花が咲いている、と、思った。 詩的にすぎる表現だが、誇張したつもりはない。扉を開けると同時に視界に飛びこんできた存在。これを喩えるに花でなくてなんだろう? 淡い淡い氷青のドレスで咲きそめた少女。 匂い立つような気品だった。水を張った白磁に北嶺の雪をひとひら溶かしたとき、底にゆらりと漂う翳が彼女の纏う色だ。刺繍がなぞる胴のシルエット、バッスルが導く典雅なふくらみ。光沢を帯びた繻子織の裾レースの具合は、本体を引き立てる花の萼を思わせる。 花芯にあるのは夜を紡いだ糸、つまり流れるきよらな黒髪。曇りひとつない絹の肌、ひらひらまたたく蝶の翅めいた睫毛。わずかに稚さの残る頬や、まだ髪を上げていないところをみると、たぶん今のリルムと同世代、社交界へのデビュタントを迎える直前の年齢なのだろう。 大輪の花はじっと数秒間、サマサの絵師を見つめていたが、やがて軽く裾をつまんで膝を折った。 リルムも慌ててぺこりと頭を下げる。自分の品のなさに嫌気がさすがどうしようもない。 「風と金砂の幸あらんことを、アローニィ様。わたくしはフィガロ4家のひとつコネリアーノ家の長女、ロレンツィア・シグ・コネリアーノ。お見知りおき下さい」 鈴を振るような声の、冒頭の言いまわしにリルムは眉を寄せる。砂が、なんだって? 思わず疑問をぶつけてしまう前に、エドガーから聞いた砂漠の国の豆知識を思い出した。これは確か、フィガロ人が使う古い挨拶だ。ただし現代では常用されておらず、だいぶ格式張った場所でしか使わないはずだが。 リルムは改めてロレンツィアと名乗った令嬢を眺めた。これも彼から聞いた話だ、フィガロ貴族は伝統的に青い色を着る。鮮やかな青そのものは禁色として王室に譲るが、薄い水色や暗い群青、あるいは緑や紫を帯びた青に属する色を好んで纏う。ただこれも、現代では厳密に守られている風習ではないらしい。正式な夜会や結婚式用に、みな1着は同系色の衣装を持っているが、普段から着る者は多くないと。 つまり。 フィガロの古い挨拶を口にし、フィガロの伝統色を身につけたこの少女は、がちがちに武装してやってきたのだ。相手の来訪の目的に気づいたリルムは、心中で舌打ちをした。 「不躾な訪問をお許しくださり、ご厚意に拝謝いたします。趣のある素敵なご邸宅にお住まいですのね」 教科書どおりの回りくどい会話を遮るため、リルムは制止の手を挙げる。 「田舎屋敷に勿体ないお言葉ありがと、と言いたいところですけど、面倒なのは苦手なもので。とっとと本題に入っちゃいません?」 椅子を勧めて、自分もどっかと座る。卓上には祖父が用意してくれたお茶。カップに注ぎ、景気づけに一杯ぐっと飲み干して、リルムはそっけなく言葉を投げた。 「要するに、もうそろそろエドガー国王陛下に近づくな、と言いに来たんでしょう? フィガロ貴族さん」 名匠の手になる陶器人形のような少女は、眉ひとつ動かさず答えた。 「お話が早くて助かります」 * * * 今年15歳になるリルムは近頃、エドガーと自分のあいだに漂いはじめた空気について考えることが多かった。 塔の陥落から4年。かつて乱世を駆けた仲間たちは、日常の平穏を尊びつつ、ささやかな交流を続けていた。あまり頻々とは会えないが、サウスフィガロの連絡船組合が各港をつなぐ定期便を開始したおかげで逢瀬かなわぬ間柄ではない。フィガロ王とサマサの絵師も、個人的な親交を続ける一組だ。 「よう王様、もてなされに来てやったよ! 今夜はどんなものご馳走してくれるの?」 「どうせ国庫を空にするなら、君の胃袋を満足させたせいじゃなくせめて君の作品を買い漁ったせいにさせてくれよ。そのほうがまだ格好つく」 会話はさすがに冗談だ。生活苦に喘ぐ人々の多い時代、奢侈をむさぼる気にはなれない。むしろ彼女の来訪目的のひとつは復興支援でもある。当代一の画家となったリルムは、歳に似合わぬ収入の大半をあちこちの国に寄付していた。本当は自ら出向かずともよいのだが、「心ない輩が義捐金をかすめ取っている」等のいやな話を聞いては仕方ない。フィガロの画材商と親しくなった彼女は、当国の福祉大臣その人が寄付の一部を着服しているとも聞いた。まったくエドガーも敵が多い。だから最近は、自分で雇った人手で直に貧民たちに寄付金を届けていた。 ともあれエドガーの、きらきらしく女性を褒め称えるいつもの弁舌は、自分の前ではやや赴きが変わることをリルムは知っていた。宝探し屋や賭博師に向ける毒舌にも似るがより甘く、弟に向ける親愛にも似るがより軽やかだ。気安く軽口を交わしながら、実は互いに距離を探りあってもいる。慣れたくつろぎに満ちている一方で、どこかぎこちなくじれったい。たぶんお互い、何かが欲しい。なにがほしい? 2人は他の仲間たちともときどき旧交を温めた。誕生日だなんだと理由を見つけて催される集まりは、逢えば離れがたくなる心地よさだ。育ち盛りの野生児やリルムは、集まりのたびに大人たちに大袈裟に驚かれた。背が伸びた、顔つきが変わった、成長した! 確かにガウは発達著しく、背はもうじきドマの侍に届く勢いだ。でも自分はそこまで変わっただろうか? 具体的な実感は薄い。会話のあいま、髪型を直すふりをして手鏡を覗く。言われてみれば確かに、肩や胸元の曲線が意外と丸かった。気恥ずかしくなって、ぐっと着衣を引き上げると、ふと国王と眼が合った。