「そしてそれは、絶対にあたしじゃないんだ」

 なぜ。なぜそうなる。
「あたしでだけはないと思うよ」
 意味が解らない。もっと早く言えばよかったのか。君に王妃になってほしいと。
「うん、そうだね、あなたが好きな女はあたしではなく、王妃になれる女。あたし個人じゃない」
 ――――
「あなたの選択にはちゃんと理由があった。あのご令嬢と話して解った。セリスでもなくティナでもなくリルム。世界を救った英雄で、元帝国人ではなくて、文化人の肩書きなんか持ってて、親がないかわりに面倒もない、健康な若い娘。王妃になれる女、王妃になれるリルム」
 ――――
「ごめん、こんな言いかたは酷いね。そうとしか選べない王の、あなたの苦しみは、想像だけならできる。憐れむわけではなく尊いものだとも思う。だからこそあたしじゃだめだ」
 ――――
「ああ、あたしじゃだめだ、という言い方はまだあなたにいい顔をしてる。はっきり言わなきゃね。あたしはいやだ。あなたでは、いやだ」



                 *          *          *



 それは定期的にやってくる。稀ではあるが。
 厳重に封をされ、幾人分もの承認印がべたべた捺された姿でやってくる。厚みはほとんどないが持ち上げるたびとても重く感じる。
 執務室のエドガーはじっと手中の封筒に目を落とした。
 17歳で王になったとき、即位してから初めての仕事もこれだった。
 死刑執行書への承認署名。


 自分と同い年のその少年は新聞を書いただけだった。帝国の行状を脚色なしにそのまま書いただけだった。搾取、不当税、市民への狼藉、皇城内の非人道的実験。
 裏付けの怪しい情報もあったが、できうる限りの証拠は添えられていた。誤りは多かったが誇張は少なかった。職人らしい綿密さと、自ら活版を制作する技術。彼はフィガロ人だった。
 フィガロ国内の出来事だったら誤魔化せた。しかし彼は帝国に忍びこみ、そこで配布活動を行っていた。自国の行状に難色を示す帝国人に決起を呼びかけたのだ。応じる者がいるはずもなかった。勝算も後ろ盾もない行動は蛮勇と呼ばれる。帝国は難なく彼を捕らえた。
 量刑はそちらに任せるという文書とともに、彼はフィガロに送り届けられた。共にやってきた役人はしばらく観光しようといってだらだら滞在した。そして毎日、城内広場を確認した。
 彼は新聞を書いただけだった。誰も傷つけなかったし騙さなかったし物も盗らなかった。
 でも殺さねばフィガロが滅んだ。
「人でなし!!」
 数日後、少年の母が城の回廊で叫んだ。彼女は城の下層階に、少年の遺品を引き取りにきていた。係員の隙をついて体当たりし、城内を駆けだした。衛兵をすり抜けてうまく走ったが、すぐ取り押さえられた。エドガーはずっと離れた会議室にいた。
 報告を聞いたエドガーは廊下に出た。騒がしい人垣へと歩いてゆく。陛下、お構いなきよう、と大臣が鋭い声を出して腕を引いたが振り払った。
 蒼衣の長躯を認めた母親がにわかに殺気立った。より強く衛兵に拘束されながら、彼女は叫んだ。人でなし!!
 王は静かに応えた。
「私は人間だ」
 17歳の自分がどんな顔をしていたのかエドガーは憶えていない。
「獣は縄張り争いをする。獲物や交配相手をめぐって闘う。結果として命を奪うこともある。だが言いたいことを言っただけの相手を殺すなんて人間しかしない。だから、私は人間だ」
 叫びとも呼べぬ憤怒の金切り声が石造りの天井に響く。エドガーは踵を返し、二度と振り返らなかった。
 国を護るためだ。民を護るためだ。私を人でなしと呼ぶあなたをも護るためだ!――遺族にそんな言い訳はできない。してはならない。確かなのはあの一時期、フィガロが言いたいことを言っただけで殺される国になっていた事実だけだ。水面下の情報網が必要だった。彼のように真実を追い求める人間が活動できる場所が。
 存在だけは聞いていたリターナーとの接触が実現したのは、ずっと後年になってからだった。


