聞きなれた台詞だったが、この部屋で耳にするとは思わず、つい立ち止まった。
「……風と金砂の幸あらんことを、国王陛下」

 自国の謁見室や大広間でならお馴染みの、フィガロの格式ばった挨拶だが、ここはそのどちらでもない。ストラゴス邸のアトリエに立つエドガーは瞬きをする。
 数秒遅れて、かつて自分で彼女にその言い回しを教えたことを思い出す。
「風流だよね、この挨拶」
 お気に入りのソファーにすっぽり収まり、立てた膝の上に大きな本を載せているリルムは、その姿勢のまま蒼衣の王にいらっしゃいと手を振った。

 本棟に建て増しされたリルム専用のアトリエは独特の匂いがする。
 窓は開けているが、ワゴンに散らばる顔料、乾ききらぬキャンバスから揮発する精油の匂いはもはや壁や梁に染みついているようだ。でも不快な匂いではなかった。機械油の匂いと通じるからかと思ったが、大気のなかにひとすじの爽やかさが混ざっているのをエドガーは感じる。リルム自身の匂いかと得心し、そのあとで意味もなく咳払いをした。
「……知ってるかい? 『風と金砂の幸』という部分だけど、古い時代においては『火と金砂の幸』という言い回しだったんだ。文献にそう記されている」
「へー? なんでまた?」
 手土産をテーブルに置くフィガロ王に、リルムは本に顔を埋めたまま返す。小ぶりの盾ほどもある本を両開きに立てているせいで上半身がまったく見えない。読書の邪魔になるだろうかと一瞬迷ったが、会話をうるさがる素振りではなかったので、エドガーは続けた。
「『風と金砂』という表現はよく、砂漠に吹く風と砂塵のことだと受け止められる。でも古くは『火と金砂』と言い習わしたことから、実は違う意味なのではないかと学者たちは推測している。『火』は炉、なかでも溶鉱炉の火を指し、『金砂』というのはそれによって加工される鉱物を指していた。工業国フィガロは古くは鍛冶の国だったことに由来する。『火と金砂の幸』とは、そのまま商売繁盛を願う言葉だったわけだ」
「なるほど。でもそれがなんで、風と金砂に変化していったの?」
「戦争の影響という説がある。あいにく、工業国は戦争とは切っても切れない関係でね……かつてはフィガロもあちこちに鉄製品を供給していたらしい。だが乱世が続けば厭戦気分が高まる。やがてフィガロの民も、『火』という言葉の破壊的なイメージを好まないようになった。しかし火は鍛冶にとって古い友人だから、捨てるには忍びない……そこでご先祖様は表現だけを変えた。『風と金砂の幸』の風とはね、ふいごの風のことなんだ。溶鉱炉に空気を送りこむためのね。だから現在でも、この言い回しは火と鉱物を指している。同時に、それは民の幸福のためにあれという願いも込められているんだ」
「面白いねえ。それ、フィガロの人はみんな知ってるの?」
「大人ならたいていは」
 会話のあいだ、エドガーは何度か気遣わしげにリルムを盗み見ていた。固い革表紙は少女の顔を隠し続けている。次の話題を探そうとしたところで、むこうから聞かれた。
「今日はひとりで遊びに来たんだっけ? 誰か一緒?」
「……カイエンとガウとセッツァーが一緒だよ。仲良し親子はレオ将軍の墓参りをしてから来るそうだ。セッツァーは昨日、飲み過ぎたとかで、ストラゴスに許可を得て2階に寝にいった」
「人の家を宿屋扱いかよ、あの破落戸め」
「俺としては二日酔でここまで飛空艇を操縦してきたことに精神的な賠償を求めたいね。到着してから告白する奴があるか」
 ページの層の向こうでリルムはくすりと笑ったが、多分に礼儀としてのものだった。内心の焦慮を殺してエドガーは椅子に浅く掛ける。口を開けてはみたが、出てきた話題はやはり別のことだった。
「……その本は? この家の蔵書ではないように見えるけど」
 ストラゴスの家に書物は多いが、大半は若かりし日の彼が蒐集したもので、歳月を経るうちに色褪せている。リルムが顔を埋めている本はまだ新しい。
「歴史の本。つっても難しい研究書とかじゃなくて、なんていうの、各国の歴史をわかりやすく紹介した一般向けの読み物。おもしろいよ。隣家の男の子がずらっと何巻組かで持っててさ、ちまちま借りてるの」
 隣家の男の子、についてはエドガーも既知だった。ストラゴス邸の隣にある、数年前に火災を起こした家の少年だ。かつて仲間たちが初めてこの村を訪れた際、その火事に巻きこまれたリルムを救ったことでストラゴスの信頼を得たという。しばらく廃屋であったが、現在は改築を終えて住人が再び住みついている。
「この巻はちょうどフィガロの歴史にも触れてるよ。読んでみる?」
 フィガロ城主は手を出しかけ、すぐに引っ込めて、やめておこうと首を振った。芝居がかった調子でしかつめらしく言う。
「勘弁してくれよ。子供のころさんざん苦労して家庭教師に覚えさせられた、年号だの偉人名だの、思い出したくもないね」
 リルムがまた小さく笑った。エドガーとしては冗談半分、本音半分といったところだ。王である彼は国史を把握している――裏も表も。外部に周知させこうして出版も許可している公的情報も、未来永劫国外には出さぬであろう機密も。読んでいるうちに不要な山っ気をむらむらと起こし、実は真実はこうだ、などと著者に手紙を送りつけたくなってしまってはたまらない。
