイロで何が起きたか、世間的な事実は把握している。SPW財団の暗躍やB級映画じみた噂話まで統合させて見えてくるものは、どうやら言葉通りの『化け物』の姿だが……言ってしまえばスタンドの存在自体、それを持たぬものにとっては非日常の異形だろう。悪辣嗜虐というなら、悪魔の名を冠する当組織の先代ボスとて筋金入りだ。変な話だが、いちいち驚き怯むほどの衝撃にはあたらない。
 つまるところ、誰の何を聞いたところで、他人の話だ。
 ジョルノは瞳を閉じて事象を整頓する。父という子という、生物学的な接点にロマンティックな幻想は抱いていない。似ていると断言できるのはせいぜいが髪色と目元の印象、体格は似ていない、というより相手が規格外だ。育った環境はどうだろう? 相手は英国育ちらしいという情報しか掴めない。なら逆に、もし彼が自分のような環境にあったら、という追体験を試みようか?
 写真の中の男は支配者の瞳をしていた。自負が篤くて能力も高いのだろう、恐らくは幼いころから。横暴な義父がいても一方的にやられっぱなしではない。自分とは大違いだ、幼いころの初流乃は、自分のことを玄関の足拭きマットか何かだと思っていた。みんなが自分に靴底の泥をなすりつけ、すっきりしてから清潔であたたかい家に入る。身体に青痣をつくり精神を虚ろに濁し、初流乃は世界のすべてにおどおど怯える子供だった。歩きなれた小学校までの通学路すら、まるで自分がいてはいけない場所かのように縮こまって歩いていた。
 でもあの男だったら、自信に満ちた彼だったら、あんな道などつまらないちっぽけな田舎道にしか見えないのだろう。いつか飛び出してやる退屈な箱庭くらいにしか思わないのだ――そう考えたらなんだか胸がすく思いがした。幼いディオ・ブランドーになりきった幼いジョルノは少しだけ背筋を伸ばす。なあんだ、顔を上げればなんのことはないただの道だ。そしてぼくもちゃんとしたひとりの人間だ。
 ジョルノは胸を張って記憶の中の通学路を歩く。空に太陽があることに初めて気づいたような気分だった。もう少し行ったら右に曲がる、壊れかけた石壁があって、そう、あの人を見つけた場所だ。銃創を受けて孤独に潜んでいたあの人を思い出すとき、ジョルノはいつも魂に気高い震えが走る。「君がしてくれた事は決して忘れない」――人を信じ敬意を抱く心を与えてくれた彼。あの人と出会って自分は完成する。
 少し上気した頬でジョルノは角を曲がる。おや、と思った。その人はちゃんと予測した場所にいたのだが、自分の記憶では、彼は成人男性であってもそこまで大柄だった覚えはない。だがディオ・ブランドーを依代にしたジョルノの眼には、倒れている彼がずいぶん立派な体格に見えた。髪もやや短い気がする。
 血塗れの男が身じろいだ。地を這う姿勢はそのまま、頭を上げてこちらを見る。初夏の高原のような、希少な鉱物のような、透きとおる翠緑の瞳に射抜かれる。あれ、自分はあの人の瞳の色をこんなにはっきり記憶してたっけ? いつも遠くでボルサリーノを被っていたから、きちんと見たことはないはずだけど。狼をも斃すが弱者には牙を剥かぬやさしい猟犬の眼。背中から首にかけての頑健さ。銃痕でほつれた服の左肩からのぞく痣。唇が動く。
「ジョルノ」
 瞼をあけた視界には、思い出の小路ではなく、見慣れた室内があった。
 呼ぶ声は確かに黒髪の男から発されていた。ただしその大半は帽子で隠れている。リボルバーをだらしなくボトムに押しこんだグイード・ミスタが机の前に立っている。
「まったく、居眠りならせめて隠れてやっていただけませんかってんだ。堂々とデスクで寝る奴があるかよ」
 若き頭領は、目の前にいる部下の姿を脳天から爪先までじっくり眺めまわした。乾いた息をひとつ吐き、次の呼吸で淀みなく言う。
「ミスタ、今日はあんたは残業だ。寝てたわけじゃあない、ドラッグの末端バイヤーの洗い出し作業に必要な人員を考えていた」
 悲鳴のような呪詛を聞き流し、ジョルノはくるりと椅子を回して窓の外を眺めた。ディオ・ブランドーのことは、やはりよく解らないままだった。

