『おまえに名をあげよう』 内緒話のように囁かれ、うっとりと聞き入った。 綺麗な声だと思ったが、それが本当に“声”かどうかは解らなかった。 『黄昏の闇を統べる名をあげよう』 発された音列は、誇らしい響きで思考を彩どった。 その響きは全身に染みわたり、やがて鼓動を生み、内側から自分を支配した。 『おまえに色をあげよう』 自分の内に、灼熱の渦が押し込まれていくのを感じた。 それは熱く、烈しく、不穏で、痺れるほどに甘かった。 『その両の眼に宿す色をあげよう』 至高の悦びに打ち震え――ただ一心に、それを受け入れた。 それが、彼の最初の記憶だった。 みっしりと空間を塗り込める漆黒の中。 双眸に紅を宿して、彼はただ蠢いていた。 悠久に昏い地の底。 だが彼は其処を気に入っていた。 少なくとも此処では何も見えない。 醜く歪んだ己の爪も、脚も、牙も見えない。 那由多の昔も昨日に思えるほど永い間、ずっと。 ひたすら彼は記憶を反芻していた。 金色にゆらめく闇。 懐かしい海。 凡てを孕み凡てを拒む、虚ろの夢。 耀ける、我が唯一の、混沌の君。 かの存在を想う度、彼は更なる底に沈みたくなった。 焦がれるには余りに巨きい存在。 己が身を如何に延ばそうとも届かない存在。 でも魅かれて止まない。もう一度触れられたい。名を呼ばれたい。狂おしい。 どうすればいいか解らない。 還りたい。 そう呟いて彼は、素晴らしい事を思いついた。 己が身が届かないなら、世界の方を戻せばいい。 かつて在りし日の姿へと。 虚無のたゆたう根源へと。 産まれてきてしまったもの凡てを引き連れていけば、 恋しい海まで届くはず。 醜い爪が、脚が、牙が頼もしい。 その日を想う歓喜に眩暈がした。 毀して、崩して、潰して消して滅して失くして亡ぼせばいい。 そうすればもう一度、もう一度あの御方の元に。 其処は昏い、昏い地の底。 紅の眼の魔物が夢をみて、破滅の腕を世へ伸べる。 …………あの御方は、褒めてくださるだろうか。 Fin. 数年前に書いたL×S……と言うよりL←Sをリメイクしてみました。 2005/08/30 |