睡眠が足りなかった。疲労が溜まっていた。予定が立てこんでいた。
 寝覚めが悪かった。長雨に気が滅入っていた。外出で気晴らしする機会も無かった。

 その出来事が起こってしまったから――彼は懸命に、その原因を作らねばならなかった。



 ぱん、という乾いた音はすぐ耳元で鳴った。
 瞬間の圧力と、遅れてじんわり広がる痛覚。頬を張られたのだと気づいても、反発の感情は浮かんでこなかった。
 見慣れぬものを見た幼子のように、ミリアはきょとんと眼を丸くする。
 怒りを覚えるには不意を突かれすぎてしまった。

 男は手を振り抜いたままの姿勢でじっと佇み、口元を固く引き結んで動かない。
 その静謐さと行為の激しさとのギャップが、ことのほか奇妙に彼女の眼に映る。
「出て行け」
 独り言のように無感情に呟き、ザトーは緩慢に背を向けた。



 自室へと戻ったミリアは、自分で自分の処遇に困り、壁に背をもたれて見たくもない天井を見上げた。
 ついさっきの単純な出来事を理解するのに、妙に時間がかかった。
 叩かれた。でも何故?
 記憶を確かめるため頬を撫でる。皮膚は熱を持っているが、さほど強い衝撃ではなかったこともあり今は痛まない。彼女の上司はその生業に相応しい膂力を持つが、流石に心底から本気を出したわけではないらしい。
 もやもやとした不快感こそあれ、それ以上のものはまだ感じない。
 感情は因果関係があって初めて動くものだ。
 なぜ叩かれたかをまず理解できないようでは、何を感じようにもおぼつかない。

 激しい罵詈雑言よりも心を寒くする、棘まみれの会話はいつものことだ。
 彼我の立場を考えれば許されるはずのない無礼な態度も。
 自我を守るための妥協の末に行きついた、刃の上を渡るような馴れ合いも。
 あの男と過ごす日常の中に、これらの要素は普通に散りばめられている。どれも自分達にとっては茶飯事にすぎない。なのに突然、手を上げられた。なぜ? 思わずそうする理由が何処にあったのだろう?

 今になって、ミリアはいらいらと爪を噛みはじめた。
 だがそれは手を上げられたことの怒りではなかった。何も解らないなりにひとつだけ言えることがあった。
 背を向ける直前に視界をかすめたザトーの表情が、彼女を不快にさせていた。

 ……人を殴っておいて、自分のほうが傷ついた顔をするのは、卑怯の極みではないか。



「……おまえが……」
 投げられた言葉に、執務資料の整頓をしていたヴェノムは顔を上げた。
 敬愛する彼の上司は椅子には座っておらず、デスクの背後にある壁一面の大窓に向かって立っている。空模様は寒々しい灰白色にくすみ、暗色のスリーピースを着たザトーの姿はその色を背景にくっきり映える。
 それゆえか――妙に小さく見えた。

「おまえがもし……」
 言葉は中途半端に途切れ、あとは続かない。
 ヴェノムは眉を動かした。言い籠もる声は何気なかったが、聞きなれぬ成分を含んでいるように思えたのだ。躊躇のような、あるいは不安のような。
 銀髪の部下は、無理には促さずじっと続きを待った。この人から言葉を賜るときいつもそうしているように、全身の意識を彼ひとりに捧げて待ち続けた。
 ふ、と吐息のような、苦笑する音が辛うじて聞き取れた。
「……いや、なんでもない。止めておこう」
 くるりと振り向いた顔は、不遜さを魅力として従えたいつもの表情だ。ヴェノムは失望が顔に出ないよう注意しながら控えめな声を出す。
「……私でお力になれることでしたら、お伺いしたいのですが?」
「おまえに聞いても詮無いと気づいたから止めたのだ」
 ザトーは椅子を回し、ゆっくりとした動作で掛けて背もたれに身を預ける。
「おまえに聞いたところで経験のないもの同士の空論にしかならない。羅針盤無くして航海するが如しだ。目的地に気付きもせず通り過ぎる危険がある。笑い話の種にはなるかもしれないが、いささか不毛ではないかな?」
 ザトーの口調は穏やかで、からかうような調子しか感じられない。しかし彼の忠臣は流されようとはしなかった。
「お言葉ながら」
 真摯に言葉を継ぐ。彼の案じ事の正体は解らないが、どうも厭な予感めいたものが胸中でざわつく。自分が悩みを取り除いて差し上げられるならそうしたい。
「羅針盤が無くとも、星の位置で方角を読める者がいれば船は迷いません。……たとえ経験がなくとも、違う視点からの見方を判断材料としてご提供することはできます」
 沈黙したザトーは表情を変えず、曖昧に頷いた。
 だが、ややあって口から出た言葉は、整頓作業の手が止まっていることを軽く責める冗談――つまりは柔らかな拒絶でしかなかった。

