※作中人物による暴力的表現・性的表現が含まれます。かなり人を選ぶ内容ですのでご注意ください。
※一連シリーズのバッドルート的作品ですが、あくまでも分離した別世界の物語です。
そう読めるように設定はわざと揃えず、固有名詞も使用しておりません。



















 国王はふと書き物の手を休める。見たいものは顔を上げればすぐ視界に映る。
 金砂の海を背後に湛えた西の高楼。
 玉座の置かれた謁見の間からも、この執務室からも、窓の外にはあの塔が窺える。
 そういう場所を選んだ。

 永く使われていなかった高楼の一室を、漆喰で修復し、屋根を葺きなおした。
 古い扉を外して鉄の扉と錠前を付ける。砂埃にまみれた内部を掃き清めさせ、水回りの設備をひとそろい据えて住居としての体裁を為す。窓硝子を入れ、家具を置き、そして――自らの欺瞞に嫌悪感を通りこして吐き気すら覚えるが――入手しうる限りで最高の画材を揃える。彼女は恐らく手を触れない、そう知っていても。
 早く戻りたい。あの部屋に。
 王は手元に視線を落とす。占領地に公布する法令案。並んでいる単語は味気なく単調だ。いったい幾人がこの内容に絶望を、あるいは屈辱を感じて打ち震えるのかは知らないが。

 口の中で呟く。つまらないが、難しくはないな。
 やることが多いわりに退屈で、面白くなくてうんざりするが、考えていたほど難しくない。脳裏にかつての仇敵が、毒々しい陽炎として揺らめく。彼と自分とでは、規模の差においてはまったく比較にならない。加えてあれは維持や管理といったものを欠片も意識していなかった。
 しかし現状、世間の評は似たようなものだ。

 道化よ、これはつまらない。
 だが難しくはないな。
 暴君としての日常は。



                 *          *          *



 あの2人、だめだったらしい、と盗掘屋が声を潜めて仲間たちに囁いたのは、およそ半年前のことだ。
 問屋街の安食堂。陳腐な内装だが、商人を中心とした客層は比較的おとなしいし屋内の風通しはよい。一国の王の醜聞についてこっそり話すには最適の場所だ。
 翠緑色の巻き毛を肩に流した、年齢のわりに少女然とした風貌の女が戸惑いを滲ませる。どうしてかしら、理由はなにかしら?
 壮年の剣士が眉根を寄せて応じる。やはり身分ゆえの反発があったのではござらぬか。かの国の貴族や領民からの。
 それだけではないらしいわ、と返す、白金の髪を持つ女の声は沈んでいた。彼女は実際に絵師の少女と対面し、少ない会話から苦悩を類推していた。
 貴族院の反発があったのは事実だけど、王様は彼らを説き伏せようとしたらしいの。身分の固定化で安定を図る時代ではない、この婚姻を地域間の発展の架け橋にするのだと……。ただ、当然だけど嫁いでくるほうは周囲の反発を気に病んでいて。自分のせいで内政が揺らぐのも、民の不興を招くのも厭だと王様に言ったんですって。それでも彼が引かなかったから、じゃあ本音を言ってやると。他でもない、自分がもう厭なのだと。こんな厄介な立場の男に娶られても幸せになれない、完全に醒めてしまったと……。
 でもそれは、と盗掘屋が不満げな声を出した。本心からの言葉じゃないだろ?
 どうでござろうか。剣士の低い声に全員がそちらを注視した。
 まだ若い娘御であろう。あの齢で伴侶を決めること自体、躊躇いがなかったとは言い切れぬ。たとえ憎からぬ気持ちはあったとて、互いの人生を尊重するうえで、婚姻が果たして最良の選択であるのかという疑問が――
 ばたんと扉が開き、銀色の影が足早に戸口をくぐった。
 卓を囲んでいた一同はその人物に気づく。旧知の顔をしていたのだ。傷顔の男はまっすぐ面々に歩み寄り、来い、とひとこと言った。
 来いって何処へ? 翠緑の髪の女が問うたが、男は繰り返した。いいから来い。
 無彩色の声はこう続けた。
 見たくないものを、見せてやる。