「何十年か経ったら、エドガーの名前もこういう本に載るんだね。なんか変な感じ」
「それを言うなら俺だけじゃない、救世の十四翼全員の名前が載るよ。しかも希代の天才画家殿、貴女様におかれましては御名のみならず作品も掲載されると存じますが?」
「うわあやめて、というか、そうなるといいけどさ」
 リルムが呻き声を上げた。少し無理にふざけている声だ。
「しっかしこういう本読んでると、お爺さんやそのまたお爺さんが年表に載ってるような一国の王様と、こうして自由に口をきけてるのは奇跡なんだって思うね。住む世界が違いすぎる。……背負ってるものの大きさも違う」
「……王様なんて、一時代に必ずひとりはいる単なる当番制の役職だ。それよりはかつて、幻獣の血を受けたレディと同じパンをわけあったことのほうがお互い奇跡だろう」
 エドガーは控えめに話題を逸らしたが、相手は乗ってこなかった。
「住む世界が違うんだよね」
 絵師の少女は繰り返した。本で顔を隠す姿勢はそのまま動かない。
「あたしなんてせいぜい、自分とじじいの人生にしか責任がないけど、国民すべての人生に責任がある立場ってどんな気持ち? ……簡単に言葉にできるものじゃないだろうけど」
 エドガーは口を開きかけ、掛けるべき言葉が見つからず閉ざす。リルムの口調は問いというより独白だ。
「王様に見初められてお嫁にいって、めでたしめでたし、で終わったお伽話の次のページには、やがてその国で革命が起きて王政が倒されて、王と王妃が石で打たれて、人民裁判で街頭に首を吊るされるシーンがやっぱり隠れてたりするのかなあ? ……王様は善政を敷くのが当たり前、でも名君とはいえ革命で殺される確率は暗君よりは低いだけで、決してゼロではないんだと悟るシーンがさ」
 エドガーは咄嗟に、陽気に笑いとばそうとした。いったいいつの時代の話だ、悲劇好みの若い女性はこれだから――だが喉から出たのは弱々しい上ずった声だった。
「大変だね。王も王妃もすごく大変。求められる覚悟の大きさが尋常じゃない」
 自分で言うのも何ですけどねえ、リルムさんはたいへん我儘で奔放で手前勝手でいらっしゃいますので、と少女はつらつら道化てみせた。
 はじめて本から顔を上げ、へらりと笑う。
「到底、あたしには無理だわ」
 砂漠の王は平静を努めた表情の奥で思う。
 しまった。先を越された。
「……リルム」
 改まった声を出す。表現を選んでいる場合ではない。伝えるべきことを伝えねばならない。
「……今日ここに来たのは他でもない。君が先日、当国の貴族ロレンツィア・シグ・コネリアーノと会談したという連絡を受けたからだ。会談の内容についても、ロレンツィア嬢が非公式ながら貴族院に報告したので、伝聞だが把握している」
 リルムは再び紙面に視線を落としている。エドガーは続けた。
「まずはっきりさせておこう。彼女が君に告げた『フィガロ王に近づくな』という申し立ては、貴族院の総意でもなければ決定された国意でもない。院内の意見交換において、君が行った慈善活動への誹議は……確かに存在したようだ。だがそれによって君を排そうと主張したものは半数程度だったと聞く。残り半数は、君の年齢や立場を鑑みてできるだけ穏健に考えようという姿勢だ。つまり彼女は、一方の見解でしかないものを、フィガロ4家の最終判断かのように示したきらいがある。また結果的に何があったとはいえ、君が偽情報によって踊らされた被害者であることも違いない」
 喋っていると、つい早口になる。10代のころ何度も練習を重ねて克服したはずの癖が久しぶりに出そうになり、エドガーはいったん息をついて唇を湿した。
「ロレンツィア嬢は彼女なりの使命感によって、君に意見しに来たのだろう。だが彼女はフィガロ国内において何らかの役職にあるわけではない。社交界へのデビュタントすら迎えていない。君に何を告げようと、それは単なる一視点であり、フィガロの公的判断ではない」
「うん、あのね」
 リルムは存外、間をおかずに返答した。重たい本をばたんと閉じてきちんと座り直す。
「エドガーの話は解った。でも、最初にフィガロの人にされた説明をきかないで行動したのは本当だからさ。そこは謝るよ。……本当にごめんなさい」
「……解った、謝罪は受け入れよう。これからは聞き入れてもらえると助かる」
 エドガーは慎重に応じた。ただ庇われるだけでは忸怩たる思いは消えないだろう。
 ロレンツィアが行った申し立ては、フィガロ上層部の総意ではない。これは本当だ、彼らのリルムに対する見解はまだ揺れている。エドガーとしては報告を受けたとき、いろいろな意味で頭を抱えた。リルムのせいで貧民自立支援が破綻しかけた件は、正直にいえば厄介だった。だがかつての変乱期――帝国と同盟を結ばざるを得なかったころ――さんざん対立派に足を引っ張られた経験のあるエドガーにしてみれば、この程度の問題は厄介ではあっても難件ではない。指摘すれば相手が素直に改めてくれる案件など可愛いものだ。貧民たちの就業意識を育てなおすのには時間も金もかかるが、それさえ惜しまなければやり直せる。やり直せない案件をいったいいくつ処理してきたか!
