13歳の少年が重荷を負わされているのは少し気の毒な光景といえた。
 澄んだ湿気が肌の上でひやりと霧消する雨上がり。風情よく錆びたパーゴラの上で微睡む早生のクレマチス。つられてこちらもベンチで午睡したいようなのどけき庭を、無粋な木箱を背負わされてふうふう歩いている。
 少年は黒髪で年齢なりに体格はよく、将来を期待させる広い肩をもっていたが、木箱はその肩からはみ出るほどかさばる代物だ。しかもひっきりなしに揺れる。まるで中に自由を奪われた獣が詰めこまれているかのように。
 彼の後ろには、正絹のボイルドシャツを纏った金髪の男が続く。典雅な容貌をのせた長躯はしなやかさと頑健さが手を取りあって歩む造形美だ。代わりに荷を運んでやればよいものを、手伝うそぶりはまったく見せない。よく見れば、少年の背から荷がずり下がるたび手は添え、ちょっとした段差を跨ぐときも後ろを支えてやっている。でも本格的には力を貸さない。まるでこれは彼の義務だと思い知らせるかのように。
 アンバランスなふたり連れはやがて目的地に到着した。それは庭の裏手にある煉瓦づくりの焼却炉だった。
 中身を気遣いながら荷を下ろす少年を横目に、金髪の男はポケットから燐寸を取り出した。琥珀色の瞳がふと悪戯っぽい微笑みをつくる。
「湿ってないかどうか、つい心配になるな? ここでは関係ないのだがな」
 謎めいたことを言って木軸を擦る。鼻腔を刺す匂いとともに火種が瞬いた。炉の投入口に投げこむと、紙くずの隙間に落ち、数秒後には熱と光が燻りはじめた。
 少年のほうを振り返り、美しい男がにっこりと手招きする。
「さあ、それを中に」
 黒髪の少年は足元を見下ろした。木箱はがたがた揺れている。……揺れている。それを、中に、放り込めと言う。少年は男を見上げて口を開いたが、何かを言いあぐねる様子で困って眉の端を下げる。
 がたん! とひときわ大きな音を立てて箱が跳ねた。内側から押し破ろうとしているのか、板の継ぎ目が今にも割れ裂けそうに軋む。中からは獣の唸り声も漏れ出てくる。男は舌打ちをした。
「なんと往生際の悪い。針金が切れたら面倒だな、いったん縛りなおすか」
 身を折って屈みこみ、木箱の蓋を取りはずす。
 中にいたのは金髪の少年だった。
 針金で手足の自由を奪われ、轡を噛まされて押し込められている。汗と涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬に髪が貼りつき、うう、ぐう、と苦しさのあまり獣じみた声を漏らす。極限まで見開かれた琥珀色の瞳は血走って恐怖と混乱が錯綜していた。
 猫の仔でも扱うように、ひょいと襟首を持ち上げて男は哀れな子供をつまみ出す。必死の形相で這いずって逃げ出そうとする頭を上から踏みつけ、地面に擦りつけながら、黒髪の少年に針金の束を放り投げた。
「おれが押さえているからそいつで手足を二重に縛るんだ。厳重にな」
 受けとった少年は小さな声で答えた。
「できないよ」
 耳に甘い声がやわらかく問い返す。
「なぜ?」
 ……できるほうがおかしい。7年をともに過ごした義兄弟を、そうでなくても人ひとりを、焼却炉に平気で放り込めるほうがおかしい。そう言い返したかった。でもこれは理由にならないのだ。だってこの子は、いずれぼくが剣で、真っ二つに、
「ああ、もしかしたら疑っているのかな? こいつが本当にそうなのかと?」
 男は子供を押さえつけている足を持ち上げた。ままならぬ四肢で虫のようにのたうつ胴を、カーフブーツの足でどかりと蹴って怯ませ、自分と同じ金髪を鷲掴みにして無理やり上を向かせる。
「こいつはおれだ。おまえなら見紛うはずもないだろう。こいつに与える報いは、そのままおれへの報いだ。こいつが事情を理解していないのは、おれがそういうふうに切り離したからだ。しおらしく従うだけではおまえの気は晴れないだろう?」
 黒子が3つ並んでいる少年の耳に男の指が伸び、こそこそと戯れにくすぐった。肩を揺らして睨めあげる表情は恐怖と混乱にさらに生理的嫌悪が加わってもはや蒼白だ。その視線を意に介さず男は、自らもくすぐったそうに肩を上げて身じろぎをした。
「これの痛みも恐怖も、どんな感覚も確かにおれが受けている。だから、さあ」
 黒髪の少年は焼却炉を見た。投入口の奥では勢いづいた火がごうごうと躍っている。『復活の日に備え肉体を残さねばならぬ』と牧師に説かれて育つ国の子にとって、焼死は苦痛もさることながら精神的な忌避感も大きい。少年はことさら信心深くはなく、国教会が衛生の観点から火葬を許容しはじめたのも知っているが、誅罰のイメージは未だ根強かった。咽び喘ぐ火刑台のジョーン・オブ・アーク。
「……そういうことではないんだ」
 語尾が震えたのは、父の最期をも思い出したからに他ならない。できればとうさんはきちんと埋葬してあげたかった。それでも少年は、童顔の中にあって凛々しい口元を噛みしめてあくまでも否定する。
「そういうことではないんだよ、ディオ……」
「おやおや」
 感心に呆れをないまぜて男は低く苦笑した。
 会話が途切れれば、下を向いている少年の耳に届くのはごうごうという炉の燃焼音だけになる。投入口から風が吹き込むせいか、それはごぼごぼと少しくぐもって聞こえはじめた。ごぼごぼ籠もる音はどこか水音に似ている、というよりこれは、本当に水音じゃあないか? そう思った次の瞬間、あたりは本当に海の底になっている。ありえない転移、場面転換、思わずはっと顔を上げるけれど、でも今さら驚くことじゃあない。
 気がつけば金髪の男とふたり、海底に沈んだ棺の上になかよく並んで腰かけている。
 なんのことはない、ぼくらはもうずっとこうしている。周囲には朽ちた墓標のように底砂に突き刺さっている船の肋骨材。固着生物でごつごつと鎧った魚礁。潮流に揺らめいてどれも青い色硝子ごしだ。相応の深さのはずなのに、水の透明度が高いせいか、薄暮くらいの明るさはあって見通しはいい。多少なりとも陽光が届くということは、隣の義弟にとって死地を意味するはずだが、涼しい顔をしているところを見ると光の波長がこれだけ減退していれば大丈夫なのか――いや、ぼくらにははなから関係ないのか。
 大西洋アフリカ沖、カナリア諸島近海、水深42メートル地点。本来なら悠長に腰かけて会話すべくもない場所で、ぼくらはずっとこうしている。


「ジョジョ、おれはおまえに謝罪したいし、機嫌をなおしてほしいと思っている」
 頑固な子供を辛抱強くなだめてディオ・ブランドーが猫撫で声を出す。その背後を、鰭をくねらせた流線型の魚の一群が通り過ぎていく。
 彼が着けているボイルドシャツと臙脂色のクラヴァットに、13歳の姿をしたジョナサン・ジョースターは見覚えがあった。船内のラウンジへ夕食に向かう前、これでおかしくないかと妻に見立ててもらった自分自身の服装だ。ジャケットは裂けて脱げてしまった、せっかく新婚旅行のために新しく仕立てたのに。
「おまえはこの世でただひとり尊敬に値する男だ。そのおまえとせっかくひとつになった。これから上手くやっていきたいんだよ、この身体と」
 首をとりまく傷跡をなぞって溜息をつく。肉体の所有権について論じあいたい気もしたが、譲るつもりはさらさらないようだし、防ぎきれなかったのは自分の力不足なのでジョナサンは何も言えなかった。いまの議題はそこではない。
「いつまで経っても馴染まない。傷も塞がらないし思うように動かない。原因はおまえの内面にある遺恨だ。おまえが未だ、おれに対して含む部分を抱えているからだ。ああ、ああ、解るともジョジョ、おれはおまえにずいぶん酷いことをしてきた。だからこうして詫びているんじゃあないか? どうか贖いを受けとって気晴らしをしてほしい……」
 棺に腰かけたディオは隣の義兄を覗きこんだ。浮かべる微笑には屈託がない。
「おまえの愛犬、大事なともだちにおれがしたことを、おれにやりかえせばいいだろう?」
「ぼくはそんなことをしたくないんだよ」
 困惑と少しの食傷をこめてジョナサンが答えた。もう何度繰り返したやりとりだろう。
「それはおかしい。言動には一貫性を持たせなくちゃあな、ジョジョ」
 諭す言葉はきっぱりとして自己の正当さを疑わない響きだ。
「おまえは恨みを晴らすためにおれを殺すと言った。もっともだ、さぞかしおれが恨めしいだろう。おまえの愛犬は理不尽に殺された。だったら同じくらい理不尽におれを焼き殺してしまえよ。遠慮することはないし蛮性を恥じることもない。自分が与えた苦痛は自分が引き受ける、おれ自らが申し出ているんだぞ?」
 そうだ。ジョナサンはそのためにここで困っている。
 かつてディオと対峙した夜に口走った、紳士として恥ずべき私怨は、しかし心底の決意だった。愛する家族や師への哀惜、彼らの無念を熾火にして未だ殺意の熱は燻っている。彼らのあるべき幸福が奪われた、この件だけは絶対に赦さないし肯定させない。個人的な動機は恥ずべきものだという紳士の心得に逆らってなお消えない怒りは、ジョナサンのそれだけの覚悟を裏付けている。
 でも、だからといって今の状況はどうしても納得がいかない。これがぼくのやりたいことなのか?