 その前夜、小村にて。
 かつての古き魔導士、妖獣どもの学士と敬われる老翁は、放心したように天を仰いだ。時刻は夜半過ぎ、陽が昇るべくもない。
 しかし空は煌々と紅色に満ちている。望まぬ暁によって。
 喉の奥に痛痒を感じ、力なく咳き込む。口に当てた手のひらはべったりと煤色だった。
 むらが燃えている。ひとが燃えている。
 目の前で、行きつけの酒屋の軒先の梁がめりめりと崩れて燃え落ちた。逆巻く炎を見ながら店主は地面に座りこみ、ああ、ああ、とただ頭を抱えている。誰か助けてくれと叫ぶことはとうに止めていた。見回せば村じゅう同じ色だったのだ。
 黒煙と喧噪の満ちる中、若衆がそれでもまだ水桶や毛布を担いで走り回っていたが、疲弊した彼らの足は鈍い。もはや人力で収拾できる範疇ではない。
 紅蓮に染まる家屋の前で、中に、まだ中に、と叫びつづける婦人。無言で涙を流しながら彼女を羽交い締めにする夫。いつか見た光景だと老翁はぼんやり思う。数年前のあの日、自分はまるきり同じ悲劇の登場人物だった。だが結果として悲劇は成立しなかった。あのとき孫娘を助けてくれたのは、忘れもしない、瞳に意志を宿した来訪者たちで――
 ひい、と遠くで女性の悲鳴がした。
 視線をやれば、粉塵に霞む大気の向こうで、ぼやけた色の一群がじゃらじゃらと蠢いている。鋼甲で武装した兵士たちだとすぐ気がついた。彼らは村民に無体こそしないが、得物の柄から手を離さず眼光に慈悲はない。
 小隊の中央に、よく見知った蒼衣の長躯を見ても、老翁は驚かなかった。
 実をいえばこの大火の直前、彼はひとたびこの男と対面していたのだ。驚愕の感情はその時点でとっくに擦り切れていた。唐突に自宅に押し入った王と配下の者どもは、唖然と立ち竦む孫娘を縛りあげて攫ってゆき、取りすがる自分を物置に放りこみ閂をかけて去っていった。
 物置にあった古い農具でなんとか閂をこじあけ、やっと外に這い出たころには、もう村は惨禍に包まれていたのだ。
 砂漠の王が、兵たちの間をすり抜けて娘の祖父の前に立つ。
 老翁は嗄れた呼吸音を漏らした。
 これは何じゃ。いったい何なのじゃ。
 返答はない。
 まさか、おまえさんの、仕業なのか。
 返答はない。
 何がこんな――どうしてこんな――
 常ならば、優雅さと精悍さを兼ね備える美丈夫の顔が、つと歪んだ。
 歪み、としか取れなかった。口角を上げたその表情は、形だけなら笑顔だが、清廉な陶器に走ったひび割れのようにしか見えなかったから。
「ほかに居場所があるから、いけない」
 向けられた切っ先は弩弓の鏃だった。
 老翁はむしろ冷めた面持ちで凶器を見つめる。本当にそんな、それだけで。ああ、でもそうだ、そうだった。
 人は狂うものなのだ。
 魔導の皇帝、極彩の道化、ましてや過去の己自身。狂気、と一語で呼び捨てる行為のなんと気楽なことか。孫娘を喪ったと思いこんだときの絶望、せり上がる悔恨は耐えがたく心をすり潰した。懊悩のたびに黒々と蝕まれてゆく意識。ふつりと切れた糸の向こうに見えた、思索を手放してひたすら強大なものに平服する日々は甘くやさしかった。
 若き王が同じ恐怖に苛まれていると、なぜ思わなかったのか。
 自責と自縛は心を喰いちらす負の獣だ。王の場合はその上に、自分の存在なしで幸福に微笑む少女の未来像が重なっただろう。嫉心に無音で臓腑をえぐられ、焦燥が肉を溶かす酸のように精神を苛んでも悲鳴を上げるのも許されない。刃の上を裸足で歩き歩き歩き続けるような明けない苦痛。飢えに似た渇望に、喪失の恐怖に、耐えられなかったとして不思議はあるか? 分別ある成人? 愛情と教育を受けた人格者? 過去の経験? 何にもなりはしない。
 何者も例外では、ないのだ。
 ど、と聞き慣れた音が零距離で鼓膜を打った。
 その知覚を最後に老翁は、頭蓋の中身をさらして地に伏した。