女性と眼が合えば僥倖とばかりに会心の笑みを投げるはずの男が、とっさに顔を背けて変に険しい表情でグラスを干した。リルムも急いで別の方を向き、会話への参加を試みた。顔では無邪気に笑いながら、心臓は未知の予感に早鐘を打った。 少しづつ何かが変わっている、のかもしれない。勘違いかもしれない。思い上がりかもしれない。わからない。 答えはまだ保留の段階だ。だがフィガロ貴族は先んじて警戒しているらしい。未婚の王にまとわりつく得体の知れぬ小娘。でも、とリルムは背筋を伸ばす。王様にだって人間としての権利があるだろう。 自分とのつきあいで素行に問題が生じているわけでも、度を超した貢ぎ物をしているわけでもない。王様だからって、親しい仲間との交流が阻まれるなんて間違ってる。サマサとの癒着を懸念しているとしたら邪推しすぎだ。友達と会っちゃいけない人間なんているものか。 気負う必要はない。リルムは自分に言い聞かせる。これは仲間の権利を守るための闘いだ。 * * * 「申し訳ありませんね、なんだか無駄にお気を揉ませたみたいで」 あまり悪いとは思ってなさそうな口調で、リルムはにっこり微笑みかけた。まずはこちらのペースに乗せなければ。 「でも、あなたがたが危惧するような問題は起きてないと思いますよ? 私はフィガロ王に取り入るつもりも、過分な待遇を要求するつもりもありません。こんな僻地住まいの小娘が、陛下と親しくさせていただくこと自体、勿体ないとは弁えてます」 意識的にテンポを保ち、臆せぬ態度でぺらぺらと喋る。黙って聞いているロレンツィア嬢はまったくの無表情、お高いことだ。 「フィガロ貴族の方が、私のような者と陛下との関係を快く思わないのは、お国の威信を考えれば当然でしょう。ご迷惑をおかけして心苦しく思います。……ただ、ですね」 かたんとカップを置く。フィガロ貴族がどうした。あたしたちをなんだと思ってるんだ。 生命を賭したあの日々の熱さを、培った絆の強さを、知らないくせに。 勢いよく言葉を継ぎかけたリルムの前で、銀鈴の声がちりんと淑やかに振られる。 「……誤解がございますようなので、まず前提を申し上げましょう」 強くはないのに人の意識に玲瓏と響く口調だ。リルムは口を噤む。 「確かにわたくしは本日、アローニィ様に、陛下とのおつきあいをお控えいただくよう申し上げに参りました。しかしわれわれフィガロ4家は、つい先日までは、エドガー陛下とアローニィ様のご関係を歓迎していたのです」 「……え?」 頓狂な声が出た。 「そんなわけないじゃん。だってフィガロ4家ってあれでしょ、たしか」 しまった、素の口調になっていると気づく。だが今さら軌道修正もできない。 「フィガロ貴族の中でも、王家にいちばん近い4つの名門、じゃなかったっけ? 代々、王様の配偶者をもっとも輩出している家じゃないの?」 「よくご存じでいらっしゃいますね」 滑った口を押さえる衝動をこらえて、あー、だって有名でしょ、とリルムは語尾をすぼめる。本当は以前、懸命に歴史の本をひもといて調べたのだ。独り身の王に予期される今後の運命について。 「そのフィガロ4家の人が、どうしてあたしを歓迎するの。自分たちが王家に入るためには邪魔なだけでしょ?」 「王侯の婚姻において家柄の保守性を重視するのは、ひとつの価値観ですが、その基準のみに傾くのは短絡的です。考慮すべき世論がございますので」 「世論? 世論を考慮するなら、手堅くフィガロ貴族と結婚するのが一番じゃん」 「順を追ってお話しましょう。アローニィ様とお仲間の方々は4年前、救世の英雄となられた。ご自覚はございますね」 リルムは頷いた。あまり仰々しい表現は好きではないが。 「あなたがた救世の14翼は、その大半が、偉大な業績に応じた相応の地位や報酬を受け取ってくださらなかった。問題はそこにございます」 ――道化の斃れたとき。その報せは、なかなか世界へと浸透しなかった。 当事者からじかに話を聞けたドマやフィガロ、サマサはいいが、崩壊後の混乱で国交が薄くなっている他の街に広報する手段がない。伝書鳥や告知書で速報を出したが、半信半疑で受けたものが多いと聞く。世情柄、流言蜚語のたぐいは溢れていたから仕方ない。 だが、幾日たっても裁きの光に妨げられぬ夜が続けば、やがて理解する。 信頼できる声で、自分の足で、忌まわしい禍つ神の滅亡を確かめる。恐怖から解放されたのだ! 抱きあって喜びながら、次の関心はひとつに集約する。救世の英雄は、誰だ。 帰郷していた仲間たち各自が、たちまち注目の的となった。当時、まだ交通が回復していなかったことにリルムは感謝するほかない。さもなくば物見高い人々の対応に追われていただろう。カイエンは押しかけ弟子をずいぶん断ったそうだし、リルムも一時期、絵を商う都合でジドールを歩けばすぐ人垣に取り囲まれた。セリスなどは随分ひっぱりまわされたようだ。暴虐の祖国を捨て立ち上がった美しき元将軍。その存在感にあやかりたいと願うものは枚挙に暇がない。面倒ごとを避けるために一時は旅の空だったとも聞く。手を貸したのは銀髪の飛空艇乗りで、その件でまた宝探し屋と確執があったそうだが、それはまた別の話として。 「フィガロ含む各国上層は、14翼の方々に……お1方はご存命でないため、数は13名となりますが……何がしかの献謝を用意しました。しかし皆様はほとんど固辞なさった」 「当たり前じゃん。今はだいぶ落ち着いたけど、献金だの進呈物だの、本当にきりがなかったんだから。