若い主婦と言ったところだろうか。ただ疲れたような風情だけがある。
 サンダル履きに、汚れたエプロンもそのままだ。
 彼の前に女が立つときの常で、やや頬を染めながら、彼女は言った。
「……探してほしいものがあるんです」
「待った」
 華奢な白い手が、ひょいと挙がる。
「当ててみせましょうか」
 戸惑って眼を瞬かせる相手に構わず、寝惚けたような声はこう続ける。
「探し物は……猫じゃありませんか? それも巨きくて、黒い、片目の猫」
「……どうして解るんですか?」
 主婦が聞く。彼が読心術を持つというような話は、聞いたことがない。
「それはものすごく簡単な推理」
 うんざりしたように、少し芝居がかった口調で、せつらは言った。
「あなたと同じ依頼の人が、これでもう、27人目だから」


「流行ってるのかなあ?」
「不具の猫を飼うことがか?」
 連れ立って歩く影は、古い映画のように美しいモノクロームで進む。
 人の出歩かぬ夜の街の匂いが、そこだけ変わるようだった。
「人探しが専門だって言ってるのに」
「その辺は指摘したのかね」
「言ったけど、みんなこう言う」
 せつらは子供のように口をとがらせた。
「――『あなたが相応しいと思ったから。いや、あなたしか居ないから』。」
「成程」
 黒白の影は、立ち止まった。
 そこは、無人になって長いであろう、今にも崩れそうな古い教会だった。
 昔はささやかな挙式の客も集まっただろう。しかし今は、見る影も無くみすぼらしい。
「27人の依頼人に、共通する言い分をつなげるとこうなる。……その猫は、日毎に少しづつ、その片目を開く」
 せつらは、重そうな木製の扉に手を当てた。力はそう必要なく、押せば簡単に開く。
「……私の見守ってきたその猫は、しかし今は、どこかに隠れてしまって見あたらない。瞳が開ききってしまう前に、見つけ出して欲しい……」
 扉の向こうには、薄暗く、埃っぽい廊下が現れた。
 埃の上には真新しい足跡が、奥へ奥へと続いている。
「そのくせ、その猫をどこで拾ったとか、いつから飼っていたとか……そんな基本的な質問には、誰も答えられない」
「そこへ、当院に要請が来たというわけか」
 足跡を追いながら、メフィストが言った。
「大怪我をした猫を見つけた。動かせないから治療に来て欲しい、と。……本来なら動物の急患は扱わん。通報者にもそれを指摘したが、君の場合と同じ答えが返ってきた。君のために特例を通したことの褒美は、頂けるのかな?」
「今日び、病院も競争が激しい。恩着せがましい医者は嫌われるよ」
 ありえない例を出して、せつらは突っぱねた。
 廊下のつきあたりには、礼拝堂があった。通報者と猫はそこに居るらしい。
 観音開きの扉を開けはなつと、色とりどりの光の渦が二人を出迎えた。高い天井にはめ込まれた、小さな教会にしては見事なステンドグラスから洩れるものだ。
 同時に、座り込んでいた人影が弾かれたように立ち上がる。
「…………すいません」
 セーラー服を着たその人物が、沈黙ののちに発した最初の言葉は、謝罪だった。


「ドクター。来てくれて有難う。その方を一緒に連れてきてもらえることは、解っていました」
 ことさら現代風なわけでも、目立つほど野暮なわけでもない。
 どこにでもいそうな、とにかく地味という印象の少女は、淡々とそう話す。
「だけどごめんなさい。私は嘘をつきました。……本当は、私もまだ、あの子を見つけてない」
 眉根を寄せて、哀しそうに言う。
 純粋無垢の、ただ寂しいという想い。それ以外の感情は欠片も存在しない声。
「あの子がいない。……どうすればいいか、解らない……」
「あのう」
 間延びしたせつらの問いかけは、彼女の耳に届かないようだった。
「みんな寂しい。みんな切ない。だから、あなたたちに助けを求めた」
 言いながら、少女はなぜか床へとゆっくり身を屈めていき、その場に伏せる。
 朽ちかけた木の床が、ぎしり、と鳴る。
 傷を負った獣のように、その姿勢は見える。
「……あなたたちが、」
 窓の外で、少し、風が唸る。

「あなたたちが、あの子の代わりに居てくれたら、なんて素敵でしょう」

 跳躍する影は、もはや人の動きではない。

 不可視の糸が、中空に少女を拘束する。
 と同時に、礼拝堂の中に、色彩の雨が降った。
 透きとおった花びらのような、とりどりの硝子片。

 縦横に張りめぐらせた糸で巧みにそれを弾きながら、せつらはとなりの人物を横目で睨む。
 天井のステンドグラスを破壊したのは、メフィストの針金細工だった。
「おまえ、どこを狙ってるわけ?」
 迫力のない責め口調を気にかけるふうもなく、彼は宙に固定された少女に答える。
「私は、あれの代わりには成れん。……我々は何の代わりにも成れぬ」
「……何の話?」
 せつらの言葉を無視して、白い医師は続ける。
「それに、間に合ったようだぞ。見ろ。――――かの者は帰還した」
 拘束されたまま、少女は、天を仰いだ。
 あどけなく笑ったようだが、せつらにはよく解らない。
 彼女はすぐに気を失い、その首はかくりと項垂れた。


「……『日毎に少しづつ、その片目を開く』……」
 罰当たりにも、祭壇に腰掛けたせつらが、どこか呆れた口調で言う。
「……『隠れてしまって見あたらない』、か。そりゃこのところ、曇り続きだったけどさ」
「お門違いと言いたいのだろうが、それは私とて同じ事だ」
 拗ねたような相手の態度を愛しげに眺めながら、メフィストが言う。
「説明ならば出来んことも無い。かの存在を恋う協調抑圧が、時間を掛けて膨れあがり、この都市らしい形に形成された……だが、そのような理屈付けで満足かね? むしろ、古人の言葉を借りたほうが相応しいやも知れぬ」
 言葉を続けようとして、医師は口を閉じた。
 黒衣の人物が、自分の思い描いた言葉を、的確に言い当てたからだ。
「……『どんな地上のものもそれはただ――たとえである』。」

 せつらは、崩れた天井から空を見上げた
 やれやれといった口調で、それに呼びかける。
「にゃあ」

 巨きな、黒い、片目の猫。
 闇の肢体をなびかせて、ただその片目だけが、星と共に天を渡る。

 すなわち夜と月。
 久しぶりに晴れた夜空に、凛として映える美しい月を、区民たちは諸手を挙げて出迎えた。



Fin.










古人の言葉はエッダから。できればもっと『病的な幻想文学』風にしてみたかった。

2003/12/23