「……いま、気付きました」
 手渡された写真に眼を落としてヴェノムは呟いた。
 まとわりつくわずかな違和感を無視していたら、見過ごしていただろう。
「これは騙し絵なのですね?」
 素知らぬふりでカップを傾けていた上司が、柔らかく口角を上げる。自分が言い当てるのを待ち構えていたらしい、満足げな微笑を見てヴェノムは誇らしさを覚える。
「前々世紀に建設されて以来、伝統的にこう描かれつづけているそうだ」
「何の為にこうなっているのですか?」
「夢を売る商売だから、かな」
 感心しながら写真を見つめる。そのままの姿勢で、次に掛けられる言葉を待つ。
 期待していなかったと言うと嘘になる。その恩恵を受けられるのが、もちろん自分ひとりではないと解っていても。
「さて。――実物を見たいか?」



「……得体の知れない怪物の腹の中みたい」
 感想を求められて、ミリアはそう答えた。隣にひかえた銀髪の下の視線が、ちらりと冷たく自分を射るのがわかる。
 だが当の質問者は感心して頷いただけだった。
「独創的な見解だな」
 軽く応じて、紅を基調に統一された空間を見回す。ミリアも顔を上げる。
 複数の布が不規則にたくしあげられて曲線を為す、凝ったスタイルの緞帳――だが実は、一枚布にそう描かれているだけの騙し絵。ビロードのひだがみっしり刻まれた写実的な構図は、まるで何かの臓物の内壁のようだ。
 複雑巨大なシャンデリア、柱という柱から身をせり出す彫刻。通路をずらりと囲う艶々と磨きぬかれた手摺。全天を極彩に染めあげる悪夢的な天井画――いずれも、薄闇の中にじっと在るだけでは、人を威圧するばかりの異形の群れだ。あえかな陰影だけのその姿は、確かに巨きな生物のグロテスクな器官を思わせてならない。
 筆舌に尽くしがたい爛熟さには違いなかった。
「一夜の夢を餌にして人をおびき寄せて喰らう、贅沢な怪物というわけか」
 不穏な比喩は、国立オペラ座メインホールの屋根に低音で響いた。

