「役立たず」 白磁の肌持つ冬の月のような彼女。その唇が吐くのは容赦のない暴言だ。 重傷をおして馳せ参じた部下に対し、あまりの言葉だったが、当の神官はどこか愉しそうに苦笑した。 貴女の罵倒を聞くために帰ってきたとでも言いたげに。 もう少し虐めてやろうかと、ゼラス=メタリオムは口を開きかけたが、溜息のみを吐いてこう続ける。 「……いらっしゃい、傷を診てあげるわ」 えぇ、と曖昧に答えてゼロスは、なんとか彼女に近づこうと試みた。 襤褸布めいてだらりと垂れ下がり、内に蠢く闇を宿した傷痕は魔竜王につけられたものだ。半身を斬りおとされた身の歩みは遅々として進まない。 相手の様子を流石に見かね、ゼラスは自ら近づき肩を支えてやった。上司の珍しい厚意に身を預け、ゼロスは恐縮の表情を形作る。 「申し訳ありません……」 「魔竜王、ご本尊の登場とはねえ」 面白くもなさそうに獣王は呟いた。豪奢な金髪が神殿の灯を透かして揺れる。 「滅ぼされなかっただけ、ましだと思わなきゃね」 「それはそこ……無駄に意地は張らず、とっとと逃げてきましたから」 「おまえは仕事をなんだと思ってるの」 「お言葉ですが、……適当にこなしておけと仰ったのは、貴女です、よ」 上司の肩を借りて必死で姿勢を保っていた神官は、そう言いながらついにずるずると床にへたり込む。 立ち姿を保つことすらままならない。 「僕だって本当は……貴女の御命令しか、聞きたくはないのに……」 「機嫌取っても何も出ないわよ」 忠誠の言葉をあっさり受け流して、獣王もその場に膝をつき、満身創痍の部下の傷を調べはじめた。優しくはない動作で肩を掴まれ、ゼロスは思わず顔を顰める。 「流石はガーヴの傷と言ったところね。これはおまえひとりじゃ治せないでしょう」 「そう、で、すね」 細い声を絞り出してゼロスは答えた。呑気に会話している余裕など、本当はない。 「私が治すわ。苦しいかも知れないけど、ちょっと我慢なさい」 そう言ってゼラスは、座りこむゼロスの背後に回り、白い腕をするりと首に回した。 背後から軽く抱きしめるような姿勢になったことに気付き、獣神官はわずかに瞳を開いて自らを囲む腕を見つめた。 もし呼吸という循環器活動を行っていれば、互いの吐息が触れ合うであろう距離。 やや顔を落とした彼女の金髪が、匂いたつ色彩で黒衣の肩に流れおちる。 闇の領域を分かち合う、自分の絶対存在。 ゼロスはぼんやりと他人事のように考える。その腕を取ることも可能な距離について。 だが彼はそんな行動は起こさないし、起こし得るはずもなかった。 「……っ」 傷口を這う指から精神体へと灼熱の流れが侵入し、ゼロスは思わず声を洩らす。 斬りおとされた半身に、霧のような闇がしゅうしゅうと結晶する。やがて明らかな質感をもって輪郭が為され、厚みを持ち、質感確かな肉体が築かれる。 一方は構築に集中し、一方はひっそりと熱の奔流に耐える。 知らぬ者が見れば奇妙な儀式だった。 ……この手を、知っている。 黒い肩をなぞり、優雅に闇を撒く白い手を、熱に浮かされながらゼロスは見た。 僕を構成する創世の手。あれは古代の夢、遠い記憶。 全てが始まったあの朝、僕が最初に見たものは、この美しい手だった。 ……生の愚悪を見させるための手だった。 「動かせる?」 寄り添っていた身体を離して獣王が聞く。創造主によって再び創りあげられた半身は、当然ながら見た目は完璧、時間を巻き戻したが如く元通りだ。負傷の苦痛も、皆無とはいえないもののかなり激減している。 だが、やはり機能まで完全に回復したわけではない。腕を動かしてみせようとして、ゼロスは代わりに軽く呻く。 「私と同位魔族の付けた傷だものね。悔しいけど塞ぐのがやっとだわ」 忌々しげにゼラスは立ち上がった。上司に先に起立されたゼロスは、自分も立ち上がろうとしたが、肩を掴んで押し留められる。 「いいわよ、楽な姿勢でいなさい。それより早く傷を治すことね。まさか冥王も、こんな状態のおまえに出てこいとは言わないでしょ」 「申し訳ありませんでした、治療などにお手間を取らせて」 「ええそうね、ほんとに手間」 部下の謙りに頓着せずゼラスは言い放った。