気持ちは嬉しいけど、多くの人が食うや食わずの時代にあたしのとこだけ沢山持ってこられても心苦しいよ」 旅の終わりの直前、エドガーは全員にこう言ったものだ――そのうち砂漠の機械国が、『英雄14翼』なんていう大層などこかの誰かさんたちに、謝意の品だの名誉的な地位だのを贈るだろうけど気にしないで蹴ってくれ。こちらにも体裁があるだけだから。 「ジドールの人なんかあたしに、貴族議会に一席を用意したいのですが、って言ってきて笑いそうになっちゃった。ござるのおっちゃ……ガラモンドさんならいいよ? 既にドマで相当の地位をもらったそうけど、もともとお城勤めの人だし、本人も復興を目指してたから。政治やるなら当然の帰結だよね。でもあたしは困っちゃう」 「アローニィ様のご判断は賢明かと存じます」 楚々と紅を掃いた唇が静かに応じた。 「あなたがたは遠慮なさった。我々も押しつける気はない。しかし黙っていないのは民衆です」 「どういう意味?」 「偉大な人間は存分に報われなければならぬ、民はそう考えます。あなたがたの影響力は、ご自身でお考えになられるよりずっと重い。あなたがたが何も受けとらないだけで、「英雄たちに報わぬとはなんと失礼な」と憤る者たちがいるのです。皆様が自ら辞退なされたと説けば、何割かは「美しい謙譲だ」として満足するかもしれません。しかし何割かは、「彼らが納得できる報酬を提示しなかった側が悪い」となお憤るでしょう。民衆はとりすました王侯よりも、輝かしい英雄に肩入れするもの。フィガロは偶然、陛下ご自身が英雄の一翼を担ってくださいましたが、なればこそ他の英雄たちへも報わねばという思いが強い」 ロレンツィアは淀みなく語る。リルムは頭の隅で思った。さっきからこの娘、まったく表情を動かさないな。花という印象はあながち間違いじゃない。 「何よりも……偉業を為したはずの者に見返りが支払われぬことは、民衆にしてみればある種の恐怖、居心地の悪さにも繋がります。端的に申し上げましょう。あなたがたが報酬を受け取らないだけで、労働者たちは、『俸給が不当に少なすぎる』と感じても雇用主に訴えづらくなるのです。『世界を救った英雄ですら見返りを受け取らないのに、これしきで不平を言うな』という空気が完成してしまいますから」 「……そ、れは」 絶句しかけたが、無理に言葉を奮い起こす。 「ちょっと大袈裟じゃない?」 「社会の原則を申し上げたまでのこと」 短く簡潔な結論。リルムには返す台詞がない、確かに道理ではある。 「不満の声はやがて不信の声となり、不穏の声となって国を乱すでしょう。世の中には、受け取っていただかないと困る報酬もあるのです。健常なる国家運営のために」 「エドガーは、あ、いや、陛下は」 「普段からのご呼称をお使いになれば結構ですよ」 「……内輪の話になるけど、エドガーは、フィガロがそういうのを贈ろうとしても蹴っていいって言ったんだけど」 「陛下はそうおっしゃるでしょうね」 玉石のごとき佇まいで無表情を保っていたロレンツィアが、わずかに嘆息の気配を纏う。 「陛下のご有能さには疑いの余地がありませんが、あの方はおひとりですべてを解決なさろうとする傾向が強すぎます」 リルムも同意見だった。エドガーの自信家と呼ばれる性格は、有能さに裏付けられているが、いささかの見栄にも通じているようだ。 「――わたくしどもフィガロ4家は、その折、陛下とアローニィ様のご懇意を知りました」 長い睫毛に縁どられた瞳がこちらを向いた。まるで神話の乙女に見られているような気分になって、リルムは少しどぎまぎした。 「アローニィ様に、王妃の地位を受け取っていただく。そうすればフィガロは、英雄の業績に十分応えていると民衆にアピールすることができます。陛下がまだ未婚でいらしたことは、この場合好都合でした」 勝手に転がっていく話に、瞬きを繰り返すしかない。王妃? 本当にフィガロ貴族は、あたしを王妃に据えようと考えてたの? 「アローニィ様は外つ国のお方ですが、フィガロ王家もかつては異国の王家との婚姻が多うございました。もとより王族は姻戚関係によって他国との繋がりを得るもの。サウスフィガロを領土に含む我が国は、ことさら血統主義ではございません」 「それがこのサマサでも? 悪評高い、よそ者に冷たい村でも?」 「……サマサの村の評は、確かにフィガロにも届いております。いささか強固な排他的気風をお持ちだとか」 自分で言うのは平気でも、他人に言われるとこたえる話題もある。リルムは天を仰いだ。理由のあることではあるが。 「しかしフィガロ貴族院は、陛下からご報告を頂戴し、サマサの閉鎖性には相応の事情があったものと承知しております。繊細な問題なれば、民にそれを伝えるかどうかは別の議論が生じますが……理由を言わぬまでもいくらでも手はありましょう。極端な特徴は裏返すのも容易うございます。すなわちサマサの排他的気風は、調和と伝統を重んじる郷土愛のあらわれであると。フィガロも古い国ですので理解は得られやすいと存じます。男たちは実直、女たちは身持ちが固い。偽りない長所ではございませんか」 大した手腕だ。つい頬に上りそうになった苦笑を、リルムは押し止める。 「……確かに、王様こそ他国人と結婚する、って話は歴史上たまに聞くね。フィガロとサマサが連携を持つのもいいことかもしれない。発展が期待できそうだし。