「……あの本、ぼくは好きでぜんぶ読んだけど、同じくらいの齢でほかに興味を持ってくれる奴がいないんだよね」
 少年の声にはいくらかの自負がある。
 当然だろうとリルムは素直に受け止める。彼が持っている歴史本のシリーズは一般向けの平易な読み物だが、対象読者は大人だ。気安く流せる情報量ではない。リルムも面白く読みはしたものの、すべて読破するには根気を要するだろう。


 絵師の少女と隣家の少年は、村はずれの木の柵に腰かけて甘い飲み物をとっていた。
 最近、改良型の輸送艇が完成したとかで、このサマサにも行商人がしばしば珍しい果物などを売りにくる。今日は飲料に加工したそれが移動スタンドで売られていた。
 ちょっぴり値の張る嗜好品だが、手紙を届けてくれたことと本を借りることの礼を兼ねて、リルムは少年に奢りを申し出た。商人たちの到着で、広場のほうではいっせいに様々な露店が広げられている。村の人間はほとんどそこに向かったため周囲に人気はない。
「お父さんがぼくの10歳の誕生日に揃えてくれたんだ。サマサの男は何よりも賢くなきゃいけないって。そのときは正直げんなりしたけど、少しづつ読んでみたら面白くて、確か12歳くらいのときには読破したと思う」
「12歳かあ。すごいじゃん」
 かつて魔導士の隠れ里であったサマサでは、子供の教育として教養面を重視する傾向がある。リルムも早熟とよく言われたが、おもに性格や画才についての話だ。この少年の知的欲求の高さはまっとうな意味での早熟だろう。
「頭いいんだね。あたしは正直読みきれるかどうか解んないよ。きっとあんたみたいな人間が、将来サマサを支えてくれるんだろうね」
 淡々と感想を述べたが、返事はなく沈黙だけが続く。
 不思議に思って横を見ると、少年は困ったような驚いたような顔で「……別に、それほどでも」ともごもご呟く。なにを照れているのかと思い、すぐ直後に、簡単な足し算を理解するような気持ちでああそうかと納得する。異性に褒められれば、照れもするか。
 リルムはこの少年を友達だと思っている。向こうもそうだろう。口の悪い自分が珍しく褒め言葉を向ければ照れもするが、関係性の名は単なる友人だ。彼は朗らかな気性で、自分だけではなく他の少女ともよく親しげにしている。狭い村では当然のことにすぎない。
 ただ考えてみれば、将来的には。
 この子と自分が、特別な想いを抱きあう可能性もなくはないのだろう。
 何かのきっかけがあれば、またはきっかけなど無くとも。時を経るうちに惹かれあい、互いに心満たしあう関係になったりするのかもしれない。この子やその家族は、自分がケフカや瓦礫の塔を描いている事実をどう思うか。よい顔をするはずはない。ただサマサの民は古来から、強大な力の恐ろしさを、それの持つ功罪と共に語り継いできた。道を踏み外さぬよう見守るという条件つきでなら、存外寛容に受け止めてくれるかもしれない。もし隠し通さねばならないとしても一国の王妃がそうするよりは簡単だ。
 この男の子と共に、人生の幸福を目指すという道は、あるのかもしれない。
 ……問題点は、この空想のすべてが、まるで他人事にしか思えず味気なさしか感じられない自分にあるのだろうけど。

 飲料を口に含みつつ、リルムはぼんやりした心持ちで村の風景を見透かす。
 視界の中で、見慣れた色の人影が動いた、気がした。
 事実を把握する前に思わず反射的に顔を伏せる。まさか? 見間違い? 見間違いだろうか? なぜ今ここに?
 顔を上げたくないが、確認せずにいるのにも耐えられない。だくだくと弾む鼓動が苦しい。おそるおそる視線を戻す。遠くからでも解る、よく知っている鮮やかな蒼がずきりと眼に突き刺さる。もしいま泣いたらそのせいにしようと思った。

 麻のブラウスの裾をきつく握りしめる。
 やっぱりこんな男はいやだ。最低だ。
 ――ひとがせっかく幸福の可能性を模索している最中に、思い出させにくる男なんて最低だ。