 ディオを斃さねばならないとは思っていた。でもそれは、等しい報いを受けさせてやりたいと同義なのだろうか。ふたりを繋ぐ名状しがたい絆、ひとつに溶けたはずの運命がむしろ遠ざかっているとしか思えない……。
 ディオはつと自分の背後に腕を回した。すぐ前に戻された手には、手品のように高台つきの白磁の皿が載っている。満載されているのは義兄の好物ばかりだった。チーズをのせた熱いクランペット、大きく切ったシェパーズ・パイ。ママレードを添えた胡桃入りのスコーン、いつか父親がウィーン土産に持ち帰ったデメルのチョコレート。
 差し出されたとりどりの味覚たちを、ジョナサンは申し訳なさそうに手を上げて遮った。【drink me】と書かれた瓶の中身ではないけれど、飲み食いして何かよいことが起きるともあまり思えない。
「さて困った、いったいどうすれば我が半身に赦していただけるのやら。簡単には屈しないおまえの意志の強さをおれは気にいっているがね」
 困難を愉しむ色でディオの瞳が細められた。手を再び背後に回し、前に戻したとき、手にあるのは大皿ではなく少女が持つような籐編みのバスケットだ。
「おまえを満足させるのは、たとえばこういった食べ物かもしれない……」
 バスケットの中身はみずみずしい葡萄が2房、そして添えられているのは名前の刺繍が入ったハンカチだった。ジョナサンは喉首を絞められているような気持ちになる。
「だがこれは、味が好みというよりも、好ましい状況で供されたから好ましい味として記憶している類いだ。状況……そうだな、状況的優位なのかな? おれがおまえに支払わねばならないものは?」
 ディオはハンカチをとって広げた。バスケットの上にふわりと被せ、2秒も置かずに取り払う。下から現れたのは藤編みの籠ではなく銀製の丸盆だった。載せられているのは一杯の水と、紙に包まれた薬包みだ。
 ぎくりと心臓が跳ねる。視線を上げればここはもう海底ではない。
 20歳のジョナサン・ジョースターは、とんとんと階段を上っている最中だった。高い背肩にはツイードの三つ揃い、逞しい腕には銀盆を持って。慈愛の女神像をホールの台座に臨む壮麗なカントリーハウスの階段を。
 自分がいま、どこに向かっているのかジョナサンはよく解っていた。二階に辿りつき、毛氈の敷かれた廊下を曲がる。南向きの寝室の扉を叩く。どうぞと応じる声がする。
 開いた戸板の向こうでは、金髪の男が寝台に身を起こしていた。
 お父さん、ご気分はいかがですか。やさしく語りかけながら義理の息子であるジョナサンは扉を閉める。貴族であるブランドー卿はもともと白皙の顔立ちをしていたが、病に寝つく日々が長くなってその頬はもはや抜けるように青白い。うむ、だいぶいいよと微笑む表情は、40半ばを超えてうすい皺を刻みつつも若いころの玲瓏さを滲ませる。だからこそ逆に衰弱ぶりが痛々しい――
 でも、ジョナサンの胸にはなんの感傷も沸かなかった。なぜならこれは自分が仕向けていることだ。
 薬の時間だね、ありがとう、ジョジョ。咳の発作をこらえながら義父が言う。疑いもせずに盆を受けとる痩せた腕を見るとき、ジョナサンは顔では神妙さを装いながら、胸中ではいつも嘲笑っている。ああ、信じ切っている。夢にも思わない。数年前ひきとった優秀な孤児、眼をかけて育てているこのぼくに、まさか毒を盛られているとは。
 義父には自信があるのだろう。富める者の義務を果たしている自信が。血のつながらない子供に愛情と期待をたっぷり注ぎ、だから自分のほうにも同じだけの善行を返してもらえると信じている。まったく有難い、おまえの愚直さは具合のよい踏み台だ。
 相手の好意を搾取しながら自分は相手を冷笑する、それはとても気分のよい絶対的な優位だった。精神的な優位はいつだって確かな安心感を提供してくれた。これ以上、自分を肯定できる生き方があるだろうか?
 ブランドー卿がそろそろと薬包みを開く。黒髪の息子はいつもどおり、優しい気遣いを演じながら見守っている。そして、
「……止せ」
 ジョナサンはディオの手首を掴んだ。
 粉薬がばらりとシーツに零れる。血の気のない瞼が驚きに持ちあがり、意外そうな表情で見上げてくる。でももうジョナサンは流されなかった。
「やめろディオ。勝手な世界でぼくの思考を誘導するな。……無意味だ」
 数拍おいて、寝台の男は嫣然と微笑んだ。
 みるみるうちに肌に張りが戻る。花がほころぶように精気がよみがえり、生体時間を巻き戻して壮年が青年へと立ち返る。青白い窶れもつつましく恭順な態度も、演じればさまになる男だが、やはり不遜の毒を内に満たした表情がなによりも美しい。
「どうして? ジョジョ」
 支配者の妖艶で吸血鬼が囁いた。
「知っているだろう、おまえの父親がおれにされていたことだ。同じようにおれの真心を踏み躙り、謀り、毒を盛って殺せばいいじゃあないか? おれの罪はこうすることでしか償えないだろうに」
「こんなのは償いじゃあない」
 苦々しくジョナサンは返す。苛立ちに似た感情が胸を占めつつあった。
「こんなことはしたくないと言っただろう、ディオ。ぼくがきみに求めるものがあるとすれば内面の反省だ。これみよがしな小芝居じゃあない。それを解ってもらえないのか?」
「反省はしているよ、ジョジョ。おれはこう見えて何度も自分を戒めてきたのさ。小芝居と見えるのならば心苦しい限りだが……さて、しおらしい態度に表わしてみたところで、おまえの信用は得られるのかね」
 夜着姿のディオは軽く手首を突き出し、胸の前で揃えた。いつかそうやって手錠をかけろと促したように相手にあざとく差し出してみせる。
「おれの演技の巧さを知るおまえは、おれの表面上の態度をまるで信用していないだろう。ならば実際の苦痛をなぞってみせたほうがよほど誠実じゃあないか。先程までのおれは実際に、毒のせいで心臓がいたみ指がはれ、死の床でひたむきに義理の息子を信じきっていたさ。裏切って絶望に追い込めばいいだろう? 目には目を、歯には歯を、レクス・タリオニスがもっとも理に適っていると思うがなァ」
「そうじゃあない……」
 絞り出すジョナサンの声は弱々しい。苛立ちは哀しみに近くなっていた。
「そうじゃあないんだよ、ディオ……」
 どうすればいい? どうすれば解ってもらえる? ぼくの言い分、ぼくの価値観はいったいどうすれば共有してもらえる?
 ジョナサンはやりきれなさに自分の肩を抱く。確かにかつて、目に余るディオの行動に思わず制裁を与えたことはあった。女性に対する侮辱には鉄拳を、生命に対する蹂躙には波紋の痛打を。それならば、現在ディオが自ら受けようとしている痛みや苦しみも、本当は報いとして数えてよいはずなのだ。
 ディオは自分を謀っていない、それは解る。思考が読めるわけではないが、一体化した肉から伝わる受容の波長が嘘であればすぐ見抜ける。焼却炉に放りこまれかけたディオも、毒を盛られて死の床にあったディオも、どちらも本当に何も知らぬまま苦痛に晒されていたディオ・ブランドーだ。ディオは真剣に自分に罰を与える気なのだ。
 でも、どう考えたってこのやり方は違う。違うとしか言えない……
 項垂れるジョナサンを、いまや彼の義弟に戻ったディオはじっと見つめた。思案ぎみに唇に指をあてる。
「では、もっともっと直截なほうがお好みかな?」
 ジョナサンは動かなかった。対抗論が見つからないことに疲労を感じはじめていた。
「おれはおまえの初恋を穢した。もっとも償うべきはこれだろうかとはずっと思っていたのさ。しかし生憎、手持ちから支払おうにも、ああいった執着になぞ心当たりがないから払いようがなくてねえ。……ただ、考えてみればひとつだけ、同じではないが近縁と分類してよさそうな相手ならあった」
 ジョナサンはゆるゆると視線を上げた。ぼくは驚いているようだ、と他人事のように思う。ディオにもそんな相手がいたのだろうか。
「おまえはおれの持ってないものを山ほど持っている。だが、ほんのひとつだけ……おれとて碌に持っちゃあいないが……おまえに比べればまだ持っている、といえる相手がひとつだけあった。それを充てればいいんだろう、な」
 寝台に身を起こしているディオは、おもむろに背からクッションを引き抜いた。突然、ジョナサンの顔にめがけて投げつける。
 わ、と思わず間の抜けた声を発したが、ちょうど顔に当たった瞬間に受け止めることができた。柔らかい物体を顔面からのけ、何をするんだと言おうとしたジョナサンは、自分がいま押しのけたものが女性のあたたかな胸元であることに気づく。
 一瞬、ジョナサンは混乱した。何度か瞬きをしてみれば、眼の前にあるのは粗末なワンピースを着た女性の襟だ。そこに顔を埋めんばかりの体勢になっている。どうやら自分がずいぶん失礼な接近をしているらしいと知り、慌てて申し訳ありませんと言って、相手の肩を紳士的に引き剥がそうとした。
 だが、薄くて頼りないはずの女性の肩はびくとも動かない。肩を掴んでいる自分の手を見て、その小ささと幼さにジョナサンは声も出ないほど驚く。
「どうしたの? ジョジョ。なにかこわい夢でもみたの?」
 心地よい声が頭上から聞こえた。見上げれば慈雨のように愛が降っていた。幼子にとってもっとも美しい女性、母親が自分を見下ろしていた。
「寝ぼけてしまったのね。大丈夫よ、母さんはここにいるわ……」
 ふあ、と自分も欠伸を噛み殺しつつ母が言った。我が子を抱きしめなおす腕にしっかり力を込める。小さな息子、4歳のジョナサンはぬくもりに包まれながらあたりを見回した。ストーブのそばの安楽椅子、そこに母が座り、自分は膝の上に乗せられている。
 寒々しい板張りの一間。棟木や壁板は黒ずんで朽ちかけ、隙間風は生臭い下町の空気を屋内に忍びこませる。ろくな家具がないせいで皮肉にも窮屈さだけは感じない。記憶にはない見知らぬ部屋、なのにとてもよく知っていた。不可思議な感覚をジョナサンはすぐ理解する。ここはディオの生まれ育った家庭だ――少なくともそれを模された場所だ。
「ジョナサン、おまえはかわいい子。私とおなじ黒い髪、瞳はすてきなみどりいろ……」
 母が小声で子守歌を歌いはじめた。甘やかな音階があやすように幼子の鼓膜を慈しむ。じっとしたまま聞いていると、耐えきれず瞼が落ちてきた。
 うとうと無意識の海へ沈みかける。なのに沈みきる寸前、ぐおお、と耳障りな声が聞こえて幸福なたゆたいから不本意に引き戻された。
 眼をやれば、汚れた仕事着姿の男が毛布にくるまって寝台で鼾をかいている。手には酒瓶を持ったままで、注ぎ口から垂れた雫が敷布を汚している。母は苦笑して、冗談めかした仕草で息子の耳をそっと覆った。鼾は男が何度か寝返りをうつうちに小さくなった。
「とうさんは疲れているのよ。ジョナサンはいい子だから、とうさんのおやすみを邪魔しないわね?」
 聞きわけのよい息子は母を見上げてうなずく。きょうはとうさんに、どぶそうじのしごとのおかねがはいった。ぶつぶつもんくをいいながら、ごはんをかうおかねをかあさんにわたして、おさけをのんだ。とうさんはちょっとこわいけど、きげんのいいときはぼくをだきあげて、いちばんのかねもちになれよといっておおごえでわらう。そうなりたいなとぼくもおもう。
「ジョナサン、おまえはかわいい子。私とおなじ黒い髪……」
 小さな頭を胸に抱き、母が再び歌いはじめた。今度こそジョナサンは誰にも邪魔されずに安らぎの園に落ちていこうとする。だが、再び邪魔は入った。今度は戸口のほうから弱々しい呻き声が床を這ってくる。
 溜息が頭上で聞こえた。ジョナサンが顔を上げたのは、その吐息に隠そうともしない苛立ちと嫌悪が含まれていたからだ。
「そうねえ、おまえは……」
 息子は眼を丸くする。信じられない、かあさんからこんな声が出るなんて。
「とってもきれいな金髪ねえ?」
 うんざりだと言わんばかりに戸口に向かって吐き捨てる。ジョナサンは首を回して声のした方向を見る。誰もいない――いや、いた。薄暗くてわからなかった。
 戸口のそばに、擦り切れきって雑巾にもならない襤褸布にくるまって誰かがいた。犬かとも思ったけれど、汚れていても暗がりに映える仄白い金の髪と、同じく仄白い痩せた指が布の下からはみ出ている。
「言って解らなければおまえは犬以下よ。かわいいジョジョが眠る時間なのに、静かにしていられないの?」
 かり、と折れそうな指が床を掻いた。染みだらけの布の下から、ぎょろぎょろと落ちくぼんだ琥珀色の虹彩が覗く。
「さ、さむ、」
 口がうまく回らないらしい。金髪の子供はいったん唇を湿してから続ける。
「さむくて、こえがでちゃ、」
「一度でいいことを二度も言わせないで。無駄なのは嫌いよ。私は静かになさいと言ったの。どうせわざとジョナサンの邪魔をしているのでしょう? 厭な子ね」
 ぼく、あのこをしっているぞ。母の声を聞きながらジョナサンはたどたどしく考える。あれはぼくの、ええと、そう、ふたごのおとうとだ。
「金髪でちょっと見目がいいのを鼻にかける子は、かならず性根が悪いからお仕置きが要るの。ジョアンナ伯母さまと同じね。いつも私の陰口を言っていた高慢ちきなジョアンナ伯母さま。趣味の悪い付け襟をつけて、私のシセロの朗読を発音がおかしいと言って笑うのよ。おお、そっくり、こっちを見ないでよ忌々しい!」
 息子を抱いて手が塞がっている母親は、ものを投げる代わりに、足元に落ちていた石炭のかけらをもうひとりの息子へ蹴りつけた。薄汚れた子供はひっと縮こまり、寒さにかちかち鳴る歯を抑えようと布の端を噛む。
 顔じゅうに不快を漲らせた女は、腕の中の子を見下ろすやいなや、嘘のようにそれを拭い去ってあたたかく笑いかけた。
「ジョナサン、おまえだけが私のかわいい子よ。私とおなじ黒い髪、瞳はすてきなみどりいろ」
 微笑み返そうとして、――ジョナサンは青ざめた。
 ぼくの双子の弟。あまり似ていないが実弟。母は黒髪、父は白髪で解りづらいが黒よりは明色、この両親から金髪の子が生まれるのはおかしくない。それぞれの祖先に金髪の者がいれば単なる遺伝の結果だ。ただの偶然の発露、でもこの家ではそれを理由にあらゆる不幸が決定する。無学ゆえの偏見、不運ゆえの怨恨が幅を利かせて君臨している。個人の誠意や努力など関係ない、生まれつきの形質で人生が否定される。ひとつ違えば冷たい床で縮こまっているのはぼくだったのだ!