「君の謝罪は受け入れる。加えて、ただ一度の失敗で相手を切り捨てるのは、健康的な社会ではないとも俺は思う」
 身内贔屓ゆえの発言だと思われないよう、また実際そうならないよう、注意を込めつつエドガーは語った。
「人は完全ではないから、必ず失敗する。俺も君くらいの齢のころにはどれほど過ちを重ねてきたか。だから……困ったな、いささか説教臭くなるが、重要なのは繰り返さないことだ。故意ならぬ失敗をあげつらって若者の成長する機会を潰したくない」
 自らを隠す盾にしていた本を、今は下ろした少女は俯いたままだ。剥き出しの心は自分の言葉をどのように受け止めているだろう。
「自戒の意志がある相手には寛容であるべきだし、挽回の機会はあるべきだ。取り返す機会はあるべきだ。君にはそれを要求する権利がある……」
 フィガロ王は口を噤んだ。職業柄か、どうも啓蒙的なものいいになってしまう。もう少し血の通った言葉を探したい。
 ふと、アトリエの中を見回す。部屋の中は明るいが、直射日光のあたらない一角が意図的に設けられている。キャンバスを置いて作業するための場所だ。汚れたイーゼルの上に、描きかけの1枚が乗っていた。
 細部は未完成だが、全体的な色彩は配置されているので、何が描かれているかは解る。鉛の空と急峻な岩肌を背景にした集落――炭鉱都市ナルシェ。その街の中に、大きく分けて2種類の人々がごったがえしている絵だ。
「この絵はなんだい? 古い時代を描いたもののようだが」
 リルムは顔を上げ、エドガーの視線の先にある自作を見る。
「うん。ナルシェに伝わる伝説を絵に起こしてみたの。今は滅んだある国とナルシェとが、戦争をしたときの一場面」
 描かれている2種類の人々のうち片方は、今は亡き国の兵だろう、見慣れぬ鎧に身を包んでいる。引き裂いたナルシェ旗を携えているので戦闘には勝ったようだが、なぜかみな一様に頬がこけて幽鬼のような態だ。手足の欠けた者も多いが、戦傷にしてはおかしな色に黒ずんでいる。エドガーにはすぐ察しがついた。勝つには勝ったが、慣れぬ氷雪地帯で道に迷い、極寒に苦しんで凍傷で手足を失ったのだ。炭鉱都市はその荒っぽい気風もさることながら、地の利が強くその地を護っていたと聞く。
 描かれている人々のもう片方は、ナルシェの家庭着をまとった女たちだった。彼女らは人里に下りてきた敵国兵に、毛布を差出し、火を焚き、温かく迎えていた――敵なれどいまは救うべき弱者として。戸外に大鍋を据えて料理をふるまい、食器を並べた卓には和平への願いとしてか可憐な花房を活けている。温かい白湯を差し出すカップにも同じ花が挿されていた。
「美しいモチーフだね」
 エドガーは厳かに呟いた。これはきっと、素晴らしい絵になるだろう。あやまちの輪廻は何者かが止めなければならない。勇気を以って。
「そうだ――赦しあわなければならない。寛恕の機会はあるべきなんだ……」
 きし、とソファが鳴った。
 見ればリルムは立ち上がり、エドガーがテーブルに置いた土産の菓子を手に取っている。包み紙をぺりぺりと解きかけて手を止め、王のほうを見て微笑んだ。
「これ、美味しそうだね。お茶を淹れて、お皿に盛ってくるからみんなで食べよっか」
「待ってくれ」
 エドガーは慌てて言葉を継いだ。まだ言っていないことがある。
 フィガロ貴族が、『王に近づくな』と言った。この場合の『近づくな』という表現が、単なる友誼の拒否を示しているとは誰も思わないだろう――なにしろ未婚の王と若い娘だ。その件についても触れておかなければならない。あらゆる意味において、自分とリルムの関係の自由が保障されていることを。
 それとも、もっとはっきりこの場で言うべきだろうか? 喉の奥が詰まり、呼吸しづらくなるのを自覚する。こんな形で背中を押されるとは思わなかった。だが、言うべきなのだろうか?
