7歳のとき、自分の葬列を見た。 当時はそれがそうだとは気付かなかった。何しろ彼女らは、美しい姿をしていた――風にふわふわと舞う淡紅、萌黄、濃紫に水色に金茶に白。色とりどりのリンネルを被り、華やかに着飾った乙女たち。 みな口をきかず、静かな表情で緑の草原を登ってゆく。蒼穹は澄み、陽光はまろやかに温かい。 乙女らの後ろには、秋の実りをいっぱいに担いだ歩荷の群れ。生成りの麦袋、焼きしめた大パン、籠からこぼれおちそうな林檎や干しすもも。葡萄酒の樽、蜜漬けの胡桃、縄でくくりつけられた燻製肉や干し鱒。 彼らは進む。高原へ、高原へと。 私はそのとき、母や侍女たちと一緒に野遊びに出ていた。 丘の上から見つけた光景の、美しさと豊かさは、幼い私の心をたちまち捉えた。 「ねえ、見て」 だから大声をあげて、母と侍女を呼ばった。 「見て、見て、とてもきれいよ!」 同じ丘を登ってきた侍女が、私の指差す方向に顔を向け、眉を寄せてきりと唇を噛む。遅れて母もやってきた。私たちの視線の先にある人々を見下ろす。 短い沈黙のあと、母はけたたましく笑いだした。 「きれい? あれが? そうねえ、きれいよねえ……」 母付きの女官が――女官というより、監視役に近かったのかも知れない――慌てて彼女を引っぱってゆく。残された私は唖然として見送った。母の笑い声に、なぜ、皮肉と哀愁の成分が含まれていたのか理解できなかった。 参りましょう、と侍女が手を強く掴む。手を引かれながら、名残惜しく後ろを振り返った。 謎めいて風雅な、異国の祭りのような隊列は、あくまでも無音のまま斜面の向こうへと消えていった。 あれは、私自身の葬列だった。 私の遺骸を運んでいたわけでない。私の魂を弔っていたわけでもない。それでもあれは、私自身のゆるやかな死を象徴していた。 私にとって絶望とは、あまりに可憐な姿をしていたのだ。 それならば。 ユリシュカは瞳を開けた。 ならばいま目の前にいる、この恐ろしい怪物は――きっと私の希望なのだ。 「……物語だけが竜を動かす」 やっと顔を上げた女王を見て、遙かな高みから奇妙な声がそう告げた。 「依頼ならば応じる。だが値下げの交渉はまかりならぬ。竜は露天の物売りではない」 暗緑色の鱗に覆われた、巨大な爬虫類の顎が、根元までぐいと牙を剥く。これは果たして笑顔なのだろうか。見るたびに胸のあたりに冷えた悪寒を感じる。それは昼なお暗い、石造りの地下の気温のせいではない。 「繰り返そう。竜が欲する対価は『物語』だ。紙の上の虚構ではない、現実の生を通して描け。高尚な筋書きはいらん、下品でも楽しめるほうがずっとよい」 翼をたたんで座していても、その大きさは胴体だけで軍馬十頭分はある。翼を広げた総面積は、客席数二〇〇〇からなる王立劇場の舞台をやすやすと覆うことだろう。 王城地下に棲まう護国の竜は――注文を垂れながら、小山のような背を丸め、後肢で脇腹をごりごりと掻いた。 竜の指の太さは、ほっそりした女王の胴回りと大差ない。先端には醜悪な鉤爪がついており、それが超硬の鱗を力まかせに掻く音は思わず耳を押さえたくなる不快さだ。巨爪が立てる重々しい音は雷雲のごろごろとした響きにも似て、大抵の人間は聞いただけで後ずさる。 ユリシュカがここに立っていられるのは、時間がまだしも慣れをもたらしてくれたからに過ぎない。 「つまりおまえが自分の人生を、どれだけ面白おかしく飾りたてられるかだ。陳腐な葛藤、俗っぽい悲劇、賑々しい醜聞や騒動をどれだけ引き起こすことができるかだよ」 「……そんなことが、」 応じた自分の声は、蚊の鳴くように小さい。