テーブルに行儀悪く肘をついてサンドイッチを頬張っていた若者が、がたん、と急に弾かれたように立ち上がった。
 その振動を受けて対岸の座席に置かれていたタンブラーカップが倒れ、クロスに琥珀色の染みが広がる。座っていた初老の男は、自分の紅茶が描いた意味のない地図を睨みつけ、不愉快そうに声をかけた。
「パンと一緒に指でも齧ったか、坊主?」
 しかし相手は乗ってこない。自分の背後に視線を注いて呆然と立ち尽くしている。
 不審に思って男は振り向き、そして次の瞬間、自らもまた椅子から転げ落ちるように立ち上がった。

 突然入ってきた人物を中心に、水面に石を投げ込んだような波紋を描いて、居合わせた人々が慌てて立ち上がる。
 品のよいスリーピースに紅い眼帯をつけたその男は、見えない眼でちらりと周囲を一瞥し、緊張した表情の群れにひらひらと手を振った。構わないから楽にしろ、というジェスチャーであることは全員が理解した。
 だからと言って気を抜けるものではない。
 ここは中級構成員用のカフェテリアだ。上級構成員用のクラブとは訳が違う。
 公式組織名簿の最初のページに載っている、額縁付きの写真と同じ顔――つまり生きた本物の頭領様を、初めて見る人間も少なくない。

 気の弱い者は単に混乱し、後ろ暗さのある者は何の査察かと身構えた。頭領様ともなれば、普通ならひとり個室で優雅に、もっと上等な飲み物を持って来させる立場にある。
 こんなところにやって来る必然性がないのだ。

 だが実は、もっともらしい理由などなかった。彼は単に出張から戻ったばかりだった。
 玄関から自分の執務室へと向かう途中、ふと渇きを覚え、眼についたカフェテリアに入ったに過ぎない。そのあまりに気安い行動の理由はといえば、木っ端構成員から今の地位まで一代で上り詰めたことにあるが。

 飲み物を取って振り返った男は、自分を取り巻いている、未だ張りつめた空気に気づいて動きを止めた。
 肩をすくめ、口元に親しげな苦笑をひらめかせて呼びかける。
「……諸君がたまには上司の枷から逃れたいように、私もたまには部下の枷から逃れたい。一杯のコルタドミルク入りエスプレッソに憩いを求めるひとりの男として、私の同席を許して頂けないかな?」
 軽口めかした口調に呼応して、ざわざわと躊躇いがちに安堵と安心の笑顔が広がる。
 軽く会釈をしながら人々は席に腰を落ちつけなおし、カフェテリアはその役割に沿った雰囲気をとりあえず取り戻す。椅子付きテーブルがほぼ一杯だったため、少なからぬ人数が眼帯の男に自分の席を勧めた。
 だが彼はそれを断り、空いていた手近な立食テーブルに飲み物を置いた。



 カフェテリアの入り口を遠巻きに眺めながら、若い構成員たちがひそひそ話し込んでいる。
 『本当だって』 『ちょうど今』 『初めて見る』…………
 耳に流れこむそれらの断片をほとんど意識することなく、人垣をすりぬけて金髪の少女は中へと入った。
 忠誠心が薄いと評される彼女にはよくある事だが、日々の鍛錬から逃げまわっているうちに業を煮やした管理部から強引に法力負荷試験の予定を組みこまれ、ひとりだけ昼食を採るのが遅くなってしまったのだ。鶏をメインに据えたプレートを取ってトレイに載せ、席を探そうとあたりを見回したところで微細な違和感に気付く。
 この時間帯、混んでいるのはいつものことだが、それにしては人々の話し声が妙に低く畏まってはいないか。
 次の瞬間、彼女はその理由を自分から遠くないテーブルに発見した。
 思わず足が硬直する。だがすぐ、後ろに並んだ人のトレイにせっつくように背中を押されて我に返る。
 後ろが詰まっているのだ。早く席に付かないと迷惑がかかる。
 そして、頭領様が飲み物を置いている立食テーブルはちょうど2人用の大きさで――
 最悪なことに、彼以外にそこを使っている人はまだいない。