「あのね、エドガー」
 リルムがぽつりと漏らした。
「あたし、エドガーの好きな人が誰か知ってるよ」
 刹那の鼓動。続いて違和感。エドガーは戸惑いに眉を動かす。
 絵師の少女は瞳を伏せて横顔で語っている。なぜだろう、見慣れているはずなのに、まるで他人のようだ。
「そしてそれは、絶対にあたしじゃないんだ」


 彼らは窓を開けて会話しており、アトリエの真上には2階のテラスがある。
 階下からは窺えぬ角度に、紫煙がゆらりと流れて霧消したことには、どちらも気付かなかった。



                 *          *          *



「オレ、責任感じる……」
 青いバンダナごと灰茶の髪をぐしゃぐしゃ掻き乱しながら、宝探し屋が酒場のテーブルに突っ伏した。
 グラスを前にしていれば泣き上戸かと思うところだが、彼は素面だった。同席者たちも素面のまま曖昧な表情を揺らめかせている。午後のアルブルグ市街の酒場は空いており、化粧の下手な女中が注文の品をどすんと置きにやってきた他には人気もない。
「リルムにナルシェの伝説を教えたの、オレなんだよね……」
「待って、それについても詳しく聞きたいけど、その前に」
 白金の髪を持つ女が、傷だらけの細面の男に少し厳しい瞳を向けた。
「セッツァー。要するに今のあなたの話は、2人の会話を立ち聞きしたものってこと?」
「聞いて欲しかったんじゃねえの、あいつら。窓も閉めねえでこんな面白い修羅場演じてやがんだから」
 悪びれもせず薄笑いを浮かべる。セリスは困惑とも苛立ちともつかぬ溜息をついた。聞かなかったことにしたほうがいい気もするが……ともあれ最後まで聞かされてしまった以上、何も考えずにはいられない。
 ロックのほうに向きなおり、うんうん呻く頭に声を掛ける。
「で、どんな話なの? あなたがリルムに話して、絵の題材にしたっていう伝説は」
「……ばあちゃんと、あと、ナルシェのジュンからも聞いたことのある話だ。むかしむかしで始まるお話だけど、これはお伽話じゃあない」
 職業柄、口伝や縁起のたぐいに詳しい男はぼそぼそと語りはじめた。

 ――ナルシェがやっと、炭鉱都市として名実ともに体裁を整えたころ。今は滅んだ南方のある国が資源を狙って侵攻してきた。
 当時のナルシェにも自警団はあったが、頭数で劣っていたらしい。山中で迎え撃つもあえなく壊滅させられてしまう。異国軍は勢いづき、女子供の残されたナルシェ市街に迫ろうとしたが、適わなかった。慣れぬ冬山で遭難してしまったのだ。雪と岩のみで構成された地形は方向感覚を失わせる。極寒と飢えに満ちた11日間の死の彷徨は兵を激減させ、生き残った者も疲弊にあえいだ。大部分が凍傷で手足を失い、もはや彼らは憐れむべき群れだった。
 やっと平地に下りてきた敵兵たちを、驚いたことにナルシェの女たちは温かく迎えた。火のそばに座らせて毛布を与え、花を飾った卓で料理をふるまう。驚きに眼をみはる髭面の異国人にナルシェの女は言った。あなたがたは今や傷ついている。人が死ぬのはもうたくさん。私たちはあなたがたを赦すので、あなたがたもどうか何者の命も奪いませぬよう。そういって可憐な白い花房を挿したカップを差し出す。男たちは涙ながらに礼を言って飲みほした。
 その夜、幾人かの兵が寝ている間に死んだ。仕方がない、衰弱していたところで心の糸が切れたのだ。最期に暖かい部屋で眠れてよかった。彼らは女たちに感謝した。次の晩、また幾人かが死んだ。次の晩も死んだ。死人の数は日を追うごとに増えた。さすがにおかしいと思う頃には少ない生き残りはベッドに縛りつけられていた。
 鉄挺で口をこじ開けられ、青臭い匂いのする湯を飲まされながら異国人たちは悟った。我々は最初から、赦されてなどいなかったのだ――

「……白くて房になって咲く花つったら、はん、あれか。鈴蘭か」
 賭博師が謎ときをしてみせ、宝探し屋が低い声で正解と応じる。鈴蘭がどうしたのとセリスが尋ねると、なんだ知らねえのかと頭を掻いた。
「ナルシェの女たちがカップに挿しておいた花は、鈴蘭だ。鈴蘭には強い毒があるんだよ。水によく溶けるから、身体の小せえガキは活けてあった水を飲んでも危うい。致死量がどの程度かは知らねえが、恐らく料理のほうにもたっぷり煮出してあったんだろ」
「南のほうではあまり咲かない花だから、敵国のやつらは気付かなかったんだってさ」
 男たちの解説を受けて、今まで黙っていたティナが頭を振る。
「鈴蘭はわたしの村でも咲くけど、毒があるとは知らなかったわ。今度、子供たちに気をつけるよう言っておかないと……」
 セリスも思う。帝国首都ベクタでは一般市民の家ですら機械化が進んでおり、あまり花を育てる習慣がなかった。ぴったり舗装された道路には雑草のひとつも生えない。自分の知っている花といえばシドの温室に咲いていた薔薇くらいだ……
 そしてエドガーも、鈴蘭に毒があることを知らなかったのだ。砂漠に花は咲かないから。