* * *

 ジョセフ・ジョースターにはもしかしたら身に覚えがあった。
 返事の戻らぬ静寂の恐怖に覚えがあった。総身が凍りつく喪失感に覚えがあった。でも彼は、かつて祖母から聞かされた悪夢のような洋上の因縁劇において、それが適用される登場人物は祖母ひとりだと信じていた。だってそうだろ、おばあちゃん、蛇みたいにしつこい征服欲に何を同情しろって?「ジョジョへの侮辱はゆるさんぞ」「尊敬の念をもって苦しみを与えず」……ははあ、人間以上を気取りたいのに人間に負けちまったから、そのひとりを自分の位置まで引き上げてどうにかこうにか帳尻を合わせたわけか。お気の毒サマ、自尊心にがんじがらめで、ケツまくって逃げることもできねえとはかわいそすぎて涙が出る。せいぜい言い訳づくりを『ガンバル』といい、オレは絶対ごめんだぜ。
 ジョセフ・ジョースターにとって、幸福はいつも自由に選ぶ道の先にあった。逃げたいときは逃げる、やりたいときにやる。その奔放さは決して彼の平穏を保証せず、ときとして余計な困難を招いたけれど、悪態をふりまきながらもジョセフ・ジョースターは常に彼自身であり続けた。トラブルは嫌いじゃあないんだ、かっこよく解決するとこまで含めてな!
 だから彼は悪夢のような宿敵と相対したときも怯まなかった。大切な人を哀しませた憎い化け物、紛うかたなき悪の化身。祖母に察した傷を、もしかしたら自分にも覚えのある傷を、当然ながらそいつに適用してみたりしなかった。止めを刺したのは孫だが、先立つ交戦で命を落とさずに済んだのはそのおかげかもしれない。もし敵の内側に何かを察していたらジョセフ・ジョースターの精神的敗北は決定していた。
 いや、実のところ、察しなかったというより考えないようにしていた。直視することで自分自身をも再認識していたらきっと彼は壊れていた。もっとも生きたジョースター、長い長い彼の道、その端に咲くあたたかい花、幸福と幸福と幸福と幸福を愛でながら歩く己の背後に、真紅のシャボン玉がいつも漂っていることに、本当は気づいていたから。

