その姿をはっきりと目撃した者はいない。なにしろ大きくなければ足音も立てぬ。
 だが看護婦たちは、確かに気付いていた。
 夜間巡回の廊下で、足元をするりと通りぬけられ、思わずファイルを取り落とした者。資料室で探し物をしているとき、棚から棚へと飛びうつる影が視界の隅をかすめた者。待合室のベンチの下、ひっそりと2つ並んだ小さな琥珀の月に、驚いて眼を見張った者もいる。

 いずれも刹那の出来事だ。慌てて辺りを探しまわっても、既にその姿は無い。
 病院という場所にはあるまじき話のはずだった。どこよりも衛生と安全が求められる場所だ。
 だが相手は不思議と奥ゆかしく、肝心の処置室や病室には姿を現さない。ものを壊したり汚したりといった悪戯もしない。
 確証はなく、だがまことしやかな噂も絶えないまま、今日も”彼”は夜を歩いているらしかった。

 ”彼”の気配に遭遇した看護婦のひとりは、驚きに乱れた動悸をなだめ、首をかしげながらもデスクに向き直った。
 この資料の化粧裁ちは朝までに仕上げなければいけない。時間が無いのだ。
 裁断機に手を添え、視線をおとしたところで、いつの間にか作業がすべて済まされていることに気付く。
 そのままの姿勢で、ほんの数秒、困るべきか喜ぶべきか迷う。
 だが彼女もこの都市の住人らしく、有り難くさっさと寝てしまうことに――つまり忘れてしまうことにしたのだった。


 その日の院長室には、普段とはわずかに違う風景があった。
 来客用ソファの代わりに、新しく追加された調度品が置いてあるのだ。
 骨組みは象牙、張られているのは上等の仔山羊革。背もたれを覆うカバーは大粒の真珠を縫いつけたアンティーク・レース。
 中世の貴族の屋敷から運び出されたような、贅を尽くした長椅子だ。上は絹とカシミアのクッションで埋めつくされている。
 横に置かれた大理石の植木鉢に植えてあるのは、観葉植物ではなくキャットニップの大株。
 そして院長の座る黒檀のデスクには、古めかしい蝶番で閉じられた医学書や、正体も知れぬ稀観本と共に――この部屋においては場違いな文明の利器、ノート型パソコンが置いてある。

 院長がふと顔を上げたとき、”彼”は既に、薄蒼い大気の向こうに佇んでいた。
 扉は固く閉ざされたままだ。部屋の主が自ら、どこかに彼専用の入口を取り付けたに違いなかった。
「お帰り」
 掛けられた声には返事もせず、”彼”は自分専用の場所に敷かれた、ゴブラン織の小さな絨毯に歩み寄る。金糸銀糸の模様の上に並べてあるのは、レリーフが見事な純銀の平皿と、クリスタルのボウルだ。
 いずれもふさわしい美術館に収めるべき逸品だが、”彼”は無作法にも、じかに口をつけてボウルの水を飲み始める。
 だが、背から尾にかけての奇跡のような曲線を見れば、それも許されただろう。
 ”彼”は、この世のものとも思えない、綺麗な黒猫だった。

 くるりと尾を巻いて座りなおし、顔を洗い始めた猫に、寂びを含んだ声がまた掛けられる。
「最近、職員たちの間に、不穏な噂が流れている。……ここの保安体制と衛生観念についてだ。心当たりがおありと思うが?」
 相手は我関せずという顔をしている。知恵持たぬ身ならば当然の反応だ。
 それでもメフィストは続けた。
「確かに外出なら許可した。安静が必要なわけではない以上、閉じ込めておくのも不憫に思えてな。だが、徹底して人目を忍ぶことが前提と言ったはずだ。営業妨害は困る」
 そこまで聞いて、猫はつと立ち上がった。
 柔軟な四肢が音もなく、しなやかに交差して歩む様は、それだけで黄昏の風に揺れる黒百合を思わせる。
 デスクの下に辿りつくと、視線だけで狙いを定め、軽やかに床を蹴ってひらりと上に飛び乗る。
『営業妨害はこっちの台詞だ。いったい何日店を空けてると思ってる』
 キーボードに向かい、そうノート型パソコンに打ち込んだのは、誰あろう美しい猫であった。
 驚きもせず画面を眺め、医師はその職業にふさわしい冷徹さで返す。
「最初に言ったはずだ。この治療に最も要するものは時間だと」
 白い背を椅子に深く預け、噛んで含めるように幾度目かの説明を開始する。
「もっとも自然かつ安全に、君をそこから出すことが出来るのは、そこにかつて入っていた猫の自我だけだ。強引な干渉は避けねばならん。君の敵がそれを狙っていたように、波長が崩壊するケースが殆どだ。再びの偶然を期待できる胆力は私には無いよ。自身の幸運を自覚したまえ」
 猫は耳を伏せ、尻尾を水平にしゅるりと振った。不機嫌を表す仕草であった。