 ごおお、と背後でまた鼾が聞こえる。ジョナサンはからくりを理解した。ディオの父親を自分は知らない、ただかつて警察から聞かされた盗難指輪の一件と、いつかディオが覗かせた憎悪から考えれば人となりは類推できる。では、なぜここでぼくの父として設定されているダリオ・ブランドーが、憎悪までは抱かせない無害な人物であるのか?
 答えは簡単だ。生贄がいるからだ。貧しさに喘ぐ家庭。いつ路頭に迷い食い詰めてもおかしくない。その不安と鬱屈の中で、家庭がそれでも機能しているのは、みながこの金髪の子供で憂さ晴らしをしているからだ。蔑むべき対象をひとり決め、その子を犠牲にして、自分たちより下がいると確認することで不安感を払拭しているのだ。
 ごしごしと何かを擦る小さな音がした。見れば戸口にうずくまる金髪の子供は、母親に蹴りつけられた石炭のかけらを手に取り、懸命に自分の頭に擦りつけている。煤でどろどろに穢れていく頭髪を見て、彼が何をしているのか理解したジョナサンは、哀しみというよりも絶望で背筋が寒くなった。
「おまえは何をしているの? そんなことをしても黒髪になれやしないわよ。憎たらしい浅知恵ね、図々しい」
 鼻の頭に皺をよせて舌打ちし、美しい母はかわいい我が子だけに視線を戻した。ちいさなまるい頬を撫でる。
「なんて頭の悪い子でしょう。ジョナサン、おまえはあんな子にはならないわね?」
 うん、と笑顔で頷きそうになって、ジョナサンは寸前で自分の頭を押しとどめた。胸の内で矛盾した感情が食みあう。かあさんにはいとへんじをしたい、違う、この現状を認めてはいけない!
 黒髪の子供は母を見上げ、酸欠の魚のようにぱくぱく口を動かす。でも何が言えるだろう、ほんの幼児に。まだ碌に教育も受けていない幼児に。あのこはかわいがられない、ぼくはかわいがられる、おとうさんとおかあさんがすきなのはぼくひとり。その優越感と幸福感と安心感を拒めるか?
 未発達な精神は長い葛藤に耐えきれない。4歳に引き戻された思考が、このまま母の世界に住んでいたいと強烈に誘引してくる。もはや物理的な手段しか残されていなかった。ジョナサンは意を決し、腕をつっぱって母の膝から飛び降りた。驚いた女が何をするのと悲しそうな声を出し、それを聞いただけで眼に滲みかけた涙を息子はこらえた。ぬくもりを自ら引き剥がすのは、本物の母を知らない彼にとって辛苦の選択だった。
 それでもジョナサンは戸口に駆け寄った。金髪の子供が眼を見開き、息を飲んで弾かれたように立ち上がる。その理由に気づいた双子の兄は、心臓が握りつぶされそうな思いがした。いつもぼくがなんとはなしに、おもしろはんぶんになぐっていたから、またそうされるんじゃあないかとおびえているのだ。
 金髪の子供は後ずさる。背中が戸口に当たった。掠れた呼吸音だけの悲鳴を漏らし、くるりと振り向いて扉を開けて外に逃げだす。ジョナサンはあとを追った。母が背後で名を呼ぶのが聞こえた。
 元の色も解らないほど汚れたシャツ姿の子供が夜の貧民街を駆ける。追う背後から見える足の裏は冬だというのに裸足だ。自分は大きめで継ぎ接ぎだらけだがちゃんと靴を履いている。ジョナサンは速度を上げた。なんとしても追いつかねばならなかった。
 角を曲がった途端、誰かにぶつかった。相手は大柄な大人で、子供にぶつかられても動じず、勢いをまともに跳ね返されたジョナサンは後ろに弾き飛ばされかける。寸前で相手に腕を掴まれたので、頭を打たずに済んだ。
 ごめんなさい、でも、いそいでるんです。口早に言って見上げた視線の先には笑顔があった。
「追いかけなくていい。大丈夫さ、どうせ行くあてがないからすぐ戻ってくる」
 せのたかいきれいなおとこのひとがぼくをみおろしていう。違う、ぼくはおまえを知っている。
「戻ってくればいつもどおり、生贄の羊はあいつの役目だ。おまえの地位は保証される。入れ替わらない『王子と乞食』だ。安心して暮らしていればいいんだよ」
「……ディ、……」
 ジョナサンは必死で口を動かした。もう何年も名前を読んでいない気がした。
 でぃ……お、ディオ! 掴まれている腕を振りはらい、自分の名を叫ぶ幼児の顔を、吸血鬼は半分の驚きと半分の愉快さで見守る。ディオ、ディオ、ディオ!! ひとつ名前を呼ぶごとに子供の手足は伸び、着ている服がめまぐるしく移り変わった。上背がせり上がって重厚なラインを描き、翠緑の瞳が高潔さをまたたかせ、輪郭に精悍さが増してゆく。
 ようやっと自我がまやかしを凌駕して、ジョナサンは20歳の姿を取り戻した。
「……ディオ、取り消せ……」
 生温い澱みが風にまとわりつく人気のない路地で、息を切らして立つ青年は低い声を出した。
「何を? ああ、さすがにもうちょっと裕福な家に生まれたかったか?」
 違う! ジョナサンの鋭い否定が石畳に反響する。
「取り消すんだ、きみときみの母のために! きみは差し出してはいけないものを差し出した!」
 自分が虐げられていたかのようにジョナサンは嘆願する。苦痛だった。いや、自分などより目の前の義弟こそがもっと苦痛だったはずだ。自分同士で知覚を繋げているのだから。なのに動じた様子はない。信じられない。見ているほうが耐え難い。
「……きみの母親は……実際にああいう女性だったのか? もしそうなら、きみの中にそれしか例が無いからどうしようもない。だけどもしあの母親像が、ぼくのために用意した誘惑だとしたら悪趣味極まりない。きみ自身ときみの母への冒涜だ……!」
「母親を知らないおまえが母親のありかたについて一家言あるとはね」
 ディオは腰に手を当てた。意地の悪い教師のように義理の兄を眺める。
「そうだな、確かにおれの母はああいう女じゃあなかった。仮におれにきょうだいが居たとしても変わらないだろう。誰にでも分け隔てなく愛情をしめす女だった。誠実でやさしく忍耐強かった。ゆえに愚かで薄幸だった」
 瞬間、ジョナサンは表情の硬さを解いて義弟の顔を見た。相手の瞳に、なんらかの感情が揺れはしないだろうかと思った。思ったというより願った。だけど確認できなかった。見逃したのか最初から存在しないのかどちらかは解らない。
「おれの母はああいう女ではなかった。しかし仮にああいう女だったとして、おまえにそれを責める権利があるのか? そりゃあ人道的には認めがたいだろう。だがここに簡単な数学がある。平等を重んじて結局まるごと全滅するか、1人を犠牲にすることで確実に残りを生かすか。さて、栄えある英国の将来を担うはずだった名家のご嫡男の注文はどちらかな?」
「考えるまでもない。誰かの犠牲のうえに常態化する幸福を認めてはならない。貧困からくる無知を払拭すれば、全員が平等に生きられる手段がある」
「おまえの悠長な目的意識なんざ聞いちゃあいない。明日食うパンがあるかないかの話をしてるんだぜ、ジョジョ。こんな家族がイーストエンドに何組あると思う。座して死を待ちたくない人々の必死の抵抗、せめてもの生存戦略だとは思わないか?」
「……きみはあんな風に自分を犠牲にされても平気か」
「おまえへの償いとしてあそこでは生贄に徹したがね、平気なわけなかろう。平気ではないから償いたりえるんじゃあないか」
 ディオは手を上げ、首と身体を繋ぐ因縁の痕跡をするりと長い指でなぞった。小さく肩をすくめる。
「残念だ。あの家で幼いおまえが満足していれば、きっとこの傷も塞がって身体も馴染んだろうに。いいかジョジョ、何を為すにも犠牲は生まれる。解答は以上だ」
「……ここはきみの世界だ。どうせ全部まやかしなら、嘘みたいに都合のいい、全員が幸せな家庭だって創れたろうに、なぜそうしなかった?」
「『自分は愛されている』より、『自分だけが愛されて他は疎まれる』のほうがいつだって甘美だろう。選ばれしものの恍惚がある」
「……本当にそう思っているならきみは不幸だ……」
 これは小さな嘘だった。4歳の幼い自意識上とはいえ、ジョナサンはその蜜の味を知ったばかりだった。
 ディオは黙った。何を言い返されるかと身構えたが、驚いたことににっこりと微笑みかえされた。その秀麗さに瞳を灼かれてジョナサンは思わず目を細める。
「そうだなジョジョ。おれは不幸だ。疑心のもとに泥水を舐める人生だ。そしておまえは幸福だ。善良な人々と甘い酒を注ぎあう人生だ。だが、なまじ甘い酒を呑む者はこの世にはもっと酔えるものがあることを知らない。不幸なおれが知り、幸福なおまえが知らない快楽がある。興味深い不均衡だ。おれたちはふたりでひとりだと、改めて認識を強めたよ」
 嘘を見抜かれたことに気づき、ジョナサンは苦々しく黙りこむ。誰かの犠牲のうえの幸福は認めない? どの口が言うのだ、母をひとりじめする快楽に溺れかけていたくせに!