 ……この方が何について言いかけたか、私は本当は知っている。
 確証はない。しかしヴェノムは確信に近い念を抱いていた。
 それはたぶん、彼とは少し違う色味の美しい金髪でからめとられた問題なのだ。

 作業の手を動かしつつ、あれこれ推想を巡らせていたヴェノムは――
 いつのまにか自分が、彼か彼女、どちらかの唇をこじ開けてでも真実を聞き出したい凶暴な衝動を必死で飼い殺していることに気づき、びくりと本を取り落としかけた。



 何日も続いた雨は、深い闇と重い大気をはらんで渦を巻き、夜のうちに嵐となった。
 風はごうごうと寄せて棟木を軋ませ、勢いづいた豪雨は割れよとばかり窓を叩く。
 雷鳴が颶風に拍車をかけ、空は黒い喧騒に覆われている。

 その音にまぎれて暗い廊下を渡り、彼女は重い扉を叩いた。

 中から返事はなかったが、眠ってはいないという奇妙な確信があった。
 勝手にノブを回してするりと侵入する。寝台の上でシーツに埋もれている人物に視線を注ぎながら、後ろ手に扉を閉める。
 閉めてしまうと、雨風の唸りは少しだけ低くなる。
 外は喧しい悪意に満ちているのに、この部屋からは何もかもが遠い。ひとまわり上等に造られた頭領の私室は壁が厚く、カーテンも重厚な織りで外部の音を遮っている。
 この部屋だけが世界から断絶させられ、嵐の中を漂流しているような錯覚に陥った。

 ミリアは部屋の主のそばに歩み寄った。
 ザトーが背を向けて横たわるベッドに、なんの挨拶もなく腰掛ける。暫しの沈黙のあと、寝乱れてシーツにやわらかく流れている男の髪に手を伸ばす。
 するすると、不気味なほどやさしく撫でる。
 自分が落ち着いていることを確認して、彼女は少し安心した。

 細く、長く、息をつく音が聞こえた。
「…………何をしに来た」
 我ながら感心するくらい、図々しくおどけた声が出た。
「さあ?」

 ベッドに片膝を乗せて身を乗り出し、男の身体に触れる。シーツに覆われていない腕や肩はずいぶん冷えていた。
 肩を掴んで仰向けにさせようとしたが、抵抗にあって失敗する。だが弱々しい抵抗だ。2度目は構わずに引き倒し、上を向かせて両肩を押さえつける。
 顔を覗き込むと、ザトーは観念したようにまた呟いた。
「何をしに来た」
 ミリアは少し考えた。相手の不機嫌を逆撫でするのもいいし、余裕のなさを問い質すのもいいと思っていた。
 彼女はこの3週間、一度もザトーの私室に呼ばれなかった。
 何が不興を買ったのかは解らない。叩かれた原因もまだ解らない。だがどちらにせよ好都合なことのはずだった。あなたのお守りをお役御免できるのなら、気が変わらないうちに正式に申し渡せと、そう言ってやろうと思っていた。
「…………何を」
 だが口をついて出たのは、用意していた台詞ではなかった。
「……何をそんなに、怯えているの」
 予期せぬ自分の発言に、彼女は自ら納得する。そうだ、この男は怯えているのだ。私は知っている、ある種の拒絶傾向を見せるとき、この臆病者はしばしば怯えている。
 でも何に?