 追憶から現在へと意識を引き戻し、王は背もたれに深く身を預ける。
 ストラゴス邸から戻ったあの日、書庫で本を紐解いてナルシェの伝説の真実を知った。リルムの絵画にあるはずもない赦しを幻視したのは、あの少年を赦したかった内なる自分だ。彼女の前に立つとき、自分はいつもどこかで少年に戻っている。
 しかし一方では完全に王だった。王妃の器なるものを厳密に定義していたわけではない。ただリルムを査定の眼で見ていたのは確かだ。昔からそうだった。女性は崇拝すべきものであり、幸福に導くべき存在であり、しかし常に品定めの対象だった。さまざまな女性へと甘やかな言葉を匂わせる裏で、『彼女が王妃になった場合』を常に意識した。結果として実際にはいつも一定の距離を保った。王とはそういうものだ。すべてを国益のために計算する。
 リルムと交情の日々を続けながら、若く奔放な彼女を王宮に迎えることを何度か想定した。不安もあった。絢爛豪華な不自由と威厳に満ちた気苦労。それが王宮での生活だ。でも彼女の健やかな強さを見るたび安堵した。彼女なら王宮でやっていける。障害があるならば自分が融通を効かせてやる。臣下たちも納得させられる。その条件は揃っている――
 ぎしりとエドガーの口の端がひび割れた。凄惨な笑みだった。
 指摘された通りだ。自分は王妃になる女を見ているのであってリルムを見ていない。だから絵の真意も掴めずに勝手な幻想を見る。現在のフィガロ宮における彼女の居心地の悪さも考えず平気でまた来いと言う。一方的に自己の利得だけを求めて相手の本質を見ない。リルム自身ではなく彼女から得られる都合のいい結果だけを求める。
 なるほど、なるほど、女たらしの王様。おまえは誰も愛していない。

 エドガーは、病める人のようなのろい動作で、封筒を開いた。
 内容を熟読し、鵞筆をとり、死を許可する者として自分の名を黒く刻む。慣れてはいけなかった。人の死を事務的に処理してはいけなかった。それは危険だった。死を軽んずることは必ず殺すことの麻痺につながった。だから自分の心を護ってはいけなかった。何度でも傷つかなければいけなかった。
 甘い赦しの夢などないのだから、何度でも傷つき続けなければいけなかった。