「こんにちは。相談したいことがあって来たのだが、取り込み中かな?」
 ぞっとするほど穏やかに、丁寧な態度でエドガーは挨拶した。
「知り合い?」
 隣の男の子に聞かれてリルムはびくりと身を固くする。
「ああ、うん、そう。――何しに来たの?」
 言ってしまってから後悔する。それはいま聞いたばかりだ。咳払いをしてカップを干し、座っていた柵から飛び降りる。
「2人だけで話したいことがあるんだ。君、もし急ぎの用件がないなら」
 脚をぶらぶらさせている少年に蒼い瞳を向ける。
「ちょっと席を外してくれないか?」
 いいよ、と返事をして男の子はぴょんと柵から降りた。飲みおわったなら始末しといてやるよ、とリルムの手からカップを取り、去りかけたが、何気なくエドガーの顔に眼を留める。
「……あれ?」
 立ち止まって見上げる顔は興味の色だ。
「あれですよね? えーと、フィガロの王様ですよね? なんか見覚えあると思ったら」
 彼らは一応の既知だった。数年前、自宅の火災に巻きこまれた少年を救ったのは、かつての仲間たち一行だ。親しくなるほどの会話を交わしたわけではないが、おおまかな素性をお互いに知っている。
「わあ、その節はお世話になりました。久しぶりにお見かけしたんで気づかなくてすいません。リルムに会いに来たんですか?」
「申し訳ないが」
 王の声は聞き取りやすく明瞭で、だが温度がない。
「私は彼女と話があるので」
 さすがに少年は口篭もる。相手の硬い態度に、反骨というよりも訝しさを抱いたようだが、それ以上は追及することなく踵を返して立ち去った。火急の用でもあるのだろうと解釈してくれたらしい。
「……えー、ちょっとこらー」
 リルムはわざと子供を叱るような声を出した。
「相変わらず、女以外の生き物には厳しいわけ? 男つってもずっと年下の相手でしょうに。いつになったらそのお病気治るんだかね」
「何か、おかしいか」
 エドガーの視線は去りゆく少年の背に向けられている。リルムからは表情は見えない。
「彼は男で、俺も男で、君の前に立っていた。……何かおかしいか」
 跳ねた心臓がどくりと熱を吐く。
 少女は息を詰める。痛い。――なぜそんなことを言うの。
「……あたしは別にそういうつもり全然ないけど、仮にだよ? あたしが複数の男性にいい顔してたとしてさ? それはあんたもさんざんやってきたでしょ。自分が天秤にかけられたら嫌な顔するってのは虫がいいんじゃないかな?」
「そのとおりだね」
 軽口という名の威嚇に、エドガーは動じなかった。
「そのとおりだ」
 振り向いてぎこちなく微笑む男の顔には、哀しみに似た脆さがある。耐えきれずリルムはあらぬ方に視線を彷徨わせた。
 実際には、エドガーが多くの女性に美々しい台詞を向けていても、リルムはさほど嫉心を煽られなかった。まったく気にしなかったわけではない。でも呆れ顔で肩をすくめて混ぜかえせば、意を得たとばかりすぐ軽口が返ってきた。たぶん少しの自負と、確信があった。誰の前でも格好をつけたがる男が、自分の前でだけは気安い。傘を差さずに濡れて歩くほどに。
 でも。
「……えっとさあ」
 喉の奥にあるわだかまりを声にして絞り出す。
「あんまりこういう空気は得意じゃないっていうか、あたしと色男は、俗っぽく言うなら気まずい関係なわけですよ。話があるならさっさと済ませちゃおうぜ? あんたお得意のさやあてごっこには、悪いけど付き合えないよ。……あたしは」
 声の震えに気を遣う。自分で自分の胸を刃物で貫きとおす幻影。
「……あんたじゃいやだってはっきり言ったじゃん」
「そうだね。あの日、君の意見は聞いた」
 エドガーはゆっくりと再確認するように応じた。
「君の意見は聞いた。でも、俺は自分の意見を言っていない。だから聞いてもらいに来た」
 ああ、その前にひとつ、と長い指が上がる。
「君は俺に謝るべきことがあるだろう。約束を破ったね?」
「……なんのこと?」
「あやういものを描くときは、他の誰でもなく、俺に言えと言ったじゃないか。黙っているのは約束が違う」
 少女は一瞬だけ過去を探る眼をしたが、すぐ得心の色を浮かべた。
 4年前のあの日、道化を描くためにエドガーに塔への同行を頼んだ。偶発的に発生した災害から生還したあと、王は少女にこう言ったのだ。『またああいうものを描きたくなったら俺に言え』と。すっかり忘れていた。忘れてこっそり描きつづけ、アウザーに託してしまった。
「……アウザーのやつから聞いたの?」
「氏の協力者であるフィガロ人からも聞いた。こう言うと無制限に広まっているように聞こえるかもしれないけど、基本的には機密扱いで、必要最小限の人間が情報を共有してるだけだから安心してくれ」
「ん、そこはあのおっさん信用しとく。なんにしてもごめんね、単純に忘れてたよ」
 知られていたのには少し驚いたが、肩の荷が下りたような気もした。これでエドガーも解ってくれたはずだ。
 こいつは期待したような女ではないと。
「……収蔵場所には実際に行った? もし見たんならご感想でもお伺いしようかな」
 表情のこわばりを気取られぬよう、図々しさを演じてリルムは腰に手をあてる。だが見返した顔の真摯さにふざける調子が失せた。王の眼は畏敬を湛えていた。
「……凄かった」
 導かれた言葉は簡素だが重い。
「陳腐な言い草で申し訳ない。表現が追いつかないんだ。……凄かった」
 思い出してしまったが、思い出したくなくもあり、エドガーは頭を振る。死してなおの宿敵。
 生前のあれは常軌を逸した狂人だった。だがただの狂人なら疎まれて終わっただろう。信者たちが塔を建て、祈りを唱え、崇拝と平伏を捧げた理由があの画にある。恐怖? 異彩? 不安? ――言葉にできない。ともあれそれは、かつて塔に登り、お星さまが見えないと小児のように泣くケフカを見て抱いた混乱と同質のものだ。
「どう感想を述べればいいか解らないから、自分の心象を言うけれど、……あの男と話をする機会があればと思ったよ。フィガロに来たときは腹を探りあうばかりだった。ベクタでケフカの牢に赴いたときは、呪詛と怒号を吐かれるばかりでろくに会話ができず、帝国に処断を任せるしかなかった。……我々にとって世界にとって、あいつがなんだったのかをきちんと考える機会がなかった。その怠惰は第二のケフカを招く要因になるだろう。それを思い知ったよ」
 聞きながらリルムは、当惑と共に立っていた。
 エドガーは確かに自分の話をしている。でも、彼はこれ以上なくあの絵について語ってくれている。なぜかそんな気がした。それが勿体ないほどの賛辞であるような気も。
 フィガロ王はいちど大きく息を吐き、内面の吐露を続ける。
「しかし、王としての俺が……いや、個人の性格かな……君の昏い絵に魅せられるのを拒みたい気持ちがある。君のアトリエで、ナルシェの伝説を描いた絵を拝見したね。あのあと真実を知った。俺は勘違いしていた」
 あれは不寛容な救われない物語だった。人は人を憎み応酬しあう。
「正直、あの伝説を好きにはなれない。暴力の連鎖を肯定したくない。リルム、俺はね、人を殺す職業なんだ。フィガロの裁判で決が出たら俺が承認して死刑にする。法の抑止力あっての秩序だからだ。ときとしてそれは多数のための汚い選択になる。俺の一存では退けられない。……赦しを与えたくても与えられない俺は、赦しのない物語を愛せない」
「……うん、エドガーはそうあるべきだから」
 できるだけ慈しみをこめてリルムは言った。望まずとその手を血に浸すやさしい人は、自分の絵をきっと愛さない。
 あるいはあたしは、ぬくぬくと育った世間知らずなのだろうか。生温い成長しかしていないから、格好をつけて昏いモチーフなど描きたがるのか。自分に箔をつけたいという浅ましさで描いているのか。他人の痛みがわからないのだろうか――
「でも」
 エドガーが発した強い声に、リルムの思索は吹き払われた。
「好きにはなれない。だが忘れられない。心が震えてしまった。……人は人を憎む。自と他のはざまの嵐に翻弄される。肯定すべき感情ではないのだろうね。だが人は所詮それから逃れえない。逃れうると信じこむのは自惚れだし、愛や善に帰結すれば解決できるというのは幻想だ。生まれくる感情とどう向き合うか、その悩みを抱えて彷徨うほかに道はない……」
 あの逸話は報復の物語だ。道義的には歓迎されない。でもナルシェの民は、それを人権意識の向上へと転化させた。やろうと思えば『我らは報復を是とする』という意味に成長させることもできたのに。その事実にせめて希望をみるのは許されるだろうか。
「俺はかつてガストラ帝国に抗おうとしていた。王として国民に貢献するための判断だと信じていた。本当にそうだろうか。……父の死に対する復讐の念が本当になかったと? 言えないだろうね。人はそう簡単に高潔になれない。俺は自分が持てなかった高潔さを、あの絵のナルシェの女たちに期待しただけだ。……俺があの絵から受け取るべきものは、本当は、逃れえぬ人間のやるせなさを正面から見つめる覚悟だった」
 いつのまにか、彼らはじっと見つめ合っていた。気づいたリルムは小さく肩を揺らして顔を背ける。
「前置きが長くなった、本題に入ろう。俺はいまから君に対して抱いている見解を言う。ただしひとつ頼みがある。俺は正直な本音を言うから、君もそのあと本音を返してくれ」


