※エドリル連作を補完する掌編集
※本編中の時系列もあれば完結後の時系列もあり




「あたしと色男がちゃんと結婚式を挙げてないのは、もちろん合意の上での選択だけど、ひとつだけ後悔があるんだよね」
「……そうだね。婚礼衣装は女性にとって永遠の憧憬なのだろう。着せてあげられなかったことと、君の晴れ姿を見られなかったことが残念だ」
「えっ。いや違うよ! 逆!」
「逆?」
「あたしが見たかったの! フィガロ貴族って改まった場所では、伝統的な正式色として青を着るんでしょ? それぞれの家筋で決まった色があったりするんでしょ? んで王室の結婚式ってさ、フィガロ貴族を一堂に招くんでしょ?……視界に広がる一面の蒼 、青、藍、碧のグラデーション! きっと壮観だよ! その光景が見てみたかったの!」


「おまえ、心のどこかで、あの小娘がこのまま修道女みてえな人生送ってくれると思ってたんじゃねえ?」
「小娘にふられたことを表面的にも受け入れたのは、心のどこかで、リルムがこのあと誰も男を作らないとなんとなく思いこんでたからじゃねえ?」
「他でもない自分と結ばれなかったんだから、それを永遠に惜しんで、一生清い身のままでいてくれるんじゃないかと都合よく妄想してたんじゃねえ? ……その思考法がおまえを頑なにさせてた元凶じゃねえ?」

「笑えるぜ、どんだけ傲慢だよ。……まあ気持ち自体は責めねえさ。誰にでも心当たりのある感情だし、支配者向きの性格とはいえるわな」
「しかし現実は違う。本の貸し借りをする同い年の男くらい普通にいる」


 ひとつひとつ、忘れていけばいいだけのことだ。
 わたしを見つめるあなたの、凪いだ海のような色の瞳を。
 ときどき何かの汚れで真っ黒になっている、節くれた大きな手を。
 飛空艇の甲板で星を見上げて、勝手な星座を作りあって笑い転げた夜を。
 それぞれの徹夜明け、違う種類の油臭さをぷんぷんさせながら一緒に食べた朝食を。
 迷い犬の飼い主をさがして、2人で同じ街を走りまわった夏の日を。

 ……理解したくない。
 自分のやろうとしていることが、海の水を網ですくって干そうとすることと同義だなんて。


「シュンは養子でござる」
「拙者とミナが出会ったのはドマ国教の出家施設。彼女は尼僧としての勉強を始めたばかりであった。内気なミナは自ら進んでその門をくぐり、神仏との対話に安らぎを見出そうとしていた。しかし拙者と出逢ってしまった。正式な出家の前であったゆえ、そのま ま婚姻へと進むのは簡単でござったが……」
「ミナとの間にはついに子供ができなかった」
「原因はわからぬ。ドマはフィガロやベクタほど医療科学が発達しておらぬ。ただ、しがない勤め剣士ゆえどうしても後嗣が必要な立場ではなく、拙者たちはそれで納得していたが……いささか考えの古い親族たちが放っておいてくれぬ。拙者の親族はミナが原因と、ミナの親族は拙者が原因と主張する。どちらにせよ夫婦の義務を果たせぬのならば離縁しろ、それがドマへの貢献だと周囲は喧しい。要らぬ口出しを鎮まらせるよう奔走はしたが、拙者の親族はまだしもミナの親族にはあまりきついことも言えぬ」
「娘時代にあのまま出家していれば、ミナは周囲との軋轢に疲れることもなく、心安らかに過ごせた」
「ミナは拙者と結婚したがゆえに要らぬ苦労を負った」

「しかし、子宝に恵まれなかろうと拙者にはミナが必要であるし、避けられぬこの世の嵐を共にやり過ごすのはこの女性でなければと思った。ミナも同じ気持ちを語ってくれた」
「シュンは夫婦ふたりで家族に迎えようと決めた子供でござる。親族を黙らせる目的で受け入れたわけではござらん。というより事実、親族はそれでは引かなんだ。離縁せよと双方の親族から言われ続けた」
「でも拙者は、ミナとシュンと3人、幸せでござった」

「愛が人を救う、心の助けになる、というのは願望でござる」
「願望であって真実ではござらん。愛が人を救わず、癒さず、ただ傷つけあって終わることも往々にしてあろう」
「だがそれを知ってなお、誰かを求める覚悟にこそ、美しい名がつくのかもしれぬ」
「……そういえば黒い暗殺者どのとも、いつぞや似たような会話をしたものでござる。願望と真実は違うと……」