 お気の毒に、お気の毒に!
 あの男と結婚するどこかの誰かさん、お気の毒に!
 エドガーが執務室で王の任務を全うするのと同時刻、仲間たちのいる酒場を飛び出したリルムは、かつかつと踵を鳴らして荒々しく石畳を踏んでいた。午後のアルブルグ市街は行き交う商人たちが多くて気忙しい。かつかつ、かつかつと、定期船が出る港に向かってリルムは速足で歩む。
 どこかの誰かさん、おめでとう、そしてお気の毒に! あの男はね、妻に迎えたあなたを心から愛する。でもあなたは報われない。あなた自身は愛されない!
 エドガーと結婚する女は、決して自分自身を見てもらえない。王であることがエドガーであることと不可分な以上、彼は女性を王妃としてしか見られない。愛がないわけじゃない、彼は全身全霊で想うのだ、自分の意思で選んだ相手を、かくあるべき妃として。
 自惚れてよければ、きっとあたしも愛されてた。王妃になれるリルム! もっともその判断は間違いで、あたしは私情のために慈善を利用する女で、そんな器ではなかった。エドガーは女性に優劣はつけない。器が大きくても小さくても、幼くても年老いてても、尊重する態度は変えない。でも同じことだ。彼がすべての女の上に重ねるのは、『王妃になった場合の彼女』。他の可能性も意志も生き様も選べない。
 誰かさん、その男はね、あなたを好きになったわけじゃないんだ! その男は決してあたしのものにはならないけど、そのかわり誰のものにもならない! お気の毒に、お気の毒に、ざまあみろ!!
 連絡船はもう出港するところだった。桟橋に据え付けられた支払い箱に硬貨を叩きこみ、ほとんど駆け足でゲートをくぐってリルムは船に飛び乗った。甲板の手摺にしがみつき、ぜいぜいと身を折って喘ぐ。息苦しさは走ったことばかりが原因ではない。
 解っている。本当に気の毒なのは誰か。
 本当に辛いのは誰か。
 絵の意図を勘違いされたのはいい。絵は見た人の感じたことが正解だし、本当に意図を伝えたければ自分が精進すればいい。ただ、王妃になれるやさしい女の描いたやさしい絵だと取られるのは怖かった。エドガーの期待に背いたことが怖かった。
 風もなく凪いだ水面を、白い鳥が波頭をかすめて飛んでゆく。群青の海と紺碧の空の狭間で、どちらにもまつろわぬ白い鳥は眩しすぎて眼に痛い。自己主張が強い。青く染まれない。あたしがもっと、優しい女ならよかった。愛されなくてもいいと言える女なら。私心を滅して相手の力になれる女なら。でも無理だ。あたしでは無理だ。あたしではエドガーを街頭に吊るすだけだ。

