ヒステリックな通信音が、執務に励んでいた彼の意識をとげとげしく呼びもどした。
 通話機を取ると中年男の声が、面白くもなさそうに早口で用件を告げる。ザトーはペンを置いて立ち上がった。
 部屋を出る前に、まず鏡を見る。眉間の皺と顔色の悪さを、努力して平静なものに戻す。扉を開けて館内を歩みながら、呪文のように口の中で呟く。きっといつもと同じだ。きっといつもと同じだ。
 少々久しぶりだが、きっといつもと同じだ。
 中途半端な切り方だ。あれで死ねはしない。
 それでも彼は、無意識のうちの早足に呼吸を乱しながら廊下を急いだ。

 生に迷いやすい時代と場所ではある。
 だが、年端もゆかない少女が自殺未遂を繰り返すのは、いつの世も悲惨な例ではないか。



 血の海にべったりと自分の髪が浸されている。
 床に崩れ落ちたまま、ミリアはそれを横目で眺めやった。
『視界に映るものを当然のようにやりすごすな。常に新しい発見を得るつもりで見ろ』
 教官のそんな言葉をふと思い出し、実行する。
 手首から流れる血は、端のほうは既に凝固を始めている。赤みの抜けた血液は雨に濡れた土の色そっくりだ。すっかり髪にこびりついてしまって汚ならしい。
 またいつものように、医局の人に洗ってもらう羽目になるだろう。毎度のことながらなんだか恥ずかしく、申しわけないと思った。
 では、自分はいったい何故こんなことをしたのだろうと考えた。

 そこで不意にばかばかしくなった。
 私は結局、生き延びるつもりでいる。



「……もう、起き上がれるな」
 病室の椅子に腰を下ろし、男は生白い頬の少女に語りかけた。
 あの自傷騒ぎからは数日が経過している。今となっては幾度も繰り返されたおなじみの騒動だ、処置さえ済めば落ちつきを取り戻すのはお互い早い。
 だが、ことが起きたあとの微妙な雰囲気には未だ慣れそうもなかった。
 ザトーはシーツの上に、幾枚かの資料を投げてよこす。
「早速で済まないが、実技はまだ無理でも講義なら受けられるな?」
 その質問は確認でしかない。ミリアは無言で頷いた。
 彼女の教官は呆れて自問せずにはいられなかった。こんな茶番があるだろうか? 自らの死を追い回す者に、他人の死を追う術を教えこむ。
 だが今までの厄介事は、ミリアに潜在的な法力の素養があったから見逃してもらえたのだ。才能よりも扱いづらさが上回ると判断されたら最期、医療班は二度と駆けつけない。担当生の脱落は、教官である自分にとって査定の下落を意味する。そうさせないためには成績を稼がねばならない。
 悪態をつきたい気分で、ザトーは個人講義を開始した。
「……以上のように、わずかな接触で最大限、対象の情報を読みとる訓練をしなさい。相手が何を意識し、何を怖れ、何のために動いているか……」
 そこでいったん言葉を切り、深い蒼の瞳をちらりと巡らせる。
「情報は生命に帰結する。相手を知ることは、すなわち相手の死に近づくことだ」
 少女の頬にぴくりと走る反応を、ザトーは視界の隅で確かめた。居心地の悪さを押しこめて無言のまま教本に眼を移す。
 何も言わず、それ以上に何も言えず、ただ淡々と技術理念のみを語って講義を終える。
「……克服を期待している」
 立ち去りまぎわにひとこと言い残し、そのくせ返事が返ってくるのを恐れる速さで病室のドアを閉める。廊下を歩きながらザトーは、苦々しく思考に沈んだ。
 会話の中に具体的な『死』を匂わせるたび、彼女はいつもあの表情をする。自分がロシアの寂れた街角で彼女を拾い、面倒を見はじめたのは数年前だ。以来、それなりに懐かれている自信ならある。幼い瞳がきょろきょろと自分を探す感覚も悪くない。
 だが、いつの事だったろう?
 少女の手首に、当時はまだ浅かった、ひきつれた傷跡を初めて見たのは。
 絶句して口篭もり、気づかぬふりで視線を逸らした。その日は何気なく頭を撫でてやることもできなかった。自分の動揺をやりすごすので精一杯だった。
 こんな時、なんと言ってやるべきか決めていなかったのだ。
 数を重ねるごとに傷は深くなった。結局、毎回医局に担ぎ込まれるようになるまで時間はかからなかった。
 いつまでも無関心は装いきれず、ザトーも遠まわしに攻勢をかけた。だがミリアは自分の内面に関する話題にはまったく反応しない。「何故」と問うても「何も」としか答えない。慰撫や同情にも興味を示さない。何悩むでもない表情で、思い出したように身を刻む。
 何を求めているのか、あるいは何を拒みたいのか。まったく解らない。
 正直なところ困り果てていた。
 人が知れば職務への怠慢と言われるだろうか。抑えきれぬ苛立ちに、彼はかつかつと荒い靴音を鳴らした。