でも王様が結婚するのは、あくまでも他国の王族か、せめて身分の高い人とでしょ。サマサには王家なんかないし、あたしもただの村娘だよ」 「アローニィ様のこのご邸宅は、サマサでは一位二位を争う規模かとお見受けいたします」 星降る黒瞳は、邸内をぐるりと見回してから、再びこの家の孫娘に留まった。 「名義は別姓の方、マゴス様の所有不動産でいらっしゃいますね。しかし名実ともに、アローニィ様はこの家のお嬢様と認識されているご様子。ならばアローニィ様は、普遍的な意味での王侯ではあられませんが、サマサにおける代表名家のご息女であると推察いたします。我が王と並び立っていただくにさほど遜色ないかと」 名家のご息女。むず痒い名称に、思わず身震いしそうになる。しかし言われてみれば事実、かつて名猟師としてひとかどの智と富を蓄えた祖父は、この小さな村では一応の重鎮といわれる存在だ。 村における大事な決めごとがある場合、ストラゴスはガンホーらとともに必ず会議に呼ばれる人員でもある。リルム自身、祖父のもつ資産や不動産収入のおかげで、普通ならそろそろ野良仕事や家業の手伝いをしようという齢になっても好きな絵を描いていられた。サマサをひとつの都市国家として捉えるなら、この家は確かに名家のような存在かもしれない。名前だけが仰々しすぎてどうにも気恥ずかしいが。 「正直に申し上げれば……フィガロ4家は、陛下のご選択が貴女様であったことに安堵しておりました。お仲間のうち、他のどの女性でもなく、アローニィ様であったことを」 「なんで。年齢的には一番、ぎりぎりだと思うんだけど」 「まず、シェール様と申されましたか。元帝国軍人の女性となりますと、当国としてもさすがに動揺を隠せません」 やはりそこか。リルムの金褐色の眼に、昏い光がよぎる。 かつてガストラ帝国は魔導政策のもと、世界の覇者たらんとしていた。当時の姿勢を理由に今でも元帝国人を好かぬものは多い。世界崩壊のさい、首都ベクタの民は多くが天変地異の犠牲となったが、生き残りの者は各地に散っている。 帝国人の中には、自国の皇帝のやり方に難色を示していた者もいた。だが勝利に酔い、占領地で横暴をはたらいた者がいるのも事実だ。その後ケフカが塔に君臨し、国境線の上から世界を恐怖一色に塗りつぶしたおかげで、ある種の同情も生まれてはいるが…… 「帝国の要職にあった女性を娶ることで、フィガロの歩む道がかの国と同一視されてしまうのは宜しくありません。かの女性に咎なきことは承知しておりますが、世俗の心証がございます。モブリズにお住まいのブランフォード様も同様ですね。半ば人ならざる血を持つお方――この点については、魔導の消滅を超えてなお現世に留まったなら、いまや完全な人の身であろうと学者たちの見解は一致しています。ただ、やはり、かの方も帝国の戦士であったとか」 「……でもさ、あんたたちの手に掛かりゃ、たとえエドガーが強引に元帝国人と結婚したってそれを政治的に利用できそうだね」 「ご明察と申しあげるべきでしょうか」 あいかわらず感情の色を乗せぬまま、ロレンツィアは肯定する。 「事実、貴族院には、陛下があえて元帝国人を娶ればこそ得られる意味もあるとの声もございました。一理あります。元帝国の方々は、かつてその国に属していたというだけで今なお肩身の狭い思いをしておられる。シェール様あるいはブランフォード様を妃に迎えれば、彼らに大きく報い、ひいてはその支持を得ることが可能やもしれません。しかし」 少なからぬ危険を伴う賭けですね、と銀の鈴の音が、今はひそかに降られた。 「彼らには報いるとしても、できれば他の形で応じたいものです」 リルムは大きく溜息をついた。緊張してずっと同姿勢でいたままの自分に気づき、首を回してごきごきと鳴らす。 さっきから聞いていればこの少女は、なんという打算の鬼だろう。利害を基準にすべてを計算し、損得を見定めたうえで豊富な言い訳をたっぷり用意している。フィガロ貴族は皆こうなのだろうか。人間関係の問題について話しあっているはずなのに、まるで政治会談でもしているような気分だ。いや、一国の王との人間関係を考えるというのはこういうことか。 「……大したもんだよ。いやほんと」 声に生えた小さな嫌味の棘は、どうしても隠しきれない。 「すべてはフィガロの利益のため、か。あんたたち貴族は結婚も計算づく。愛がないね」 「わたくしども貴族や王室の婚姻を評して、民の方々がよく仰ることです」 花のごとき令嬢は、微風が吹いたほども揺るがなかった。 「打算的であることは否定いたしません。しかし少々の疑問もございます。平民の方々が婚姻において愛情の有無を命題とし、それに満足しておられるなら、なぜ『婚約者が借金を抱えていたので関係を解消した』という話が漏れ聞こえるのか。愛情という理由はたとえば、有職婦人が家庭に入ることで自らの実績を失う不満を、常に凌駕できるのか」 リルムは苦さを塗りこめた表情でそっぽを向いた。ここで負けずに愛の万能を説けるほどには、彼女は子供ではなかった。 村の口さがない女性たちが何くれとなく口にする言葉。『結婚とは生活』、だ。 「政略結婚はえてして国の輪郭を保つための手段です。階級の内々で行われる婚姻には、もっぱら財産の散逸を防ぐ目的がありますが、それはそのまま彼らの采配下にある民の財産を守ることと同義です。