ユリシュカは唾を飲み、縮みあがった心臓を叱咤して、今度はできるだけ通る声で問いなおす。 「そんなことが本当に、あなたへの支払いになるの」 「ならぬものを竜は語らん」 返答は簡潔、そして断定的だ。 「おまえの人生が難儀であればあるほど、竜は愉しい。竜が愉しければ愉しいほど、おまえの国は永らえる。明快極まる取引だろう」 ひんやり湿った敷石が、化け物の声にじんじんと震える。竜の話し声は、人間である彼女の耳にはどうとも形容しがたい不思議な響きに感じられた。 竜の持つ分厚い舌は、複雑な言語を使いこなすのにはあまり向いていない。だが年経た聡い竜は、喉から出す唸り声や、鼻を鳴らす音を巧みに利用し、それで人間の話し言葉を表面的に再現することができる。 結果として、夜風や渓流の音がたまたま人語として聞こえているような、そんな声になっている。 「竜は要求を伝えた。竜は心変わりせず、竜は妥協しない」 それをするのは、竜以外のものの役目だ。不遜にそう付け加え、怪物はぐるりと尾を巻いて黒光りする背を向ける。 竜は、常に自分のことを『竜』と呼んでいた。 もしかしたら一人称にあたる語を知らないのかと考え、自ら詩作も嗜む本好きの女王はかつて正しい単語を教えようと試みたことがあった。人語を解する老獪な化け物とはいえ、完璧に習得したわけではなかろうと踏んだのだ。交流を持ちかけるという名目で、できるだけ恐怖を払拭しておきたかったのもある。 だが、それに対する返礼は尊大なものだった。 「女王よ、来年の林檎の花が、いつ咲くか知っているかね?」 わざとらしい慇懃さでゆっくりと尋ね返す。 「秋分までにあと幾度ほど雨が降る? そのうち嵐を含む日は? 鳥どもの、今年の渡りはいつになる?」 ユリシュカは瞬きを繰り返し、返答に窮して黙りこんだ。 竜は、琥珀色の瞳をちっぽけな生物から逸らし、蔑むようにたてがみを震わせた。 「自分の世界だけが世界の全てだとは思わぬことだ。おまえたちの言語の一人称は、音が汚ならしくて好かん。竜は竜なのだから、『竜』で十分だ。これとて特に好いとも思わんが、便宜を図ってやっている。その結果が物知らず呼ばわりとは、全くもって恐れ入るよ」 ――竜にまつわるいくつかの経験を、頭の片隅で思い出しながら。 まだ少女とも呼べる年齢の王は、爪が食い込むほど拳を握りしめて立ち尽くした。 東方に住む異民族が、この国に執拗に攻め入ろうとしている。 彼らは遊牧の民だが、人口の増加に伴なって暖かい土地での定住を求めていた。近年さらに激化してきた攻勢に抗いつづけ、国境の兵士たちはもはや満身創痍だ。 このままでは、次の侵攻を受けたとき、王都は間違いなく陥落する。 早く決断しなければいけない。すべきことは解っている。とても簡単だ。王の長子として生を受けた瞬間から、覚悟しておいて然るべきことだ。今まで逃げ回っていただけだ。1秒でも長く、夢見がちな子供のままでいたいがために。刺激するな、先例のままにせよ、と体よく言いつくろって。 今こそ王の責務を果たさなければならない。 とても簡単なことだ。殺される前に、殺せばいいだけだ。 平和な世ならいざ知らず、国民はいま報復や処刑や鏖殺を望んでいる。 敵陣に攻め入り討ち倒し、相手の敗北を嘲りながら首を狩り、持ち帰って城門に並べて唾を吐きかけることを望んでいる。死の恐怖に晒されつづけた日々からの解放を求めている。犯され、焼かれ、奪われつづけて限界に達した抑圧感、そのはけ口を望んでいる。 だが王たる者は――殺したが最後――殺されることを覚悟しなければいけない。 