見過ごしておいても良かった。
 路地裏の下卑たささやき。くぐもった笑い声。
 腕をとられた少女。

 辺境の町に設けられた猥雑なネオンの繁華街。建物の隙間をすり抜けて塵と芥が吹き溜まる、少しだけ開けた空間。
 野良猫しか通らないその場所のできごとに気づいたのは、常から衆目を避けて動いている彼だけだった。
 よくある些事だ。情動に動かされたわけではない。社会の腐敗をいちいち正したがるほど己に酔ってもいない。ただ、一度気になるといつまでも気になる性分なのだ。
 あとは強いていえば、男たちの粘っこい声が少し耳に障ったこともある。

 立ちはだかるぶしつけな闖入者、線の細い金髪の青年を、男たちはせせら笑いとナイフで出迎えた。
 だが下部構成員とはいえ、彼は『組織』の一員だ。田舎町のごろつき程度に苦戦するような者がそこに属するのを許されるはずはない。
 無感動な作業はものの数分で終了した。断末魔すら上げずに伏した相手から、手際よくジャケットを引き剥がし、汚れた手を拭いつつ男は振り返る。心優しいとはいえない光景が目の前で開始されたときから、少女はぼうと立ちつくしたままだ。
 齢は8歳くらいだろうか。肉付きの薄い肩、たよりない淡さの金髪。瞳は自分と同じ碧眼だがずっと透明感が高い。頬に返り血を浴びているのに微動だにしない姿勢には、ある意味感心する。
 引き裂かれた襟元からのぞく、白い胸を見ないようにしながら声を投げた。
「こんなところで何をしている」
 本当は聞くまでもなかった。裸足の足と汚れた服。
 いまや世界中どこにでも溢れかえっている、幸福ではない子供のひとり。
「親はどうした」
 ふるふると首を振る。
「……焼けたか」
 しばらく沈黙して、こくりと頷く。彼には心当たりがあった。この町は1週間ほど前、大規模なギア掃討戦に巻き込まれて5分の3が壊滅したのだ。自分がここを訪れたのも、地方支部の依頼を受けて被害状況の把握をするために他ならない。
 命があるだけ儲けものだ――感謝しろ――せいぜい生きろよ。
 頭の中でかけるべき言葉を選んだが、どれもそぐわない気がした。
 仕方なく、黙って背を向ける。何事もなかったかのように元の大通りに向かう。置き去りにした少女が動く様子はない。だがすぐ、ぺたぺたとおぼつかない足音がした。
 こちらとは反対方向の、路地裏のさらに奥へと向かう音だ。行くあてはあるのか。あるべくもない。ふと自分の足元を見おろす。
 広大な永久凍土を持つこの国の、10月の石畳の温度とはどんなものだろう。
 ザトーは溜息をついた。
 踵を返し、小さな背中に足早に近づく。振り向いて眼を見開く少女に、頭から乱暴に自分の上着を覆いかける。
 大きすぎる上着からもぞもぞと頭を出すのを待って、あらぬ方向を見たままこう言った。
「来るか」
 どこまでも、気にしはじめると気になる性分なのだ。


 この町へは仕事で来ただけで、人材を集めろとの命を受けているわけではない。
 だが居なくなっても後腐れのない使えそうな子供なら、組織は基本的にいつでも受け入れている。少女は痩せていたが心身に異常は無さそうだった。それで十分だ。
 それにしても――ザトーはまた立ち止まり、いらいらと振り向く。
 戦災後の混乱で、大通りは溢れる人出でごったがえしている。少女は遥か後方で、殺気立つ群衆をかきわけて這い出し、やっと自分のそばに駆け寄ってくるところだった。
 子供とはこんなに歩みの遅いものだったか。つい鋭い声が出る。
「もっと早く歩けないのか?」
 少女はうつむいたまま急いで頷いた。努力するという意味だろう。
 大通りは、蒸気と生臭さが渦を巻く下町の屋台街へと続いていた。ここでもまた不機嫌な人々がごちゃごちゃ揉みあっている。内心の苛つきを抑えながら、早く通り抜けたい一心で混雑の中にわけ入ろうとした寸前。
 少女が指をぎゅっと握りしめてきた。
 思わず手元を見下ろす。だが少女は何を意識するふうもない。追いつかぬ歩みについて行こうとするうちに、必死に、無意識に縋りついただけだ。
 弱々しいぬくもりを指に感じて歩きながら、男の表情はだんだん渋さを帯びはじめた。
 まだ小さい子だ。歩幅がまるで違う。視点も低いから、背の高い大人たちに紛れて歩くのは難儀だろう。そもそも孤児なのだ。健康そうではあるにせよ、万全な体力であるわけがない。
 そんな当然のことになぜ思い至らなかった。