「――なぜ君は画家なんだ。なぜただの平凡な村娘でいてくれなかった。救世の一員になるという僥倖に恵まれたおかげで、身分差の問題だけなら解決できていたのに。なぜ君はあやういものを、暗澹とした厄介な作品を生み為す画家なんだ。せめてもっと平穏な作風だったら。美しく無害なものだけを描く作家だったら。――でも解っている。それが君だ。深淵を覗いて色と輪郭を与え、人の心を惑わせる。見てはいけない何かを暴く。俺の心を解き放つ。欲しいものを欲しがらせる。……むしろなぜ俺は、君の絵に魅せられたりしたんだ。無理解でいればよかった。そうすればたかが村娘ごとき、言いくるめてかどわかして、どうとでもできたのに」

 長いとも短いともつかぬ時間が経った。
 少女はもう顔を背けていなかった。金褐色の瞳が、水の深みに似た蒼い姿を映す。

「――なんであんたは一国の王なの。なんでその辺にいる、女好きで気障ったらしいだけの色男でいてくれなかったの。あたしの商売には本来、技術立国の行く末なんか関係ないのに。王様でさえなければなんでもよかった。どんな屑でもごろつきでも犯罪者でもあたしが養ってあげた。なのになんで王様なの。あんたと結婚する女は好きな絵を好きに描けない。たったひとつしかない条件をどうしてわざわざ破るの。――でも解ってる。エドガーは王様なんだ。肩に食いこむ重圧を気取らせず、涼しい顔して笑ってる、それがあたしの知ってるエドガーなんだ。こんなこと気づくんじゃなかった。そうすれば無邪気に願えたのに。あんな国、滅びればいいのにって」