「今代のフィガロ王なんてものは、歴代の統治者のうちのひとりでしかない」
「でも絵師リルム・アローニィは唯一無二だ。政治なんてものは、ちょっと有能なら誰でもできるんだよ。しかしリルムの絵は、真実の意味でリルムにしか描けない」
「どさくさに紛れて自分のこと、有能だって言ったな」
「解ってるくせに。安定した国が正しく機能してないと人は落ち着いて暮らせない。心に余裕ができない。絵なんて誰も見てくれない」
「どっちも大事。どっちも大事だよ」


「アローニィ様が陛下に相応しかるべき理由はどうとでも拵えてみせます」
「貴女様のみならず、たとえ仮にお相手が元帝国将軍であろうとも、半ば人ならざる血族の女性であろうとも。陛下が真心を注がれる方であることが第一の条件です。家格や出自はもちろん軽視できぬ要素ですが、比較的容易に操作――失礼――解釈できるものです」
「何故か? 人を愛せぬ王が、国を愛せるはずがないからです」

「……あんたにはそういう、人間的な感傷っていうか、腹芸ってやつ? 通じないと思ってた。常に打算的で政治的っていうかさ」
「わたくしは常に政治的な話をしておりますよ。魂の健全あってこそ肉体の健全が意味を持つように、王の健全あってこそ国家の健全が得られます。陛下がよりよき王となるためには、心通わせる方の存在とそこから得られる精神的成長が必要であることは自明の理。極めて政治的な判断かと存じますが」
「……引き離そうとしてたくせに」
「アローニィ様を手に入れられなかったことで、陛下がよりよき王になる機会は失われるかもしれませんが、陛下は素のままでもよき王であらせられますから」

「……」
「……抜け目ないあんたたちのことだから、多分もう知られてると思うんだけど」
「……あたしの父親が犯罪者なことは……王妃候補として問題にならなかったの?」
「あまりにも反駁が容易ですね、アローニィ様」
「犯罪を犯したのは貴女ご自身なのですか?」

「砂漠に花は咲きません。ゆえにフィガロ貴族の淑女たちは、咲き誇る花たれとまず母親から教えられます」
「国力を誇示すべく……と申し上げるといささか不穏な響きともなりますが、陛下のご威厳とご権勢を裏付ける存在たれと、そのために優美に、典雅に、誇り高く装えと教えられます」
「だから人間らしい表情をあんまり浮かべないわけ? 初対面のときから思ってたけど感情の起伏がすごく薄いよね、あんた」
「それは単にわたくしの個の性質です。しかしアローニィ様、貴女様に無愛想な人間が敵だとは限らず、貴女様に微笑みかける人間が味方だとは限りません」
「でも人と会話するときの笑顔とか、気安い挨拶っていうのは、特に意味がなくても潤滑油として必要なものじゃない?」
「必要性は認識しております。わたくしの外見上アローニィ様へのそれが認められないのは、ですからわたくしの個の性質です。なにぶん緊張しておりますので」
「え?」
「初めてアローニィ様のお宅をご訪問させていただいた日から、心の底から尊敬する世紀の偉人を眼前にしている現在に至るまで、このうえなく緊張しておりますが?」
「……嘘でしょ?」


「……21歳のとき、対帝国政策にどうしても邪魔だった、院の敵対派を初めて蹴落とした。家名に泥を塗ってやったんだ。家は没落した。飢えぬ程度の財こそ保証したが二度と隆盛は望めない。既に老齢だった当主は寝込み、跡継ぎは自殺したと聞いた。何日も眠れなかった。自分の汚れように震えた。でも」
 小僧、と老人は言った。
 老いて死の床で、零落れてなお絹のガウンに身を包み、成金趣味な指輪すら着けている皺くちゃの老人は、国王のことを小僧、と呼んだ。
「小僧、儂は貴様が犬の糞よりも嫌いだ。くたばればいいと今このときも思っている。そうまでして勝ちたかったか、畜生め……」
 臨終が近いであろうこの老人に、エドガーは以前からある疑念を抱いていた。――帝国に加担して父の死を手引きしたのではないか、という疑念だ。
 確証はない。暗殺の実行犯と思われる下働きの少年は、王がいよいよ衰弱し自分に嫌疑がかかる直前に自害してしまった。彼を操っていたのが誰かは解っていない。黒幕は巧みに己の痕跡を消している。だがエドガーは政治的帰結として、黒幕はガストラ帝国、ひいてはその宰相であるケフカであろうと推測していた。
 そして暗殺の手引きをしたのは――先代王の生前から何かと政策にけちをつけ、意に沿わぬ案件は賄賂と根回しでこれを退け、黒い噂の絶えぬ保守的なこの老人ではないかと、エドガーは深く疑っていた。