王侯に、『人ならば愛に生きよ』と人倫を要求するならば、愛の名のもとに自らの民を危険に晒すことは許されるのでしょうか。……幸運にもサマサの方との婚姻は、陛下の治める民の生活を脅かさぬ位置にございます。サマサとフィガロでは国力の方向性が異なりますゆえ、互いに収入を削りあわないという意味においても」 滔々と流れる説明を耳に受けながら、リルムはなお苛ついて無意識に爪を噛んだ。 何なのだろう、この人は。だいたい最初からずっと意見交換があべこべなのだ。フィガロ貴族が自分を王妃に据えることの是を並べ、こちらはその非ばかりを挙げている。でも、一番最初に相手が言った台詞をリルムは忘れていなかった。……エドガーに近づくな、と言いに来たのではなかったか? この娘は。 「ロレンツィアさん、あなた結局、何がしたいんですかね」 慇懃の奥に不快感をこめて、絵師の少女は腕を組む。 「ああ言えばこう言う、どう返しても言い抜ける。ええ、降参です、あんたたちの理屈上、どうやらあたしがフィガロ王妃に相応しいのはよく解ったよ。でもあなた、最初にあたしに言ったじゃない。エドガーともうつきあうなって。一体どっちなのよ?」 「アローニィ様は王妃に相応しくございません」 澄みきった銀の刃が、すらりと鼓膜を貫いた。 「先ほどわたくしが申しあげたのは、つい先日までのフィガロ4家の見解です。このままならばアローニィ様を王妃にお招きするつもりでした。しかし近頃、アローニィ様のあるご素行が判明し、王妃として迎えるに支障有りとの判断がなされました」 「……へーえ」 とっさの虚勢は、完璧だったかどうか疑わしい。リルムはわざとゆっくり卓上のカップを取る。喉に流し込んだお茶は、冷めていて苦い。 「聞こうじゃないですか。あたし最近、なにをしましたっけ? なにが王妃に相応しくないと?」 「アローニィ様が行われている復興支援です」 心に分厚い覚悟を着こんでいたリルムは、拍子抜けして相手の顔を見つめた。素行が理由というからには、随分下品なところを見られたかと思ったのだが。 「復興支援って……確かにやってるけど、それのどこがまずいわけ?」 「アローニィ様はつい先頃も、フィガロ領下の貧民たちに、手づから寄付金をお届けになったそうですね」 「うん。そういえばそれ、よく知ってるね? エドガーにも言ってないのに」 「最近になって城下の声を聞きつけました」 粛然たる貴族令嬢の態度は変わらない。表情もだ。しかし、何かが漂い始めたことにリルムは気づいた。低温で硬質のわだかまる何か。 「お伺いしたいのですが……ご寄付の際はあらかじめ、当国の専任機関を通していただくよう伝達させていただいているはず。アローニィ様も以前はそのようにご支援くださいましたね。なぜ最近になって、ご自分で直接お届けに?」 「ああ、そりゃ、いやな話を聞いたからだよ」 乗り出しかけた上体を抑え、リルムは嘆息混じりに眉を寄せてみせた。相手の弱みを思い出したからといって急に生き生きしては足下を見られる。 「心ない一部の輩が、貧しい人たちへの義捐金をかすめ取ってるらしいじゃない。言いづらいことだけど……フィガロの福祉大臣その人が寄付金を着服してるとも聞いたよ? あたしが自分で雇った人手にお願いして、自分で配布の現場を見張れば、その心配もないからさ」 「そのようなお話をアローニィ様に申しあげたのはどなたですか」 「滞在時にいつもお世話になってる、フィガロの画材商の人」 「……当国の福祉大臣が着服を行っている事実はございません。根も葉もない流言です」 「そりゃ、あなたの立場では認めるべくもないでしょうけど」 リルムは笑った。 「じゃあこれ言っちゃうけど、あたし、福祉大臣が寄付金を勝手に使いこんでる証拠も見せてもらったからね。画材商の人に」 リルムが見たのは、フィガロ貴族院の福祉部と、ある商人が交わした取引書だ。福祉部は集められた寄付の何割かを、そのまま商人への大口発注に使いこんでいた。注文したのは大量の紙や卓上具で、貧民に配る食料でもなければ収容施設を建てるためでもない。事務用購入にしてはやたらと多すぎる。『一種の資金洗浄ですよ』と画材商が教えてくれた。こうやって意味のない送入金を繰り返し、出所を曖昧にして、ほとぼりが冷めてから懐に収めるんです。この商人も共犯ですな。私はこの証拠を手に入れるため、ずいぶん危ない橋を渡りました…… 「その、着服の共犯者だとされた商人は、紙や筆具を主に扱っているのですね」 「うん。この情報を教えてくれた画材商とほぼ同業者だね。だから書類も入手できたのかも」 「成程。話が繋がりました」 美しい声音は無機的に冴える。なぜそんな声を出すのかリルムには解らない。 「福祉部が行ったその大口発注は使いこみではありません。職業訓練用です。当国では貧民自立支援のひとつとして、職業訓練所を開設しております。フィガロの主要産業は機械。職を得たければ、工房に勤めるのが一番の近道です。福祉部はそのための技能を教える訓練所を運営しております。購入された道具類はすべて、機械の設計・製図を学ぶ人々のために購入され、分け与えられたものです」 金褐色の瞳が、きょとんと見開かれる。 「な……えっ?」 若年のうちに芸術家、つまり個人事業主となったリルムは、就職支援の仕組みを知るよしもない。やがて追いついた理解に、なお限界まで瞳を開く。 「職業訓練って……え、だとしたら、なんで画材商の人はあたしに嘘なんかついたの?」 