「設備点検のために、終日、業者を入れるという名目です」
 3人を豪奢な大階段に出迎えた男は、禿頭を撫でながらにこにことそう告げた。どこか間の抜けた顔つきの愛嬌のある人物だ。
 しかしヴェノムはこの男が、20の偽装企業と70の架空口座を使い分ける、裏金策の達人であることを知っている。必要とあらば、貧しい老婆が奪われまいと必死で口中に隠した銅貨の1枚まで、腹を蹴って吐き出させることも。
 公演の初日は2ヵ月後。舞台のスタッフはみな、『業者の指示』に従って休暇中だ。顔も知らぬ彼らに、ヴェノムは同情せずにはいられなかった。多大な予算と苦労と期待が込められたその華やかな夜は、自分たちによって血塗られる運命にある。
「幸運だったのは、この劇場の運営陣が、当組織と良好な関係にあったことだ」
 2階へと続く白大理石の階段を上りながらザトーが語る。
「おかげさまで丸12時間、オペラ座は私たちの貸切り。なんとも優雅な下調べね」
 投げやりな女の口調は、上司に返すものとしては無礼の域に達している。ヴェノムは思わず心中で切り返した。
 今回の実行部隊には参加なさらないザトー様が、わざわざ下見にいらしたのは何のためだと思っている! ともすれば訓練に明け暮れ、世間知らずになりがちな我々に、社会を見せてくださるという心配りではないか!
 声ならぬ反論を並べたて、気が済んだところで頭を垂れる。口に出しても詮無いことだ。彼女自身、そんなことは承知の上で、そうされるのを嫌っている。
「……客席の中層から高層に設けられた、バルコニー状の個室。それがボックス席だ」
 ザトーは解説しながら、金縁つきの扉にマスターキーを差し込んだ。
「我々が押さえているこのボックスは、ターゲットが当日入るボックスのすぐ隣にある。本来ボックス席は、貴族が各家庭ごとに占有しているものだ。外部の者は立ち入りできない。だが今回は、我々をこの5番ボックスに快くご招待くださった方がおられる」
 それが偶然、クライアントという立場の人間だったことに過ぎないな。暗殺組織の頭領は皮肉をこめてそう結ぶ。
「 "Box Fiveは私のために空けておけ" ……ですね」
 控えめにヴェノムが洒落めかすと、彼の上司は喉の奥で愉しそうに笑った。
「……なるほど、私は半顔を隠した男には違いない」
 6人掛けとして設えられたその個室は、小さいながらも贅を極めていた。
 重そうな房飾りのカーテンが巡らされ、絨毯はくるぶしが沈むほど毛足が長い。サイドテーブルは黒檀で、仔山羊革の張られた椅子の足には輝石が象嵌されている。見下ろせば1階は、金と紅のみが埋めつくす座席の海だ。
「うんざりするわ」
 誰に言うともなくミリアが呟いた。悪態というよりも疲れきった嘆息に近い。
「実際うんざりする。だが、それでいいのだろうな。ここはうんざりしにくる場所だ」
 隣との間仕切りを、厚みを確かめるためにこつこつ叩いてザトーが返した。
「威厳と洗練、絢爛と飽和……満ち満ちる非日常的な美の世界。全くもってむせかえる。これでもかと隙間なくつめこまれて息がつまる。復讐鬼だってこんなにしつこくはない。ここはそういったものに溺れ、うんざりしきって、現実へと戻る気力を養う場所だ」
 微かな声が聞こえて、ヴェノムは眼下を見た。舞台上に何名かの人間が立っている。
 当日の実務を担当する構成員たちが、自分たちの潜伏場所になる5番ボックスを外側から視察しているらしい。
「念のためではありますが」
 彼らに合図を送りながら、ヴェノムは進言した。
「何らかの要因で、ここからの襲撃に困難が生じた場合、いかがなさいますか?」
「予備案に頭を回すのはいい心掛けだ。別の場所からの遠隔狙撃も考えておくべきだな」
 ザトーはバルコニーに立ち、眼帯の奥からぐるりと客席を見渡した。
 すぐに振り返り、銀髪の部下にマスターキーを渡し、自分は予備をじゃらつかせてドアへと向かう。
「ヴェノム、おまえはここに残れ。下の者と打ち合わせて当日の動線を決めておくように」
 ノブを回して出ていく寸前、付け加えられた声は、大きくなかったが明瞭としていた。
「――――ミリア」
 呼ばれた女は無言のまま、男について退出してゆく。
 金糸を引く背中を見ないようにしながら、ヴェノムは髪の毛一本揺らさず姿勢を保った。
 それが、己の任を果たすという決意からではなく、思考を止めることで自らを守る手段だったとしても。