もっともこれが彼女の常であったが。 「あの糞餓鬼の立案した計画自体、私に言わせりゃ鬱陶しいだけなのに。余計な仕事増やさないでよ」 「以降、お手を煩わせぬよう努めます。それにしても……本当にお嫌いなのですね? 冥王さまのことが」 「冥王が嫌いなんじゃないわ。つけあがった馬鹿が嫌いなだけよ」 涼しい顔で言い切る。自分だけが納得のいく計画に、当然のような顔をして協力を強いてくる同僚をどう好けというのか。 精神生命体である魔族にとって、己の意志を無視されるのは文字通りの意味で堪えられぬ苦痛だ。だが獣王には自らの兵の離反という負い目があり、それを盾に取られると拒否しづらい。そこで彼女はやむなく自らの懐刀を冥王に貸しはしたが、能動的に切らねばならぬものは無し、とその刃に囁いておいたのだ。 「これだけの計画、失敗したら痛いかも知れないけど、私の失敗じゃないものね。 ただ……魔竜王だけは放っておけないわ。あれは冥王に始末しておいてもらわないと」 ゼラスは改めて、座り込んだままの深手の部下に視線を落とす。 「今あいつを逃したら、動けない私たちの代わりにまたおまえが奴の監視担当になる。そのたび大怪我してこられちゃ堪らないもの」 「僕としても、勝てない戦を繰り返すのは御免こうむりたいです」 諦観をこめて頭を振ると、またじんわりと傷の疼きが鎌首をもたげる。ゼロスは思わず身をこわばらせて痛みの波に耐えた。 やがて挙げられた神官の顔には、どこか遠くを見るような翳りがあった。 「……考えてみれば、おかしな話ですね」 部下の声に滲んでいる低温の響きに、ゼラスは瞬きをする。 「僕のこの傷は、なぜ痛むのでしょう?」 「……え?」 「変だとは思いませんか? 獣王様。なぜ、滅びに焦がれる我々にとっても……滅びとは苦しいものなのでしょう?」 淡々とゼロスは言う。虚を突かれてゼラスは黙り込んだ。 生に付きまとう矛盾を憎み、世界を消去することで均衡を図る生き物。 滅びと他者の苦痛とを、何にも代えがたい悦びとする存在。 それなのに? 「確かに、僕にはまだやるべき任務が残っていました。僕ひとりの消滅ごときで、世界の破滅を進めることも実際できません。でも……それでも消えてしまえれば、少なくとも僕という個体は平穏を得られたはずです。 僕はなぜ、魔竜王に斬られたとき、おとなしく滅びなかったのでしょう? なぜ、お手数をかけさせてまで、あなたに傷を治してもらったのでしょう? どうして僕は逃げ延びて……ここにいるのでしょう?」 無を望み虚を実現すべく、この生はあるのに。 そういうふうに創られたのに。 慣れない奇妙な不安が、漸うせり上がって黒く胸を支配してゆく。月に呼ばれてみちみちと隆起する満潮の海のように。 強大なはずの彼女は、我知らず必死になってその感覚を押し留めた。 「……だって」 紡ぎだした自分の声は、闇のように低かった。 「……おまえはまだ、消えるわけにはいかないでしょう。そんなことは……」 そんなことは許さない。 この私に無断で、どこへ行こうというの。 獣王はぎりと唇を噛んだ。 恐らくは禁忌の思考だ。だが逃れられぬ思考だ。他の誰でもなく自分自身を説き伏せるため、彼女は懸命になって言い訳の言葉を探す。 「私たちの願いが成就する日は、まだ遠すぎるわ。個々ではなく、総てが等しく平坦にならないと安息は訪れない。その日までは、いくら先を急いでも……意味なんか……」 意味なんかない。 私のそばにいないおまえに、意味なんか、ない。 ゼラスの紫苑の瞳があてどなく揺れた。珍しいことではあった。 「解っては、いるんです」 黒い神官は力無く取りなした。 「こんなものは詮ない自己愛です。個だけを優先させた、身勝手な思考です。愚かな部下の戯れ言とお切り捨てください……」 獣王は長い睫毛を伏せる。白い横顔が花蕾のように美しい。それを密かに慕いながら、ゼロスはやりきれなさに息を吐いた。 我々だけだろうか? 求めているはずのものに、苦痛を伴うのは。 対極の者たちもそうなのだろうか? 生を求める彼らにも、生とは苦しいものなのか? それが――あの方の――御意思なのだろうか? 獣王は考えていた。