 厄介な依頼人の厄介な敵対者が、せつらの精神を肉体から剥離すべく挑みかかったのは、つい先日のことだ。
 だが、恐らくは術者の不徹底であろう。誰にも予測できなかった。
 秋せつらを陥れる邪法、その贄として捧げられるはずだった黒猫の肉体に、せつら自身の自我が定着してしまうとは。
「くだんの猫の精神波長は当院が保管している。むろん君の肉体も」
 硝子管の中で生命を造り上げることも造作なさそうに、白い医師は言った。
「だが哀れな生物は、君という侵入者に押し出されたショックで、未だ混沌を極めたままだ。今はとても肉体への帰還どころではない。この状況は私の責任かね?」
 相手が言い終わるのを待たず、黒い前足がそそくさと動いた。
 文字キーを押し、変換キーを押し、決定する。
『藪』
 打ち終わってすぐ、典雅な獣はふんと鼻を鳴らした。人間で言うなら溜息であっただろう。
 少し乱暴に、続けてこう打つ。
『この一言をおまえに伝えるのが、こんなに面倒なことが、なにより腹立たしい』
 それは捨て台詞であったが、言われた方は間も変わらず、微笑を以って受け入れた。


 自由に闊歩することを許されたところで、今さら特別な何かがあるとは思えなかった。
 せつらにしてみれば勝手知ったる病院だ。
 だが人の集う場所ならどこでも、人間観察の楽しみは存在する。まして獣の身だ。普段なら入り込めない場所に潜りこみ、くぐり抜けてたどりつき、様々な光景を覗くことができる。彼はいつしか院長に次いで、この病院を把握する存在になっていた。
 だが獣であればこそ、至らない部分もある。
 近道のつもりで中庭を通り抜けようとしたとき、彼はそれを思い知った。
 今の自分の視点から見る草叢や花壇は、思ったよりもずっと背が高い。かきわけて進むのは大変な苦労だ。
 やっとの思いで抜け出せば、足は泥まみれで、全身のあちこちには草切れや雑草の実が付いている。
 疲れきって院長室に戻ると、暖かく清潔な香りがふわりと彼を出迎えた。
 やはりこの地の支配者はこの男であったか。呆れた気分で、猫のせつらはそれを見る。
 どこで自分の様子を知ったのか、メフィストは、大時代な陶器のバスタブを用意して待っていた。
「……観念してこちらに来たまえ」
 湯気の向こうで白いタオルを片手に、部屋の主が言った。
 猫が溺れない高さに張られた湯も、彼のためだけに運ばれた天然鉱泉を沸かしたものだ。
 汚れを落としたいのは山々だったが、せつらは不機嫌を装ってのろのろと歩み寄った。この男に余計な自信など付けさせたくない。
「猫が濡れることを嫌がるのは、本能的なものだ」
 こまやかな動きで、慈しむように猫を洗いながらメフィストは語る。
「もともと砂漠地域に棲んでいた生き物だ。大量の水に対する種族的記憶がなく、体毛も濡れることを想定した造りになっていない」
 毛がぺたりと総身に貼りつき、別の生き物のようになった自分の姿を、黒い猫は少しおもしろそうに見回した。
「だが、君が持ちえているのは人間の理性だ。理性から判断すれば……入浴することを嫌がる理由はないだろう?濡れることによる体温低下も、文明の徒である我々には関係がない」
 メフィストはせつらを持ち上げ、タオルを敷いたサイドテーブルの上に置く。
 軽くタオルで水気を拭き取ったあと、静音ドライヤーと柘植の櫛で、かつての光沢と滑らかさの復旧に努める。
 全身を念入りに梳かれる心地良さに、せつらは軽く身震いした。
『礼は言わないぞ』
 目の前にノートパソコンを持って来させて、一番最初にせつらはそう打った。
『中庭の手入れが行き届いてないのは、僕のせいじゃない』
「人の眼から見る限り、中庭の整備は完璧に思えるが、どちらにせよ礼など不要だ」
 高級なベルベットも及ばない繊細な絹毛を、指先で遊ばせながら、メフィストは言った。
「これを味わいたいがために、私が私のためにやっている」
 そう言って彼は、非難がましい琥珀色の視線を、涼しげに受け流した。