 燭台、欄干、扉の取っ手。どんな細かい部分にもいちいち精緻な彫刻が施されている。
 この建物を美の頂点ならしめる、優雅な狂気とでも呼ぶべきひとつひとつの仕事を、半ば呆れて眺めながらミリアはザトーの後ろを歩いた。
 階段をずいぶん上り、長々と歩き、上手4階にあるボックス席へと辿りつく。ここから見下ろす舞台はまるで箱庭のように小さい。役者の大まかな演技を見分けるのがやっとだろう。頭上にはすぐ間近にシャンデリアが迫り、よけいに高低差を煽って、恐怖すら感じさせる。
「先程までいた5番ボックスがあそこだ」
 ホールの下手、はるか斜め下に位置するバルコニーを指してザトーが言う。中にいる人物が言いつけどおり真面目に、舞台上の人間とやりとりしているのが小さく見えた。
「遠隔狙撃に移行するなら、できるだけ広角の視野が得られる場所が望ましい。人払いのために根回しは必要だがな」
「……そういえば」
 遠くを示したザトーの長い指を見て、ミリアはふと尋ねた。
「あなたはまだ、お芝居を観られるのかしら」
「どういう意味だ?」
「あなたは視力以上の情報として、『気配』を得ることができる」
 壮麗なプロセニアムアーチへと視線をめぐらせて、彼女は続けた。
「背後で絨毯の上に落ちた、針の1本まで把握できる。厚いドアの向こうで息を殺しても無駄……。でもその力に、距離の限界はないの? あんなに遠い舞台で行われる、役者たちの演技まで愉しむことはできるのかしら」
「……私の感覚世界は、普通の人間の光学的視界とは根本から違う」
 ザトーは確かめるようにホールの天井を見上げた。
「距離や明度といった条件は、もはや私にほとんど影響を及ぼさない。理論上は限界もないのだろう……だが実際には、距離の限界については一般的なレベルの"眼のよい人間"程度に留まる。恐らくはヒトの認識力の限界に由来するので、これ以上は望めないだろう。一方で明度の限界のほうは、無いと断言していいようだ。常闇をもって把握し、無明をもって知覚する。『色彩と造型と挙動を、情報として処理している』という色気のない説明しかできないが……たとえば今、ヴェノムが上から指示を出し、舞台に落ちていた釘を拾わせたことも解る」
「……ふうん」
 解説には興味がないと言わんばかりに、ミリアは気のない返事をする。つまらないな、失ったものが多くて気の毒ね、と言ってやりたかった。
「じゃあ、太陽みたいな天体は?」
 磨かれた手摺にもたれ、思いつくまま質問を重ねる。
「星や月はどう? お月さまの輪郭や質感なんかは?」
「いずれも問題なく認識できる。光学的視界で風景画を鑑賞するのと同じだ。影から伝達される光量とその波長が、電気信号に変換され――」
 そこまで言って、ザトーはふと複雑な笑みを噛み殺す。ミリアは聞き返した。
「何よ」
「いや」
 短く誤魔化されて、彼女は渋面を作って横を向く。男の返答は続かなかったが、何を言いかけたのかは実は解っていた。会話を交わしながらミリア自身が感じていたことでもあった。
 ――おまえがそう熱心に、私の視覚について聞き出そうとするとは、珍しいな。
「……いっそ」
 不愉快な会話を切り上げるために、憎まれ口を叩く。
「いっそ本物の盲人ならよかったのよ。お芝居は観られなくなるけど、太陽のもとで胸も張れないような職業には成り下がらずにすんだわ」
「我々はもとより芝居を観に来たわけではない。それに本物の盲人だったなら、そちらもそちらで言い訳ができてしまう」
 混ぜかえす口調が、しかしどこか翳っていた。
「……太陽に胸を張ろうにも、太陽がどこにあるのか解らないとな」
 彼らは知っていた。誰よりも骨身に染みていた。
 離れたところで眩しく光る、美しいだけの存在は、その身を闇に浸す者には何の意味もない。

 ザトーは椅子をボックスの奥に引き寄せて、深く腰掛けていた。ミリアは彼の見えぬ視線を意識しつつも、舞台のほうを向いたまま微動だにしなかった。
 次に掛けられる言葉を、彼女は知っていた。
 私はそれを恐れていたか? 覚悟していたか?
 いや、ただ知っているだけだ。いつもただそれだけだ。
「……来い」
 ミリアは瞳を閉じた。
 解らないのは、なんの威圧も強制もないその声に、乱される鼓動と歩み出すこの足だ。