 男が出て行ったドアを見ながら、ミリアは少し首を傾げた。
 克服しろと言った。何を?
 たぶん死を。
 少女はベッドに背を預けて考えた。おそらく勘違いされている。
 実はミリアは、『死』という単語そのものに反応しているわけではなかった。教官である彼、ザトーが死を語ることに拭えない違和感を覚えているだけだった。
 彼がどんな生業で身を立てているかは当然知っていた。初めて出逢ったときに見たことだ。だが似合わないとずっと思っていた。具体的な理由は自分でも解らないが。
 ミリアはしばらく考えて、結論を出した。
 私の教官は――あの人は――死を手なづけようとしている。
 とんでもない誤解だった。だって死は、器用に使う道具でも克服すべき壁でもない。
 いつも私を待っている。ただそれだけのものだ。
 あの日、天から降ってきた轟音と閃光。混乱のさなかに意識を失い、きな臭い空気に咳きこんで目覚め、ふらつく頭であたりを見回せばもう隣にいた。
 両親と呼んだ肉塊。愛した空間の残骸。
 そこにはびこる暗い死が。
 以来、それはどこにでもついてきた。気がつけば部屋の隅やふとした物陰に蹲り、じっと自分を見据えていた。だがその姿は明瞭には見えない。ぼんやりとして曖昧で、ときどきだいぶ薄くもなる。だが騙されはしない、確実に存在している。本当にはっきりと見えるのは多分、いざ喰われるその瞬間だけだ。死の持つどの要素よりも、ミリアはそれが厭だった。
 いつ喰われるか解らないくらいなら、自分から口に飛び込むほうがまし。
 少し前、やっとそう気づいたのだ。
 この国に似つかわしくなく、やたらと空が高い日などは、死の姿をうまく捕まえられる気がして慎重に手首に刃を這わせるのだが……なぜかいつも上手くいかなかった。



 ミリアの傷は日ごと癒えていき、やがて実技にも復帰した。
 晩秋の朝の冷えこみは身を切るように厳しい。訓練のために屋外に集まった訓練生たちは、寒さに身を寄せあって号令を待っていた。
 誰かがふと声を漏らした。敷地の隅を指さす。
 その先には、どこから迷い込んだのか、一匹の仔猫が不安げにうろついていた。
 お世辞にも可愛いとはいえない猫だった。毛並みはみすぼらしく、一目で病気持ちと見てとれる。冷気に喉をやられ、しゃがれ声で呻いている。
 その日の監督だったザトーは、出てきてすぐにそれを見咎めた。
 つまみ出せと指示しようとして……金髪の頭がそばを駆け抜けたのに気づく。
 泥だらけの猫はぎゃあぎゃあ喚いて後ずさりしたが、ミリアは怯まない。手を伸ばして半ば強引に抱き上げる。腕に爪を突き立てられても離そうとしない。
 初めて見る、彼女のやわらかな表情。ザトーは一瞬、どこか息苦しさに似た奇妙な感覚に囚われた。
 内面の波立ちを押し殺して近づくと、子供たちに軽い緊張が走る。ミリアも顔を上げた。
「……猫が好きか」
 しばらく言葉に詰まったあと、ザトーはそれだけ尋ねた。
 ミリアは頷いた。猫を抱くのはもっと小さいころ、友達の家で仔猫を見せてもらったとき以来だ。
 心の底から、こんなに美しい生き物はいないと思っていたのだ。
「では、飼ってみるか?」
 周囲の動揺のざわめきで、ザトーは自分の発言に気づいた。私は何を口走っている?
 当のミリアも驚いて眼を見張っている。取り繕うように言葉を続けた。
「その猫は幼く、弱っている。飼育には細やかな世話が必要だ……」
 同時に、ザトーの脳裏にはある考えも浮上しはじめていた。表現を選び、誘導を織り交ぜながら話す。この子は意外と自立心は強い。わずかな挑戦心を煽り、あえかな希望に縋らせる――試してみる価値はあるだろう。
「出来るものならば飼ってみるといい。ひとつの生命に責任を持つのは大変な作業だ。自分自身すら持て余しているような者に出来ることではない」
 わざとゆっくり手を差し出す。
「おまえには無理だな、ミリア? 自分でも解るだろう」
 訓練生たちはみな、納得して成りゆきを見守った。これは教官からミリアへの訓戒だ。彼らはそう理解した。
 発言者が、自分の言葉とは逆の結果を切望していることには誰も気づかなかった。
 ミリアはうつむいて眼を伏せた。猫を抱く細い腕に力が籠もる。必死で自分を奮い立たせているのだと気づき、ザトーの鼓動は緊張で高まった。
 やがて彼女が上げた瞳の色に、彼は自分が賭けに勝ったことを知った。
「…………私が責任を持てば、いいの?」
「まあ、そうは言った」
 意外そうに頷いてみせる。
「してしまった約束は守ろう。しかし……」
「……やってみるわ」
「止めておきなさい。永らえさせるだけ哀れだ」
 困り顔で笑ってみせる。もう一押しだ。
「おまえがまた、医局に運びこまれている間に、この猫は飢えて」
「やるわ!」
 男の手を振り払って、ミリアは断言した。
 別人のように強い調子で、この子を入れる箱を取りに行かせろと申し出る。ザトーは勢いに押されたふりで承諾した。周囲もみな呆気に取られて、走り去る少女を見送った。
 不公平と思う者もいただろうが、珍しさが先に立ったらしい。子供らはたちまち群がってひそひそ話しこみ始める。手を叩いてその集団を散らしながら、ザトーは心中で安堵の息をつく。よかった、上手くいった。いささか気を揉んでしまった。
 なぜ自分が少女ひとりのためにこうも必死になったのか、その理由は考えなかった。
 ただ、自分に向けられた強い瞳を思い出し、ひそかに眼を細めた。