「推測は容易です。同業者なのでしょう? 福祉部からの大量注文を取りそこねて『王室御用達』を名乗れなくなった画材商が、注文を勝ちとった同業者を嫉み、アローニィ様に悪評を吹きこんだだけのこと。そうやって上客であるアローニィ様を囲いこもうとしたのでしょうね」 話が繋がった。理路は整然としている。 まさかそんな――待て、この少女こそ、嘘をついている可能性は? しかし調べればいずれ解ることだ。正直な話、リルムも画材商が吹きこんできた話には小さな疑問を抱いていた。はっきりした証拠があるなら、なぜ上にきちんと不正を報告しないのか? そう進言したリルムに商人は、なにぶん自分にも立場があるので……と有耶無耶な返事で書類をしまいこんでしまった。周囲との軋轢でもあるのだろうと深く追求しなかったが、要するに、フィガロの内情に詳しくない外国人くらいしか騙せぬ嘘だったのだ。 把握が進むうちに、リルムの頬に羞恥の紅がのぼる。 「…………わ、悪かったよ……」 蚊の鳴くような声が自分でも情けない。 「あたしが勘違いしてたみたい……一方的に悪いように言ってごめん。……でも」 ひとつ解せないことがある。自分でも可愛くない態度だと思うが、明確にしておかないと落ち着かない。 「これが、この誤解が、あたしが王妃に相応しくないとされた理由? 自分で言う筋じゃないけど、そこまで大きな問題なのかな。あたしが間違ってたのは謝る。でも、誤解が解ければ済む話じゃない? 貴族院を経由しなくたって、寄付金自体はどうせ貧しい人たちのとこに届けられたわけだし」 氷青色の花が、慎ましく伏せていた面をゆっくりと上げる。 奥まで透きとおる濡色の光彩は、夜の湖を思わせる深淵だ。情動なき美に気圧されてリルムは思わず息を詰めた。 ロレンツィアは卓上に置いていた自身のクラッチバッグを取り上げた。小さな真珠が規則的にちりばめられ、留め金には尾長の鑑賞魚があしらわれている。 中から取り出されたのは2枚の紙だった。自分の前にすいと差し出され、ご覧くださいと示唆されたそれを、リルムは手に取って開く。 「院が密かに調査して入手した、当国における一部店舗の収支表です。フィガロ領に存在する地下賭博場と、娼館と……加えて、ある種の薬物を供する店の」 収入を示す数値が、数ヶ月前のある時期から急に跳ね上がっていた。数ヶ月前。数ヶ月前? リルムの脳裏で記憶が閃く。 それは自分が、貧民たちに直接、寄付金を届けるようになった時期ではないか。 「2枚目もどうぞ。職業訓練所の出欠管理表の写しです」 額から血の気が引いてゆくのを自覚しながら、リルムはのろのろと紙を開く。予感したとおりだった。訓練所の出席人数は、同じ時期から急速な下降線をたどっていた。 「……決して生きやすくはない時代です」 ロレンツィアの台詞は平坦だった。 「道化は物理的な世界のみならず、人々の誇りを、意志を、自律を壊していきました。種を蒔いても芽の出ぬ日々、心が折れるのは当然です。罪深い慰めに溺れることもありましょう。それに抗うは思考力です。もとより無知は貧困の友。恵まれた身のわれわれは、無知からくる堕落を拭わねばならない。……長い道のりでした。この先も長うございます。軌道に乗ったばかりだったのです。寄付は現物支給を中心とし、使い道をある程度制限する。簡単な仕事と寝床を提供してまず一カ所に留まらせ、酒や薬物などの悪習をできるかぎり取り除く。施設内の治安と志気の維持に気を遣い、荒んだ心を落ち着かせて根気よく就業意欲を育てる」 手に職があっても貧しい者もいる。彼らには単純支援や取引先の斡旋でいい。しかし職すらなく街に浮浪する貧民たちは、いわば幼子同然だ。実際のところ若年層も多い。彼らに与えるべきはまず衣食住と、次いで、教育だった。 「彼らはやっと自分の将来を意識しはじめましたが、まだ不安定で誘惑に弱い。そのような折、金が……専任機関の管理から漏れた野放図な大金が……直接ふところに舞いこんだら、何に浪費されるでしょうか?」 回答は1枚目の表。それによって招かれる結果は、2枚目の表だった。 項垂れる少女の耳に、令嬢の声がやはり情動なきままに届く。 あるいは秘めた怒りだったのか。 「遅々としながらもようやく成長しかけていた、彼らの更生力を、 貴女様はたった数ヶ月で無に帰したのです」 リルムは、喘ぐように何か、言葉を発そうとした。 筋の通った言い訳は? 自分なりの意見は? そんなものはない。あるのはただ、浅はかさだけだ。 「あた、あたし……知らなくて…………そんな仕組みだったなんて」 「先程も申しあげましたが、ご寄付くださる方にはあらかじめ通達させていただいたはずです。どうか必ず、専任機関を通してご寄付いただけるようにと。その際に理由も申しあげたことと存じます。継続的な支援の計画上、綿密な管理が必要であるからと」 リルムは必死で記憶を探る。言われてみればフィガロに寄付を送る初回、係官からなんらかの説明を受けた気がする。でも内容は憶えてない。聞き流していたのだ。貧しい人に施しを送る、それだけのことに仰々しい説明が必要か? と。 「偶然の、行きすがりの、少額のご寄付であれば、まだささやかな例でした。そういった場合あらかじめのご説明が難しくもあります。なればそれらのご寄付は、たまの息抜きとして、薬物はともあれ一夜の酒精や娯楽になら浪費されてもまだよいとわたくしは考えます。