* * *

 テレンス・T・ダービーはぎくりと立ち止まった。
 躓かなくてよかったと安堵するのと同時に、眩しくしてはいけない、と掲げていた燭台をとっさに背後に下げる。上司は幸いにも眼を覚まさなかった――絨毯の上で。
 稀ではあったが、DIOはときどき、どこでも気の向いたところで自由に眠りこむという奇癖をみせた。あるときは柱時計の陰に背をもたせ、あるときは図書室の長椅子に転がって。美術品ギャラリーの片隅というのは新しい例で、心の準備ができていなかった。
 手近なキャビネットにそろそろと近づき、燭台を置いたテレンスは溜息をつく。暗色に沈む天井の下、部屋着姿のDIOは17世紀の稀覯本を枕にくつろいだ姿勢で眠りの園だ。……まるで猫のような方、と喩えるのは不敬だろうか? 豪奢な金髪を無造作に散らす隆々とした美丈夫は、むしろ獅子ではあるけれど。誰かに言ってみたいものだとも思う。私の職場では人食いの化け物がそのへんの床で眠っています。しかもその方が私の仕える上司です。
 夜のうちなら疑問はない。テレンスが驚くのは、白昼でもこの癖がどうどう発揮されていることだ。当然この館では、主人が過ごす区域の窓はすべて鎧戸を閉ざしてある。板を打ちつけて固定し、遮光生地の天幕を張り巡らせてもある。だが壁一枚向こうが死の光で満ちているというのに、重たい石棺ではなく普通の床で眠りこむ胆力とはいかほどのものか。
 ただ、ここで何者かが壁を崩し、陽光を入れて暗殺を試みるのは容易ではないのも確かだった。DIO様はご自身に向けられる殺意にとてつもなく敏い。ホル・ホースなどはそれで恐ろしい思いをしたようだ。人間がエンジン音だけ聞いてブルドーザーを認識するように、吸血鬼にはどうやら『殺意』を具体的に感受する能力がある。誰かが壁を崩す決意をして握り拳を作った次の瞬間、そいつの首は跳んでいる。いまお眼を覚まされないのは、私がこの方を弑するに足る意志を抱いていないからだ。蟻が通ったくらいで獅子はいちいち目覚めない。無防備な睡眠は、信頼ではなく自負によるものだ。
 テレンスは額に指をあてた。お起こしして、お寝みになるなら棺へと促すのが執事の務めだが、どう言葉をおかけすべきだろう?
 『お風邪を召しますよ』?――吸血鬼に向かって愚かしい言い草だ。『ここは危のうございます』?――対処できぬ方ではないと知りながらわざわざ注進するのは無礼ではないか。ヴァニラなどは主人の力に完全な信奉を寄せつつも、同時に心配性の母親のように気を揉むという芸当をこなすが、自分にできる気はしない。常識やら礼節やらを促す類いの言上はしたくない、それに囚われずしてこそこの方だ……テレンスは考え、やがて胸中で指を鳴らした。
「失礼いたします、DIO様。お寝みになるのでしたら棺か、せめて寝台のほうへお移りください。そのようなところではお身体が汚れます」
 これなら当然の事実であり、無礼にもならない。昼なお暗い邸内はどうしても清掃が完璧には行きとどかない。やや潔癖症の気があるテレンスは可能なかぎり衛生に努めていたが、建物自体の古さは如何ともしがたい。館の主がよいと言うのでそのままにしているが、一部では蜘蛛の巣すら放置されている。
 ゆるゆると瞳が開く。内から光を撒く琥珀の虹彩は、薄闇を透かせば金色だ。
「ああ」
 浅く覚醒した声でDIOが応えた。やはり本当に眠っていらした、たいした方だとテレンスは感心する。上体を起こし、白い牙を覗かせて欠伸を噛み殺し、がりがりと頭を掻く。粗雑さよりも野生動物の高貴な不遜さを感じさせるから、美というものはおそろしい。
「……いま何時だ?」
「午後1時です。再びのお寝みの前に、軽い飲みものをお持ちしましょうか? 昨日お連れになられた19歳A型のゲルマン系でも?」
「背の高いヌビア女がいたろう。あれが飲みかけだ、飲みきってしまう」
「承知いたしました」
 異次元の会話を交わしたあと、テレンスは口調にいささかの演技をこめて続けた。
「提言などと大層なものではございませんが、お身体を休める場所について、いま少し気を回していただければ幸いです。正直に申し上げれば、少々心臓に悪うございます」
「なんだ、化け物の尾を踏むかもしれないのが怖いか?」
「私は貴方様にできるだけ粗相のないようにご奉仕したいので、そのための環境作りにもご協力いただければと思いまして」
「慣れろ。もしくは諦めてわたしの不興を買って始末されろ」
「……前者のほうで努力いたします」
 DIOは相手によって多少、会話の傾向を変える男だった。女好きのガンマンには恐怖支配の体現者として、水を繰る盲者には甘い毒を含ませる救世主として。老婆の前では哲学じみた問答を好み、神学生には親しげな態度で接する。執事に対しては、少し意地が悪い、比較的くだけた主人として応じていた。それで必ずしも威圧感は薄れないが。
「清掃にはできるだけ気を遣っておりますが、どうしても隅々まで、というわけにはまいりませんので――」
 立ち上がるDIOの、首に巻きつく茨の蔓めいた傷跡を見る。首から下は他人の肉体と聞かされているが本当なのだろうか? 気に入ったから奪ってやったという言は俄かには信じがたいが、少なくともお身体に愛着がおありなのは事実だろう。
「どうか、つまらぬ埃や汚れをお付けになりませぬよう。お仕えする方のお身体の穢れは、配下にとっては口惜しいものです」
 世辞を言うのは好きではない。だが闇を統べるこの方の権勢は本物であり、せっかくの価値が些細なことで損なわれるのは勿体ないと他意なくテレンスは考えた。もの創りが好きな彼には自分なりの美意識があった。それが兄とは違うという意地にも繋がっている。
「気には留めておこう。だが」
 返答を投げつつDIOは踵を返す。歩き出す方向は寝室だ。そちらにヌビア女を連れていけばいいのだな、と承知してテレンスは頭を下げる。
「――わたしに繋がれ、縛りつけられていること以上に、この肉体が穢れるとは思えんがね」
 執事は顔を上げた。
 掛けられた声の振動すらまだ大気に残っているのに、暗いギャラリーには誰もいなかった。じじ、と燭台の蝋燭だけが小さく爆ぜる。
 無言で立ち尽くすテレンスは、きっとあの方の癖は直らないなとなぜか確信した。直らない癖は、逆にもっと引き出すしか昇華しようがないのだ。