 ディオにはこちらを責める風はなく、まるきり子供の言いわけを面白がる表情だ。口汚く否定されたほうがずっとましだった。
「おとなしく愛されていればいいものを、つまらんことを気にする奴だ。……そういえばおまえは、昔から意外と細かいことを気にする質だったな。小さな引っかかりをそのままにしておけない。考古学を志す者の性分か? 父親にもその気があったから、ジョースター家の性分かな?」
 ディオは黒髪の義兄をじっくり品定めする視線を送った。夜の路地裏におちる薄明は、閉ざされた鎧戸や小さな換気窓から漏れてくる灯りだけが源だ。相手の表情くらいは窺えるが、陰影が濃すぎて半顔は見えない。見えない部分は何もない空洞だったらどうしようとジョナサンはありえない想像に囚われた。
「おまえの好奇心に応えてやるのも、ひとつの誠意かもしれないな。おまえは呆れるほど清廉で潔白な男だったが、おれを見て案じたことくらいあるだろう? その疑問に答えてやろう。ジョースター邸に来る前、おれが貧民街で男娼のまねごとをしたのは、月に1回かあっても2回の頻度だ」
 川に泳ぎに行った回数でも話すようにディオは言った。平静すぎる口調にジョナサンの理解はしばらく遅れる。
「専業にしてたわけじゃあないからその程度だな。半端に少ないと思ったか? 想定より多いか? ああ、その顔は――「かれが貧しい少年期を送っていたからといって、過去を邪推してはならない」――と自分を戒めていたというところかな」
 どん、と背中に誰かがぶつかった。ジョナサンは反射的に振り返る。鳥打ち帽をかぶった少年が、走ってきて自分にぶつかったらしく石畳に尻をついている。
 呆然としたまま手を差しだすと、少年のつめたい指が、するりと手のひらの中央部分をいたずらに撫でた。あやうい慄きが腕に走り、息を飲んで手を引っこめる。少年はくすりと笑って自分で立ち上がった。帽子の下から覗く瞳の色に射抜かれてジョナサンは硬直した。
「……今日びは父親ひとり殺すのも大変でね。切り裂きジャックの例のように、どぶ底じみた街でも殺人事件となればさすがに露見する。尊属殺は風当たりも強い。当時のおれは人間として成功するつもりだったから、やるなら完全犯罪だった。だから普段の生活費に加え、ワンチェンの奴がふっかける薬代を都合しなきゃあならなかった」
 11歳前後とみえるディオ・ブランドーは語りはじめる。振り返ってみれば、大人のディオはもうどこにもいない。
「だから自分自身に、『ひと月にこれだけは稼ぐ』という目標額を課していた。怠けてちゃあいつまでもあの糞野郎を殺しきれない。大概は賭けチェスで賄ったが、おれも子供だったし、たまには強い手合いもいる。負けがこんで目標額に達しなかったときだけ男を誘って寝た。数合わせの手段だ」
 鳥打ち帽をとり、軽く叩いてディオはかぶり直した。くたびれた安物だが、実用品としては不便のなさそうな品質だ。着ているジャケットも、子供には大きい中古だが厚手の添毛織りでできている。ぺらぺらの木綿にくるまって震えながら慈悲を乞う本物の物乞いとは明らかに違う。つまり、金が懐に入ったのだ。
「おれは賢かったし、常に金稼ぎに頭を回していたから、女衒や立ちんぼの話を盗み聞くうちに7つか8つのころには大まかながら寝室の秘密にたどりついていた。おれの父親は「男につっこむなんてぞっとする」というありきたりな性癖だったが、おれをどうにか高く売りたい考えはあったようだ。母さんの生前は針子の収入があったからともかく、亡くなったあとはいよいよ女衒とおれを見比べる回数が増えた」
 少年は忌々しげに柳眉を顰めたが、意外とすぐに表情を戻す。
「おれから搾取を企む根性は万死に値する。が、単に金を稼ぐ手段としてなら間違っちゃあいない。自分ひとりでも考える選択肢だ。ただおれは、梅毒だけはもらいたくなかった。おつむに毒が回って、娼婦仲間にかびたパンを投げられて食いつないでいる女の饐えた匂いを嗅いだことがあるか? そうなっちゃあお終いだ。あの屑はそんなこと考えもせず、いずれ不衛生な客をおれの寝台に手引きするだろう。だから先に手を打つ必要があった」
 ディオは周囲を見回し、慣れた様子で壁沿いに放置してある木箱に近づいて腰かけた。長話になるから座っておこう、という落ちついた物腰だ。
「中流上位層の初心なぼっちゃんの筆下ろし専門になってやることにしたのさ。それなら病気はもらわない。ちょうどロンドンには事業でひと山あてた新興富裕層が増えていた。金はあれども地位のない奴らが慣れないモーニング姿でおどおど歩き、さらに後ろを親の怯えが伝染した子供がびくびく歩く。そいつらが狙い目だった。小脇に抱えている、親に持たされたのだろうが当人は一行も読んじゃあいない本のタイトルを、横目で確認してから声をかける。「靴磨きはいかがでしょう?」眼を白黒させて断るのが普通だが、そこでいかにも思い切ったふうに続ける。「あの……お手にあるのはフィリッポ・リッヒの伝記ですね? 不躾で申し訳ありませんが、以前から読んでみたかったのです。できれば少しだけ、手にとらせていただけませんか?」あとは簡単だな、一度では読み切れないのを理由に、次に会う約束をとりつければいい」
 おれは見目がいいから、ちょっと演出してやれば向こうが勝手に盛り上がる。ディオは笑いながらつけ加えた。ジョナサンは黙っていることしかできない。
「手ごろなぼうやが見つからないときは、インズ・オブ・コート、高等法曹院に下宿している候補生のうちからできるだけ遊んでなさそうな若僧を誑しこんだ。司法の徒を男色に誘うなんて危ない橋だと思うかい? ふん、言い訳する側に回ればやつら大したもんだ、『法には常に解釈の余地がある』そうだぜ。「きみは女性と寝たことがあるか? まだならきみは法的な範疇の男性ではないとも言える!」との言い訳には一周して感心したね。智は力というのは真実だな。法学に興味をもったのもそれがきっかけだ」
 立ち竦むジョナサンは、頭の片隅で、家々の灯りがいつしかすべて落ちていることに気づいた。あたりは塗りこめる黒に満たされている。なのに腰かけているディオの姿だけが、陰影の濃い姿のまま暗闇の中に舞台役者めいて浮かぶ。
「おれが多少の金を持ち帰るようになると――半分は隠して貯めていたが――当然、金の出どころをあの屑に聞かれた。「客をとったんだよ。生活のためだ」と返すと、不気味そうに黙りこんだが、これで酒代の心配はないってわけで安心したらしい。おれが自分で客を引けば女衒に仲介料を払わずに済むしな。最初は楽とはいえなかったが、こつを覚えれば快楽もあるし高給となりゃあ十分。童貞坊ちゃんにもたまに通好みがいて、ベルトで打たれながらやるのはきつかったが、事前にソヴリン金貨を見せられて了承したのはおれだ。一日じゅう蹴っとばされて驢馬みたいに荷を担ぐのも似たようなもんだと思えばずっと割がいい。……もっとも、注意しても病気の危険はつきまとうし、良識派どもに見つかって石を投げられるのも面倒だから、あくまで賭けチェスの補佐という域は出なかったな」
 木箱に腰かけているディオが足を組み替えた。ぎしり、と鳴る音が耳に届く。これは木箱の軋む音か? もっと大きなものが出す音に聞こえる。
「しかし……だいたい男と寝ることが、なぜ忌避され罪悪とされるのかよく解らんね。せいぜい愉快に出し入れするかされるかだろ? 成長してからは女と寝る遊びをおぼえたし、確かに具合はよかったが、もし飽きれば取り換えたっていいようなものだ。正式な婚姻外の関係をうんぬんと言うなら、男にも女にも天罰が当たらないのが不思議な奴らが山ほどいる。神というものがいるとして、会う機会があったら議論してみたいね」
 腰かけている少年は、上体を少し反らす姿勢をとって後方に手をついた。ぎしりと再び音が鳴る。暗闇に眼が慣れてきてジョナサンは、彼が手をついているのがシーツの布地であることに気づく。
 周囲を見回す。ここはもう貧民街の路地裏ではない。寝台とナイトテーブルとランプだけが据えられたどこかの部屋。絨毯は流行りの色だが、生地は薄手で安っぽい。初めて見る場所だが想像はついた。連れこみと呼ばれる部類の木賃宿だ。寝台に座っているディオがジョナサンを見上げる。狭い部屋にふたりきりで向かいあっている。
 視線がぶつかる。ぶつかったとたん絡めとられて逸らすことができない。少年がジャケットを脱ぎ、寝台の上に投げだすのをただじっと見ている。投げる動きにあわせてシャツ越しに、肩から腕にかけてのまだなだらかな筋肉が浮く。落ちつかない、急きたてられる焦燥感を黒髪の青年は抱く。蠱惑されているのだと自覚して身が強張る。
「……さっきも言ったが、おまえの『好奇心』に応えてやるのも、ひとつの誠意かもしれない。試してみるか?」
 接吻を許す貴人のごとく伸べられた手は悪夢のように白かった。
 奥歯を噛んでジョナサンは立ち尽くす。解っている。ディオは金や、快楽や、ゆきずりの気まぐれといった理由で男や女と荒淫することを、気軽なことに考えていて、たいしたことではないと心から思っている。でも同時に、ジョナサンが動揺し胸を痛めるであろうことは理解していて、それを心の不自由さと捉えてからかい、束縛から解放してやろうかと親切で手を差しだしている。
「きみは平気なのか」
 自分の声をどこか遠くにジョナサンは聞く。
「きみは本当に、それで平気なのか」
「平気ではないと思うなら、あるいは平気ではないと言ってくれと思うなら、具体的な理由を添えてほしいね」
「そんな関係には心が伴わない。精神の充足が得られない……」
 ああ、安っぽい言い草だ。それでも続けなければならない。
「きみは自分自身を貶めている。それは育った環境のせいかもしれないが、」
「おいおい、なんといったかあの……そう、スピードワゴンとかいうやつの意見は容れないのかい? あいつによれば、おれは環境のせいで悪人になったのではなく、生まれつきの悪党だそうじゃあないか」
 芝居がかった仕草で肩をすくめる。歳に似合わぬ貫禄が、浮きもせず自然なふるまいとして匂いたつあたり、目の前の少年は本当に人外だ。
「犯罪者の素質がなんで決まるのか、ここでそれを論じる気はない。おれとしてはどちらでもいい。現在の自分がすべてだ。しかしおまえは……そうか、ふむ、環境のせいだと思いたいんだな?」
 ひとり得心し、寝台の上で腕組みをしてディオは続ける。
「ディオ・ブランドーは貧しい生まれで、酷い環境で、辛い思いをして……そのせいで良心を育めず、ついつい自己中心的な生き方をしてしまう。そうあってほしいんだな、ジョジョ? そう考えておけばおまえは安心できるというわけだ」
 やわらかく語りかける態度は変わらない。しかし、相手からゆるゆると音もなく滲み出て、空気を病みつつ這いよってくる気配をジョナサンは嗅ぎとった。不穏な鬼気。丁寧すぎる口調や、やさしさと呼ぶには温度が低すぎる視線の奥から。