 彼女は一瞬のうちにせわしなく計算する。
 忙しく視線を巡らせてみても、他に空いている席は生憎と見つからない。もっと奥に進めば見つかるかも知れないが、混みあった狭い通路をトレイを持って歩く迷惑はできるだけ距離が短いほうがいい。
 何より、『頭領様』への遠慮を差し引いても、目の前の空席をわざわざ無視するのはいかにも不審だ。これだけ混んでいるのだから、形式的な謙譲よりも合理的な判断を優先しろと思われるだろう。頭領自身がそういった思考法の持ち主だ。

 彼女は低く息をついて、諦めの一歩を踏み出した。
 自分たちの関係は公然の秘密のようなものだが、認知されている範囲にも限度がある。このカフェテリアに集うような中層の構成員たちならば知らない者のほうが多い。ではそしらぬ風を装っていればいい。
 過剰な反応は逆効果だ。相手をどうとも思わなければ、テーブルを同じくしたところで何の不都合もないのだ。

 卓上にトレイを置く音にも男は振り向かず、斜めに背を向けたままだ。
 恐らくは異能の影の力によって振り向かずとも気付いているのだろう。自分がここに入ったときから。
 硬い表情で彼女はフォークを取り、罪も無いサラダの上の蒸し鶏を、宣戦布告するように勢いよく突き刺した。


 悲劇はほんの5分も待たずに起きた。


 1つの原因は、たまたま大きな合同演習を午後に控えていて、大勢の人間が同時刻に一斉にそこを出たこと。
 1つの原因は、気遣い無用のお墨付きをもらったとはいえ、やはり長時間留まるにはみな窮屈さを覚えていたこと。
 1つの原因は、単に彼女に運が無かったこと。

 気付いたときには遅かった。あれだけ雑然としていた客席が、面白いほど続々と空席を作ってゆく。あそこの一団、次いでまた一団と、急激な勢いで人々が散ってゆく。
 がらんとした広いカフェテリアに、視線を合わせぬ1組の男女は見事に取り残されたかたちになった。
 他に人間がいない訳ではなかったが、その数はごく少なくぽつぽつと離れた座席に点在している。示し合わせたかのようにみな1人で食事を摂っている。
 そんな状況で、ここだけ同じテーブルに付いている2人は――どう見てもわざわざ好んで相席したようにしか見えなかった。

 行き場のない苛立ちをスプーンに託し、哀れなプディングをむやみに切り崩しつつ、運命の女神の恩寵をついぞ受けられない彼女は投げやりに思考する。
 飲み物だけにしておけば良かった。たとえ空腹を覚えていたとしても。
 それだけなら、どこぞの壁にもたれて飲んでしまえたのに。
 食事を取ってしまった以上、どうしてもそれを置いて食べるテーブルが必要になった。ことさら急いで食べることも、空いた他のテーブルに移動することも、過剰な反応を勘ぐられたくないという恐怖から出来なかった。
 それにしても、ここまで裏目に出てしまうこともないだろうに。

 ふ、と吐息のような音が聞こえた。
 空耳かと最初は思ったが、すぐその出所に思い当たり、瞳に蒼い炎を揺らめかせてダークスーツの背中を睨む。
 髪を掻きあげて誤魔化したようだが、その肩が小刻みに震えていることはすぐ解った。

 笑っている。笑っているのだ、この男は。

 彼女はそう確信し、瞬時に頭に血が上りかけたが、ふと――
 刹那も経たぬうちに立ち消えた曖昧な感覚ながら――
 彼が感じたものと同種であろう可笑しさを、自分もまた覚えて――

 表情と感情の選択に疲れ果てて、彼女はもうあらゆるものが面倒になった。

 勝手にすればいい。我らを見たいものは見ろ、語りたいものは語れ。
 諦めきったむしろ安らかな表情で、原型を留めぬプディングをざくざくと平らげる。蒸し鶏を口に運び、玉葱のスープを飲みほし、胡桃入りのパンをちぎる。
 開き直った丁寧な咀嚼。そこで初めて気が付いた。
 今日の昼食のメニューが、どれもなかなか美味であることに。



 自然な雰囲気を力づくで装うことを投げ出した今こそが、
 傍目にはもっとも自然な雰囲気であることに……彼女はついに気付かなかった。











どんなに抗おうとも人は運命の相手からは離れられないという話(違うと思う)