どこに行くにも大仰な護衛をつけ、食事には必ず毒見をつける。人を見れば刃を隠し持っていないかと疑い、掛けられた言葉すべての裏を邪推する。 二度とは這い出せぬ、権謀と欺瞞と血煙の世界に身を投じなければいけない。 若い女王は憎まれたくなく、憎みたくなかった。 ましてや殺したくなく、なにより殺されたくなかった。 しかし、国民は求めている。二度と家族の欠けぬ日々を。子供らが遊ぶ街角を。せめて安心して眠れる夜を。 私の民たちが、そう望んでいる。 ユリシュカは突然、踵を返し、本棟へと続く階段をひといきに駆けのぼった。 その足音を、竜は飾り毛に縁どられた耳だけで追う。 熱のない吐息を長く長くつく。よいよい、また退屈が始まるだけだ。地上の城に住まうものの首の色が、今の象牙色から東方民族の薄黄色へとすげ替わったところで、さしたる問題はない。 足音はほどなく戻ってきた。 竜は薄目を開け、近づいてきた人影を認める。ゆるく波打つ黒髪を肩や背にはらはらと乱し、息を弾ませて女王は立っていた。 腕一杯に、何かを抱えて。 どさどさと床に投げ出されたものの正体に気づき、竜はもう少しだけ瞳を開く。 それは美しい装丁の詩集や、典雅な古めかしい戯曲や、異国のおとぎ話の本だった。本好きの女王にとっての大事な友人たちだ。投げ出された拍子に開かれた裏表紙の内側には、彼女の蔵書印が見える。 いずれも古く、希少価値の高い書物だ。城の書庫以外ではまずお眼にかかれない。 ユリシュカは脇に抱えていた壷を、書物の山に叩きつけた。がちゃんと陶片が散らばり、精製された油の匂いが漂う。 そして、壁に作りつけられた篝火台からくすぶる薪を取り、無造作に投げた。 ぼっと音がして、透きとおる橙の炎がたちまち本の山を舐める。 白いページが焦げてゆき、じりじりと皮の表紙が焼け縮む。油の染みた紙が火の粉を撒いて爆ぜる。 甘い言葉の渦が、人の心を躍らせる夢が、瞬く間に灰と化してゆく。 竜はいまや完全に頭を起こし、縦長の瞳孔を開いて紅色の惨禍を見守った。 視線を移せば女王は、泣き出しそうな、しかし高揚しているかのような微妙な表情だ。 「…………7歳のとき、私は自分の葬列を見たわ」 血を吐くように、ユリシュカは語り始めた。 「美しい乙女たちが、列を為して、高原へと続く丘を登っているのを見たの。後ろでは荷役たちが、麦や果物を担いでいた。暖かい日で、空はよく晴れていた――私は知らなかった。彼女たちの苦痛と恥辱の上に、この国の平穏があることに」 女王は再び瞳を閉じた。緋色に亜麻色、紫に翠緑。とりどりの色彩が、瞼の裏で万華鏡のように散っては踊る。 「彼女たちは、この国が差し出した、異民族どもへの生贄だった。肉の防波堤として派遣される女たちだった。……東方民族は、多くの部族が集まって構成されているわ。昔は一部の部族がこの国と交易していたらしいけど、近ごろ関係が廃れていて……でも何年か前、彼らの中でも最大の、全体の5割を占める大部族がこう提案してきたの。納めるべきものを納めれば、おまえたちと友約を結んでもよいと」 女と物資。一定の質と数を満たすそれらを、年に2回提供するならば、侵攻の停止を保障してもよい。 もっともこの条約が適用されるのは、東方民族のうち5割を占める該当部族に対してのみだ。残り5割の雑多な小部族は、献上物の分け前に預かれないのだから、大人しくなどはしていない。彼らとは今も小競り合いが続いている。 それでもこの提案に乗れば、敵のうち約半分の勢力を抑えることが出来るのだ。兵士たちの消耗を痛感していた先代の王に、選択の余地はなかった。 