「さて」
 薄い唇がゆるやかに口角を上げる。
 それは礼儀正しく、慎ましやかに、だが滴るような毒気に満ちている。
「他に何か、おっしゃることは?」
 問いかけが戯れであることは、全ての者が理解した。
 見えない眼で彼が見据える相手には、首から下が無かった。

 些細なきっかけから起きた組織分裂も、便乗して激化した派閥抗争も、まだ若い下部構成員のミリアにはどうでもよかった。
 彼女が興味があったのは、頭領の首をすげ替える交代劇だけだ。もっとも始まる前から勝利者の名前は解っていた。ただの一夜で決着を見るとはさすがに思わなかったが。
『いかな結果を出そうとも、このさき論議とせず、遺恨を残さない』
 勿体ぶった前提はすなわち、演習の体裁を繕っていても事実上の果し合いであることを意味する。一介の教官が頭領に挑むにはこれくらいの演出が必要だ。死に急ぐ目立ちたがり、あるいは無謀な功名欲に憑かれた愚か者はどこにでもいる。完全に余興を愉しむ態度で頭領は演習の申し出を受理した。
 相対した両者のうち、余裕を通りこして呆れた笑いを、先に表情から消したのは頭領だ。
 斯くして彼の胴体は消し飛び、残った首は髪を掴まれて衆人のもとに晒された。

 見物人から歓声が湧きあがる。
 賞賛と、快哉を叫ぶ声がする。今日のためにザトーが子飼いにしてきた部下たちだ。彼らは観衆に向きなおり熱をもって語る。今こそ革新のときであると。
 演壇に立ったザトーはまず最初に、裏で働いてくれた彼らのこれまでの労をねぎらった。本心からの言葉ではあったが、同時にそういう行動がどんな効果をもたらすかもよく知っていた。
 やがて拍手と喝采が、若い構成員たちを中心に巻き起こりはじめる。ただひとりの少女を除いて。

 昇りつめるための階段は用意された。
 そして用意された以上、昇らないでいることは許されない。
 建物を揺るがす喝采を背中に聞きながら、ミリアはそっとホールを抜け出した。暗い廊下を歩きながら軽く額を押さえた。哀しいのか、怒りたいのか、自分でも判断がつかなかった。

 こうなることは解っていた。だからあらかじめあの少年を連れ出しておいたのだ。
 小一時間ほど前、半ば強引に腕をひき、園芸道具を入れておく庭の物置に連れこんだ。狭さと暗さにむずかるのをなだめ、自分が迎えに来るまで息を潜めているよう言いつけた。
 少年は幼かった。もちろん状況を理解できていない。無垢なまま運命に翻弄される幼子を、ミリアは見過ごしておけなかった。それは実はこの少年のためではなかったが。
 庭に出て、人が居ないのを確認し、こつこつと物置の扉を叩く。
 今まで眠りこんでいたらしい寝ぼけた返事を聞いて、ミリアは安堵した。このまま朝が来るのを待って街まで連れていこう。警察の前に置いておけば保護される。
 身なりのいい子だから、彼らも注意を留めるはずだ。素性が判明しなくとも孤児として施設に入れてもらえれば十分だ。まずは顔を見せて、少し安心させてやらなければ。
 せわしなく考えながら、ミリアは扉を開けようとした。

 彼女の腕が掴まれて、素早く後方に引きずり寄せられるのと、
 木造の小さな物置が紙細工のようにぐしゃりと潰されるのは、ほとんど同時だった。

 漆黒で不定形の、何か大きな質量が、自分が押し潰した物体の上でぐるりと蜷局を巻く。
 ミリアは呆然として、木材の下からたらたら流れ出す鮮赤の液体を見守る。
 さっき、自分が連れこんだ。いま、返事をした。
「……歴史の必然だ」
 聞きなれた男の声を、すぐ後ろにミリアは聞いた。
「連なる者は倒しておかねばならない。それを担ぎ上げる者が現れる前に」
「……子供だった」
 喉の奥が震えて、うまく発音できない。ミリアは必死に言葉を継いだ。
「何も、解ってなかった」
「だが血を受けていた。先代頭領の」
 音もなく背後に忍び寄っていた、新しい頭領となったばかりの彼女の教官は断言した。
「彼が成長すれば、父殺しの男のことをどう考える? その点も問題だ」
 少し間をおいて、硬い声で続ける。
「……まさかおまえが、こんな同情心を起こすとは、思わなかった」
 違う。ミリアは絶叫した。違う!!
 この子を助けたかったわけではない。ザトーに殺しをさせたくなかっただけだ。
 せめてこの子供だけは、殺してほしくなかったのだ。

 依頼ならまだ、決闘ならまだ、卑屈な正当化ができた。
 逃れえぬ過ちに変わりはなくとも――だがこれは他人の殺意の肩代わりだと、平行線に終局をもたらすためだとまだ言えた。
 だが、この殺しは完全に彼の都合だ。欺瞞に満ちた言いわけすら存在しない、自分の利益のためだけの行動だ。そんな理由で幼子を殺せる男なのだ。
 では、なぜ彼は自分を助けた? そんな男がなぜ孤児などを助けた?
 ……理由は限定されてしまう。やはり利己のためだ。
 そこには情動もなければ感傷もない。冷たい計算が横たわるだけだ。死を撒く組織の歯車として、せいぜい無責任に愛玩する人形として、使い道があると判断したからだ。それだけのものになる。なってしまう。私にはもうあなたが解らないから。あなたの瞳は閉ざされてしまったから。あなたの内側に触れる方法がもうないから。他の現実で判断するしかないから。