* * *

 エリナ・ペンドルトンはすべてを理解していた。
 男の子のことはよくわからない。でもジョナサンは完璧な少年だとエリナは思っていた。恋の盲目に浮わついての判断ではなく、呆れるような欠点もやんちゃな人間臭さもいとおしく認めたうえで、それも含めてエリナは小さな紳士を完璧だと思っていた。
 彼に、本当の意味で欠けているものがあったなどとは夢にも思わなかった。足りない部分をまるごと引き受けていたのが彼の義弟で、だからこそジョナサンは完璧な少年でいられたのだと知ったのは成人後、沈みゆく船での一夜の因縁劇が明けてのちだ。
 ……でも本当は、エリナ・ペンドルトンは少女のころからすべてを理解していた。泥水で口を濯ぐことが自分の矜持だと直感したあの日から、本当はずっとそこにあるものを理解していたのだ。ただ、自分が理解しているということを理解したくなかっただけで。

* * *

 サルベージ船の甲板でホァンは混乱の極みにあった。
 棺、なるほどこりゃあ棺だったのか、違えよ、生きた人間を棺には入れねえ、そうじゃあなくて、なんで生きてる、100年ぶりに外気に触れたはずの固着甲殻類にびっしり覆われた海底の密室で?
 時刻は日没直後だった。引き上げられた運命の匣は暴かれ、中では100年前の男がぞんざいに足を組んで茫と座りこんでいる。古風なドレスシャツを纏った上半身は薄明にほの白く、その上にある繊細な髪は汐風にみだれて煌々しい。すげえなこいつ、映画俳優みてえだ、錠をバーナーで焼き切るのに手間どっちまったが、もう10分早けりゃ明るい光のもとで顔を見れたな、とそれどころではないことを考える。ははあオレ、現実逃避してやがるなとも。
 流れるような所作で腕を伸ばし、自分を覗きこむ3つの顔のうちまず2人分の頭蓋を握りつぶした男は、ぼんやりした風情で自らの首を指でなぞった。見れば大層な傷跡がぐるりと取りまいているが、塞がってはいるらしく、それを確かめた男はにっこりと微笑む。まるで子供みたいに笑うんだなと思ったあとで、逆に総毛立つものをおぼえた。
「…………And he drew all manner of things――everything that begins with an 『 J 』――」
 男は立ち上がり、何事かぶつぶつ呟きながら左足を引きずって歩き出す。ホァンは中華系で、他2人のアシストのため同乗しており、英語は平易な内容なら聞き取れるがパニックに霞む脳裏では難しい。あいつは何て言ってんだマーティン、と仲間に尋ねようとしたあとで、いま目の前の男がぽいと投げ捨てた茶色いぐにゃぐにゃした革袋がそういえばマーティンだったと思い出す。もはや人間とも判別できない。燻しすぎて干からびたベーコンの塊が服を着ているようだ。
 男はもうひとつの死体の脇にしゃがみこみ、頸動脈のあたりに指を突き刺した。ずぎゅる、ぐぶるるると耳障りな音がして、見る間に彼も干からびたベーコンの塊になっていく。
「Why with an 『 J 』……」
 栄養をとって落ちついたのか、男は腕を上げて肩をごきりと回す。先程よりは軸のぶれない動きでホァンを振り返る。オレも体格には自信があるが、近づかれると本当でけえや。彼は最後までどうでもいいことを考えていた。恐怖が擦り切れていたのは僥倖だった。
「Why not?」
 錆を含んだ呟きが耳に届くのと同時に、ホァンの人としての生に幕がおりた。
 小一時間後、ホァンだった人間は屍生人として、黙々と船を操舵していた。思考することをやめた彼は、主人からの命令を言語野ではなく脊髄で感応する。だから舳先に腰掛けて星を見あげている男が、繰り返し繰り返し呟いている内容も今では把握していた。真意を理解することは二度とないけれど。
「そしてかれはあらゆるものをかきました――『 J 』ではじまるものならなんでも、なんでもすべて――」
「でもどうして『 J 』なんですか……どうしてジョジョなんだ?」
 解けない呪いにうんざりした顔で、遠い昔日に眼を凝らす顔で。
 ひときれの菓子をねだる顔で、銀盆に首をねだる顔で、退屈しきった暴君の顔で、クリスマスの朝の子供の顔で、終わらない螺旋の中をぐるぐると特異点を探して回り続ける。傷跡を抱くようにして自らの首に腕を回し、20歳前後の青年でしかない顔がふたたび自分自身に問いかける。どうしてジョジョなんだ?
 男は瞑目した。天上の星は黙して語らない。何呼吸かおいて瞼を開けたときには、絢爛たる夜の王が、白皙の貌を修羅の笑みにひび割れさせていた。無欠のDIOは不完全なディオをただひとことで論破する。
「うるさいぞ、どうしてそうじゃあいけないんだ?」
 くくっと喉を鳴らす。諦めることを諦めた男は笑った。もはや笑うほかなかった。
 棺の底にこれだけは忘れずに入れていた懐中時計を取り出し、黒子の並んだ耳にあてる。パンドラの匣からこの世の害悪がすべて出ていっても、最後にひとつこれだけが残る。でもそのせいで人々は諦められなくなり、期待に裏切られ、願いに復讐される。
「Tic、Tac、Tic、Tac……」
 時計は壊れて止まっている。ひとりで喋ったり聞こえぬ音を聞いたり、余人から見れば完全に気のふれた美丈夫はうっとりと正確無比に時を歌う。ただひとりの不在に耐えられない化け物は、でも化け物ゆえに狂えず、約束された永遠を前になにもかもを愉しむしかない。
 舵をとる屍生人はその歌を、やはりただの音声として聞いていた。汚された彼の命もあと暫くだった。船を陸地に着けさせたDIOが、2つの死体を波間に投じ、最後の1人には証拠隠滅のため、船を沖まで操縦したのち入水して鮫の餌になれと命じるまでの。

