愛用のスツールをずるずる引き寄せ、画架の前に腰掛ける。
 座ったあとで抱いた違和感は、いつもなら尻が痛くならないよう敷くクッションを、ソファに置き忘れたからだ。リルムは憂鬱そうにソファを見やったが、取りにいくためのたった数歩が億劫で仕方ない。どうでもいいやと熱のない視線をキャンバスに向ける。
 画布の上にはその視線と同温の冷涼な曇天。
 炭鉱都市の苛烈な伝説を描いた自作は完成が近い。

 ……知人に借りた歴史の本にあった、さまざまの人物評を思い出して考える。リルム・アローニィが不吉で昏いモチーフの作品を遺している理由を、後世の研究家はどう解釈するだろう?
 後味の悪い伝説を描いたこの絵程度なら、単なるバリエーションのひとつとして見てもらえるかもしれない。自分でも気にしていないので来客があっても画架に載せっぱなしだ。だが、あの道化やその居城を描いた作品はさすがにどうか。
 アウザー氏に初めて知られてしまった日のことを思い起こす。古いクローゼットに隠しておいた道化の絵を見られたのは、笑えるほど間の抜けた経緯だった。アトリエで談笑していた最中、かかりが甘くなっていたクローゼットの鉤が外れ、ばたばたと作品がなだれ落ちてしまったのだ。リルムは慌て、それゆえ逆に平気そうな顔をして「やだなあもう」とさりげなく元に押しこめようとした。待ってくれ! と発された悲鳴じみた声が彼女の手を止めた。
 震える手でキャンバスを拾いあげたアウザーの、老いて弛んだ柔和そうな頬は、血の気が引いて真っ白だった。怒られるかなと思ったが、危惧に反して何も言われなかった。長い長い沈黙ののち、氏はひとこと言った。
「……この絵はここに置くべきではない……専用の収蔵場所を用意してあげるから、私に任せておきなさい……」
 以来、今日に至る。軽々しく人に見せる題材ではないと自覚していたので、アウザーの好意は有難かった。自分でも解っている。陽のあたるところに出すべき絵ではない。
 なんであたしはケフカや瓦礫の塔を描くんだろう?
 思想や信条として、彼に同調する気はない。あれはそういったものの埒外だ。断崖へと疾駆する自らの馬に大はしゃぎで鞭を当てつづける狂喜の王。癒えない欠損を埋めるためか、あらゆるものを巻きこまないと気が済まない。祖父を救いに乗りこんだ塔で見た、信者たちの虚ろな瞳孔には怖気をおぼえた。彼らは合理上の判断でケフカに味方したのでもなんでもなく、あえて狂気に寄り添うことで自らの心が潰れぬように図ろうと精一杯だった。その空気を払拭したくて、威勢よく祖父を一喝したのだ。
 瓦礫の塔の最上階、一同が願いを込めて投げかけた問答は、耳障りな嘲笑にかき消された。魔導実験による精神荒廃が理由だと知ったときは、少しの憐憫なら抱いた。でもそれを理由に焦土を増やすわけにはいかなかった。人として赦せず、存在として容認できなかった。
 打倒の意志は揺るがなかった。だがケフカの個が消えてゆくことだけは、リルムはひそかに惜しんだ。人間の面影をかすかに残した毒々しい道化姿も、三闘神の力によって禍つ神と化した忌まわしき孤高の姿も。超然たるケフカの個は、歴史の闇に沈めてしまうには惜しい鮮烈さを誇っていた。望むと望まざるとひとつの時代の象徴になっていたのだ。
 あの道化を――黄昏の時代を象徴する圧倒的な存在感を――その色と形を記憶しておきたいとリルムは願った。だからフィガロ王に頼んで、彼を描きにいくために瓦礫の塔に同行してもらったのだ――
 ……結った金髪をうしろに垂らした広い背中が、脳裏でこちらを振り返りそうになり、リルムは力なく頭を振った。元の思考に戻ろうと心がける。リルム・アローニィが昏いモチーフの作品を遺している理由を、後世の研究家はどう解釈するだろう?
 きっと彼らは様々なことを語る。両親なき幼少期を送った結果、このような絵で逆説的に自らを慰めるようになったとか? あるいは、戦いに赴こうとした祖父に置き去りにされかけた恐怖が反映されているとか? むしろ幼いながらに経験した戦闘の日々が人格形成に影響を及ぼしたとか?――父親が犯罪者だからとか?
 それぞれが事実であり、それぞれが無関係ではない。どれも当て嵌まっているようにも思えるし、どれも見当はずれであるようにも思える。裕福かつ愛情深い養祖父に育てられたリルムは、自分が特に不幸だとは思っていない。ただ、自らの育った家がよそと比べて静かなことは理解していたし、自分が齢のわりに早熟と呼ばれる理由についても推測しなくはなかった。自分のことは自分では分析できなかろうと一蹴されたらそこまでだけど。
 でも……もし直に訊いてもらえたら。
 なぜあなたはこのようなモチーフを描くのですか? と素直に尋ねてもらえたら。
 恐らくこう答えただろう。
 ――本当は、あの初夏の野辺で見たまっしろい髑髏が、今も眼の奥で眩しいだけなのだと。


 りん、と小さく玄関のベルが鳴った。
 アトリエから本棟の玄関までは遠い。ストラゴスが出てくれるだろうと無視しかけたが、気の利く祖父の不在を思い出す。ワゴンに絵筆を置き、のろのろとリルムは立ち上がった。まあいい、今日は雑事に追われているほうが気が楽だ。
 玄関に取りつけられた覗き穴からは、馴染みの顔が見えた。
「よう。これ」
 金髪の男の子は扉が開いた途端、ろくな挨拶もせず白い封筒を突きつけてきた。それだけの動作でリルムも把握する。また手紙の誤配があったようだ。
 ストラゴスとリルムの受け取る手紙は、サマサ住人の中でも際立って多い。リルムは画商や展覧会主催との取引、ストラゴスはいよいよ発行の近い魔獣大全についての打ち合わせ。ほとんど伝書鳥を利用して送られてくるが、ごくまれに熟練の足りない鳥が届け先を間違える。屋根の色形が少し似ている近所の家には、ときどき迷惑をかけていた。
「悪いね、いつもありがと」
「今度また美味いジドール土産持ってきてくれりゃ、おあいこだよ」
 ぬけぬけと言って隣家の少年はさっさと踵を返す。リルムも扉に手を掛けて閉じようとしたが、目の前で金髪がくるりと翻った。
「そうだ、歴史の本こないだ返してもらったけどさ、あれの続きは貸さなくていいの? 全巻読破したけりゃまだまだ先は長いよ」
 ああ、とリルムは顎に指をあてる。先日まで読んでいた歴史本は彼の所有物だ。
 本を借りた目的は、フィガロ王宮の慣習について学ぶためであり、該当の情報を載せていない巻に用はない。ただそうと知られるのが恥ずかしく、持ち主には理由を言ってなかった。
「あー……じゃあ借りようかな。いま取りに行ってもいい?」
 迷いながら答えた理由は、賢くなりたい、と思ったからだ。智は力になる。