 攫われた少女は、捕縛され、見張りをつけられて集落の外に横たわっていた。
 村に点る不吉な赤色に気づき、娘は口轡ごしに叫びだす。あまり暴れるので、兵たちは何度か縄を締めなおさねばならなかった。
 制圧を終えた王が少女のもとにやってきた。生き残りの村民を監視するため、いくつかの小隊は村に残してある。
 暴れつづける娘を抱え上げ、荷車にそっと転がす。荷車を牽いた兵たちは船には直接向かわず、村の周囲を一旦ぐるりと回る。王の意図だった。
 彼女が見た光景は、たとえ口轡がなくても何か言葉を発せたものだったか。
 頭部に矢を生やした骸を認め、怒りよりも理解が追いつかず、自失して人形のように呆けた少女が空気穴を開けた木箱に収められる。娘を伴って、王は城へと帰りついた。
 西の高楼に木箱を運び入れる。彼女を住まわせる部屋牢は、そのときほぼ完成していたが家具だけはまだ置かれていなかった。絨毯も敷かれておらず、内部はがらんとした石畳だ。
 それで十分だった。
 人を払い、扉に錠を掛けて、王は箱を開けた。
 身に起きた事実を悟った娘はふうふうと呼吸を弾ませ、肩を震わせ、口轡は唾液でぐっしょり濡れている。少し迷ったが、縛めを解いた。
 鞭打たれたように我に返り、意味なさぬ激昂の悲鳴とともに少女が掴みかかる。男は軽くいなして床に押さえこんだ。
 容易かった。とても容易かった。自分の大きな手は少女の手首を両方ともしっかり固定でき、筋力相応の体重は跳ねる胴体の上にのしかかるだけで動きを封じられる。一生やるつもりのなかった、やるはずのなかった女への無理強いは簡単すぎて、呆気なさに驚くほどだった。
 絵の具染みのついた麻のブラウスを、片手で掴んで引き剥がす。
 少女の瞳が大きく見開かれ、ややあって恐怖と混乱に塗りつぶされた。

 行為の間じゅう、少女は喚き続けていた。
 その声はまず拒絶、やがて嘆願、いつしか嗚咽に変わっていたが、男に聞きわける余裕はなかった。いや、聞きわけながらもその変化に昂ぶっていた。厭だ、やめて、厭だ、痛い、痛い、痛い、ゆるして。
 夜目に白い肢体がうねり、汗ばむ肌が吸いついた。充足していく欲望に溺れ、きつい熱を夢中で突き上げながら、王は砕けんばかりに奥歯を噛みしめた。この肩の、この髪の、この額の、もっと幼かったころを知っている。
 絆を育んだ懐かしい日々を、年月をかけて培われた心情を、いま自分は切り刻んでいる。汚泥に突き落として踏み躙り、唾を吐きかけている。
 心の底から自分自身を罵倒し、そしてその非難の声から逃れたいために、男はなお強く音を立てて打ち付けた。
 悦楽の寸前、はじめて口づけた。
 噛みつかれるかと思ったが、蹂躙に疲れ果てた少女は茫としてされるがままだった。
 吸った舌は、暴れるうちに口腔を切っていたらしく、腥い味がした。