「おれの悪に、同情すべき理由があってほしいんだろう? 生まれついての悪人などいない、貧困や不運がぜんぶいけない。環境のせいで捻くれてしまうだけで、本当はかわいそうで純粋な人間だ。そう決めつけておいたほうが、おまえの気持ちが楽だものなァ。ほんとはいいこ、せかいはすてき。そういうことにしておいて自分はぐっすり安眠したい。ぼくのおねむを邪魔するなというわけだ――」
 ひとつひとつの単語に棘が生え、単語の連なりである文章は茨となってジョナサンの心臓を締めあげる。おだやかな表情のまま捕食者がゆっくりと牙を剥く。
「――この世にはなんら考慮すべき動機なく我欲のみで悪を為す人間が確実に存在する。おまえは、そんな残酷で救いようのない現実から眼をそらしたいだけの、お幸せな小僧だ」
 のしかかる言葉の圧力の中で、とっさに深呼吸、そう、呼吸をイメージすると、規則正しい生命の波長が内側からジョナサンを脈動させて奮い立たせる。気圧されるな、呑まれるな。痛みを知ったそのうえで、対峙することをやめるな。
 この呼吸は単なるイメージだ、本当にいま波紋が練れるならディオを斃す。でも心象の産物でしかなくとも、師に教えられた勇気は彼と向きあうためのよすがだった。恐怖を我が物とせよ。いつかの教えをジョナサンは必死で反芻する。
 短い沈黙のあと、少年は白皙の顔に悠々とした笑みをかたどった。
「すまない、きついことを言ってしまったな。いいとも、いいとも、かわいいジョジョ。おれには理解できないが、それがおまえの望みならば受け入れよう。おれはおまえに謝罪したいんだからな。それがおまえの安心なら、永遠の安心感を与えてやろう……」
 細い首をくるりと指でなぞる。何もなかったはずの喉に赤黒く癒えきらぬ痛々しい傷の輪があらわれた。
 愛をねだる子供を演じて、ディオは軽く両手を広げてみせる。
「さあ、思う存分、かわいそうなおれに同情するといい」
 ――呑まれるな。
 ジョナサンはもう一度自らに言い聞かせる。怯むな、取りこまれるな。ここに至ってようやく気づいた。ディオは詫びようとしているのではない、ぼくを食らおうとしているのだ。いや、彼は本気で詫びているのかもしれない。ただ同時に、無意識に、己だけが支配する安寧の夜に誘いこもうとしている。
 ぼくという異質の肉体を、馴染ませるために彼が講じる手段はすべて、ぼくを平らげ食らいつくすための手段なのだ。そして彼はこれを、真摯な謝罪であり誠意だと信じて疑わない。重苦しい哀しみが胸の奥で澱む。一体となってなお、ぼくらは何も変わらない。何ひとつ終わっていない。
 同時にジョナサンは、己の驕りにも気づかないわけにいかなかった。憐憫と厳正で誰もを救えると思いこむ救世主きどりの自分。ディオが本当は何を考え、何をしたいのかまったく把握できていない。その結果が現状だ。圧倒されかけ、打ちのめされかけ、瀬戸際でやっと踏みとどまっている。
「…………ディオ」
 痛みに似た衝動で、自らの半生を象徴する名前を唇にのぼらせる。きみがぼくの屋敷にやってきて、馬車から飛び降りるやいなやぼくを睨みつけたあの日から、ぼくらはどこまで来れたろう。ずいぶん遠くまで来た気がするのに、実はまだあの場所にいる。少年の日に閉じこめられたままふたりで立ち尽くしている。どうすればいい? ぼくはきみをどうすれば?
 義兄が険しい表情で黙りこんでいるので、年若き義弟は小首を傾げた。どうした、と促すふうに形よく口元を緩める。媚びというほど甘くはないが、人の眼を引くためにじゅうぶん計算されたあどけなさ。
 もう一度だ。ジョナサンは再び深呼吸をする。思い出せ。ここは本当は海底の棺で、ぼくはそこで朽ちかけている生首だ。もしかしたらそれもディオに食べられてしまったかな? 食われてしまうとさっき感じたけど、物理的にも? 生き延びようにも他に栄養がないもんな。自然とそう考えたあとで苦笑したい気分になる。人の血を吸う生き物なら人の肉も喰うだろう、というだけの判断だが、自分はそのことに忌まわしさやおぞましさを感じないらしい。父をきちんと埋葬できなかったことには口惜しさをおぼえたのに。ディオに殺された人々は心をこめて正式に弔いたいが、自分がそうされないことはあまり気にならない。ディオを斃しきれないのは悔しいが食われることには強い抵抗がない。諦めではなく、もっと奇妙で繊細な感情だ。いいよ、ディオ、どこまでもつきあおう。
 翠緑の瞳がじっと吸血鬼を映す。ジョナサンには長く抱いていた疑問があった。偶然だと言われればそれまでなので、聞く必要もないと放置していた。でも、もっと早く聞けばよかった。ぼくの運命にあらわれた侵略者ディオ・ブランドー。彼の存在自体がぼくの青春になってゆくあいだにも、もっと早く聞けばよかったのだ。
「……ディオ、きみはぼくに償いをしたいと言っているね」
 ジョナサンはそっと口を開いた。自分の声が落ち着いていることに安堵した。
「では、ぼくが今からする質問への正直な回答を、償いにしてくれないか。きみがぼくをどう思っているのか知りたい」
 ディオは瞬きをした。少し意外そうに、だがすぐ余裕をみせて額に指をあてる。
「別に構わんが、それは既に言った内容じゃあないか? かつては蹴落とすべき対象として見下していたが、本当はおまえは侮れない男だ。この世でただひとり尊敬できる相手として、」
「そうじゃあない。もう少しささやかな部分を聞きたい」
 控えめに言葉を遮ってジョナサンは続けた。
「ぼくらの在籍していたヒュー・ハドソンは名門校だ。同期にも名家の男子が多かった。正直、ぼくよりも貴族として序列が高い家の跡取りも大勢いた。加えて、こんな言い方はしたくないが、きみが傀儡とするならば恐らくぼくよりも付け込みやすい人間も大勢いた。……社会的にのし上りたいきみにとって、ぼくより価値があり、ぼくより利用しやすい相手が大勢いた。なのになぜぼくを選んだ?」
 わざわざ聞くようなことか、と呆れた風情でディオは口の端を曲げる。
「どこか不思議か? おれが養子に入ったのはジョースター家だ。財産をのっとるためのお膳立ては十二分じゃあないか。邪魔者さえ始末すれば勝手にすべてが転がりこむ。養子のおれに爵位は継げないが、実質的に財政面を掌握できればそれでいい。わざわざ他家に取り入る必要がない」
 ジョナサンは頷く。この回答は想定内だ。本題はここからだ。
「それを踏まえて、もうひとつだ、ディオ。……きみは優秀な学生だった。法学首席だ、言うまでもなく将来が嘱望されている。もし法廷弁護士として開業すれば、引く手あまただったろう」
 何が言いたい、と訝しげに少年は耳を傾けている。ジョナサンの脳裏に亡師のことばがよみがえる。「もし自分が敵なら」と相手の立場に身を置く思考。こんな形でその意義を思い知ることを、師は許してくれるだろうか。
「養子のきみは爵位を継げない。この時点で、きみにとってジョースターの『家名』の価値は上流階級とのコネクション作りに留まる。だから主な目的は『財産』なのだろうが……さっききみが言ったように、近年この国では新興富裕層が増えている。成り上がりとも揶揄されるが、発展めざましい経済を支えているのは彼ら資本家だ。一方で貴族階級には衰退のきざしが見えている。ジョースター家もかつては所領の地代のみで食べていたが、工業地帯に人々が流出して心許なくなったから父さんは貿易商をはじめたそうだよ。旧態にしがみついていても待つのは没落だ。結果として成功したからぼくらの暮らしむきはよかったね。ただ、うちは屋敷のわりに使用人が少ないとは思わなかったかい? 父さんが意図して少なくしていたそうだ。近いうちに古くからの階級制は有名無実化すると父さんは踏んでいた。貴族のぼくが言うが、これからは才能ある事業家の時代だ」
 これはささやかな疑問にすぎない。ささやかな小理屈の他愛ない疑問。でも、とジョナサンは気づく。どうやらぼくは上るべき階段の一段目に辿りついたらしい。きみにも言われたね、ぼくは意外と細かいことを気にする性分なんだ。
「……財産をのっとる? 確かにジョースター家に財力はある。でも父さんが商売で回さなければいつかは食いつぶしていた。たとえきみが簒奪しても、運用を怠ればそうなる。もう言いたいことは解るね。ヒュー・ハドソンの法学首席なら、この時代、事業家相手に法務を担当すれば父さんと同じかそれ以上に稼げる。きみは独力でのし上れたはずだ」
 ディオの顔を見る。訝しむ色は消え、一見すれば興味のない会話をやりすごす退屈そうな表情だ。だが急な無関心は逆にそこに隠すものがあると意味する。
「父さんやぼくをわざわざ始末することにあまり意味がない。むしろ上流階級のコネクションを活かすなら、窓口である父さんや将来その代替えとなるぼくは生かしておいたほうが便利だ。きみには不可能な役回りなのだから。そうだね?」
「奪うことがおれの本懐だ」
 即答だが言い訳めいた発音だった。ジョナサンの眼の前で、寝台に腰かけている少年の上体が陽炎のようにゆらりとぶれた。ディオの姿が不安定に移り変わる。11歳の少年かと思えば瀟洒なコート姿の学生へ。そうかと思えば精一杯の一張羅を着こんだ13歳の姿へ。取るべき姿を決めあぐねている。
「奪って独占することに意味がある。おれひとりが勝つことに意味がある。そうだ、おれは一番が好きだ。おまえたちが存命のままじゃあ、おれと同格の者がいて気分が悪い」
「……きみの幼いころの話を聞いて思った。きみは正しいリスク計算ができる人間だ。哀しいまでに。父殺しが露見しないよう完全犯罪を目論んだのだろう? 将来のためには前科を知られたくないときみは考えた。そんなに賢いきみが、なぜそもそも再びの殺人にこだわった? 説明したとおり、財産という意味ではきみひとりでよほど稼げる。コネクションという意味では生かしたほうが得だ。ジョースター家の人間を殺すことは、ささやかなリターンのわりにリスクが無意味に大きい……」
 15歳くらいのディオはあらぬ方を向いて黙っている。横顔はもの静かだ。だが神経質に震えている睫毛をジョナサンは見逃さない。
「……かつて完全犯罪に成功したから、今回もうまくやろうとした? そうかもしれないね。でも疑問が残る。そのままで順風満帆なのに、なんの必要があって殺すのか。奪うことが本懐? そうかもしれないね。でも露見しちゃあ元も子もないのに、なぜ不要な危険性を自ら抱えこむのか。……思慮深いきみが、この事実に今まで一度も辿りつかなかったのか? 聞きたいのはそこだ。きみが判断力を曇らせてまで、ぼくらをどうしても殺さねばならないと固執した理由だ」
 一緒に育ったきみと、最後までよい絆を培えなかったことにぼくは失望した。けれど、考えてみればその頑とした不折はいったい何が源なのか。
「なぜ、ジョースター家に拘泥した? なぜぼくらから奪うことにこだわった?……」
 躊躇ったのち、ジョナサンは手を差しだした。ひとつのものにひたむきに飢え、つよく渇望することには必ず理由があるだろうか。たとえそれが純然たる悪意でも、対象の選択には意味があるだろうか? ディオ、きみはなにを見ていた? ジョースター家、資産力、ぼくの犬、上流階級、ぼくの初恋、ぼくの破滅?
