最初はただ死なないための設備だ。
 小さな黒パンと硬いベッド。
 しかし生命が保証される事実は、それだけで戦火に髪を焦がした孤児たちを留まらせる。
 まず食事が良くなる。
 たまたま良い成績を収めたある日、他の子とは違う食券を渡される。それと引き換えに受け取る食事は昨日までのものより一品多い。隣のテーブルを見れば、もっと成績の良い子が受け取るトレイの献立はさらに一品多いうえに中身も上等だ。
 少年期の飢えは獣のように鋭い。そういうことかと理解する。
 次は部屋が良くなる。もう隙間風の吹き込む大部屋で毛布を奪いあわなくてもいい。換気の悪さに茹だる夏の夜ともさよならだ。
 やがて着るものが良くなる。待遇が良くなる。周囲の人が優しくなる。
 仕事をこなすようになれば給料も入る。個室に住める。素行が良ければ休暇も貰える。娯楽に触れて趣味を持つこともできる。
 忠誠心さえ明かされていれば、ここで適わない欲求はない。

 それ以前に――そのころには大抵――仕事が楽しくなっている。
 努力によって結果を出し、実績を伸ばして信頼を得る、その喜びを拒めるか?
 往来で足蹴にされてきた、ぼろ屑のような子供が、自分が必要とされる喜びを拒めるか?

 人が人を殺すようになる理由としては十分だ。

 厄介なやりくちだ。そして真っ当なやりくちだ。
 彼女は湯気の向こうで動く少年の慣れた手つきを見守りながら思った。
 知ったふうに正義を語れる口は、満足に飯を食えている口だけということだ。



「……本当、美味しいわね」
 ミリアはカップから口を離して認めた。
 普段使いの茶葉で淹れられたはずの紅茶は、だが普段とはちがう深い香気で甘やかに鼻腔をくすぐる。
「掘り出し物だろう」
 ザトーは満足気にデスクの前の少年を見やる。少年はやや頬を紅潮させる。
 幼い自負に肩を震わせるのも当然だろう。頭領の部屋にわざわざ招かれ、紅茶を淹れることを所望してもらえるなど、彼の歳では天下を取るような大事件だ。
「誰に教わったわけでもなくこの腕前? 天賦の才ね」
「彼が厨房当番になって茶を淹れるたび、訓練生の間で評判になっていたそうだ」
「こんな組織に置いておくのは惜しいんじゃないかしら」
「貴人には食通気取りが多い。そういった標的に親しげに取り入り、油断を招くこともできる」
 ちくりと刺された確執の棘を涼しい顔で受け流し、ザトーは少年に声をかけた。
「ご苦労、下がっていいぞ。――――ああそうだ」
 去ろうとして振り向いた少年に、やや生真面目に念を押す。
「その技量は素晴らしいものだが、自らの本分もおろそかにしないように」
 少年が硬い表情を作り、踵をそろえて教科書通りの返事を返そうとする前に、ザトーは悪戯っぽくこう続けた。
「つまり鍛錬にばかりかまけて、せっかくの紅茶の味を落としてくれるなということだ」