 あなたが好きなのはあたしじゃない。
 馬鹿みたいだ、それでもあたしはあなたが好きでした。



                 *          *          *



 伝書鳥での来訪予告はあったものの、たった数時間の猶予では王を迎える準備を万全には整えられない。
 右往左往する家令に、「突然のご訪問ということは陛下も気安いお心でいらっしゃるから、常どおりでよい。茶の支度をして掃除だけ済ませよ」と伝える。彼女はその日、臙脂色のモンタントドレスを着ていたが、王族を迎えるにあたり青系の衣装に着替えようとして――やめた。改まった場ではないのだし、予想できる来訪理由を考えれば逆に刺激することにもなりかねない。
 サウスフィガロ郊外にあるコネリアーノ邸を訪れたフィガロ王を、ロレンツィアは膝を折って出迎えた。
「久しぶりだね、ロレンツィア。我が国の誇る高貴な花」
 女性に対していつもそうするように、にこやかにエドガーは軽く両手を広げた。コネリアーノ家の長女は恭しく切りだす。
「申し訳ありません。当家はただいま父母共に出払っておりまして、せっかくの御幸を賜りましたのに満足なおもてなしをすることが難しゅうございます。非礼をお許しくださいませ」
「君が出迎えてくれること以上のもてなしはないよ。笑顔が見られたらもっと嬉しいけど」
 貴族令嬢は黙って再び軽く膝を折った。父母の不在をわざわざ狙って王が訪れてきたのは明白だった。
「しかし、君の家には久しぶりに訪れたけど、改めて見ると趣のあるいい邸宅だ」
 エドガーはロレンツィアの背後に控えた建築物を見上げる。
「石造りの堅牢さを主題に据えるのはフィガロでは一般的な様式だが、どこか品がある。ただ古いだけでは醸しだせない歴史の――」
「陛下」
 楚々と割りこんできた少女の鈴振る声に、エドガーは口を閉ざした。
「わたくし、先日ある場所で、ある効果表現を学習いたしました。いまそれを実践させていただいてようございますか?」
 王の顔を正面から見つめながら、ロレンツィアはこのうえなく明瞭に発音する。
「……『面倒なのは苦手なもので。とっとと本題に入っちゃいません?』」
 エドガーは面食らい、数秒だけ戸惑ったが、すぐ出所に思い当たって天を仰いだ。いかにも彼女が言いそうな台詞だ。
 ロレンツィアは軽く咳払いし、邸内に入るよう王に促した。
 招かれた客間でエドガーは、勧められた山羊革のソファには掛けずに切り出す。そう、確かに早く切りだしたくて焦れていた。
「……ロレンツィア、私は君の真意を聞きに来た」
 できるだけ静かに口を開く。胸中で煮立っている感情を知られたくはない。
「君が先日、サマサ在住のリルム・アローニィ氏と会談したという連絡を受けた。内容についても把握している。君自身が非公式ながら院に報告したものだね」
 ロレンツィアは頷く。エドガーは続けた。
「アローニィ氏は確かに、フィガロにおいて当国の指針に背く慈善活動を行った。しかしそれは悪意なき誤認が理由だ。偽情報を掴まされた経緯もある。当人に悔悛の意志はあり、取り戻しが不可能な案件でもない」
 平坦な口調を保って語り続ける。慣れきった印象操作のはずだが、今は少し難しい。
「上層部の見解はまだ揺れている。アローニィ氏を排そうと主張するものは半数程度であり、残り半数は穏健に対処しようとしている。だが……君は明確に『フィガロ王に近づくな』と彼女に告げた。それは貴族院の総意ではない。君は半数の見解でしかないものを、フィガロ4家や院の最終判断であるかのように伝えた。なぜだ?」
 花のごとき貴族令嬢は、長い睫毛を伏せてじっと黙した。即時の反論がないのを見てとり、エドガーは言葉を継ぐ。
「君は年若く、当国において何の役職にもない。なぜフィガロの国意を勝手に騙った? 君は院からも厳重訓告を受けたはずだ――これは国政への不当介入と取られかねないと。あまり大きい表現はしたくないが、その通りだと私も思う。あるいは本当に君には何らかの――」
 王は心中で己を冷笑する。八つ当たりだ、こんなのは。
「本当に何らかの、政治的意図があるのか? あるならば看過できない」
 ロレンツィアは黒髪の一筋も動かさず、美しい彫像と化している。エドガーは自分自身に呆れかえる。大ごとにしたがっているのは他でもない自分だ。彼女はせいぜい、王妃に相応しからぬ人物を遠ざけようと青い使命感で先走ったにすぎない。排斥派の誰かに吹きこまれたのかもしれないが。
 彫像が、ふと生命のない器物のふりを止めて王を見つめた。向けられた黒瞳に湛えられた意思を、エドガーは意外に思う。
「……陛下、わたくしは陛下のご質問に、できうるかぎり正確にお答えしたいと思います。そのためには大変なご足労をお願いせねばなりませんが、適いますでしょうか」


 ロレンツィアが口にした地所は、ジドール近郊だった。
 連絡船で海を渡り、着いた先からは船に乗せてきたチョコボの曳く禽車を駆る。馭者は護衛も兼ねてエドガーが王城から呼んだ。
 禽車が到着した先は、のどかで小さな集落だった。近隣に湖があり、湖畔には裕福な人々が休暇を過ごすための別荘が並ぶ。もっとも立派な一軒が目的地だった。
「この建物はアウザー様の別邸です」
 簡素だが手入れのされた前庭を進みながらロレンツィアが言う。なぜアウザー氏の別邸に用事が、という疑問は、少なくとも関係性の疑問はすぐ払拭された。ロレンツィアの家とアウザーの家は姻戚関係にある。つきあいがあっても不思議ではない。
「この別邸は内密に購入されたものです。鍵を持っているのはアウザー様と、わたくしと、アウザー様のお家に代々仕える口の堅い執事……掃除や手入れをしてくれているのですが……だけです」
 鍵を回された扉は音もなく開いた。軋まないところを見ると、普段から出入りがあるようだ。ロレンツィアが入口横のスコンスを灯すと、明色とともに無人のエントランスホールが現れる。清潔な内装だが、とにかく簡素だ。誰かをもてなすための建物ではないらしい。
 奥の間に続く扉へと誘われ、エドガーは踏み込んだ。
 内部はカーテンが閉められて真っ暗だ。ロレンツィアがまた腕を伸ばしてスコンスを灯す。油が切れていない、日常的に使われているのか……と思いつつ照明から眼を逸らし、正面に顔を向けたエドガーは、瞬間、びくりと肩を揺らして数歩下がった。