 ふたりは笑った。
 笑顔を作ってはみたが、本当に笑えている自信はどちらもあまりなかった。
「……馬鹿みたいだ、あたしたち」
「君はいい、10代の女の子だ。若さを言い訳にできる。俺は救いようがないよ」
 リルムは頭の片隅で思う。やっぱりエドガーは怒らないな。先に酷いことを言ったのは向こうだけど、あたしもかなりの禁句を突きつけたはずだ。『あんな国、滅びればいいのに』――でも、考えてみたら王様という商売は常にそれを意識するものか。他国がすべて『おまえなぞ滅びてしまえ』と願っている中で立ち回るのだ。身ひとつでその敵意を受け止めながら。
「うん、じゃあ、これでほんとにわかったよね」
 無理に声を出す。このままだとできもしないことや、させられもしないことを口走りそうだった。画家なんかやめてフィガロ王家に尽くしますとか。玉座を捨ててあたしと逃げてとか。
 さよならの言葉をつくらなくてはならない。リルムは心構えの深呼吸をしたが、相手の台詞に先を越される。
「まだだよ。誰が話は済んだと言ったのかな」
 エドガーはかるく両手を広げる。少し芝居がかった仕草はお馴染みのものだ。だが仕草の奥に隠された真剣さは常ならぬものだ。
「俺は王妃となる女性しか愛せない。それを恥じる必要はないと気づいたけれど、フィガロのために、君自身のために、君を娶ることはできない。だがそれならそれで戦い方はある。終わりなく戦いつづけるという戦い方だ」
 懐から書状を取り出す。四方に箔押し模様の入った封筒は、ジドール貴族の公用品だ。
「先ごろ、アウザー氏から手紙をいただいた。一国の法を預かる俺への打診書だ。『犯罪者更正のためのプログラムとして、リルム・アローニィの絵画の使用を考えてほしい』とね。氏はこれまで密かに、捕縛された犯罪者、なかでも特にケフカの狂信集団の残党を、君の絵画を収蔵した館に連行していた。そして作品群と引き合わせていた。……結論を言おう。決して低くない確率で、君の絵には、判断能力に乏しい犯罪者たちの精神育成を促す効果があるそうだ」
 今は亡き己らの神を眼前にした信者たちは、忘我し、動揺し、慟哭した。
 暴れるものもいた。昂奮してより過激な内容を口走るものもいたという。だが最後には大半の者が床に身を投げ、切々と祈りを捧げはじめた。館で過ごす数日間、寝食も忘れて頭を垂れ続けた。
 だが彼らはやがて迷い児のような顔をして身も世もなく嘆きはじめる。彼が絵画であることに。画布の向こうにしか存在しえないことに。
「アウザー氏によれば、この時期がいちばん危険で、泣きながら絵画に襲いかかろうとしたものもいたそうだ。だがその時期を過ぎると彼らの思考は急速に内面へと向く。なぜ惹かれたか。惹かれる自らの心にあるものは何か。自らを手招く昏い淵を自覚したうえで、その自分が未だこの世に留まっていることを再認識し、そのずれを修正する道を模索しはじめる」
 物思いに耽るものがいる。与えられた作業に打ち込むものがいる。手記をつけるものがいる。いずれにせよ一心に、彼らは絵という鏡をとおして自己と対話しはじめる。収監が予定されている者は落ちついたころに服役となる。ただ軽犯罪者については、アウザー氏の監督責任のもと社会に出た者もいるそうだ。監視人によれば予後も良好らしい。
「しばらく前、俺はフィガロで死刑の執行を承認した。被告は3人を殺害した男だが、彼もケフカの狂信集団の残党だった。判例に基づき刑を決定するしかなかったが、彼が犯罪に至る前、君の絵画にもっと早く触れていたらと思わずにはいられない。……必ず予防になるという保証はないけれど」
 俯く王の横顔には苛立ちめいた葛藤がある。リルムもつられて俯きかけたが、エドガーがぐるりとこちらに向けた視線に圧されて顔を上げた。
「おわかりかな、セッツァー風に言えばこれが最後の切り札だ。この事実はひとつのシナリオを作ってくれる。……つまり君は、人を救うために王妃の座を棄てた人間なのだと。許されざる題材を描きつづけている以上、フィガロ王室には入れない。だがあれらの絵は、実はリルム・アローニィによる落伍者救済のための産物だった。フィガロ王は彼女に求婚したが、この任務は放りだせないと断られた。だがその意志に感銘を受けた王は諦めきれなかった。そんな理由があるならばと国民も――議論こそ起こるだろうが――両者の正式ならざる関係に、相応の理解を示してくれるはずだ」
 リルムは何も言わなかったが、エドガーは相手を制するように片手を挙げる。
「解っているよ。君は福祉の精神でケフカを描いてるわけじゃない。芸術は個人の魂のうねりから生まれるもので、その荒々しい無垢さが見るものを震えさせるだけだ。何かのために役立てようと創るものではない。結果的にそうなる例があるにすぎない。アウザー氏もそれは解っている。この手紙とともに伝言をもらったが、なんだと思う?『若い才能を護ってやってほしい』だそうだ。犯罪者更生への期待もあるだろうが、氏の主目的はそれなんだよ。この事実を利用して、君と君の作品を社会的に護りたいと願っている。俺も同じ気持ちだ。いや……俺はもっと自分の都合を考えている。どうすれば君が手に入るかばかりを考えている!」