 少女と猫との蜜月はこうして始まった。
 自分の食事から消化の良いものを分け与え、寝床の清潔を保つ。体調管理に気を遣い、空き時間には必ず様子を見にいく。ベッド脇に置いた箱に、仔猫といっしょに幼い責任感も詰めこんで、彼女は自分の身を刻むことをぴたりと止めた。
『常に新しい発見を得るつもりでものを見ろ』
 いつか教官に聞いた教えも実行して、ミリアは注意深く仔猫を観察した。
 相手がなかなか懐いてくれないことが、彼女は最初とても不満だった。いまだ満足に触らせもしない。手を伸ばせば反抗的に威嚇し、甘えた仕草も見せず、覆いをかけてやらないと眠りもしない。ずいぶん意地を張ると思っていた。
 しかし日々観察するうちに、ミリアは仔猫の足に古い火傷の痕を見つけた。故意でなければ付かないような場所だ。そして火の扱いを知る動物は、世界には一種類しかいない。
 少女は相手の過去を察し、同情と共にこのまま守ってやりたいと切に願った。
 ものごとには理由がある。では、彼にも?
 多くの時間をともに過ごす教官、ザトーにもその観察眼が向けられ始めたのは当然のことだった。
 時を経るうちに……10近くも年下の少女は、だんだん気づいてしまった。
 保身で飾りたてた体裁となけなしの虚勢。それがミリアから見てもまだ若い彼の、処世の全てだということに。
 空回る野心ゆえか臆病さゆえか、とにかくザトーはいつも計算通りに自分を作りこみ、誰にも自然体を晒さない。そのせいで逆に精神が消耗し、余裕がなくなっていることに気づかない。上司への態度や日々の言動からは隠された鬱屈が見てとれる。
 最低限の実力はあるので、訓練生にものを教える程度の職は得られたようだ。自分より弱い者には比較的当たりがよく、生来の真面目さもあって大過なく続けている。だが……その先はあるだろうか?
 はっきり言葉にできたわけではないが、幼な心の残酷さでミリアはそう感じた。
 実力では適わない相手も、容赦ない観察眼の前では簡単に裸にされる。そこに彼女は密かな愉しみを覚えた。長い指のふとした動きや、自分よりやや深い色をした蒼の瞳は、彼の言葉以上に彼を教えてくれる。だからミリアはそれを好きになった。
 その瞳が自分のことを映しているときは、もっと好きになった。
 ザトーと逢う時間が、猫の世話をする時間と同じくらい大切になりはじめたある日、彼女はふと自問した。
 相手を知ることは相手の死に近づくこと。情報は生半可な武器よりも強い、そう教わったはずだ。では私があの人を殺せる確率は、以前より上がっただろうか?
 ミリアはイメージし――困惑して、首を傾げた。
 知れば知るほど殺せなくなる。
 いつもそばにいるはずの死は、彼の存在とどうしても重ならなかった。