 その日は終日、雨であった。
 病院の床や廊下は、人々の出入りのせいで、どこもしとどに濡れている。
 唯一の例外は、蒼い静謐に満ちた院長室で、靴を履けない身分のせつらはそこから出る気になれなかった。
 肌寒い空気がけだるい眠りを誘う。丸くなると自分の体温が心地良い。
 クッションの山に巣を作るように埋もれて、せつらは日の大半をうとうとと微睡んで過ごした。
 メフィストはその間、普段通りに過ごしていたようだった。デスクに向かう時もあれば、部屋を空けるときもある。
 一度、せつらがふと目を覚ましたときには、彼は長椅子の隣にかけて自分の姿を眺めていた。満足の色を薄く湛えた表情に、何かを言ってやりたい気もしたが、それも面倒に思えて黒い猫はただ寝返りを打った。
 日没と共に眼は冴えてきたが、この部屋には刺激をもたらすものは何もない。
 だが彼は不思議と退屈しなかった。
 娯楽が欲しければ、キャットニップの葉にじゃれつくか、豪奢な絨毯で惜しげもなくばりばりと爪を研ぐか――――院長の足元でただひと声、鳴けばよい。
 そうすれば彼は、何をしていても必ず手を止め、自分を膝へと抱きあげて撫ではじめる。
 長くやや骨ばった指が、喉の下をくすぐり、艶やかな黒い脇腹へとすべる。
 首周りや背中の絹毛に、白い手が浅く沈み、やわらかく包むように揉みあげて弛緩させる。
 内側から滲む快楽に、思わず吐息が漏れた。
 最初こそ抵抗はあったが、奉仕させているという自負にすり返ることで、都合よく受け入れた。誘惑に負けたということについては、考えないようにした。
「お茶にしないかね」
 そう問いかけて、メフィストは有能な執事のように音もなく立ち上がった。
 ワゴンを引き寄せ、手ずから彼のために淹れる。ひそやかに空間に流れる芳香に、獣は長い髭をひくひくと震わせる。
 たっぷりのミルクと少々の蜂蜜を落とし、ローテーブルで待つ小さな賓客の前に置く。
 まろやかな蒼のセーブル陶器が、眼に優しく、また彼の高貴な黒色にも映えた。
「お口に合えばいいが。……茶請けに煎餅がないのが辛いな」
 そっと口に含むと、かよわい甘さで喉をすべり落ちる液体が、身体と意識をつつましく潤してくれる。せつらは前肢を揃え、半身だけで怠惰な伸びをした。彼は満足していた。
 この姿になって幾日が経ったか、計算しようとして止めた。どうでもいいことのように思われた。