 急に大きくなった声に、リルムの肌が慄いた。それは恐怖からではなかった。
「君が王妃の座に着かない立派な理由をもうひとつ作ろうか? 君の傷を抉りたくないが、君がフィガロで行ったあの正当とはいえない慈善活動がその基になる。彼女は過ちを犯したが、その贖罪の意識からも王の求婚を辞退する慎みをもった女性であるとね。――詭弁だと思うだろう? 言い訳だと思うだろう。こんな計算高い男はおいやかな。それ以前の問題かな。そう、他人を、道化の悪夢を引きずる者たちを利用していることになるのかな――だが、それがどうした――それがどうした! 嘘はついていないし迷惑はかけていない。悪夢に翻弄される者たちを君が救っているのは事実だ! 使えるものは使う。諦めていたんだ。フィガロを護り、同時に君を得る方法などないと思っていたんだ。見つけたからにはなんだってやるぞ。俺は、君が、」
 エドガーの唇が震え、自身の冷静さを求めていったん閉じた。
 リルムは我に返って己の身を抱く。表情の選択に困り、身体ごと斜めに後ろを向いた。相手が呼吸を整えるのを気配で待ってから口を開く。
「……王様が未婚のままなんて、許されるわけないじゃない」
「……国史書と王室典範をひっくり返したよ。生涯婚姻しなかった王はそれなりにいる。多くは病や事故で夭逝したケースで、近親者が次の王になるが、その中には夭逝した王の愛妾の子にしかるべき出自を足して継がせた例がいくつか含まれる。たとえば俺の場合なら自分の庶子を、王弟マッシュが結婚してもうけた子という名目にすることだ。マッシュにもう継承権はないが、血統が王族のものである以上あいつの子は権利を有すると典範上は解釈できる。マッシュ自身が子供をもうけたら改めて意志を確認してもいい。強いる気はないけどね。……どちらにせよ貴族院とはひと悶着あるだろうが、彼らはもともと世情を鑑みて、君を俺の相手に据えることは歓迎していた。具体的な不満はそれが正妻でないことになるが、国民のおぼえがよい相手には彼らも強く出られない」
 少し意外な気持ちでリルムは聞いていた。エドガーは何よりも、マッシュを国のいざこざに巻きこみたくないはずだと思っていたからだ。彼女はフィガロ城の展望台で、双子が拳を交わしあった事実を知らなかった。
「ただし当然、明確な事情なく王が正妻を迎えないのはいつの世も醜聞だ。形だけでも結婚しろと言われ続けるだろう。判断と感情を住み分けろと諭されるだろう。けじめを付けないだらしなさを責められるだろう。それを聞き入れない俺が得るものは、身勝手で愚昧な王という悪評だ。俺だけじゃない。君が得るものは、ふしだらな不貞の画家という……いや、もっと極端に下品な侮辱を向けられるかもしれない……なにしろ」
 なにしろ、正式な婚姻もせず男と関係を続けている女性だ――君がそう願ってくれるならだけど。
 張りつめた声を鼓膜に受けて、リルムは迷いに睫毛を伏せた。
 自分の悪評は、今はどうでもよかった。もともと口の悪い彼女は、プライヴェートでも公的な美術批評の場でも少しばかり辛辣な文言を向けられる場面があった。聞き流せるほど悟ってはいなかったし、即座に言い返したところでやはり心は不安定にぐらついた。だが、今はそれはどうでもよかった。聞きたいことがあった。
「……あたしは約束がほしいわけじゃないし、相手が心変わりしないという保証なんて、最初から得られないと思ってる」
 思考を整頓するため、若干の回りくどさでリルムはたどたどしく言葉を探す。
「でも世間なみの形式や、ちゃんとした契約は、やっぱり心強い絆になるとは思ってる。いま提案されたのは、それが得られない関係ってことだよね? なんの確約もなく、中途半端に、自分よりいい相手がその人に現れるかもしれないと怯えながら生きる選択だよね? お互いにお互いが完全には得られないままの人生だよね?」
「そうだ。ただしそれは俺の台詞でもある。君のほうがずっと若い。君はこれからの人生で」
 塗料の剥げかけた、村はずれの木の柵をじっと見つめる。
「……いったい幾人の男と出会うんだ?」
 どう考えても、安寧や平穏が約束された人生ではなかった。提案自体は不可能なものではないだろう。筋書きは単純だ。でも精神の負担が尋常ではない。
 やはり、これはしなくてもいい賭けだ。賭けの危険性を下げるシナリオは出来てるけど、相手があたしじゃなければもっと単純に安全だし――あなたも立派な王でいられる。
 手酷く言い返してやろう。胸中であれこれ候補を挙げる。『いやに決まってるでしょ』、まずはきっぱりそう言ってやれ。あたしらしくもっと毒を含ませようか?『つまり堂々と愛人依頼ってわけ?』『責任を取りたくない男の悪あがき?』『あんただけはこんなこと言わないと思ってたのになあ』……嘲りをたっぷり込めて、鼻で笑ってやればいいのだ。『思い上がりもいい加減にすればあ?』
 そう言いたい。言ってやれ。でも言えない。畜生。
 だっていま口を開けたら、きっと嗚咽が漏れてしまう。