 今回の侵攻は秘密裏に行われた。小村の制圧には大した準備は要らず、演習の名目で近海に出していた船団でことは済んだ。資金面で協力させたのは、あらかじめ抱きこんでいた主戦派の貴族だ。彼らには『食料自給のための農地と中継港の奪取』と説明してある。
 夜が明け、事態が明るみに出た。奇襲を知らされていなかった臣下たちは驚愕し、執務室の扉をひっきりなしに叩いた。国民は強い不快感を示し、市井は抗議の声で沸騰している。しかし逆に得られる味方もあった。
 近年、貴族や領民の何割かが、世情への不安から保守・国益の思考に傾きはじめている。国粋主義者が勢力を強めつつあったのだ。今まで宥めるのに苦慮していたそれは、利用するぶんには心強かった。
 対外的には、『かの村では頑迷な俗信にもとづく不穏勢力が蓄えられていた』と説く。謀略との声が当然上がったが、調査しなおす有力な第三機関はどこにもない。現在まともに機能している国や地域がいくつある? 多少警戒するのは貴族国家だが、良くも悪くも計算高いかの国は現状は批判の声明に留めている。
 『経緯説明の場を設ける』という名目で、王は貴族院の面子を呼びつけた。不信あらわな彼らは万全の武装で登城してきたが、その隙に手薄になった留守宅を急襲して妻子を人質に取る。これで院は大幅に弱体化した。
 まだ油断はできない。有力各家は神経を尖らせているし、各地で頻発する小騒乱も面倒だ。ただ、概ねの足固めはひとまず完了した――国内では。
 王にとって真に厄介な存在は国外にあった。何の組織でもなく、何の勢力でもなく。かつて仲間と呼んだ姿をして。



 最初に来るのが誰かは解っていた。どこから来るかも解っていた。
 その率直さが弟の弱みであり、それを利用するうえで今の自分に躊躇いがないことも王は解っていた。
 兄の乱心を知った拳闘家は正面からやってきた。
 泡吹く乗禽に鞭をあて、蹴爪が立てる砂煙をもうもうと上げながら王弟は祖国へと迫った。この機に乗じての王位簒奪を阻止せよ、と命じられた衛兵は矢の雨を降らせたが、それは彼の涙混じりの雄叫びすらかき消せなかった。
 城門に肉薄し、近接戦になっても王弟は止まらなかった。剣を砕き、槍を折り、兄に会わせろと咆吼した。ここに至っては彼も無傷ではなく、熱砂の上に鮮血を散らし、放たれた矢で背や肩がはりねずみのようになった。だが巧みに急所だけは守りつつ、拳闘家は数多の兵を薙ぎ倒しつづけた。さながら人の形をした嵐だった。
 城壁から見ていた王は、無機質の沈着さで毒を塗った矢を用意させた。
 矢傷を気にかけぬ猛進が仇になり、王弟はついに倒れた。
 これから往く道の第一歩としては相応しい。毒によって紫に変色しつつある、自分と似た顔を見下ろしながら王は思った。殺すしかなかった。そしてそれが可能だった。
 かつての仲間たちが、「幽閉されている絵師を解放しろ」と言わない人間であったら。そのための行動を起こさない人間であったら。別に生死などどうでもよかった。
 しかし彼らは必ず行動する。それが仲間だ。だから殺した。
 無償では何も手に入らない。これが代償ならば粛々と払う。そう決めただけだった。



 間を空けず王は、飛行艇を所有する男を始末した。機動力ゆえに最も脅威になりうる一人だった。
 村を襲った翌日、焼け跡の上空を船が通過したことは報告を受けている。着陸はしなかったらしい。乗っていた人間たちは恐らく村人を助けたかったろうが、駐屯兵に地上から投石機で狙い撃たれて諦めたようだ。
 兵から先制攻撃されて衝撃を受けたらしい彼らは、じかに城には来なかった。使者を通じて手紙だけが届いたが、こちらに有益な情報がないと確認したあとは火にくべた。彼らが打ちひしがれている間に先んじて動かねばならない。
 天翔ける自由な船でも地上の燃料が必要だ。化石燃料の産地はかつて各地に点在していたが、数年前の大崩壊で数が激減している。少ないそのほとんどを兵に見張らせた。王の知らぬ供給地もあったろうが、とにかく兵をちらつかせて警戒心を抱かせた。愛艇の運用が行き詰まるのを恐れて、相手はまず燃料や資材の備蓄を目論むだろう。そちらも狙いだった。
 飛行艇の外皮部に、破裂防止用の、ある特殊な樹脂がしばしば塗りなおされていることは知っていた。技術者である王には既知の成分で、風雨にさらされる機構には不可欠の消耗品だ。これを扱う製造業者は3か所存在した。
 3つの業者を秘密裏かつ強引に接収し、内密とされていた取引名簿をこちらに開示させた。ほどなく標的から取引が持ちこまれた。納品コンテナに兵士隊が隠れ、引き受け場所に現れた銀髪の男へと一斉に白刃を突き出した。
 数分後、兵長がコンテナにもたれて座りこむ姿勢になった男を覗きこむ。
 彼はまだ生きていた。血泥まみれの顔で、大穴の開いた自分の胴体を面白くなさそうに見下ろしていた。はみ出た自分の腸をつまみあげ、ふーんと感想を述べて、ぽいと投げ出す。それきり動かなくなった。