「……なぜ、ぼくではないといけなかった?」
 畜生。ディオは胸中で毒づいた。問われた内容への罵倒ではない。伸べられた手を、力一杯に撥ねのけたいが、そのためには相手に触れなければならないことへのどうしようもない怒りだ。いまは絶対にジョナサンに触れたくない。自分でも理由が掴めないまま、強烈な拒絶感だけが沸きおこる。
 濁りを知らぬ翠緑の瞳がまっすぐに精神の底に突き刺さる。おれはこの眼を知っている。秘めた信念と爆発力。昔からそばにあった脅威なのに、なぜすぐ忘れて油断してしまうのだ。近すぎて忘れてしまうのか? 寒色であるほど超高温を放つ静かな炎。おれを見下ろすな。そんな静かに見下ろすんじゃあない。せめてなんとか言ったらどうだ――あのときと同じだ。おれがいくら呼んでも静かに見下ろしたまま返事をしなかった。爆発を待つあの船倉で。
 世界から急に音がなくなった。冷静さと機転を誇るディオの頭脳はその持ち主を裏切った。どう言いぬければいいか解らない。これまで幾度となく自らを救ってきた狡猾さが、自分の中のどこにも見つからない。
 ジョナサンの腕が、回答を求めて角度を上げる。それだけの動きで、首をとりまく傷をもつ20歳前後のディオは思わず寝台から立ち上がった。近づくな。おれに触るな。
「……来るな」
 誰に触られても平気だった。病気さえもっていなければ! どこを触られても舐めまわされても構わない。ベルトで打たれても瓶の口を突っ込まれても。いちいち殺してやるとは思わない、その感情なら最初から大半の人間に抱いている。傷の手当てが面倒だなァと小さく苛立って舌打ちし、だがこれが世間というものなら、この経験を基に『覚悟』を得た自分は強くなれると思った。まったく平気だった。覚悟があれば何も恐ろしくない。覚悟は絶望を吹き飛ばす。なのになぜだ、おまえにだけは、触れられたくない。
 琥珀の虹彩にちらちらと血色の影が躍る。感情の昂ぶりを制御できていないのを察し、ジョナサンはじっと答えを待った。金色の頭がゆっくり振られた。
 次の瞬間、靡く頭髪はジョナサンの横をすばやく駆け抜けていた。とっさに身を返し、腕を掴もうとしたが間に合わない。部屋を飛び出して廊下を走り去ってゆく。ジョナサンも廊下に転がり出て追いかける。男性ふたりの疾走に耐えきれず、木賃宿の傷んだ床が抜けんばかりに軋む。
 ディオが建物の玄関を開けて戸外へ出る。数秒差で飛び出したジョナサンは、勢いのまま何歩か走ったが、周囲の光景に思わず立ち止まった。ここは、知っている、ジョースター邸の庭園だ。雨上がりの下草の匂い。清楚なつるばらが迎えるアプローチ。
 猥雑な連れこみ宿の玄関が、この庭に本当に面しているわけはなかった。空間をめちゃくちゃに繋いでいる張本人を求めてジョナサンはあたりを見回す。いた。母屋の北棟の方向へと走り去っていく。ディオ! 名を呼んでも止まってはくれない。
 追いかけて建物の角を曲がる。踏みこめばそこは、王立植物園の鬱蒼としたパームハウスの中だ。むっと湿った熱気にたちまち囲まれる。二階部分に回廊をもつ構造、英国が誇る大温室。ふたりして父さんに連れてこられたのは何歳のときだっけ? ディオを探して走りながら記憶が去来する。「あの螺旋階段、駆け上がるのに何秒かかるかな」「ジョジョ、ぼくがきみなら、明日もラグビーの練習でしごかれるのに肉離れを起こすような真似はしないね」――林立するシュロの隙間に一瞬、見慣れた色が漏れる。気づいたジョナサンはつんのめって立ち止まる。椰子類の葉をかきわけて奥に飛びこむ。
 視界が開ければそこは植物園ではない。懐かしい、グレート・ラッセル通りだ。面倒くさいと嫌がるきみを引きずってこの街を歩いた。一方的に連れまわして悪かったけど、ぼくはどうしても大英博物館に行きたくて、父さんは『常にふたりで行動すること』という条件つきでロンドン観光を許してくれたのだから仕方ない。あとでちゃんと古書店めぐりにつきあったろう? きみが『Giotto di Bondone』と書かれた画集を食い入るように見つめ、小遣いでも買える額なのになぜか棚に戻したのをぼくは憶えている。街を走り抜ける後ろ姿を遠目に見つけ、ジョナサンは追う速度を上げる。
 見通しの悪い小路に入っていくので後に続けば、そこは保養地ブライトンの海岸。砂浜にある屋台の天幕に隠れたので覗きこめば、そこは大学付属の礼拝堂。いくつかの記憶と時代を駆け抜けながら、ジョナサンは何度も名を呼んだ。ディオ!!
 かっかっかっ、と走る自分の足音が変化したことに気づいてジョナサンは立ち止まった。
 足元を見下ろす。カーフブーツを履いている。背に当たる感触は、着けている背嚢だ。ひんやりした夜気に包まれながら顔を上げる。
 かそけき燈明がざらついた屋根壁の質感を炙りだす。ぱちぱちと爆ぜる音が反響する。石畳の敷かれた広間は薄暗く、黴臭く、静まりかえって陰鬱だ。その中にあって床の大鉢に活けられた薔薇の精気が、場違いというよりもなにか罪深いもののように浮いている。
 中世の様式と推しはかれる室内装飾は、その露悪さも含めていま館の主を務める者に似つかわしい。ジョナサンはこの館を知っていた。一夜しか滞在したことはないがよく知っていた。『風の騎士たち』の町のはずれにある古い城館だ。
 ひとつ息を吐き、かつかつと石畳を歩む。これまで急いて駆けていたが、もうその必要がない。求める対象は広間の奥にある。崖上に突き出す形で設えられたテラス。手すりの上に立つ人影。
 運命への道標のようにディオは立っていた。
 満天の星に照らされた長躯は、こちらに斜めに背を向けている。髪に隠れて表情は窺えない。どう話しかけるべきか迷ってジョナサンは口籠る。足音でこちらの存在には気づいているはずだ。
 あえかな夜風が金髪を乱し、半顔を晒す。うつろの顔だった。常であれば冷笑的な優雅さをもつ美貌は、いまはただ整った形をしているだけの像だった。
 凍結した声がジョナサンの耳に届いた。
「来るな」
 その言葉を最期に、追いつめられた吸血鬼の身体が、手すりの外に躍った。
 おちてゆく。過日の再現だった。追跡から逃れるためにもう一度、かつての己の死を模す選択だった。意味為さぬ声を発してジョナサンは駆け寄った。そしてそのまま、躊躇なく、自らも手すりを飛び越えて宙に躍った。
 でもこのままの自由落下では、先に落ちてゆくディオに届かない。一瞬よりも短い時間で思考したジョナサンは、これも過日の再現のように、壁を、蹴った。自分の身体がテラスの外壁を通過する最後の瞬間、斜め下に向けて壁を蹴った。
 ここは焼け落ちるジョースター邸ではない。だから蹴った先にあるのも、家庭を守護する慈愛の女神像ではない。真逆の存在だ。それでよかった。
 視界が急激に加速する。互いの顔が眼前に迫る。追いつかれたと知ったディオが表情を歪める。逃れられない絶望と、それとほぼ等量のなにかを込めて。
 掴み、引き寄せ、抱きしめる。温度のない身体を腕に閉じこめ、金髪の頭を胸に押し当てる。血のにおい。どちらの血のにおいだろう? ぼくらはいつも血みどろだ。
 ひとつとなった影は落下してゆく。いずれ崖下の岩場に激突し、割れて砕けて果てるだろう。ここにはぼくたちふたりしかいない。死闘に勝って生きながらえる者も、首ひとつになって絢爛たる永遠を望む者もいない。ともに滅ぶぼくたちだけだ。あとには何も続かない。ここですべてが終わる――――本当にそうなれば、よかったのに。



 ゆっくり瞳を開ける。
 明るくないが暗くはない。音はしないが静寂でもない。曖昧な空間がどこまでもその曖昧さに甘えている。あやふやな奥行きと天地に眩暈がしそうになるが、足元を見ればきちんと立っている。知覚するが早いか、周囲が一気に彩られる。
 光、音、匂い、触感、いちどきにやってきた情報量を受け止めきれずにジョナサンは瞬きをする。薄暮の光が満ちる天に、ここが戸外だと知る。一面の蒼をすべる波の轟きに、ここが海だと知る。潮の生臭さと、水を吸った建材の軋みと、踏みしめる床の揺らぎに、ここが船の甲板だと知る。
 1889年2月7日、大西洋アフリカ沖、ニューヨーク行き航路。ジョナサンは自分の格好を見下ろす。正絹のボイルドシャツと臙脂色のクラヴァット。
 ざん、と波が船体を打つのに合わせて、軽く頭を降る。長らく追いかけっこをしてきたが、ここが終着点だ。さっき彼に追いついたことで道が通じた。たとえいくら望んでも、ここより前には終われない。最後の彼はここにいる。
 船室へのドアを求めて視界を回す。ふと、手すりに留まっている2羽の鳥が眼についた。頭にはちいさな飾り羽、これは渡りをする種類ではなかったか? 鳥のうち1羽は片翼がだらりと垂れている。ここまで飛んできたが、もう群れについていけないらしい。もう1羽は健康そうだが、つがいの相手を見捨てられないのか寄りそっている。
 じっと黙ってジョナサンは鳥たちを見た。群れからはぐれた生き物、目的地に辿りつけない渡り鳥の命はいずれ長くない。哀しく美しい破滅の選択だ。
 ではもし――もしも。片翼を垂らした鳥が、寄りそっているもう1羽に、「おまえの翼をくれ。おれはおまえの翼とともに生きる」と言ったなら。「おれとおまえは、ふたりで永遠に天をゆくのだ」と言ったなら。
 もう1羽は了承するだろうか?