 ミリアは叫んだつもりだったが、声になっていなかった。堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 ザトーの表情が躊躇いに歪む。だが彼としても問い詰めずにおれない。
「……これは私への背信行為だ。それが解らない齢ではないだろう。現に、先代に拘る対立者たちへの粛清はもう始まっている」
 反応はない。ザトーは続けた。
「もし、これが他の誰かだったら……迷いもなく処分していたところだ」
 ミリアは黙ったままだ。顔を上げもしない。
 少し苛立って、彼は突然、薄い肩をつかんで乱暴に抱きよせた。見逃すことを感謝してほしいわけではないが、そのことに何の意味があるのか解ってほしかった。
 ミリアは身をよじって抗ったが、ザトーは離さなかった。
「…………あの人は、どこ」
 腕の中でもがいていた少女が、急に大人しくなって発した曖昧な問いかけを、彼は一瞬理解できなかった。
「どこへ行ったの……」
 張らぬ声で要領を得ない問いを繰り返す。ぼんやりと浮わついた頼りない声だ。幼児退行を起こしているような印象を覚えた。
「私を拾って、助けてくれた……あの人は、どこ……」
 語尾は嗚咽にかき消され、ほとんど声になっていなかった。
 ザトーはやっと質問の意味を理解した。だが同時に、いったい何をこの時に、という疑問も抱かざるを得ない。この娘は急に何を口走っている? 何を求めて泣いている? ――何を求めて過去を呼ぶ?
「……何を言っている。混乱しているようだな、ひとまず落ち着け……」
 様々な出来事が起きて感情が昂ぶっているのだ、冷静にさせてやらなければ。そう思いながらも、彼女の言葉に引きずられてザトーの脳裏にある風景が蘇る。
 未だ鮮明な記憶が、ひくりと男の口元に痙攣を走らせる。かつて苦く舐めさせられた苛立ちが、胸中を黒く染めあげてゆく。

 先代頭領の前に、じっと項垂れて膝をつく男。
 恭順のみを求められて諾々と従うあの男。
 あれは誰だ? 誰でもない。そんな男はもういない。
 我知らず、こう答えていた。
「…………かつておまえを拾ったのは弱い男だ。何一つ意を通せぬ非力な男だ……」

  おまえが拾った娘。あれは暗殺者には向かない。
  見目はいいから、もっと有効な利用法がある。
  こちらへ寄こせ。仕込んでおく。

 ザトーは顔を顰める。おぞましさに吐き気がする。
 一瞬でも、その命令に従うべきかどうか迷ったあの男を否定しなければならない。
 忌まわしい結果を招きかねない、脆弱な立場に甘んじていた男を斃さなければならない。打ち消さなければならない。今宵今晩、生まれ変わった自分が。
「あの人は、どこ……」
 それでも問いかける、子供になった瞳。
 見透かされているような不安に動かされ、急き立てられてはっきりと答えた。
「私が殺した!」


 先代頭領の発言も許せなかった。
 だが、そんなことを言われて黙っていただけの自分が――彼は何よりも許せなかった。


 永遠にも思える沈黙。
 少女がそっと口を開く。
「……あなたが殺したのなら」
 それは静謐な声。
「……あなたが仇ね」
 それは無機質の響き。
「……仇なら、殺さなきゃ」
 それは乾ききった言葉。
「……殺さなきゃいけない……」

 見えぬ眼の代わりに異能を以って少女を探った男が、慄きに震えた。
 自分を見上げる瞳には、何も映っていなかった。


 どうしていいかもう解らない。
 何を求め、また求められているのかも、お互いに解らなくなっていた。
 ザトーは少女をかき抱く。瑞々しい匂い。衣服ごしの体温と柔らかな体躯が、望んでいたはずのそれらの感触が、むしろ絶望を誘う。
「私を……殺すのか」
 つまりおまえは拒んでいるのか。私のやり口を、現在の私を。禁じられた力で成り上がり、保身のために幼子を殺した男を。偽物の実力を振りかざす残忍な卑怯者を。
 負の思考が先走り、抱いていた思慕は黒い炎に焦げつく。何故こうなったのか解らないまま、感情の手綱が取れずに言葉だけが迷走する。
「あれは先代頭領の子だ……だから先に裏切ったのは、お前だ……!」
 ミリアは小さく喘いだ。背や胴をしっかりと拘束する逞しい腕。
 自分より高い位置にある肩から、金髪が流れおちて頬に触れている。ずっとそばにいたひと、誰よりも近しい男のひと。抱きしめられて動悸が弾み、相手の熱を受けた肌が震える。
「……私は、人を殺したくないの……」
 だが身体と反して、意識は凍てつく低温に凍りついている。あなたはザトー、ザトー、ザトー、でももうザトーじゃない。私のあのひとはどこにもいない。もう二度と私を見てくれない。
「だからあなたが本当に……人じゃなくなったら……殺すわ……」

 噛みつくようにザトーは口付けた。
 ミリアは抵抗しなかった。
 痛いほどきつく抱きすくめられて、何度も唇を重ねられた。
 同じ匂い、同じ顔、同じ声。
 私を貪る貴方。
 充足の熱に浮かされながら、しかしミリアは固く瞳を閉じた。


 地上に落ちる影はひとつに溶け合っていたが、彼らは独りだった。



 Fin.










幼年期のおわりと確執のはじまり。

2003/05/20