『女を抱く夜が増えれば、それだけ夜襲が減るのだぞ』 当時の文献を紐といた女王は、部族の使者が放ったというこの台詞を文書中に見つけた。無念とおぞましさに思わず涙ぐんだのを覚えている。 派遣される女たちのほとんどは、国から強制的に身分を買われた下級の娼婦だった。彼女らこそが『善良な平民女性』を守る使い捨ての盾というわけだ。これによって、年間まれに起きていた、遠くの畑に作業に出た娘がかどわかされるという事件も防げるだろう――少なくとも半分くらいは。 丘を登る彼女たちが穏やかな顔をしていたのは、自らの意思ではない。酒、あるいは酒よりも強いものに酔っていたからだ。素面のまま死地に臨める人間は少ない。精神の苦痛を和らげるために酒精や阿片は大きな力を貸してくれただろう。また中には生まれつき、頭の中身が赤子のままである女も混じっていたのかも知れない。自らの境遇も理解できぬまま、生まれてはじめて綺麗な服を着せてもらい、彼女はうきうきと緑の丘を登るのだ。 物資と女たちは、両国の緩衝地帯に位置する、とある廃村に集められているらしかった。遊牧で暮らす東方の民は、羊に草を食わせるため周期的にその近辺に立ち寄っている。そして気軽な慰安として廃村を訪れる。彼らに応じて女たちは自らの身を提供するのだ。二度とは踏めぬ祖国のために。 冬の寒さは厳しく、通年ろくな食料もない。生まれた子は、男なら処分され、女なら母親と同じ運命を辿る。痩せほそった痣だらけの女の死屍が織りなす、5割ぽっちの平和。その上にこの小国はかろうじて成り立っていた。 「……私は、そんな彼女たちの隊列を、美しいと思った。美しいと感じてしまった。子供の私が、真実を知らなかったのは仕方ないかもしれない。でもあの記憶は私を苦しめる……あれは、私自身の葬列だった。あの慣例を許していては、きっとこの国は緩慢に滅んでいく。あのとき見たものは、私の死そのものだった」 ぱちぱちと、多種多様な紙の層がくすぶる音を伴奏に、彼女の言葉は続けられる。 「甘い詩やおとぎ話では、この国を救えない。私は今こそ王にならなければいけない。自覚のために――贖罪のために」 長い告解を、竜は黙って聞いていた。 ありきたりな悲劇だ。どこにでもある話だ。一国の王のくせに、こんな瑣末なことに心を揺らされるとは、子供じみた潔癖さと言わざるを得ない。 本を燃やすなどとは、これもまた青臭い儀式だ。いかにも小娘らしい、あざとい示威のための行動だ―― ――だが、それこそが竜の求めていたものだった。 竜はがばりと跳ね起きた。その風圧で、女王は思わずよろめく。 喜びに喉を鳴らしながら、頭を振りたてる。太い尾が薙ぐように横に振られ、その一撃を食らった壁ががらがらと音を立てて崩れる。鋼のような鱗の前に、煉瓦などひとたまりもない。 改めて見せつけられる竜の威力。しかしユリシュカは恐れなかった。 化け物ごときを恐れる私は、もはやここにいない。 ここにいるのは内気な少女ではなく、やがて歴史に名を残すであろう救国の烈女だ。 そうでなくてはならない。 竜は歌うように宣言した。冬風の猛りにも似た声で。 「詩歌や花を愛する、あどけない娘は殺された。民のためなら非道も辞さぬ、鉄の女に殺されたのだ。おお、なんと痛ましい悲劇だろう。この物語、受け取ったぞ」 竜は、長い首を回し、白い頬に炎の照り返しを受けている女王にぐっと巨大な顎を寄せた。 今度は密やかに、まるで甘い父親のように囁く。 「よくぞ本を燃やした。 では竜は、早晩、人を燃やしてやろう」 2010/09/25 初版 2011/10/16 改定 |