 効率を重視して作業を早く終わらせるのは、責任者が果たすべき当然の義務であって他意はない。
 ましてや金の髪をもつ双影が、自分の視界に存在していないことが落ち着かないからでも。
 卑屈な言い訳を考えながら、ヴェノムは上司に報告すべくロビーへと出た。しかし大理石の階段の下に2人の姿はなく、行き先も思い当たらない。立ち尽くしている彼を見つけて、禿頭の男が歩み寄ってきた。
「お連れの方をお探しですか?」
「いや、お構いなく」
 曖昧な返事でヴェノムはやり過ごす。あまり親しくなる気の起きない相手だ。しかし相手はにこやかに、若造相手によくもと思えるほど慇懃に、上手客席への入り口を指し示す。
「あちらのほうに向かわれましたよ。しかし……」
 男はなぜか袖を上げ、腕時計を見てから言い添える。
「いま少し、お時間を置かれたほうが宜しいかと」
「どういう意味でしょう」
 反射的に聞き返してから、聞くのではなかったと後悔した。
 知らないわけがないのだ。組織の専任といえる立場にあればこの男も。
「邪魔をなさることになっては――ねえ?」
 人好きのする、向けられて悪い気などするはずもない、愛想のいい笑顔。
「失礼」
 相手の顔に叩き込むための拳を努力してほどきながら、ヴェノムは背を向けた。
 歩みながら姿勢を正し、事務的な思考を心がける。彼らは恐らく、遠隔狙撃の可能なポイントを探すために向かったのだろう。だがそれは何ヶ所に及ぶ? この劇場はボックス席だけで150近く存在するのだ。
 まだ客席内にいるという保証もない。狙撃は天井裏やその他の設備部分からも可能だ。緊急時に逃げこめるような一時的な潜伏場所をチェックしている可能性もある。そうなるといったい、どこにいる? 地上6階と地下5階を誇る、持て余すほど壮大な芸術の宮殿。こんなところでたった2人をどう探す? 私から逃げる、たった2人をどう探す?
 ……ヴェノムは己の自問に唇を歪めた。 『私から逃げる』? なんという思いあがりだろう。
 あの2人は、私を意識して、私から逃げているわけではない。
 いまこの瞬間、間違いなくあの2人は私のことなど露ほども考えていない。よろしい、事務的な思考など、最初から失敗しているというわけだ。凶悪な自嘲の笑みを銀髪に隠し、彼はひたすら廊下を踏んだ。
 徒労かもしれないと思いつつ、ボックス席を1階からひとつひとつ開けて確認する。
 キーを差し込むたび、指先が迷いに震える。開けてどうしようというのだ? 2人が中に居たとして、どうするつもりだ? 思いながらも扉を開ける手は止まらない。確認が済めばまた直ちに、次のボックスへと向かわずにおれない。
 キーを差し込むたび、脳裏に不吉な仮想が走る。薄明にひっそりと寄り添う2つの影。大股に中に踏みこんで引き剥がす自分。そんな真似が出来るはずもないと思いつつも、相手の肩の感触まで、手のひらに勝手に思い描かずにおれない。
 ボックス席を確認して回りながら、ときどきはバルコニーに立ってじっとホール内の人声を窺う。女の高い声ならば比較的聞き取りやすいはずだ。
 決して聞きたくはないその声を望み、請い求めて、懸命に耳を澄ませる。何も聴こえないことに安堵し、同時に歯噛みするほど焦燥して次のボックスへと急ぐ。
 呼吸と鼓動がだんだん乱れてくる。それは無自覚のうちに速まってしまう歩調のせいだけではない。