「にしても、凄まじい昔話だな」
 セッツァーが薄い口の端を上げた。歌うような調子で続ける。
「不寛容で殺伐として救われねえ、後味わるい大人のお伽話、ってわけか」
「うん、ただね」
 ロックがテーブルに顎をついたまま張らぬ声で返す。
「憎しみの応酬の物語、ではあるだろうけどさ。ジュンが言ってたんだ。この伝説は永らくナルシェの民、特に女たちの精神的支柱だったって」
 説明を求める仲間たちの視線を受けて、宝探し屋は続けた。
「鉱山の仕事は重労働で、うまくすりゃ一攫千金って要素もあるから、ちょっとばかしやくざ者が集まりがちだろ? どの炭鉱都市も、最初は荒くれ者が集まってできた街なんだ。総じて気風も荒っぽい。で、言いづらいことだけど……そういった街は大抵どこも、女性の地位ってやつがあまり高くない」
 口を閉ざす一同をちらりと見回し、ロックは詳しい解説を避けた。連想される具体例は各々の脳裏で尽きないだろう。自我の目覚めが遅かったティナでさえ、崩壊後の世界で決して明るくはない人々の生活を見てきた経験がある。
「でも、ナルシェは違ったんだ。炭鉱都市はかつて世界中に点在したけど、ナルシェの女たちは昔からいちばん元気で強気で逞しかった。男ほど腕力がなくても、仕事上の立場が後方支援でも、対等な姿勢でわたりあって協力してきた。それは彼女らに、計略によって敵を斃した女たちの子孫という自負があったのと、男たちがその価値を認めていたからだ。皮肉で苛烈な伝説だけど、あの物語は女たちの地位向上に繋がっていた。結果的にそれがナルシェをもっとも繁栄した炭鉱都市に育てあげた。ジュンは言ってたよ。ゴーストタウンだったナルシェに近年、やっと人が戻り始めたけど、盛り立てているのはやっぱり逞しい女たちだってね」
「……なるほどね」
 セリスが小さく洩らす。数年前、自分たちはそれぞれの理由で戦っていた――セリスは自らを解放しようと、そのために世界を救おうと。救うための戦いは、いつもどこか矛盾していた。流血を止めるために流血を見る日々。痛い矛盾を伴いつつも、胸中の願いだけが拠り所だった。偽善もあれ欺瞞もあれ、その中でできるだけ、誰かが誰かを失わない選択を。
 ただ、血塗られた挿話でも、ともあれそれ自体が生む結果もあるのだ。
「で、だ」
 セッツァーが灰皿を引き寄せながら、ついでに話題も引き戻した。
「サマサの生意気娘とフィガロの色魔がうまくいってねえのは、じゃあ絵の意図を読み違えたことにも理由があるのか?」
「じゃないの? さっきの状況を聞く限りだとさ」
 教えるんじゃなかった、とロックはまた頭を抱える。つまりリルムは、セッツァーの表現を借りるなら『救われない大人のお伽話』をモチーフに絵画を為した。しかしエドガーはそう取らず、美しい赦しの画と取ったのだ。
「絵の物語になぞらえるなら、リルムはやっぱりフィガロに赦してもらえないだろ。そうでなくても、作品の意図を理解できない相手とはやってけないって思ったんじゃないかなあ」
 セリスは応とも否とも答えず腕を組む。作品の意図を読み違えられることが、作者にとってどれほどの苦痛なのかは解らない。だが、モチーフにされているのはそもそも『騙し』ではないだろうか? 意図に気づけばにやりと頷き、気づかなければ知らされて慄く、そういった類の作品ではないだろうか。
 なぜリルムはこの伝説を絵に描いたのだろう。スパイスの効いた物語に創作意欲が刺激されたのだろうか……。
「ねえ」
 俯きがちだったティナが、急に口を開いた。
「あの2人がうまくいってないのって、もしかしたら他の理由もない?」
「と言うと?」
「みんなよく言うでしょう。エドガーは手が早い、どんな女性でも口説くって。だから……」
 ああ、とセリスは微笑んだ。母として地に足を付けながらも、未だ無垢さを併せ持つティナらしい問いだ。
「たぶんそこは、あまり大きな問題ではないわ」
「そりゃそうさ、女たらし気取ってるわりに勝率悪すぎだろあいつ」
 頭を抱えていたロックが顔を上げてにやりと笑った。ここは乗りたい話題であるらしい。
「ティナも失敗、セリスも失敗。フィガロの女のひとたちは慣れっこであしらうだけ。結婚、結婚って騒いでたあのちっちゃな女の子を勘定に入れるかい? あの子も少しは大きくなったろうけど、どうせ今頃オペラ座のかっこいい男優あたりにお熱だよ」
 セリスは急いで手を振った。
「そういう意味じゃなくて……いえ、それとも関係あるかな。私が言いたいのは、エドガーの女好きは、エドガー自身の本当の性格というより、自分で決めてわざとそう振る舞ってるものじゃないかってこと」
「……言いたいことはなんとなく解るな」
 セッツァーが首肯した。ロックも思い当たりがなくはない風情だ。ただ、小首を傾げているティナのためにセリスは説明を続けた。
「思い出してみて。ティナも私も、エドガーに口説き文句を向けられたことはあるけど、具体的にはなんて言われた?」
