「おまえの生まれはロシアだったな」 「それがどうしたの」 「山間の町だったと記憶しているが」 「だからそれがどうしたの」 「海を見たことはあるか」 「ないわ」 答えてから、しまったと思った。 つらつらとした会話のテンポに乗せられてしまった。 「決まりだな」 この男がこういう声を出したときは、何を言っても無駄だ。 「私の夏の休暇に付き合え。……海に行くぞ」 そうやって人を従えておいて、この態度はどうだろう。 ミリアは頬杖をついたまま、横目でとなりに座るザトーを見る。旅行を計画した張本人は、飛空艇に備え付けのデスクで3枚目の書類の作成に取りかかるところだった。 「リゾート、じゃなかったの」 ザトーは少しだけ顔を上げて答えた。 「そうだが?」 「どうして仕事をしてるの。忙しいなら、休暇なんて取らなきゃよかったのに」 「忙しいわけではない」 さらさらとペンを動かす動作には、確かに急いているような風は見られない。 「ただ、時間は有効に使いたい。それだけだ」 「…………」 別にいいけど、と彼女は心中で呟く。リゾートの意味から教えこんでやりたい気もするが、放っておかれたほうが気は楽だ。 しかし、そこでふと思い至る。この飛空艇で目的地まで2時間弱。もし彼が仕事を持ち込まなかったら、どうなっていた? 何をするでもなく、ただ顔を付き合わせる羽目になっただろう。それはきっと息が詰まる。お互いのぎこちなさに耐え切れず落ち着かない。 ならば、と続けて考えた。なぜいつもは平気なのだろう? 私室に呼ばれた夜などは、当然だがいつも二人きりだ。腕の中で重苦しい思索にとらわれこそすれ、気まずさを感じた覚えは一度もない。 厭になって、ミリアは眼を閉じた。 平凡な雰囲気の中では居たたまれず、でもベッドの中では平気というのは、あまりに不健康な関係ではないか。 だがその不健康さを、今まで自然なことのように受け止めていた自分がさらに厭だった。 ――彼は、その気まずさを避けるために、わざわざ仕事を持ち込んだのだろうか。 ――それは、勘ぐりすぎというものか。 「寝たのか?」 じっと眼を閉じてシートに背を預けていると、それでも声をかけられた。 「起きてるわ」 「なら、外を見てみろ」 言われるままにミリアは身を起こし、窓に額を当てる。そして何度も瞬きを繰りかえす。 地球が、無い。 ばかばかしい感覚だが、一瞬そう信じかけた。大きいということは知っていても。地表の70%はそれが占めるという予備知識があるとしても。 「船はいま、地中海の真上を通過中だ」 声も出ない様子の彼女に、ザトーはすました顔で説明した。 本や映像で見ていたそれは、もっと優しかった。 青く美しく、小ぢんまりとした可愛らしい姿で、ページやファインダーの中に行儀よく納まって見るものに愛想を振りまいていた。 地中海に行くと聞き、一応ミリアは地図で確認した。二つの大陸に囲まれた海は、いかにも窮屈そうにせせこましかった。それだけで解った気になって早々ページを閉じてしまったのだ。 それなのに。 「ご感想をお伺いしたいものだが」 砂浜に佇んだまま、動けない彼女にザトーが訊く。ミリアはあたふたと言葉を紡いだ。 「……これは……」 広すぎる。 ただ純粋に、大きすぎる。 地を滑る波音も、光を孕んだ色彩も、視界に入りきらぬ水平線も、何もかも無闇すぎる。ただひたすら大きいということがどれほどの意味を持つか、この場所に立たないと解らなかった。 実際に目にしないと解らなかった。 これは、人の身では適わぬものだと。 黙ったままの彼女を訝しみ、ザトーが肩に手を置く。 その感覚を振り払うように無理やり声を出した。 「とても」 「とても?」 「…………勝てそうに、ないわ」 年頃の少女が初めて海を見た、最初の感想がそれだ。ザトーは思わず苦笑した。 ミリア自身、口をついて出た自分の言葉に苦笑した。 時間をかけながら、ミリアは恐る恐る波打ち際へと近づいた。 「少し入ってみるといい」 「そんな事、していいの?」 「別に噛みついたりはしないぞ。そもそも、ここは我々の宿のプライベートビーチだ」 ザトーは手慣れた様子で、さっさと靴を脱いでしまう。 好奇心に負けてミリアも靴を脱ぐ。裸足で歩く砂浜は、さわさわとした不思議な感触がした。 「怖いか?」 爪先でつつくように波に触れようとする彼女に、ザトーが質問する。 