 あの夜から、砂漠の高楼の、閉ざされた部屋牢だけが少女の全世界になった。
 屋根は暑気避けの構造がなされ、窓は格子入りだが面積が確保されて中は明るい。寝台は王の手によって毎日リネンが替えられる。枕元には品のよい装丁の書物が置かれ、画布や画材は、使うものはいないが整然と並べられて機能的だ。
 そのすべてを彼女に捧げて跪く王がこの空間の支配者だった。
 王は夜ごと部屋を訪れ、朝までそこで過ごした。一方的に身体を開かされる少女はもがき、涙とともに呪詛を吐き、長く拒みつづけた。だが数を重ねるたびに諦念が刻みこまれ、抵抗は次第に弱くなった。どちらにせよ王には何ら障害ではなかった。
 王は寝具に伏した彼女の反応を窺い、奥底の感覚を探りあて、強引に引きずり出した。腕の中で上がるひきつった声がやがて苦痛ではないものに濡れはじめた。震える温もりを深々と穿ちながら男は暗く微笑んだ。
 誰かを殺した夜は特にひどい抱き方をした。



 白金の髪の女は早々に片づけた。『帝国の元幹部』という印象を払拭すべく、近隣の住民とのつながりを大事にしていた女は、危機を感じて行方を眩ましたものの諜報班の追跡を振り切れなかった。並ならぬ剣技に何名かが犠牲になったがともかく殺した。
 孤児の村に住む女の始末は簡単だった。隔絶された集落には幼子と若者しかいない。子供らは見逃してもよかったが、農具を手に泣き叫びながら突きかかってくるの見て王は兵士に合図を送った。いくつかの物音のあと村は再び無人の廃墟に戻った。
 盗掘屋は面倒だった。隠密行動を得手とする男は巧みに姿を消していた。潜入の術に長ける者の存在は不安材料になる。ただ最近、彼を追う担当兵から連絡が入った。今まで周到に立ち回っていた標的の動きに近ごろ乱れがあるそうだ。迂闊に姿を見られたり、生活痕を消し忘れたりしている。元帝国人の女の死を知ったのかもしれない。では時間の問題だ。
 帯刀の剣士はまだ殺せていない。王弟の次くらいには直情的な男のはずが、自国に閉じこもって動かない。護るものが増えたからだろう。一度それを失った経験は人を縛る。復興半ばの弱国とはいえ、一国の重鎮を殺せば対外戦争になる。さすがに民を刺激しすぎるので監視に留めた。義理の息子については彼自身が抑えるだろう。あとはかの国が力を付けすぎぬよう裏の操作に専念すればよい。
 その他の知己たち、廃坑に棲む小妖や雪獣も監視している。人の世に疎いはずの彼らまでもが自分宛てに拙い手紙をよこした。だが燃やした。所在の掴めぬ模倣士は捨て置くしかないが、確たる脅威はなしと踏んだ。いずれも必要があれば始末する。