「……『君の美しさが心をとらえた、次に君の好きなタイプが気にかかる』みたいな感じだったかしら。『君とずっと話をしていたいが』とも」
「そんな感じでしょうね。ちなみに私は」
 卓上に投げられている、器用そうな男の指にちらりと視線を送る。
「誰かさんの後ろを歩いてたら、『あれはいろいろ過去を持つ男だから惚れちゃいけないぜ』と言われたわ。『そう簡単に心を動かしたりしない』と返したら、『そのセリフ、しびれるね』とも言われたっけ」
「……あの野郎、そんな牽制してやがったのか」
 宝探し屋が歯ぎしりした。セリスは続ける。
「言動にせよ容貌にせよ、エドガーは女性なら誰でも賛美を振りまく。積極的に親しくなる。でも、いつも表面的なの。ティナ、エドガーからたとえば『君との将来』を誓おうとか、『自分の全て』を捧げるとか、これに類似した重めの言い回しを聞いたことはある?」
 翠緑色の頭に指をあててティナは考え、ないわと首を振る。
「私もないわ。エドガーはそのあたりの表現を冗談でも避けてる。関係構築において決定打となりうる表現、言質となりうる表現を巧みに避けてるの。同時に博愛主義の女好きとして振る舞うことで、逆に誰も本気にならないよう仕向けてる。人前でどうどうと複数の女性を口説きまわる男に本気になるのは難しいわ。わざと失敗する口説き方ばかりしてるのよ。……立場を考えれば当然だけど」
「当然って、どうして?」
「持つものを持つ人の言葉はたやすく圧力になるから。誰かを真面目に誘っただけで、それは権威で強制しているのと同じになりかねないから。あとはエドガー自身の自衛ね。偶然知り合った女性に『君に全てを捧げる』みたいな言葉を迂闊に投げて、楽しくおしゃべりして別れたとして、数か月後、その女性が赤子を抱いてフィガロに来て『これは私が王の全てを受け取った結果、すなわち王の嫡子なり』と国民に言いふらしたらどうする? その女性が、フィガロの財を私物化せんと企む組織の一員だったら?……女好きを標榜するエドガーに、そのくせ実績らしいものがないのは、恐らく偶然じゃない」
「セリス、あなたのお話とてもよく解ったけど、いくつか質問があるの」
 ティナが知的好奇心に満ちた眼をきらきらさせて手を上げた。素直な生徒を前にした女教師のような気分になって、セリスはつい鷹揚にどうぞと促す。
「さっきロックも言ってたけど、フィガロ城を駆けまわってた小さな女の子は、『大きくなったら結婚しようって陛下に言われた』と言ってたわ。これってあなたの言う、決定打になりうる言葉にはならないの?」
「あのくらいの年齢の子って、恋愛といえば結婚くらいの連想しかできないでしょう。だから私は、エドガーがはっきりそう言ったわけじゃないと推測してるの。『君が大きくなったら放っておかない』くらいの台詞を、ちいさな頭の中で拡大解釈したんじゃないかしら」
「まだガストラ帝国があったころ、和平会談のあとで裏切られそうになったけど、エドガーが仕入れた情報のおかげで無事に逃げ出せたのよね。そのときエドガーは『お茶を運んできたレディにご挨拶したら教えてくれた』と言ったそうだけど、これは誰も見てないところで口説きが成功した例にはならないの?」
「エドガーはそう表現したけど、お茶を運んできた女の子って、実はフィガロの間者……つまり諜報員だったそうよ。あらかじめ忍びこんでた部下が、王様に任務報告をしただけ。考えてみれば当然ね、お茶を出す下働きのメイドさんが、帝国上層部の裏の思惑を把握してるなんておかしいもの」
「ニケアの港であなたとマッシュがエドガーを探してたとき、街の女の人が『ジェフっていう盗賊のボスに口説かれちゃった』って嬉しそうにしてたらしいけど、これは?」
「盗賊のボスに口説かれて、もしそれが心底まじめな口説き方で、本気の恋に落ちる可能性があったとしたら、口説かれたことを見知らぬ相手に自慢する? 私なら言わないわ。盗賊のボスの愛人だなんて、敵対勢力に知られたら命を狙われそうだし」
 ほう、と感心してティナは胸の前で指を組む。かつて帝国で将軍職にあった女は気恥ずかしくなって苦笑した。要職を担うべく教育を受けてきたセリスにしてみれば、エドガーの持つ公人としての計算高さ、見え隠れする小細工は、ある種の懐かしい痛々しさだ。
「……『あらゆる女性に対して常に本気です』なんて主張は、『あらゆる女性に対して本気じゃない』と同義だわ。すべてが同じように特別だったら、どれひとつとして特別ではないもの。どんな女でも愛せると豪語できるのは、どんな女にも本質的には心を開かない男だけ。当人はそのスタイルを格好いいと思ってるようだけど」
「フィガロ王が聞いたら涙の海で溺れ死にそうだな」
 セッツァーが7割の愉快さと、3割の怪訝さを含む視線を送った。
「どうした今日は。普段なら俺が担当するみてえな毒舌が冴えてるぞ?」
 セリスはわずかに耳に朱をのぼらせた。確かに一方的に分析しすぎた気はする。胸中でくすぶっている小さな苛立ちが原因だ。リルムのために軟派男に苛立っているのか?