 フィガロ王は黙したまま、己の半生を振り返っていた。
 彼にとって女性とは敬愛し、庇護すべき存在だった。喜ばせ、楽しませ、あらゆる労や痛みを取り除いて甘やかな場所に置くべき存在だった。
 しかし、この少女は違う。この人だけは違う。
 ……こうまでしてこのひとがほしい、という感情につく名は何だろう。とても独りよがりで、美しくもなければ善くもない。それによって強くなれるだの優しくなれるだの、安らぎを得られるだのとは思えない。事実として自分たちはもはや満身創痍だ。感情の名など問うても仕方ない。ただ俺がいて、君がいて、そしてふたりでどうしようもない。
 恥知らずの台詞を、エドガーは己の内に認めた。満身創痍なのに、そのうえなお傷つけあおうとしている。これは宣戦布告なのかもしれない。
「最低の口説き文句を、聞いてくれるか。……いっしょに不幸になってくれ」
 背中を向けたまま、リルムは微動だにしない。
「君が幸せになれる相手が他にいるなら、俺じゃなくてもいいと言わねばならない。しかし言いたくない。笑ってくれ、救いがたい自己愛だ。もし、いっしょに幸せになりたい人間は誰かと問われたら、俺はかつての仲間たち全員とフィガロ国民と答えるだろう。でも、いっしょに不幸になりたい人間は、この人となら不幸に耐えられると思う相手はひとりしかいない。失敗や傲慢や妥協や挫折や、そういった災禍に巻きこんででもそばにいてほしい相手は、ひとりしか」
 言葉を連ねていたエドガーは突然、これらすべての感情が、たったひとことで集約できることに気がついた。
 立ち竦む足を引き抜いて少女の後ろ姿に歩みよる。無防備に垂らされている手をそっと握る。びくりと引かれそうになった指を慌てて強く握りしめて、そこで初めて自分のしていることに気づいて動悸が跳ね上がった。
 触れた指先は冷たい。こちらの手の震えも彼女に伝わっているだろう。恥ずかしかった。必死だった。恐ろしかった。自信家で能弁な美丈夫、一国の王はそこにいなかった。ただの男が口を開いた。
「君が好きだ」
 どこを見るべきか、迷いに迷って、見たくもない足元の草穂や遠景の山々をいたずらに網膜に映す。静寂の不安に押されて、少女の顔を盗み見る。相手が微動だにしない理由をそこで知った。斜めに背けられている白い頬はきらきらと雫に濡れていた。
「――いいよ」
 陶然と見惚れていると、小さな声が耳に届いた。
「早く、しなさいよ」
 エドガーは戸惑った。そして今後かなりの長期間、羞恥とともに思い出しては悶えることになる台詞を吐いた。
「いいって、何が?」
 く、とリルムは笑ったようだった。ゆっくり振り返る。
 手を繋いでいるのだ、いくらも離れていない。そのまま2歩も前進すれば自然、蒼衣の胸に額を埋めるような姿勢になる。声も出せないエドガーの至近距離で、少し怒ったような緊張の瞳が、可憐な色で自分を見上げてくる。
 王は、今度こそ催促の正体を誤らなかった。