 思考の浮き沈みに疲弊した頭の片隅で思う。
 私はいったい、彼と彼女のどちらを探しているのだろう。



 人の眼を気にする必要はなかった。椅子に掛けた相手に腰を抱き寄せられ、脇腹に顔を埋められても。
 舞台上にはまだ人がいるが、厚い織りのカーテンが死角を作っており、広いホールは薄暗い。加えてそのまま床に引き倒されたとあっては、重厚な手摺のおかげでもう誰からも見えない。
 だがもし音や声を漏らせば、劇場の構造も相まって想像以上に響いてしまうだろう。
「……遠く高く明るいものに意味はない」
 情欲と呼ぶには子供じみた、ただ密着することに懸命な、きつい抱擁。
 我知らず震えた吐息は、単にのしかかる体重の息苦しさのせいだとミリアは思おうとした。
 唇を寄せられたことに気づき、顔を背けて横を向く。投げ出されている自分の手首と、やわらかく床に流れる相手の金髪が見える。
 途端に、襟足のあたりをついばむように口付けられる。
「っう」
 思わず漏れた声の、特に官能を誘うわけでもない響きが我ながら逆に生々しい。
 引き結ばれたザトーの口元が、やや獣の色を帯びて緩む。
「……私を盲人扱いしたいのなら、触れるものと聞こえるものを世界の全てにさせてくれ」
 服の下から差し込まれて曲線に食い込む指の、骨ばった感触が、熱に浮く意識にはっきりと冷たい。
 とてもよく慣れ親しんだ、相容れぬ他者。
 肌馴染みの嫌悪。
 いつもと違う天井の下、いつもの男の匂いがする。
「すべて……聴かせろ」
 はだけた白い首に痣が残るほど噛みつかれ、ミリアは、男の肩越しに苦鳴を押し殺した。



 必死に探し求めればこそ、ここではない別の場所に居るのではという不安に苛まれる。
 3階までを走りづめに調べぬいた後、ついにその疑念に負け、ヴェノムは踵を返して1階へと急き戻った。
 ステージに上がり、今度は舞台裏へと駆けこむ。美しく整った表舞台とはうらはらに、雑多な品物がごちゃごちゃと積まれて所帯じみた乱雑さだ。息を切らせて天井裏を見上げたが、吊り物用の作業通路にも求める人影はない。
 地下の楽屋施設はどうかと思い至り、額に汗を滲ませてまた走る。
 滑り止めの松脂が匂いたつ控え室。服飾史の見本のような衣装部屋。老舗の風格を湛えた美術工房――それだけでひとつの町のような規模の、地下3階まで入り組んだバックヤードにも、誰も居なかった。
 最奥のリハーサル室まで確認し、肩で息をしつつ立ち去りかけたところで、重くなった足がもつれた。
 壁に手をついて立ち止まる。広大な敷地を休みなく走りぬけたせいで、動悸は乱れて膝下は熱い。しかし、既に浪費した時間を思えば休むわけにもいかない。
 足を踏みしめてまた駆け出す。地下3階から地上1階へと戻る階段をひといきに上りつづけ、握った手摺が汗で滑る。楽屋からステージへと上がるステップに足を掛ける。
 無闇な疾走に火照った耳の奥に、何かがあえかに忍び込む。
 ささやかな隙間風の唸りかと思ったが、それは人の、女の声で、

 心臓が握りつぶされた。

 上がらぬ足が無意識に、ものすごい勢いで引き上がる。
 いる。あの人とあの人はホールのどこかにいる。
 自分でも信じ難い速さでステージに駆け上がる。視界がいやに揺れ、大気がねっとりした水のように重い。
 転げ落ちる勢いで客席に飛び降りる。急激に伸縮された腱が引き攣れ、打ち倒れぎみに膝をつく。
 下肢を強引に立て直し、這うようにしてまた走り出す。
 頭の中でだくだくと何かが煩い。それが自分の心音であることにヴェノムは気づかない。

 声を上げればよかったかも知れない。名前を呼べばあるいは。
 でも、誰の名を?
 彼の名を呼んで彼女に聞かれるのが、何故か嫌だった。
 彼女の名を呼んで彼に聞かれるのも、何故か嫌だった。
 私は誰を――どちらを探している?

 微かな声は高い階層からした。4階だろうか、5階だろうか?
 痙攣する関節を、無視しながら駆ける。角度のきつい階段を、さすがに速度を鈍らせながらそれでも駆ける。
 なかなか縮まらぬ距離がもどかしい。焦りに呼吸が追いつかない。この程度の肉体の酷使、訓練では何度も経験してきたはずなのに、この醜態はどうしたことだ。解っている。肉体ではない。磨り減っているのは精神だ。
 酸欠と渇望のみじめさに眼前が霞む。焦燥に沸く意識の奥で、疑問符ばかりがだらしなく散らばる。なぜこんなにも遠い? なぜこんなにも広い? なぜこのような構造だ?
 なんのための建築だ? ここは一体なんだった?
『得体の知れない、怪物の――』
 まるで遠い昔のことのような比喩。
 生木の軋みに似た衝撃が脛に走る。痺れた足が段差を踏み越しきれず、また倒れ伏す。ぜいぜいと喉が鳴り、堪らず、胴を折って咳きこむ。
 ヴェノムは床に這いつくばったまま、巨大な胃の腑をその内側から見上げる。
 彼も彼女も呑みこみ、腹の中にしっかりと抱えこんだ、貪欲な生き物。

