喉に食いこむ部分がぴりぴりと痛い。
 まるで強酸を押し当てられているように、触れているだけで皮膚が爛れて灼熱に疼く。
 痛みに耐えながら、ディズィーは苦しい息の下で無理に微笑みかけた。
 誰に教えてもらったわけでもない。
 こういうときは、笑うものだと思った。


「……何ガ可笑シイ」
 彼女の四肢を拘束して首を絞めあげていた、漆黒で不定形の生物が尋ねる。
「…………」
 ぱくぱくと唇を奮わせる様子に、声帯が使えなければ話せないことに気づく。
 慎重に絞めつけを緩めるが、気を抜きはしない。抜きたくても抜けない。抗えぬ彼の臨戦衝動は、眼前の敵に対して意識を極限まで研ぎ澄ますことを求めつづけている。
「……私、あなたを知っています」
 けふけふと咳き込んだあと、ディズィーは相手の眼を見て弱々しく言う。
「あなたのことは、とてもよく知っています」
「当然ダロウ」
 エディは嘲って吐き棄てる。もとより引き合わせるために産まれたもの同士なのだ。相手を殲滅するという前提において。
「不思議な……気分ですね。今、初めてお会いしたばかりなのに」
「ソレガ可笑シクテノ笑顔カ? 大シタ余裕ダナ」
「……違います」
 威圧的で排他的な口調を真摯に受けとめる努力をしながら、ディズィーは答える。
「私はあなたの敵ではないからです」
「ホウ。デハ、コレハ何ダ」
 自分の黒い手と、その内にある白い首を顎で指す。ギアとその対策兵器、両者の憎しみの歴史は触れるだけで顕著に現れる。接触している部分のお互いの肌は、反発しあうように無残に焼け爛れていた。
「たとえ身体はそう造られても、私の意思は私のものです。私は私の意思で、あなたと仲良くなることもできます」
「本能ニ逆ラウカ? 良イダロウ」
 獣は冷えた笑みを浮かべる。優位に立つべく意識的に表情を作りこんで。
「仕組マレタ運命ニ従ッテヤル義理ハタシカニナイ。ダガ、ソノ意地ノセイデ、オマエハココデ犬死ニスルカモシレナイナ」
「……あなたは何をお望みなのですか?」
 注意深くディズィーは尋ねる。
「人工の運命に従うのを、あなたも好しとしないなら、どうして私を襲うのですか?」
 饒舌に押していたはずのエディが言葉に詰まる。
 新しい依り代が要るからだ、そのためにおまえを探してこの森に来たのだ! そう突っぱねようとしたが、2つの意味でもはや真実ではなかった。彼女を依り代にと考えていたのは事実だ。でも実際に相対し、直に触れてみて思い知った。触れただけで肌の焼けるような相手に潜めるはずがない。本当はもう戦う理由がない。
 そしてもうひとつの欺瞞は、エディ自身の中の憎悪だった。人の手によって森に逃がされたハーフ・ギア。その存在を知ったときから、植えつけられた人工の攻撃性とは違う苛立ちをおぼえていた。なのにいざ遅いかかれば、笑いかけてきたディズィーに戸惑って攻撃の手を止めている。
 俺はいったい何を望んでいるのだ?
「……俺ハオマエト同ジ運命カラ逃ゲテイル」
 相手から嘲笑の気配が消えたことに彼女は気づく。
「忌マワシイ運命ヲ克服シ、生キ延ビナケレバ、逃ゲオオセタコトニハナラヌ。戦ッテ勝テ。死ヲ覆セ。オマエノ自由ヲ証明シテ見セロ……!」
「それは、どちらかが倒れなければ果たせない願いですか?」
 ディズィーが初めて強い声を出す。
「あなたと私が、共に生き続けることで、覆せる運命ではありませんか?」
「……共ニダト?」
 ぞわりと全身に濃厚な悪意が吹きつける。ディズィーは本能的に身を強張らせ、己を刺し貫いてくる緋色の視線に呼吸を詰める。
 生まれた村を追われた。命など何度も狙われてきた。それでもここまで生々しい、身の竦むような負の波動をつきつけられたことはなかった。
「貴様ノ生命ハ俺ノ生命ト同ジカ? 人ノ生命ト同ジカ? 居ルダケデ周囲ニ死ノ嵐ヲ引キ起コス者ガ、共ニ生キルナドト寝言ヲ抜カスナ」
「……力持つ者には、生の苦しみなど無いとお思いですか……」
「何ダト?」
「……痛みなど無いとお思いですか?!」
 相手の憎悪に気圧されながら、ディズィーは必死で口を開く。彼女はかつて太陽の名を冠する原始のギアに出会い、その苦悩を汲んでいた。
「生物として正当に死ねないことは苦痛ではありませんか? 自分だけ時が止まったまま、独りで生き続けるのは、苦痛ではありませんか?!」
「驕レル者ガ賢シラニ命ヲ語ルナ!!」
 牙を剥いて獣が吠える。怒号に大気がびりびりと震え、ディズィーは小さな悲鳴を漏らす。
「俺ハ!!」
 一種一体の化け物。互いに己以外を知らぬ生物。それなのに。
「俺ハ、正当ニ生キ続ケルコトモ出来ヌ!!」