 ぱたぱたと駆ける足音が、ドアの前に到着するより早く、ザトーは寝ていたベッドから起き上がった。
 緊急の用件は普通、部屋に備えつけの通信器で通達される。わざわざ部屋を訪れる必要はない。だがここまで気配をさらけ出しておいて侵入者というのも考えづらい。
 そうなると逆に、相手の正体が掴めない。
「誰だ」
 声を掛けながら時計を見る。闇にほのかに光る針は午前2時を指していた。
 部屋の前にいる人物は一瞬戸惑ったようだが、すぐドアを開けた。暗闇の中には息を切らせた小柄な姿が立っていた。
「ミリア?」
「……様子がおかしいの」
「何だって?」
「……どうしよう……どうすればいいの?」
 かつての無気力さからは考えられないほど、ミリアは動揺していた。消え入りそうな声でおろおろと同じ内容を繰り返す。仔猫の話だと理解するのに、しばらく時間がかかった。
 ザトーは閉口した。そのために生徒棟からここまで走ってきたのか?
 部屋に来られてもしてやれることは何もない。第一真夜中でもある。しかし、眼に涙を滲ませた少女が裸足のままなのを見て、彼は溜息をついてスリッパをよこした。
 就寝中を揺り起こされた宿直の医師は、眼を擦りながらちっぽけな患者を診察室に迎えた。組織の専任になって長い医師だが彼にも初の体験だったろう。
 動物は専門ではないがと前置きをおいて、ぜいぜいと痙攣じみた呼吸をくりかえす仔猫に、薄めた栄養剤を注射してやる。
「もとから弱っているうえに、昨日の冷え込みですから……うかつな薬は使えないし……とりあえず、これしかできませんねえ」
 ぼそぼそ説明しながら大きな欠伸をする。早く寝かせてくれと意思表示していた。
 いくぶん落ちついた仔猫を引き取り、礼を言って廊下に出る。住居棟へと歩き出そうとすると、ミリアがおずおずと声をかけてきた。
 できればザトーの部屋に、仔猫の箱を置いてやってくれと言うのだ。
 訓練生の集団寝室は、どこもあまり暖房の利きがよくない。季節は冬に近づいており、冷たい床は底冷えがする。また同じ場所に寝かせては悪化する一方だ。人間のベッドに入れようにも怯えてしまって寝付かないし。
 だからお願い。ミリアは小さな声でそうしめくくり、大きな箱をぎゅっと抱える。
 冗談ではない。ザトーは顔を顰めた。
 確かに教官たちはそれぞれ、はるかに設備の整った小さな個室をあてがわれている。だが、部屋が獣臭くなることなど彼はまっぴらだった。床を汚されるのも、耳障りに夜泣きされるのも御免だ。
 ザトーは少女を見下ろした。心の中で表情と言葉を選ぶ。いい加減にしろ、いつまでも特別扱いされると思うな。ひとことそう言ってやればいい。子供を黙らせるには一番だ。
 言ってやるつもりだった。言ってやろうと思ったのに。
 すがりつくように私を見上げた、碧い瞳が。



 ミリアは頻繁に、仔猫に逢いにザトーの部屋を訪れるようになった。
 ほんの短い休憩にも心配だと言ってこまめに通いたがる。いちいち鍵を渡すのが面倒になり、ザトーは合鍵を渡した。
 就寝前の小一時間は、訓練生の数少ない自由時間のひとつだったが、ミリアはその時間にも惜しみなく通った。同じ時間帯にはザトーも部屋にいた。
 少女がかいがいしく猫の世話を焼き、幸福そうに眺めたりしている間、彼はどうすればいいか解らなかった。気のないそぶりで本ばかり読んでいたがじき飽きてしまう。
 仕方なくある晩、ふと思いついたような態で語りかけてみた。
「あれから、そいつの経過はどうだ?」
 小動物に興味はないが、ほんの場繋ぎとしての会話だ。質問を受けてミリアは顔を曇らせた。
 また体調でも崩しているかと危惧したところへ、か細い声がぼそりと答えた。
「生きようとしてる」
 ……それは、当たり前ではないか。
 言おうとして、彼は思い出した。ミリアが自殺未遂を繰り返していたことを。
 同時に思い出した。この手を朱に染めてきた己の生業を。
 発するべき返事を見失い、ザトーは薄く唇を歪める。生物が生きようとしていると言われれば、当たり前だと考える。
 その当たり前を喰い潰してきたのだ。私たちは。
「この子は何も考えない」
 小さな声はぼそぼそと続けた。
「考えるだけの知恵がない。自分や周囲の環境を、人間ほど理解していない。何も解ってないから、次の瞬間をただ生きるしかない」
 ミリアは白い手でやさしく箱を撫でる。
「……そうするしかないことが、少し……羨ましい」
 視線を箱に落として、少女はそれきり口を閉ざした。
 黙って聞いていたザトーは、ふいに場に満ちる沈黙が恐ろしくなった。何か――何か言わなければ。返事をしなければ。
 なんでもいい。何か言え。何でもいいから何か。早く。早く。早く!
「……こういうとき」
 焦りのままに滑りでた言葉は、演出も計算もされていなかった。
「……何と言っていいのか、解らない……」
 言ってしまってからザトーは、情けない思いで心中で頭を抱えた。駄目だ、失敗した。
 こんなことを言って何になる? なんの印象も残らないだろう。
 しかしミリアは顔を上げた。