 絵師の少女は、虚ろだけを瞳に宿して、蟄居の日々を過ごしていた。
 やがて食事を採らなくなった。
 痩せてゆく娘に、王は手づから無理やり食物を口に押しこんだ。少女は咳き込み、頭を振り、なかなか嚥下しない。白い頬は次第にやつれ、瑞々しかった肌は乾きおとろえた。水もろくに採らなければ人は数日で死に至る。
 王は一計を案じた。思いつくのに時間はかからなかった。
 盆に食事を載せて高楼を訪れる。弱った胃でも受け付けられる、穀物をやわらかく煮た粥と薄切りにした果物だ。
 絵師の少女はいつものように、床に座りこんだまま、視線すら向けず王を迎えた。
 椅子にかけさせ、小さなテーブルに盆を置いて食べろと促す。力ない腕が、拒否を示してゆらりと振られた。そのつもりはなかったかもしれないが、指が食器に当たり、がちゃんと音がして粥の平皿が床に落ちた。
 王は背後の扉に向かって、連れてこいと声を掛けた。
 警護兵に伴われて入ってきたのは若い男だった。項垂れていた絵師がふと視線を留め、頭を上げて小さく息を呑む。故郷の村で近所に住んでいた少年だったのだ。
 蒼衣の王は兵に、その捕虜を部屋の隅に立たせろと命じた。
 少年の腕を引いて壁に手のひらを当てさせる。自分の身に起きている事態を掴めない彼は不安に戸惑うばかりだ。王はふところから片刃の短剣を取り出した。
 壁に当てられた少年の人差し指に、ぶづんと力任せに押しこむ。
 小獣の断末魔めいた声が塔に響いた。
 骨の断ち割れるくぐもった音がして、指がぼとりと床に落ちる。別に首でも構わなかったが、指にしておいたのはまだしも掃除が楽だからだ。
 絶句して、限界まで瞳を見開いている少女のほうを振り向く。
 激痛に暴れる少年の顎を押さえ、今度は片目の下に刃を添わせて王は繰り返した。
「食べるんだ」
 少女の瞳に、絶望と同義の理解の色がよぎった。
 ひび割れた唇が慄き、半ば開いたが、言葉を為さなかった。床に落とした平皿に慌てて駆けより、こぼれた粥を手で掬ってがつがつと喰う。
 そうしながらぼろぼろと涙を落とした。
 護衛兵に、捕虜を地下牢に戻して新しい粥の皿を持ってこいと命じる。少女を支えて立ち上がらせ、果物を手渡して、こちらを食べろ、ゆっくりでいいと優しく促す。
「もし君がまた、自分で自分を害するようなことをしたら、あの村の人間を連れてきて同じことをする」
 ぐしゃぐしゃに嗚咽を漏らしながら果物を咀嚼する横顔を見て王は思う。これで大丈夫だ、解決した。ああ、そうだ、これからは部屋にパレットナイフを置ける。ほとんどあらゆる画材を揃えているが、下手な気を起こされるのを恐れて刃の形状をしたものは置けなかった。
 自身の無事が何と引き替えにされているか彼女が知った今なら、それも置けるだろう。



 国王である彼はもともと多忙だったが、管理すべき占領地と国外からの緊張を得て、忙しさに拍車がかかった。
 あの村以外の土地を攻める気はもとよりないが、そうと言われて他国が信じてくれれば苦労はない。かつての仲間を始末すべく各地で兵を動かした兼ね合いもある。もっともらしい建前の後ろに、わざと見つけさせる偽物の本音を用意して、印象を操作するほかない。
 占領地の采配は、最初に味方につけた国粋派の貴族に任せてある。属領を導く大義名分に燃える彼らはたいそう圧力的だ。自分としてはあの村さえ失われればよかった。彼女の拠り所さえこの世から亡くなればよかった。その後どうなろうと興味はないが、渦巻く鬱憤が大きな力を得れば自らの地位を、ひいてはこの城や塔を失いかねない。手綱は取らねばならない。
 『王は道化か皇帝か』と市井で唄われるようになった。どちらでもよい。失敗しなければいいだけだ。規模は拡大しないしする必要もない。つまらぬ仕事だらけだが、すべては高楼の少女のための些事だ。夜までの辛抱だ。日没を迎えて夕食を終え、翌日の予定を整理するまでの。以降はよほどの急務がない限り私事に干渉するなと命じてある。早く戻りたい。あの部屋に。

 執務の最中、思い至った。帝国の元幹部だった女を生かしておいて出身国の政治体系についての知識を語らせれば、今の自分に得るものがあったのではないか。
 王弟を生かしておけば、決められた台詞を言うだけの仕事なら影武者として立てられた。他の者たちも同様だ、第三者の命で脅せばいうことを聞いただろう。利用価値があったなと他人事のように考える。
 でも、もうどうでもいい。
 他に何もいらなかった。欲しいものはひとつしかなかった。もしかしたらそれを、永遠に失ったのかもしれないとしても。