 外で長く話していたせいか、唇が少しつめたいな、と一瞬だけ思う。
 それもすぐ、行為の甘さに没入する意識のかなたに消えた。



                 *          *          *



「……決意して、答えは出たけど、何かが解決したわけじゃないんだ。それはあのふたりが一番よく解ってると思うけど」
 フィガロの王弟は低い城壁に肘をつき、大きな手に顎をのせて言う。
 来客用のベンチが出されているが、セッツァーは今日はそこではなく城壁の上に腰掛けている。外縁はすぐ垂直にはなっておらず、修復用通路や幅広の庇が出っ張っているので、バランスを失っても墜落死の心配はない。
 城に遊びにきてはみたが、王は会議が長引いているらしくまだ会えない。ひとまず通されたこの展望台で、彼らは自らも関わったひとつの幕引きについて反芻していた。
「貴族院はなんと?」
「オレも詳しくは聞いてない。たぶん今のところ、保留という名の黙認じゃないかな」
 このへんがややこしいんだ、お城ってとこはさ、とマッシュは苦笑を滲ませる。
「すぐどうこうは言われないんだよ。色好みの陛下のご酔狂だなんて受け止めてる人は多いし。兄貴にほんとは女性関係の実績がないのを知ってる人も、じゃあ初めての色恋沙汰に舞い上がってるだけだなって考えるし。今はどちらにせよ気の迷いと解釈されるだろうね。関係が長くなるにつれ、本格的にじわじわ圧力がかかってくるかも」
「王に相手がいるのはいいとして、産まれてくる子が婚外子な点がまずいわけだな?」
「そ。だからぶっちゃけ、兄貴とリルムの子供を、オレが誰かと結婚してできた子供ってことにしちゃえば家系図上は問題ない。あと兄貴はオレに、もしおまえも自分の子をもったらそいつを王にしたいか? とも聞いてきた。子供の素質をみて考えるって返事したよ。……自分がどういう出自か、オレがそこを飛び出してきた事実まで隠さず話して、そのうえで子供自身に考えてもらう。兄貴とリルムの子供がいれば、その子ともじっくり話し合ってもらう。オレみたいなのと結婚してくれる女の人がいればだけどね」
「問題はまさしくそこじゃねえの? おまえに結婚相手ができなかったら、あいつらのガキをおまえのガキという名目にもできんだろ」
「んー、その場合はいっそ、形式上のオレのお相手はばあやでもいいかな。ばあやは神官長だけど、還俗してもらってさ」
「……マジで言ってんのか?」
「年齢がおかしいってことになるだろうけど、そこはほら、国史編纂係が記載を『間違えちゃった』んだよ」
 茶目っ気で微笑む拳闘士を見下ろして、セッツァーが身震いの真似をしてみせる。
「おまえもさすが王族だな。とんだ面の皮の厚さだ」
「兄貴は誰にも迷惑かけたくないだろうけど、ちょっとづつの迷惑くらいは周囲のオレたちがむりやりもってくよ。……そこまでしても、うまくいくかどうか解らないふたりなんだから」
 彼らの関係は公表されていない。だが市井では話題に上りはじめている。それぞれに対する国民感情は悪くないが、いつまでも正当な手続きが経られなければ疑問の声が湧きはじめるだろう。エドガーは王城住まい、リルムは僻地在住であるため、多数の好奇の目に晒される可能性は比較的低い。だが蓄積される心労は無視できない。
「兄貴とリルムはこう決めたらしいよ。何よりもお互いの仕事を全うすることが前提だって。それが保てなくなったらすぐ別れるって。――ふたりが選んだのは、終わりなく戦いつづけるという戦い方だ。未来は解らない。なんの保証もない。だから1日ごとに、今日が無事に済んだ幸運に感謝するんだって。そしてまた、明日1日を乗り越えられるように目指すんだって」
「……気が遠くなるな」
 つい神妙な声が出た。見上げれば太陽は雲の向こうの中天にある。彼らの今日1日の幸福が確定するまで、あと何時間だろう。
 不意の風が立ち、微細な砂に頬を打たれて、セッツァーはうるさそうに手を翳す。
 その拍子に、隅に積んである木箱の山が視界に入った。双子による乱闘のせいで数個が粉々に壊れたはずだが、兵たちが片付けたのか木片ひとつ落ちていない。
「……そういやおまえってよ、なんで格闘技の道を選んだんだ?」
「言わなかったっけ? 小さいころ病弱で身体を鍛えたかったからだけど」
「そいつはきっかけだろ。要するに、そのあとも自分ですすんで求道を続けた理由だよ。出奔後ダンカンの元に身を寄せたのも、浮世から離れるのにちょうどよかったのもあるだろうが、相応の思い入れがあるからじゃねえの?」
「うん、もちろん思い入れはあるけど。……言われてみたらなんでかなあ?」
 蒼い瞳が過去へと焦点を結び、己の心を浚う。
「そういえばオレ、格闘技を習いませんかって誘われて初めて道場に見学に行ったとき、驚いたことがあるや」
「何だ?」
「相手がいて勝ち負けが決まるってことと、基本的にひとりではできないってこと」
 怪訝な顔を向ける賭博師に、マッシュは照れた顔を返す。
「それのどこが驚く点なんだって言いたいよね。いま考えると当たり前だし。でも当時のオレには新鮮だった」
 無意識に視線を南東に向ける。城がコーリンゲン側にある今はコルツは見えない。
「親父はオレたち双子に分け隔てなく接してくれた。ばあやや女官たちも。少し大きくなると、臣下のそれぞれになんとなく『あ、この人は兄貴贔屓だな』『この人はオレ寄りだな』くらいの雰囲気を察してたけど、当然ながら彼らも表面的には同等に扱ってくれた。……で、実はそのことに逆に違和感を覚えてたんだと思う。兄貴とオレは違う人間なのにって」
 双子のきょうだいを対等に扱った周囲の態度は正しい。だが正しさとは別に、自我に目覚めはじめていた子供にとって、それは小さな齟齬だった。
「誰かと勝負してちゃんと差がつく、ってことが新鮮だったんだと思う。鍛錬や瞑想はひとりでやるときもあるけど、対戦には必ず相手がいるでしょ。で勝ったり負けたりする。それがすごく気に入った。実際に始めてみてもっとよくわかった。勝って驕る心を諌める術と、負けて卑屈になる心を鼓舞する術を学ぶものなんだって」
 ……逆に、勝負の世界に身を置いたことで、結果に捉われてしまう人もいるけど。
 小さく続けられた呟きに、セッツァーは視線を向ける。だが陽に焼けた横顔に漂う癒えきらぬ何かをみて、言及はせずにおいた。彼はマッシュと兄弟子との確執を知らなかった。
「……子供の習いごとに格闘技をすすめる人の気持ち、ちょっとわかったでしょ。実はオレも今後はそれをやろうと思ってる」
「へえ? いよいよ道場を構えるのか」
「できればもう少し社会に根ざした形にしたいかな。ダンカン師匠から受け継いだ流派の看板も守っていきたい。けど、オレが本当にやりたいのは子供たちの教育だ」
 王弟は城壁に預けていた上体を離した。姿勢を正してまっすぐに立つ。
「兄貴はいまフィガロに学校を増やしてる。教育環境を整えてかしこい子供を育てる、それが兄貴の仕事。でもどうしてもその構造から外れてしまう子もいる。フィガロは国の産業の方向性がはっきりしてるでしょ? でも、産まれてくる子供たちみんなが機械産業に向いてるかというと、そうじゃないよね」
「だろうな。おまえ自身がいい例だ」
「フィガロにも工房勤め以外の仕事はあるけど、受け皿は大きくない。兄貴はどんな子でも幸せに暮らしていける国作りを目指すだろうけど、漏れを完璧になくすのはどうしたって無理だ。大人たちが頑張っても、その子自身が集団をいやがることもあるし、理由あって社会性がすごく欠如してる子供もいる」
 銀髪の奥の脳裏で、セッツァーは野生児を思い浮かべた。たぶんこの熊男も同じことを考えているだろう。むしろ彼と出会ったからこそ目指しはじめた道かもしれない。
「オレがその子を導く。オレに心得があるのは格闘技だけど、たとえばリルムみたいな美術や、動物の飼育や研究や、とにかく何かの心得がある人を他にも招いて、子供たちの精神を育てたり素質を見極めたりする場所を作れたらいいなと思う。兄貴は王様だから、最大公約数の仕事をする。オレはその隙間を補う」
 これは、オレにしかできない仕事だ。
 誇りの響きが荒野の風に乗る。賭博師は珍しく、皮肉さのない笑みでそれを聞いていた。