 ゆっくりと花が開くように、不慣れに微笑む少女を、男は信じられない思いで見た。
 ぎこちなく曖昧な、それゆえの無垢の表情に――息をつめて見惚れた。


「ありがとう」
 それだけ言って立ち上がり、ぱたぱたと駆けて部屋を出て行く。
 ザトーは長いあいだ動けなかった。言葉の意味を理解するのにも、やたらと時間がかかった。

 廊下を駆けながらミリアは、熱くなった頬に指で触れた。
 あんな言葉が出てきた理由も、この熱さの理由も、よく解らなかった。ただ嬉しかった。胸を締めつける甘苦しさにくらくらと眩暈がした。
 なぜ、教官であるザトーが死を語ることに違和感を感じていたか、ミリアはようやく理解した。彼の蒼い瞳がぜんぶ教えてくれた。
 本当は怯えているのだ。
 私と同じであの人も、本当はどうしようもなく怖いのだ。いつも傍にある、こびりつくような死の視線が。だからこそ自分から死に親しんだ。私は早くそれに捕まってしまおうと、彼は他人にそれを与える存在になろうと。
 そうすれば少なくとも、自分の死の影には、怯え続けなくて済む。
 ミリアは奇妙な安心感を覚えた。何の解決にもならないことは解っている。それでも同じものに怯えている人間がそばにいることには、不思議な心強さがあった。
 これ以上、自分が孤独でないことを実感できる相手はいない。
 そう思った。



 その日は、自室に戻るのが少し遅くなった。
 つまり彼女と共にいられる時間もそれだけ短くなったわけだ。話の長い上司の顔に心の中でナイフを突き立てながら、ザトーはドアを開けた。
 部屋に満ちている静けさに、思わず動きが止まる。
 そこにはふたつの寝息が流れていた。
 ひとつは覆いのかかった箱の中から。もうひとつは、床に座ったままベッドにもたれかかっている少女から。
 ドアを閉める音に注意しながら、そっと部屋に入る。そういえば、今日の実技は少々体力を消耗するものだったと今になって思い返す。
 自分でも奇妙に思うほど緊張しながら、ザトーは足音を殺して近づき、寝顔を覗きこむ。
 せつなくなるほどの無防備さで、ミリアは眠りこけていた。
 緩やかな呼吸とふるえる睫毛。なめらかな頬とやわらかく乱れた髪。
 心の底から、こんなに美しい生き物はいないと思った。
 恐る恐る手を伸ばし、髪に触れる。
 目覚めないことに安堵しながら、かすかに、ごくかすかに撫でる。

 起こさなければいけない。
 起こして、部屋に戻れと言わなければいけない。甘やかしてはいけない。
 そう思いながらも、ザトーは髪を撫でつづけた。
 しんしんと胸を焦がす痛みに、少しの狼狽と密かな喜びを噛みしめながら、ずっといつまでも撫でつづけた。