 男は、握られている指を振りはらった。
 驚いて目を泳がせる少女の手を、ひっさらうようにして自分から掴む。
 人の密度の低いルートをさりげなく選ぶ。歩く速度を半分に落とす。自分より低い視点、体力を考慮しつつ、できるだけ相手に合わせて足を進める。
 遅々とした歩みにどうにか馴れたころ、ザトーはふと顔を上げて町を見渡した。昼間も一度、この大通りを抜けた。煤けた路地にひしめく生き疲れたような雑踏。被災の混沌とその奥に滲む絶望。荒んだつまらない町。
 だが、子供のリズムでじっくりと眺める町は――少なくとも諦めが悪いようには見えた。
 その視点を与えてくれた相手に抱く覚悟を、彼はまだ持っていなかったが。

 簡単な食事を採らせたあと、本部に帰るための飛空艇のチケットを2枚取った。一番安い便の一番安い席だ。
 広くもない艇内には、疎開民、労働者、そのほか身なりがよいとはいえない人々がひしめきあって座っている。どうにか席を確保して、少女を自分の隣に座らせた。
 ひとつ港を経由するたび、うんざりするほど乗客が増える。艇内がとうに満員を迎えても、まだ乗客はつめこまれる。座りきれない人々が通路を超えて機関部にも溢れ、運び出された家財道具があらゆる隙間を占拠する。
 隣の老婆が抱える荷物が自分のほうに大きくせり出してきて、少女は居心地悪そうに身をすくめた。そうかと思えば正面に座る男の靴がぐいと足元まで突き出され、慌てて膝を縮める。仕方がないといえば仕方がない。小さな子供がひとつの席を確保しているのだから、少しくらいはみ出しても構わないという気にはなる。
 しかし、奥の客が降りてゆくとき、小さな足をしたたか踏みつけたのを見てザトーはついに我慢できなくなった。
 突然ものも言わず、少女の身体を抱えあげて自分の膝の上に載せる。少女も驚いて、ずり落ちないように男の首にしがみつく。
 ひとつ空いた座席は、たちまち通路の人々の荷物で埋まった。

 安い客室は天井や窓の軋みがうるさく、だれもものを言わない。
 漂うものはその音と、過密な人いきれと埃っぽい鉄の匂いだけだ。雑多な器物と人々の鬱屈を満載した三等席の固いシートに、男はじっと少女を抱きかかえて納まっていた。
 たとえ混んでいても、高度を取った飛空艇の中……まして壁の薄い窓際となると相応に冷えこむ。季節は秋、暖房設備など据えられていない席でもある。だが彼はそれに反して暖かかった。子供の体温は大人よりも高い。知識の上では知っていた事実だが。
 汚れた窓硝子に視線をやる。流れる低い雲の下、今日訪れた町はとうに見えない。
 肩に少女の頭を乗せたまま、窓枠にもたれてぼんやりと思考に耽る。
 もし自分が拾わなかったら、この子はどうなっていただろう。

 灰紫色にけぶる崩壊の町。途方にくれて立ちつくす白い足。
 身を裂く寒風の中をこの子は歩いただろう。
 猛火によって屋根の落ちた建物。ぱらぱらと落ちる瓦礫。
 尖った壁のかけらの上を裸足で歩いただろう。
 やがて訪れる凍てついた夜。無慈悲の零度を誇る闇。
 塗りこめたような黒の中をそれでも歩いただろう。
 歩いただろう。歩かねばならない。
 それら全てから逃れるためには、歩き続けなければならない。
 闇の中を歩き続けることでしか、闇の中から抜け出す方法はない。歩かねばならない。歩かねばならない――
 だけど、いつまで?



 いつまで? STILL IN THE DARK





 はっと顔を上げる。
 いつのまにか眠りこんでいた。微睡む脳の産み出した情景に捉われて、自分こそが幻の夜を歩き続けていた。
 腕の中に視線を落とす。ささやかな重さを確認するまでもない。金色の頭をひたと厚い胸に寄せて、幼い命は確かにそこに居た。
 彼が目覚めた気配に気づき、少女は身じろぎして顔を上げる。男は自分の膝からずり落ちかけていた細い両足を抱えなおし、背中にもしっかり腕を回す。
 さらに近しく感じられる、はかない体温と鼓動。
 得体の知れないせつなさに襲われて、胸がちりちりと焼けた。


 胸の奥で、警鐘が鳴る。
 この子は自分をどうかさせる。
 今まで築き上げた、ひた走ることでやっと勝ち得ていた、そのために生きた何かを脆くする。


 それでも彼は――
 少女がここに在ることを、何者かに感謝した。



Fin.










もし季節が夏で、石畳が冷たくなかったら、それだけのことでこの邂逅はなかったかもしれない。

2003/05/20