 ……ざん、と船の腹でまた波が砕けた。ジョナサンはもう一度、今度はのろのろと頭を降った。黒髪を汐風になぶらせて船室のドアへと向かう。行くべき場所は解っていた。陽は水平線のかなたに傾きつつあった。
 いくつかの階段を下って船倉へと向かう。船内には誰もいない。動くものは壁に作りつけられたブラケットの揺れる光源くらいだ。こういう謎の漂流事件があったな、とジョナサンは思い出す。
 限られた面積の中でできるだけ居住部の広さを確保するため、船の廊下は狭い。俯きがちに歩いていたジョナサンは、廊下の真ん中に1枚の画用紙が落ちていることに気づいた。何とはなし気になり、拾いあげる。
 裏返して見る。鉛筆でスケッチされた肖像画だ。しげしげと眺め、「ぼくだな」と「ぼくではない」を同時に感じ、どちらだろうと大いに迷う。筆致は達者で、かなりぼくに似ている。だけどぼくにしては、眼の形がすずしげで怜悧さが強い。実際のぼくは体格のわりに目元は幼いとよく言われ、自分でもそう思う。
 引き続き廊下を歩く。船底を目指して階層を下ってゆくと、また画用紙が落ちていた。拾いあげればスケッチされた肖像画だ。やっぱりこれは、ぼくを描いた絵だろうか? いつも鏡の中に見る顔にそっくりだ。でもぼくにしては、顎の細い不敵な印象なのが気にかかる。ぼくの顎はもっと厚みを帯びているはずだ。
 最初はときどき目につく程度だった画用紙は、進むにつれ頻繁に見かけるようになった。つい律儀に拾いあげて確認する。どれもが自分のようでいて、自分ではない人物の絵だ。あるものはジョナサンにしてはやや細身。あるものはジョナサンにしては口角が皮肉すぎる。かならずどこかが似ていない。
 船倉のドアの前に立つころには、腕いっぱいの画用紙を抱えるはめになっていた。苦労してドアノブを回す。戸板の向こうの光景は、ある程度は予想できたが、予想をはるかに上回る質量で見る者の視界を染めあげた。
 船倉じゅうを覆いつくす紙、紙、紙。
 一夜にして積もった雪のごとき白い世界。外洋をゆく船は大きい、当然ながら船底も相応に広い。その面積すべてが紙という紙に侵されて足の踏み場がない。紙の白さであたりは仄明るいほどだ。恐怖すらおぼえる偏執的な量。そしてそのすべてに、ジョナサンであってジョナサンではない人物が描かれていた。
 めくるめく紙の層は、駆動機関が据えられている奥に向かってだんだん深まっている。しゃりしゃりと素描の音。巨大なスクリューシャフトの前に、華美な装飾の黒い棺がぽつりと置かれ、その上に座った金髪の子供が一心不乱に絵を描いていた。
 腕いっぱいに絵を抱えたままジョナサンは近づいた。心情的に絵を踏みたくはなかったが、まったく踏まずに進むのは不可能に近い。申し訳なく下を見ながら進んでいると、それぞれの肖像が眼に入る。あるものはぼくにしては顔つきが鋭角だ。あるものはぼくにしては雰囲気が孤高すぎる。あるものはぼくにしては瞳が琥珀色。あるものはぼくにしては金の髪。あるものはぼくにしては、牙が、生えている。
 ジョナサンは棺の前に立った。気配に気づいた子供はふと手を止め、視点の高さがはるかに違う黒髪の青年を見上げる。
「……おまえは誰だ?」
 原初のディオが問いかける。構えるふうのない素直な質問だ。
 どう答えようかと言葉を探す前に、ディオは自分が描いていた絵に視線を落とした。紙面と相手の顔とを交互に見比べる。
「……そうか、おまえか」
 ぽつりと呟いて小さな手が紙面を撫でる。
「おまえだったのか。いくら描いても、似ないと思っていた。ずっとここでこうしているのに、どうしても描けなくて困っていた……」
 じっと項垂れる。幼い頬が小刻みに震えている。ジョナサンは胸の中にちいさな陶酔をおぼえた。身を屈め、できるだけ視線の高さを合わせて話しかける。
「きみはずっと、ぼくを描いていたのか」
 口に出すと気恥ずかしい。だけど言葉にして確認したかった。いちばん奥の底にいるディオはずっとぼくを描いていた。その事実を噛みしめたかった。
 金髪の子供は頭を上げる。透きとおる瞳の中に自分が映り、――そしてその像が細く吊られた憎悪のかたちに歪むのを、ジョナサンは至近距離で見た。
「ちがう」
 一音づつ区切っての強い発声。本気の否定だった。
「おまえだったのか。おまえのせいなんだな。おれが自分を描けないのは!」
 幼いディオは棺から立ち上がり、腕に山ほど画用紙を抱えているジョナサンの肘を力いっぱい打ちあげた。ばっ、と撃たれた鳥が羽根を散らすように紙が宙に舞う。微笑みの表情のままジョナサンは凍りつく。
「おれが描きたいのはおれ自身だ。おまえなんか描きたくない! でもどうしても、勝手におまえの顔になってしまう! いくら描いてもおれにならない! 描けば描くほどどんどんおまえになっていく!」
 このままではおれがいなくなる! 叫ぶ声は悲痛な断末魔だ。
「出ていけ! おれにおれを描かせろ!!」
 自分よりはるかに小柄な相手の叱咤に、ジョナサンはよろめいて後ずさりした。もつれる足で踏みとどまる。ばさばさと舞う紙の音。いつのまにか頭上からも、吹雪のように数多の画用紙が降ってくる。ジョジョ、ディオ、誰だって?
 降りつもる紙で視界が埋まる。顔という顔の似ない顔。溺れんばかりの白い偽物。
 ぐい、と誰かに肩を掴まれた。体温のない指が誰のものかは解っていた。
「……おれは、来るなと言ったんだ、ジョナサン・ジョースター」
 絶対零度の声が鼓膜を刺し貫く。食いこむ指の圧力に互いの罪を思い知る。ぼくも見たくないものを見たが、彼も見られたくないものを見られたのだ。
「……質問の答えは得られたかね、親愛なる義兄さん? さて、おれからもおまえに質問だ。おまえに倣って細かいことを気にしてみたんだが、答えてくれるな」
 憎悪の滴る言い回しだった。声に混じる怒気がもし毒であったなら、この一瞬だけでぼくは何万回も死んでいる。
「おまえはどうして、おれのやることの責任を取りたがるんだ? おれに対してちょっとばかり、我がことのように背負いすぎじゃあないのかね」
 喉の奥で酷薄に笑ってディオは続ける。
「おれの存在は、おまえにとってほとんど『災害』だ。ある日突然あらわれて、おまえやおまえの愛するものを一方的に蹂躙する。まったくもって理不尽だ。泣いて当然、恨んで当然、防げるものなら防いで当然。ここまでは災害に対する姿勢としてごく当然。問題はここからだ。――人間をやめたおれを見ておまえは言う、「ぼくの責任だ、戦わねばならない」。責任? おれは降りかかる火の粉でしかないだろうに。自分の調べていた石仮面のせいだから? でもおまえの動機は純粋な研究心、なんの悪意も野心もない。おれに利用されたのは単なる不運じゃあないか。刃物職人はその刃物で行われた殺人に責任があるとでも? メアリ・シェリーの怪奇譚よろしく、生命創出の野心にとりつかれ、盗んだ死体を繋ぎあわせて具体的におれを創りあげたのならまだ解るがね」
 血臭漂う吸血鬼が背後から、冷静な論理を説きかける。肩を掴まれた姿勢のジョナサンは振り向けない。
「多少の負い目ならばあろうさ。ジョースターの父子はお人好しだし、なんといっても義兄弟だ。あのときスピードワゴンとやらも言ったな、怪物を生んだ責任を感じているのかと。だが奴は続けた、「逃げろ、殺されるだけだ」そのとおり、命まで賭す必要はない! しかしおまえは頑固だった。世に放つわけにいかない、かたをつける、自分の生命と引きかえに! なんとまあ華々しいことだ。当時は闘争に夢中で気にかけなかったが、いま考えればほとんど強迫観念だ。正義や義侠だけで片付けてよいものか? 何にそこまで責任を感じている?」
 語るその間にも、天の底が抜けたようにばさばさ、ひらひらと紙は降る。積もる高さは脛まで達し、ここがどこかも解らない。船倉の光景も棺も子供もかき消えた。見渡すかぎりの白い空間にあるのは、つめたい指の感触と描かれた顔、顔、顔の渦だけだ。
「父の仇討ちだからと言いたいか? 事実おまえは恨みを晴らすと言った。それもまた本音だろう。だがすべてを私怨と捉えるには、おまえはおれの野望を砕く義務感に奔走しすぎる。エリナにも何も説明してないな? 巻きこむまいとしたにせよ、すべてが終わったと判断して結婚したなら話してやってもよさそうなものだ! なぜ話さなかった? おまえの抱えこみ方は少しばかり大袈裟だ。おれという災害を、まるで自分が呼びこんだかのような振る舞いだ。……ただなジョジョ、ひとつ告白しておこう。不思議なことにおれ自身、そう考えていたふしがある。この力はおまえがくれた力だと感じていた。おまえの研究から知識を得たとはいえ、いわば偶然にすぎないのにそう思いこんでいた」
 ディオがまた喉を鳴らして笑う。一致は偶然ではないと言いたげに。
「おまえの必死さは、まるでおれの共犯者であるかのようだ。あるいは本当に……共犯的な後ろめたさを感じていたのか? そう考えればつじつまは合う。おれという化け物の誕生に、石仮面以外のかたちでも、無意識に加担してしまった感覚があるのかな? たとえばおれに……日ごろからなんらかの抑圧を与えていたとか?」
 もう護るもののないディオは容赦ない。己を刻むはずの諸刃の剣を素手で握りしめ、血を流しながらジョナサンの喉首に突きつける。
「ディオなんかいなくなればいいのに、とか? いやいや、良い子のジョジョは他人にそんな悪意を抱けない。だから代償行為でこう考える。ディオがもっといい子になればいいのに。もっとまともな人間になればいいのに。紳士的で愛情深く、正義を抱き清廉を目指す人物になればいいのに。ぼくみたいになればいいのに――」
 馴染まない身体、癒えない傷。だが他人の身体が、一応でも繋がったこと自体が奇跡なのだとしたら。その奇跡は片方のみでは為せないとしたら。
 誰が望んでこの首は繋がった?