 ややあってミリアの唇が、笑みに似た角度で弧を描いた。
 本人を前にして初めて彼女は、自分が何をしに来たかを知った。

 冷たい頬にそっと手をのべる。
 指の腹でくすぐるように愛撫し、やさしく包みこむ。その意志があることを悟らせる触れかたで、頬から唇へ、首筋へ、胸板へ、意味深な速度でねっとり撫でおろしてゆく。
 たちまち皮膚に走った緊張を、触れた指先が感じとった。
「触るな」
 動揺を殺した声で叱咤されても彼女は動じない。胴の上に素早くまたがり、まず自分の服を剥ぎ取るように脱ぎ捨てる。
「いつもとは立場が逆ね」
 ザトーの耳朶に唇を寄せ、舐めるように囁きながら、ミリアはどこか物悲しさに似た気分を抱いていた。今ならこの男の気持ちが理解できる。
「じゃあ、私があなたの役回りをすれば……いつも通りね」
 他には選べぬ状況に相手を追いつめるのは、確かに、どこか愉しい。

 相手のナイトシャツの襟に手をかけ、左右に一気に押し広げる。
 ボタンが弾けて床に跳ねる音が、雨を含んだ遠雷に不思議な高さで重なった。

 そこらじゅうに口付けて、いたるところを吸い上げる。
 中心に触れると、ザトーは息を詰めて腰を逃げさせる。抗おうとする手を捉え、その指も舐めあげるように口付ける。すでに熱が疼いているものを取り出して屹立させるのにも時間はかからない。
 舌と指とで、相手と自分の熱をいじりながらミリアは思う。ザトーの抵抗は曖昧で、逃れようとはしているが全体的に疎かだ。これが本気の力であるはずもない。自分を払いのけることなど簡単なくせに、何を迷っているのだろう。快楽に負けて流されているのとは違う。こちらの行為に抵抗すること自体を躊躇っているように見える。
 私に抵抗することを恐れている。
 それこそが――彼が怯える理由だろうか?

 脳裏にざわざわと嗜虐の欲求がこみあげ、ミリアは相手自身を咥内に含み、卑猥なやりかたで激しく苛んだ。
 達する寸前、濡れた音を立てて口腔から引き抜いてしまう。
 喘ぎを必死で噛み殺し、乱れた呼吸に胸を上下させている男を潤んだ眼で見下ろす。
「……あなたは何を思い上がっているの」
 冷静な言葉を吐くことはできたが、声に溶けた火照りが隠し切れない。ひとつ息を吐いてから彼女は続けた。
「ささやかな過失に過剰に怯えるのはある種の傲慢だわ。手を上げたくらいで何が起きると思っているの。野蛮さを恥じるのは勝手だけど、あの行為が自分の評価に関わるとでも思っているの。お生憎さま。残念ながら私は、最初から、」
 今さら詫びさせなんかしないし気に病む必要もない。
 ――そんなことに怯えるのは許さない。
「あなたには何ひとつ期待していない」

 手を上げたくらいがなんだというの。
 矛盾に濁る私達には、殺意だけが、唯一残されたきれいな感情なのに。

 ミリアは男の身体を這い、乳房を押しあてながら脚をひらいて絡みつく。その自分の姿に、獲物を絞め殺して呑み込まんとする蛇を連想して蕩けた頭で薄く笑う。
「だってそうでしょう」
 相手の胸に額をあてて早い鼓動を聞きながら、下腹部の脈打つ怒張を感じる。手をついて少し腰を浮かせ、もう片方の手でそれを握る。
「私は」
 あてがった互いの部分は驚くほど熱い。濡れてひくついて震えている。
 ザトーが上体を反らし、吐息だけで声にならない声を出す。
「私はあなたの敵なんだから」

 瞬間、ザトーの見えない眼がそれでも彼女を捉える。
 ああ、とミリアは熱に浮いた意識の、妙に醒めた一部分で得心する。
 彼に手をあげさせたのも、単純なこの一言だったのか。
 敵という単語の、珍しくもない意味の珍しくもない表現が、その単純さゆえの勢いで彼のどこか弱い部分を偶然に突いたのだ。

 あてがったまま身をくねらせると、奥が痺れて声が漏れそうになった。
 そう、私はあなたの敵。
 だからこうして、いつものように傷つけあいに来たのよ。

 腰を落として呑みこんでゆく。
 入り口を押し広げられる感触に肩がわななき、せまい内側が圧迫されてじんじんと疼く。
 男が浅く息を吐き、繋がった女の名を呼ぶ。
「ミリア」
 幾日かぶりのその声は、ひどく忌々しく、ひどく懐かしく聞こえて――
 彼女はただ淫蕩に笑う。

 男は突然、両手で白い尻を鷲掴みにしてそのまま激しく上下させる。
 掠れた嬌声は、雷鳴にかき消される。



 未だ止まぬ嵐の、ただすべてを薙ぎ倒す闇雲さに今は焦がれ、

 彼女はそのまま気を失うまで犯されることを選んだ。











詫びない男と詫びさせない女の話。