 権利を行使するためだけでなく、より堅実な判断をするためにも知識は要る。所有財力に判断力がおいつかねばどんな事態を引き起こすか、リルムは先日思い知ったばかりだった。本の内容は、単純に興味深くもあった。書物の知識はたとえば、かつて旅先で食べた料理にもこんな成り立ちがあったかと実体験を補強してくれる。就寝前の読み物にもちょうどいい。
 ……もっと繰り返し読みたかったあの本が、もう手元にないことを忘れるためにも。



                 *          *          *



 石造りの回廊を歩く男たちに、近衛兵が兜の庇に手をあてて簡易な礼を返す。
 自分はともかく、隣の熊男にはもっと丁重な態度をとるべきではないかとセッツァーは思ったが、現在この男はどうやら正式なフィガロ王族とは扱われないらしい。それでも城の人々が――特に古参兵や年老いた宮女たちが――敬愛と呼ぶには甘ったるいほどの視線をマッシュに向けているのには気づいた。齢30を超した筋骨隆々の拳闘士を、まるで愛らしい仔犬かのように瞳を潤ませて見つめているから気持ち悪い。隣に自分さえ居なかったら、ふところから飴玉など取り出して食べさせたがるんじゃなかろうか。
 来客用の謁見室を通り過ぎ、さらに奥まで案内される。王の私室に招かれるのは彼らには馴染みの処遇だが、今日については屋上にある小さな展望台に案内された。城内最奥の階段からしか上がれないこの場所は、いわばエドガーの第二の私室だ。ただし彼がそこで過ごすのは、今日のように城がコーリンゲン側に出ている場合に限られる。コーリンゲン側の砂地は狭く、せいぜい荒野といったところで、雲が出ていれば比較的過ごしやすい。一方サウスフィガロ側の砂漠は広く、陽が陰ることなどまずありえない典型的な熱砂地帯だ。昼間の戸外は到底くつろげる場所ではない。
「やれやれ、弟が久しぶりに顔を出したと思ったらろくでなしと一緒か。悪い遊びをおぼえちゃいないだろうね」
 斑雲が散る青空のもと、微風に長衣の裾を絡ませてエドガーは笑いかけた。
 反射的に笑顔を返したマッシュが、次の表情に困って頬を撫でさする。どのような第一声を発すべきか迷っているらしい。様子を窺っていたセッツァーは前に進み出た。事態を面白く転がすためには自分からの工夫も必要だ。
「ほらよ」
 展望台を囲む低い城壁の上に、持参のボトルをことりと置く。勢いよく置いたほうが演出効果が高いのは心得ているが、澱が舞い上がってしまうので乱暴には扱えない。
「……口を開けば挨拶の前に酒ときたか。用意するグラスは1個にさせてもらうぞ? 俺とマッシュはゆっくり近況を語りあうんだからな」
「グラスは別に何個でもいいが、これは俺からおまえにくれてやる1本だぜ。『ヒズ・マジェスティ』、今は無きベクタ醸造所の14年物。俺の秘蔵の逸品だ」
 エドガーは思わず瞬きをした。賭博師が口にした酒の銘は、気軽な手土産とするには少々重い。
「……なぜ、それを俺に?」
「たのしい見世物代の先払いってとこだな。特等席で見守らせてもらうぜ。そのためにそこの熊男の足になってやったし」
 マッシュは少し嫌そうにセッツァーをちらりと見た。エドガーには彼らが勿体ぶる理由が解らない。ただ、笑顔と呼ぶには屈託が強すぎる弟の表情に、そこはかとない予感なら抱く。きっかけは作ってやったとばかりセッツァーは後ろに下がり、来客用に出されている籐編みのベンチにどっかと腰掛けた。
 兄と対峙したマッシュは背嚢をごそごそ探り、ある品物を取り出した。
「これを持ってきたんだ」
 よく知る暗緑色の表紙の本が出てきたことに、エドガーは驚いたが、同時にそれがなぜかひと回り小さくなっていることにも驚く。――いや、違う、弟の手が大きくなったのだ。彼はもうベッドに伏せている病弱な幼子ではない。
「……次にフィガロに行くとき返しておいて、っていう手紙と共に、オレがいま住んでる修練小屋に送られてきた。誰からかは解るよね。兄貴が自分であげたものだし」
 エドガーはマッシュの手中にじっと視線を注いだ。少年時代にさんざん読み古した、愛着深い、思い出の冒険小説。
「悪かったな、マッシュ、勝手な真似をして」
 計算通りの笑顔を完璧に頬に刻み、王はにこやかに詫びの言葉を紡ぐ。
「これは俺の本だけど、おまえの本でもある。俺たち2人の大切な一冊だ。無断で人にあげたりしちゃいけなかった。リルムもそれを知って返してくれたんだね」
「……『Fifteen men on the dead man' chest――』……」
 突然、マッシュが口走った謎の文句に、傍で見ているセッツァーは眉を寄せる。だがエドガーがにやりと悪戯っ子のような表情を浮かべたのを見て、あらかたの意味を察した。
「……『Yo-ho-ho, and a bottle of rum!』」
 弟の続きを兄が引き取る。どうやらその本に出てくる有名な一節らしい。幼い双子はかつて、作中人物になりきって夢中でごっこ遊びに興じていたのだろう。
「暗記するほど読みこんだでしょ、2人でさ。だから誰かにあげるのは別にかまわないよ」
「少年時代の俺たちにとって、海洋冒険譚はすごく新鮮だったっけね。泉の発見を喜ぶくだりを読んで驚いたもんだ。砂漠の真ん中にいる俺たちと、海の真ん中にいる主人公たちとで、ありがたがるものが同じだなんて」
 懐古の色をやわらかく浮かべる兄に、マッシュは生真面目な顔を返した。
「そこまで憶えてるなら、ほかのことも憶えてるだろ? 約束したよね。この本は、オレたちが大人になるまで大事にとっておくんだって。……将来、自分の子供にもこれを読ませるんだって」
 フィガロの王弟は正面に視線を据える。
「リルムにあげたのは、そういうことなんだよね、兄貴?」
 エドガーは黙秘した。溜息とともに肩をすくめたが、その動作に焦りは感じられない。いつかは知られると覚悟していたのだろう。
「兄貴がこれをリルムにあげたのは、だから、かまわないんだ。オレがどうしても気になるのは、これが返されてきたということなんだ」
「……おまえね、その顛末を俺の口から言わせるのはちょっとひどいぞ。贈り物を突き返されたってのは説明するまでもなくそういう意味だろ。いつから無邪気にひとの失恋をいたぶる子になったんだ?」
 道化た調子でエドガーは両手を広げ、開き直った笑顔を浮かべた。
「弟よ、ついでにそこのろくでなし、このさいだから教えてくれ。どこまで事情を知ってる? 俺の愉快な醜聞はどれくらい広まってるんだい?」
「ほとんど全ての事情を、ほとんど全ての仲間たちが把握済み、ってとこだな」
 ぬけぬけと言う賭博師に、エドガーがさすがに眼を丸くする。
「なにせ俺が、おまえが小娘にこてんぱんにふられる一部始終を、会うやつ会うやつに吹聴してまわったからな」
「……なぜおまえにその一部始終が解るんだ」
