お月さまが死んでいる、死んでいる。 けれども、春にはよみがえる。 ミリアはふと足を止めた。 訓練生の宿舎から別棟へと続く、2階の渡り廊下でのことだ。 壁の薄いこの場所で立ち止まると、1月の冷気が緩やかに、だが確実に肌に沁みてくる。 暖房の効いた自室に早く戻りたい衝動を押さえて、ミリアは窓に歩み寄って耳を澄ませた。 文字どおり蚊の鳴くような、途切れ途切れの不確かな音だったが、とにかく勘違いではなかった。 この窓からはすぐ近くに見える、隣接して建てられた講堂の屋上。雨水を受けるために備え付けられた貯水タンクの陰。 誰かが小声で唄っている。あんな場所で、こんな時間に。 手摺にもたれているその人影は、ここからだとタンクが邪魔で半身しか見えない。 だが、見慣れた色のスーツの肩を確認するまでもない。 風に吹かれてちらちらと覗く、自分よりもやや色の濃い金髪を見るまでもない。 昼食を終えたばかりの午後の時間帯。 事務方に振り分けられるでもなく、演習に参加するでもなく、こんなところで油を売っていられるのは――ミリアのように組織内において微妙な位置を確保している者か、あるいは彼女にそれを与えた張本人かのどちらかだ。 お月さまが死んでいる、死んでいる。 けれども、春にはよみがえる。 薄暗くて狭い、粗末な板張りの階段をとんとんと上がる。 講堂の屋上へなど好きこのんで行く者は普段いない。くっきり足跡がつくほどの埃の層がそれを物語っている。 上へ上へと続いている、真新しい靴の輪郭を追いながら思った。 この足跡の主についてはよく知っている。知りたくもないことまで知っているし、知られたくないことまで知られている。 ただ、こんな甘やかに、童子のように唄うこともあるとは知らなかっただけで。 お月さまが死んでいる、死んでいる。 けれども、春にはよみがえる。 塗料が剥げてぼろぼろになった扉を開ける。 身を切る、というほどに風は強くないが、乾燥した寒気にたちまち全身を包みこまれて思わず肩を竦める。 扉は開けるときに多少は軋んだが、たいして大きな音ではない。なのに、男が驚いた様子でこちらを振り返ったのがミリアには解った。 光学的条件に頼ることなく、遥か後方で物陰に潜んでいる相手の、背中に滲む汗まで『視る』ことのできる男が――無造作に近づいてきただけの彼女にまるで気づかなかったらしい。 「…………」 光を介して対象を捉える視線と、それだけは永遠にできなくなった視線が、言葉もないまま交錯する。 そして言葉もないまま離れた。 元の方向に向き直ったザトーの背中を見ながら、ミリアは我知らず自分の腕に爪を立てる。小馬鹿にしてやるつもりで来たのだ。あら頭領様、こんなところで何をしていらっしゃるの、いいご身分ねと。 だがいざ顔を合わせると、怠惰を暴いてやった喜びより、秘密の場に居合わせてしまった気まずさのほうが大きい。 とはいえこのまま踵を返すのも不自然だ。 ミリアは挑むように顔を上げ、押し黙ったままの男にそっけなく言葉を投げた。 「今のは、何の唄」 背中越しに、ザトーが溜息をついたのが解った。 淡く白い息がふわりと流れ、大気の中に混じっては霧消してゆく。 どう答えるべきか熟考していた様子だったくせに、男は最終的には、どうでもいいことのように呟いた。 「ある詩人の唄だ」 「それだけじゃ解らないわ」 口が勝手に動く。 辱めてやりたいというよりも、『自分はその人物を知らない』という事実になぜか苛立った。 「どんな詩人なの」 男の長い金髪の、毛先だけが微風を受けてわずかに揺れる。 低く垂れこめた鈍色の空の下、男の声はそれに相応しい陰鬱さで流れる。 「……20世紀の内乱で捕らえられ、自分自身の墓穴を掘らされたあとで、処刑された詩人だ」 ――あなたがこんな甘やかに、童子のように唄うこともあるとは、知らなかったのだ。 ミリアは、ザトーの知らないであろう唄を必死になって脳内で検索している自分に気づく。 私の知らない顔をするあなたは、確かに居て当然なのだろう。年齢も出身も違う。育ってきた環境も違う。知らない部分があって当然だ。でも、それは私だって同じだ。あなたが知るべくもない私も居るのだ。知らない顔をした私を垣間見れば、あなただってきっと動揺するはずだ。 それを証明してやりたくて堪らなかった。 突然、自分に嫌気がさし、ミリアは冷たい屋上の床にどかりと座り込んだ。 膝を抱えて瞳を閉じる。平坦に発音する。 「もっと唄ってちょうだい。ここで聴いているわ」 本当は別に聴きたくなどなかった。だからこそ、わざとそんなことを言ってみた。 真意を測りかねたように、ザトーは横顔だけで振り返り、訝しげに彼女の様子を窺う。 ミリアは妙に醒めた優越感を感じながら微笑む。 そう、それでいい。私自身がやりたくもない行動の意図を、あなたが把握できるはずがない。 あなたの知らない私に戸惑えばいい。 ……綺麗な唄ではあったし、と、それだけは心から素直に思った。 お月さまが死んでいる、死んでいる。 けれども、春にはよみがえる。 久しぶりのザトミリ。昔はこの2人をどうにかしたくてガツガツしていたが、今になってやっと少し満ち足りた気分。 (word by Federico Garcia Lorca) |