 半月の夜、砂漠の高楼を抜ける風はひょうびょうと舞う。
 どこかで犬が、彼にしか聞こえぬ声におうおうと鳴いている。
 王はふと眼を覚ました。
 小柄な少女を背後から抱きこんで眠っていたはずだった。しかし今、腕の中には空隙があるだけだ。体温の残像すら抱いていない。
 恐怖に凍りつき、勢いよく寝台から頭を引き剥がす。どこだ。どこにいる。逃げたのか。
 違う。彼女はちゃんと部屋の中にいた。寝台からやや離れた位置、こちらに背を向けて、小さな丸椅子にかけていた。王は扉に視線を走らせ、いつもどおり錠が下りているのを確かめて安堵に肩を落とす。
 薄闇の中で座している娘の後ろ姿は、かつて何度か見守った憶えのある光景だった。彼女が何をしているか悟った王の瞳に、むしろ信じられぬ思いの明色が点った。
 彼女が画架の前に座っている。
 筆を握り、キャンバスに向かって一心に塗りつけている。
 思わず口元を手で覆う。心臓が歓喜にどくどくと脈打つ。彼女はあの夜からずっと、何も描いていなかった。揃えられた顔料も、精油も、色皿も、空しい手入れのみを施されて硝子戸棚にひっそりと眠っていた。
 幽囚の身であれば、意欲を起こさせる刺激が足りないのは仕方ない。王はせめて美しい題物を置いた。あざやかな飾り羽の小鳥、華奢な陶杯に活けられた砂漠には咲かぬ花。月の冴える夜は窓の帳を外し、彼には飽いたこの地方特有の砂嵐も、彼女には新鮮だろうかと窓辺に誘った。しかし絵師は、病める者のようにあらぬ方を見たまま反応を示さなかった。
 本当は解っていた。数年前の旅の日々、たとえ嵐で何日も船に閉じこめられていても、彼女は紙の上に筆を遊ばせることをやめなかった。自分の記憶から、心に浮上する由無し事から、豊かなとりどりを気儘に描いた。環境だけが問題ではない。失われているのは魂だった。
 その彼女が、描いている。
 興奮に乱れる呼吸を抑え、物音を立てないようゆっくりと寝台に身を起こす。邪魔をしてはいけない。しかし見たい。何を描いているのか。
 視線が画布に吸いついた。動悸が少しづつ、速度を落として冷えていくのが解った。
 心得がない彼にも明らかだった。彼女は何も描いていない。
 規則的な動作で、ただ画布を黒々と塗りつぶしているだけだ。筆の動きに意図はなく、色の選択に必然はない。無為の行動が生む無為だ。
 ざりざりと塗る一筆ごとに、心が砕ける音がした。白が減りつづけ黒を増してゆく表面は、そのままふたりの地図だった。
 無限の可能性を秘めていたはずの長方形が、一面の闇に沈む。
 闇が蠢く。
 そこから、ぬるりと手が生えた。

 見覚えのある手だった。
 濃色の手甲。黒衣の腕。握られた苦無。
 どこかで犬が鳴いている。

 この夜に相応しい手だった。
 それは殺すための手だった。
 投擲された鋭刃は、あやまたず、王の心臓を正確に貫いた。












 そこで夢から覚めた。

 少女を背後から抱きこんで眠っていた。腕の中の体温は熱い。かすかな髪の匂いが、甘やかに鼻孔をくすぐる。
 無言のまま、砂漠の王は瞬きをした。
 く、っ、と喉の奥から乾いた笑いが漏れる。部屋に満ちた静寂を割って、男はくつくつと笑い出した。不規則に音程を彷徨わせて。不思議と澄んだ虚無の声で。
 そうだ、彼なら。彼ならば。
 数多の兵に囲まれても。いかな罠を敷かれても。
 腸をはみ出させても、何本の毒矢を撃ちこまれても、どんな姿になってでも娘を救いに来ただろうに。彼ならばきっと。
 でも、もうできない。死んでしまったから。
 この一点だけでも、自ら命を絶ったおまえは愚かだったのだ。おまえは有能な殺め手だったのに。死者は何もできない。冥府の国はなく、彷徨う霊魂もない。存在しない足は塔を登ることができず、存在しない腕は窓を破れない。
 おまえは娘を解放できない。夢の中でしか。