「何度も同じ説明させられるのには飽き飽きだが、これが最後だから答えてやるぜ。いつだったか、おまえやカイエン達をサマサまで乗せてやったろ? 俺はあの家の2階に寝にいき、仮眠前に一服しようとしたが、孫娘の絵にヤニが付くからテラスで吸えとじいさんに叱られた。さて、テラスがアトリエの真上にあったことと、おまえらがご丁寧にも窓を開けはなって修羅場を演じてたことは、果たして俺の責任なのかね」
 ……蒼い詰襟に包まれた肩が、激昂のあまり震えだしはしないかと、マッシュは不安な面持ちで見守った。だが心配と反してエドガーは無表情だった。特に色白ではないはずの額の辺りからみるみるうちに色が抜けてはいったが。
「――つまりだ。2階のテラスに、盗み聞きという良い趣味をした、忌々しいおしゃべり鳥が1羽留まっていたというわけか?」
 突き刺すような低い詰問に、セッツァーは悪びれずにやにやと頷く。エドガーは脱力した表情で、石壁にどんと背を預けて眉間を押さえた。想定外の事態にむしろ怒りを削がれてしまったらしい。
「……仮にも賭博場の胴元だった男が、こうも口が軽いだなんて世も末だ」
「いったん終わってせっかく始まった世界なのにもう終末か。早えな」
 エドガーは呆れた顔で何かを言い返そうとしたが、開けかけた口を寸前で閉ざした。正面に立つマッシュの落ちつかなげな態度に気づいて。
「兄貴……ごめん、俺もセッツァーから全部聞いちゃったんだけどさ……」
 フィガロ王は大柄な弟を見上げた。ああ、切羽詰まった表情をしている――優しい弟が自分を気遣っている。
「……兄貴はこの結果を、ちゃんと納得してるの?」
 真摯な口調を受け、双子の兄は申し訳ない気分で姿勢を正した。マッシュが自分のせいで気を揉んでいる。安心させてやりたい。エドガーは精神発露の方向性を、ひとりの男としてのものから弟を心配する兄のものへと切り替えた。実はそれが保身であるとは自分自身で気づかずに。
「納得というものはこの場合、結果のあとについてくる義務なんだよ、マッシュ」
 噛んで含めるように話す。他人事のように語るのは気が楽だ。
「人間関係はお互いの条件が揃わなければ成立しない。成立しないとなれば、その結果を粛々と受け止めるのが当事者の義務だ。そうだろ?」
 じっと唇を噛みしめているマッシュの肩をかるく叩く。
「俺の往く道とリルムの往く道は交わらなかった。リルムひとりのためにフィガロを軽んずることはできない。逆も然りだ。フィガロのためにリルムを食い物にはできない……」
 意識の奥底で、一面の画布のむこうで。あの日の道化が振り返った。
 紅く彩られた爪でこちらを指差す。けらけらと。嗤う。
「……リルムの個性は王妃という役職には向かなかった。およそ女性の就く職業で一国の妃ほどがんじがらめなものはない。リルムはそれとは真逆の才を持っていた。人心を揺さぶる作品を生む天賦の才だ。彼女の魂の自由さが織りなす業だ。だからこの結果は、両者が不幸にならないための必然なんだよ」
「解ってるつもりだよ。でも、」
「マッシュ、俺の望みはきちんと叶っている。俺が願うのはフィガロの民と仲間たちの幸福だ。それはどちらも叶った。だからこれは希望通りの展開だ」
「オレはそうは思えない。これが兄貴とリルムの希望した結果だとは、どうしても思えない」
「……可愛い弟よ、もしかしたらおまえは勘違いしておらぬかね?」
 対話の空気を明るくしようと、エドガーは腕を組んでわざとらしい困り顔をしてみせる。
「ふられたのは俺なんだよ。そんなのいやだ、だめだと駄々を捏ねるにしても、俺に言っても意味はないだろう。女性に冷たくされたのに慰められるどころか責められるなんてつらすぎるじゃないか。……リルムが先に、俺ではいやだと言ったんだよ」
「……兄貴が好きな女は自分じゃない、リルムはそう言ったんだよね? オレはそれが間違ってる気がしてならないんだ。そしてそれ以上に、兄貴がその間違いを指摘しなかったことが、すごく気持ち悪いんだ」
「間違ってないよ。間違ってないから指摘しなかった」
 やさしく、できるだけやさしくエドガーは言った。
「俺が欲しかったのは王妃になれる女性だ。その条件を満たしている女性だ――」
 見せるべき表情は笑顔でよいのだろう。
「リルムじゃなくても、いいんだ」
 くぐもった破砕音が突然、鼓膜を打ち、ベンチ上のセッツァーがぎくりと身を縮めた。
 拳闘士の太い腕が、真横にある分厚い城壁に叩きつけられている。激情のままに打ち付けてしまったが寸前で手加減したらしく、被害は放射状のひびに留まっていた。彼が本気を出せば岩をも砕く。
「そんなわけ、ない……!」
 衝動的な行動とはうらはらに、その声は震えて細い。
「そんなわけあるか……!!」
 夏の天蓋を思わせる蒼い瞳の眼尻から、ぼろりと涙が零れた。
 見守るエドガーは眼を細め、困ったな、泣かないでおくれと言いたげな穏やかな表情だ。なるほど、これがフィガロ王の処世術かと賭博師は醒めた感想を抱く。
 他人を自分のために泣かせて、それを慰める役に回れば、自分は涙を見せずに済む。だがそれは諸刃の剣じゃないのか? 感情を預けられっぱなしの側はどう思う?
 セッツァーは背もたれに腕を載せる姿勢をとった。もとより他人の修羅場を愉しむつもりで来たが、ひょっとすると本格的におもしろいものが見られるかもしれない。
「兄貴、リルムと本当に納得いくまで話し合ったの? 本音をぜんぶ聞きだしたの? やることは全部やったの?」
「話し合いはした。相手の言葉が本音かどうかなどは疑いだしたらきりがない。だがなんにせよ、あれが俺へと向けられた彼女の回答には違いない」
「――いや、違う、ごめん。オレはそれ以前の話をしたいんだ。自分でもいま気づいた。リルムの本音がどうとかじゃない。それはここで考えても埒が開かない。オレがいやなのは、兄貴が、自分の幸せを掴むために行動してないってことだ」
 固い手のひらでごしごしと涙を拭い、マッシュは言った。
「これがもし国政だったら、相手と何度も話し合ったり、別の視点から考えたり、妥協案を探したり、そういう努力を兄貴はするよね? 問題解決のために粘り強く取り組むはずだ。なのに自分のこととなると全然なにもしない。兄貴の幸せはどこにあるんだよ?」
「俺の幸福はフィガロの幸福だよ」
「オレは兄貴自身が幸せにならないといやだ」
「……優しすぎるな、マッシュは。そんなこと気にしなくていい」
 エドガーは手を伸ばした。自分より高い位置にある弟の頭を撫でようとして。
「おまえの優しさだけで、この兄は満足だよ」
 ぱしん、と衝撃を受けて腕が横に流れる。痛みを感じるほどではなかったが、エドガーはきょとんとして、あらぬ方向に差し出す形になった自分の手を眺めた。
「うぬぼれるな」
 一音一音、はっきりと区切ってマッシュは言った。
 何が起きたのか、数秒間エドガーは理解できなかった。弟の頭を撫でようとして、撥ねのけられた?……しかも今、何と言われた?