 いや、どちらかといえば単なる価値観の問題かも知れない。自分はずっと弱い男が嫌いだった。弱さの定義に疑問を抱いてからは、あまり意識しない視点になっていたが、どうやら基準は変わっていないらしい。女性とみれば持ち上げてみせ、それによって閉じた安定をはかるなんて、いってみれば軟弱な臆病者だろう……
「でも、だからこそリルムだけは違うと思っていたのよ」
 セリスは卓上の茶をひとくち含んで結論づけた。女性であれば立場や老若を問わないはずのエドガーが、なぜか思い留まった。年齢を理由にしていたが、他の少女には節度こそ保ちつつも声はかけているのだから成立しない。躊躇いの奥に滲むひそかな情動はきっと――
「あ、来たわ」
 ドアベルが鳴る音を聞きつけ、出入り口が確認できる方向に座っていたティナが声を上げた。懸案人物の到着だった。


「ひっさしぶりー。みんな揃っ……てないな。マッシュがまだ?」
 テーブルに寄ってきたリルムは、椅子の背に上着をばさりと投げる。今回参加するはずの人員はティナ、セッツァー、セリス、ロック、リルム、マッシュだ。
「嵐の影響でドマ方面の連絡船が遅れてるんですって。来ることは来るみたいよ」
 セリスは固くなる声を努力して柔軟にしながら返す。かつての同志たちによる、お茶をしながらの近況報告会。これまで何度も開いてきた会合で、なんら珍しいものではない。ただ今回については事前に要らぬ爆弾を抱えこんでしまっただけで。
 リルムが一同のぎこちなさを訝しく思う前に、原因を招いた当人が場を引き受けた。
「よう小娘。おまえ、俺に依頼したい仕事があるんじゃねえ?」
 は、何のこと、と聞き返す少女の前でセッツァーが煙草をくゆらす。
「基本価格8万ギルから請け負うぜ。状況と相手のランクに応じて諸経費をプラス。ちっとお高い計算になるが、おまえなら払える額だろ」
「だから何の話?」
「要人誘拐」
「……過去に、やったことあるの?」
「どこぞのそっくりさんのせいでマリアは失敗したが、依頼はいつでも受付中。しかしせっかく値段を設定してあるのに現在に至るまで依頼人ゼロ。世の中、腑抜けだらけでいけねえな」
「ていうか、あたしが誰を誘拐しようっていうのよ」
「掻っ攫っちまえばただの男だぜ? 一国の王も」
 沈黙が落ちた。固唾を飲んで向けられる視線の中心で、金褐色の瞳と夕闇色をした瞳がぶつかりあう。少女が慎重に言葉を選んだ。
「……あんた、何を知ってるの?」
「先に言っとくが、俺はたとえばそこの泥棒みてえに、他人の周囲をこそこそ嗅ぎまわるのが趣味ってわけじゃねえぞ。仮眠前に一服しようとしたらてめえの祖父が、孫の絵にヤニが付くから外で吸えっつって俺をテラスに追い出した。あとのすべては開いてた窓のせい、だ」
「オレそんな趣味ないし、テラスから去らなかったのはセッツァー自身の意志だろ」
 ロックが銀髪の横顔を睨んだ。自宅に仲間たちを招いた過日のできごとを思い出して立ち尽くすリルムに、セリスが慌てて向きなおる。
「ごめんなさい。私たちも全部聞いてしまったの。セッツァーが、聞いたことを全部しゃべったあとで、立ち聞きだったって打ち明けたものだから」
 おまえらくたばれと罵られるか、テーブルを蹴りあげて去るか。勝ち気な少女の感情の発露はどちらだろう。思わず飲みもののカップを押さえたが、凍結した十数秒のあと、聞こえたものはけらけらと軽薄な笑い声だった。
「ほんっと最低だね、この傷野郎は! まあいいや……迂闊にも開けっぴろげた部屋でしゃべってたのは本当だし。それにもう終わった話だしね」
「本当にごめんなさい」
「いいよ、ティナはなんにも悪くないでしょ。真犯人から未だに謝罪がないのは腹立つけど」
「窓に口はねえから謝罪は無理な話だな」
「なあリルム」
 行き交う会話を割って、ロックが身を乗り出した。
「あのさ……やっぱりおまえ、エドガーが自分の作品の意図を勘違いしたから、こいつとはやっていけないと思ったわけ?」
「……ん……ああ、あんたから聞いたナルシェの伝説のこと?」
 青いバンダナごと乱れに乱れた髪型を不思議そうに見上げながら少女は返した。
「違うよ。確かにエドガーは勘違いしてたけど、そういうことじゃないよ。きっかけではあるかも知れないけど」
 席についたリルムは、軽やかな笑顔でひらひら手を振った。
「みんな知りたそうだから、リルムさんの一大スキャンダルをぶちまけちゃいます? といっても単純な話だけど。いわゆる身分の差を思い知ったってやつ? あたしじゃエドガーのお相手はちょっと無理っぽいなーと思っただけ」
 重さを感じさせない笑顔は、紙細工のお面のように、表情を演出するための眉と口だけがぱかぱかよく動く。一同は黙って見守るしかない。