 昼は風の匂いを嗅ぎ、夜は白い膝に寛ぐ。
 そんな日々が当然のものとして過ぎ、そして当然になっていった。


「理由に心当たりはあるかね?」
 黒い猫は返答の代わりに、頭上に翳された、不可解な文様の金属板を見上げて瞬きをした。
 ”偉大なるイースの鏡”――伝説の古代種族の名を冠したものと聞いている。
 だがこのちっぽけな手鏡に、精神の転移を介助する力があると言われても、俄かには信じがたい。
「あるわけが無い、と言いたそうだな。私の技量を疑うなら甘んじてお受けする。ともあれ今は、事態解決のために、君の意見をお伺いしたい」
 面倒だと言わんばかりにそっぽを向き、猫のせつらはころりと診察台に横たわる。
 眠っていたところを起こされて、少々不機嫌でもあった。

 くだんの猫の精神が、ようやく自己を確立したとの報告を受け、この特別処置室へと入ったのは数十分前だ。
 その精神波長はいま、メフィストの持つ鏡に移され、実存を求めて声なき声を上げている。
「獣は戻りたいと願っている。肉体がそれを拒む理由もない……」
 猫の自我を元の肉体へと還せば、せつらの自我は自然と押し出され、彼もまた元の肉体に帰還できる。
 それで全ては終わる筈であった。
「それなのに、この器物を介してさえ、帰還が叶わぬとは。原因があるとしたら……それはもはや、第三者にあるとしか思えんのだよ」
 メフィストは言葉を選ぶように淡々と呟く。彼としては珍しい物言いだった。
 せつらは首をかしげ、優雅に身を反らせて、金色の瞳で相手の顔を見上げた。普段のこの男には有り得ない何かが、口調に含まれている気がしたのだ。
 それは昏い歓喜のようにも、あるいは失意のようにも見えたが――彼は何となく居たたまれなくなり、すぐ視線を逸らした。
「……質問を変えたほうがよろしいか?」
 雅やかな生物は、ふるりと全身の絹毛を震わせた。地下深くに存在するこの部屋は、あまり室温が高くない。
 纏わりつく肌寒さをどうにかさせようと思い、メフィストのほうを向いて一声、鳴く。
「ではこう聞こう。…………君は何をしたい?」
 相手が佇んだまま動こうとしないので、彼は少し苛立った。急かすようにもう一声、鳴く。
「何をされたい?」
 やっと伸ばされた繊手の長い指を、せつらはやや乱暴に甘噛みする。媚を売らずに言うことを聞かせようとする、気位の高い獣の仕草であった。
「私の奉仕が、欲しいかね?」
 メフィストは長躯を屈め、恭しいとすら呼べる動作で、想い人を胸に抱き上げた。
 黒い毛皮の暴君は、白い腕の中で、そっけなく喉を鳴らした。
 抱き寄せた存在がまるで貴人であるかのように、甘やかな奉仕が重ねられる。総身を丹念に撫であげ、ほのかな恍惚を誘いあう。
 互いの心身をゆるやかに解き、繋がった体温を分かち合う。
 儀式のようなひそやかな交感であった。

 しかし、愛撫を捧げながらも、医師はどこか漂白された声で低く問いかけた。
 責めるでも、まして何かを望むでもなく。
 余人が聞けば睦言のように。
「……今の君は、もしかしたら」
 美しい人物と、美しい獣の視線が合う。
 獣がわずかに瞳を見開く。
 相手が、色の無い表情をしていることに気付いて。

「入浴することを、嫌がるのではないかね――――獣の心で」



 瞬間、彼は――『秋せつら』は。
 自分のすべきことを、思い出した。



 白衣の胸を蹴って、一陣、黒い颶風が空間に躍った。
 それすらも流麗な軌跡を描いて、夜の獣は音もなく着地する。
 降り立ってそのまま、滑るように床を駆ける。部屋に置かれたいまひとつの診察台に、翼の生えたような動きで飛び乗る。
 そこに横たえられている肉体は、誰あろう彼自身だ。
 まるで獲物を仕留めたかのように、黒い猫は黒衣の胸に前足を張ってまたがり、青白くも秀麗な顔を覗きこむ。
 やや逡巡したが、すぐに思いついたようだった。