「うぬぼれないでくれ。兄貴のためじゃない。オレはオレ自身のために言ってる」
 マッシュが身を乗り出す。蒼い瞳は感情をちりちり炙る炎の色だ。
「他でもないオレ自身のために、兄貴には、幸せになってもらわないと困る。……いつかの昔話をもう一度しよう。親父が亡くなった夜、ふたりでコイントスの勝負をしたね。どちらが城を出て自由に生きていくか。あのとき兄貴は、恨みっこなしの勝負で決めようと言った。オレも了承した。でも、あのコインは両表だった」
 脳裏にかつての忘れえぬ情景が閃く。コインを投げたのはまさしくこの展望台だ。
 夜半のぬるい風。燐光を撒いて舞う硬貨。
「後になって、あれがいかさまの勝負だったと知ったオレは……嬉しい気持ちもあったけど……複雑な気分だった。2人とも自由に憧れてたはずなのに。でも兄貴がいかさまをしたのなら、兄貴がやりたくてやったことだから、それでいいと思った。自分で自分の道を選んだから、兄貴は立派な王様になったんだと思った。だけど」
 マッシュが一歩、前に踏み出す。双子の兄は気圧されて退きかけたが、それを認めたくなさに踏みとどまった。
「いまの兄貴は、王様をやってることがすごく不幸そうに見える。兄貴が不幸になるとどうなるか解るかい? あの日出ていったオレがいやな気分になるんだ。自分のことが、苦労を人に押しつけて楽なほうに逃げた、無責任で我儘なやつみたいに思えてくるんだ」
「……おまえの我儘じゃないだろ。俺がやったいかさまなんだから俺の我儘だ」
「そうだけど、オレの気持ちは晴れない。想像してみてくれ。オレと兄貴が道を歩いてる。寒い日だけどコートが1枚しかない。兄貴はむりやりオレに着せる。譲ろうとしても受け取らない。ただ、今までの兄貴は「俺は格好よく歩きたいから野暮ったいコートなんかごめんだね」って顔をしてた。そして颯爽と格好よく歩いてた。でも今の兄貴は俯いて背中を丸めてる。寒そうにとぼとぼ歩いてる。自分だけ温かいコートを着てるオレは居心地が悪い。俺がたとえば小さい子供だとか、虚弱だとか、何か理由があるならともかく、オレは健康な一人前の男なのに。……なあ、解るだろ? オレはさっきから自分の都合しか言ってない。兄貴が気の毒だとかじゃないんだ。オレ自身がいやな気分なんだ」
 エドガーは、言葉を探す表情を作った。なにか冷静で論理的な、冗談めかしてうまく説得する言葉を探す顔だ。言わせずマッシュは畳み掛ける。
「兄貴は国を支える、オレはその兄貴を支える。今までそれで納得してたけど、それは兄貴が幸せであることが大前提だ。兄貴が不幸だとオレが幸せになれない。――この迷惑な仕組みを作ったのは、兄貴のほうだよ」
 エドガーの眉がひくりと動く。強い単語は効果的だった。
「もっとはっきり言おうか? 兄貴はオレに勝ちを譲ってくれた。対等ではない勝負でこっそりと。それがオレの幸せだと思ったら大間違いだぞ。……確かにオレは王城に嫌気がさしてた。2人で国を出ようだなんて無責任なことも言った。頼りない、自覚のないガキだったかもしれない。でも、オレだってフィガロの王子だった。コインで恨みっこなしの勝負をしようと言われたら、2分の1の確率で王位を継ぐ決意を本気で固める程度には。対等な勝負もしてくれないって、それはオレを舐めてるのとどう違うの?」
「……当時のフィガロは、帝国という蛇に睨まれたちっぽけな蛙だった」
 フィガロ王は王としての声音で言った。そうしないとうまく発音できない。
「あの夜、おまえも言った。国王の死など誰も心から悲しんでいないと。極端な視点だったけど一片の真実だ。俺自身、哀しみに浸る間もなく、内外の敵に足元を崩されない方法を考えなきゃならなかった」
 我知らず握り拳を作る。自分はそれができる薄情な息子だったという意味でもあるだろう。
「みな帝国の抑圧に怯え、せめてもの備えを求めて水面下で利権争いを起こしていた。派閥は左右に入り乱れ、全員が全員の貶めあいに勤しんでいた。本来ならああいう時期こそ足並みを揃えなければならないのに。……だから俺はフィガロを強引に纏めた。恨みを買い、血を流し、必要があれば保身に走った。懐いた者は手駒として食いものにし、足手まといは躊躇なく切り捨てた」
 人でなし、少年の母が耳の奥で叫ぶ。息子は新聞を書いただけなのに。
 屈辱に耐える昼と眠れぬ夜。習い性となった人当たりのよい笑顔に自分で吐き気を催す日々。
「フィガロを護るためならどんなこともした。そんなこと、優しいおまえにはさせられない」
「させられない、と思ったのが兄貴の判断ならそれでいいけど、なぜその理由をオレに言わなかったの」
「言ったらおまえは傷つくと思った」
「それは、『あいつはこの状況を受けとめるだけの強さがない』と同義?」
「……なぜ、そんな言い方をするんだ……」
 エドガーの声は嗄れている。マッシュは怯んだ。兄とは非なる痛みを彼も受け続けていた。しかし言わなければならない。
「兄貴はひとりで多くを引き受ける道を選んだ。見ているほうが歯痒くなる道だ。でもそれが兄貴の選択だ。自分で選んだ道には、どんな結果であろうとある種の満足が待っているはずだ。だからオレはそれを尊重してこっそり支えるつもりだった。……でも、いまの兄貴には自分の意思がない。流されるまま不幸そうな顔をしてる。兄貴、やりたくてやってるわけじゃないんなら、意地なんか張る意味ない。王様やってるせいで不幸なら、俺がフィガロを預かるよ? 俺がフィガロの王になる」
 演技ではなく、エドガーは吹き出しかけた。
 雰囲気を軽くするために笑おうとしたのではなく、ごく自然に失笑しかけた。突飛な冗談としか思えなかったのだ。
 寸前で醒めたのは、自分とよく似た顔の男がまったく真剣だったからに他ならない。
「……おまえにもう王位継承権はないよ。抹消済みだ」
「継承権を復活させた例は長いフィガロ史に一例もないかな? なんだかんだで取り繕った例くらいあるはずだよ。先例がなくても別にいい。オレが始祖になる新しい王室を作ればいいだけだ。国名や国土や政治形態はそのままで」
 フィガロ王は、小さな動悸をおぼえた。――まさか。無理に決まってるだろう? 弟は10年以上フィガロを離れていた。なんの政治実績もない。王としての教育や意識形成はふたりとも同等に受けてきたが、17歳以降の経験が段違いだ。昔の成績だって自分のほうが良かった。何を焦ることがある? 普通に考えて可能なわけないじゃないか。
 本当に?
 服の上から左胸を押さえたい衝動をエドガーは堪えた。自分が国を牽引してきた、その確信ならある。王としてエドガーには千の後悔があったが、千と一つの自負があった。現状のフィガロの発展は自分が磨き上げたのだ。もちろんフィガロの民がもともと持つ底力の賜物なのだが、それを護るために奮闘した。
 ただ。
 逆にいえば、安定期の今こそ、求められる王の姿は変わってくるのではないか。かつての変乱期、エドガーは帝国に抗うべく必死で有能な人材を発掘した。王としての力の大半をそれに割いたといっていい。官僚制を敷き、それを円滑に運用するシステムを構築した。有り体にいえば、自分が早晩殺されても持ちこたえられる国にしたかったのだ。父には17歳の跡継ぎがいたが自分には十分な年齢の子がまだない。救世の旅をしながら執務に支障を出さずにいられたのはこの仕組みのおかげでもある。
 実務の専門家が各部署を担当する仕組みは整っている。では今のフィガロに必要な王は、自分のような策謀屋よりも、率直で小気味よい人徳を持つ人物ではないか?
 官僚たちの統括は容易ではない。柔軟さや腹芸を求められる。だがマッシュは決して愚かではないし、少なくとも優柔不断ではない。まず気前のよい人柄があれば、それを見込んだ臣下たちが提言をしてくるだろう。提言をまるごと信じこむのも危険だが、取捨選択を誤らなければ、マッシュが良き王になるのも可能ではないか?