 自分がその晩、訓練生たちと同じ集団部屋で寝なかったことが、何を意味するかなどミリアは知るよしもなかった。
 だから数日後、医局に呼ばれて身体検査をすると言われて不思議に思った。
 検査が済むと、猫撫で声の女医があれこれ質問してくる。ミリアは素直に答えた。教官の部屋でつい眠りこんでしまったのだが、目が覚めると毛布がかけられていた。自分は椅子で寝ていた教官が、朝食に行けと促した。
 起きたことを話せと言われればそれだけだ。
 安心と好奇心をないまぜにした表情で、女医は、風邪をひかなくてよかったわねと笑った。
 質疑応答を終えて医局から出ようとしたとき、ミリアはザトーのことを思い巡らせた。自分がここに呼びつけられるのと同時に、教官である彼もどこかに呼ばれて行ってしまったのだ。これからどうすればいいのだろう。
 だが、彼女が女医に尋ねようとするよりも早く、診察室のドアが開いた。
「いいんですか?」
 入ってきたザトーに、装った素っ気なさで女医が聞く。
「いいも何も。貴女もミリアから聞いただろう」
「まあどうせ、他にも無い話じゃありませんから」
「貴女は何か勘違いしているな」
「周囲はそう思うってことですよ」
 女医は淡々とした口調だったが、どこか同情めいた雰囲気もあった。
「でも上の人たちは、思ったよりうるさく言わなかったでしょう? 任務に支障なければ問題なし、内部完結はむしろ歓迎するところ……そういった感じですね」
「確かに、干渉はされなかった」
「ほら」
「……ただ、この子は向いていない、そうだ」
 表情を翳らせる女医と、硬質の無表情を保つザトーを、ミリアは交互に盗み見る。二人が何を言っているのかよく解らなかった。
「行くぞ」
 言うなりザトーはミリアの腕を取り、引きずるようにして医局を出る。
 廊下を歩みながら、男は呟くような問いを発した。
「何故だ?」
 ミリアは相手を見上げた。質問の意味が掴めなかったのだ。
 しかしザトーの眼は、ミリアを見ていなかった。
「何故だ」
 ザトーは繰り返した。その声は灼けつくような苦渋に満ちている。
「私は……なぜ弱い」
 ミリアは驚いた。そして、慌てて眼を逸らした。
「……力が必要だ……おまえにも、私にも…………何者にも揺るがぬ力が……!」

 見ないようにすることしかできなかった。
 大人の男が泣いているのを見るのは、初めてだったのだ。



 その晩、ザトーはミリアを連れ、シャッター付きのカンテラを下げて裏庭に出た。
 人の目を盗み、闇に紛れて移動する。訓練場の敷地の奥にひっそりと存在している、大きな黒壁の蔵にたどり着く。
 夜に包まれた黴臭い扉をためらいなく開ける。
「どこへ行くの」
 ザトーが、蔵の奥に造りつけられた柵に向かったので、ミリアは初めてそう聞いた。
 金属の柵の奥には地下へと続く細い階段がある。
 この蔵は研究用の法具の収納庫だ。ザトーのように正式に籍を置いていれば、置いてあるものは自由に使える。だが、出入りの際にはこのように厳命されるはずだ。
 ――『あした世界が滅ぶとしても、かの地底へは降り立つな』
 ザトーは振り向いた。
「怖いか」
 ミリアは頷いた。しかし怖いのは、この場所の不吉な闇でも禁忌に触れることでもない。
 常ならぬ、彼の凄惨な眼の色が怖かった。
「大丈夫だ。以前から計画だけは進めていたことだ……」
 階段の出入りを封じる柵は、大げさなほど沢山の鎖と錠前で一見めちゃくちゃに縛り付けられている。ザトーは奇妙な形の鍵束を取り出し、鎖を外しはじめた。
 あらかじめ調べておいた法力解除式に則り、時間をかけて慎重に、複雑な手順に沿って外していく。決められた法則で解かないかぎり、この鎖は永遠に絡み続ける。
「何年もかけて調査した。裏と通じて物品も手配した。……ただ」
 最後の鎖ががちゃりと落ちて柵が開いたが、ザトーはまだ中には入ろうとしない。代わりに懐から何枚かの護符を取り出す。
「本当に、実行に移す日が来るとは、思わなかった」
 まるで壁にでも貼るように、目の前の虚空に護符を一枚押しあてる。ぱじゅっと紫の焔を立てて、何もないはずの空間で護符が焼け落ちる。
 二枚目も同様に焼け落ちる。三枚、四枚、五枚と続く。六枚目の護符を使い切り、やっとザトーは大きく息をつく。それは六つの禁呪の力がすべて中和されたことを意味していた。
「これで封印された次元を渡れる。下に行ってからもかなり歩くが、道は調べてある……」
 この先の空間は光を嫌う。彼はそう言ってカンテラを床に置いた。
 暗黒へと続く階段に一歩だけ踏み出す。足元の無事を確かめたあと、少女に振り向いて手をのべる。
「ミリア」
 彼が自分の名を呼ぶ。背後の闇に、半身を浸して。
 ザトーの声は震えていた。彼とて恐ろしいのだろう、額には汗の雫が浮かんでいる。
 だが、それは抗いがたい声だった。
 共にどこまでも堕ちることを誓う声だった。

 ミリアは男の顔を見つめ、しばらく瞑目して、再び瞼をひらいた。
 厭だ、と思った。
 理由は要らない。ただ凶々しい。
 何故そうも力に焦がれるのか。何を力と呼ぼうというのか。封じられた闇をこじ開け、怯懦に竦んでまで掴みたいものは何か。どうしても解らなかった。
 なのにミリアは、足を踏み出した。
 彼が自分を呼んでいるのに、応えないことなど、考えられなかった。