 兵器のくせにおまえはなぜ微笑むことができる。
 苦痛からなる笑顔すらも俺は持つことを許されぬ。

 衝動のままに襲いかかる。
 焼けつくような羨望に眼も眩みながら、白い喉に牙を突き立てる寸前、彼女を守護する死の翼ネクロが発動し、黒い獣は叩き落されて地に伏した。



 ある女と対峙したときのことをぼんやりと思い起こす。
 対面したとたん、身体中が一斉にざわついた。抉られるような欲求、逆流する激情、名状しがたい何かが、支配し掌握しきったはずの肉体を勝手に打ち震わせた。
 女もまた、瞳に鮮烈な光をこめて自分を見据えた。
 彼らのあいだに交錯したものが何なのかは知らない。ただ強かった。とても強かった。美醜も功罪も、是非も好悪も、人ならざる身にはよく解らない。ただ、とても、強かった。

 いずれの感情も自分のものではなく――また自分へのものでもなかった。



 ゆるやかに意識が開く。
 曖昧な世界で、まず、自分の顔の上にある白い指先を確認する。きれいな指だ。すぐ近くにある。俺に触れる気なのか。
 それは一体、どういう心地がするのだろうか。
「気がついたんですね」
 躊躇いがちにかけられた声に、急速に自分の状態を把握する。
「私、止めようと思って……ごめんなさい、やりすぎました」
 みなまで言わせず、弾かれたように身を起こす。付き添っていた女をはねのけ、黒い流体は尾を引いて後方に飛びずさる。
 低く唸りながら即座に身体機能のチェックを開始する。出力、可動域、反応速度。問題ない、まだ動く。まだ戦える!
 ディズィーはしばらく瞬きをしていたが、そっと立ち上がった。禁獣に向かって歩み寄る。背には黒白の翼を宿らせたままだ。真紅の双眸に相手の姿を映しながら、エディは被虐的な高揚感に身を火照らせ、顎にゆっくりと牙を形作った。
 それでいい。こちらへ来い。
 俺を見ろ。俺を向け。永久を誇るおまえの時間、その一欠けを俺に使え――
「もう一度、言わせて下さい」
 声に滲む喜びと静かな笑顔が、彼の張りつめた意識につつましく滑り込む。
「私は本当にあなたの敵ではありません。……今、解ったんです」
「何ヲ抜カス?」
 見てください、と言ってディズィーは慈しむように、指先で首の爛れた傷をやさしく撫でる。
「治っていないでしょう、これ?」
「ソレガドウシタ」
「私は……傷ならばすぐに治るんです」
 ハーフ・ギアは寂しげな苦笑を浮かべる。養父母が初めてこの異能を見たときの表情を、彼女ははっきり憶えていた。
「私は人ではないので……これくらいの傷は、本当なら数分で治ってしまいます。私の防御本能は、私を脅かすと判断したものをたちまち無かったことにしてしまう。でもこれは、いつまでも治らない」
 上げられた顔には確信と歓喜があった。
「治らないということは、傷ではないということです。私の身体が、あなたの身体を同類だと認めたのです」
「……戯言ヲ」
 空回りした殺意をむりやり駆り立ててエディが毒づく。
「傷デハナイナラ、ソノ痕ハ何ダト言ウノダ。痛ミダッテアルダロウ? 敵ダカラコソ、触レタダケデ肌ガ焼ケルノデハナイノカ?」
「痛みは痛みでも、これは恐らく中和の痛みです」
 女の口調は凛として変わらない。
「禁獣はギア技術から派生したものだと聞いています。私たちは本来、同じものだった。なのに人間の都合で、無理やり敵同士となるように、おかしな形に曲げられてプログラムされている。曲げられた部分を元に戻そうとするはたらきが中和です。私とあなたの身体は、溝を埋めようとするあまり……お互いに同化を試みて、痛みを伴うほど求めあっているんだと思います……」
 視線だけはじっと相手に据えたまま、エディは自らの身を顧みる。
 確かにこの傷は、まだ塞がっていないのに相手に触れていないときは痛まない。そして不快ではない程度の、自発的な脈動のようなものがある。人間であれば、それが傷が治るときの痒みに似ていると気づけただろう。
 ディズィーが小さく、一歩を踏み出す。
 獣がびくりと後ずさる。
 彼女はそれに気付き、森の動物にするのと同じように、そっと膝をついて目線を下げた。
「私は、あまりに考え無しでした。自分だけが辛いような顔をしていました」
「同情カ?」
「礼を失したお侘びです」
 淀みなく答える。居心地の悪さをおぼえてエディは忌々しげに顔を顰める。
「赦していただけませんか?」
「……俺ハ、」
 返事だけを鋭く投げて言葉に詰まる。彼は迷うことは嫌いだった。
 迷わないための方法も知っていた。欲するままを成せばいい。快か不快かのみで世を計ればいい。しかし、恐るべき禁獣はいま、自分が何を欲しているのかどうしても解らなかった。
 やわらかい動作でディズィーが手を差し伸べる。
 緋色の瞳がせわしなく、その手と顔を交互に見比べる。忌避される怪物に似つかわしくない態度が、まるで臆病な少年のようで、ディズィーは見ていて哀しくなった。
 白い手と黒い爪が、ほんの少しためらい、触れる。
 電流のように走る同じ痛みに、女と獣が同時に息を詰めて耐える。
 ――初めまして、懐かしい方。
 声には出さない相手の想いを、エディは自分の内側から聴いた。
 互いを求めあう傷口からは、あえかな疼きと共に、相手の情報もかすかに流れ込んでくる。眼を閉じてじっと味わう。不安定でとらえどころのない、不思議な奔流に身を任せ――そして不意に思い至る。
 ここに溶ければ、自分は生きられる。
 無限の容量を持つハーフ・ギア。人の精神と同じように掌握し、意を通すことはできない。だが同化することはできる。もとより存在が似すぎているもの同士だ。
 わざわざ喰い荒らして、居場所を作る必要すらない――