「儂は貴様の父を殺しておらぬよ。何故か解るか? 貴様の父に難癖をつけることで儂は儲けていたからだ。せっかくの稼ぎ相手をなぜ自分で潰さなければならない?」

 若きフィガロ王は黙りこむ。その指摘は真実だった。

 枯れ木じみた老翁は、げっげっと蝦蟇を思わせる声で笑った。
「阿呆め。父の仇なぞ憎んでいる暇があったら、とっとと自分の敵でも作れ。父を殺したから憎いのではなく、自分の邪魔をしたから憎いと思える敵を作れ。尻の青い小僧っ子めが……」
 聞き苦しい笑い声にやがて淡が混じり、ごんごんと湿った咳になる。
 寝台のそばに立つ執事から水を受け取り、なんとか呼吸を整えた老人は、切り子細工のグラスを銀盆に戻しながらこう命じた。
「……妻にあれを持ってこさせろ」
 この男が年甲斐もなく後妻を迎えたことは聞いている。しかし、何を持ってこさせるのか知らないがなぜ使用人ではなく妻にやらせるのか? 素朴な疑問は後妻の顔を見た瞬間に解けた。忘れるはずもなかった。
 入室してきたのは、かつて自分が死刑にした少年の母親だった。
 ――王城から連れてきた護衛役に思わず目配せする。見舞いという名目で訪れているので丸腰だ。だがよく観察すれば女の手に、たとえば剣呑な得物らしきものはない。捧げ持っているのは何やらの布だけだ。滴るような憎しみでこちらを見ている。だがどうやら復讐に来たわけではないらしい。
 なるほど、反体制派を抱きこんでいたか。まずそう思った。
 この老人は、自分の王制に不満を抱く者をこうして抱きこみ、手駒として養っていたのだ。そう確信した。だが同時に、もうひとつの事実にも気づかざるを得なかった。女性は小綺麗な服を着ており血色がいい。表情にあるのは狼のような険しさだ。だがとにかく、その猛々しさを保てる健康状態にある。
 死刑囚の母として追われていたかもしれない女は、少なくとも何不自由なく生きていた。
 彼女は持ってきた布を寝台の隅にどさりと置くと、これ以上同じ空気を吸いたくないとばかりに早足で退出した。
 置かれたものを広げろと老人が手で合図する。エドガーは布を持ち上げた。厚手だが柔軟性もある良質の生地。裾にはうるさくない程度の房飾り。襟には留め具。美しい王家の色。
 それは仕立てられたばかりの蒼い長衣だった。
「儂が着るつもりだった。王家にのみ許された禁色を、貴様の前でこれみよがしに纏って、挑発してやるつもりだった。しかし儂は二度と起き上がれん。儂が着たあとは息子に譲るつもりだった。誉れ高き勝利者として儂の跡目を継ぐ予定だった息子にな。そのつもりで長持ちするように生地も縫製も丈夫に作らせてある。旅用の外套としても使えるくらいだ。――しかし息子は貴様に殺された。儂の息子も、妻の前夫との息子も、貴様に殺された」

「残っている若い者は貴様だけだ。だから貴様にやるしかないのだ。これを着てせめてその血みどろの正体を隠せ。小僧めが」

 ――この出来事は、長らく忘れていた。思い出したくなかった。
 自分はやはり憎まれている、敵が多い、と再確認した案件にすぎないと思っていたからだ。しかし本当は違う。実をいえばあのとき、泣きそうになった。泣くくらいなら死ぬほうがましだから必死で耐えたけれど。あのときこみ上げた感情は、自分が蹴落とした相手への悔恨や罪悪感ではなかった。

 永らく忘れていた。
 王とはなにかということに、あのとき自分はおぼろげながら掴みかけていたのだ。


「……むかし、えらい画家がね」
「馬が好きでいっぱい描いてたんだけど、自分の描く馬をもっとリアルに、本物に近づけたくて、そのためには内部から知るべきだと思って、崖から落ちて死んだ馬の解剖を行ったんだって。筋肉や腱のつき方を観察すれば、手足の動かし方が構造的に把握できてデッサンが正しく取れるでしょ。そのうち興味は他の動物にも及んで、しまいには医者に頼みこんで人体の腑分けにも立ち会ったそうだよ。ものすごく詳細な解剖図をたくさん残してる。後年にはちょっとした解剖学の権威になったっていうから驚きだよね」
「……俺も子供のころ、よく時計をばらして父上に怒られたから気持ちは解る。ばらすこと自体じゃなく、元通り組み直す手順を覚えながらばらさなかったのを怒られたんだけど」
「それと同じでさ。自分がなにを描きたいか考えたときに、そういえばあたし世界が描きたいと思ったんだ。飛空艇で飛び回ってたころ、いろんな国の植生の違い、使われてる慣用句の違い、建物の様式の違いなんかがすごく面白かった。だからあたしも世界を解剖してみたい。でも、それってどうやればいいんだろうと思ったときに、歴史に眼がいったの」
「歴史とは世界の解剖である、か」


2014/07/22