 礼儀以上のものを込めて完璧な敬礼を返し、恭しく退出してゆく少年を、ミリアは横目だけで見送る。
 手の内のカップをこつこつ指で弾いていると、訝しげに声をかけられた。
「どうした?」
「何が?」
「いまひとつ不機嫌なように見受けられるが。子供は嫌いだったか?」
 ミリアは溜息をつき、ゆっくりと首を振る。
「……子供を好きか嫌いかっていう質問、よく耳にするけど、何かおかしい気がするわ」
「どういう意味だ?」
 暫し眼を泳がせて、彼女は説明の言葉を選ぶ。
「うまく言えないけど……だって同じ人間なのに、『大人を好きか嫌いか』なんて聞く人はいないじゃない。子供はなぜ、子供というだけで好きか嫌いかを問われるの?」
「興味深い意見だな」
 ザトーは頷きながら補足した。
「子供とてそれぞれ各個の個人なのだから、多様性が存在する。なのに年齢というカテゴライズでひとくくりにして全体への好き嫌いを決めるのはおかしい。そういうことか」
「……そういうこと」
 言い切れなかったことを正確に言い当てられ、複雑な気分でミリアは横を向く。自分の発言を自分ではうまく解説できなかった。自分の感情を直視したくなかったというほうが正しいかもしれない。なぜならこれは恐らく言い訳でしかないから。
「だがその意見は、おまえが不機嫌になった直接の理由にはならないな」
 続くザトーの問いかけは当然のものだったが、彼女は答えない。ただこつこつと温かいカップを指で弾きつづける。
 虫のいどころの悪さは自覚していた。事実、それは少年のせいでもあった。


 本当は子供など嫌いだ。子供の無知さと非力さが嫌いだ。
 孵ったばかりの雛のように、最初に眼に映ったものだけを愛してしまう、視野の狭さが嫌いだ。

 あの少年は今日の出来事を忘れないだろう。尊敬する頭領様の言葉は彼のこれからの励みになるだろう。
 彼の手を汚す色は、今は紅茶の薄い紅でも、やがてどす黒く澱んだ紅になるだろう。
 だがそこに葛藤は存在しない。無垢で美しい理由のために、むしろ誇らしげに、彼は他人の命を押し潰すようになるだろう。最初に目に映ったものが親鳥だとは限らないというのに。

 不幸なことだ。ひとつの選択肢しか見えなくなるなんて。
 迷いも妥協もないなんて。幼い憧憬のままに、自由に、ひたむきに、ただ何かをひたすら強く想いぬくなんて。

 ――羨ましく思うことでは、ないはずなのだ。


 革張りの椅子が軽く軋む音に、ミリアは顔を上げた。
 見ればザトーはデスクから立ち上がり、紅茶の入ったカップを持ったまま奥の大窓に歩み寄っている。窓辺に置いてあるのは、背の高い支柱につるを巻きつかせた見事なクレマチスの鉢植えだ。
 男は鉢を覗きこみ、長い指でクレマチスの葉を持ち上げて根元を露わにする。
 何を、と問う暇もない。
 ティーカップが白い底を見せて裏返り、腐葉土の盛り上がった根元の部分にばしゃりと紅茶がかけられた。ふわりと湯気が霧消し、芳ばしい茶の香の中に濡れた土の匂いが混じる。
「……何をそんなに驚いている?」
 行動の意図が掴めず、眼を丸くするミリアのほうを向いて芝居がかった調子で言う。
「紅茶を無駄にしたわけではないぞ。19世紀の英国の俗諺にある。クレマチスにより美しい花を咲かせるためには、水の代わりに紅茶を与えるとよいそうだ」
 彼女の前に立ち、空になったカップを差し出す。
「だが、私の分が無くなってしまったな。――――淹れてきてくれないか」

 ミリアは差し出されたカップと、男の顔を見比べる。
「どうして私が」
「どうしてでも」
「それは命令?」
「頼む」
 稚拙な反発をさらりと軽くいなされて、ミリアのほうが口ごもる。
 自分が不機嫌になっている理由を少年の紅茶に見出し、機嫌を取ろうとしているのだとしたら大した思いあがりだ。
 しかしそう口に出してもし否定されたら、自意識過剰なのは自分のほうだ。

 言い負けた引け目もあり、彼女はひったくるようにカップを受け取って部屋の隅の給湯設備に向かう。
 そうしてしまってから、受け取るという選択肢しか見ていなかったことに、そういうふうに追い込まれていたことに気付き、ミリアは不必要な力を込めてケトルをがしゃんと火の上に置いた。











まわりくどい嫉妬の話。
少年の名をヴェノムにしても良かったのでしょうが、私の中では彼はもう少し複雑な人なのでやめました。