「オマエハ」
 震えた声に、ディズィーが顔を上げる。
「オマエハ、」
 その後がどうしても続かない。思考が凝固してしまうのを必死で振り払う。
 この世には怖るに足るものなどないと信じていた。いずれ当ての無い生ならば、何者にも臆するものかと思っていた。しかし彼はいま、訪れたささやかな希望に怯えていた。
 ――おまえは俺を受け入れるか?
 ついに言葉に乗せることはできず、問いかけは一片の情報として浮かびあがり、禁獣の内部を彷徨う。だがその情報は彼女へと開かれている。慌てて押し殺そうとしたがもう遅い。
 読まれた。

 突然、音のない世界に取り込まれたような気分になる。
 意味もなく暴れ出し、眼に映るすべてを破壊してしまいたくなる。何もかも灰にしてやりたい衝動をこらえて頭を垂れて待つ。
 答はない。
 エディは口の端を吊り上げて笑った。そうすることで自分を守ったと自分では気づかずに。ではもう、やはり最初から、この牙にしか術はない。勢いよく面を上げ、そして禁獣は発見した。
 彼女の表情とそこにたゆたう感情が無垢のままそこにあることを。
 まぎれもなく自分を待っていることを。

「…………」
 流れ込む熱い痛みが、強さを増す。
 質問への了承や肯定という段階ではなかった。それを飛び越え、それより強かった。
 だって、あなたとわたしは、おなじものでしょう?
「…………ソウカ」
 呟いた自分の声は他人事のように素っ気ない。
 だがそれは乾いたものではなかった。あまりにも透明な、漂白された、もう何も望まないような声だった。
 突然、居たたまれなくなる。焦りとも忌避とも違う、だが明らかな衝動が背中を押す。
「……ナラバ」
 奇妙な沈黙のあと、エディは手を振り払った。
 蝙蝠を思わせる長い翼が、ばん、と乾いた音を立てて広がる。強い旋風が頬を打ち、驚いたディズィーが声をかけようとした瞬間には、その姿は見上げる虚空に踊っていた。
「ナラバ、行ク」
 その言葉と黒い残像だけを残し、双翼が風を切る。
 エディは二度と下を見なかった。遠ざかる地上から、女が何かを叫んだような気がしても、決して振り返らなかった。
 追い風を捉え、何度も羽ばたいて加速する。悪魔が住まうとされる森はたちまち遠ざかり、もう誰も彼に届かない。
 高速の飛翔の中で、緩慢に思考する。言葉が足りなかっただろうか?
 もう少し、納得させてやればよかっただろうか?
 俺は俺として在ることに意味がある。おまえに溶けてしまっても意味がない。
 そう伝えてやればよかっただろうか?
 否。

 ここに居ろと言われた。自分の場所を手に入れた。
 なればこそ、戦って死ね。
 翼が千切れんばかりの激しさで無闇な羽ばたきを重ね、更に加速して飛ぶ。耳にはびょうびょうと風の唸る音しか聞こえない。それでも速く。もっと速く。迅く!
 疾風の中で獣は笑った。血に飢えて笑った。ここに居ろと求められたから、それを拒んで誇りある孤高になれた。誰かを拒んで初めて孤高だ。誰かを拒んだわけではないならただの孤独だ。
 俺はなんという歪な生き物だ。でもそれでいい。
 あの女によって満ちて、あの女を欠いて孤高になれた。それでいい。


 狂ったような鬨の声は反響し、拡散し、やがて薄れてゆっくりと消えた。











(エディの台詞をカタカナにすると読みづらいため長い間わざと普通表記でしたが、2013年手直しの際カタカナに変更)
エディという先のない生物に、曖昧なままでいいから何かを提示したかった話。