程度さえ弁えていれば大きな問題にはなりません」 だが、リルム・アローニィの寄付ともなればそうはいかない。サマサの絵師には自覚があった。自分には歳に似合わぬ収入があり、ゆえに支援金も相応の高額になる。しかも定期的だ。1名あたりに割り振られる額は、真実の意味での大金ではないが、貧しい民にしてみれば目も眩む賜物になる。 せっかく身に付きはじめた節制を捨て、身を持ち崩すには十分な額だ。 「ことの発端は流言を吹きこんだ画材商でした。貴女様のお齢では、狡猾な言を弄する輩と接する機会が少なく、ゆえに流言と見抜くすべを持たなかった。加えて、お齢のわりにお手にした収入があまりに大きかった。いくつかの要素が巡り合わせた悪意なき結果ではあるかもしれません。しかし」 波立たぬ静かな問責は、それだけに凍てつく水面のようだった。 「小さからぬ影響力を持つ方には、どうあっても慎重であっていただきたかった」 「…………あたし、知らなかった」 言い訳がみじめに空間に這う。自己嫌悪が重くのし掛かり、口が上手く動かない。動いたとて無様な逃げ口上ばかりだ。 「知らなかったんだよ……」 「……フィガロ4家はアローニィ様に、万能を求めていたわけではございません」 ロレンツィアはクラッチの留め金をぱちりと開き、持参した書類を中に戻した。白い手指の優雅な動きをリルムは虚ろに見守る。 「特にこれは異国のやり方、知らぬ背景も多うございましょう。しかし、なぜ大金を動かす前に確認をしてくださらなかったのか。なぜ最初のご説明をお聞き入れくださらなかったのか。なぜご自身の判断だけで動かれたのか? 人は万能ではございませんが、未知のものについて学ぶことは可能であるはずです」 自責の熱が心を灼き、頭にのぼって涙腺を開きそうになる。リルムは慌てて眼を閉じた。ここで泣いたら本当に最低だ、堪えろ。 瞼の裏につい先月の光景が蘇る。フィガロ領下の貧民街、自ら手配した荷車と人足。群がってくる人々の格好は似たり寄ったりだが、小分け袋を受け取るときの反応はさまざまだった。心からの有難う、ぞんざいな有難う。もちろん無言の人もいる。無愛想な者、ひったくる者。手が震えている者、何事かぶつぶつ呟き続ける者。 本当にさまざまだ。感謝を向けられれば嬉しくはなったが、そうでなくても別によかった。そういうものだと思った。だから『感謝されたくてやっている』という自己満足は、自分には存在しないと自惚れた。感謝されずともわけへだてなく与えていたから。 とんでもない思い違いだ。 自分は白、他人は黒、善意にもとづく行動に間違いなどありえない。そう盲信した時点でたっぷり利己的なのだ。 「難しい話ではなかったはずです。貴女様は専門家が模索して作りあげた機関に、ご自身の出資を託されればよかった。口を出さず従えと申し上げているのではありません。用途について疑問点がおありなら追及なさればよろしい。なさるべきです。ご出資に責任を持っていただくうえでは重要なこと。その上で、我らのやり方をご納得いただければよし、ご納得いただけないなら論議の場をもうけて妥協点を探す。それだけのことだったはずなのです」 フィガロ貴族の令嬢は、一旦言葉を切った。長い長い前提を経て、本来の目的であったそもそもの結論が招かれる。 「……フィガロ4家が、アローニィ様を王妃に相応しからぬと判断した理由は……政情を把握しておられないのに、実態の検証も、識者の見解を聞くこともせず、ご自身だけを頼んで動かれた事実です。所有財力に見合わぬ判断力のお甘さです。……経験の浅さはやむなしとしても、それならば持って然るべき、学ぼうとする姿勢の欠如です」 リルムにはもう、何も言えなかった。できることなら小児のように逃げ出して二階に駆け上がり、ベッドの中に飛びこんで隠れてしまいたかった。 エドガーは。エドガーはどう思ってるんだろう。慚愧と焦燥がぐるぐると脳裏で渦を為す。この慈善活動のことは、彼には打ち明けてない。敵が多い――と思いこんでいた――エドガーに、余計な心労をかけたくなかったのだ。それ自体が思い上がりだが。 以前まではフィガロの福祉部を通して寄付をしていた。やり方を変えたのは数ヶ月前からだ。エドガーはたぶん、アローニィ名義の寄付がこのところ途絶えているのは把握している。でも理由は聞かれてない。当然だろう、あまり聞くことでもない。たまに来る自分の様子を見れば、困窮しているわけではないのは察せるし、それなら少々物入りだとか貯金に回したいとか、そんな理由で一旦寄付を止めているだけと考えただろう。 ロレンツィア嬢は、最近になって城下の声でこの事実を知ったと言った。今はまだ王の耳には入ってないかもしれない。でも時間の問題だ。エドガーが自分の浅慮を知るのは。 「……あたし……」 どう詫びればいい。どう非を認めればいい。これも自分をよく見せたいだけの思考か? 世界を救ったからとて、永遠に自分が正しいとでも思っていたのか。 「……貴族の人たちへの偏見があった、と思う。気取ってるだとか保身的だとか、やっかんで考えてたんだと思う。自分がそうじゃないから。だからそういう人たちは、陰では着服とか不正とか、汚いことをしてると決めつけたんだと思う……」 ロレンツィアは黙ったままだった。きっとそれすらも美しい侮蔑の色が、表情を彩っているのだと思い、リルムは恐ろしくて顔を上げられなかった。 だが、あまりに長い。