 小型の肉食獣の、美しい顎の輪郭が、
 あえかな色を失わない唇に、噛みつくように口付けた。

 黒衣の青年の、引き結ばれた口元から、つうと真紅の雫が伝い咲く。
 白蝶貝にも似た牙が、図らずも唇を傷つけたのだ。

 ざらついた桜色の舌が、薄闇にもほの白い肌の、緋色の花をからめるように舐め取る。
 その光景は、奇妙な淫靡さで見守る者を蟲惑した。
 誰も気付かなかった。
 その光景が、医師の手に握られた鏡に、はっきりと映りこんでいることには。



 次の光景は、見慣れた色の天井であった。
 長椅子から身を起こした途端、やたら大仰な角度で視界が広がり、戸惑って思わず動きを止める。
 見回せば、見慣れたはずの室内はずいぶん暗い。自分が立てる衣擦れや呼吸の音も、くぐもったように遠い。
 これこそが常の感覚であったと思い出すのに、相当の時間を要した。

「私の立場も考えて欲しいものだ」
 不意に掛けられた、幽玄とした声には、驚きはしなかった。
「鏡を介したとは言え……自力で肉体を抜け出て、直接に帰還するとはな。計算外の意志力だ。医者は役立たずとの謗りも免れん」
 最後は独白めいてそう呟き、白い影はデスクから立ち上がった。
 起き上がろうとする相手を軽く手で制し、熱い薬湯の入ったカップと錠剤を渡す。
 何のための薬かと問われて、念のためだと答え、メフィストは気遣わしげな視線を元患者に向けた。
「眠っている間に、一応の検査は済ませたが……異常は感じられないかね?当分は行動に気を付けたまえ。離れやすくなっている危険性がある。私の預かり知らぬ所で、また魂と魄が剥離しても、助けてやれん」
 言われたほうは、熱く香りのよい薬湯を舌の上で転がしながら、周囲の様子を再び顧みた。
 部屋に満ちる大気はいつものように薄蒼く、耳朶に忍びこむのはいつもの静寂。
 そしていつものように、この空間には、自分と彼のほかには誰もいない。
「万が一のときは、またお世話になるから、よろしく」
 今はせつらが魂の座を占める肉体は、いつものように間延びした口調で、そう返した。

「じゃ」
 澄んだ声と黒い背中が、それだけの別れの挨拶を告げる。
 5分の滞在の後であろうと、数週間の蜜月の後であろうと、彼の態度は変わらない。
「つれないことだ」
 言葉を受けたほうもまた、半ば定型句と化した嘆息の台詞を返す。
 だがそれだけで終わらせず、今日ばかりはこう続ける。
「では、こう返しておこう。…………私の膝はいつでも空けておく」
 背中越しにひらひらと振られていた、白い花のような掌が、その言葉を聞いて止まる。
 数秒の間ののち、せつらは急にくるりと踵を返した。
 茫洋とした表情のまま、つかつかと、長椅子に掛けた医師のそばに歩み寄る。
 彫像のような静けさで、凝と自分を見つめている相手の、すぐ目の前に立ち――す、と上半身を屈める。

 だが双影は触れもしなかった。
 身を起こしたせつらは、長椅子の下から抱き上げた柔らかな塊を、そっと白い膝に乗せてやる。
 「誰のどこが空いてるって?」
 今は普通の黒猫は、野生の無垢そのままに、辺りを見回して面倒くさそうに欠伸をした。

 今度こそ扉へと歩み寄りながら、彼は速度を変えもせず、おまけのように言葉を付け加える。
「そう言えばまだ、質問の答えを言ってなかったな」
 メフィストは、膝の上の生物に落としていた視線を上げ、その柳眉をやや細めた。
 ――君は何をしたい?
 ――君は何をされたい?


「おまえにされたいことなんか何もない。
ただ、これを言いたかった。 ――――『藪』 」


白皙の顔は、とても言い表し難い、だが穏やかな表情で、扉の向こうにふわりと消えた黒衣の裾を見送った。


Fin.










35656(みーゴロゴロ)というねこキリ番を申告してくださった、くわな涼さまからのリクエストで『ねこせつら』です。
”偉大なるイース”という固有名詞はクトゥルフからの引用。


2006/02/14