 跳ね上がった心臓が、だくだくと胸郭を叩いて暴れる。
 突然目に入ったから。鮮やかだから。大きいから。理由をさまざまに探す。だがどれも言い訳だった。衝撃の理由は、それがそれだからでしかなかった。
 無意識のうちに腰に手を泳がせている自分に気づく。回転鋸もボウガンも帯びていない、護身用の剣のみだ。それでいい時代になったのだ。この男がいないから。今はもう。
 総毛立つ全身の慄きを、時間をかけて宥め、エドガーはやっと心中で語りかける。
 ……久しぶりだな。
 ……おまえにこんな挨拶ができる日がくるとは、思わなかった。

 相手は返答しない。
 ただ一面の画布の中で――圧倒的な色の奔流と躍動する軌跡を率いて――極彩の道化は、暮れなずむ空の下に佇んでいた。

 あのときとまったく同じ情景の絵だった。リルムに請われてふたりで瓦礫の塔に登り、ケフカの姿を描きに行ったときの。
 いや、まったく同じではない。たなびく裾や房飾り、厚い化粧で生白く浮いた顔、赤黒く染まった手がぶらさげる生物の尾、すべて同じだが、たったひとつ違うものがあった。道化が子供のように見上げる宵闇の星空に舞うもの。彼の視界には映らぬ角度のはるかな高みに、ねぐらへと急き戻る白い鳥。
 作中のケフカが見ていない、見ようとしないその鳥の存在ひとつで、エドガーは道化の慟哭をはっきり読み取ることができた。あの星がほしい、あの星をとって、ああ雲が差す、星なんていらない、ほしいのはそれじゃない、なんでわからないんだ、みんな壊れろ!!
「……陛下、あの方は天才です」
 エドガーは振り向いた。その拍子に、部屋の左右に掛けられている絵にも気づく。連作だ、すべて同じモチーフが描かれている――瓦礫の塔。ここで血反吐を吐き、ここで屈辱に震えた。陽光の中にぬっと不吉に、月光の中にぼうと静寂に。さまざまの角度からさまざまの色調で、気高くすらある威容で。
 爛熟した混沌の夢に囲まれていることを知り、エドガーは軽く眩暈をおぼえる。
「天才なのです――アローニィ様はまぎれもなく。あまりにも稚く、あまりにも率直で、あまりにも自由。愚かしいほどに」
 貴族令嬢の声はかすかに震えていた。陶酔であるのだと、遅れて気づく。
「あの方はご自分自身としてしか生きられません。それが芸術家なのです。最低の意味で、そして最高の意味で」
 ロレンツィアはいったん唇を閉ざした。自分の中の高揚を抑えて平静を心がける。
「……アローニィ様は以前からあの道化を、瓦礫の塔を描いてらっしゃいました。ご本人もあまり公表するものではないと認識していたらしく、密かに収蔵しておられたそうです。ただあるとき偶然、アウザー様がそれを閲覧なさる流れとなりました。アウザー様は戦慄し、狂喜し、同時に恐怖なさいました。これは絵師リルム・アローニィのひとつの到達局面である。重大な文化的価値がある。しかし現在においては、間違いなく正当な評価を得られない」
 あの道化であり、その居城である。世界を絶望の淵に立たせた極彩色の闇。それを描いた作品が、芸術性云々の化粧箱に入れられたところで、簡単に受け入れられるはずはない。絵画それ自体は人々に感銘や衝撃を与えるだろう。だが恐怖の記憶のまだ新しい人々は、きっとその自らの心にすら恐怖して、キャンバスを焼いてしまうだろう。
「人類の至宝を失ってはならない。アウザー様はこの家を購入し、世に出せぬ禁じられた絵画の保管所となさいました。他の部屋にも同種の作品が収蔵されております。いつか永い時間が経ち、人々がこの時代を歴史として冷静に記憶するようになれば、アローニィ様の絵画におぼえる震撼を、まことの芸術的意義として味わっていただけるでしょう。……わたくしはアウザー様の協力者です。氏はもともとわたくしの競売仲間でした。アローニィ様の作品が出品されたときはよく競り合ったものです。負けたときは本当に悔しゅうございました」