 ――いったい何をした? 男は聞いた。何故これまで報告をしなかった?
 ――何もしておりません。彼は答えた。お見せするタイミングを見計らっていたのです。
 ――凝った奴だな。男は笑った。これまでの素行不振も故意のことか?
 ――否定はしません。彼は畏まった。この力を導くためには自己を疑う必要があるようです。
 ――そういったものか。男は顎を撫でた。法力の素養はとかく未知数だな。
 ――しかしまだ不完全です。彼は語気を強めた。仕上げまで私にお任せ願えませんか?
 ――いいだろう。男は応えた。これはお前の手柄だ。だが今後は出し惜しみするな。

 責める内容の言葉こそあったが、男の口調は常に弾んでいた。
 退出しようとする彼を呼び止めて、男は聞いた。
 ――ところで眼をどうしたね?

 ――何でもありません。彼は微笑んだ。
 ――ある種の鍛錬とお考えください。ご覧のとおり、これで何も不自由はしておりません。

 頭領にそう言って一礼したあと、ザトーは訓練室をあとにした。
 訓練室だったものと呼んだほうがふさわしいかも知れない。
 特殊な合金で覆われたはずの壁はまるで粘土のように歪んでひしゃげ、床という床は柔らかな土のように穴を穿たれ、ぽっかりと崩れた天井からは高い空がのぞき――
 それはすべて、美しい金髪の少女が指一本も動かさず成し遂げたことだった。



 大人たちが自分を取り囲み、興奮気味にしゃべり散らし、しきりに質問してくるのでミリアは疲れてしまった。
 ザトーが来て自分を部屋から連れ出してくれたときは、本当にほっとした。
 よくやったと褒めてもらえるのは嬉しかったが、仔猫のことが気にかかった。今日は忙しくて、朝食以来は様子を見に行っていないのだ。彼女の内心を察したように、今日はもう上がっていいとザトーは言った。
「行きたければ行きなさい。ただし自分の身体もよく休めておくように。私はあとで戻る」
 ミリアは喜んで駆け出した。実際のところ彼女も疲れてはいた。
 部屋に着くころには、本当はちょっと頭痛もしていた。だが一刻も早く、心の癒されるあの愛らしさに触れたかった。
 仔猫が驚かないよう、そっとドアを開ける。飼育箱の覆いを取る。箱の底からいつものように、仔猫はミリアを見上げる。あいかわらず人間への警戒は解いてくれない。だが最近は、ずいぶん表情が丸くなった気がしていた。
 そのはずの仔猫の眼が、かっと見開かれた。
 全身の毛を逆立てて後じさり、しゃあああと必死の形相で牙を剥く。威嚇というより恐怖の慄きに近い。
 彼女は驚き、宥めようとしたが、その理由に気づいて呼吸が止まりかけた。
 自分の背後で自分の髪が、ざわざわと反応している。
 触手のように勝手に伸び、目の前の小さい生き物に、鋭利なその切先を向けている。
「……いや」
 髪を抑えようとしたが、頭の芯がずきりと痛んだ。コントロールが効かない。
「いや!」
 ミリアは衝動的に箱を突き飛ばした。少しでも遠ざけようと思ったのだ。
 横になって倒れた箱から、仔猫はものすごい勢いで飛び出した。身を隠せるところを探して部屋じゅうを駆け回る。
 折悪しく、そのときドアが開いた。
「……ミリア?!」
 立ち尽くすザトーの足元を、仔猫は全速力で駆けぬけて廊下に出た。たまたま開けてあった履き出し窓から外に飛び出し、あっと言う間に見えなくなる。
 ミリアは追おうと立ち上がったが、よろめいて膝をついた。頭が割れるように痛い。寒くもないのにがたがたと背筋が震える。
「あの子を」
 駆け寄って身を支えるザトーに、荒い息の下から必死で訴える。
「……あの子、を」
 耳の奥で甲高い音が鳴り、眼の前が嫌な色に点滅する。
 耐えられないほどの熱さを脳裏に感じた次の瞬間、ミリアは気を失った。