 ――父は。
 ――フィガロをふたりに任せると残した父は、本当は、どちらを。
 何か熱くて赤黒いものが、胃のあたりで爆ぜるのを感じた。久方ぶりに抱く感覚だった。
「兄貴は立派な王様だ。いつも期待以上の仕事をしてみせる。でも、立場に縛られるくらいなら辞めてしまえってオレはいつでも言うぞ。オレだけはそう主張する権利がある。代わりにやってやる。やりたくもない王様にいやいや治められるよりはそのほうがフィガロのためだ!」
「……お前に……!」
 水の深みを思わせる蒼眼が、ぐらりと沸騰しかけた。だがエドガーは唇を噛んで呑みこむ。マッシュが舌打ちしたそうな顔をするのをセッツァーは確認した。もうちょっと押せ。
「兄貴はフィガロのために自由を諦めた。やるせない苦痛もあったと思う。ただな、なんでもかんでもフィガロのためだって言っときゃ済むと思うなよ。自分が犠牲になればいいという開き直りですべてを片付けるな! リルムじゃなくてもいいだなんて卑怯な思いこみをするな! 自分が流される臆病をフィガロのせいにするのはやめろ!!」
「……お前に何が解る!!」
 エドガーがついに吼えた。怒号に弟が応酬する。
「解らないね、賢しらに不幸ぶってる奴のことなんか!!」
 がつん! と肉を撲つ音が弾けた。顔面に殴りかかったエドガーの拳を、マッシュはそのまま鼻っ柱で受けとめている。上体は揺るぎもしない。フィガロ王が低く唸る。
「兄貴、オレたちは同時に生まれた対等な男だ! だからこれは仕返しだ! 兄貴がオレにむりやり自由を与えたように、オレも兄貴をむりやり幸福にしてやる!」
 ひと回り大きい弟の拳が、エドガーの顎のあたりを突き上げた。
 長躯に見合った重量があるはずの身体はのけぞり、後方に吹っ飛ぶ。隅に積んであった木箱の山に背面からつっこみ、がらがらと騒々しい音があたりに響く。
 何瞬か遅れて、展望台の階下から数人の声が聞こえた。長靴が階段を蹴る音が続き、跳ね上げ扉を開けて衛兵が顔を出す。
「何事ですか?!」
 さすが、対応が速いなとセッツァーは感心する。だがいましばらく邪魔はさせられない。
「あー……格闘術の手習いだ」
 賭博師は呼吸するように嘘をついた。
「国王陛下が弟から、ダンカン流の護身術を習うんだってよ。多少物音がするし、気合の一声も漏れ聞こえるだろうが、まあ気にするな」
 振り向いてにやりと笑いかける。
「そうだよな、お2人さん?」
 奇妙な沈黙があったが、王弟がゆっくり頷き、立ち上がった国王が重低音で「下がっていい」と命じたならば彼にできることは何もない。頷いて衛兵は扉を閉める。
 その後はといえば、子供の喧嘩だった。殴られて殴りかえし、打ちこまれて打ちかえす。どすんばたんと埃まみれになって怒りをぶつけあう兄弟を、ベンチで見守りながら賭博師は、満足げな顔で煙草に火を点けた。
 目の前の惨状をゆったり分析する。熊男のほうは、あれでフルパワーの3割といったところか。拳に本気の気を纏わせつつも、無意識に力だけは抑える芸当をこなしている。受け方もうめえから、疲労とダメージを溜めこむのは兄のほうばかりだ。フィガロ王の矜持なんざどうでもいいが、これに関しては相手が悪すぎると同情してやってもいい。まったく、野蛮な格闘家の弟なんか持つもんじゃねえな。
「王が人を愛せない国で、誰が幸せになれるっていうのさ! オレはフィガロをそんな国にして欲しくない!」
「綺麗ごとを言うな! どうしようもない! 俺とリルムは不幸にしかなれない!」
「兄貴は何かしたか! 自分がどうしたいか何を思ってるか、リルムにちゃんと言ったか!」
「……俺の立場でそれをすると強制になるんだ!」
「だからって考えるのを止めていいのかよ!」
 会話ごとに拳が往復し、打音が交差した。攻撃をあえて避けずに最小の被害で受けとめるマッシュの捌き方は巧みだが、さすがに口の端を切って血が滲んでいる。エドガーはもっと酷かった。鼻血を流し、髪は乱れ、瞼のあたりにうすい青痣ができつつある。
 右頬にするどい一打を受け、よろめいたエドガーは片膝をついた。ぎりぎりと歯軋りしながら他人を見上げる表情は彼を知るものならば珍しい。
「ちゃんと欲しがれ……手を伸ばせ……自分で決めろ!」
 拳闘士の横顔に、泣き笑いに似た痙攣が走った。
「欲しいものを、欲しいと言え!」
 掌底をまともに正中に受け、エドガーは再び吹っ飛んだ。石床にしたたかに脇腹を打って一瞬呼吸が詰まる。がっ、と王は血反吐を吐いた。目の前がちらちら点滅し、新旧の記憶が意識野にまたたく。ストラゴス邸のアトリエ。痩せた父。ニケア港の盗賊たち。顔を隠す大きな本。赤い傘の少女。それ、重そうだね――
「……兄貴が愚痴を言える性格だったら、オレは喜んで聞いたんだけどね。でも兄貴は言ってくれない。だからこうするしかない。兄貴、オレは強くなったよ。フィガロのために強くなろうとずっと思ってて、変な話だけど、いまそれを実感してる!」
 立ち上がりかけた兄のこめかみを弟が打ち下ろした。地を這わされたエドガーはもがく。いよいよ足にきたようだ。立てない。
「ほんとは頼ってほしい。でも頼りたくないなら、せめて自分で考えて自分のために行動してくれ。欲しいものを欲しいと言わない気持ちを溜めこまないでくれ。身の内に澱を溜めこむのはやめてくれ! 俺の大事な祖国を、呪いながら生きていくのはやめてくれ!!」
 マッシュはほとんど絶叫していた。彼とて兄にこんなことは言いたくないのだ。
 自分の代わりに荒んだフィガロ宮に留まり、たったひとりで闘ってきたエドガーに、こんなことは言いたくないのだ。温かな感謝を捧げ、辛かったねと肩を叩き、安らぎを与えてやりたい。でもここで打ち負かさないと、兄は自分で思考することを止めてしまう!
 兄は自分が『支える』と、そう決めたのだ!