責めるにせよ肯定するにせよずいぶん長く反応がない。リルムはこわごわ視線を上げる。 可憐な令嬢は、端然と座していた。この家に来てからずっと変わらぬ静謐の花。いや、よく見れば微細な変化が眉のあたりにあった。蔑みではなく、意外な感情。迷いにも似たあえかな疑問。 「……ひとつ、質問させていただいてよろしいでしょうか」 断る権利がいまの自分にあるとは思えない。リルムは視線だけで力なく、どうぞと促す。 「果たして本当に、アローニィ様には貴族たちへの偏見がおありなのですか? と申しますのは、アローニィ様が貴族に対し、無理解だけならともかく悪意や偏見を抱かれた経過がわたくしには考えづらいのです。なぜなら貴女様の絵画を購入されるのは、大半が貴族であるはず。アウザー様とのご親交も世間に周知されております」 その通りだった。リルムの絵画の購入者は、まず大半がジドール貴族。老舗の商人や街の資産家もそれなりに混じるが、やはり基本は上流階級の人間だ。 「人は自らの価値を認め、自らに投資する存在のことは肯定するもの。芸術は相手を問わぬと申しますが、明日のパンなき民にはやはり少々馴染みが薄い。自然、経済的にゆとりのある者が芸術家の支援者となる……。アローニィ様はご幼少よりそれをよくご存じで、長らく貴族たちと親しまれてきたはず。なのになぜ、当国の貴族については、考慮することなく直ちに不正ありと確信して攻撃性を示されたのでしょう?」 ――だって。 胸中に浮上した自分の回答に、リルムは自身でびくりと戦慄する。 「なぜアローニィ様は……当国の貴族に対してのみ、強固な敵愾心を持たれたのでしょう?」 だって、だって。解ってるでしょ。 違う、解ってなかったのはあたしだ。いや、それも違う。本当は最初から解ってた。 あたしは『貴族』に偏見があったんじゃない。 『フィガロの貴族』に、偏見を抱いて、嫌って、いたんだ。 なぜ? 話はとても簡単だ。フィガロの貴族だからだ。 あたしは懸命に、歴史の本をひもといて調べた。独り身の王の今後について。歴代のフィガロ王のうち多くが、フィガロ4家と呼ばれる貴族から配偶者を選ぶ? ふうん。可哀想だ、王様は貴族たちに縛られてる。 自分とエドガーの関係が、少しづつ変わってきたという自覚。でもまだわからない、保留の段階だ。だからフィガロ貴族がこの家に来たときこう考えた。王様だからって友達と会っちゃいけないはずはない、あたしは仲間の権利を守る! もっともらしい言い分を笠に着て噛みつこうとした。自分の欲求を隠して、エドガーのために闘っているような顔をした。でも稚拙な攻撃は交わされて、気づかされたのは愚かな独占欲だった。 あたしは自分からエドガーを奪おうとするものが憎かっただけだ。いずれエドガーの隣に立つであろう女が。彼女を送りこむ一族が。だからフィガロ貴族を一方的に敵だと思いこんで、悪い噂を鵜呑みにして、勝手な行動をした。フィガロ貴族なんかより、あたしのほうがエドガーの役に立つと思いたかった。あたしはそのために貧民たちを利用した。ああ、なぜそもそも、あの画材商があたしに福祉大臣の悪口を吹きこんだか――あたしが先に、「フィガロ貴族ってなんだか偉そう」と愚痴を漏らしていたからだ。そこをつけこまれた。 結果がこの有様だ。自分で自分を貶めた。 あたしは自分からエドガーを奪おうとするものが憎かった。 それが動機だ。それだけが動機だ。 あたしは、ただの女だったんだ。 長い沈黙のあと、かすかな椅子の軋みと衣擦れの音がした。 告げるべきことを告げ、相手の納得も得て、これ以上話すことはないと判断したのだろう。ロレンツィアは丁寧にドレスの裾を捌き、扉を開けて部屋を出る。 玄関先で、おや、もうお帰りかの、と老いた声がした。どことなくよそよそしいのは、彼も先ほどまでの孫娘と似た思いを抱いているからだ。 リルムは手を上げ、力なく自分の身を抱いた。薄暗く澱む頭がとても重く感じられた。 ふと本棚に視線を留める。暗緑色でふちの少し剥げた本。いつでも手に取れる位置に置いてある。もらいものの本だ。 まだフィガロに正式な形で寄付をしていたある日、彼に呼び止められた。アローニィ殿、本邦への常のご篤志、国首として厚く御礼申しあげる。つきましては返礼に、私が少年時代に読み古した冒険小説を1冊、進呈したいのですが受け取っていただけるかな? 安くない寄進のお礼がたった古本1冊! 国ぐるみでひどいぼったくりだね。軽口で返しながら、これほど嬉しかったお返しはない。寝台に持ちこんでさっそく読みふけった。財宝が待つ絶海の孤島、胸躍る航海の旅。数奇な運命、謎の男、奇跡の勝利に情緒ある幕引き。 すっかり没入し、手に汗握ってページを繰った。やっと背表紙を閉じたのは夜半過ぎだ。余韻に吐息を漏らしながら潤んだ目元を拭うと、窓の外の星々が眼に入った。 同じ星の下で、きっと彼はいま、記憶するほど読みこんだ同じ物語に思いを馳せている。 きっとこの一晩、同じ世界を歩み、同じ謎に興奮し、同じ結末に酔っている。 とても幸せな記憶だった。 リルムは立ち上がり、本を手に取った。 胸に抱えたまま暖炉へと歩み寄る。赤い舌がちろちろ薪を舐めている。自分にはこれを持つ資格はないと思った。放り込むべきだと思った。 立ち尽くしたまま、長い時間が経った。 炎のかわりに、ひとしずく、水滴が古書の表紙を舐めた。 → 2 2013/07/01 |