「――ディオ・ブランドーなんか、ジョナサン・ジョースターに、なってしまえばいいのに」

 振り返るよりも早く、渾身の鉄拳がジョナサンの頬に食いこんだ。
 仰け反る長身が倒れきらないうちにもう一打。画用紙の山に叩きつけられ、あお向けにバウンドする胴に、すばやく馬乗りになる感触。
 殴打の雨は刹那も置かずに降ってきた。衝撃と痛覚と揺れる視界。交差して繰りだされる腕の隙間から見える表情を、どう形容していいのかジョナサンは解らない。荒れ狂う殺意と懇願をないまぜて、さながら人の形をした嵐だ。
 ひと殴りごとにディオの声が聞こえた。耳に聞こえる声ではないが明らかに感じた。描けない、描けない、ディオ・ブランドーが描けない! おれが描けなくなったら、誰がおれの憎悪を怒りを野望を描くんだ。誰がおれの飢えを血反吐を虫のわいた水を母の背中を神とやらの不在を描くんだ! この煮えたぎる泥濘を吐き出さないと死ぬ。勝利して支配していないと死ぬ、勝ち誇り見下し嘲笑っていないと死ぬ!! 他で誤魔化しがきくものか、誤魔化せればおれはここにいない、花と絹と甘い酒はおれを殺す、なのにおれはおまえを求めてしまう!! だから奪う、乗っ取る、おまえはおれだ、違うおれはおれだ、消えろ、死ね、おれのものになれ、死んでくれ、お願いだ、ジョジョ。
 痛打の暴風の中で、上に跨られたまま、ゆるゆると緩慢な自覚にジョナサンは呑みこまれた。これまで見て見ぬふりをしてきた欲望だ。才知溢れる不遜なきみを、完膚なきまでに打ち負かして、弱いと思い知らせて心を折って、ねえ本当はぼくみたいになりたいんだろうと、やさしく微笑みかけたかった。ぼくをいたぶる強く美しいきみを、ぼくの暗部を引きずり出すきみを、恐ろしく忌まわしく心許せぬきみを、だからこそとても、征服してやりたかった。その日を想ってぼくは昏い悦びに酔っていた。
 がさり、と指先に画用紙が触れる。寒気がするほどの量。本当はディオにしか描けない絵がある。快い絵ではないかもしれないが、とにかく彼にしか描けない絵だ。ぼくはそれを上から塗りつぶそうとした。もっといいものを描きなよと、横から筆を差し入れて、頼れる師匠ややさしい友達や素敵な女の子や、それらに囲まれた幸せな子供を描き加えようとした。偽りない自分を描くことでしか救われないディオの絵を、ぼくと同じ絵にしたい傲慢で塗りつぶした。きみに向くすべての事象は、ひそかな征服欲を抱くぼくからの抑圧だった。薦めるパイプも分けあうココアも贈ったカフスもなにげない朝の挨拶も。
 ああ、だけど。
 逞しい腕があやまたず、殴りかかる腕の一本を掴んで止めた。激昂に焦げつく瞳が歯軋りしながら眼下の顔を睨めつける。
 血の滲む拳を見やり、ぼろぼろのジョナサンは芯を通した声で言った。
「きみの手が傷むから、いけない」
 ひときわの憎悪をもってもう片方の拳が叩き下ろされた。痛い。いまのは自業自得かな。これも傲慢かな。だけどぼくの本心だ。きみが本心を偽れないように、ぼくも本心を偽れない。きみを傷めたくないんだ。
 猛打は永遠に続きそうに思われたが、いつしかふと、速度が鈍くなった。拳の握りこみも緩くなる。がつん、と顎に食いこませた左腕を最後に、ディオは肩全体で荒い息をしながら動きを止める。
「…………を、し、……る?」
 高熱に魘される子供のような掠れ声が降ってきた。よく聞き取れない。弾む呼吸が引いたころ、乾ききった唇がもう一度たどたどしく同じ問いを紡いだ。おれたちはいったい、なにを、している?
 答えようと口を動かして、ジョナサンは切れた咥内の痛みに顔を顰めた。傷を刺激しないようゆっくりと発音する。
「安住の地を探そうと、したんじゃあないかな。そしてそれは見つかった……」
 横を向き、口の中に溜まった血をいったん吐き出してから続ける。
「ずいぶん時間がかかったけど、ここが求めたその場所だ。どうやら無駄な遠回りをしたらしい。大騒ぎして駆けずり回って、結局ぐるりと還ってきた。ここが目指した理想郷。やっと手に入れた終の棲家。そしてそこは地獄だった。それだけのことだ……」
 自分の声のやわらかさをジョナサンは不思議に思う。息詰まる状況で、絶望としか思えない事実を語っているのに。
「敗因はなんだ。どこで間違えた」
「これこそが求めた結果だから、敗因というのも違う気がするよ」
「表現はどうでもいい。知りたいのはこうなった理由だ」
「それはたぶん、ものすごく単純だ。7年は長すぎた」
 偽りに偽りを重ね、いずれ堰を切る殺意だけが本物で、他のすべてが嘘だったとしても。それでも長すぎた。同じ時間を重ねすぎて、嘘はそのまま歴史になった。
 ジョナサンを見下ろす無機質の顔が、間近にいなければ気づかないほどわずかに口角を軋ませた。激情になにもかも消し飛ばされたあとの灰の表情だった。
「……永遠と7年を天秤にかけて、7年のほうが傾ぐのか」
「永遠なんて本当はすごく脆いのさ。発掘されて陽にちょっと当てたとたん、劣化して崩れていく木乃伊の話はよく聞く」
「忌々しい皮肉だな」
「さすがに気づいた?」
 およそ真剣味に欠ける会話だ。全身全霊をこめて殴り殴られた直後だし、事態はなにも解決していない。なのに自然に呼吸するように会話している。あたりまえか、と今更ジョナサンは気づく。ぼくらの死闘はなるべくしてなった結果で、避けられるものではない。でも過ごした時間でいうなら、腹を探りあいながらも軽口を叩きあっていた時間のほうが、ずっとずっと長い。
「……思うんだけど」
 瞳をじっと覗きこむより、瞳を逸らしたほうがこの提案にふさわしい気がして、ジョナサンは髪の向こうに透ける左耳の黒子に視線をあてる。
「きみの手が傷むのはいやだけど、きみがどうしてもやりたいなら仕方ない。ぼくら、ずっとここで殴りあっていればいいんじゃあないかな。ぼくだってきみにされたことは決して赦さないから、同じ分だけ殴りかえそう。ずっとここでそうしていればいいんじゃあないかな。誰にも迷惑をかけず邪魔もされず、ふたりで愚かになっていよう。それは、」
 不自然に途切れた先を、語る者は続けなかった。聞く者も聞かなかった。
 沈黙は雄弁に語っていた。それはふたりが本当に目指した場所に、存外近いのではないか。
 引き締まった腰の上に馬乗りになっているディオが、全身の力を抜き、ゆっくり前に倒れこんだ。
 ジョナサンの肩口に額をどさりと載せる。こぼれおちる金髪が首筋をくすぐる。ジョナサンはぼんやり思う。今までディオにはありとあらゆる感情を抱いてきた。是非も好悪も真も偽も。でも、髪に触りたいなんて思ったのは、これが初めてだったろうか。
「悪くない提案だ」
 疲れはてて透明になった声でディオが言った。
「だが、だめだ」
「なにか難点があるかい?」
「提案には難はない。むしろ唯一の解決策かもしれん。でも、おまえから出た提案だ。だからだめだ」
 妙に澄んだ声が、自嘲まじりの矜持を含んで耳のすぐそばで響く。
「奪うのはいいが、おまえの差し出すものを、おれが受け取るわけにはいかないんだ」
 苦い笑みでジョナサンはその宣言を容れた。最初から解っていた。きみは決してぼくになどならない。ぼくが決してきみにならないように。
 自分にないものはいつも眩しすぎる。惹かれて見入れば眼が潰れる。その苦を避けて身のうちの闇に馴らせば意味を失う。悲劇と喜劇のはざまでぼくらは途方に暮れている。なのにどうしても、手を伸ばさずにはいられなかった。
 言ったはずだ、おれはなんとしても生きる。だからいつか目覚めるぞ。
 そうか。ぼくはいかなきゃ駄目だ。でもきみに盗られた分はいつもきみに抗うよ。
 会話をしたつもりだったが、声としては何も聞こえない。あれ、と思う。概念だけが交換されている感じだ。発声という構成要素が抜け落ちている。
 身体にも違和感をおぼえ、腕を持ち上げて指先を見る。砂糖のかたまりが水に溶けるように指先が空間にほどけて溶けだしている。形という構成も失いつつある。
 白い紙が織りなす大海だったはずの空間は、いつのまにかずいぶん暗かった。さっきまで仄明るさすら感じたはずなのに。暗いとひとたび知覚すると、再認識はさらに加速し、みるみるうちに完全な暗闇になる。暗くなってから解るのもおかしな話だが、最初は船倉だったはずなのになんだか狭くないだろうか? 大気に妙な圧迫感がある。もはや窒息しそうに小さい。せいぜい人間がひとりふたり入れる程度の箱だ。これじゃあまるで――いや、そうだ。それが正しいんだ。
 猶予の季節が終わった。現実の媒体と化した闇がふたりを呑んでいく。
 ジョナサンは上に覆いかぶさっているディオの頭を見た。煙に似て輪郭がたゆたっている。暗さに見えづらいのではなく、存在そのものがぶれて確立しなくなり空間に拡散しかけている。自分もそうなのだろう。ふたりともこのまま現実のディオの中に融解するのだ。言いたいことがあるなら今のうちだ。なにを言おうか。
 言いたいことはすべて言った気もするし、聞きたいことはすべて聞いた気もする。さよならを言うのも違う。それだけは永遠に言えなくなった。でも同じ時と空を共有することはもう叶わない。じゃあ、きみと過ごしたすべての時間に手向けの言葉を。
 闇が溢れて満ちて満つ。その寸前、声ならぬ声は同時にふたりに届いた。
 ここは地獄だ。だけどきみのいる地獄だった。
 ここは地獄だ。だけどおまえのいる地獄だった。














 寒さは苦ではないが身のこわばりはすこし不快だ。
 ふわふわと覚醒しきらぬ頭で吸血鬼はとりとめなく考える。
 眠っているのか起きているのか曖昧だ。考えているのか感じているのか曖昧だ。体調は悪い。これは曖昧ではない。こんなことだけが曖昧ではない。
 たぶん厭な夢を見た。茫としたまま眉を寄せる。眉を寄せたという意識だけかもしれない。まったく忌々しい夢だ。内容は憶えてない。でも思い出したくない気持ちがとても強い。だから厭な夢だと決めつけておく。
 たのしいことを考えよう。がりがり骨ごと平らげた首は栄養としてゆきわたった。体組成の変化は遅いが進んでいる。陸へ上がったらどこへ行こう。寒いのは飽きた。暑い国に住んでみたい。いろんな人間と話そう。勧誘の駆け引きを楽しもう。住処には植物園がほしい。東洋趣味の花を植えよう。紫陽花などおもしろいな。
 寝室にはだれの絵画を掛けよう。粗忽な部下への仕置きを考えておこう。怠惰とその比喩を分析しよう。吸血鬼はいろいろなことを考えた。どうでもいいようなことを細やかにたのしく考えた。目覚めの日を待ちながらのんびり思考に遊んだ。あらゆることを考えた。たったひとつの祈りを思い出さないようにするために。

 吸血鬼は自分の思考に夢中だ。だから自分が納まっている海底の棺の上に、たとえば誰かがまだ腰かけているなどとは思わない。
 幽かに透けるその手が、触れられなかった髪の代わりに棺の蓋をそっと撫で、そうしてから跡形もなく霧消していったなどとは、夢にも思わない。





Frozen Beach / P-MODEL
2016/04/04