 きりと白い歯を噛む。エドガーはようやく悟った。この令嬢の先日の行動が意味するものを。リルムへの問責自体は一種の道理を含んでいるが、そうした真の意図を。
「この絵は、フィガロ王妃となられる方には描けません。描いてはならないものです。帝国と同じ轍を踏んではならぬ国、その王室に入る女性には。……王妃の任を負いながら画家として歩むだけなら、恐らく不可能ではないでしょう。世俗の生活ごときであの方の技量や意欲は揺るぎません。やさしく美しい絵を描く王妃として愛されたでしょう。しかしこの絵は、これらの絵は描けますまい。息をつめて暗澹を覗きこみ、寂寥にこころを浸すような――無慈悲で不吉で忌避したいはずの、しかし、だからこそ人心を惹いてやまぬ絵は――描けますまい」
「私や、君や、周囲の理解者が、」
 自分の声が嗄れていることに気づきながらエドガーが抗弁する。
「隠してやればよいことではないか? 護ってやれば、庇ってやればよいことではないか?」
「よしんば王宮すべてが、王妃の秘密を守ると誓ったとしても」
 ロレンツィアは凍った鈴の音の声で予言した。
「愚直なまでのあの方は、ひとたび王妃として座に収まれば最後、相応しく振る舞おうとなさいます。世に名高きフィガロ王の隣に立つ王妃に、このような闇は不要と……いえ、はっきり害悪だとお考えになるとわたくしは予想します。民衆に知られれば強烈な不興を招く事実には違いございません」
 フィガロ王は奥歯を噛みしめる。道化よ、敵はまだ、おまえだったのだ。
 リルムが描いたナルシェの古い伝説を思い起こす。不寛容で殺伐とした救われない物語。正直にいえば、好きにはなれない。それが生んだ女性への人権思想は認めるが、好きにはなれない。暴力の連鎖を肯定したくない。ただ、忘れられない。
 人に赦しを与えたかった自分は赦しのない物語を愛せない。ただ愛せずとも、忘れられなかった。快不快を通りこして記憶の底に焼きついた。あるいはそれが心だった。
「王室に入られたアローニィ様は、もしかしたら、堪えきれずに昏い絵を描いてはしまうのかも知れません。そして完成した瞬間、火にくべてしまわれるでしょう。自己嫌悪と抑圧だけが残り、作品は残らない。……あらゆる生物は変容します。それが作家としての変容であるなら、すなわちアローニィ様がご自身の意志で昏い絵からお離れになるのなら、それは引き受けましょう。しかし、描きたいものが描けない抑圧は意味がまったく異なります。……アローニィ様のみならず、わたくしやアウザー様にとっても」
 しばしの沈黙のあと、ロレンツィアはドレスの裾を引き、音もなくエドガーの正面に回った。
 深々と頭を垂れて蒼衣の王に跪く。


「我が君、どうぞお許しくださいませ。わたくしは陛下の民でありながら――
陛下のお幸せよりも、一画家の大成を望んで御心に背いたのです」


 どちらも長く動かなかった。
 貴族令嬢は微動だにせず姿勢を保っていたが、相手の無言をさすがに気遣って顔を上げる。同時にエドガーは、むしろ顔を見られるのを避けるように急に踵を返した。
 靴音を立てて扉へと歩き去り、勢いよく開けたあと立ち止まる。
 背中を向けたまま数秒ほど沈黙し、フィガロ王は小さな声で、先に戻る、とのみ告げて退出していった。



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2013/12/27