 本当は解っている。
 あの子はもう戻らない。
 自ら好んで、死の匂いにすり寄るような生き物はいない。
 ……私とこの人以外には。



 眼を覚ますと、ミリアは医局のベッドの上にいた。
 頭痛は治まっていたが、脳全体が泥のような倦怠感に覆われて気分が悪い。身体もまるで鉛の重さだ。
 身を起こそうとすると、誰かが肩に手を置いて止める。
 唇を噛みしめた表情のザトーが、ベッドのそばの椅子から身を乗り出していた。
「……まだ起きるな。熱が高い……」
 男の声は妙にくぐもっていた。彼が数時間、ほぼ付きっきりで隣にいたことをミリアは知る由もない。ただ、はだけた毛布を整えて乱れた前髪を直してくれる手の、血の気の引いた冷たさには気づいた。
「大丈夫だ。さっきのは副作用に過ぎない。身体さえ慣れれば、こんなことは起きない……」
 聞かれてもないことを弁解のようにぶつぶつ言い聞かせる。他でもない彼自身が不安がっているのがよく解った。
「体調が回復してくれば、それに伴って力も安定してくるはずだ」
 ザトーは口を閉ざし、ややあってこう続ける。
「…………猫のことは残念だった。 だが今は……自分の身体に集中しろ」
 肩に置かれた男の手に、ミリアは無言で頬をすり寄せた。
 発熱に火照った顔に、冷たく骨ばった感触が心地よい。だがやはり、内側から身を蝕む悪寒は消えてくれない。
 それは熱のせいではないことを、彼女は理解していた。

 怯えきって見開かれた、幼い獣の瞳を思い出す。ぞわりと身の攀じれる寒気が走る。
 止められなかったら、どうなっていた?
 絹毛が粘つく血に塗れ、何ひとつ悟らぬ瞳がえぐられて空洞を為す。柔らかな美しさが一瞬で蹂躙され、赤黒い汚濁だけがこびりつく。
 すべてが冷たく湿った意味持たぬ存在に変わる。かつて両親と呼んだ肉塊のように。
 それを一番恐れていたのに。
 それを一番恐れていたのは、自分だったはずなのに。
 今更のようにミリアは震えた。ひたすらザトーの大きな手に頬をすり寄せた。そうしながらも同時に――男の手の存在感に、色々なことを思い出さなければならなかった。
 少女は自分がいま、葛藤しなければならないことを知った。

 初めて出逢ったときに見た彼の行為。彼がその身を立てる生業。
 私と同じように死に怯え、それゆえ死を振りまく力を欲したのは彼だ。
 あの仔猫に見抜かれたものを、この身に巣食う死の種を私に植えつけたのは、他でもないこの人だ。

 彼がいない孤独と、彼によって導かれる罪悪。
 どちらか選ばなければいけないのだ。

 ミリアはザトーの顔を見上げた。
 そばに居てもらえるのは嬉しかったが、ひとつだけ不満があった。両目を覆う眼帯のせいで、瞳が見えない。いつも自分を映してくれる綺麗な蒼い瞳が見えない。
 禁じられた力との引き替えに、彼が視力を失ったことは知っている。眼帯もそれを他者に知らしめるためのパフォーマンスだ。
 でも今は、どうしてもそれが邪魔だった。
 ミリアは腕を上げ、こちらを覗きこんでいる男の眼帯に手を触れる。
「……取ってもいい?」
 ザトーは少し不思議そうな顔をしたが、無言のまま頷いた。
 黒いベルトを外し、巻布を解く。上げられていた金髪がさらりと落ち、やや色白の端正な鼻梁があらわれる。だが瞳は硬く閉ざされている。
 閉ざされた瞼を、そっと指で辿りながら祈りのように願う。
 私を見て。
 そうすれば選べる。わたしは――あなたを選べる。



 願いは叶えられ、

 ミリアは、愕然と眼を見開いた。



 そこには何も無かった。
 好きだった、あの綺麗な蒼は無かった。
 ただ虚ろだけが映りこむ澱んだ器官は、
 もう何も、彼女に教えてはくれなかった。



「驚かせてしまったか」
 男は瞳を閉じ、眼帯を付け直しながら気遣った口調で言う。
「だが何も不自由はない。影は全てを察知する。視力などより遥かに優れた力だ……」
 ザトーは声を出せないままのミリアの額に手を当てた。しばらくじっと温度を窺い、安堵の溜息をつく。
「熱は引いてきたようだな。よく眠れば明日には元気になれる。……さあ」

 促されて、枕に頭を沈めながら、ミリアはぼんやりと考えた。
 失われた何かが明瞭にはならぬまま、それについて考えた。
 やがて自分たちを飲み込むであろう、暗い渦を予感した。

 だが何も出来なかった。
 それを胸の奥に押し込めながら、彼女は瞳を閉じた。
 眠ることしか、できなかった。



Fin.










その巣はあまりにも不安定な梢にかけられて、いつ落ちるか解らない。

2003/06/02