「別に、そういうわけじゃ」 言いながら、自分でも説得力がないと思った。 瞬間、不意の大波が足元まで打ち寄せる。避けそこねたミリアは服の裾を派手に濡らしてしまい、思わず小さな悲鳴を上げた。海を知らなかった彼女は波の動きをまるで読めない。 くつくつと笑うザトーを睨みつける。彼はと言えば、靴と靴下こそ脱いでいたが、開き直ってスラックスの裾をすっかり波に浸けていた。 「それでも今日は凪いでいるほうだ。荒れているときの海を見せてやりたいな」 「そんなに差があるの?」 「干潮時ならともかく、満潮時でもう少し波が高かったら、とてもこんな波打ち際には立っていられない」 ミリアは感心して頷いた。そこでふと思い当たる。 「もしかしてあなたは、海のあるところの生まれ?」 「…………」 海風に乱れた髪を、ザトーは黙って撫でつける。 「……スペインは半島の国だ」 男の声には、ある感情の色が秘められていた。 幼いころに祖国を出たミリアには、その色彩に付く名前が解らなかったが。 「……地中海を見るのは、何年ぶりになるかな……」 夕方になってチェックインした宿は、かなり高級なものだった。 ミリアはこういう場所に来るのは初めてだった。施設以外の場所で寝泊りしたこともない。だが彼女は特に気後れせず、贅を尽くしたロビーや緋毛氈が敷かれた壮麗な廊下を、ザトーについて歩いた。 萎縮するでもはしゃぐでもなく、落ちついた自然な態度で、スウィートルームの調度品や天蓋つきベッドを見てまわる。 「見てまわるだけでも面白いものね」 さらりと感想を述べるその様子に、ザトーが面白そうに言葉をかけた。 「おまえは私などより、よほど帝王学が身についていると見えるな」 「どういう意味?」 「高級な場所に来て緊張するのは、そこに馴染もうと努力するからだ」 ウェルカムフルーツを手に取り、弄びながら言う。 「おまえはこの部屋を素直に賞賛し、なおかつ無理に慣れた態度を装ったりしない。だからこそ逆に、こういう場所に相応しい人間に見える」 「そんな大層なものじゃないわ」 からかうような相手の調子に、ミリアはふいと横を向いて窓際に立つ。 「私にしてみれば博物館の展示品と同じよ。面白ければ面白いと言うし、無理に馴染む理由もなければ無理に嫌う理由もない……」 ザトーが音もなく立ち上がり、自分のほうに近づいてくるのを、ミリアは窓に映る姿で確認した。 溜息をつき、うなだれて待つ。 「……良いものは良いと、認めるだけのことよ」 「……そうか」 背後から伸ばされた男の腕がカーテンを引く。夏の宵のおかげで、まだ明るさを保っていた室内が暗くなる。 暗くなると、視覚よりも聴覚が鋭敏になる。 抱き寄せられた腕の中でミリアは、それまで意識していなかった低い音を聴いた。一定のリズムを持ち、ごくかすかに耳の奥に忍び込んでくる。 「あれは」 首筋に口づける、冷たい唇を感じながら尋ねた。 「あれは、何の音」 男の手が少し止まり、彼女と同じ音を聴く。 「海鳴りだ」 「うみなり……って?」 その問いの答えは、聞くことはできなかった。 次の日は二人とも、一日じゅう部屋から出なかった。 ベッドからもほとんど降りなかった。身に纏ったものもシーツ一枚きりだった。陽が昇りきってから目覚め、そのあとも昨夜の乱れを残したベッドで、服も着ずにごろごろと過ごしたのだ。 ここに来て見せるザトーの自堕落さが、ミリアには少し意外だった。移動中の飛行機にまで仕事を持ちこむ人間の行動ではない。普段のザトーの生活はもっと規則正しく、背筋の伸びたものだ。生業の内容はともかく勤勉さだけは評価できると思っていた。 だが、彼のような人種にとってのリゾートがこれだと思うと、納得がいった。 午後になって雨が降り始めた。 霧雨といっていい細かさで、その向こうにけぶる海は美しい色を失っていない。 ザトーはベッドの上で、チェスの駒を盤面で遊ばせている。 ミリアは背中合わせにもたれかかり、果物を齧っている。 窓の外からかすかに、子供の遊ぶ声が聞こえた。 どこかの貴族の家庭が同じ宿に泊まっているのだろう。プライベートビーチは部屋ごとに仕切られているので、窓の下にその姿は見えない。 ただ甲高い声だけが、それだけを聞くなら海鳥の声のように、とぎれとぎれに伝わる。 ミリアがぽつりと口を開いた。 