たったひとりの部下のことを。 彼を設定づけたのは、創造主である自分に他ならない。生を忌むべく生を受けよと彼を造り出したのは、自分自身に他ならない。 「ゼロス……おまえは、」 彼女は彼女らしくなく、言葉を躊躇った。 「後悔……してるの?」 彼は彼らしく、惚けて答えた。 「何をですか?」 獣王は沈黙する。 ゼロスは震える足を踏みしめ、やっとその場に立ち上がった。できるかぎり居住まいを正し、黒衣の裾をふわりと投げて改めて膝を折る。 人の祈りよりも真摯に頭を垂れる。美しい人の足元に。 「僕はいつだって、選択肢を二つしか用意していないのです。貴女の為に動くか――さもなくばこの身を滅ぼすか」 本当は解っていた。滅びを求める自分がなぜ滅びから逃げおおせたか。 還らねばならなかったからだ。ただひとりのもとに。 己が全霊を賭す、この人のもとに。 ゼラスは動かない。だが、ゆっくりと顔を上げた。 大輪の花が開くように形作られたのは、艶然たる王の微笑だった。 「……そうね」 闇にも気高く、猛々しく、不遜なまでに美しい。それは獣の瞳だった。 荒ぶる旋風を具しながら全天の星を連れて夜を渡る、獣の瞳だった。 彼女はもう迷わなかった。ひとつ頭を振り、猫を思わせる仕草で伸びをして、改めて自らの臣下に宣言する。 「さ、早く身体を治しなさい。じゃないと私が不便だわ」 「ええ、せめて、まともに動けるようにならないと」 ゼロスは再び、苦労して立ち上がろうとする。その様子を見守っていた獣王は、何を思ったか突然、彼の隣にすとんと座りこんだ。 ぐいと黒衣の裾を引っぱって、部下をも再びむりやり床に座らせる。何事かとゼロスは上司の顔を見たが、ゼラスは視線を合わせようとしない。 暫しの沈黙のあと――美貌の支配者は、軽く天を仰いで独りごとのように呟いた。 「おまえは私の部下なんだから、面倒はみるわ」 そして間を置き、面倒臭そうにこう続ける。 「怪我までして命令きいてきたから、ご褒美をあげようと思うの。何かして欲しいことがあったら言いなさい」 「…………どうなさったんですか?」 「……どういう意味?」 「いえ、その」 千年を超すつきあいの相手に、今更ながら戸惑って口籠る。 前例のない命令を受け止めかねてゼロスは慌てて考えこんだ。 報酬を求めようなど、今まで思ったこともなかった。いざ問われてみれば、確かに欲しいものはある気がする。だがそれが何なのか解らない。傍にいてもらえれば十分に思える一方で、それだけでは物足りない。 この欲求の正体はなんだろう? 自分はなにが欲しいのだろう? 言葉に起こせぬものを真剣に考えるうちに、奥底でふと欲求がひらめいた。 それは不完全で幼く、捉えどころのない思索だった。曖昧であるがゆえの無垢な欲求は、制御する暇もなく、勝手に素直な言葉に形成されて口から出てしまった。 「では……頭を撫でていただけますか」 口をついた自分の発言にゼロスは驚いた。 自分でも意味が理解できず、ただ当惑して沈黙する。 「……それでいいの?」 聞いたゼラスもまた当惑した。 この奇妙な申し出を、なぜか自分は自然に受け取めている。 だがお互い、今さら訂正しようにも他に言葉が思い浮かばなかった。自分の思考を、的確な単語で説明できる自信もなかった。 彼はただ肯定して頷き、彼女も不思議と納得した。 「じゃあ……」 獣王は部下の正面に回り、ぎこちなく黒髪に手を伸ばす。 ゼロスはその手を待ち、密かに瞑目した。 創世の手。 生を忌むべく生を与えた、残酷な御手。 これからもきっと、気の遠くなるような刻を自分は過ごす。 存在を呪い、終焉に焦がれながら、それでもこの手の為に。 「……ゼロス」 彼女が自分を呼ぶ。 この冷たい手に、甘くはない悠久に、なぜこうも自分の内はざわめくのか。 「……おやすみ」 終わらせるために過ごす、忌まわしくも愛しい日々。 訪れる夜が、彼と彼女に刹那の永遠を与える。 魔物たちはいつのまにか重なるように眠りに落ちた。 Fin. 7〜8年前に書いたゼラゼロをリメイクしました。15巻発売前だったので獣王のキャラクターは原作と違います。 2005/08/30 |