 マッシュは石床に転がるエドガーに近づいた。ぜいぜいと肩で息をする男の、襟首を掴んで軽々と持ち上げる。
 腕を振りかぶり――ぱちん、と小さく頬を叩く。
 とどめの一撃だった。
「……いつでも言ってよ。オレが王様を代わる。覚悟はできてる。兄貴ほどうまくはやれないけど、兄貴が今まで頑張ってくれたおかげで、たぶん不可能ではないよ」
 荒い呼吸の向こうで沈黙がしばらく続く。エドガーはゆらりと頭を振った。襟首を掴んでいる手を乱暴に引き剥がす。
「……おまえにはできない」
 格闘と激情に疲れはてた声で言う。口中が腫れているせいで、少し発音がおかしい。
「……護国のために民を刑せば暴君と呼ばれ、だがやらなければ暗君と呼ばれる。個々の悲劇に応じれば大勢が見えぬと蔑まれ、応じなければ人の心がわからぬ冷血と謗られる。立ち回れば卑怯と呼ばれ、立ち回らねば愚鈍と呼ばれる。…………最初から矛盾と欺瞞が決定している。下劣な職業だ、王などというのは……」
 額からつたう汗が血の滲んだ擦り傷をかすめ、エドガーは顔をしかめた。痛い。
「おまえにはできない――やらせない」
「……それはさ、自分にはできる、自分はやりたい、ってことでいいの?」
「好きに取れ」
「……兄貴、オレたちは親父のことが大好きだったよね。オレたちの親父は、フィガロをすごく大事にしてたよね」
 マッシュが弱々しい笑みを浮かべた。
「下劣な職業だなんて兄貴は言ったけど、親父が王様やってる時代だったらそんなこと言ったかい? 誰かがそんなこと言うのを許したかい?」
 質問の意味が取れず、エドガーは充血した瞳を弟に向ける。
「大好きな親父から託された仕事を、立場を、血を吐くほど大変な苦労を、兄貴はしたかったんだよね? たとえ弟でも、他の人間に譲りたくはないよね?」
 夏の天蓋を思わせる蒼眼が、へらりと笑った。
「違うならそう言ってくれ。決めつけたいわけじゃないから」
 マッシュは何かを堪える顔をしている。なぜそんな顔をするのだろうとエドガーは疑問を抱き、同時に、その表情があるものに似ていると気づいて眼を見開いた。
 それはたぶん、17歳の夜、コイントスのいかさまを持ちかけたときの自分の顔に似ていた。
 欲しいものを誰かに譲るときの顔に。


 ――ひとつ。
 勘違いをしていたかもしれない。
 自分はずっとマッシュに、自由を与えたと思っていた。ふたりで抱いた夢を弟に託した。不自由な運命から逃がしてやった――間違いない。しがらみから解放してやりたかった。真実だ。だが真実の半分でしかない。もう半分の真実が隠れている。
 それは自分こそが、『弟から王位を奪いとった』ということだ。
 敬愛する父が誇りにしていた任務を、その愛おしい苦痛を、対等な双子のうちほぼ自分だけが奪いとった。弟だってフィガロの王子だったのに。潔癖からくる拒絶感はあったにしても、父や父の残した国を、弟も愛していないわけがないのに。……コインで恨みっこなしの勝負をしようと言われたら、2分の1の確率で王位を継ぐ決意を本気で固める程度には。

 かわいい弟を、『運命から逃がしてやりたかった』。
 だが同時に、自分自身が、『運命を乗りこなした後継者として称えられたかった』。

 勝ちたかった。もっとも単純な意味で。誰のためでもない。自分のためだったのだ――


 ぱち、ぱち、ぱち、と気の抜けた音が聞こえた。
 兄弟は首をそろえて同じ方向を見る。籐のベンチで足を組み、咥え煙草の賭博師は、ぼろぼろの男たちに優雅に拍手を向けていた。
「……なに、手、叩いてるの」
「見世物が終わったら拍手するのが礼儀だろ? 陳腐な筋書きだが、わりと面白かったぜ」
 セッツァーは立ち上がった。短くなった煙草を石壁に押し当ててもみ消し、新しい1本に火を点ける。
「30超したおっさんどもの殴り合いは見てるぶんには愉快極まりないな。本来、俺みてえな高尚な人間には相応のオペラや演劇が相応しいが、大衆喜劇もたまにはいいもんだ」
「首突っこんできてる時点でゴシップ趣味満載じゃんか……」
 マッシュが拗ねたように溜息をついた。
「観客からの感想としては、俺にはこんな弟がいなくてよかったと心から思うね。女にふられたうえに自分の身内に殴られまくるなんざフェアじゃねえ。……ただまあ、エドガー、おまえがこんな目に合った理由はあるっちゃある」
 セッツァーは紫煙をなびかせて青年王に視線を向けた。気づいたエドガーは咄嗟に背を伸ばし、忌々しげに顔についた血を袖で拭う。感情の昂ぶりに我を忘れていたが、男の前で無様な姿を見せたことを悔やんでいるようだ。
「サマサの小娘は大嘘つきで、おまえは臆病者だ。似た者どうしだが決定的な違いがある。小娘は少なくとも行動を起こしたってことだ。こっぴどく男をふるという行動だけどな。自分の心に嘘をついちゃいるが、とにかく決意して行動を起こした。行動を起こせば結果が出る。その結果がよけりゃ、はじまりが大嘘でもけっこう帳尻が合ったりもする。たとえば将来、付き合ううえで何の障害もない新しい男ができるとかな。それで幸せになれりゃそれで正解なんだよ」
 エドガーは動かない。だがこの場合、無表情は雄弁だった。
「おまえはどうだ、フィガロ王。何か行動したか? 15の小娘の青臭い判断を前にびびりあがって、おろおろ流されただけだ。待っているのは後悔だけだろうな。おまえが不幸だと幸せになれないおまえの弟は、巻きこまれてご立腹だ」
「……俺は、リルムを護りたいんだ」
 エドガーは呟いた。言い訳がましくならないよう気を張ったが、声量はない。
「詳しくは言えないが、絵師としてのリルムが持つある側面が、フィガロの民の不興を招く可能性がある。王妃に迎えるのは難しい。何もできないのはそのためだ」
「国民を説得したり、隠したりすることはできないの?」
「王室に入ったら最後、リルムのほうが萎縮してしまうだろうとある人に言われた。それによって画の才が色褪せてしまうとも。……加えて、俺にも根本的な問題がある。俺は王妃になる女を見ていただけでリルムを見ていなかった」
 息をつくために口を閉ざす。開きたくないが、開かねばならない。
「……俺はリルムの本質を見ていなかった。王妃になれるかどうかという査定の眼でリルムを見ていた。リルム自身ではなく、彼女から得られる都合のいい結果だけを求めた。一方的に自己の利得だけを求めていた――」
 俺は、誰も愛していなかった。
 声にはならない台詞が、乾いた空の下に透明に漂った。
「兄貴、繰り返しになるけど、オレはそうは思わない。そうじゃないことを自分の心に証明するべきだ」
 マッシュが語尾を震わせる。2人を見比べたセッツァーは首を傾げ、斜めの角度に細い煙を吐き出した。
「ま、熊男はそう言うだろうが、俺はちょっとばかし違った意見があるんだよなあ。……フィガロ王、確かにおまえは王妃になる女を見ていたかもしれない。王妃になれるかどうかという前提でリルムを見ていたかもしれない。だが、それは悪りいことなのか?」
 かるく見開かれた2対の瞳を受け流し、賭博師は腕を組む。
「王妃になれる女しか求めない、ってのが悪しき感情だとは俺は思わねえな。ある特定の女を好ましいと思う、それが人間の個ってやつだろ? 誰でもいいわけじゃねえという証明でもある。俺は俺に相応しい女にしか惚れねえが、それが欺瞞だとは思わねえぞ」
 気負いなく淡々とセッツァーは続けた。