「……あなたが子供のころ……欲しかったものはなに?」 「……なんだ、突然」 「……なんとなくよ」 その口調は静かだったが、はぐらかすことを許さない不思議な毅然さがある。ザトーは困ったように髪を掻きあげた。 「なんだったかな」 戯れでしかないはずの質問に対し、生真面目な表情で答えを探す。 「覚えてはいないが……いま考えれば多分、くだらないものだ」 「そうなの?」 「それとも」 他人のことを話すような口調で、淡々と男は答える。 「くだらないものだと、思おうとしているだけなのかな」 「……子供のころ、ついた嘘は?」 「……子供のころ、壊したかったものは?」 「……子供のころ、後悔したことは?」 「……子供のころ、秘密にしていたことは?」 ミリアはとりとめもなく、ザトーを質問攻めにした。 答えられる質問もあったが、答えられない質問もあった。 やがて話し疲れて、折り重なってうとうとと眠った。 ふと目覚めて、大きな窓から遠くへ、ひとつの色に交わりつつある空と海とを眺めた。 ルームサービスが運んできたグレープフルーツのサラダとピタサンドが空になるころ、ミリアは立ち上がった。 椅子にかけっぱなしになっていたバスローブを羽織る。 「シャワーを浴びてくるわ」 「そうか」 「…………で、何をしてるの?」 ベッドから起き上がり、自分もバスローブを羽織るザトーに、ミリアは慎重に声をかけた。 「ご一緒しようと思ったのだが」 「……なに考えてるのよ……!」 「せっかくの広い浴室だ。1人で入るには空間が勿体ない」 男の口調は淀みなく、当然のことを語るような態度だ。それがなお腹立たしい。 「言っておくけど」 ローブの紐を結びおえていない相手より早く、半ば駆け足でバスルームに近づきながらミリアは言う。 「バスルームのドアには、鍵も付いてるわよ」 「……形あるものはいつか壊れる」 「ザトー?!」 「冗談だ」 笑いを堪える口調でそう言い、睨みつけるミリアにくるりと背を向けて、ザトーはひらひらと手を振る。 「早く入ってしまえ。雨も上がったようだから、交代でシャワーを済ませてまた海に出よう」 夜の海は、昼間とはだいぶ違う表情をしていた。 正直に言えば、恐ろしかった。 どこまでも黒く、波音は這うように低く、うねりながら律動を繰り返す。まるで不吉な生物が手招いているようだ。 その誘いを断ち切りたくて、ミリアは身をこわばらせて歩いた。 「疲れているのか?」 波の打ち寄せるぎりぎりのところを歩いていたザトーが、立ち止まって訊く。 「どうしてそう思うの?」 「歩みが重い。口数も少ない」 「一日じゅうごろごろして、何を疲れることがあるの」 「それもそうだな」 言い終えたあと、気づいて拒む間も与えず、ザトーはミリアの腕を掴んで自分のそばに引き寄せた。 吐息が触れるほどの距離で、囁くように問う。 「……疲れているのでなければ、どうした」 「……少し」 ミリアはうつむいて白状した。 この男は、他のことには無頓着なくせに、知られたくないことに関しては妙に勘がいい。 「少し、海が不気味なだけよ」 「そうか」 背中に腕が回される。反射的にミリアは肘を張ったが、その程度で揺らぐはずもない。 「……離して……」 抱きよせられると、海風に晒されて冷えた肌がぬくもりに緩んでいく。その感覚は好ましく、だからこそ耐え難い。 抗う術を持たなければいけないのに。否定しなければいけないのに。 夜の海などを恐れる私では、いけないのに。 「……休暇は、いつまでなの」 海上の闇をじっと見つめながら女が訊く。夜の空と夜の海は、昼間とは違う意味でひとつの色に塗りこめられてしまって境目が解らない。 すべてを覆ってしまう夜という色は、優しいのだろうか。傲慢なのだろうか。 「明後日までだ」 深い闇によく似合う、男の声が答える。 「明後日には、本部に帰る」 ミリアはザトーの腕の中で瞳を閉じた。明後日にはもう、私たちはここにいない。 明後日にはもう、私たちの前に海はない。 「だから明日も……海に来よう」 この一秒に閉じこめられ、鍵をかけられて、その中で何もかも朽ちていけばいいのに。 消せないその感情を意識から切り取って、彼女は自分でも見えない場所にしまいこんだ。 Fin. 私はこの二人がただ同じ空間に居るだけという状態がどうやらとてつもなく好きです。 2003/08/27 |