「一国の王様とのロマンスなんて大仰すぎてあたしの柄じゃない。正直あたしもフィガロで色々やらかしちゃったしさ。でもそれをあの色男は楽観視しまくってて、あー、こりゃはっきり言ってやんなきゃいかんなあと」
 紙製の笑顔はますます軽くなる。三文小説のページ用紙を通りこして安物の包装紙のようになり、今や向こうが透けそうだ。
「あたしとしては早めに片が付いてよかったと思ってる。深入りしていやーな気持ちになる前に済んだじゃん? 傷は浅いぞっていうかさ。うん、もともといい友達だったからかな。戻れるうちに友達に戻れるのって幸運だね。そりゃほんのりせつなかったりはするけど。でもこれって人間的な成長のチャンス? ちょっぴり泣いて落ちこんで、自分を甘やかしたあとはいっぱい寝てごはんを食べて、鏡の前で笑う練習をしないとね。いい女への第一歩だわ。時間が経てばきっと綺麗な思い出として他愛なく笑いあって――」
「リルム」
 空疎な言葉の洪水に溺れそうになり、セリスは無理やり声を遮った。大丈夫ぜんぜん大丈夫、痛くないちっとも痛くない、なんでもないし済んだことだし気にしてないし大したことじゃない。
 セッツァーが深々と紫煙を肺に含み、時間をかけて長々と吐き出した。
「みんな知りたそうだから、とか言って話を始めたわりにおまえ、何も教える気ないのな」
「どういう意味よ」
「ここにいる全員が聞きてえのは、おまえにとってエドガーが何なのかってことだ」
「あんたあたしの話聞いてた? 決まってるじゃん。大事な友達。仲間だよ」
 少女の即答に怯むようでは、彼は賭博師ではなかった。
「女の口達者に丸めこまれてやれるほど俺は優しくねえぞ。友達? 仲間? 味方に身内に同志に知り合いってか? 言葉ってのは便利だな。辞書にあるやつを安易に選ぶだけならたんまり候補はありやがる」
「『友よ、安らかに』」
 切り返された台詞に、今度こそセッツァーは黙った。
「……同じだよ。あんたと同じ理由。あんたが墓碑銘に、その表現を選んで刻んだのと」
 ただし、この返答は諸刃の剣だった。紙でできたリルムの笑顔は破れ、薄っぺらな裂け目の向こうに逆巻く色が覗いていた。ふ、と再び煙を吐く男の涼しい顔を見てセリスは思う。セッツァーはこう言わせるのが目的だったのだ。
「おまえに俺とダリルの何が解る。と、言いたいところだが」
 苦笑よりはいくぶん皮肉な笑みを唇に上らせて、セッツァーは言った。
「もし本当に、おまえがエドガーを友と呼ぶ理由と、俺が墓碑銘にその言葉を刻んだ理由が同じなら……俺には手に取るように解るぜ。てめえのさっきの、すがすがしくて前向きでさっぱりした良い子の台詞が、まるっきり強がりだってことが」
 がたん! と大きな音がしてロックが飛び上がった。勢いよく立ち上がったリルムの後ろで、彼女の椅子が倒れている。
「ごめん、あたし、急用を思い出した。借りてるものを返しにいかなきゃ。先に失礼するね」
 刃の口調でゆっくり機械的に告げ、上着をひっつかみ、サマサの絵師は酒場を出てゆく。
 残された女性ふたりが同時に腰を浮かせかけたが、何を言えるというのだろう。自分に向けられたティナの深い森の色の瞳に、セリスは黙って首を振る。
「おっ……まえなあ!」
 先程の驚きを引きずってか、青ざめたロックが悲鳴じみた声をあげた。
「なんであんな言い方すんだよ!」
「気持ちわりいだろ、思ってもないこと喋りまくる奴って」
「もっと話を聞きたかったわ。リルムは肝心なことを言ってない気がする……」
 やり合う男たちの横でティナが溜息をつく。セリスも同意見だった。口が悪く、遠慮なしにものを言い、ただそのかわり裏表のない性格だったリルムが建前と抑制をおぼえたらしい。ずいぶん大人になったものだ。それともこれはエドガーの悪い影響だろうか。
 セリスはふと顔を曇らせた。先程エドガーにおぼえた小さな苛立ち。かつて帝国で、セリスは文武ともに英才教育を受けてきた。だから彼の持つ公人らしい計算高さ、周到な小細工などがある意味で痛々しく思える。己の立場をいつも強化しなければならない人間――エドガーにおぼえた苛立ちは、過去の自分への嫌悪感だったかもしれない。
 そして、強くあろうとしていたからこそ心折れた経験がセリスにはあった。
 音なき絶望の死界、ただひとりの孤島で、身を投げようとした過去。強くあらねば己にあらず、と自らを縛るものは実はとても弱かった。弱い男が嫌いなのは、自分が弱かったからだ。
 エドガーは、耐えられるのだろうか。



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2013/12/27