「個か公かって話はややこしいが、ひとつ確かなことがある。おまえは王で、王はおまえだ。誰にでもそういう前提がある。俺が博奕打ちであることや、小娘が絵描きであることと同じだ。おまえが王の都合で他人を見てるとしたら、小娘は絵描きの都合で他人を見てるだろうよ。お互いさまだ。その物差しはそいつがそいつであることの証明だ。物差しの違いを悩むのはともかく、物差しの存在自体を恥じるなんざばかばかしいぜ。……フィガロ王の選択はおまえという男の選択だ。その時点で、おまえはおまえなりに小娘を見ていたと思うが?」
 ちらりと視線を向ける。片目に痣持つエドガーはまるで雷に打たれたような顔だ。
 セッツァーとしては少し意外でもあった。そこまで独創的なことを言ったつもりもないのだ。大人なら時間をかければ捻りだせそうな小理屈ではないか? ふと、ある可能性に思い至り、意地悪く口角を上げる。
「……ははあ、多分アレだな。おまえは自分を博愛主義だと勘違いしてやがったからいけねえんだな。どんな女でも平等に愛せる懐の広い人間ですよ、などと格好をつけるうちに、自分でそれを信じこんでたんだろ。なのに蓋を開けてみれば、てめえはてめえ好みの女しか愛せない。それを指摘されてまるで悪いことのように思いこんだわけだ」
 半ば呆然としていたエドガーが、慌てて横を向く。隠しきれていない渋面を見てセッツァーはくつくつ笑った。
「ばっかじゃねえの。自分を過大評価してるからそんなことにつまづきやがる。人間は好き嫌いの生き物だ。はなから利己的な感情しか持てねえよ」
 黙って聞いていた王弟が、ふいに手を上げて口元を隠した。節くれた手の奥に笑いの気配があることに気づき、セッツァーが眼だけで意味を問う。
「いや……あのね。今の話を受けて思ったんだ。兄貴が自分の気持ちまでも、王様として押しこめてしまうのがオレはいやだったわけだけど……」
 躊躇いつつも親しみをこめてマッシュは言う。
「自分の心をほんとに押しこめてしまえる人間だったら、「お前に何が解る」なんて口走らないよなって。……あれが聞けて本当によかったなって」
 横を向いたままのエドガーの眉間の皺がひときわ濃くなる。マッシュはあたたかくそれを見つめていたが、つと表情を改めた。
「ただね、話を戻すけど。さっき兄貴が言ったように、リルムの持つなにかが国民の不興を招く可能性があるとしたら……リルムがそれに萎縮してしまうとしたら……王宮の生活がリルムを潰してしまう可能性は変わらないね」
「だな」
 セッツァーは頷いた。このあたりは具体策が必要になる。
「潰しあいになるのを避けたきゃ、方法を探さなきゃならねえ。それに小娘が乗るかどうかは知らんが、とりあえず創案と提出が急務だぜ、フィガロ王」
「……俺にどうしろというんだ」
「何かしろ。なんでもいい、後悔しないために何かしろ。結果は二の次だ」
 返す言葉なく、エドガーは立ち尽くした。
 考えねばならない。せめて後悔しない方法を、自分で考えねばならない。自分の欲求を他者に負わせてはいけない。その危うさをいま弟に教えられた。
 王道に身を捧げたのは自分の意思だ。だが、引きずられてはいけない。運命に献身したような顔を気取ってみても、利己心はいつも奥底に棲んでいる。手綱を取りたければむしろ、自分で自分を充足させる方法を考えなくてはならない。
「行動しろ、一国の王。おまえはフィガロの民の幸福のために奔走する義務がある。そしておまえもフィガロの一員だろ?」
「……詭弁だ。王は王だ。民じゃない」
 本当はもう、自覚しかけていた。だがつい反駁が出た。
「じゃあそこの熊男だ。何度も言うようだが、こいつの幸不幸はおまえのそれにむりやり連動させられちまってる。出奔したとはいえこいつもフィガロ人だ。幸福にしなくていいのか?」
「えーとね、セッツァー、その理屈の後半は残念ながら成立しないんだ」
 マッシュが急いで口を挟んだ。
「今のオレには王位継承権がないけど、同時にフィガロ城下の永住権も抹消してある。城下に住む権利を持つものを正式なフィガロ人と呼ぶんだ。現実にはサウスフィガロや他の領地に人口は流れてるけど、そこに住んでる人たちも権利だけは持ってる。オレは持ってないから、フィガロ領には住めるけど城下には住めない。だから、厳密な意味ではもうフィガロ人じゃないわけで……」
 同意を求める意味で、マッシュはエドガーを振り返った。出奔後にその処理をしておいてくれるよう頼んだのだ。だが、予想した反応とは違っていた。
「……あれ?」
 兄は何も言わず、微妙に眼を泳がせている。マッシュが疑問の声を上げる。
「なにその顔? ……抹消処理、してくれてないの?」
 逡巡したのち、エドガーがやりづらそうに頷いた。
「なんで? オレ、しておいてくれって言わなかったっけ?」
「聞いたよ。でもしなかった」
 観念した態でフィガロ王はぼそぼそと呟く。
「しておくと返事だけはしたけどね。おまえはまだ、フィガロ城下の永住権を持つ、正式なフィガロ人だ」
「……なんで?」
「……だって、寂しいだろう。兄弟が二度と一緒に住めないなんて……」
 マッシュは口篭もる。兄の想いに、笑顔を浮かべそうになった。絆されそうになった――だが寸前で引き戻った。
 待て、いま兄の瞳に揺れたものは美しい感情だけか? 正確に見極めろ。
「うん、兄貴、自惚れていいなら、それはたぶん理由の半分だとは思う」
 少し迷った声でフィガロの王弟は言った。
「でも、それだけ?」
 推測は当たっていた。保たれていたエドガーの表情が、みるみるうちに崩れてゆく。
「……ああそうだよ! 理由はほかにもある! 俺がそれを思いつけなくて悔しかったからだ!」
 少年そのものの顔で、双子の兄が叫んだ。
「他でもない王族が出奔するんだ。周囲に口を出させないために厳密に線を引いておかねばならない。だから継承権は抹消した。これは自分で思いついたしな。ただ、後で面倒が起きないよう永住権も抹消しておいたほうがいい、おまえはそう言った。その通りだ、的確な判断だ。おまえが下した判断だ。俺は思いつかなかった! それが悔しかった。だからあの場では、あとは自分がやっておくと言って、……」
「……やらなかったの?」
「……抹消処理をしなくても、俺がどこからも文句の出ない王になれば、おまえを担ぎ出すやつは現れないと思ったんだ」
 双子の弟は開いた口が塞がらない。隣でセッツァーは吹き出しそうになるのを懸命に堪えている。当然だろう。
「兄貴、あのさあ……」
 これを言うのは初めてだな、と思いながらマッシュは言った。
「子供じゃないんだからさあ……」
 エドガーは悔しそうだった。かわいい弟を護ってやろうなんて表情はどこにもなかった。とても悔しそうだった――その顔を見てマッシュは思う。やっぱりオレたちは双子だね、兄貴。
 兄が、立派な王を目指すための動力になれたことが嬉しかった。まともな意味での協力とは呼べないだろう。だが、同年齢の男同士としてはわりあい素直な形かもしれなかった。
「決まりだな」
 完全に状況を面白がる表情で、賭博師が手を叩く。
「このフィガロ人を幸福にしてやれ。王の義務だ。これから忙しいぞ。まず王を続けること、小娘との関係に答えを出すこと、すべてを自分の意思でやること、そして幸福になること――無理難題だな。でもそうしないとそこの熊男がまたかんかんに怒りだすから仕方ねえ。自業自得だ」
「……くそ」
 エドガーは石壁をかるく小突く。それだけの動作だったが、殴り合いで傷めた手は衝撃に過敏になっており、思わぬ痛みに身をこわばらせる。