 ああ。
 怪物になりたい。

 偽らざる心情を、その言葉ひとつに託すと、全身が灰となって燃え尽きたように力が抜けた。
 急激に世界が遠くなった。疲労に潤んだ瞳に、全てのものが歪んで見えた。
 熱い身体を持てあまし、仰向けに転がって、あらゆる感情を放棄した。
 ただ、自分の肺が吐き出すひゅうひゅうという音を、ぼんやりと体内から聞き続けた。



 空の色は昼間と呼べる限界を超え、もはや夕刻に差しかかろうとしている。
 乱れた外見を出来るだけ整えて、ヴェノムは引きずるような歩みで劇場を出た。
 あれからどれくらい時間が経過したかは解らない。だが予想は当たっていた。ザトーは既に、落ちついた佇まいで劇場前におり、帰りの馬車に背をもたれて部下から報告書を受け取っていた。
 視線をやれば、ミリアはもう馬車の中にいる。一番奥のシートに掛けて窓の外を見ているせいで表情は窺えない。顔など見たくもなかったが、なぜか無理やりこちらを向かせたい衝動にも駆られ、ヴェノムは息苦しさに眼をそらした。
 ザトーが銀髪の部下の存在に気づいた。来い、と手で合図する。
 真摯なねぎらいを込めて向けられる、怜悧かつやわらかな笑顔。それさえ見られれば良いと思っていた日のことを、ヴェノムは故人を偲ぶように想った。
「おまえに任せて後悔することは一度もないな」
 ザトーは腹心の部下に向かって満足げに、書面を指で弾いてみせる。そこに記載されているのは確かに、自分が請け負って組み立てた当日の動線、留意事項、懸念点その他だ。
「兵ならず将たるものの良い仕事だ。私が手を入れる必要もなくて申し分ない。そろそろ役職を任せたいな。来月の出張にも同行してくれ」
 ヴェノムはゆっくりと、砂で出来た言葉を発音した。
「私で宜しいのですか?」
 相手の返答を謙虚さゆえと受け取めて、ザトーはからかいの表情で肩をすくめる。
「信頼をいちいち口に出して確認する必要があるのかな、我々に限って? 自覚しておけ。こんなことを任せられるのはお前だけだ」
「有り難く存じます」
 完璧に出来たはずだ、とヴェノムは思った。
 喜びを秘めた口調、わずかに覗かせる自負。器用な真似ができるものだと我ながら思った。
 私が本当は何を考えているかは、貴方には悟られなかったはずだ。

 私は貴方に頼られ、確かな助けとなり、安心を提供できる。
 無干渉に放っておいていいと判断されるほど。
 心許せず、目も離せず、いつも痛みを伴うまでに触れあっておらねば不安であるらしい、貴方の身の内の棘とは違って。

 私が本当は何を望んでいるかは、誰にも――私自身にも――悟られなかったはずだ。



 訪れた夜の下、短い号令を受けて馬車は走り出した。
 窓の外では美しい殿堂が、その白さを幽玄と映えさせている。だがヴェノムはもう何も考えたくなかった。
 軽やかな振動に身を委ね、彼は瞼を閉じて、ひたすらに浅い眠りを貪った。



Fin.










アサシン用ステージがオペラ座なので、趣味を兼ねて実在のオペラ座をモチーフにしました。
違いについてはフィクションということでご容赦ください。騙し絵の緞帳についてはこちら


2006/12/03