                 *          *          *



 すみれ、アネモネ、勿忘草。ブルーベル、ひなぎく、プリムローズ。
 ……花がきらいではないだろうけど、特に喜ぶ人でもないので、どれを摘んでいこうか迷う。あれこれ目移りしたが、結局は何も摘まずに立ち上がった。久しぶりに会うから花くらいと思ったのだが、実のところあまり久しぶりという気がしない。
 村囲いの林にある花畑を出ようとして、側道にあるものが落ちているのを見つける。大型の鳥が落としたらしい、みごとな長さの白い羽根。拾いあげて見つめ、流線型の美しさに惚れ惚れとする。そうだ、これを持っていこう。
 サマサの村の中央にある一本杉の広場に向かう。晩春の朝の風はやや冷たいが、厚手のストールがあれば大丈夫だ。周囲には人気がないが、母親が子供らを起こし、朝食の支度をするあたたかい音があたりの民家から漏れてくる。
 待ち合わせしていた人はすぐに現れた。
 見慣れた色を纏った長躯が白い石畳に揺れる。一本杉のそばに立っている自分に気づき、微笑みかけたが、なぜか少し距離を置いて立ち止まった。それ以上は近づこうとせず、こちらを見てにこにこと佇んでいる。
 不思議に思って歩み寄ろうとしたが、『待って』と手で制された。そのままそこに立っていて、と手で合図される。何をするつもりだろうと思ったがそれきりだ。眩しそうな眼をして、じっと自分を見つめている。
 リルムは訝しんでついに声を上げた。
「どしたの? 色男」
「君、いくつだい?」
 ――――リルムは気づき、そして、笑った。
 まず背筋を伸ばす。もうあの日の少女のように溌剌としては見えないだろうけど。それでもつんと胸を反らして、できるだけ小生意気そうに。
「42歳よ」
「そいつは素敵だ」
 幸福そのものを見つめる瞳でエドガーは囁いた。
「おまけに、犯罪にもならない」
「……そう言われちゃったらさあ、『変なの、先行ってるよ』って返せないじゃん」
「行かせる気がないからね」
 フィガロの先王は近づき、絵師を腕のなかにぎゅっと抱きしめて帽子に鼻先を埋めた。リルムはくすぐったい表情で身を任せる。
「身体が冷えてるけど大丈夫かい?」
「冷えてるのは外側だけ。このストール色味に反してすっごく暖かいよ。やっぱ貴族の持ちものは違うわ」
 氷青色の毛織生地に頬ずりする。淑女ロレンツィア、対外的には女性初のフィガロ官僚・コネリアーノ女史として知られる人のかつての所有品は、積年の友情の証としていまリルムの手元にある。
「……あれ、手ぶらのようだが、打ち合わせではこれから墓参りだよね? 花は用意しなくていいのかな。言ってくれれば持ってきたのに」
「んー、実はさっき摘もうとはしたの。でもやめておいた。花はどれも可愛かったけど、なんかぴんとこなくて」
 相変わらずの子供めいた仕草でリルムはがりがりと頭を掻く。
「だいたいさ、お墓にお花供えるのがぴんとこないのはじじい自身のせいだよ。久しぶりって感じが全然しないんだもん。どこの本屋でもじじいの本見かけるし、若い人たちの集まるカフェでちょっと耳を傾ければ名前が聞こえてくるしさ」
 エドガーは微笑んだ。ストラゴスの残した『魔獣大全』ほか周辺書籍は、増刷に増刷を重ね、いまや研究者必携の書になっている。残された孫娘と仲間たちにとっては、どこに行っても彼を感じられる縁になっていた。天にあるという国で再び逢うことがあったら、長々と自慢話を聞かされるに違いない。
「でも代わりにこれを拾ってきたよ。綺麗でしょ? 最晩年まで世界を駆けずり回ってた落ち着きのないじじいにはお似合いかなと」
 手の中でくるくると羽根を回す。ほの光る純白が朝の空気に眩しい。
「じゃあ、墓前にはそれを供えて、そして報告しよう」
「今日から晴れて、なんでもできるしどこにでも行けるふたりになりました、ってね」
 彼らは歩き出した。ほどなくリルムが多少の気遣いをこめて口を開く。
「……そっちはあとのこと、大丈夫? ほんとにあいつにぜんぶ任せられる?」
「あなたの息子にフィガロ王が務まるかどうかそんなに不安ですか? お母様」
「あたしが心配してるのは息子じゃなくて、その父親のほうだよ。跡は継がせた、俺は自由だ! って張り切って出てきたはいいけど、ちゃんと子離れ、国離れできる? 何かにつけ動向を探ってはやっぱり駄目だ、任せちゃおれんって飛んで帰ったりしない? 先に言っとくけど、それあんまりよくないやつだからね」
 先王の肩書きを持つ男は、完全に敗北者の眼をした。
「……行きそうになったら引き留めてくれ」
「じゃあ、行きたくても行けない状況を作ろうか。墓参りが済んだらつきあってよ」
「何に?」
「ずっと前から描きたいものがあったの。ずいぶん待たされたけどやっと描ける。昔、カイエンから聞いたんだけど、ドマの古い暦は何十年って単位でやっと一周するらしいよ。生まれ年から数えて一周を迎える年齢になったら、暦が元に戻って産まれなおして赤ん坊になりました、って意味のお祝いをするんだって」
 何が言いたいのかよく理解できず、エドガーは瞬きを繰りかえす。皺の目立ち始めたその顔を、とても美しいものとしてリルムは見つめた。
「人間は60歳で産まれかわるんだって。あたしは今年60歳になる、あなたを描きたい」

 腕を引かれて、また腕のなかに収まった。くちづけをするとき、ふたりは少女と青年だった。



Fin.








彼らの道がようやく交わりました。
長らくのおつきあい本当に有難うございました。

2014/06/29