「……17歳の自分に追いこまれる日が来るとは、思わなかった……!」
「思春期の負の遺産だな。若え時分にあんまりやらかすもんじゃねえ」
 セッツァーは笑い、ふと、何か思いついて片眉を上げた。
「若え時分、で思い出した。そういや預かりものがあるんだった」
 懐から取りだされたものは1通の書状だった。『フィガロ王へ』と書かれた封筒は厚手の上質紙で、四方に箔押し模様が入っている。貴族の使う品物と見てとれた。
「先日、ジドールに寄ったときアウザーに会ってな。近日中にフィガロに行くと言ったらこれを頼まれた。伝書鳥で送ってもいいが、誤配の可能性がゼロじゃないから、これだけは安全確実に届けてほしいってよ」
 手から手へと封筒が渡される。受け取る瞬間、セッツァーの物言いたげな様子にエドガーは気づいた。
「手紙と一緒にアウザーからの伝言も預かってきたぜ。『どうか、若き才能を護ってほしい』だそうだ」
 ひとつ強く煙草を吸い上げて、俯き加減に言葉を続ける。
「聞きたいんだが……さっきおまえは、絵師としてのリルムのある側面が、民の不興を招きかねないと言ったな。それにはアウザーも何か関係してるか?」
 エドガーは口を閉ざした。彼女が描く、畏るべき混沌。
 不吉で忌まわしく、だからこそ人心を惹いてやまぬ絵――絵師リルム・アローニィのひとつの到達局面。アウザーはそれを密かに保管している。いつか永い時間が経ち、人々が彼女の絵画を平静に鑑賞しうる日が来るまで。
「……答えなければならないかな。理由があってあまり詳しく言えないんだが」
「言えねえならいい。今回の件で俺の口の軽さは思い知ったろうしな」
 からかうように器用そうな手を振る。
「単に知りたかっただけだ。俺の持ってきたこの手紙が、最後の切り札になるのかどうか」
 エドガーは書簡に視線を落とした。2人から少し離れ、展望台の隅へ行って封を切る。中身を眼で追い、追い続け、最後の行で停止する。そのまま長く動かなかった。なにかを深く深く思案していた。
「……兄貴?」
 マッシュが躊躇いがちに声を掛ける。邪魔はしたくなかったが、本格的に急用ならば執務室に戻ってもらったほうがいい。
 ああ、とエドガーがいま目覚めたように顔を上げた。便箋をたたんで封筒に戻しながら、落ちつかなく顎に手をあてる。
「すまないが、俺は急用ができた。――できたのかな、いや、できたと思う」
 考えごとをしながら奇妙な言い回しを使う。
「悪いけど執務室に戻らせてもらう。2人はゆっくりしていってくれ。晩にはなにか旨いものを用意させるから」
 諒解したと眼で言う賭博師と、お疲れ様と口に出して微笑む王弟に背を向け、フィガロ王は跳ね上げ扉のほうへと歩き去った。扉の直前でぴたりと立ち止まる。取っ手を掴むために腰を屈めようとは、まだしない。
 次に聞こえる台詞が何なのか、残された男たちには解っていた。
「…………礼を言ったほうがいいのかな」
「いらねえよ。男からの礼なんざ気色悪いうえに糞の役にも立たねえ」
「オレもいいよ、兄貴」
 拳闘士の声は朗々と薄雲の空にたゆたう。
「最初からずっと言ってるように、オレは自分のために動いただけだから」
 蒼衣の王は、しばらくそこに佇んでいた。やがて背中越しに指を振り、跳ね上げ扉を開けて階段を下りてゆく。階下で小さく、ざわりと衛兵たちの動揺が聴こえた。顔を腫れあがらせた埃まみれの国王陛下が下りてくれば仕方ないだろう。


 セッツァーは短くなっていた2本目をまた石壁でもみ消した。3本目に火を点けようと懐に手を伸ばしたが、手持ちの心もとなさを思い出してやめておく。
「……さんざん焚きつけといてなんだが、手を尽くしたところでやっぱり、あいつがあっさりふられたらどうするね? 兄貴をむりやり幸福にすると断言した弟さんよ?」
「リルムの心まではどうにもなんないよ。でも、兄貴が行動さえ起こせばいい。セッツァーも言ったでしょ。この場合、結果は二の次だって」
 衣服の砂埃をぱしぱしと払いながらマッシュは言った。
「悔いのない行動を起こさせることまでが、オレが兄貴におしつけられる幸福だよ」
 王弟は、隣に立つ男を振り返った。嬉しそうに眼を細める。
「それにしても今回、セッツァーが首を突っこんでくれてよかった。……盗み聞きはよくないけど。そのおかげで事態が動いてくれたしね」
 人懐っこい笑みを浮かべて問いかける。
「実は意外と、世話焼きな性格だったりするわけ?」
 腰に手をあてた姿勢のセッツァーは空を仰いだ。暑いので上着は脱いでおり、胸元のクラヴァットが微風に揺れる。
 実を言えば彼自身、己の行動をやや意外に思っていた。なんの得もないのによく世話を焼いてやったものだ。もっとも自分が演じた役回りは単なる広報屋でしかなく、大した労は負ってないのだが。
「……なんかな、意外と俺、ものごとがきれいに揃ったり繋がったりするのが好きらしい」
 考え考え、自身の心を推測する。
「いや、意外でもねえか。考えてみたらギャンブルってのはそれを期待してやるもんだ。自分の選んだ目とさいころの目をぴたりと揃えたり、番号やマークでしっくり繋がるカードの役を作ったり……あるべきものをあるべきところに向かわせたい性格なんだな」
 ひとつ、言い回しを思いついた。銀の髪を掻きあげて胸を張る。
「俺の仕事は、いかさまをしてでも繋がるべきものを繋げることだ。だから今回も、自分の仕事をしただけだ」
「……格好つけすぎ」
「うるせえ」
 それぞれの苦笑を浮かべて男たちは荒野の地平を見下ろした。マッシュが何かに思い至り、言葉を探して身じろぎする。
「あー、あのさ。じゃあさ……」
 言い淀む態度はこの男には少し珍しい。セッツァーが疑問の眼を向ける。
「繋がるべきものを繋げることが自分の仕事だ、って言ったよね。……それって、ロックとセリスの関係にも適用されるの?」
 蒼い瞳に湛えられたものは半分は無邪気な好奇心、半分は生真面目な気遣いだ。賭博師は口の端を曲げて黙りこむ。
 マッシュは男女の機微には疎い。でもロック、セリス、セッツァー、この3人の織りなす微妙な関係にはさすがに気づいていた。持っている情報の大半は、絵描きの少女がくすくす笑いながら吹きこんできた噂話だが。
 セリスは自分を変えた男に、ロックは共に死線を越えた女に、互いに引力を認めている。だが彼らは若く、迷い多く、未だ明確な関係を築けていない。そしてセッツァーはしばしばふたりの間に割って入った。彼はセリスを自分の女にしたいと公言した男だ。
 だがセッツァーの行動はいつも、妨害のそれだか協力のそれだか解らなかった。両者が気まずそうなときを狙って首を突っこみ、会話のきっかけを作り、和んだ空気を演出してやる。ちゃっかり自分も混ざりはするものの、恋敵を追い出そうとするそぶりは見せない。あの男は何がしたいのか、というのが三者を知るものの議題だった。セリスにまだ惹かれているのか? それとも諦めて、からかい混じりに仲人役をしているのか?

 セッツァーは、無言で懐を探った。
 今日は3本目になる煙草を取り出し、ぱちんとライターで火を点ける。口に咥え、開いた手でマッシュをちょいちょいと手招きする。
 打ち明け話を期待して、乗り出すように近づいてきた拳闘士の顔に、ふうっと濃い煙が吹きかけられる。
 まともに吸いこんだマッシュはひっきりなしに咳きこんだ。



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2014/06/29