 忍び笑いに眼を覚ましたのか、少女が身じろぎをした。
 覚醒したらしく、寝息とは違う細い吐息が背中越しに漏れる。王は、ある種の熱に濁った瞳でそれを見つめた。
 今日は彼女を抱いていなかった。ときどきはそうするように、ただ寄り添って眠っていただけだった。そうしたい夜もあった。
 王は娘の肩を掴んだ。仰向けにさせて、夜着を剥いだ。
 瞳にたゆたう驚きを歪んだ喜びで見届けた。覆い被さると、とっさに細い腕が張られた。払いのけて舌を吸った。ふ、と口の中で弾けた小さい悲鳴が理性を灼き切った。
 柔肉に指を食いこませ、舐めあげて味わった。なめらかな首に甘く歯を立てると、慣らされている娘は声が溶けかかるのを必死で耐えた。
 自分のものだと確認したくて、背後から尻を持ち上げ、深く穿った。
 荒く動いた。突きこんだまま後ろから胴を抱き、火照る背中に口づけた。抑えこまれたあえかな喘ぎが、裏返って色づいた。痙攣する内部が、気が遠くなるほど心地よかった。

 孕むだろうか、と、情欲に霞む頭の片隅で思った。
 この部屋で夜に耽りはじめて半年経つが、彼女にその兆候は見られない。心身の乱れからか。一時期絶食していたこともある。だが、そろそろなのだろうか。
 その子は自分を殺すだろうか。男の子なら、いや女でも。母のために。壊れた父から母を救うために。あるいはまだ顔も見ぬ我が子を待つ必要はない。自分はきっと誰かに殺される。四方に怨嗟が満ちている。
 自分が死んだあと、彼女を誰にも渡さない方法がうまく思いつかない。それとも一緒に始末されるだろうか。蛮虐の王の愛人と知られれば。彼女が連れてこられた経緯を知って止める者がいなければ。狂乱の民に殺されるのだろうか。許さない。いっそその前に。でも死は辛いかもしれない。すべてを手放した今の彼女でも、死は少しだけ怖くて痛いかもしれない。でも誰にも渡したくない。ならば永らえるしかない。まだ死ねない。

 急に腰を引き抜く。ひ、と喘ぎを噛み殺す少女の腕を掴んで引き寄せ、骨が軋むほど抱きすくめる。たりない。ほしい。眩暈がする。
 正面から膝を割り、脈打つ熱にふたたび根元まで突きこむ。執拗にかきまわす。潤んだ部分が貪欲に食みあい、密着した肌の隙間からは汗と体温が入り交じって揮発する。
 背と肩がぶるぶる震え、昇りつめたふたりは互いにしがみついて果てた。

 手足をもつれさせたまま寝具に沈む。
 快楽の向こうの虚脱感に身を委ね、息を荒げて折り重なる。肢体の奥で弾む呼吸が引いてゆくのを待つ。
 相手の体温と、愉悦の残滓に包まれて、夜が明けなければいいのにと願う。
 少女の上気した頬に、かすかに口づける。
 泳ぎ切れず力尽きた魚のように、やがてゆるゆると眠りの海に溺れた。






 また夢を見た。

 どこかの船の甲板だった。
 紫煙をくゆらせる男がいた。簡素な身なりの痩せた少年がいた。
 快活な瞳の男が、その少年を太い腕にぶらさげて振り回していた。
 長身の女が微笑みながら彼らを見守っていた。隣の椅子で白頭の老人が、熱心に書物を繰っていた。

 夢だと解っていた。
 脳が見せる偽物の風景だと解っていた。勘違いできなかった。
 一夜きりの逃避も許されなかった。
 それが罰なのかもしれなかった。

 人々の輪の中で、懐かしい少女が振り向いた。
 自分の姿を認めて悪戯っぽく笑い、髪を陽光にきらめかせて、手招きをした。



 王は微笑んだ。
 堰を切ってあふれた熱さが、しとどに頬を濡らした。









Fin.









2013/03/16 初稿
2014/07/22 二稿

いつかほろびがふたりをすくうまで