* * *

 ジョナサン・ジョースターは知っていた。
 彼はなんでも知っていた。いずれも確証はなく類推していたにすぎないが、それでもすべてを把握している状態に近かった。
 師の恐るべき判断を知っていた。妻になる女性の痛々しい理解を知っていた。でも彼らのために決着を付けようとしていた。愛する人々の苦悩を除いて幸福を導く。すべてが終われば歳月はやさしい忘却をもたらしてくれる――少なくともぼく以外には。
 ぼくはこの世でかれを見つけた。かれはこの世でぼくを見つけた。見つけてもらわなければそれぞれ迷子になっていた。相容れぬ摩擦はふたりの熱を煽り、だから凍え死なずにすんだ。誰にも見つけてもらえない子供は寒い季節に死ぬ。ひとりは貧民街の路地裏で、ひとりは権謀渦巻く貴族社会の裏で、きっと違うかたちの死を迎えていただろう。あるいは悲劇、あるいは堕落。あるいは肉体の腐敗、あるいは精神の腐敗。
 既にぼくは一度、忘れようとして失敗した。そのとき気づいたのだ、ぼくの中にはきみに明け渡してしまった部屋がある。誰も住まない部屋は傷んでいく、ディオ、きみに住んでもらうしかない。
 ぼくはきみを殺す。きみの罪が悪虐なら、その悪虐によって成長を遂げたのがぼくの罪だ。その欺瞞は生涯に渡りぼくを蝕むだろう。胸に住まうきみの亡霊はぼくを嗤い、きみを喰らって一人前になったぼくを蔑むだろう。きみはいつも美しくて正しくて、ぼくの心は常に流血するだろう。その最中にもぼくは、師や妻の前ではいつも穏やかに微笑んでいるだろう。もう覚悟はできている。
 ジョナサン・ジョースターはなんでも知っていた。自分のこともとてもよく。
 ただひとつ見えていないのは、己の最期のことだけだった。高潔な自責や覚悟は、どれも本物だったけれどそれが彼の全部ではなかった。自分がいちばん最期にしっかりと腕に抱きすくめる我儘なひとかけらに、ジョナサンは未だ気づいていなかった。

* * *





2015/07/16